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Walk With God Ministries

06 08月

新たな喜びが殻を破る チャック・ピアス    2012年8月7日


新たな喜びが殻を破る

チャック・ピアス

 

喜びの定義

 

最近私はジャクリーン・ヴァーネドさんの「喜びを運ぶ者となる」という本の原稿を読みました。この本は来月出版される予定ですが、皆さんも読まれることをお薦めします。混沌とした今の社会に何よりも必要とされるのは「溢れるばかりの喜び(joy)」です! 私たちはまず自分が喜びに満たされる必要がありますが、そればかりでなく、私たちが行く所どこにでも喜びを持ち運ぶ者にならなければなりません!

 

「喜び・ joy」という言葉を定義するのは困難です。喜びは、前向きでポジティブな姿勢とか楽しい気分とかではありません。喜びは感情であると共に実でもあります。聖書の中には様々なレベルの喜び(うれしい、満ち足りている、陽気等)が表されています。私たち神の御民の喜びは、清く純粋であるべきです。それはまわりの状況に左右されず、状況を越えるものであり、神のご性質に焦点をおくものです。即ち、それは私たちが神の御こころを実践し表すときに、神がご自分の感情を私たちを通して周囲に顕されるものです。

 

義である神の子供等が経験する喜びは、すべての事を益として相働かせてくださる神の御霊によって生み出されるものです。その喜びがあるとき、私たちは未来への希望を持つ事ができるます。喜びが幸せ(happiness)と違うのは実にこの点であり、 喜びには悲しみや損失から私たちを立ち上がらせる力があるのはこの理由からです。

 

私たちはこの世で生きて行く時に、非常に多くの困難、試煉を通りますから、「主の喜びは私たちの力である」ということをいつも思い起こさせてくれる何かが必要です。もし敵があなたから喜びを取り去ることに成功するならば、それは即ち、あなたから力を取り去ることに成功することです。「力」とは、 次にやってくる敵の攻撃に耐える力のことです。ですからその「力」を保つことは、御霊に満たされた人生を送るための重要な鍵となります。

 

私が体験したトラウマ

 

私たち夫婦に双子が与えられたのですが、 先ず一人が天に召され、そのあと更に 二人目も召されました。私たちは野外で記念礼拝を捧げましたが、礼拝の中で妻のパムが立ち上がり、二人が埋葬された場所に向かい美しい賛美を捧げました。それは非常に感動的な場面でした。

二人目の子が死んでから一週間後に妻の友人が電話をかけてきて、「神が何故あなたがたの双子を天に召されたのか全く理解できずに苦しんでいる」と言ってきました。彼女は更に続けて「パムが、一見、揺るぎない信仰をもってこのトラウマに対処できていることも理解が出来ない」と言いました。

その時、私が今までに一番強い影響を受けた言葉の一つがパムの口から語られました。パムは友人に次のように言いました。「私が人生で何か 学んだことがあるとしたら、それは『出来るだけ早く神の御旨を受け入れて従うほど、それだけ早く私たちはサタンを撃退することができる。』ということです。私は今の状況の中で神の御手に服従することを選びとりました。そしてそうする時に、神は 敵に打ち勝つ力を私に与えてくださり、私は敵が奪ったものの2倍を取り返すことができるのです。」

 

それはまさに主が私の妻を通して語られた言葉でした。この言葉は私の霊に深く浸透し、それ以来ずっと私のうちにあります。私たちの人生に起こったことがたとえ理解できなくても、誰かを失った悲しみのただ中にある時でも、私たちは 神が私たちのために用意されている更に偉大なご計画に素早く服従することを学ぶ必要があるのです。私たちが服従するとき、私たちはその苦悩を耐えぬく力を与えられるのです。「服従して明け渡す」という意味は、私たちの上を神の慈愛と恵みの翼で被っていただき、敵からくる叱責、社会の非難、又自分が犯した過ちへの呵責から私たちを守っていただくことです。

 

もし 人生を常に神に 服従し明け渡して生きるならば、私たちは自分に進むように定められた道を妨げるものに対抗できます。そして 私たちが服従し明け渡すときに、損失が大いなる益に変えられることを実際に体験し学ぶべきです。私たちは神が私たちの状況を益とするように働かれるのを阻止するべきではなく、状況がいかに困難であろうとも神の愛に応答すべきです。こうして損失も又、喜びに変えられることができるのです。

 

私とパムは、二人の子供を亡くすというトラウマのただ中でも、神は私たちのためにもっと崇高な回復の約束を必ず実現させていてくださるのだ、ということをはっきり悟る事ができました。損失は、もし神の御手に服従し明け渡すならば、 私たちの内におられる神がいかに偉大な方であるかを知る機会を生み出してくれるのです。

 

私たちが経験する大変な困難も、主の御手の中でまことに祝福となり、 更にすばらしい預言の成就を人生に生み出します。そうです、辛く悲しく、最悪で耐えられないような時も、それを神の御手に捧げ、神に感謝するならば、それは喜びに満ちた時になり得るのです。そして時が入れ替わります。期待していた喜びを失った辛い記憶が、今あがなわれるのです。辛い状況は恵みによる変革によって、一生の間あなたのうちで祝福となるのです。

 

嘆きは喜びに

 

もし損失を経験しなかったならば決して知ることのないレベルの喜びがあります。悲しみが深ければ深いほど、より深い喜びを私たちは味わう可能性を与えられるようです。損失を経験したあとは、すべてのものが違って見えるようなります。聖書には「嘆きが喜びに変る」ことについて多く書かれています。

その例をいくつかあげてみます。

 

詩編30:5、11「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。..あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」

 

エステル9:22「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変った月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。」

 

エレミヤ31:13「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。」

 

イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」

 

ヨハネ16:16−23は、イエスがご自分の死と復活を預言しておられる麗しい箇所です。20〜22節は、弟子たちがこれから経験しようとしている悲しみと喜びについて率直に語っています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びで満たされます。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」

 

悲しみと喜びは深く結びついています。それは恐らく深い悲しみを経験すればするほど、喜ぶための力、度量を私たちが持つからかもしれません。それは丁度飢えと似ているのだと思います。空腹であればあるほど、食事はおいしく感じられ満足させてくれます。神はそれをご存知です。私たちには夜の悲しみと涙だけしか見えないかもしれませんが、神は喜びに満ちた輝かしい美しい朝をご計画されているます。私とパムはこの原則をよく理解していたので、ヨハネ16:22を私たちの双子の息子たちの墓石に刻みました。私たちの悲しみが、ある日喜びに変わり、それを奪い去るものは誰もいないことを知っていたからです。

 

神が悲しみのシーズンの後に喜びを与える一つの理由は、私たちの霊に新しい力の風をもたらすためかもしれません。嘆きは力を奪います。感情的霊的重荷によって私たちは弱り果てるのです。しかし 喜びが新しい勢いと力をもたらすことを神は知っておられます。「主の喜びは力(ネへミヤ8:10)」だからです。喜びは私たちが新しいシーズンに入るために必要な力を生み出すのです。

 

イエスが十字架にかけられた時の弟子のように、私たちも非常に厳しい、そして私たちを混乱させるような損失を経験するかもしれません。しかし、主が復活された時の弟子のように、大いなる喜びが私たちを待っていて、それを奪い去る者は誰もいないのです。

 

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。(詩編51:12)」私たちの敵は私たちの喜びを奪い、救いを完成させるプロセスから追い出したいのです。それは決して敵が私たちの喜びを奪うことによって救いを盗むことができるということではありません。しかし、救いに伴うはずの赦し、癒し、繁栄、回復から私たちを遠ざけることができるのです。敵の策略は多くの場合、ダビデ王に用いたものと同じです。敵は私たちが罪を犯すように仕向けます。私たちの生活の中にある罪ほど効果的に主の喜びを奪い去るものはありません。

 

しかし今という時、主の民が更に深く悔い改めをして喜びを回復することを、神は強く願っておられます。罪によって作られた破れ口を修復して 喜びを回復させることが神には可能なのです。箴言17:22に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」とあります。喜びは薬のように私たちの骨に癒しをもたらします。聖書が「主の喜びは私たちの力である(ネへミヤ8:10)」というのはこの理由によります。喜びは私たちを癒し、神が私たちのためにくださる健康を維持する力を持っているのです。

 

ダビデは罪の故に喜びを失いましたが、詩編51を見ると、彼が喜びを回復してくださるように主に願うことができたことが分かります。キリストの血潮により、私たちはダビデ王よりも更にすばらしい恵みの中にあり、私たちの罪を赦し、救いの喜びを回復してくださいと主にお願いすることができるのです。皆様が回復、勝利、癒しによって満たされることが私の祈りです!あなたは喜びを持ち運ぶ者と定められています。喜びを持ち運ぶものとなってください! 新しいレベル、領域の喜びの中に入り、あなたの殻から抜け出してください!(終り)


16 07月

神からの崇高な召し リック・ジョイナー 2012年7月16日


神からの崇高な召し

リック・ジョイナー

 

私たちがただ人々の後についていくのではなく 、各自主との交わりを持たねばならない理由が 、雅歌に書かれています。雅歌は特に人生の目的を王なるお方の花嫁となることにおいている人たちのために 書かれています。そのような人全員が学ぶべき鍵となる節は、雅歌1:7です。

 

「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

 

もし私たちが仲間の群れの中に入っているだけならば、顔おおい(ベール)はつけたままで、ぼんやり主の栄光を見るだけであり、主の栄光によって変えられることはあまり起こらないのです。私のミニストリーのゴールは人々を私個人の弟子にすることでは決してなく、常に出来る限りすべての人がキリスト・イエスご自身の弟子になるように助けることであるのは、この理由によります。

 

ヨハネ10章からもわかるように、主の声を知っているのは主の羊であって 子供の羊ではありません。私たちが主にあって幼い間、主の声が分かるようになるまでは、他の人たちの後をついて行かねばならないでしょう。しかし、私の願いはまず私のベールが取り除かれることであり、それによって人々のベールをも取り除く助けをしたいことです。私たちがただ単に主イエスの友である人に似るのではなく、主ご自身に似る者と変えられるためには、私たちは主を見る必要があります。

 

ある人の子供達全員が彼の親友に似ていたとしたら、その人はどう思うでしょうか? もしも私たちリーダーが、人々を主にではなく自分の型にはめようとしているとしたら、一体自分は何をしようとしているのかをよく考える必要があります。私たちの人生は人々にとってよいお手本となり得ますし、またそうあるべきです。しかし使徒パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている。」と言っています。これこそ私たちの目標です。

 

25年前に主から見せられた大収穫のヴィジョンの中で私が非常に励まされたことの一つは「今までに存在した中で最もパワフルなメッセンジャーの世代が起り、彼らはすべて『御国のための宦官』となる」ということでした。これは肉体的な宦官ではなく霊的な宦官を意味しています。肉体的な宦官は花嫁への願望は持ちませんが、自分が仕える王が花嫁を喜ぶのを見て満足する者たちです。彼等は主の宦官となるのです。彼らの願望のすべては、王なる主が花嫁なる教会を喜ぶのを見ることです。彼らは教会が、自分や他の誰かではなく、主ご自身が望まれるものになるのを見るために献身するのです。彼らは花婿の真の友です。

 

聖書の中に「神の孫」がいないのにお気づきでしょうか? すべての人は神にとって一代目の子供です。私たちのミニストリーの究極的な目標は、私たちに何が起ころうとも(死んだり、いなくなっても)私たちが教えた者たちが神を追い求める歩みを一歩たりとも踏み外したりしないことです。彼らが、私たちの教えではなく決して失望させることのない主との関係の上に基礎をおいていれば、彼らは揺るがされることはありません。

 

先述のように、子羊(新し信者)は、羊飼いなるお方を知り主の声を十分知るようになるまでは、他の羊のあとをついていかねばなりません。ですから成長するまでは他の人についていくのは間違いではありません。しかし、真の霊的成熟は、 単に主を信じる人と親しくなるからではなく、主ご自身との親密さの結果として起こるのです。

 

ですから、私は常にどのような成長過程にある人にも理解し受け取れるように書き、又教えるように努めていますが、どのメッセージの中にも使徒パウロが「キリスト・イエスにある神からの崇高な召し the high calling of God in Christ Jesus (ピリピ3:14)」と呼んでいるものを追い求めている者に対する招きの種をも蒔いています。先述のように、ピリピ3章でパウロが「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っているのは、救いとか贖いのことを言っているのではありません。それらのものは彼がキリストの贖いの犠牲を信じたときにすでに受け取っていました。パウロは人生の終盤においてもまだ 崇高な召し(high calling)—それを受け取るクリスチャンは非常に稀ですーに到達したとは思っていました。崇高な召しを確実に知っているものはこの人生で得られる最高の宝です。これこそ私たちがこの人生で究極的に捜し追い求めるべきものです。    (終り)


06 07月

自分の箱から抜け出る   ジョン・ベルト         2012年7月6日


自分の箱から抜け出る

ジョン・ベルト

 

1.重い荷をおろす

今のシーズンに神は 「自分の箱から抜け出す」新しい方法で物事を行うように、教えておられます。「あなたの」やり方にだけに固執して固まってしまわないで、神のやり方を学びしっかりと受け取ってください。それはどういうことでしょうか? それは物事をこの世が考えるようには考えないということであり、又、この世が「正常・普通・ノーマル」と呼ぶものをそのまま受容しないということです。私たちは、自分の召しを妨げるものがあるならば、何であってもそれを捨て去ることをいとわないフレッシュな福音のメンタリティーが必要なのです。

神はご自分の召しに喜んで応答する人々を求めておられるのです。取税人マタイや他の弟子のことを考えてみてください。イエスは「わたしについて来なさい。」と言われましたが、その時イエスに従った人々がどのような犠牲を払ったのか、という詳細を私たちは知る事はできません。

 

マタイ11:28−30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

この召しに応答した者だけが発見できる隠された宝があります。マタイにとってそれは、この世のシステムの中で取税人(退屈な仕事)として働いていたことからの解放でした。神は私たちを福音の冒険の人生へと招いておられるのです。それは私たちの想像をはるかに越えたすばらしいものです。私たちが神の招きに応答したとき、神は人生のすべての重荷を取り去ってくださいます。マタイは大きな重荷を負っていたと私は思います。退屈だけれどいろんな心労があったことでしょう。彼が主に従うことを選んだとき、今までのすべてのものを後にしました。イエスの負いやすいくびきを受け取ったとき、彼の重荷は過去のものとなりました。重荷の代わりに イエスのそばで 神の栄光を経験することを選んだのです。

 

つまるところ「私たちは何のためにここにいるのか?」という問に行き着きます。何か意味があるのでしょうか? 私たちはここで天に宝を積み上げているのでしょうか? それとも地上での報いを求めているのでしょうか? イエスが「わたしについて来なさい。」と言われているのに、尚も私たちは自分の栄誉を求めているのでしょうか? 主は重荷を取り去ってくださり、すばらしい喜びといのちと平安へと導いてくださいました。福音は今も変らず「良き知らせ」です。それをあなたは常に心に感じていますか?

 

2. 天の戦略を用いる時

私たちは今、神が典型的な方法とは違う、かえってそれに反するような新しい戦略を、私たちのために解放しようと願っておられる時に生きています。ものごとの成果をあげることができるやり方があるのです。 多くの者は、何回も同じことを繰り返し同じ結果を見るという宗教的なパターンにはまってしまっていて、 新しく新鮮な違ったものを学んでいません。このように宗教の型にはまってしまった者は、冒険や新しいこと、違った方法を恐れ、自分たちの平安を保つために他の人たちをも抑えつけてしまっているのです。不幸は仲間を求めるのです。「恐れ」が持つ大きな特徴の一つは、「支配、コントロール」です。恐れを持つ人は自分のために物事を安全に守るために自分で物事をすべてコントロールせねばなりません。 主に信頼し物事を委ねることができず、それらを自分の手中の支配下におさめておきたいのです。

 

箴言3:5−6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

 

主に信頼することを学ぶならば、私たちは物事に対して新鮮な捉え方をすることができるようになります。自分の小さな箱の中にいた私たちは、主を信頼することを学ぶと、箱から這い出て、箱の中の暗闇ではなく青空と日の光を見るようになります。 神が見られるのと同じように私たちが物事を見るようになるときに、それが起こるのです。神は私たち一人ひとりのために、命を解き放ち神の愛と臨在を持ち運ぶものとするブループリントを持っておられます。主に古い場所から出してくださるようにとお願いしてください。自分の考えがもしかして間違っていないかどうか、よく考えてください。あなたの考えは、もしかしてこの世で受け入れられている人間的なものでしょうか? 神はもっとよい道を持っておられるのでしょうか? そうならば、天からの新鮮なブループリントを得るために何かを捨てる必要がありますか? それを喜んで捨てる用意がありますか?

 

3. 「しかり。」というハーモニーの経験

第二コリント1:20−22 「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神の栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

 

私たちが神のご計画に参加するとき、それが私たちのための主のベスト( 最善)であるという証印として主からの「しかり。」を受けるのです。「良いこと good」は「最善のこと best」の 敵です。自分の人生のための神からの最善の計画を私たちが発見するとき、 私たちを承認してくださる主の声を聞くという更にすばらしい経験をします。私たちが聖霊と一致し調和を保つとき、聖霊は神が承認しておられる啓示の中へと私たちを導いてくださいます。イエスは神の承認の声を受け取られました。それはイエスが神の御子であったからではなく、主が父の御心の願いに一致して歩まれていたからです。父の承認の声がさらに明瞭になる、的確で優れたときがあります。それは私たちが父の声と願いとに全く一致するときに起こります。

 

4.ふたつのものの合計

先月のある日のこと、私は自分の息子がなんとすばらしく形造られているかと驚嘆しながらながめていました。その時、彼は「ふたつのものの合計」であるという考えが浮かびました。ふたりが一致するときに力があります。一人のときの能力は限られていますが、私たちが神の思いと心に一緒になるとき、私たちが達成できることは無限となります。イエスが「ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」と言われたのはこの理由です。使徒行伝を見ると、弟子たちはふたり一組になってでかけました。神はご自分の力が解放されるように 一致し一つになる人びとを求めておられるのです。私たちが同じ思い、同じ心となるときに、神はとてつもなくすばらしいことがお出来になるのです。バベルの塔の話を見るとき、神は彼らに出来ないことはないと言われました。

 

創世記11:6「主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』」

 

彼らは同じ言葉を話し一致して、サタンの力によって働いていました。私たちが聖霊の力で一致して働いたならば、どれほど不可能なことがなくなるでしょうか?

 

5. 敬う霊

第一ペテロ2:17「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

聖書はすべての人を敬いなさいと言っています。もしこれは信仰を持たない人をも含むとすれば、信仰を持つ人を私たちはどれほど敬うべきでしょうか。

人を敬うとはどういうことでしょうか? 神は私たちすべてに、人を敬う機会を与えてくださいます。ダビデはサウロの上着のすそを切り取った時、罪の責めを感じました。そして心を痛めました。あなたは誰かの悪口を言った時(その人が間違ったことをしたとしても) 心が痛みましたか? 私たちは蒔いたものを刈り取るのです。もし風を蒔けば、つむじ風を刈り取るのです。私たちの口は人々を祝福するためのものであり、人々をのろうためのものではないのです。

 

あなたは「あの人は悔い改めるべきだ。」と思っているかもしれません。人々を悔い改めに導くのは神の慈愛だということをご存知でしょうか? 神の慈愛を人々の人生の上に祈ってみてください。人々のうわさ話をするのではなく、彼らの上に神の愛、慈愛、憐れみが注がれるように願ってください。それとも、私たちは自分の苦々しい思いの故に、人が変えられるのを望んでいないのでしょうか。

 

多くの場合、人々は他人のために祈るよりはうわさ話をするほうを好みます。 祈祷会が「うわさ話の会」になってしまっているものもあります。人々は自分の意見を吐き出す場所を探しているのです。もしこのようなことが起こっているのを見たならば、その場ですぐにはっきりと言わねばなりません。その人がいない時にネガティブなことを言うならば、その人を暴露し辱めることであり、それは裏切り行為なのです。

 

神はこのようなことを喜んではおられません。人を敬うこころを持つようにしてください。人を辱めることを言う人を避けるようにしてください。自分を清く保ってください。そして神の愛と慈愛がそれらの人に降り注がれるように祈ってください。密室で人を敬うとき、神はあなたを公の場で敬われます。あなたの言葉が塩で味付けされているようにしてください。塩は清めるものです。ものを保存し、癒し、回復させます。

神は忠実なお方です!(終り)

 

John Belt
Overflow Global Ministries
Email: office@overflowglobal.com


01 07月

ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加   2012年7月1日


ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加

先回の記事に下記の写真を追加させていただきます。最初のものは私たちの初孫の入浴姿です。

 

 

 

 

 

 

 

次に私たちの家族で撮った写真です。ソファに座っているのがホノルルから参加した娘と私たちで、床に座っているのが息子夫婦と孫と彼らの愛犬です。その下の写真は私たちの住むことになるアパートの入り口辺りを撮ったものです。

 


 

 

 

 

 

 



29 06月

ニューヨーク移住のお知らせ      坂 達也    2012年6月29日


ニューヨーク移住のお知らせ

 

坂 達也

 

先日6月初めに10日間の日程で、私たちホノルル在住の家族三人はニューヨークに住む私たちの息子夫婦を訪ねました。主な目的は、彼らの間に3月末に生まれた男子、私たちにとっての初孫に会いに行くことでした。

息子夫婦が名付けた初孫の名前はマイロ、下記は彼の写真です。

実はこの息子夫婦が出産前の一月にハワイに来た時に、彼らは共稼ぎで日中は子どもの面倒を見る人がいないと言うことで、私たちに子守に来て欲しいと頼まれておりました。これに対して家内もしばらく返事を保留しておりましたが、二人で祈った結果、私たちがニューヨークに少なくとも一年間移り住むことがはっきり主の御心であることが分りましたので、行く前から移ることを決心しておりました。

そんな訳で今回の訪問は移住のためのアパート探しも目的の一つでした。息子夫婦も狭いアパート暮らし、そこに私たちが同居することは無理と言うことで、できるだけ近いところにアパートを探すことになりました。

 

場所はマンハッタン島の東南下部にあり、チャイナタウンに歩いて数ブロックと言う、買い物に便利、それでいて比較的静かな住宅街です。そこはニューヨーク独特の古いレンガ建ての高層アパートが立ち並び、大きな樹木に恵まれた公園も散在します。都会のど真ん中に住むにしてはまずまずな場所という印象を受け、私たちも気に入りました。

 

日曜日には早速家族で同じローアー(下部)・マンハッタンの西側に位置する例の9・11で崩れ落ちたツイン・タワーの直ぐ近くにある教会にバスに乗って出掛けました。息子夫婦が今参加しているところです。惨事が起こった時はツイン・タワーだけでなく周りのビルも被害を受けたのですが、その被害を受けて最初に再建築されたモダーンな高層ビルの40階にその教会はありました。「リバー」という名のその教会は、若者中心の60人程の集まりでしたが、ウォール街が真下にあり、建築中のツインタワーも直ぐ傍に見えていました。ハドソン川、イースト・リバーという二つの川に挟まれ、ニューヨークの東と南の地区が一望に見えるという圧倒されるようなすばらしい景観でした。

 

ハワイの田舎住まいから、いきなりニューヨークのど真ん中に移り住むことになり、そこで最初に礼拝した場所が、アメリカ経済を動かすウォール街とツインタワーを含む世界でも有数な高層ビルの立ち並ぶ場所ですから、私は思わず神を見上げて祈りました。アメリカ経済が間も無くこの地区から崩壊するかもしれないという時期にこの地に送られて来たことに対して深い感慨を覚えました。

 

私は今、家族が親しく寄り添って生きることの大切さをひしひしと感じています。私たちの場合、二人の子どもが育って立派に自立している後の年寄りに何ができる訳ではありません。しかし私たちが未だ責任を果たさねばならないことが一つあるように思います。それは神に頼って生き、神と共に歩き、神に訓練される生き様のよい手本を示すことです。

パウロは「私に見習いなさい」と言っておりますが、私たちが家族に残す遺産があるとすれば、キリスト者として信仰で生きるそのよい模範を残すことであると思います。勿論彼らのために毎日祈ることの大切さは言うまでもありません。

 

私は今回息子たちの助けでアパートを色々見て歩きましたが、そのほとんどが一人の不動産エイジェントが持って来た物件で、彼は本当に丁寧に案内してくれました。ところが、ある物件に私たちの関心が集中して来た最後になって、彼は息子に彼のコミッションは一年間私たちの払う毎月の賃貸料の15%であると洩らしました。私たちはハワイの常識では賃貸料の一か月分を家主側だけが払うと了解していましたし、息子は今までに同じ地区でアパートを三度移っていますが、どの場合も(別の不動産店を通してでしたが)一か月分を支払って来ていましたので、私たちは少々びっくりしました。しかもそのことを最後の最後まで言わなかったことで少々「カチンと来た」訳です。問題はそれに対するリアクトを一番大きな声でしたのが私であったことです。

息子は友人たちに聞いてみるとニューヨークでは15%要求するエイジェントも多く、それも常識になっていると言うのです。私たちは結局どの物件ももう一つということで決めずにハワイに帰って来ましたが、途中で私は、自分がエイジェントに対して(本人にではないにしても)家族の中で一番批判した非に気が付き悔い改めました。イエス様だったら何と答えたか―恐らく値切ったりしないで快く払うと言われたでしょう。イエス・キリストは勿論、そのからだの一部である私たちクリスチャンは決してお金に困っているのでありません。むしろ有り余るほどの財産がある方が私たちの面倒を見て下さっているのですから、必要と思っている人に逆にふんだんに分かち与えるのは当たり前であるはずです。

私は自分がビジネスをしている時の自分中心の考えに基づく「貧乏根性」がつい出て来てしまった、しかも子どもたちの前で誰よりも早くこの世的な思いを口にしたことに恥ずかしくなりました。早速翌日息子に電話し、15%喜んで払う気持ちであることをそのエイジェントに伝えて欲しいと言いました。

 

その後、息子は自分の引越しを三度世話してくれた不動産店に念のため電話してみると、他によい物件があり、結局その店を通して、彼らのアパートの真前にあって道路に出なくても庭沿いに歩いて行ける同じ系列のアパートに空いたところがあり、見て来てよかったと報告がありました。私たちはすべて息子夫婦に任せると伝え、その1LDKのアパートの持ち主も同意しましたので私たちはそこに決めました。目下その物件の賃貸手続きに入っております。

 

今回私たちは毎日の出来事とその進展につれて「神に聞く」ことを実行し、子どもたちと共によく祈りました。ある時は最初の方で一度見た瞬間に私がこれは駄目と判断した物件に対して、主からそれを見直すようにと言われましたので、私はそれを家族に告げて再度見に行きました。すると最初の印象とは違って自分でも吃驚するほどによく見えたのです。娘は最初から私の見方が正しいとは見ていなかったようで私が神に言われたことを打ち分けた時、にこにこしながら「私もそう言ったでしょう。」と私の早計ぶりをたしなめられました。

 

今まで家族で何かを決める時に私の頑固さがネックになったことが何度もあることを家族はいやと言うほど経験しており、私も長年のうちにそれに気が付かされて来ましたので、今回私が出来るだけへりくだって神を前面に持ち出す殊勝な態度を取ったことに対して神は報いて下さったのでしょうか、ホノルルに帰ってから神はすばらしいことをして下さいました。それは、次に最大の難関であるホノルルの私たちのマンションを一年間人に貸す相手を探さねばならないのですが、私たちの状況と要望にすべて応えてくれる理想的な相手が、探す前にポッと与えられたのです。それは全く降って沸いたようでした。

私たちの要望とは、先ず私たちの家具調度品を出来るだけ居ぬきのままでそのまま使ってくれる相手を見つけることです。ホノルルでは期間が一年以上となるとほとんどの場合、自分の家具を持ち出し、すっかり空き家にして貸すのが常識と言われていました。もしそれをしなければ貸す相手が見つからない、あるいはしばらく時間が掛かることになりかねません。となれば、その持ち出す自分の家具を運搬して貸し倉庫に一年入れ、それを又持ち帰らねばなりません。そうとなると、その運搬費と倉庫代で何千ドル、もし捨てて新しく買い換えてもやはり何千ドル掛かります。一方、ニューヨークへ運搬すればそれ以上の費用が掛かります。

そんなことでニューヨークへは最低必需品を私たちの乗る飛行機の預ける手荷物として許される限度(一人最大22キロの重量の荷物3個まで)1個20ドルで運んでくれる飛行機会社を選びました。それ以外の大きな家具類は現地で息子たちが買って支給してくれるというので助かりますが、本当に引越しはお金が掛かることが今回よく分りました。

 

私たちは息子の嫁のお産休暇が切れる7月24日までに現地に入らねばならず、理想的にはその日に入居してくれる借り手を見つけなければなりません。神はそのような人を探す前に、娘の不動産の仕事の中から与えて下さったのです。どうしても8月前に出なければならなくて困った家族が出て来たのです。その人たちに娘が私たちの家が空く話をすると飛んで見に来てくれ、一部の寝具だけ持ち込む以外のものはほとんど居抜きで使ってくれる、それが有難いと言う願ったり適ったりの相手でした。値段も娘が提案する「両者に公平な値段」を喜んで受け入れてくれ、私たちにとってもそれは望みの申し分のない値段でした。話は即座に決まりました。

私は神がこの人たちを用意していて下さったことに間違いないと確信を持ったのは、この提示値段が両者が共に感謝する値段で、しかもそれを娘が提案して一言で決まったことからでした。又、私たちが持ち出さねばならないベッドルームの家具とか、その他の多くの調度品等は、私たちの親しい友人の皆さんが快く預かって下さることになり、これもすべて主の導きであることに心から感謝しております。

 

それに加え、ニューヨークで住むアパートの家主とホノルルの家の借り手が同じ日に快く同意してくれて契約が実質的に成立したことも奇跡のような神のすばらしい御業でした。それが又、私たちの子どもたち二人が両端で契約にこぎつけてくれたのですから、本当に私たちは「神の家族」として、すべて神のお手配で事が運ばれたことに感謝の心で一杯です。

 

私たちの今回のニューヨーク行きは、神のご計画であり、孫の面倒をみる以上に、ミニストリー的にも特別な任務が与えられることを私たちは予期しております。しかし、たとえそうではなく、単に老いた爺さんと婆さんが孫のためにえんやこらと出掛けて行って親子三代が睦まじく共に住むようにして下さることだけが愛の神様のお取り計らいであるとしても、それこそ最高の祝福と恵みであると心から主に感謝しております。

 

クリスチャンになる最大の祝福と特権とは、一言で言えば、永遠の神の家族に入れていただき、神と永遠に楽しく暮らすことであると思います。そのために、私たちは神の愛をもっともっと知らねばならないと思わされております。そして神にふさわしい子にしていただくには、神のひとり子イエス・キリストを信じて「神の子イエス」の一部となった私たちが、本当に「キリストに似た者」にならねばならないこと、そのクリスチャンとしての責任を今回ひしひしと感じております。それが私たちの最終的で最高のデステニ-ではないでしょうか。

そのために神は私たち人間に家族を与え、この世で人間が皆、家族として愛し合って生きることを願っておられます。それは神の子になるための最も重要な訓練であると信じます。その目的を持ってこの7月23日に私たちはニューヨークに向けて出発します。

そんな訳で今、家の中はおもちゃ箱をひっくり返したような状態です。もって行くもの、置いて行くもの―倉庫あるいは友人に預かっていただくもの、捨てるものに分ける作業をしております。その後に、補修すべきところの修理作業に入ります。どうぞ皆様、私たちの後に入られるご家族のため、又ニューヨークで過ごす私たちのために今後とも一層のお祈りをお願い申し上げます。(終り)

 

 

 

 


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