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Walk With God Ministries

07 10月

七つの聖書的賛美     ラミー・ウェレム         2012年10月7日


七つの聖書的賛美

ラミー・ウェレム

(2010年モーニングスター・ワーシップ・カンファレンスより)

 

主を賛美することは聖書の中で私たちに命令されていることです。「賛美してもいいし、しなくてもよい」という選択肢があるとか、「賛美したらどうですか」という提案ではありません。何度も「主を賛美せよ、主を賛美せよ」と命令されているのです。更に聖書の中で「praise(賛美する)」と英語に訳されている言葉をヘブル語で見てみると、主に7つの単語が使われているのです。

 

霊において又知性において賛美する時、この賛美と訳されている7つの言葉の意味を知ることにより、私の賛美は全く別のレベルへと高められ引き上げられました。7つのヘブル語はそれぞれ違う意味を持っています。そして7つとも身体の動作、動きを伴う意味があるのです。身体を巻き込む賛美ということですね。神がこのように身体を使って賛美せよと命じられたのは、私たちの霊、魂、身体が一致して一つの「からだ」として主に賛美を捧げる時、主の臨在が堰を切って流れてこむ扉を大きく開けることになるのです。

 

主はイスラエルの賛美の中に住まわれます。私たちが御ことばに心から従って主が命じられているように賛美するならば、主の臨在をとどめるものは何もなく、そのレベルは限りなく高められるのです。その臨在はあなたのおかれている状況、家庭、健康、経済、過去、未来の中に流れていきます。

 

それでは今から神の御ことばに従った賛美をご一緒にしてみたいと思います。

自分がしたいように賛美するのもよいことですが、主が私たちに望んでおられるように賛美するとき、それは本当にすばらしいものとなるのです。

 

1.バラク

この言葉は神に敬礼をし、又ひれ伏して、主が最高の司令官であることを表し、主にふさわしい場所、王座について頂くことです。みんなの前で挙手をして敬礼するのはちょっと奇妙な感じかもしれません。でも目をつぶれば不思議なことに誰もあなたを見ることはできませんからね。(笑)

「主よ、今私たちは御ことばに従順に従い、あなたの御前に出てあなたに敬礼いたします。姿勢を正して敬礼し、あなたを人生の主人、指揮官として拝します。あなたは天にあるもの、地にあるものすべての上にある最高の権威を持つお方です。私たちの過去、未来、すべての状況、あらゆる場面においてあなたを最高の権威者として認め宣言します。私たちはあなたに降伏し服従します。主よ、あなたの命令は何でしょうか? どうかお語りください。私たちは従います。私たちはあなたのもの、あなたのしもべです。すべての権威をあなたに捧げます。あなたの他に神はありません。あなたのお考え以上のものはありません。私たちの人生の最終決定権はあなたが持っておられます。それに疑いを持ちません。主イエスよ、あなたを信頼いたします。」

 

皆さん、主の権威の重さを感じられますか?

 

「(ひれ伏して)主よ、今あなたの前にひれ伏します。王でありすべての創られたものの支配者であるあなたの御座の前に出ます。あなたの権威の下に私たちをささげます。あなたの御国に服従します。御国の市民としてあなたの御前に私たちは出ています。私たちの王、すばらしい主、指導者であるあなたに服従します。御国の守り、保険、健康、資源に服従します。私たちはあなたの御前にひれ伏し、私たちの人生の王座、心の王座にあなたをお迎えします。どうか今そこにお座りください。私たちはあなたを『バラク』します。」

 

2.次の言葉はヤダです。これは手を挙げて主を賛美し、主がしてくださったこと、主のすばらしさを称えるのです。さあ、手を挙げ声をあげてて私たちの人生に主がして下さったことを感謝し、賛美しましょう。

「イエス様、あなたを称えます。あなたの憐れみを感謝します。あなたが約束を守る方であることを感謝します。私たちを救い出してくださったことを感謝します。ここにいるすべての人がもっている御業のあかしを感謝します。暗闇から光へと導いてくださったことを感謝します。いやしを、あなたの約束を感謝します。主イエスの血潮を誉め称えます。父よ、あなたの一人子を送ってくださったことを感謝します。聖霊を送ってくださったことを感謝します。」

 

3.次はトダです。これは手を挙げて、主がこれからしてくださることを誉めた称え感謝することです。将来のことですが、すでにそれが成されたと信じる信仰をもってそれを 主に感謝するのです。賛美をしてあなたのその信仰を宣言するのです。ですからこれは預言的賛美です。賛美で信仰を告白するのです。すでにその御業が成されたものとして主に感謝し賛美してください。

「主よ、家族の救いを感謝します。身体の癒しを感謝します。あなたは私たちの前を行かれ道を備えてくださいます。あなたの約束はすべて成就されますから感謝します。成就されない約束は一つもありません。成就されない預言は一つもありません。あなたは御ことばを守られる神であられ、偽りを言われず、約束を果たしてくださる方です。あなたの御ことばは地に落ちることはありません。」

 

4.4番目はシャバクでこれは主を賛美し叫ぶということです。

力ある主に向かい叫びましょう。

「神の約束と私たちのあいだにある壁はもはや崩れ去ります!私たちが神の目的にむかって歩むときに、それを阻むものはありません!主よ、私たちはあなたを賛美します!」(全員が大きく叫ぶ)

私たちは霊的領域にむかって叫ぶのです。

 

5.5番目はハラオで、これは賛美の中で最もパワフルなものであり、ダビデが契約の箱の前で力の限り踊った賛美です。ダビデは置いてある主の箱の前で踊ったのではありません。ダビデが踊るその後ろから契約の箱、即ち主の臨在がついてきたのです。ハラオという意味は「あたかも気違いのように振る舞う、愚かもののように行動する、輝く(あなたの中の光を輝き出す) 」という意味です。主がそのように賛美せよと命じられたのですよ。私たちのように激しく賛美をする者にとってはうれしい命令ですね。(笑)大事なことですが、ダビデの妻であるミカルはそれを見て軽蔑しましたね。その時から彼女は不妊になってしまいました。ですから今からみんなでハラオする時に、周りの人がどのような表現で賛美をしていてもそれを軽蔑しないでください。これはとても重要です。

霊的不妊とはなんでしょうか。それは自分の中の命の流れを断ち切ってしまうものです。又、自分の中から湧き出てくるものをさげすんだり、止めたりしないでください。ダビデは主の前で裸で踊りました。当時征服された国の王は行進の先頭で裸で踊らされたのです。即ち、ダビデは「私のあとに来る方に私は降伏しました。私はその方に捕われました。私はその方の奴隷です。」と宣言しながら踊り賛美したのです。さあ、格好をつけないで、思う存分に身体を動かして主を賛美しましょう。(全員激しく身体を動かし主にむかって賛美の声をあげる)

 

6.6番目はゼマーです。これは楽器を弾きながらそれにあわせて歌い賛美するということです。今晩も沢山これをしましたね。

 

7.最後はテヒラです。これはスポンテニアス(即興的な)な主への歌であり、霊が吹き込まれるものです。私たちが霊で主にむかって歌うとき、聖霊が私たちのその歌に来てくださり、一緒に歌い始められます。私たちの歌が聖霊の歌となり、聖霊の歌が私たちの歌となるのです。ダビデはいつもこのような賛美をしていました。彼は自分の心にある思いをいつも歌っていましたね。彼の歌を見てみると、いつも不平を言っています。それは彼の心にあることを歌っているからです。あなたが主に今思っていることをそのまま差し出してもいいのです。ダビデは「主よ、すべての者が私を憎んでいます。敵は私を殺そうと企んでいます。」と始めます。しかし、そのあとセラ(休み)が来て、調子が変わります。「しかし主よ、あなたは私のつよき砦、私の歌、私のいのちの力、あなたの恵みはすばらしい...」というような言葉となります。ダビデが自分の思いを主に歌うとき、主がそこに来てくださり、真理を彼の中から引き出してくださるのです。

 

詩編22に「神はイスラエルの賛美を住まいとされている」という言葉がありますが、ここで使われている言葉はテヒラです。即ち、このテヒラの賛美の中に主が住まわれるのです。主が来られ、主はその賛美の中に座し、私たちと交わられるのです。それでは主にむかってテヒラしましょう。感謝、祈り、不平、御ことば、異言、なんでもいいですから、みなさんの心にあることを主にむかってスポンテニアスに歌ってください。(全員がテヒラをするのが続く) (終り)

(この様子はhttp://www.morningstartv.com/featured-video-week/biblical-worshipで見ることができます。)

 


01 10月

危機(クライシス)の目的 グラハム・クック Oct. 1, 2012


危機(クライシス)の目的

グラハム・クック(Reclaiming Your Inner Territoryの講演より抜粋)

 

私たちは危機的状況におかれたとき、神のもとにいくのです。そこから「神とともに歩む」ことを学ぶプロセスが始ります。即ち、「神はどのように考えられるのか、どのように語られるのか、どのように事をなされるのか」を学び始めるのです。イザヤ55:8に「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」とあります。私たちは神がどのように考え、どのように事をなされるかを知るまでは危機的状況から抜け出ることはできません。

 

神は私たちを余りにも愛しておられるので、私たちを何の成長もなく現状のままにしておくことはされません。それ故に神は私たちに危機を与え、私たちに次の段階の霊的領域を与えられるのです。あなたが信仰の道を歩み続けるためには必ず危機を通らねばなりません。信仰の歩みとは私たちにチャレンジを与え成長させるものです。私たちの信仰は単に私たちの必要を満たすためのものではなく、周りの人を助けることができる信仰を持つようになることを神は望んでおられます。

 

ですから神は私たちをいろいろと異なる方法でチャレンジを与え成長させるのです。第一サムエル記1章で、ハンナは危機的状況にありました。彼女には子供が出来ませんでした。同じ家に住む彼女のライバルは子供を産み、ハンナを苦しめました。ハンナは預言的な祈りを神にささげました。子供を授けてくださったならばその子を主に捧げると約束したのです。そしてやがてハンナは妊りました。

 

危機は私たちの内に霊を確立させます。私たちは危機に立たされた時、主により頼むようになり、その中で神は新たな霊の場所を作られます。それは私たちがそのプロセスの中で主の臨在ともっと親密になることです。主は私たちが弱さの中にある時私たちを呼んでくださります。もしあなたが弱さをおぼえたならば、喜んでください。あなたの仲間が沢山いますから。(笑)神は私たち弱い者を召してくださり、私たちには絶対出来ないことをするようにと言われるのです。理屈に合わないこと、とんでもないこと、神が助けてくださらねば絶対不可能なことをするようにと召されているのです。

 

ですから、神があなたを新しい領域へと召してくださる時には、必ず危機が含まれます。なぜならば危機は私たちに「自分は弱い」ことを明確に教えてくれるからです。あなたは自信がなく、不確かであるべきです。あなたは神からの課題をこなすには不十分であるべきなのです。

 

しかし、そのまま不確かで不十分でとどまっていてはいけません。もしそうならばあなたは何もしないでいるしょう。その場所で「自分は何もできない」とぶつぶついうだけでしょう。しかし聖霊が来られ、あなたを不確か、不安な者(insecure)から、か弱い者、影響を受けやすい者(vulnerable)へと変えてくださるのです。両者はあまり差がないように思うかもしれませんが、実のところこの差はとても大きいのです。

 

「不安  insecurity」の中では、あなたは固まってしまってあなたを成長させる機会となるチャレンジを受けることができません。しかしあなたが「か弱く影響を受けやすい者 vulnerable」になることを学ぶならば、「私にはできません。でもあなたはお出来になります。」と告白することが出来ます。これこそすばらしいスタンスであり、安全なところです。神にむかって完全にか弱い者になり、私に力があるからこの召しを受けたのではないことを感謝できるのです。神は私が弱いからこそ選んでくださったのです。「神よ、あなたが何かをしようとされていることを信じます。」と告白して下さい。

 

私は神がどのように人選をされるのか不思議に思うことがあります。例えば、異邦人に初めて福音を伝えるのを誰にするか、どのように決められたのでしょうか。どうしてペテロが選ばれたのでしょうか? 神が天使たちに「異邦人に福音を伝えるのは誰がいいだろう?」と訊かれたとします。そして「弟子たちを舟に乗せ、イエスに水の上を歩かせて、最初に舟から足を出した者にこの仕事を与えよう」と言われたかもしれないのです。(笑)私には分かりませんが、これがもし本当であったとしても私は驚きませんね。(笑)

 

神は危機を与えられ、そこからプロセスへと私たちを導かれます。危機はあなたが魂(soul)ではやっていけないように圧倒してしまうためのものなのです。それによって魂が自分が握っていた権限をあなたの霊の人(spiritual man)に明け渡します。その時私たちの内に次のことが起ります。

 

私たちの魂(soul)と霊(spirit)が戦いはじめます。私たちの魂も確かに神を愛しているのですが、あくまでの自分のやり方で愛するのであり、魂は常に実権を握っていたいのです。救われる前、あなたはずっと魂で生きていました。私たちはみんな魂的soulishだったのです。あなたは神を求めて霊的なことを探求をし始めました。しかしすべてのことを自分中心で自分の方法でしていたのです。そして聖霊によって新生した時、私たちの中で死んでいた私たちの霊が突然生き始めました。そして私たちの霊と魂は、どちらが主権を握るかを競い始めます。そしてついには外なる魂の人ではなく、内なる霊の人として生きることを学ぶのです。

 

神は私たちを危機に突き落とされます。それはそれによって私たちの魂が霊の人に支配を明け渡すからです。私たちは内なる人に退くことを学びます。イエスは「その人の心の奥底から(innermost being)から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。神があなたを全く新しい霊的次元、霊的領域に追いやるとき、神はあなたを危機に突き落とすのです。あなたの魂が圧倒されて降参するからです。魂が「私には出来ない」と言う時、内なる霊の人が立ち上がります。そして神が私たちのために物事を開き始めて下さるのです。

 

人生は常に「あなたの人生を支配しているのはあなたの魂か、それともあなたの霊か?」という点にかかっています。私たちは魂からでも何かとても良いように見えるものを生み出すことが出来ます。でもそれには何の力もないことが多いのです。スタミナがありません。魂は直ぐにやめてしまいます。魂は支配したいのですが、責任はとりたくないからです。魂も神を見出すことはできます。しかし霊の人は神と常につながっています。それによってあなたの心の奥底から生ける水の川が流れるのです。あなたの魂が渇いてしまうその時、霊の人はどのように水を飲めばいいのかを知っているのです。

 

もし私たちが魂にだけとどまっているならば、それは「肉(flesh)」を起き上がらせてしまうことになります。肉とは、魂が単独で行動することです。その時私たちは周りのあらゆるものから影響を受けてしまいます。霊の人は外からの影響は何も受けず、神からの影響を内に受けるだけなのです。何かが起こったとき、あなたの前には「反射的に行動するか(react)」、それとも「応答するか(response)」の二つの道があります。人生の中では色々な事が起こりますが、その時、あなたはreactすることもできます。即ち、「悪いことをされたら 仕返しをする、パニックになる、怒る、恐れる、苦々しく思う」というような反応です。それは魂が自分だけで立ち上がり自分で自分を防御しようとするからです。しかしあなたは別の道として「神がその時されていることに対してresponseすること」もできるのです。霊の人はresponse する道しか知らないのです。魂はreactすることしか知りません。その人が人生の出来事にどのように対処するかを見れば、その人がどこにいるのかがよく分かります。

 

「その人を落ち込ませたり、いらいらさせるためにサタンがどれほど努力をせねばならないか」によって人の成熟度を計ることができます。もしあなたが容易にいらいらしたり怒ったりするならば、あなたの中には誰が住んでいるか考えてみてください。あなたは成長する必要があるのです。魂から生きるのをやめねばなりません。魂からではなく霊から生きることを決断する時です。神に応答してあなたが霊に中に退き、あなたを攻撃してくる霊と全く反対の霊にならねばなりません。例えば「怒り」があなたにむかって襲ってきたならば、「平安」があなたから流れ出ます。あなたは敵と反対の霊で動くのです。「何が起こっているか」にとらわれるのではなく、「神は今なにをしておられるのか」にとらえられなけねばなりません。そうしてあなたは神の高きやぐらへと退くのです。そこは安全で平安です。「神というお方」の中へと退いて、そこで待つのです。周りの状況にreactしないで神にresponseするのです。

 

そのようにあなたの霊が神の中に退いて最初にすることは、神を礼拝し始めることです。神に感謝し始めることです。なぜならば今あなたにすばらしい機会が訪れたからです。それが何であるかを悟るためには、あなたはまず平安の中に入らねばなりません。あなたが出かけて行って物事にチャレンジするのではなく、神の臨在の中にとどまり、ただその中にいるのです。いつでも神に届く場所から私たちは戦うのです。神の憐れみ、慈しみ、恵みの中で生き、そこから生ける水の川が流れ出るからです。

 

霊の人は何が起ころうともキリストの内に確立されているのです。危機の中で私たちがどれだけ神の内にとどまることができるかというキャパシティーを、神は見ておられます。危機は「あなたが何者であるか、どのような者であるか、これからのシーズンにどれだけ神のために働くことができるか」を計る大きなテストです。危機によって私たちは神にしか助けられない所へと連れていかれるのです。危機の目的、ポイントはまさにそれです。私たちが弱くなり神に全くより頼むという所へと私たちを再び引き戻してくれるからです。

 

あなたが霊から生きることを学んだならば、危機はやがて減少していきます。あなたが魂から生きて物事を自分でしていた時、あなたは自分ですべてを支配していました。しかし、霊の人はすべてを神にささげ、神に仕えるだけで幸せなのです。魂は「御父よ、今の状況を感謝します。この厳しい状況を克服できるようにあなたが私に力を与えてください。それによって私が何々と何々と何々が出来るようにしてください。」と祈ります。よい祈りのように聞こえますね? しかし霊の人は全く違う祈りをします。「御父よ、今の状況を感謝します。あなたが来てくださらなければ、私はこの中で何の力もありません。どうか私のところに来て私の力となってくださるようにお願いします。それによってこの困難な中であなたが私を通して働かれますように。」と霊の人は祈ります。

 

魂は「自分で働くことができるように力をください」と祈るのです。でもこれは正しい祈りではありません。神があなたを危機に突き落としたのは、あなたに何かをして欲しいからではなく、神があなたのために何かをしたいからなのです。魂は自分が力を受けて自分で何かを成し遂げたいのです。霊の人は「私は何もできません。私の内に来て私の中であなたがされたいことをしてください。」と言うのです。自分で出来るための力を求めるのではないのです。神はずっと長い間あなたを弱くするために労してきたのですよ。だから今さらあなたに力を与えることはなさいませんよ。(笑) 神はあなたのところに来られて、あなたの源となりたいのです。あなたの中で生き働きたいのです。霊の人は神に実権を渡すのですが、魂は神が与えた仕事を自分の支配のもとでしたいのです。ここに大きな違いがありますね。

 

私たちがより良いものへと変えられるために危機を通され変革されるときには痛みを伴います。しかし、何も変らないで成長しない苦しみの方がはるかに大きいのです。(終り)


30 09月

天の故郷を夢みたアブラハムの信仰        坂 達也       2012年9月30日


天の故郷を夢みたアブラハムの信仰

坂 達也

アブラハムは、神からカナンの地を与えると約束されました。しかし、実際にカナンで住んだのは他人から借りた土地で、そこで仮のテント生活をし続けました。アブラハムが自分で所有した土地と言えば、サラが127歳で死んだ時に彼女を葬るためにヘテ人から買った洞穴とその回りの僅かな畑だけでした。こうして彼は生涯を寄留者の旅人として過ごしました。

 

彼は他の信仰者と同じように「信仰の人として死に、約束のものを手に入れることはありませんでした。はるかにそれを幻で見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。彼は自分の故郷のことを思っていましたが、その故郷はこの世ではなく、よりすぐれた天の故郷にあこがれていたのです。それ故、神は彼らの神と呼ばれることを恥とせず、事実、神は彼ら(真の信仰者たち)のために天に都を用意しておられました。」とヘブル書11:13-16に書かれています。

 

彼らはこの世を享楽する人生を追い求めたのではなく、神と共に暮らす天での「永遠の命」を夢見ていたのです。これはキリストを信じる者の特権です。私たちがどの時代に生きようと、この「よりすぐれた天の故郷に常にあこがれれていること」が真の信仰者が持たねばならない「信仰の重要な要素」であると思います。

 

しかしそれだからといって、人がこの地上においてみじめな人生を送らねばならないのではありません。それが証拠に、神は彼とその家族を大いに祝福したので「アブラハムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」と書かれております。(創世記13:2)

又、晩年信仰を極めたアブラハムについて次のようにも書かれています。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」(24:1)

アブラハムはイサクを与えられてから後に、何と75年も生きながらえました。最後は全財産をイサクに与え、長寿を全うして175歳で死にました。アブラハムはこの世で神から最も祝福を受けた人間の一人です。

 

そこで考えてみたいと思います。先に述べたアブラハムが「よりすぐれた天の故郷に常にあこがれれていたこと」と、神が彼の地上での生涯を豊かに祝福で満たしたこととはどう言う関係にあるのでしょうか。

 

先ず第一に、彼が「よりすぐれた天の故郷に常にあこがれれていた」と言う事は、アブラハムが人間の生きる最終目標(デスティニー)をしっかりつかんでいたことを物語っています。そして、それが彼の信仰を支えたと思います。その目標を楽しみにして生きていたからこそ、彼は現実の人生で、神のことばが実現するまでに長い年数がかかったにもかかわらず、それに耐えるだけの信仰を持ち続けることが出来たのではないでしょうか。

勿論そのように導いたのは神であり、あくまで神のめぐみによってアブラハムは神を信じ続けられたのであると思います。

私はここでアブラハムのような信仰を持てば、この世で必ず物質面で祝福されると言っているのではありません。しかし、愛とめぐみ豊かな神は、アブラハムのような信仰を持つ者をこの世で「天からの祝福」で祝福しないような神ではないと申し上げたいのです。

 

私はそのアブラハムから学んで、不可能はない創造者と共に、今から最高の可能性を追う人生を生きたいと願う者のひとりです。イエス・キリストがそれを可能にして下さると心から信じます。(終り)


21 09月

王のうちにとどまることが王国の権威を生み出す リック・ジョイナー    2012年9月21日


王のうちにとどまることが王国の権威を生み出す

リック・ジョイナー

 

神の国は、地球とすべての自然法則を超えて支配する権威を持っています。イエスが行なった奇跡がそれを物語っており、イエスは地球上のいかなる自然条件をもどのようにでも支配できる神の国の権威を行使されました。私たちがその王国のうちにとどまればabideとどまるほど、―すなわち、それは王イエスに従い、王のうちにとどまるabide in the Kingことを意味しますが―その度合いに応じて私たちも地上のどのような状況にも打ち勝つ王国の権威を行使して歩むことができます。この終末の時代が終りに近づくに従って、この王国の権威で「生きることが出来るcan」が「権威を行使して生きねばならないmust」に変わって行くでしょう。

 

主はヨハネ14:12で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。イエスは彼の地上の生涯を通じて(私たちのために)その模範をデモンストレーションされ、私たちが同じ歩みをするように召しておられます。これは大変な召しですが、それを私たちが実行するには、この地上のいかなる法則をも超える力とその権威を持つイエスのうちにとどまるabide必要があります。従って私たちのゴールは力とか権威(そのもの)にあるのではなく、それらをすべて持つお方、その人にあります。そうであるように、いずれこの世の終りには「主のからだ」である私たちが、王である主の力と権威を行使実行することによって、来たるべき王国の道を準備するようになるのです。

 

今年の夏、私は今まで主からいただいた「夢」の中で最もパワフルな夢を見せていただきました。その夢の中で、私はすべての自然法則を支配する権威を与えられました。重力の法則に私が従わねばならないのではなく、その法則が私に従わねばならないのでした。それは、私が神の御座の前に出る夢とか、主を仰ぎ見る夢は別にして、今までにいただいたもう一つのパワフルな夢に匹敵します。20年近く前に見たその夢も先程の御ことば「・・・わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」に関連する夢でした。ヨセフがエジプトのパロに語ったように(創世記41:32)同じ夢を二度見ることはその夢が必ず確立・実現することを意味します。

 

最初の夢を見た後に、私は一度だけその夢(で見たようなこと)を私自身が経験することができました。それは私にとって、この主の御ことば(ヨハネ14:12)が私たちへの真の「神の約束」であることを示す大変な励ましでした。そして、この夏の夢を見た後に、私はそのようなことが起こる時がいよいよ間近に迫っていることを確信したのでした。イエスが約束された、この地上での神の最も偉大な御業を私たちが経験する、すなわち、私たちが「・・・わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」がいよいよ実現するのです。

この世の終わる前に、マタ 21:21でイエスが言われる「・・・この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」を誰かが行ない、本当に山がその命令に従うのです。間も無くすべての病とか苦しみに対して王国の権威を行使して歩む(癒すことができる)日がやって来ます。

 

この王国の権威が実行される時は、王国のゴスペルが説かれる時とも一致します。そこにおいて一つの基本的な特徴(の顕れ)が起こらねばなりません。それは王国で働く人々がお互いにみな一致することです。それは王に従い王のうちに完全に一致してとどまるabide生き方をすることによってのみ起こります。

 

この世において真のクリスチャン生活を送ること以上の大きなアドベンチャーはありません。又人間の歴史上、これから終末に起こることに参加する以上のめざましい興奮の機会はありません。しかし、たとえどんな大きな奇跡が起こるときであっても、最も大きくて偉大な奇跡は、神の民が一致すること、そしてお互いが心から愛し合うことです。それに優る奇跡はありません。そしてどのような奇跡を見る以上に、私たちは神を愛することに専心しなければならないのです。そして神を愛することとは、その神への愛を他人を愛することで表現しデモンストレーションすることです。

 

地上に最初の二人の兄弟が生まれた時以来、人間はうまく折り合って生きることが出来ませんでした。その兄弟の一人が「この地上は二人が住むには狭ま過ぎる」と言ったのです。人々、氏族、国々はそれ以来お互いに闘争して来ました。教会が成熟して、その召された姿になる時、人々はクリスチャンの一致して生きる姿を見て驚くのです。それは主ご自身が父なる神に祈られた、

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:22-23)とある通りです。

 

私たちが、イザヤ書60:1-2「 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とか、その他の聖書箇所に見られるように、私たちの上に「主の栄光」が輝くことが可能なのです。それが起こったとき世の人々はイエスはまことに父が送られた人であり、神はご自身の御子を愛されるように私たちを愛しておられることが分るのです。

 

神の栄光を経験した人たちが特別な形で結び合わされるということは、それを経験したことのない人に説明しても理解することが難しいのです。多くのクリスチャン同士を互いに隔ててしまった「些細なこと」とか「許せないこと」を、この栄光は単純にぬぐい去ってくれます。それは覆われない顔で主の栄光を見つめることによって起こり、私たちは主のイメージ、主に似た者に変えられます。私たちの第一の召しはキリストに似た者になることです。そして第二の召しは、主がされた業を私たちもすることです。もし私たちが主に似た者になれば、私たちは愛の中を歩きます。私たちが愛の中を歩めば、主は私たちに主の持つ力を(安心して)委託されます。愛の中を歩む者たちは、神の最も大きな宝物となり、そうなる目的のために私たちが造られたように、愛のお方に似る者になって行くのです。(終り)

 

(Abiding In The King Produces Kingdom Authority – The Path of Life, Part 31-Week 38, 2012より)


10 09月

神の臨在を尊ぶ ー その2   ビル・ジョンソン          2012年9月10日


神の臨在を尊ぶ ー その2

ビル・ジョンソン

 

人を尊ぶ

 

私たちの教会で起こっていることをお話します。

第一ヨハネ4:20に「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これはナチュラルな肉の世界で実行出来ていないことを、目に見えない霊の世界で実行していると言うことはできないことを言っています。もし私たちが「神の臨在こそ一番尊く価値がある」と言うのであれば、私たちの個人的な生活、人間関係、団体生活において どのように人々を価値あるものとして取り扱うかが大変重要な問題となります。人に接するとき、私たちは「その人がキリストにあってどのような人か」を常に土台として接せねばなりません。

 

次の2つの理由から地上のすべての人を私たちは尊ぶべきです。

 

1.すべての人は神に似せて、神のかたちに創られている。

2.すべての人は神から賜物をいただいている。たとえ神を敬わない人であっても 美しい歌をつくることができるのは何故でしょうか。 以前私は彼らはサタンからタレントをもらっているのだと考えていましたが、そうではないのです。彼らも神に似せて創られているのであり、神が賜物を与えたのです。たとえ彼らが神を否定し、或いは冒涜したとしても、賜物は神からのものです。

 

イエスがナザレで奇跡を行えなかったのは、人々がイエスを預言者として尊ばなかったからです。彼らは神の霊がイエスに下っているのを認めることができませんでした。もし私があなたを人間的なレベルで尊ぶならば、それはよい真っ当なことです。あなたを尊ぶことを通して私は神を尊んでいるのです。

しかし聖霊があなたの上に臨んでおられる時、聖霊があなたの中で働いておられるのを見る時、又あなたの上に超自然的な神の恵みが臨んでいる時、もし私があなたを尊ばないならば、私は神を尊ぶチャンスを逃したことになります。

 

完璧主義(perfectionism)は「宗教」であり、優秀さ(excellence)は「御国」なのです。「宗教」の中では、私たちは人が完全であることを要求するのです。「人を尊ぶ生き方」では、ある人が「〜ではない、〜が完全にできない」ということに目を留めるのではなく、その人をその人としてあるがままに喜び祝うのです。

自分の子供のことを考えれば分かると思いますが、音楽の才能がある子に「お前は数学ができない」と言って叱る親はいないと思います。私たちは神が一人ひとりに下さっている賜物を喜ぶのです。

 

キリストのからだの中においても、神の霊が人の上にとどまって恵みを与えておられることを知り、そのようにお互いを取り扱うならば、多くの傷は癒されるでしょう。ある人は神の御声を聞くことができるけれど教会運営は下手だということがあります。その時は運営の賜物のある人が手伝えばいいのです。

 

教会がこの真理をつかめば大きな変革が起ります。主はまずご自分の家から変革されねばならないのです。そうすれば私たちは変革する力をもって社会に出ていくことができます。これによって私たちの住む街が変っていきます。政治、教育、ビジネルの分野ではこのことがすでに起こっています。

即ち社会の人々を喜び祝う(セレブレイトする)のです。勿論、人々がキリストのもとに来ることはどうでもよいということではありません。しかし、ビジネス界の人たちが大きなリスクをとりながら成功し社会に貢献しているのですから、その人は尊ばれるべきなのです。今まで教会はその人が救われて教会の会員にならなければ興味がないような態度をとってきました。

 

大きな犯罪を犯した人が私たちの教会で救われました。裁判官は彼が悔い改めて全く別人にようになったことを認め、本当ならば20年の刑に処せられてもおかしくないところを6ヶ月に減刑してくれました。私はその裁判官に感謝の手紙を書きました。又、古くなったアパートを建て替えて人々が住めるようにしたビジネスマンにも私は感謝の手紙を書きました。教会がこのような人々を尊ぶことは希有でした。先の裁判官も誰かから感謝の手紙をもらったことは初めてだったと言っていました。

 

私たちの街で「人々を尊ぶ」ことが始まり、例えばレストランでも私たちは励ましの言葉を語ります。よいサービスを受けたときにはウエイトレスや店主に賛辞を送り、チップも沢山します。時には食事代よりも多いチップをあげることもあります。そして私たちの街によいレストランを下さっている神に感謝します。私たちはいつも人々を喜び祝うチャンスを探しているのです。これによって人々の考え方が変革されてきています。

 

私の妻が買い物をしてレジに行ったとき、レジの人が妻のハンドバッグがすてきだと言いました。そこで妻はハンドバッグの中身を全部だして、バッグをその人にあげたのです。これは「気前がいい、generous」という以上にその人を尊ぶ、honor」ということなのですが、確かに 気前がよくなければ人を尊ぶことはできません。

 

祈り:主よ、すべての場所において人を尊ぶ姿勢を広める人となりますように。あらゆる状況の中でも主の恵みを持ち運ぶことができますように。天に住む者のように行動し生きることができる恵みをお与えください。あなたの臨在から生きる者として、人々を価値ある者として尊ぶことができますように。

主のレーマの言葉を語り、人々の心を主にひきつけることができますように。

クリスチャンに反目していた人々が作っていた壁も「人を尊ぶ生き方」が浸透していったとき、溶けてゆきました。そして街にいのちが吹き込まれました。「人を尊ぶ生き方」がどんどん伝染して広まりますように。

キリストのからだがそのマントル、油注ぎを受け取ることができますように。「 まず福音を語らねばならない」という宗教的プレッシャーをかけることなしに、人々を喜び祝うことが出来ますように。

教育、政治、ビジネスの分野にこの変革の力が解き放たれますように。(終リ)


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