02 09月
主の臨在を尊ぶ
ビル・ジョンソン
私たちは「御国を来らせたまえ」と祈りますが、天国の一番の特徴は「神がそこにおられる」ということです。神は光であり、神が臨在される天国には影はありません。そしてすべてのことは神を中心とし、神が喜ばれるように行われます。すべてのことは神により、神のために、神ゆえに起こるのです。もし私たちが「御国と同じことが地でも起こるように」と祈るのならば、この地でも神の臨在こそを宝として尊ぶべきです。
もし、教会がこの真理を中心にして機能するとしたらどうでしょうか。残念ながら、この数百年、もしかしたら1800年間くらいかもしれませんが、教会は毎週「説教」を中心として集まってきました。けれどもイスラエルは「主の臨在」の周りに宿営していたのです。もし神が私たちの教会のやり方を劇的に変えようとしておられるとしたらどうでしょうか。即ち、「一人のお方」を尊ぶというやり方に変えるのです。
神学的に「2人、また3人が主の名において集まるところには、主もいる」と宣言することは出来ます。又、確かに主は私やあなたの中におられます。しかし、主のマニフェステイション(臨在の顕れ)というものがあり、それを私たちはお迎えすることが可能なのです。それは自動的に起こることではありませんが、実現可能なことです。私たちは主の臨在をお迎えしてそれを尊び、敬い、祝うことができます。その時、私たちは聖霊のパートナーとなり、聖霊がしておられることを私たちもすることができるのです。
主イエスは御父がしておられることを見たことだけをなさいました。御父が言われることだけを言われました。イエスに臨まれた聖霊によってそのような霊的領域がイエスには開かれていたのです。
私たちはアジェンダを持っていますし、それは良いことです。それらは御国の法則を私たちが取り入れているものです。例えば「人々をキリストに導く」というアジェンダを考えてみましょう。これは意味のある正当なアジェンダです。その法則を用いて私たちは集会で人々を導くことができます。しかし、もし私たちが「主の臨在」から機能することを尊ぶならば、「法則」から機能するより優れたものとなります。もし「主の臨在」から機能することをあなたが学ぶならば、魂の収穫はもっと著しいものとなります。
癒しを例にとってみましょう。私は「癒しのために皆で祈りましょう」と会衆を導くこともでき、その時癒しも起ります。しかし癒しの力がその場に強く臨み、会衆全体を覆うことがあります。主の癒しの力が臨んで癒されるのです。そのような臨在による癒しは爆発的なものとなります。
主は一人ひとりにユニークな賜物をくださっていてそれにスポットライトを当ててくださいます。あなたと私は違う賜物を持っています。そして私たちに与えられている「賜物の法則」から機能する方が、「主の臨在」から機能する(ことを学ぶ)よりもやりやすいかもわかりません。
しかし、法則から機能すると、私たちはもっと労せねばなりませんが、臨在から機能する時、その結果としての実は途方もなく大きいのです。この違いを学ぶことは大きな意味があります。
主の臨在への敏感さを、ミニストリーのための必要性だけから会得することは出来ません。それでは「professional intimacy 職業上の親密さ」とでも言うべきものになってしまいます。むしろ何もミニストリーの必要性がないとき、アジェンダがないときにこそ、真に主の御声を聞き、主の臨在を尊び感知することをあなたは学ぶべきです。
もしあなたがミニストリーの中でだけ主の臨在を知るならば、それは非常に限られたものとなります。神の御声を聞くことに関してさえ、あなたはprofessional 職業的なアプローチしか出来なくなってしまいます。
「主よ、次は何をしたらいいでしょうか?」「主よ、何を祈ればいいでしょうか?」「主よ、どう預言したらいいでしょうか?」と言う具合にです。
これらは勿論、正しい質問であり正当で必要なことですが、すべてミニストリーのために御声を求めるということです。けれども神との真の親密さとしてはどうでしょうか。神の御声を求めるのは、私たちが何かミニストリーをする時だけであってよいのでしょうか。
「業、働き」をすると称賛を受け、うれしい気持ちになります。自分の働きが役に立ったという喜びを感じます。これは悪いことではありません。しかし、あなたが主の臨在から機能する時は全く違うのです。
ある時、私は1500名ほどの癒しの集会のメインスピーカーとして招かれました。集会の最後の私のメッセージがかなり長くなり、人々が癒しの祈りをはやく始めて欲しいという気持ちを持っていることを強く感じました。
私はワーシップを一回だけ短くするように導かれました。するとワーシップの霊が私に臨み、私は歌うこと止められなくなりました。心の中では早く止めて癒しの必要な人のために祈らねばならないと思うのですが、ワーシップを続けることが御心であることがはっきり分かりました。ある時点で私は「癒しの祈りは今日はしない」と心に決めました。
主催者側から祈りに入るようにというプレッシャーはかかりませんでした。しかし私は「講師として期待されていることをせねばならない、責任を果たしたい」とう思いがあったのですが、それを断ち切ったのです。更にワーシップを続けて3、4分たったとき、主が突然私にあることを思い出させてくださいました。それはその日私が集会所に入ったときに主が語られた「deafness 耳が不自由なこと」という言葉でした。その瞬間、主がワーシップを止めなさいと言われていることがわかり、私は会衆にむかって「聴覚に不自由を覚えている人は手を挙げてください。」と言いました。すると82人の人が手を挙げたのです! 主の臨在が部屋の中を覆いました。そして聴覚の神経が癒される等、著しい大いなる聴覚の癒しが起りました。もし私が法則から癒しを行ったならば、もっと時間を要したでしょう。主の臨在を尊ぶことはこのようにパワフルなことであると思います。(つづく)
28 08月
ヨブ記を読む
坂 達也
まさかニューヨークに来て、最初に取っ組むのがヨブ記であるとは驚きました。突然に導かれたのです。しかし、この本ほど読み甲斐のある本もめずらしい。過去に何回も読んだのですが、通読はしても、いつもどうも分からないうちに終わってしまうのです。
そこで今回こそはじっくり読もうと思い、英訳のKJVとデービッド・スターン師のJewish Bible、それに、新改訳、新共同訳を併用して読み始めて驚きました。多くの箇所で解釈が全く違ったり、時に正反対の意味に訳されていることに気がついたのです。特に日本語の新改訳と新共同訳との相違が目立ちました。これでは混乱するのは当然――何故?――どうも原文のほとんどが詩的文体であると言われるせいか、時に簡潔過ぎているからか、又、代名詞が誰なのか(例えばheが神を指すのか、対話の相手をさすのか)その解釈が訳者によって違うことに気付きました。結果として、多くの箇所で解釈に大きな差が出てしまっています。
それはともかくとして、この本を神はどのような意図で書かせ、聖書に入れさせたのか、私には非常に興味があります。これを書いたのはモーセとかソロモンと言われますが、ヨブはBC2000年頃、つまりアブラハムと同時期か少し前の時代に実在した人物と言われ、聖書ではエゼキエル書14:14-20で、ヨブの名前がノアとダニエルと同等の「義の人」と言うことになっています。その他ヤコブ書5:11、ロマ書11:35、1コリント3:19がヨブのことに言及しています。
神とヨブの関係
さて本書を読んで最初に気付かされることは、ヨブという人物が神の大変なお気に入りで、神は彼を当時としては最大限に祝福していたという事実です。その理由を神は「地上でヨブほどの人はいない。彼は潔白perfectで正しくupright、神を畏れ、悪を避けている。」とサタンに説明します。
と言うことは、もしヨブがアブラハムと同時期或いは少々先輩であるとすれば、アブラハムよりもヨブの方がより潔白で正しい信仰の人であると神が言っていることになるのですから驚きます。
ここでいう「潔白で、正しい人」と聞くと、神がモーセに示した十戒を中心とする「律法」を忠実に硬く守った人を思い起こさせます。勿論ヨブはその書かれた律法なるものを知りません。しかし、彼はあたかも律法の忠実な実行者であるかのように描かれています。
それにもかかわらず神は突然理由を言わずに、サタンにヨブを襲わせ、神から受けていた祝福のすべてをヨブから取り上げたのです。
イエス・キリストとイスラエル
それだけではなく、神は、サタンに「命だけは触れるな」という条件付で徹底的にヨブの身体を痛めつけさせました。ヨブの苦しみは肉体の苦痛だけではありません。慰めに来たはずの四人の友人たちが寄ってたかって徹底的にヨブを責めたのですから、これはまさに肉体と精神両面の二重苦です。彼らは「罪を犯す者を神は罰する」という神学的には非常に単純な考え方に基づき(律法的と言えます)「これほどの苦しみに見舞われたヨブは大きな罪を犯したに違いない。神に悔い改めよ。」と迫ります。しかし、ヨブは「そんな罪は犯していない。」と言い張り、ついには「神の前で(天の法廷で)申し開きしたい。」と主張し、それをさせない神に対して不満をぶっつけます。
ヨブは執拗に自分の正しさに固執し、そのために「誰か天で神と私の間を仲介してくれる仲裁者mediatorが欲しい。」と要求します。(ヨブ記9:33)又、ヨブ16:19-21と17:3でも、ヨブは天にいる私の証人(弁護人あるいは味方)を悲痛な叫びとして要請するようになります。
更に19:23-27では、自分を贖う方が後日地上に立たれ、自分はよみがえることを預言します。これはまさに、イスラエルに帰って来られる再臨のイエス・キリストを預言しているのですから、この預言をさせるために神はヨブを起用したのではないかと私には思えるのです。ヨブ記を預言書の一つとして分類した学者が一世紀にいたそうですが、ヨブを預言者と見るのは正しいように思えます。
同時に私は、ヨブが「死に目に会う苦しみ」の後、最後に神が「ヨブを元通りにして以前の二倍の繁栄を与えた」ことにも注目したいと思います。これは単なるお伽話とか寓話ではありません。それは、第一に、人間イエス・キリストの出現(十字架の苦しみと死、そしてよみがえり)を暗示しているように思えるからです。
第二に、イスラエルという地上で神が創った唯一の神の国とその選民(イエス・キリストもイスラエル人です)が、長い間瀕死の苦しみと迫害を通ったにもかかわらず国が亡くならなかったというだけではなく、キリストの再臨によって世界を制覇する国としてよみがえることを暗示しているように思えるのです。しかもその時に、キリストを信じるすべての異邦人クリスチャンが共によみがえり、イエス・キリストの王国に合流するのですから、数はともかくとして、イスラエルと異邦人を併せて「二倍」のキリストの王国となって繁栄することを預言していないでしょうか。
神は、イスラエルが誕生する前に、建国の父祖アブラハムより優れてはいても劣らない信仰の人ヨブを出現させ、神の国イスラエルが通る道、すなわち、律法が与えられ、それを守るように神との契約関係に入る。しかし、それだけでは不十分であること、人間には救い主イエス・キリストが絶対に必要であることを暗示しながら、キリストと十字架の受難、そして復活を示俊します。すなわち、ヨブはキリストと共に、イスラエルが辿る長い苦しみと迫害の歴史を予告する、言わばイスラエルの「前走者forerunner」としての役割をヨブに果たさせたと、私は解釈したいと思うのです。
真に神を知る方法は、神が直接語られるのを聞くしかない
ヨブのように罪を忌み嫌い、罪をほとんど犯したことのない正しい人を、何故神はここまで痛めつけたのでしょうか。(神は最後までその理由をヨブに答えていません。)
神は四人の友を送ってヨブと激しく口論させました。その意図は、人間がヨブに対する神の仕打ちをいくら頭で考えて(神学的)論争をしてみても、神の真意と知恵を計り知ることは不可能であることを知らせるためであったと思います。問題はヨブも友達も、神が人間を遥かに超えた存在であるという概念を持っていないため、神のなさることをつい人間のレベルでしか考えなかったことにあります。神を知る唯一の方法は、直接神が話されることばを聞いて知る以外にはないと言う真理をこのヨブ記は教えてくれます。これは、実は私たちクリスチャンに対する重要な教訓であると信じます。
他人と比較して自分はほとんど罪を犯したことがないと自負するヨブは、神の自分に対する仕打ちが大いに不満でした。しかし神は最後にヨブの前に現れ、神が全能の創造者であることを直接ヨブにとうとうと語られました。それを聞いたヨブは神に向かって「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は(初めて)知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。―(私でした。)まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。・・・私はあなたのうわさを(人から)耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ記42:2-6)と言って平身低頭したのでした。
ヨブは初めて神の御声を直接に聞いて、まるで神にお会いしたように感じたのでしょう。「この目であなたを見ました」と言い、心からへりくだって悔い改めたのです。
又神は、ヨブに必要なのは彼の罪の身代金を払って弁護してくれる方であり、その方が神とヨブの間に立って下さる唯一の仲裁人であることをヨブに啓示されていたのであると思います。ヨブ程の信仰ある人に神が啓示という形で心に語られない訳が無いと思います。ただヨブはそれが啓示による神の御声であることを知らなかったのであると思います。(アブラハムも啓示によってキリストが来られることを知っておりました。)そうでなければ人間がキリストのことに考えが及ぶことはありえないと信じます。
クリスチャンがなぜ苦しみを通らねばならないのか
ヨブから学ぶことはたくさんありますが、その一つはクリスチャンは「聖なる苦しみ」を通るということであると思います。その最もよい例がイエス・キリストの受難であることは言うまでもありません。
罪の性質を持つ人間は誰でも、この世の中で苦しみに会わない人はおりません。しかしその苦しみのほとんどは、自から蒔いた種の刈り取りで、招いたのは苦しむ本人です。ところがヨブの苦しみは少し違いました。神が与えたのです。それが分らない四人の友は戸惑いの末ヨブをひどく責めましたが、これこそヨブの信仰を本物にするための神のご計画でありました。
ヨブは、ここに限りない神の愛と深い知恵があることを、究極の苦しみを通して最後に理解できたと思います。もしそうではないにしても、ヨブは少なくとも神がどのようなお方であるかを初めて個人的に知るようになったことは確かでしょう。
ところで、普通クリスチャンは最初に「自分の罪を悔い改める」と告白しますが、それはむしろごく卑近な罪の悔い改めを指しています。多くの場合、それは肉的・表面的なものでしかありません。勿論救いに導かれるためにはその悔い改めは絶対に必要です。しかしヨブの悔い改めは、かなりの信仰生活をした後で、霊的存在である神を真に知るに至ったときに自分がへりくだらざるを得ない、圧倒的、根本的な「悔い改め」であり、これが彼の信仰を深くしたのではないでしょうか。
ヨブのこの深い悔い改めは「聖なる悔い改め」とでも言いますか、クリスチャンの霊的成長には不可欠なものであり、しかもこのような「心からの悔い改め」は回数が多いほどよいと思います。このような悔い改めが重なる度に、その人の信仰はどんどん深まると言っても過言ではないでしょう。私自身を振り返ってみても、クリスチャンになった頃と比べ、最近は事繁く、恥ずかしいほど自分の至らなさと高慢さに気付かされております。
「キリストとその十字架の深い摂理は神の知恵であって、神の知恵wisdomを私たち人間は本当には計り知ることができない、神を本当に理解することは人間には不可能である」ということを、知恵の書と言われるこの「ヨブ記」は教えてくれます。同時に又、「聖い人が何故苦しまねばならないのか」という問題も、時に人間の理解を超える神の深い知恵であると信じます。
正しい人でかなりの信仰を持っている人でも、神に愛されれば愛されるほど、神はその人を過酷な試練の中を通されることは、ダニエル書を見ればよく分かります。三人のダニエルの同胞、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが燃えたぎる火の炉の中に放り込まれたのですが、その炉の中に「神の子のような人」が現れて四人で歩いている。そして炉から出て来た三人は髪の毛一本も燃えていませんでした。言うまでも無く、この経験を通じて彼らの信仰は超自然の不動のものとなったことでしょう。
終末の艱難時代と大リバイバル
この物語は終末のクリスチャンが大艱難の中を通ることを預言していると言われます。一頃は大部分の人がクリスチャンは大艱難時代の前に携挙されると信じていました。その理由はクリスチャンは大艱難という裁きを受けなくて済む、あるいは受ける必要はないということのようですが、本当にそうでしょうか。苦難は必ずしも「裁き」ではないと思います。聖い人でも苦難を通る、いや、むしろ聖い人をもっと聖くするために神は苦難を通らせることが、ヨブの例のみならずダニエルの同胞の例で分ります。
特にこれから来る終末の時、私たちは火の中を通るような大きな艱難の中でリバイバルが起こることを覚悟すべき、というより大いに期待すべきではないでしょうか。リバイバルが未曾有の大リバイバルになるためには、ダニエルたちのような超自然の信仰を持った人たちが多く出て、超自然の霊的領域(圧倒的な油注ぎ)が造られ、その中で大きな救いの御業が起こるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
これからの時代には、同じ「火のかまどの苦難」ではあっても、全く別の形で来るように思われます。例えば、政治と経済の完全崩壊による暴動、飢饉とか、未だかって起こったことがないような自然災害、あるいは過激派イスラムによる迫害・弾圧と言ったような艱難です。しかし間も無く来るそのような「大艱難」を恐れる必要は全くありません。何故なら、火の中をくぐるような苦しみを通る時こそ、私たちの傍に「神の子のようなお方-主イエス・キリスト」がぴたりと付いていて下さるからです。神は艱難をくぐらせることによって、私たちの信仰を完成させて下さると信じます。
キリストに似た者になる
私たちクリスチャンはイエス・キリストの後を追い、キリストに似た者になるのが最大の目標です。パウロがそれを熱心に薦めます。そのパウロも十二使徒も皆、迫害と苦難の中を通りました。そうであるなら、私たちクリスチャンが人間キリスト、あるいはヨブのような究極の苦しみの中を通されても不思議はないように思います。
その「死に至るような苦しみ」の意味するところは一体何なんでしょうか。私にとってそれは「人間は肉の自分に死ななくては、真の霊の人=キリストに似た信仰者にはなれない」という意味であると信じています。それはガラテヤ2:20を生きるためです。
そして「自分に死ぬ」ということは、私たちクリスチャンは皆洗礼を受けたときにそう宣言していることを忘れてはならないと思います。(終り)
21 08月
人間の究極の目的—神を愛する
リック・ジョイナー
どのような分野においても秀でることを追い求める人々はおりますが、大抵の人は、その時々が何とか過ごせる程度、そこそこのところでよしとして終わってしまいます。そういう人たちは、「もっと頑張ろう」と決意し、意気込んでしばらくは頑張るのですが、長続きせずに又そこに留まってしまいます。
残念ながらクリスチャンは、信仰に関しても同じように、そのときに何とか満足できる程度で止めてしまうように見えます。黙示録で主がラオデキヤの教会に言われたように、なまぬるい者を主は嫌悪され、「わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われます。これは「自分で勝手に決め込んでことを運ぶ」(presumptionな)やりかたで非常に危険です。人間関係において「無関心」ほど人を侮辱することはありません。私たちが主に対して無関心であるならば、それは大変恐ろしい間違いを犯しているのであり、主は「なまぬるいよりは冷たいほうがいい」とまで言われたのです。
人間の究極の目的は神を愛することであり、人生における究極の成功とは「私たちがどのくらい主を愛する(ようになる)か」によって決まります。主を真に知ろうとする者たちがなまぬるいままでいる事は不可能です。なまぬるい者は「自分は主を知っている」と思うように騙されているのです。私たちは、主を親しく知る(愛する)関係になくても、主の名によって多くの偉大な業をすることは出来ますが、主が警告されたように、大いなる裁きの日に「わたしはあなたを知らない」という言葉を主から聞くことになりかねません。勿論、主は私たちが誰であるかをご存知です。主がここで「知る」と言われているのは、最高に深く知ることであり、最も親密な愛の関係を表しています。
使徒パウロは当時の偉大な競技者たち(競走やボクシング)を喩えに使って、主にある私たちが自分の目標をどのように追い求めるべきであるかを説いています。私は優れたプロのスポーツ選手を沢山知っていますが、その分野でトップになる人たち全員に共通のことがあります。それは人一倍ものすごい努力をすることです。勿論、彼らは運動能力と技術を基礎として持っていなければなりませんが、人一倍努力をするという決意がなければ、決してトップには近づけません。
グリーン・ベイ・パッカーズというアメリカンフットボールの選手であるレジー・ホワイトと私は彼の書斎で話したことがあります。彼のチームメイトの一人も一緒でした。彼らは二人ともオール・プロ・プレーヤーでした。彼らが言うには、試合のために訪れる多くの都市の観客の中には、彼らよりも能力とポテンシャルのある人々がいるに違いない。しかしそのような人たちには、スポーツでトップレベルになるために不可欠な「能力を伸ばしていく努力」が欠けていたというのです。その結果、そのような優れた可能性を持った人たちは、自分が出来たはずのプレイを見るためにお金を払って観客席に座ることになってしまったと言うのです。これはすべてのスポーツや職業において同じことが言えるでしょう。これは残念で悲しいことです。しかし、もしこれ(自分が努力しなかった結果)が永遠に自分の将来の位置づけを決めることになると(気がつくと)したら、それこそどれほど悲しいことでしょう。
マイケル・ジョーダンとバスケットをプレイしたことがある人たちが言っていたことですが、彼は確かに普通以上の能力を持っていたけれども、それで彼が偉大になったのではなく、彼がバスケート・コートに足を踏み入れるたびに出来る限りの努力をするという目標を持ち全力を尽くすという意気込みがあったから彼は偉大になったというのです。これは試合の時だけではなく、練習の時も彼は誰よりも早く来て、一番最後まで練習していたということを含めての話です。
クリスチャンもこれと同じような分類をすることができます。ある人たちはクリスチャンとして何とか通る(と思う)最低限度のことしかしようとしません。次に、大多数の人は「よいクリスチャン」になりたいと思い、キリストにあって学び成長しようと一応の努力をする人たちがいます。そして、主に対して特別の熱意を持ってデボーションを続ける一部の限られた人たちがいます。そのような人たちは常に聖書と参考書等を読んで学び、特別な講師を聞きに出かけたり、主のことを(個人的に)もっと知り主を(深く)経験できるのではないかと 色々な教会やカンファレンスに出かけていきます。私たちはこのような人たちを「主に燃えている人」と呼びます。しかし、生ける神に救われて出会った人が主に燃えないということがあり得るでしょうか?
この記事を読んでおられる人は、多分3番目の部類に入る方でしょう。あなたは神を追い求めておられます。多分朝早く起きてディボーションの時を持ち、主からの新しいマナを求めておられるでしょう。あなたは地の塩、世の光となる召しを真剣に受け止めていて、祈祷会に参加して祈ります。あなたには祈るべきことが沢山あります。あなたが聖書を読み勉強するのはちゃんと目的があるからです。あなたはこれからやってくる史上最大の神のムーブの一部となる人でしょう。そのようなあなたの熱意と努力は必ず報われます。
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クリスチャンが受ける最も偉大な賜物は、霊の飢え渇きです。主を知り主の道を知るために費やした時間と努力は、私たちが思い描く以上に報われようとしています。それに反して、神を追い求めることや主にある自分の目的に関して怠けていた者は、自分の熱意が欠けていたことをやがて大いに悔やむことになるでしょう。しかし、主は恵み深くあられ、もし私たちが自分のなまぬるさを悔い改めるならば、私たちが失った時を取り戻してくださるでしょう。
これから私たちが迎えようとしている時代には、なまぬるいままでいる人たちはやっていくことができません。主のお言葉を熱心に聞いて従うことをしなかった人は、岩なる主の上に自分の人生を築かなかった人です。多くの人はこれから来ようとしている嵐を通りぬけることができないでしょう。岩なる主の上に人生を築いて来た人は史上最大の収穫を刈り取り、終末に主に仕えたものとして永遠に知られるようになるでしょう。
私たちに訪れようとしている最大の出来事は大艱難ではなく、この時代の終りにくる大収穫なのです。今はまさに昔の預言者や義人が見たいと切に望んだ時であり、私たちはこの時代に生きるようにと召されたのです。すべてにまさるこの最大のチャンスを決して無駄にしてはなりません。
これからの時代において、嵐に耐える家を建てるためにもっとも重要なことの一つが、主のお言葉を聞くということです。そのために私たちは主がどのように預言的に語られるかということを学んできましたし、これからも続けたいと思っています。しかし、主が言われることを聞いても、私たちがそれに従わないならば、何の役にもたちません。
もし私たちが主を追い求めることにいい加減であったならば、今こそ真剣になり、他の人がどうであれ、真剣であり続ける時です。やがてすぐに熱心であったことを喜び、浪費した時を残念に思う時がやってきます。今から先は、自分がするすべてのことにおいて、それが喜べるようになる決意をしようではありませんか。(終わり)
13 08月
写真は私たちの新しいマンハッタンのアパートから見える夜景です。
左の高いビルはエンパイヤー・ステート ビルデイング です。
その下の写真は私たちの住むアパートです。
ニューヨークへの旅路
坂 達也
7月23日の夜の飛行機でホノルル空港を飛び立った私たちは、シアトルで乗り継ぎ、翌日夕刻にニューヨークに着きました。
私たちにとって今回のニューヨーク移住ほど、それが主の御心であることがはっきりと示されたことは、私のクリスチャン生活を通して未だかってなかったように思います。
先ず、6月初めに娘と三人でニューヨークを下見に訪れた時、家族全員が心から一致し移住が本決まりとなりました。早速、ニューヨーク側で息子たちがアパートを探し契約に持ち込む手続きを開始し、一方、ホノルル側では住まいの家具・調度備品・衣類等の整理に入りました。友人にもらっていただくもの、預かっていただくもの、ニューヨークに持って行くもの、そして残りをホノルルで安くてよい貸し倉庫を見つけ、そこに搬入することが主な作業です。それが終わると家の中の補修と清掃が必要でした。
加えて、私たちが出た後にタイミングよく留守の一年間を借りてくれる相手を見つけねばなりません。下手をすれば1-2ヶ月空き家になる可能性が十分ある中で、月の途中での引越しにもかかわらず、引き払った翌日に入居する借家人が娘を通して見つかりました。主は総てのことを絶妙なタイミングで、とんとん拍子にことを運んで下さり、まるで「早くニューヨークに行きなさい」と主から急き立てられるかのようでした。
この数年間主は「ことを急いでなされる」と感じて来たことが多い中で、私たちは「神の御心とご計画に沿って行動すれば、すべてがうまく行く」ということを今回改めて経験させていただいたのですが、神のコンベヤーベルトに乗っかっているだけで、やっているのは自分ではないということを身に沁みて感じました。神の恵みが現れる時(マニフェステーション)私たちは大きな祝福と喜びに浸ることができます。皆様もそのような多くの証と経験をお持ちでしょうが、それは本当にすばらしい信仰の励ましになります。
そこで今回私たちが受けた一連の神の恩恵の一例として、そのクライマックスとも言うべき最後の出発の日、空港で起こったことをお証したいと思います。
私たちは、それぞれ機内持ち込み用の非常に重いスーツケースと手提げバッグを一つずつ抱え、それ以外にチェックインする荷物が計6個、これはかなり大きなサイズの段ボール箱をテープと紐で梱包したものですが、その中の二つは多分限度の50ポンドを超える重さであったと思います。
私たちは空港の出発ゲート前まで大型のバンで送ってもらいましたが、そこで荷物を下ろしてからチェックイン・カウンターまで、この10個の荷物をどのようにして運ぶかが第一の問題でした。それを助けるために娘が自分の車で後をつけて来てくれていたのですが、その娘も先ず車を駐車場に入れねばならず、なかなか現れません。
ところが全く思いかけないことが起こりました。車が停まった直ぐ後ろに大きなカートを持ってポーターが、まるで私たちの到着を待っていてくれたかのように立っていたのです。そんなことはめったにありません。合図するとすぐ敏速に計10個の荷物を大型カートに移し替えてさっさと検疫を通関し、それから私たちの乗るアラスカ・エアーラインのチェックイン・カウンターに向かいます。私たちの乗るエコノミークラスでは大勢の人が並んでいましたが、ファースト・クラスの受付にはたまたま客が誰もなく、ポーターはそこに直行してくれたのです。この間ポーターは私に、少なくとも二つの荷物が重過ぎることをそっと耳打ちしてくれ、お望みなら何とかしようと言いますので私はよろしくと答えました。カウンターの係員はこれも私たちを待ち受けていてくれたかのように笑顔で迎え入れ、敏速に切符の手続きをしてくれました。持ち込み荷物6個については規定通り1個20ドル計120ドルの支払いも終えました。(アラスカ航空を選んだのは一人3個まで手荷物以外の荷物を1個20ドルで運んでくれるという利点があったからでした。)
通常であれば、荷物はすべて一個一個計量され重量オーバーの場合は1個につき50ドル超過金を取られます。(これは航空会社にとって貴重な収入源です。)しかしそのポーターは、係員と暗黙の了解があるのか、荷物を計りもせずにさっさと荷物のコンベヤーベルトに載せ、自分で荷物のタッグを作って貼り付け、半券を束にして私たちに渡してくれ、アッと言う間にチェックインが終わりました。そこで私はそのポーターを傍らに呼びそっとお礼のチップを払いました。あまりにもあっけなく手続きが済んでしまい、周りを見回しても娘の姿が見えません。そこで、私たちは機内持ち込みのスーツケースをガラガラ引っ張って駐車場の方へ引返すと、娘が借りた館内用カートを持ってようやく現れました。渡りに船とそのカートに手荷物4個を載せ、私たちは旅客通関ゲートに向かいました。
そのゲートではいつものように大混雑状態でした。検問の入り口に立っている女性に、私たちは二人ともミニ・マックというコンピューター本体に加えて大きなモニター(それぞれ19インチと21インチ)を持っており、そのモニターも外に出す必要があるのかと聞くと、全部それぞれ別のトレイに載せなさいと言います。私はその他に小型ラップトップ・コンピューターも持っていたので、それらをポケットの中身全部と、上着、靴、ベルトと共に数個のトレイに載せました。これは結構大変な作業でしたが、入り口に立っていたその女性が見るに見かねたのか飛んで来て助けてくれました。身体透視検査の機械を通過後、今度は全開した荷物の中身をスーツケースにもどす際にも、その女性はわざわざ私たちの持ち込んだカートを持って来てくれ、それに荷物をつめ込む便宜を図ってくれました。
超スピードでチェックインと検問通関を終えた私たちは、出発前の構内のレストランでほっとしていると電話が入りました。お見送りを固くお断りしていた一人の方がチェックイン・カウンターに来られ、私たちがいないので今どこにいるのかと言われます。事情をお話してお帰りいただきましたが、私たちが親しくしているその方は、私たちの荷物が多いのを知っていて心配して来られたのだと思います。本当に感謝でした。
搭乗時間となり、飛行機のドアの前まで使用したカートから荷物を下ろした後が又大変でした。機内の後方の席まで抱えながらやっとの思いで持ち込んだ荷物を荷物棚に上げようとしても非力な私たちでは上がりません。親切なスチュワーデスと周りの乗客に助けられやっと席に座ることができました。それに超満員で別々にしか席が取れなかった事態も、私の隣席の方が快く換わって下さり、家内と私は並んで座ることができました。
翌日ニューアークの飛行場に着き、長い回廊を通って荷物の引渡し場まで来ますと、そこには私たちの息子が既に荷物を全部カートに積み上げてニコニして待っていてくれました。これは大変うれしく思いました。前回娘と三人で来たときには、今回より二個少ない四個の段ボール箱を運んで来ましたが、それでも荷物が出てくる荷台から荷物を下ろしカートを探しに行ってそれに積み込み、飛行場を出た外で息子の来るのを長く待ちましたので、今回はその経験を生かして娘が前もって息子に連絡していたようです。
こうして駐車場に駐車してあった車に息子が難なく荷物を積み込み、折からのラッシュ時の街中を楽しい会話をしながらニューヨークの目的地に無事たどり着きました。
私たちは同じ旅行のプロセスを二度したのですが、最初は娘を入れて三人で、しかも荷物も少なかったにもかかわらず、状況的には大変な思いをしました。それに比べ二度目は実にスムースに行きました。しかもその違いは、単に労苦が少なかったというだけではなく、人に助けられた一つ一つの問題解決がとてもわくわく楽しく、助けてくれた人たちとの触れ合いに喜びすら感じたことです。そこにはすべてを支配される愛の創造主の神の「人となり」を感じることができたように思います。
その意味で、自分たちだけでやるのと神の介入があるのとの差がどれだけ大きいか――神が介入されると人間関係と雰囲気が一変することを今回はっきり見たのです。これこそ「王国の人間関係による生き方」であると感じました。
さてニューヨークの新居に移って3週間経ちましたが、神のご臨在と祝福は続いております。ほとんど何もないところから、曲がりなりにも現代風の住まいにするにはこれだけ多くの家財道具が必要なのかと今更ながら驚かされました。細かいものは不足しておりますが、息子夫婦の協力を通して豊かに神から与えられたものに囲まれ、こんなに早く快適な暮らしができるようになったことに驚き、且心から感謝しております。
この物質的に必要なものを揃えてゆくプロセスにおいても、神は、孫も含めた私たちの家族の楽しい人間関係そのものを造り上げて下さっていることをひしひしと感じます。それが神のなさることであることに感嘆し、同時に皆様のお祈りと私たちに対する親しい愛の思いをいただいていることに心から感謝申し上げます。(終わり)
10 08月
消えない光
ロバート・リカーデリ
多くのキリストに従う者にとって、 常に問題となるのはクリスチャン生活が二つの顔をもってしまうことです。そのような人たちは自分の生活を区分化して、 すべての瞬間、すべての呼吸、人生のすべての場に神の光が射しこむことを逸してしまっています。
光に関する聖書箇所をいくつかここに挙げてみます。
マタイ5:14「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」
箴言4:18「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」
ヨハネ8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
「ミニストリー」の定義:クリスチャン、又はクリスチャン・グループによる霊的働き又は奉仕
私たちが心から信奉できる最高の啓示の一つは、「私たちが人生で行うことはすべてミニストリーである」ということです。なぜならば 神の光は私たちの内にあり、私たちを通して輝くのであって、それは決して暗くなったりしないからです。すべての仕事、任務、家族、娯楽、そして何であっても聖霊が私たちを導くところは私たちの「ミニストリー」です。
コロサイ3:23−24「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」
あなたが受け取るのは主からの報酬であることを忘れないでください。主はあなたが受け取るべきものを必ずくださいます。あなたは主イエス・キリストのために働いているのです。私たちがすることはすべて王なる主と御国のために仕えることです。
あなたが何をしていても、すべて主のためにしているのであり、主と主の御国に仕えているのです。すべてのクリスチャンが「自分が行くところすべてに主の臨在を私は持ち運んでいるのだ」という啓示をしっかりと握りしめるならば、それはまず彼らを変革し、そして周りの多くの人を変革することでしょう。彼らは主の性質、主の愛、主の目的の中に歩むことを願い、 この地に神の御国を今日確立していくでしょう。
私が神を以前よりもっと深く 愛するようになったとき、次のステップとして当然私がとるベき道は四方を壁に囲まれた組織的なミニストリーの中でフルタイムの聖職者になることだと私は考えました。そう考えたのは「それが一番神を愛することである」という間違った思いからきたものでした。けれども聖職者としての働きの型に自分をはめようとすればするほど、私はそわそわと落ちつかなくなっていきました。とうとう主は私の頭をゴツンと叩いて「行く方向が間違っているよ。」と言わねばなりませんでした。私はやっと神は私のために違うご計画を持っておられるということが分かったのです。
そして私は、「私は主の中にいる。主は私の中におられる。主に従って私がするすべてのことは、法王や牧師、預言者、その他宗教が 与える様々なタイトルを持つ者と同じように霊的なことである。」ということをやっと理解しました。御父は私に「あなたがわたしの声を常に聞き、わたしのことばに従うならば、わたしとともにあるあなたの人生のすべてにおいて 、わたしはつねにあなたを喜ぶでしょう。」
主が私たちを主の似姿に変えていってくださるとき、人生のすべての面において主が私たちを通して働いておられるのを、この世は見始めるのです。私たちは自分の家族、ビジネス、自分が住む地域社会の中で、主の聖なる管理人となるのです。 主が与えてくださっているすべてのものの管理人となることが、各自のフルタイムのミニストリーとなります。なぜならば私たちは常に主の代理人だからです。私たちは何をするにしてもフルタイムのミニスターとして召されているのです。バスの運転手はキリストの光であり、説教壇から主の光を輝かせるものと全く変らない主のミニスターです。お母さんたち、あなたは外で働いたことがなくても家族や地域社会のミニスターです。私たちのすることはすべての主の栄光のためです。
私たちが行うすべてのことは御父を礼拝する行為となります。イエスの御名において、私たちは誠実で信頼できる者となり、周りの世界に塩と光をもたらすのです。聖職者としてのミニストリーではマーケットプレイス(実社会)にいる人たちには適応するのが難しくいろんな面で接触できなかったり、理解できなかったりするかもしれません。しかしマーケットプレイスにいる者が神の愛と力で歩むならば、主の目的のための革新的な道具となることができます。
第二コリント4:6−7「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
どこにでも神の臨在を持ち運ぶ
私たちが人生のすべての状況の中に神の栄光を持ち運ぶことができることを知るのは何という特権であり喜びでしょうか。主の臨在がそこにあるだけで、人々は解放されます。神の臨在によって簡単な会話やちょっとした関わりを通して人々が革新されるのを私は見てきました。
人々は「これは誰にも言ったことはないのですが、あなたにはどこか違うところがあります。私はあなたを信頼できるのです。」とよくいうようになるでしょう。私たちはその違いが何なのか、又何でないのかを知っていますね。勿論それは神を除外した私やあなたのことではありません。それは私たちの内におられる神であり、私たちを通して神の臨在が盲人を癒し、迷った人が神に戻る道を遂に見つけることができるようにしているのです。
自分が毎日絶えず主のミニストリーを活性化していうのだということを理解すると、私たちは常に、出会うすべての人のための 「恵みと憐れみを伝える生きた書簡」であらねばなりません。これは必ずしも彼らに説教をするという意味ではありません。 主の御声を聞く用意がいつも出来ていて、主が伝えるようにと言われることを伝えるのです。主の臨在の故に私たちの人生そのものが言葉以上に雄弁に語ることができます。自分の霊的な衣装をまとおうとすると、その行為は実を結びません。主は私たちに聖書の何章何節とかではなく、ただ一つの言葉を伝えるように言われるかもしれません。また、人々に愛や理解や励ましを与えることを望まれるかもしれません。私たちは聞く耳をもたねばなりません。その能力は御父とその御ことばであるイエスと共に時をすごし親密になることでしか得ることはできません。この親密さにより、 よい適切な機会に主からその人のための言葉を受け取る敏感さを私たちは得ることができるのです。
私たちは神の光を閉ざすことはできません。それは常に私たちの内に、私たちの上に、又私たちを通して輝いています。 神を毎日経験し、いのちの流れの中で生きていくためには、うわべだけの宗教になってしまう傾向を抹殺していかねばなりません。神の御国をパワフルに来らすために超自然的な愛で私たちは愛さねばならないのです。
祈り:父よ。私たちが生活の場で人々に仕え、あなたの栄光を世界に分け与えることが出来るように知恵と啓示をお与え下さい。
イエスの御名によって祈ります。アーメン(終り)
Robert Ricciardelli
Converging Zone Network & Visionary Advancement Strategies
Email: Agaperoad@gmail.com
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