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Walk With God Ministries

05 05月

最も偉大なる希望    リック・ジョイナー     2012年5月5日


最も偉大なる希望    リック・ジョイナー

私たちはイエスの復活をお祝いしたところです。ですから今、この真理に基づいて生きることを決意しようではありませんか。スポルジョン師は「復活を信じるクリスチャンは極めて少ない」と書いています。これを読んだ時、これは印刷間違いだと思ったのですが、すぐにこれが事実であるという内なる聖霊のあかしがありました。ロ—マ10:10に、私たちが義と認められるのは、ただ頭だけではなく心で信じたときであると書かれています。私たちは復活の教義は信じています。しかし、もし本当に心で復活を信じているならば、私たちの人生は劇的に違ってくるはずです。

どのように違ってくるのでしょうか? まず第一に、私たちは一時的なものに心を奪われるのではなく、永遠のものに目を向けるでしょう。「あまりに天国のことばかり考えていて、この世では役に立たない」という言葉があります。しかし 実際は、「 クリスチャンの多くは地上のことばかり考えていているので、天でも地でもあまり役に立っていない」というのが本当のところです。歴史的に見ても、一番天のことを思っていた人たちがこの世においても一番良い業を行ったというのが事実です。

天のことを思う人たち、即ち「天の御国をまず求めなさい」という勧告に従っている人たちは、地上で最も解放された自由な人たちであり、これからの時代にはそれがますます明らかになってくるでしょう。コロサイ3:1−4にこのように書かれています。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

ある看護婦が「クリスチャンはどうしてもっとうまく死ねないのか」という質問をしてきたことがあります。彼女は「もし彼らがキリストを信じていて永遠のいのちを持っているとしたら、どうしてあんなに死を恐れる必要があるのか」という疑問を持っていたのです。これはもっともな質問です。すべてのクリスチャンは大いなる喜びと期待をもって死んでいくべきです。そして究極的な束縛である「死の恐れ」から解放されているのですから、私たちは地上で生きるときも同じように最も自由な者として生きるべきです。

復活は「起り得る最低最悪の事でさえ、すべて勝利に変えられる」という最も偉大な希望です。第二コリント2:14で「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と言っている通りです。ですから主に従う者にとっては「勝利するかどうか」ではなく、「どのように勝利するか」というのがポイントです。キリストに従うならば絶対に敗れることはないからです。

戦争やスポーツにおいて一番人々に称賛される勝利は、最も困難な状況の中で勝ち取られた勝利です。キリストにおいてもそれと同じです。私たちは 超自然的な神の力を見たいと思います。しかしその力を必要とする状況におかれるのは嫌なのです。偉大なる勝利を見たいのですが、それを必要とする立場に立たされるのは嫌なのです。しかし、今私たちはそれらを必要とする時にいるのですから、その機会をしっかりと捕らえようではありませんか。

聖書の中の偉大な英雄たちでさえ、主に用いられるまでには信仰において成長せねばなりませんでした。ダビデはゴリアテと直面する前に、獅子や熊と戦いました。私たちも同じです。主はいつの日か私たちを 偉大なる歴史的な戦いへ、そして勝利へと導かれるかもしれません。しかし、その日に備えるために、私たちは今日与えられている小さな戦いを見逃してはならないのです。

勝利がいかに大きくても、又小さくても、すべての勝利を喜んでください。試煉がいかに大きくても、又小さくても、しっかりと受け取ってください。キリストに従っているならば、私たちがそのすべてに勝利しないことなどあり得ません。主が私たちを勝利以外に導かれることはあり得ないからです。けれども先ほどの聖書箇所にあるように、それは「キリストによる勝利」であり、私たちだけの勝利ではありません。それでは、主の勝利とはどのようなものでしょうか?

最も偉大な勝利

この世で起りうるもっとも偉大な勝利は十字架上で起こりました。しかしそれは勝利のようには見えませんでした。イエスが十字架の上に釘づけされたとき、地上で生きた最も偉大な善であるお方に対して悪が勝利したかのように見えました。しかし、最大の敗北と見えたものが、実は最も偉大な勝利だったのです。ですから、偉大な勝利というものは、初めは偉大な勝利のようには見えないかもしれません。ですから、 あたかも悪が勝利したかに見えるときでも、私たちは希望を失ってはならないのです。しばしの間は悪が勝っているように見えても、それは決して長くは続かないのです。究極的なキリストの勝利は確実であり、それは永遠に続くものです。

心で復活を信じている人たちは、究極の恐れから解放されていますし、又それ故に地上で最も自由で幸福な人たちです。キリストは常に私たちを主の勝利へと導いてくださることを知り、すべてのことにおいて究極的に勝利があることを心で信じるならば、 私たちがすべての戦いに勇気をもって臨めないことなどあるでしょうか?

ローマ8:28で、すべては私たちの益になるという神の御ことばの約束をいただいています。もし主の御ことばが真実であると信じるならば、すべての戦いにおいて喜びながら勝利を期待するべきです。そのことがヤコブ1:2−4に書かれています。

「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」とヤコブが言っているのは「キリストに似た者」になるということです。人生のあらゆる出来事は、私たちの内にキリストの御性質を生み出すためのものです。これにより私たちはすべてを受け取り理解することができるのです。これは又、すべての事が私たちの益になると言っているローマ8:28のすぐ後にも書かれています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8:28、29

私たちはキリストにあって神の相続人となるように召されています。これ以上崇高な召しは全創造を見てもありません。私たちの人生に起こる事はすべて、私たちの内にキリストの御性質を形つくることによって、より高い召しへと私たちを整えることを目的としています。キリストは人間のすべての問題に対する答えであり、今私たちが直面しているすべての問題の答えです。私たちがお仕えしている方がすべての規則、権威、支配を越えた方であるという知識をもって生活しているならば、どうして私たちは恐れることができるでしょうか?すべてのチャレンジは信仰が成長する機会ですから、勝利の人生への鍵は、私たちに与えられている試煉を一つも無駄にしないことです。

聖徒の特徴

ローマ14:17で神の御国は「聖霊による義と平和と喜び」であると私たちは告げられています。もし 主の目に正しいことを行っているならば、私たちは他の何によっても得られない平安と喜びを与えられるのです。困難、恐れ、暗やみが世界に増していくとき、御国に住む者たちはその平安と喜びによって更にはっきりと現されていくのです。これからの時、平安と喜びが御国の真の民であることを示す最大のしるしとなるでしょう。すべての規則、権威、支配を越えて治めておられる方を知り、その御国が必ず来ることを知って従っていくとき、私たちが平安と喜びを持てないことなどあり得ません。

「その主権は増し加わり、その平和は限りなく(イザヤ9:7)」と書かれています。価値が決して下がらず、常に上昇していく株に投資したいですか? では御国に投資してください。そうすればあなたの投資は限りなく増加していきます。

神の御国をまず第一に求める者には、御国の平安と喜びが増し加わるでしょう。箴言4:18に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とある通りです。クリスチャンの人生の本来の姿は輝きがどんどんと増し加わるものです。世界がどのように暗くなったとしても、私たちには更に明るさが増していく別のリアリティーがあるのです。

世界はますます暗くなるでしょう。しかしこの世界は私たちのリアリティーではありません。イザヤ60:2に「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とあるように、「義の道」にとどまる人には光が増し加わります。

世の中が最も暗やみとなる時は、 私たちの上に主の栄光を見るときでありましょう。次のイザヤ60:3には、国々はあなたの輝きにやってくると書かれています。光が勝利し、国々がその光にやってくるのです。夜明け前はもっとも闇が深い時です。しばらくは暗さが増していきますが、それは神の民の上に現れる栄光をもっと明るく輝かせることになるのです。

今の私たちの目的

死への恐怖は究極の恐れですが、復活への保証によってそれが克服されたならば、他のどの恐れであれ、そのくびきを打ち破るのは容易くなるでしょう。復活を覚えて祝うことがどれほどクリスチャン生活にとって重要であるかという理由はここにあります。この真理の知識のうちにとどまるならば、私たちは他のどのような恐れも容易く克服することができるはずです。

私たちを圧迫し支配するためにサタンは恐れを用います。キリストにあって、私たちは恐れによるのではなく信仰によって歩むのです。恐れは本質的にサタンの武器であり、恐れによって支配されることを許してしまう者は、彼らがどのように弁明しようとも、キリストよりもサタンに仕えているのです。黙示録21:8にそれが明らかです。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄とに燃える池の中にある。これが、第二の死である。」

この箇所でおくびょう者 は、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言う者より先に挙げられています。恐れによって支配されるおくびょう者はキリストのものではないというのが真実であるからです。なぜならば、黙示録20:14−15で言われているように、火の池に投げ込まれる者とは、いのちの書に名がしるされていない者たちだからです。真に信じる者は勇敢であり、恐れによってコントロールされません。キリスト教の中におくびょう者がいる場所などありません。このように真に主を信じる者はやがてはっきりと見分けられるようになります。決して恐れによって支配されないで、よみがえられた神の御子を信じる信仰によって生きることを、今、決意しようではありませんか。私たちはこの世に対しては死ぬように召されています。死んだ者に対して何ができるでしょうか? 死んだ者は失敗や拒絶、その他どのようなことに対しても恐れを持っていません。もし私たちがキリストと共に死んだのであれば、今主の復活の力によって歩くことができ、恐れなどないはずです。

いにしえの預言者や義人たちは、 私たちが生きる特権を与えられている今の時代を見ることを願いました。それらの偉大な信仰の英雄たちに会って話が出来るときを夢に描いている人たちは、彼らが今の時代に生きた聖徒たちと話をすることをもっと願っていたことを知ってショックを受けることでしょう。一番偉大な信仰と一番偉大な業は、試煉を無駄にせず、神と歩む最も偉大な機会を無駄にしない人たちによって、ほどなく現されていくでしょう。

2012年には多くの物事が揺さぶられるでしょう。しかし、私たちは揺るぐ事のない御国を持っており、揺さぶられているものはすべて御国が現れるためにそうされているのです。あなたの人生を、決して揺るがされないもの、そして決して失望させられない希望の上に築き上げてください。復活の信仰で生きることを決意してください。(終り)


27 04月

聖餐(communion)の永遠の価値 ウェイド・テイラー


聖餐(communion)の永遠の価値

 

ウェイド・テイラー

 

ダイヤモンドのカットされた面を見ると、互いに反対を向いているような面があるのが分かります。ダイヤモンドが美しいのは、このように「反対」になっている面が互いに助長しあうからです。それと同じように、主の聖餐(communion)に与ることをどのように理解し、どのように経験するかにも多くの異なったものがあります。

 

ある人たちは聖餐を、主の御からだと血の「シンボル、象徴」として儀式的に受け取ります。シンボルや象徴にはいのちはありませんから、彼らは宗教的、或いは情緒的な満足を受け取るだけです。他の人たちは、主のいのちそのものを受けていると考えます。彼らは本当に主の御からだと血を自分の中に受け取っているのです。

 

聖餐に与るときには、「communion  霊的な親しい交わり」を効果的に受けるための準備の時間を持つべきです。主のいのちが私たちのいのちの中に流れ込むためには、私たちは主の臨在の中に引き上げられねばなりません。「主の臨在の中で主を待ち望む」ためには私たちがまず霊的領域に入らなければならないのと同じように、イエスの実際の(生きた)御からだと血を「受け取る」ためには、肉の領域と引き換えて霊の領域に入っていかねばなりません。

 

「communion 霊的な親しい交わり」という言葉は、コミュニケーション、即ちイエスが語られ私たちが聞き、そして私たちが話して主が聞かれる、ということと関係があります。ですから私たちがイエスと「 communion」に入り主と「一つ」となる時には、私たちは「枝」となり「ぶどうの木」に繋がって、主のいのちをいただくことができるのです。

 

まことのぶどうの木

 

私たちが聖餐に与ることに関して適応できる基本的な法則が神の御ことばの中に確立されています。

ロ—マ8:1−2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

 

この「罪にさだめられること」とは、罪を犯したゆえにアダムに与えられた裁き(死)です。この死の裁きを私たち一人ひとりが受け継ぎました。十字架で流されたイエスの血潮と私たちが一つになるとき、私たちは「罪の原理」から解放されるのです。私たちがイエスの復活と昇天と一つになるとき、「死の原理」から解放されるのです。私たちがいのちを与えるイエスと一つになるとき、私たちは「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」を受け取るものとなるのです。

 

第一コリント15:45には「 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす(life-giving いのちを与える)霊となりました。」とあります。これは、癒し、健康、長寿をも意味しています。イエスからこの「いのち」のギフトを受けたものは、他の人たちよりも健康の質や寿命においても特出しています。

 

イエスは5つのパンと2匹の魚で大群衆を養いました。その後、彼らは再び空腹になったときに又食べ物を求めてやってきました。イエスは彼らのためにもっと良い物があると言われました。

ヨハネ6:53、58「...人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません...これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

 

イエスは彼らに死ぬことのない高いレベルのいのちを与えようとされたのです。それを受ける条件は、彼らがパンと魚をもう一度食べるのではなく、主の肉を食べ主の血を飲むことでした。「永遠に生きる」という言葉は、第一には天国での永遠の命のことですが、私たちの今の生活にも適応できるのです。イエスは次のように言っておられます。

ヨハネ15:1−5「わたしはまことのぶどうの木であり...わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがは何もすることができないからです。」

 

イエスは「わたしはぶどうの木(いのちの木)であると言われました。そして私たちは枝であり、主のいのちを受け取るときに生きることができます。アダムの罪のために私たちはいのちの木と切り離され、知識の木につながれてしまいました。

 

主はけものを殺し、その毛皮でアダムとイブを被われました。血が流されたことによって罪の赦しがなされ、アダムとイブは赦されました。しかし、知識の木から食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に残りました。彼らは主のうちにとどまり主により頼むという状態を失い、もはやいのちの木から食べることができませんでした。それゆえに私たちすべての人間は知識の木につながれた状態で生まれるようになったのです。

 

私たちのためにイエスが十字架で完全に勝利されたことにより、私たしは知識の木から自分を切り離して、いのちの木に繋がることができるようになりました。そして「聖餐(communion)に与る」とき、私たちはイエスのいのちそのものが自分の中に流れ込むのを受けることができるのです。

 

もし聖餐のパンとぶどう酒をただシンボルとして受け取るならば、私たちは死んだ宗教の形式を受け取っているだけです。けれどもイエスはもはや死んではおられず、死からよみがえられ御父の右に座しておられます。ですからパンは主の生きたからだになった生きたパンです。ぶどう酒の杯は主の血潮、主の生きた血潮になったのです。私たちがそれに与るとき、主のいのちが私たちの中に与えられるので、主がご自身のいのちを私たちを通して生きることがお出来になるのです。

 

木のまわりから皮が全部はぎとられると、その木は死に始めます。根からくみ上げられるいのちをもはや受けられなくなり、やがて死んでしまいます。「ぶどうの木(イエス)」のいのちは、ぶどうの木につながって「枝」である私たちの中に流れこみます。そのためには枝(私たち)は、ぶどうの木に正しく繋がっていなければなりません。その時はじめてイエスのいのちが「永遠のいのちの力」として私たちの中に流れてくるのです。

 

いのちの木

 

それで、私は毎朝起きると、まず次のことをします。

「主よ、安らかな眠りを感謝します。主よ、アダムの罪により私は知識の木につながれて生まれてきました。けれども私のためのあなたの贖いの業により、私は知識の木から私を解き放ちます。そして私は枝としてへりくだってまことのぶどうの木のもとに来て、自分をいのちの木に再びつなぎます。それによって私があなたの生きた御からだ、あなたの生きた血潮をいただくとき、あなたのいのちが私のいのちの中に流れ込みます。」

 

肉体を保つために食事をすることは必要であり、私たちは一日に何度か食事をします。それと同じように、イエスのいのちを「摂取する」ことは選択の余地があることではありません。イエスの生きた「からだ」と「血」に与ることは、教会がやっているように第一日曜にするだけではなく、もっと何度もされるべきです。むしろ毎日するべきことであり、そうでないと私たちは霊的にも肉体的にも失うものがあるのです。

 

創世記3:22「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」

 

私は以前、「アダムは創造された時点で永遠に生きるように造られていて、罪を犯さなかったならば永遠に生きられたのだ」と考えていました。しかしながら、アダムは「土地のちり」から造られました。ちりから何かを形造るのは不可能です。そこには「湿り気」、即ち主イエス・キリストのいのちそのもの、が必要であり、それは私たち「ちり」の中にぶどうの木から注がれるものであり、それによって私たちは形造られ、調えられ、目的を与えられるのです。

「...今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)

アダムはいつもいのちの木に来て食べていたので、その結果、彼は生きたのです。しかし彼が罪を犯したときに、いのちの木から食べられなくされ、死への道をたどりはじめました。私たちが聖餐に与るとき、私たちは「手を伸ばし取って食べる」のです。

 

突然、私は何が言われているのかを悟りました。

アダムがいのちの木からそれまでのように食べることができたとすれば、彼は生き続けます。しかし罪の裁きは死です。主がこの裁きを執行するためには、アダムが聖餐(communion)にあずかれないようにすればよかったのです。ですから、主はいのちの木の前に炎の剣を持つ天使をおかれ、アダムが食べられないようにしたのです。

 

ペンテコステの日に、この「炎の剣」はさまたげではなくなり、そこに行くようにと導くものとなりました。炎の剣は天から下り、そこにいた120人の頭の上にとどまり、彼らは聖霊に満たされました。神殿の幕はすでに裂かれていて主の臨在に入る道が開かれていました。

 

黙示録2:7「...勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

私たちが「聖餐 (communion)」に与るとき、いのちの木への入口が私たちに開けられ、私たちはイエスのいのちそのものを食べることができるのです。主こそいのちの木です。

 

御からだのパン、 血潮の杯

 

イエスの奇跡を見るために出て来た群衆が空腹になった時、イエスは5つのパンと2匹の魚を増やして与え、彼らは食べて満腹しました。(ヨハネ6:1) 後に彼らが再びやってきてパンを求めたとき、イエスはご自分の肉を食べ血を飲まねばならない、と言われました。彼らは主をあざけり離れて行きました。主はその時、どのようにして御自分の肉を食べ血を飲むのかを説明することはできませんでした。それは私たちの罪のために主が十字架にかけられて死に、復活していのちを与える霊になる「時」ではまだなかったからです。イエスの地上での働きが完成されるとき、即ち十字架でいのちを与えられる前の夜に、主は私たちがどのように主の肉を食べ、主の血を飲めはよいのかを説明することが出来たのです。

 

第一コリント11:23−25「..主イエスは..パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのために裂かれたわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」

イエスが「このパンはわたしのからだです。この杯はわたしの血です。」と言われたことに注目してください。主は「これはわたしのからだと血のシンボルです。」とは言われませんでした。次にイエスは、御国で私たちと新しく飲むその日まで、ぶどうの実で造ったものを飲むことはないと言われました。

ルカ22:16「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

 

御ことばは「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)と言っています。私たちが聖餐に与るときに私たちに見えるのはパンですが、イエスは「これはわたしのからだである。」と言われました。私たちが杯を飲むとき、私たちが見るのはぶどう酒です。しかしイエスは「これはわたしの血である。」と言われました。子どものこころをもって、私たちはシンプルに、自分が見るものではなくて、イエスが言われたことを信じるのです。

 

ある人たちは「パン」と「ぶどう酒」は、まずイエスのからだと血に変えられねばならないと教え、祭司が信者のためにそれを行おうとします。また他の人たちは、それは祭司によらなくても自分ですることが出来ると言います。しかし私たちはイエスが言われたことを信じればよいのであり、パンとぶどう酒を信仰で受け取り、文字通りイエスのからだと血であると信じて受け取ればいいのです。必要とされる変化は私たちの内においてであり、パンやぶどう酒ではありません。

I コリント 11 「..これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

この「これを飲むたびに as often as you drink it」ということばは、私たちは好きなだけ何度も個人的に聖餐に与ることができることを明確に語っています。私たちはいつでも聖餐与ることがまったく自由にできるのです。教会の礼拝の中での聖餐式だけに限られてはいません。イエスは「わたしを覚えて」と言われました。それは主の十字架の死を覚えるということではなく、主が群衆にむかって「わたしの肉を食べ血を飲むように」と言われたときのことを私たちが覚えるようにと言われたのです。

 

ヨハネ6:66−67「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」

この時、イエスはどのようにイエスの肉と血に与るのかを説明できませんでしたが、今最後の晩餐のときにお出来になったのです。この理解をもってイエスの御ことばを信じるときに、子どものような信仰で私たちは文字通り主のからだと血をいただくことが出来るのです。それを受けるとき私たちは決断せねばなりません。「主よ。私が見るのはパンとぶどう酒ですが、私は見えるものではなく、あなたが言われたこと(これはわたしのからだ、わたしの血である)を信じます。」と。(終わり)

  

(ウェイド・テイラー師は2012年2月29日に天に召されました。彼は教師として、また霊の父として50年間人々に仕えられました。彼は主との歩みとその深い霊により多くの人々から愛され尊敬されました。彼は油注がれた著者であり、御霊の深い真理を鮮明にシンプルに説きあかし、多くの読者を主イエス・キリストとのより親密な歩みへと引き上げました。)

 

 


18 04月

天使の顕れ キース•ルーカー


天使の顕れ

キース•ルーカー

 

天使の顕れが続いている

 

去年の10月から今までに、ワーシップや賛美をしているとき、又楽器を演奏しているときに天使が顕れることが、81回の集会で連続して起こっています。これまでは2、3年に一回くらいの割にしか経験していなかったことが、今やすべての集会毎に起こっているのです。

 

それと共に、創造的奇跡(creative miracle)も、ワーシップの間に自然に次々と起りはじめました。最近テキサス州ルフキンにおいて、20年前の首の怪我が原因で脊髄と神経に損傷のあった女性が癒されました。怪我により彼女の右目は極度のトンネルビジョンとなり、自分がかけている眼鏡の端も見えないほどでした。ところがワーシップが終ってから彼女が廊下を歩いていると、右側からいろんな物が近づいてくるので大変驚きました。それで右目の狭まっていた視覚が癒された事に気がついたのでした。又、彼女の身体の右側全体がワックスをぬったように感覚が鈍かったのですが、ワーシップのあとで顔や腕を触ってみると、普通の感覚にもどっているのが分かったのです!

 

又、集会中に天使が奏でる楽器の音やすばらしい歌声も聞こえてきています。最初にそれが起こったのは去年の10月で、カリフォルニア州レディングの家庭集会において、私がギターだけてワーシップを導いていたときでした。ワーシップをしている間、私の耳には他の楽器の音が聞こえていましたので、そこに集まっていた10人に何か聞こえたか訊ねました。「ええ、他の楽器がはっきり聞こえて、フルバンドのようだったので、あなたがCDを流してそれに合わせてギターを弾いているのかと思っていました。」と彼らは答えたのです!

 

カリフォルニア州ヴァカビルのヒーリングルームで私がワーシップを導いていたときも、ギターだけの賛美でした。礼拝のあと二人の女性が「フルート、オーボエ、フレンチホルンの音をはっきり聞きました!」と言いました。アーカンサス州のラッセルヴィレでは、一人の男性が礼拝後に私に「あなたが壇上で何をしていたのかしりませんが、千人の歌声が私には聞こえました!あなたの弾いていたギターの音が聞こえないほどでした!」と言いました。

 

このように天使の奏でる楽器の音や天使の歌声が毎回連続して聞こえ始めたのが、カリフォルニアのレディングにあるベテル教会で栄光の雲が再び現れ始めたのと同じ頃であったのは、とても興味深いことだと思います。神は何か大きなことをしようとしておられるようで、私はとてもわくわくしています。私は1992年に一つのヴィジョンを見ました。それは私たちがワーシップをしていると、聖霊が即興的にその場で歌詞とメロディーを与えてくださり、栄光の雲が現れ始め、奇跡がその場で次々に起り始めるというヴィジョンでした。そのヴィジョンを見てから今までの20年間で、集会の中でそのような霊的領域に入っていったのは数回だけでした。しかし、今はすべての集会でそれが起こっているのです!

 

Portals of Supernatural Worship

Whenever angels gather, God is manifesting His glory and the heavenly realm for a reason. Since angels are servants of God, sent by Him to minister to the saints, it is always a good sign when they manifest on earth. Our daily

 

超自然的なワーシップの門

 

天使が集まるときは常に、神がある目的をもってご自分の栄光と天的な領域を顕してくださいます。天使は神のしもべであり、聖徒に仕えるために神から遣わされるものですから、彼らが地上に顕れるときは、常に「良いしるし」です。私たちの毎日の祈りは「御国が来ますように!今、ここに、天にあるように地上にも!天で起こっていることが地上でも今起こりますように!」というものです。天のコーラスが地上でワーシップする者たちと共に歌い、超自然的、預言的ワーシップが天からの電流によって充電されるとき、黙示録に描かれている天の礼拝が地上でまさに起こっているのです!「おのおの立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。」黙示録5:8−9

 

超自然的ワーシップの門が「ヤコブのはしご」のように、地上のいたるところで開いていると私は思います。聖徒たちが地上で一つになってワーシップをするとき、その上を天使たちが上り下りし、天から人々のために奇跡を持ってくるのです。 地上での私たちのワーシップの仕方を、今、聖霊が変えておられます。天から聞こえてくる「新しい歌」に耳を傾け、一方的なワーシップではなく,神に聞くワーシップをすることが、世界中の集会で増えてきています。それによって 私たちはもっと主の臨在と力を経験することが出来るのです。

 

これは地上で天国を経験するすばらしいチャンスです。超自然的領域の扉や窓が私たちに開かれているのです! 1990年代中頃に、多くの者が神の臨在と力をそれまでより更に体験するようになったときには、天の窓が開かれていました。 今それと同じような窓が開かれているのを主は私に見せてくださいました。今の窓は前の時よりももっと大きく、それはもっと多くの人々が主の素晴らしさと愛を体験するためである、と主が言われました。リバイバルが再び来ようとしています!あなたは主をお迎えするために何をなさいますか?(終わり)

 

 

Keith Luker
Keith and Sanna Luker Worship
Email: keithluker@earthlink.net

 

Keith Luker is a revivalist with a guitar, leading prophetic worship and preaching with revival fire and miracles all across the globe. He is a presence-driven minister that loves people, and his heart’s desire is to light people up for the Kingdom everywhere he goes. He is ordained by Bill Johnson, a member of the Global Legacy (Bethel Church) and his spiritual papa is Jack Taylor. He lives in the San Francisco Bay Area along with his very anointed wife, Sanna, and their three miracle children who they are raising in the presence of the Lord.


27 03月

真のアイデンティティーを持って選択する グラハム・クック    2012年 3月28日


真のアイデンティティーを持って選択する (先週よりの続き)

グラハム・クック

 

「私はどのような者になりたいか」を把握することは、自分のアイデンティティーの問題です。 「私は何をしたいか」を知ることは自分のデスティニーに関わることです。両者は一つのコインの両面であり、切り離すことはできません。

 

そして両方とも、 熟考して決断することを前提とした意識的な「選択」を必要としています。選択すること(こそ)が力の根源です。その力の優劣のレベル(度合い)は選択の度合いによるのであって、決して自然にそうなるというものではありません。山の頂上までふらふらと漂いながら到達することは不可能です。 「単なる空想pipedreams」は実際に人生を生きる人(競技をする選手)のものではなく、人生をただ傍観しながら暮らす(見物人的生き方をする)観客のものです。真に夢を描くこととは、現時点で目的志向の生活を生み出し、その目的に到達するための数多くの選択(決意)をすることによって未来を掴み取ることです。

 

今私たちがはっきり選択(複数)することによって、自分のやることの優先順位が決まり、それが違った未来を保証します。このような選択をするときには常に(必ず)、自分のアイデンティティーとデスティニー、自制、情熱、それに力が関わってきます。

 

1974年に私は4つの預言を受け 、それが30年以上も私の人生を導いてくれました。そのうちの一つは「預言の賜物」に関するものでした。即ち、私は預言者の職を受けること、預言の学校を経営すること、預言に関して古典と言われるような一連の著作をすること、でした。

 

また、私が受け取るこの霊的賜物には、生と共に死も、友と共に敵も、祝福と共にのろいが伴うことが告げられました。 私は愛されると同時に憎まれ、称賛される一方でそしられ、受け入れられる中で退けられ、本物と言われ、又背教者と切り捨てられる、しかもこれらすべてがイエスの名においてなされると告げられました。

 

私の上にこの重荷が負わされたのは、21歳の時でした。当時はまだ預言を与えられることさえ無かったのです。37年後の今、これらの預言はすべて成就しています。私はミニストリーにおいて今も前進しており、それを証明する様々な傷あと、戦傷を持っています。

 

今までの道程の一歩一歩において、私は人生の旅路の選択をしてきました。当初私は、自分のアイデンティティーやデスティニーに基づく選択をするのに慣れていませんでした。それで私はいろいろな仕事を転々としながら、いつも最も抵抗の少ない道を選んでいました。私は何かが起こることを祈ってはいましたが、目標・目的を持ってはいませんでした。計画のないヴィジョンはただの空しい希望wishful thinkingにすぎません。私の決断のない優柔不断さは非常に高いものにつきました。私は目的を遂行するのに長い余分の年月を費やしてしまいました。やがて私を信じてくれていた人たちも私に厳しくなりました。しかし、主が私をどのように見ておられるかという視点から選択をし始めたとき、私は主の私に対する熱情(愛からの期待)に対して目が開かれていきました。

私が預言的になることに対して主は非常に情熱をいだいておられたのです。 主が私に対して持っておられた情熱と期待を私が(理解して)受け取り、それを自分のものとしてしっかり胸にいだいたときに 、転機がやってきました。

 

私のアイデンティティーに対する主の視点を私が選び取り、やがてそれを自分のものとしたことが数えきれないほどありました。 主が私のために創ろうと願われた結末を私が選択したので、 主の御名によって私がすることが私のデスティニーとなりました。主が選ばれた道を辿るためには、 その道から外れないために断念せねばならない選択も多々ありました。勿論、私の回りの人々もそれぞれの決断をしていて自分の決断が回りの人と何の関係もなく出来るわけではありません。(従って)自分のした選択を人々から批判され、攻撃されたときに出来ることは、受けた傷を戦利品として、それを悲しみや喜びと共に身につけることです。

 

私は預言の賜物をものすごい勢いで学び、耳を傾け、練習し、追求する道を選択しました。その決断は、私がどのような者であるのか、私が何を達成するために召されているのかをはっきりとさせました。アイデンティティーとデスティニーは、このような結果の結実です。

 

それからの私は持っていないお金を使いました。人が眠っている時間を私は寝ないで用いました。行くべき所に行くお金は必ず与えられると信じて何万マイルも旅をしました。土地や家を何回も買うことができるほどのお金を人々に与えてきました。どうか、あなたが行きたいところに種を蒔いてください。

 

「自分はどのような者になりたいか、そして何をしたいか」を確信するならば、神があなたのために創られている結末にそった選択をしていかねばなりません。あなたが望む人生を神からの贈り物として喜んでしっかり受け取ってください。そうすればあなたは主の情熱を受け取り、あなたが 犠牲を払わねばならないときにそれが力を与えてくれるでしょう。

 

あなたは自分自身で考えねばなりません。それを効果的にするためには、キリストの内にあって自分自身が何者であるのかを理解せねばなりません。(主から与えられた)自分自身の人生の意義と目的を理解していないならば、あなたは長い目で見た自分の将来に対する考えを持つことは出来ません。あなたが考えたことをまず紙の上に書いてください。そしてそれ見て祈り、熟考し、計画を立てていかねばなりません。

人生は決して偶然起こるのではなく、計画されるものです。(終り)


20 03月

選びとる(選ぶ)ことは力である    グラハム クック      2012年3月21日


選びとる(選ぶ)ことは力である

 

グラハム クック

 

私たちが向き合わねばならぬ最も不快な真理の一つは、私たちが何かを「選択すること」、または「選択しないこと」が、 人生の上に非常に重大な影響を与えるという事実です。

 

「選択」はつねに力と関連しています。正しい選択をしなかったとき、又は自分が持っている選択権を使わなかったときは、その力を誰かに(何かに)譲ってしまうことになり、その結果、自分は弱く無能であると私たちは感じるのです。正しい決断をするならば、私たちに更に次の段階の様々な選択肢を与えてくれます。人生に選択は不可避です。ですから、それを生活の一部として楽しもうではありませんか。

 

私たちが毎日 主を崇め礼拝しつつ生きるとき、「選択」がその礼拝の最も重要なポイントの一つだとしたらどうでしょうか? それは、初めから終りを見ることができ、何億という決断を毎日することがお出来になる創造者の御前に私たちは進み出ることです。それはまた、 ご自分の民の一人ひとりの目をじっと見て、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。(エレミヤ29:11)」と断言されるほどに、正しい選択をすることに確信を持っておられる主と共に喜びながら選択をし生活していくことです。

 

主は選択することを愛されます。ですから私たちも選択することを愛することが出来るはずではないでしょうか? 主は必ずすべてのことを相働かせて益(good)としてくださるのです。聖霊と共に歩むとは、日常の生活の中で私たちが善(good)となり、善(good)をなす力を受けることです。もし私たちが主と似た者になるべきであるならば、どんな状況にあっても、主のような楽しい気持ちで主がされるような最高の選択をしていかねばなりません。

 

選択はつねに力が介入するものであり、私たちは毎日、朝、昼、夜、その力を受けねばなりません。私たちは今までにしてきた選択の 力、徳、によって今日という日を生きています。それらの選択のうちのあるものは簡単でしたが、あるものは難しく、又あるものは自然にひとりでに選択されていたようなものもありました。生死に関わるような非常に厳しい選択の時には、 自分の命を吸い取られるほどの代価をまず払わなければならないようなものもありました。

 

選択によって人生がうまく行ったり損なわれたりします。私たちがどのような者になるか、どのように生きるかということの非常に大きな支配力を「選択」は持っています。自分の選択の結果として 、私たちはある場面における実権を握ることもできるし、或いは成功する権威を剥奪されてしまうかもしれません。力のある者になるのか、力のない者になるのかは、自分のアイデンティティーの選択によって決まります。御国には被害者、犠牲者はいません。いるのはこの世の中だけです。私たちを支配するものは誰もいません。そして、あるお方が私たちを影響力を持つ者にしたいと思っておられるのです。

 

私たちは毎日、大小の選択をしています。どこに住むか、何を食べるか、何を着るか、何を買うか、家で食べるか、外食するか等は小さな決断であり、取るに足らないことのように思えますが、いろいろなことと関連し影響を与えるかもしれません。

 

平和、信頼、愛、笑い、優しさ、冷静、喜び、あわれみ、勇気を選び取ることは、私たちの内にある「力を生み出す領域」へと私たちを導いてくれます。そこはイエスの似姿が顕れてくる最初の場所です。その影響力は非常にパワフルです。

 

その反対に、怒り、恐れ、心配、苦み、恨みを選ぶことは、私たちの旅路を後戻りさせます。又、自分自身の選択や、自分に敵対して誰かがした選択の影響を感情的に克服することができないまま、そこから進めなくなってしまいます。

 

時として私たちは、他人の罪を責めてしまう選択をしますが、それは実際には彼らの視点に同意する(認めてしまう)ことによって、彼らに(神と共にある)自分の力を譲渡してしまうことなのです。私たちが自分の人生の決定権を譲渡してしまうと、 状況をコントロールする力を捨てることになります。御霊の実の一つは自制です。

 

自分の思いをイエスの御前でとりこにすることは、自制の始めです。穏やかで喜ばしく安らかな選択を主との日常の親密な関係の一部としてすることは、自制が常に追求するべき目標です。

 

自制することが私たちが考えるよりも簡単だったらどうでしょうか? 私たちが思うより選択がそれほど難しくなかったとしたらどうでしょうか? 神の慈しみによるチャレンジが、すべての決断がなされる所だったらどうでしょうか?

 

私たちはキリストの似姿に変えられています。私たちが主との交わりを選ぶ時、主はその決断に力を与えてくださり、その状況と私たちがキリストに似るように創られることの両方が成就するために、主ご自身が責任を取ってくださるのです。

 

キリストが中におられるので、私たちは賢明な選択ができるのです。また、それを喜んで穏やかにすることができます。最早自分の力を他人に与えてしまうのを止めるときです。それは神が私たちに下さったものですから、私たちの主との交わりの一部です。(終り)


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