10 03月
ボブ・ジョーンズ師に聞く
(聞き手: リック・ジョイナー師、ポール・キース・デイビス師)
以下はこの2月23日に、モーニングスターで行なわれた預言的パネル・デスカッションでジョーンズ師が最初に語ったメッセージをまとめてお伝えするものです。尚、この後1時間ほど三師によるデスカッションが続きますが今回は省略します。
ボブ・ジョーンズ師:モーニングスター・ミニストリーが到達すべき場所まで導かれると、次にはモーニングスター・ミニストリーは、神が用いようとしておられる多くの教会を到達すべき場所へと導き始めます。その「場所」とは何でしょうか。愛です。あなたがミニストリーをする時にあなたの中に必要なもの、それがあなたのところへ来るのです。それは愛です。多くの異なるグループの人が集まっている皆さん、それは丁度軍隊のようですが、その人たちである皆さんのひとり一人の意識と霊を愛が支配し始めると、次のようなことが起こり始めます。今までですと、ミニストリーが必要な人があなたの前に現れても、その人のところに行って祈ることにしりごみしていたもの―自分を必要以上に卑下することは最も悪いことです―が、もしあなたがその人に対して愛を持つなら、その人にミニストリー出来るようになるのです。それはあなたが「主の愛のからだ」になるからです。愛があなたの内に成熟する時にはあなたの良心はきれいでなければなりません。
次に愛によってなされる業は何ですか。信仰です。信仰が何をするのでしょうか。イエスは自分からは何もなされませんでした。彼自身は何のしるしや奇跡も行ないませんでした。彼は常にご自分のパパを呼び出す信仰を持っておられたのです。つまり、イエスは愛を持ち、信仰を持っておりました。その信仰で父の心の思い(父がなさりたいこと)が分かるのです。同じようにあなたが愛と信仰を持っていれば、誰かのために祈る時に、パパを呼んで、パパがその人に対して何をしようとしているのか、その思いを下さるのを待てばよいのです。パパはあなたのパートナーです。天のパパほどよいパートナーがいるでしょうか。あなたが地上でパパの声になる、これこそパパが地上のパートナーとしてのあなたに望んでいることです。あなたがパパのパートナーとして、地上でしるしと奇跡を起こすことが天の父に栄誉をもたらすのです。その意味ではあなたはイエスと同じ立場にいます。しかもイエスが持っておられたのと全く同じ特質をあなた自身も自分の内に持っているのです。
そのあなたの内にあるイエスと同じ特質があらわれるために、あなたはあなたの「古い人」を超越しなければなりません。しかし私は言います。これから非常に多くの人が古い自分を超えるのを私は見るでしょう。
あなたが誰かを愛している時、あなたは勇気を持ってその人のために祈るでしょう。そのような時に、誰も天の父があなたにどうすべきかを伝えることがあなたには分っていないとは思わないでしょう。
それで私は前回死んだ人を生き返らせた時のことを思い出しました。私は友人と一緒にあるレストランにいて鶏料理を楽しんでいました。すると突然、近くに坐っていたひとりのご婦人が床に崩れ落ちました。人々が集まり彼女を抱き上げましたが、彼女は息をしなくなっていると言うのが聞こえました。私はただ坐って見ていました。すると、私の中で声が聞こえて来ました。その声は「あなたはそこにただ坐っているだけで何もしないのですか?」そのような時に遭遇するほとんどの人が私と同じことをすると思います。そこで私は立ち上がってそのご婦人の席に近づき「私はミニスターです。」と言いました。その一声でそこに集まった人たちはさあっと私のために道を空けてくれました。そこには三人の娘さんが集まっており、倒れたお母さんの誕生日のお祝いをしていたと言いました。
そこで私の頭には何も思いが来ませんでしたので、主に聞きました。「私はどうしたらよいのか(頭に指を差して)ここでは分りません。でもあなたが私をここに連れて来られたに違いありません。そうでなければ私に語りかけることをなさらなかったでしょうから。そこで私はどうしたらよいのでしょうか?」と。そして(主は何もおっしゃらないので)私は異言で祈り始めました。周りの人は皆私のしていることに注目していました。私は、主は目的があって私をここに呼ばれたのだと考えながら祈り続けました。そして5分ぐらい祈ったと思ったのですが、実際は少なくとも25分は祈ったはずです。と言うのは、その町の反対側にある場所(教会?)から誰かが駆けつけて来て、急病人の世話を私から引き継いでくれたのですが、その場所からレストランまで来るのに少なくとも車で20分は掛かるからです。私はそこを立ち去る時に死んだご婦人の頬に血の気のバラ色が戻って来たのを見ました。彼女は生き返りました。後で分かったことは、彼女を救急車で病院に運んで、彼女の持病である心臓発作が起ったことが分りましたが、(精密検査の結果)彼女の心臓の問題はすっかり無くなっていることが判明しました。
そこで、私はその婦人に起こったことと何の関係があるのでしょうか。私はただ立ち上がってその人のところに行き祈っただけです。どう祈ればよいか理解して祈ったでしょうか。ノーです。私は霊で祈り、彼女は生き返ったのです。二週間後に私は彼女と会いその後の様子を聞きましたが、全く問題ありませんでした。レストランにいた人たちは彼女に何が起こったかを目撃しました。私たちは彼女を全く知りませんでした。私がしたことはただ祈っただけです。しかしそこに残った人たちは、自分たちの今までのやり方を変えねばならない。そのために新しい教会を起こそう、と話していたそうです。私が知っているのはそれだけです。
お分かりになられたと思いますが、私たちがしなければならないことは、必要を持つ人に対して私たちが先ず充分な愛を持つことであると思います。それは誰にでも言えることで、誰もがいつかはそのような機会にぶつかるはずです。あなたの充分な愛が主に伝わり、父の心の思いをあなたが聞くことが出来ます。私はそのようなミニストリーをする時が来たと信じます。既にそれが分かった他の教会もいると思いますが、このモーニングスターのグループがこのことを取り上げて開花する時が来ていると思います。なぜなら、最近夢で見たのですが、しるしや奇跡を起こすのは私ではなく、あなたがたであったからです。あなたがたが愛で充たされて行動する時に、それから信仰が出て父の心を聞きます。その時、父の心とあなたの心の間に合意が出来る、それによって過半数が成立します。私が言わんとしていることは、祈って、聖霊が父の心の思いをあなたに語って下さるのを待つ。それからその父の思いを実行する。――私は、それがこのモーニングスターで起り始めると思います。私は子どもが癒しのミニストリーで用いられるのを見て来ました。父の心を知って実行する限り、ベイビーでも父の心は分り、立派に癒しを行うことが出来ます。
私は思うのですが、私たちがしなければならないことは、イエスを愛することです。私たちが主イエスを愛すれば、父は子であるイエスを心から承認しているのですから、もし私たちが本当に主を愛していれば、父はあなたを心から承認して下さるはずです。そうであれば父は、あなたに必要な「知識のことば」とか必要なものを何でも与えて下さるのです。今はそれが起ろうとしています。私は、モーニングスターでこの三月のいつかからそのようなミニストリーが始まると予期しています。もう既に始めている教会/ミニストリーもあると思いますが、実際にこれが開始されたのは昨年の秋遅くからであったと思います。
私たちがその場所に到達して、今はそのようなミニストリーをすることのコミットメントをする時です。主はその時期が今年の初めに起ると言われました。ですから、あなたが今年成熟したいと思うことについて祈って下さい。又今年あなたがどんなことで用いられたいかを祈って下さい。その上で、あなたがそのあなたの願いを変えないことを主にコミットするのです。そして、あなたがコミットしたことに対してこれから一年間ずっと父を求め続けて下さい。
次に、あなたの一生で、あなたが父にしていただきたいことを祈って下さい。あなたが主によって生かされているあなたの人生の目的をあなたに示して下さるように祈って下さい。そして主からその答えを聞いたら、あなたはどんなことがあってもあなたのコミットしたことを守って下さい。あなたが守れば、主はあなたにコミットしたことを守られます。その主が守られるコミットメントはあなたに対してだけでなく、あなたの子どもたち、あなたの孫たち、曾孫たち、又その子どもたちに対してまでも守られます。
ですから、あなたが今ここでなさねばならないことは、信仰における「打ち破りbreak through」です。その打ち破りは、父があなたの人生を所有してどのように用いるかを示す啓示revelationとして示されます。あなたはそれを今年聞くことが出来ます。もしあなたが愛を持つなら、信仰が来て、その信仰によって、父があなたの人生に対して持つておられるご計画を啓示されます。それはあなただけではなく、あなたの子どもたち、その子どもの子どもたちの人生に対するご計画も明らかにされるのです。
これから、この地球にものすごい揺り動かしが来ます。しかしあなたの子どもたち、その子どもたち、又その子どもたちは生き永らえます。その揺り動かしを通り抜けるのです。と言うことは、あなたが今していることは、これから出て来る次の世代に(神の子どもとしての)模範と信望prestigeを残すことです。これからの試練の時代は、ほとんどの人が考える以上に長く続くと思います。しかしあなたの子孫は(守られて)それを通り抜けます。あなたが率先して通り抜けるのです。それはあなたがた(家族)だけでなく、他の人とも一緒に通り抜けるのです。
これが本日、主が私に話されたことです。人々に伝えて下さい。私たちが先ず、内に充分な愛を持つ。それが信仰を呼び、その信仰によって、父が私たちの人生を用いてご計画を進めるために必要な啓示を私たちに下さいます。(終り)
06 03月
宗教の霊に打ち勝つ ― その2
リック・ジョイナー
大いなる惑わし
宗教の霊の惑わしの性質の中の最たるものの一つは、それが人々の神への熱心さを土台にして働くということです。私たちは「神への熱心さが悪いことなどあり得ない」と考えがちです。しかし、「私たちの神への熱心さは何が理由か」ということが実は問題なのです。
パウロはローマ10:2で「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」と言っています。パリサイ人ほど熱心に祈り、断食し、神に関することに熱心であった人たちは世界中探しても他にはいませんでした。しかし、神に対して、またメシアなるイエスが来られた時に、彼らほど激しく攻撃した者もいなかったのです。
タルソの若者サウロが神の教会を迫害していた時、彼は神への熱心さに突き動かされていました。 本当に熱心な者を止めるのは難しいものです。そのような者に対する敵の策略は、彼らが熱心さのあまり行き過ぎるようにさせることです。敵の策略の第一ステップは、彼らが自分の熱心さを誇るようにしむけることです。私たちに与えられた賜物や特質がいかにすばらしいものであっても、敵にそそのかされてそれを誇るならば、私たちは敵の手に落ち賜物を悪用するようになるのです。
主が地上におられた時、 主にとって悪霊は全く問題ではありませんでした。悪霊がイエスに出会うとすぐさま主の権威を認め、憐れみを乞うたのです。驚くべきことに主の最大の敵となったのは、熱心で保守的な宗教家たちのグループでした。神の御ことばに最も熱心であった者たちが、御ことばなるお方が肉体となって彼らの間に住まわれた時、御ことばを十字架につけたのです。今もそれと同じことが起こっています。
すべてのカルトや偽りの宗教を全部合わせたとしても、今までに教会内に侵入した宗教の霊ほどには神の働きに対して攻撃をしたり阻んだりはしませんでした。カルトや偽りの宗教は容易に識別が出来ます。しかし宗教の霊は、 今までに起こった恐らくすべてのリバイバルやムーブメントを邪魔したりその道を曲げて来ました。そして今も殆どの教会の中で大きな顔をして居座っているのです。
宗教の霊が足がかりとする土台
他の多くの敵の要塞と同じように、宗教の霊は基本的に二つの土台の上にその働きを建て上げます。即ち「恐れ」と「プライド」という土台です。私たちがイエスの十字架を通して神に承認され受け入れられるという道ではなく、主に承認されるために自分が働くようにと宗教の霊はクリスチャンをしむけるのです。ですから宗教の霊は私たちと神との関係を、キリストの十字架による生け贄によるのではなく、自分の努力によって築かせようとします。このように私たちを駆り立てる動機は、恐れ又はプライド、あるいは両者が合わさったものです。
恐れとプライドは、人類が罪に堕ちたことよって起こった二つの根本的結果であり、それから解放されるためには通常長いプロセスを要します。主がイザベルにさえ「悔い改める時(黙示録2:20−21)」を与えたのはそれが理由です。聖書の中のイザベル(アハブ王の妻)は非常に宗教熱心な女性でしたが、それは偽りの宗教でした。 彼女が悔い改めるための時を主が与えたのは、この霊の根が非常に深いからであり、完全に悔い改め解放されるには時間がかかるからでした。
しかしながら、主はイザベルに時間を与えはしましたが、テアテラの教会に対して、彼女をなすがままにさせていることを(20節)叱責しておられます。私たちが宗教の霊を持つ人たちに対して忍耐することはよいのですが、彼らが悔い改めをするのを待つ間、 彼らが私たちの中で働くのを放っておいてはいけないのです! もし、この霊に対して早急に対処することを怠るならば、それは他のどんな攻撃よりも、教会に、私たちのミニストリーに、家族に、又私たちの人生にダメージを与える可能性があるのです。
罪責感という土台
サムエルを育てた祭司エリは、罪責感を土台とした宗教の霊で神に仕えた人のよい例です。彼の主に対する熱心さは非常に激しかったので、契約の箱がペリシテ人によって奪われたことを知らされた時、ショックで倒れ息絶えたのでした。彼は一生の間、大祭司として主に仕えようと努力した人でした。サムエルが初めて預言を与えられた時、その預言は聖書の中で最も恐ろしいものの一つであり、しかもそれはエリに対するものでした。(1サムエル3:13−14)エリの主への熱心さは、彼が父親として無責任であったことの代償として生け贄や捧げものをするという形であらわれていました。罪責感は主への熱心さに拍車をかける作用をし、生け贄や捧げものは自分の失敗や罪を贖うためのものとなります。イエスの十字架のみが私たちの罪を贖うことができるのですから、これは十字架に対する侮辱です。このような熱心さは、たとえ 生け贄を永遠に捧げ続けたとしても、決して主に受け入れられるものではありません。
主はここで「エリの罪は赦されることはない」とは決して言っておられないことに私たちは注目せねばなりません。主はただエリが生け贄や捧げものをすることによって自分の罪を贖おうとする試みは絶対に成功することはない、と言われたのです。エリと同じように、 自分の罪や失敗、無責任な行動等を償おうと
することを土台とした主への熱心さをもつ多くの人々がいます。しかしながら、世界中すべての生け贄をもってしても、ほんの小さな失敗さえも贖うことはできません。
自分の生け贄によって神に受け入れられようとする試みは、宗教の霊にむかって大きく扉を開くことになります。なぜならばこのような奉仕はイエスの血潮を土台としておらず、自分で罪の贖いをしようとするからです。もちろんこれは私たちが主を喜ばせるために働いてはいけないという意味ではありません。しかし、主を喜ばせたいという私たちの動機は、それによって自分が受け入れられるためであってはならないのです。主が喜んでくださることだけを目的とすべきです。一方は神を中心とした動機であり、他方は自分を中心としています。これは十字架を回避しようとするものであり、自分中心の非常に破壊的行為です。(続く)
26 02月
今回は先週に掲載しました坂 達也による「2013年―2015年の3年間への預言」の続きです。もし前回のメッセージをご覧になっていない方は、ぜひ前回の文章から先にお読みいただくようお願いします。
尚、この二度にわたる私のメッセージは、2012年末に行なわれたモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。そのサリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたので未だご覧いただいてなければそれをご覧下さい。これに対して私は前回と今回で、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきました。
坂 達 也
前回よりの続きーー
2015年秋に何が起るのか(サブタイトル)
サリーム師は一団の人たちがヨルダン川を渡って約束の地に入るのは、今回は天に向かうと言い、デイビス師はそれは教会がこの世からいなくなることを意味すると解釈しておりました。しかし後でデイビス師は、「2015年に何が起るか自分にはよく分らない」とも言っています。
一方、ジョイナー師は「真の信仰を持つ者たちは、津波が来る直前の今の時は、天の御座の主の元で主と共に過ごす時である」と言う意味のことを言われました。それは霊的な意味であって、今はそれほどまで私たちが主と密接な関係に入る時であることを強調されたと私は解釈しております。
少し違うかもしれませんが、私も昔からブラザー・ローレンスのような経験を持つことが夢でした。現に今生きている人で複数回「霊の形で天に行った経験を持つ」人がいます。私が知っている範囲でも、ボブ・ジョーンズ師を始め少なくとも数人はいますから、世界的な規模からすれば、恐らくかなりの人数の方が、天国体験をされているように思われます。中には継続的に経験されている人もいるのです。しかし、それはあくまで、その人たちの霊が天国に上るのであって、肉の形では未だこの世に留まっている人たちです。
聖書にはパウロもそのような経験者であることが書かれています。2コリント12:2-4に「・・・この人(彼自身)は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
実際にパウロは「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知らない」と言っていますから、そのようなどちらともつかない、しかしリアルな経験があり得ることは確かです。
従ってこれから三年間霊的に準備された一団の人たちが、特に2015年の仮庵の祭りに天から召集され、肉体を離れた形であるのか、あるいは肉体のままで行くのかはともかく、集団として天に挙げられる可能性は充分あり得ると思います。
そこで、私がそう思う理由を申し上げたいと思います。実は、霊的に成熟して大人になった複数の男子が、天の御座に引き上げられることが聖書に書かれているからです。下記に、それを見てみたいと思います。それは黙示録12:1-5です。
「1また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。2この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
3また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。4その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
5女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」
この聖句に関して私は今まで20年近く、その意味するところが何であるかに大きな関心を持って来ました。私の調べた範囲では、ほとんどの注釈書がこの12:5に出てくる男の子はイエス・キリストご自身であると解釈しています。しかし、イエス・キリストがマリヤから生まれて来たのは二千年も前のことであり、最後の時代に起こることが書かれている黙示録の流れの中で、突然イエスが誕生して天に引き上げられると言うのは、どう考えてみても無理があると思います。
そこで、そのような一般の解釈とは異なる解釈をしている方にマービン・バイヤーズ師がおられますのでご紹介します。師はユダヤ系アメリカ人で、聖書の霊的学びに関しては、私たち夫婦の最も尊敬するメンターの一人です。
この方の解釈によれば、1節にある「ひとりの女」とは、ひとりと言う単数形であっても、複数の人数を代表する「教会」を象徴的に表していると言います。そしてその女である「教会」は、単数形の一人の「男の子」をみごもっており、出産直前の産みの苦しみと痛みで叫び声をあげました。この場合の「ひとりの男子man child」は、やはり象徴的に、複数の成熟した男子huiosを表しており(但しこれは男性に限らず女性も含みます。)「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはず」の人たちです。この「鉄の杖を持つ人」のことは黙示19:15に書かれているように、本来はイエス・キリストを形容しています。しかし黙示録2:26,27に書かれている「勝利を得る者」も同じように「鉄の杖をもって諸国の民を支配する」と書かれていますが、この人たちはイエス・キリストでないことは明らかです。そうであれば、彼らは「イエスに似た勝利者」であり、又「神の成熟した子どもたち」を指していると師は言われます。従って、そのキリストの身丈にまで達した「神の成熟した子どもたち」がキリストと共にすべての国々の民を牧すると言う考え方です。
パウロは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」とロマ書8:19に書いているように、終末にこの「神の成熟した子どもたち」が現れることを期待しております。そうであればこの「神の成熟した子どもたち」を産んで育てたのが「教会」であると言うことになります。{それがコロサイ1:27で言う「あなたがたの内に(生まれて成熟した)キリスト、栄光の希望」です。)
この成熟した神の子(子どもたち)が「神のみもと、その御座に引き上げられた」と12:5で書かれているのですから、これを文字通り取れば、その人たちが主がおられる天の御座にまで引き上げられることが起こるはずです。
天空の徴
ここで、デイビス師の言われる天空の徴し、特に月食、日食が二年続けて2014年と15年のユダヤの祭日、特に仮庵の祭りに起こると言われたことを思い出して下さい。そのことついては、NASAの資料等で調べても間違いのない事実のようです。
又、主イエスが誕生された時も天に異例な徴が現れたことを併せて思い出して下さい。この二つのことから、あるいはその他の聖書に書かれている多くの天の徴のことも含めて考えられることは、天に異例の徴が現れる時は、イスラエルあるいはイエス・キリスト、教会に関する重要なことが起こることは充分にあり得ると言うことです。
そこでもう一度黙示録12:1を見てみますと、天に「巨大なしるし」が現れることが書かれています。「太陽と月それに12の星を身に着けた」女が先ず現れます。
それ以降にバイヤーズ師の解釈を当て嵌めてみますと、「女」とは「真の教会」で、産みの苦しみの後に、ついに真のイエスに似た、イエスのように鉄の杖ですべての国民を牧する「神の成熟した大人の子どもたち」を産みます。(12:5)その生まれた「神の子どもたち」が天に上げられると言うのですから、私はこの黙示録12:1-5は終末に起こる最も重要な事件の一つであり、無視出来ないと思うのですが、いかがでしょうか。バイヤーズ師の解釈をもっと詳しくご紹介したいと思いますが、今回はこのあたりでとどめます。
しかし、それが文字通り起るのか、あるいは霊的な意味であるのか、それはデイビス師が言うように私にもよく分りません。しかし、もし起るとすれば、それが天に徴が現れる2015年の秋の「仮庵の祭り」に起る可能性は充分にあり得ると思います。
但し、この「御座に引き上げられる」ことが一般に言われる「携挙」ではないことは恐らく間違いないと信じます。なぜなら、天に上げられるこの勝利者たちの一団は教会の一部であって、地上に残る教会が存在するからです。そのことが12:6に書かれています。
そこで、この選ばれた一団の教会がもし一度天に挙げられるとしても、彼等は地上での最後のハーベストに主の軍隊として実際の刈入れにたずさわる人たちですから、もう一度、地上に戻って来なければなりません。それについては、私の知る限り、聖書は触れていないと思いますが、考えられることとしては、黙示録7章と14章に出て来る144,000人がそうではないかと言う可能性です。
その理由は「 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」(黙示録14:4、口語訳)と書かれているからです。「女にふれたことのない者」とは、この世的なものに一切興味がない霊的に純潔をキリストにささげる人たち、と言う意味でしょう。又、「神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者」とある「初穂」が12:5で天に上げられる「神の子man child」を意味するにふさわしい人たちであり、同時に、長男と穀物の初穂は神にささげられねばならないという律法に(出エジプト記13:13、22:19、23:19)マッチするからです。
又、この144,000人がイスラエルの12部族の人たちであるとはっきり書かれている点ですが、それは肉のイスラエル人だけではなく、霊的に接木された異邦人のイスラエル人であっても霊的・質的にイスラエルのそれぞれの部族のルーツにふさわしい人である限り含まれる、そして数的にも神は人数制限をしない方ですからこの数字より多くなっても問題ないと解釈出来ると思います。(少なくともバイヤーズ師はそう言います。)
その144,000人が黙示録14:1で「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」と書かれているのですから、これが主と共にこの人たちが最後の刈入れの前にシオンの山に帰って来ることが充分あり得ると私は思います。
但し、以上のことはバイヤーズ師の聖書解釈に私の考えを「一つの可能性」として述べさせていただいたものに過ぎません。(バイヤーズ師は必ずしも12:1-5で、神の子man childが天に上げられるとは言っておりませんし、144,000人がそうだとも明言はしていません。)ですから、私もデイビス師と同じように「よく分りません」と申し上げておきます。
なぜなら、終末に何がいつ起こるかと言う期日の憶測はクリスチャンとして慎むべきであると信じるからです。私は、主が言われた再臨の時を含めた「世の終わり」が来る「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイ 24:36新共同訳、使徒1:7参照)と語られたことを尊重します。しかしその反面、主はマタイ24:32、33で「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」又、24:44で、「だから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのですから。」と言われるように、時に聡くありたいと願っております。それ故に、今がどんな時であるか、特にこれからの三年間の重要性を皆様と共に祈って正しく理解したいと願うものです。
それに、もし2015年秋にこの選ばれた「教会」が肉の形で天に上げられなくて、この世に残る(但し霊的な形では天に一時的に集められる)としても、それこそこの世にとどまり彼らがイエスの栄光を輝かせるのですから、教会全体にとって彼らは大変大きな祝福となります。
最後に、どうぞ皆様、黙示録12章につきましては、これは聖書に書かれた世の終わりに関する重要な解釈の問題として、ぜひお祈りしていただきたいと思います。(終り)
22 02月
2013年―2015年の3年間への預言
坂 達 也
今回のモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。サリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたのでご覧下さい。そこで私は下記にて、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきたいと思います。
抜き身の剣を持つ主の前に立つ
サリーム師は、2011年に主が「教会をこの世から切り離し、その間に距離を置く」そして2012年には「教会を教会から切り離す」と主が語られた言われました。そして今年2013年から始まる三年間で、切り離される真の教会が徹底的にきよめられ、しわもしみもない状態に主がされると言われます。彼はヨシュアに引き入れられて契約の箱を先頭にヨルダン川を渡ったイスラエルの民の話をし、私たちも今最後の時に来ていて、約束の地へ渡ろうとしていること、主はあなたの十字架を毎日担いで歩きなさいと主が語っておられると言います。そこで私にはイエスが語られた次の御言葉が思い浮かびました。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)この聖句ば非常に厳しいものです。しかし今こそ私たちは、この御ことばを本当によく噛みしめて自分のものとすべき時であると信じます。
剣と言えば、フランシス・フランジペン師は、ヨシュアの前に剣を持って現れた聖なる戦士の姿が、終末に来られる主の姿ではないかと言われ(ヨシュア記5:13)、私もそれに賛同します。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』」
終末に来られる主はこの世を最終的にさばくために来られます。それはこの世を支配して来た悪魔とそれに従う人間の集団を一括してさばき、切り離すと共にし、主を信じる人たちを主の御国に集める作業です。これを聖書は「地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」(黙示録14:5口語訳)と説明します。この最後のハーベストの時に実るものは、よい麦ばかりではありません。毒麦も実ります。刈り取りを実際に行なうのは「真のキリスト者」の精鋭からなる軍隊です。特に毒麦の刈り取りは、主の指揮の下で、天の御使いに助けられながら行なわれる壮絶な戦いとなります。又、よい麦の刈り取りは終末の大リバイバルですが、これをするにも抵抗する悪魔軍と戦いながら行なう訳ですからやはり闘いが伴います。しかしその前にその収穫のための働き人が選ばれ訓練されます。それがこれからの三年間に行なわれると言うのです。
ところで「抜き身の剣」は私たちの戦いの武器の一つですが、それは肉のものではなく「御霊の与える剣である神のことば」であるとパウロがエペソ6:17で述べています。神のことば生きていて力があります。ですから、私たちクリスチャンが霊的に成熟すればするほど、霊的な剣がどれだけ必要であるかがわかって来ます。
そして主が、終末に生きる私たちを用いて「平和の神は、すみやかに、あなたがたの(私たちの)足でサタンの頭を踏み砕いてくださる」(ロマ書16:20)ご計画をお持ちなのですから、私たちはこの世の王である悪魔に完全に勝利するまでは、主と共に戦わねばならないことをこの際改めて認識していただきたいと思います。
そこで、前に立っておられる主を見た時、ヨシュアは主に向かって「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と聞きました。「剣」は衝突する者同士の闘いを表し、又、その間を分けて切り離すための武器を象徴しますから、まさに今の時代は剣を持たれた主が、先ず働き人の精鋭を選ぶために「教会の中から教会を分けて切り離す」ことにも当て嵌められると思います。
又、聖書には次のようにも書かれています。「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:29-31)これはアブラハムの子を産んだ奴隷の女ハガルの子イシュマエルと、自由の女サラから産まれた約束の子イサクのことを指しており、同じアブラハムの家に二人の子どもを相続人として共存させてはならないと言われているのです。つまり、同じ教会の中に肉の子どもと霊の子どもが共存してはならない、肉の子どもを追い出せ」と命令されているのですから「教会」から肉的クリスチャンの「教会」(員)を切り離すことは聖書的であるのです。
従って「切り離して分ける」基準は、私たちが100%肉の人間から、先ず肉のクリスチャンになり、更に100%霊的なクリスチャンに変えられねばならないと言うことになります。それが上記のマタイ10章に書かれている「どんな近親の者(肉の者)より主をより愛し、それどころか、肉の自分自身を完全に捨てて、毎日を主のためにのみ生きる者になっているかどうか」の一点にかかっています。それゆえに、主は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と言われます。
これで明らかなことは、私たちが地上のクリスチャン生活の最後に、この一点だけが問われるとしても全く不思議はありません。しかし完全な霊的クリスチャンにならなければ地獄に落とされると言うことではありません。
考えてみれば、私たちクリスチャンはそれが最終目標であることを承知し、覚悟の上で洗礼を受けたはずです。パウロは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」と言いました。(コロサイ2:12.新共同訳)
勿論よちよち歩きの信仰の弱いクリスチャンがこれを本当に自分のものとするまでには時間が掛かることを、主も充分承知しておられます。しかし、キリスト者たる者、最終的にはそうならねばならないことに変わりはありません。もし、いつまでもそうならない者が出て来るとすれば、そうである者とそうでない者とがはっきり区別される時が来ることを、私たちは当然覚悟しなければならないと思います。言ってみれば、いつか決算の「つけ」が廻ってくるのです。そのことを、残念ながら、多くのクリスチャンは安易に忘れ去り、見逃して時を過ごしていないでしょうか。主は、いつまでたってもそのような「主にふさわしい者にならない者」をこの世的で自分が生きている「なまぬるいクリスチャン」と言われました。(黙示録3:16)主はそのようなクリスチャンを口から吐き出す程にお嫌いであるとおっしゃるのですから、私はその御言葉に身震いを感じます。
よく考えてみれば、「自分の十字架を常に背負って主の後について来る」姿こそ、真に夫に尽くす「キリストの花嫁」の姿です。歌を忘れたカナリヤではありませんが、自分の十字架を忘れたクリスチャンは真のクリスチャンではないと主がはっきり言われているのです。その大きな原因は、クリスチャンになれば誰でも「花嫁である」と言う安易な御言葉の解釈が一般的に通っていることにあるように私は思います。
つまり、キリストの花嫁とは肉のクリスチャンから霊的成熟が実り切って「キリストに完全に似た者、まるでキリストそのものになっているような人たち」であり、それでこそ真の「キリストのからだ」あるいは「キリストの弟子」であると言えないでしょうか。
教会からより分けられる「教会」は勝利を得る者
この世の終りに、剣を持って立っておられる主と出会いその後に従う者とは、教会の中から選ばれた「真の教会」の一団であることが今回、二人の講師によって強調されました。その人たちは背に自分の十字架を負い、手に抜き身の剣を携えている人たちであると私は認識します。その人たちが最終的に悪魔に打ち勝って御国を闘い取る「主に似た」者であり、デイビス師が強調する「勝利を得る者」の姿です。聖書は言います。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(黙示録17:14 新共同訳)又、主は「勝利を得る者」について、黙示録2:7,11,17,26、3:5,12,21と7回も語っており、特に3:21では「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」と言われていますから、真の教会、キリストのからだ、花嫁、それに加えてパウロがロマ書8:19で言う、単なる神の子どもたちではなく「成熟した神の息子たちhuios」が、主と共に「勝利を得る者」であることに間違いありません。そうであれば、私たちクリスチャンの全員が「勝利を得る者」になることを目指さねばならないと思います。なぜなら、この霊的戦いを通して、神が私たちを霊的に成熟させ、キリストにおいて私たちを完成させるための訓練であるからです。
さて、そこでサリーム師は10人の花嫁の話(マタイ25:1-13)とギデオンの軍隊の話(士師記7章)をして、これからの三年間に教会の中から「真の教会」が選出されることを示峻しました。
デイビス師は、黙示1:13-17から、今は「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンであると語り、ヘブル書11:32-34に書かれている大きな信仰の人たちが行なったのと同じような奇跡を行なう人たちで、既に存在するその人たちが、これからの三年間にそのような信仰の成熟に達するための訓練を受けた結果、終末の時代に主と共に働く「勝利者」の一団として選ばれると語りました。
又、ジョイナー師は、次の津波のようなリバイバルの最後の大波が来る直前に潮が引く際に、高いところに上がる人たちの話をし、それは天の御座に主と共に着く人たちであると言いました。
とどのつまり、この三師は皆同じことを言っています。
そこで、10人の花嫁の例では、5人が選ばれ5人が失格します。ギデオンの軍隊召集の場合は、初め三万二千人から最終的に三百人に絞られたことの意味をよく考えてみたいと思います。その合格率は決して多くはありません。ご存知のように、キリストはそのことを厳しく警告しています。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)この御ことばを本当に真剣に考えねばならない時がついにやって来たと私は思います。皆さんはどう思われますか。
聖書の話の中に出て来る例話とか、あるいはたとえ話にしても、意味のないお話は一つもありません。極論を言えば、旧約と新約を通じて聖書の預言と例話は、多くのことが終末に起こることへの預言、あるいは教訓として受け取るべきであると信じます。(1コリント10:11)
又、聖書に書かれてあることはすべて実現する、特にイエス・キリストご自身が言われた厳しいお話はすべていつか必ず起ると考えなければならないと思います。私たちはこの世的になって「奇跡が起こらないことにあまりにも慣れ過ぎた」せいか、多くの聖句を頭の知識としては知っていても、それが実際に起ると言う信仰につながっていないと言う気がします。私たちは先ずそのことに気が付き、心から悔い改めることから始めなければならないと思います。
又、信仰とは自分の肉の力で大きくなるものでは決してないと思います。あくまで主にいつも飢え乾き、熱烈に願って、主からいただくものであると信じます。そのように熱心に願う人に対して、主は、主のタイミングと方法で、そのような人の願いを聞き届けて下さいます。
又、「主のようになりたい」とか「主の御言葉を常に聞いて主の御心だけで生きたい」と願うことも同じで、自分の力で出来るものではありません。しかし本当にへりくだって、それを毎日執拗に願い求めれば、主がそうなるための訓練をして下さり、願いは必ず聞かれると信じます。
再臨の前に主は先ず、私たち主の宮-仮庵-に入られる
掲題について、デイビス師は非常に興味深いことを言われました。「神が人々のからだと言う仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれる・・・聖霊は既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが『祭司』となり、『地上を治める』にふさわしい者『成熟したキリストのからだ=キリストそのもののように』なる」と言われました。
私はこのことを2コリント5:4-9に見ることが出来ます。「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」
パウロが書いたこの文章そのものがすばらしいですね。この文章の前後をぜひお読み下さい。そこで、上記で下線を引いた「その保証として御霊を下さいました。」の「保証」とは英語で言うアーネスト・マネーつまり不動産売買の時に使われる「手付金」のことです。私はそれで思ったのですが、もし私たちが主を信じた時に、神から聖霊を「手付け金」としてもらったのであるなら、早く残りの全額を払って下さる様に主にたってお願いしたらどうでしょうか。
しかし考えてみれば、もし主が初めから私たちの中に100%お入りになるとしたら、肉で罪だらけ、霊的には全くのベイビークリスチャンである私たちは、主の栄光と聖さに一瞬なりとも耐えられないのではないかと思うのです。従って神は、私たち自身が少しずつ聖められて行くに従って「キリストが私たちの中に形造られる」のを待っておられるのではないかと思います。それは女性の懐妊で幼児が母親のお腹の中で育って行くのに似ています。
これと同じプロセスのために、私たちは教会に所属して、教会とその指導者によって霊的に育てられる―「弟子訓練」を受ける必要があるのです。となれば、私たちにとって「教会」が母親であると言えます。そのことをパウロはガラテヤ4:19で「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と丸で自分が妊婦であるかのように形容して言いました。
そして母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。
しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。そうなると、これからの三年間で急成長して「かなり良い線に達している」霊的クリスチャンを、神が何か超自然な方法で、最後に引き上げることが必要と思うのです。そのために主は、今まで一度も地上を訪れたことのない優れた特別の御使いを用意されていて、その御使いたちを地上に送ることによって、選ばれた人たちの信仰を強めるご計画であると、デイビス師とサリーム師は言われました。
その結果、その人たちは「わたし(キリスト)の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう」(ヨハネ14:12)ことが実現すると言われるのです。
しかし主は、それ以上のことをされると言う気がします。それがデイビス師が言うように、終りの時に主ご自身が来られて選ばれた「ほとんど完成に近い人たち」のからだ(仮庵)の中にお入りになると言うことではないでしょうか。私はマラキ書3:1に書かれている「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所(宮、神殿)に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者(キリスト)/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(新共同訳)と言う御ことばがそれを預言していると信じます。私たちが待望している主が、突然、主の宮である「私たちのからだ」に入られると言うのです。
そうであれば、私たちがキリストと同じ身丈にまで成熟することは可能ではないでしょうか。と言うよりも、パウロが、ガラテヤ2:20で言っていることが実現することになると信じます。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
2015年秋に何が起るのか (以降は次回に続く)
18 02月
宗教の霊に打ち勝つ
リック・ジョイナー
パート1.宗教の霊を識別する
神の第一の命令は神を愛することであり、それが私たちに与えられた最高の賜物です。第二の命令は隣人を愛することです。律法全体はこの二つの命令を守ることにより成就されると主は言われました。即ち、この二つの命令を守るならば、すべての律法を全うできます。(マタイ22:34−40、ローマ13:8参照)
もし私たちが主を愛するならば偶像を拝みはしないでしょうし、もし隣人を愛するならば、妬んだり、盗んだり、殺したりはしないでしょう。ですから、この二つの「愛しなさい」というポジティブな命令を守ることによって、 すべての「〜するな」というネガティブな律法を成就することができます。
もし神への愛があるならば、それだけで私たちの心の中の殆どの悪を克服することができるでしょう。そしてそれこそが世の中の悪に対する最もパワフルな武器です。神を愛することが私たちの最も崇高なゴールであり、それが人生の第一の焦点であるべきです。サタンの教会に対する最大の偽り、致命的な打撃の一つが、この究極的な追求の道から私たちをそらすことである理由は、実にそこにあるのです。敵の策略は、私たちが人生の「悪」にばかり目を留めるように仕向けることであり、それによって私たちは、自分が見つめるものに似ていくことを敵は 知っているからです。(第二コリント3:18参照)私たちが「悪」だけを見ている限り、敵は私たちを自分の支配下においておくことが出来ます。私たちが主を見つめ主の栄光を見るならば、私たちは主の似姿へと変えられていきます。
これは私たちが人生の罪や間違いを無視するということでは決してありません。実際に聖書では、私たちは自分自身をよく吟味して、いつも信仰に立っているかどうかを吟味するようにと命じています。問題は罪が見出されたときに私たちがどう対処するかというところにあります。善悪の知識の木に答えを求めるのか、それともいのちの木に行くのか、です。即ち、自分を改善することによって神に近づこうとするのか、それとも、イエスの十字架のもとに行き、赦しと罪に打ち勝つ力をそこに見出すのか、ということです。
敵の一番の策略は、私たちが(人の)悪にばかり眼が行くように仕向け、それが善いとか悪いとか言う知識の木から食べるようにすることであり、そうすることによって、私たちが主の栄光と十字架から目を離れさせることにあります。この敵の策略が「宗教の霊」という形でやって来ます。これは、私たちが神への真の愛と礼拝をしているかのように見せかけ、そう思わせる偽りの悪霊です。この悪霊は恐らく、 ニューエージやすべてのカルトが今まで教会に与えてきた打撃を全部合わせたよりも大きな打撃を、教会に与えて来ました。
宗教の霊の特質
宗教の霊とは、私たちが宗教的な活動を多くすればするほど、それが私たちの人生を通しての聖霊の働き(そのもの)であると思わせる「代替え、すり替え」の悪霊であり、その一番の目標は「見えるところは敬虔であってもその実(power)を否定する者(第二テモテ3:5)」と教会を貶めることです。使徒パウロはこの箇所を「こういう人々を避けなさい」という言葉で結んでいます。宗教の霊は「パリサイ人とサドカイ人のパン種(マタイ16:6)」であり、主が弟子たちに警告されたものです。
主は喩えを用いて教えられることがよくありました。宗教の霊はパンの中のパン種のように作用します。パン種はパンに栄養を増し加えることはなく、ただ膨らますだけです。宗教の霊もそれと同じことをします。教会にいのちや力を増し加えることは全くなく、ただ単に人のプライド(これは最初の罪の堕落やそれ以来のすべての堕落のもとになっているものです)を膨らますだけです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(ヤコブ4:6)」という真理を、サタンは教会よりもよく理解しているように思われます。神はプライドによって膨れ上がった人の業の中には住まわれないこと、神ご自身がそのような業を退けられることを、サタンはよく理解しています。ですからサタンの策略は私たちに(自分で事を行なうことに)プライドを持たせることであり、それが良いことに関してのプライドであっても、例えば聖書を自分はどれだけよく読むとか、証しをするとか、飢えた人に食物を与えるとかということに対するプライドであってもプライドであることに変わりありません。もし私たちが神のみ心をプライドを持って行うならば、その業はかえって神の御国を阻むものとなり、ついには堕落への道になりえることをサタンは知っています。
サタンは又、一旦パン種がパンの中に入ってしまうと、それを取り除くのは非常に困難であることも知っています。プライドはそれが持つ性質により、取り除いたり矯正したりするのが最も難しい要塞となります。宗教の霊は、「神の御心や今神が言われておられる事、又何が神を喜ばせるかという事を自分はすでに知っている」と私たちに思わせることによって、私たちが神の御声を聞くことを妨げます。この惑わしは「神は私たち人間と同じような方である」と私たちが思うことに由来します。宗教の霊は又、「聖書の中にあるすべての励まし、叱責、矯正の言葉は、自分のためではなく他の人々のためである」と聖書を理解させるように働きます。
もし、宗教の霊があなたの問題であるならば、この本をここまで読んで来て「このメッセージは誰それにとってとても大切だ」と多分すでに考え始めておられることでしょう。この本はあなたに必要であるからこそ、神はあなたに渡されたのだ、ということなど思いもつかないのです。しかし実際は私たちすべてにとってこのメッセージは必要であり、宗教の霊という敵は私たち全員が程度の差こそあれ 戦わねばならない相手です。この破壊的な力を持つ偽りの霊から解放され自由になることは私たちにとって不可欠であり、そうなるまでは私たちが主を霊とまことで礼拝することは出来ません。
この悪霊の非常に強力な惑わしから私たちがどれだけ解放されているかという度合いが、 私たちがどれほど力強く真の福音を語れるかどうかを直接左右します。教会が宗教の霊に立ち向かう戦いは、終末の時代における大きな戦いの一つとなることでしょう。すべての人がこの戦いの中に突入し、一人ひとりがどちらの側に属しているのかがこれから決められていきます。自分が暗闇から解放されていなければ、人々を解放する権威を持つことは出来ません。この膨大な敵を克服し始めるためには、主が私たちの上に光を照らしてくださるように願い、宗教の霊がどのように自分と関わっているかを示していただかねばなりません。主がパリサイ人たちと常に戦わねばならなかったことから明らかなように、教会が始めから最も戦ってきたのは実はこの霊であるのです。パリサイ人の性質の中で最も顕著なものは、自分自身の欠点には盲目であるのに、他人の対しては悪いところばかりを見ることですが、宗教の霊は私たちをそのようにしむけます。(続く)
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