21 04月
「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」― その2
ジャック・ディーヤ Jack Deere
「喜んでする気持ちがあるか willingness」
イエスの教えを聞いた当時の人たちは、特に彼を敵視する人たちですら、その知識の深さに驚き、その教えがどこから来たのかといぶかりました。そこでイエスは「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行おうと(喜んでしたいと)願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」 (ヨハネ7:16-17)と言われたのです。
この御言葉から神の御声を聞くために欠かすことの出来ない第二の必要条件が分ります。それは私たちが、どれ程神の御心に従いたいと思っているかに掛かっていると言うことです。つまり神は本心から御言葉を聞いてそれに従う気持ちのある人に語られるのです。イエスご自身は父の御心に従うことだけを常に願いました。それがヨハネ 5:30でよく分ります。イエスは「 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」と言われました。(ここで使われている「さばく」という言葉は「決めてそれを尊重する」と言う意味です。訳者注)私たちの心の奥底から御言葉に従う気持ちのない人に神が語られないのは、むしろあわれみの心からであると思います。なぜなら初めから従う気持ちのない人に語って、その人が行なわないのであればその人自身がさばきを招くからです。
短いこの世の人生であなたが誰を喜ばすかについて、既にあなた自身の結論を出しておられますか。「わたしはあなたのみこころを行なうために来ました」と言われたイエス(ヘブル10:7,8)と同じゴールをお持ちでしょうか。父を喜ばすことを最高のゴールとされ、父の御心をなすことをこの世に来られた最大の目的とされた故に、イエスはいつも父の言われることが聞けただけでなく、たとえ親しい人たちに裏切られ、ご自身の国民から拒否されてもそれを恨まずにすんだのであると思います。彼は親しい弟子たちを愛し、ご自分の国を心から愛しました。しかし、それ以上に父の御心を行うことを第一としたのです。しかもそれが最終的にどれ程の苦痛を経験せねばならず、又ご自分の愛する国民から拒絶を招くという最も惨めな結果になることが分っていてもです。それに対する報いが、彼の最も愛する方の御声をいつも聞くことが出来、それに従うことよってその方に喜んでいただける結果となったのです。
皆さんと私は、それぞれに神の御国でのすばらしいデスティニーを持っています。それを否むことの出来るものは何もありません。ゴシップとか、中傷、裏切り、どのような悲劇も、又悪魔ですら私たちのデスティニーを盗むことは出来ません。ただ私だけが私の王冠を投げ捨てることが出来、あなただけが、あなたの王冠を他人に譲り渡すことが出来るのです。但し私たちの人生のゴールが何であるのかが私たちの心の中の心ではっきりと決まっているのであれば、それは決して起きません。神は、私たちが従うことが分っておられる時に、私たちに語られます。なぜなら、神は私たちにとってそれが一番必要であることをご存知だからです。たとえ御声を聞いたときに、それが私たちに納得行かなくてもです。
ピリポはサマリヤで、しるしと奇跡の伴うリバイバルの真っ最中におりました。その時、主の使いがピリポに「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」と命じました。(使徒8:26)これは一見つじつまの合わないような命令でした。リバイバルが起っている真っ最中に、そのリーダーにそこを出て荒れ果てた寂しい道に下れと言われるのですから納得がいきません。しかし驚くべきことに、次の節でピリポはそれに従ってそこを離れて行ったと書かれています。結果として神が言われたことの理由が分ったのですが、もし彼が主が語られたその御声に喜んで聞き従わなかったら、それは起きなかったでしょう。
大分前の話になりますが、主がどうも私の趣味の一つを諦めなさいと言われているように感じ始めたことがありました。その趣味と言うのは何も悪いものではなかったのです。そこで私は主に、その趣味を諦めるのは喜んでしますが、その前に主が私に、はっきりとそうしなさいと言って欲しいとお願いしました。と言うのは、私は禁欲主義とか苦行生活に入るつもりはなかったからです。私の経験では、今まで単に主に気に入られるために、特に悪いことではないことで自分を否定する行為に出ることは決して霊的に得にはならないと思って来ました。今まで主が示されないで自分で何かを諦めた時は、結果として律法主義に陥り、独善的になるか、あるいは最終的に苦々しい思いで終わっていたからです。ですからその時私は、主に「私はこの趣味を大変好んでいます。でも主からの命令であれば私は(喜んで)諦めます。」と申し上げました。
それから約六ヶ月後のある日曜日の朝早くでしたが、半分目が覚め半分寝ているような状態の時に、その夜中に見た一つの夢を思い出していました。その夢の中で、私は友人のポール・ケーンと話していたのですが、最後の辺りでポールが「主があなたの趣味を諦めるように願っている。」と言ったのです。(夢の中で彼は私の趣味の名をはっきり言いました。)私はかすかに見た夢をやっとのことで思い出したのはよいのですが、それが本当に主からのものなのかどうかがはっきりしなかったものですから、私は主に改めて「もし本当にあの夢が主からのものでしたら、どうぞ今日ポール・ケーン自身からその夢について私に話をするようにして下さい。」と祈りました。ところがその週末は、たまたまポールが私のいる町に来ていましたのて、私が日曜日の礼拝で話をした後、ポールと昼食に出かけました。その後私が彼を空港まで送って行く車の中で、ポールが「昨夜驚くべきほどはっきりとした三つの夢を見たことを今でも明瞭に憶えている。」と言ったのです。
私には信じられませんでした。私はすかさず彼に「実は私も昨夜夢を見た。しかもその夢の中で私があなたと話している夢です。」と答えました。その後でポールが見た夢を色々と話してくれたのですが、結局私の趣味については何も触れませんでした。そこで私は運転しながら隣席の彼に、念のために、私の趣味の話を主はされなかったのかと聞き返すと、ポールはすかさず「実はあなたがその趣味をどんなに愛しているかを私は知っているので言わないで置こうかと思っていたところですが、それを聞かれたので言います。主はあなたがその趣味を止めることを願っています...」と言ってその趣味の名前を言い当てました。
最初は信じられないような気持ちでした。もうこれで止めない理由はなくなった――諦めざるを得ない――と言う落胆の思いもありました。しかし、主がどれほど私に気遣われて、超自然の方法でやさしく私にそれを伝えられたかということに気が付いた時、一瞬にして私の思いは喜びに変わりました。私は、主が趣味の代わりにもっと主の臨在を私に増し与えて下さることが分っていました。私はこれによってむしろ大きな得をすること、その上、私がこんなに早く主の御心を喜んでする気持ちになった(主がして下さった)ことを、少し誇りたい気持ちにさえなったのでした。
そこで私はポールに「他に何か私が諦めるべきことがあると主はおっしゃらなかったですか?」と訊ねると、ポールは私の質問に直接答えるのではなく、逆に私に聖書(マタイ19:16)に出てくる「富める若者」の話を知っているかと聞きました。そこで私は、その若者とイエスの会話について話すと、彼は「この若者は『何かまだ欠けているのでしょうか』という質問をしないで、はじめの質問だけで止めておいた方がよかったとは思いませんか?」と私に聞きました。
このポールの質問の意味を私が充分に理解するには少し時間が掛かりました。主はもっと後になって私に他のことを諦めるように言われるかも分りませんが、その時の私では、未だその他のことを諦めなさいと言われても、私が「はい」と答えて出来るまでに(霊的に)成熟していなかったことを意味していたのです。すなわち主はその時、私が喜んで諦めることが出来ることだけを私に要求されたのです。それは私がその時に反抗的であったからではなく、ただ未熟であったからでした。それは六歳の子どもに「しなさい」と言うことを三歳の子どもにやらせるのは無理であるように、十八歳の青年に「やりなさい」と言えることが、六歳の子どもにやらせようとは夢にも思わないのと同じです。
時に主は、私たちが主に対して反抗的であると言う理由でその人に語らないこともありますが、多くの場合は、反抗的であるがために主が語られないのではなくて、むしろ私たちが未熟なせいで語られないのです。私たちが主にあって霊的に成長するにつれて、もっと主の御心をしたいと言う気持ちに成熟する時に、主は私たちの生活の中でより大きな部分について話されるようになるでしょう。(続く)
15 04月
「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」
ジャック・ディーヤ Jack Deere
私はこの掲題の質問を多くの人から聞かれます。そこで私はある時決心をして、真剣にこの質問への答えを探してみました。先ず私は、聖書に出てくる人の中で神の御声をよく聞くことで有名なすべての人たちについて、祈りながら熟考 meditateしてみました。次に、現代の人で御声を聞くことで知られている人たちに聞いてみました。そして最後に、自分自身の今までの経験をかえりみながら、神の御声がよく聞けた時と聞けなかった時について分析してみました。その結果、神の御声がよく聞ける状態になるのには、三つの本質的な特徴があることに気が付きました。
それは「いつも 神に仕えている、あるいは、その用意が出来ているかavailability」、それを「喜んでする気持ちがあるかwillingness」、そして、「神に対して本当にへりくだっているかhumility」 の三つです。
「いつも 神に仕えるているか availability」
誰よりも神の御声を聞かれたイエスの生涯を調べてみて、真っ先に感銘したことは、イエスはどんな時でも無条件に神に対して仕える用意が出来ていたことです。私がそのことを最初に気付いたのは、私がクリスチャンになって一年ぐらい経った時でした。マルコの1章を読んでいた時、イエスは町中の病人や悪霊につかれた人たちを夜遅くまでかけて癒しておられた(32-34節)にもかかわらず、翌朝は「まだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)とマルコが語っています。普通の人にとっては、夜遅くまでミニストリーをした翌朝ぐらいは多少の朝寝をするのはもっともであり仕方がないと思われるでしょうが、イエスは毎朝の日課である神を求めて祈ることをおろそかにはしませんでした。(ルカ4:42、5:16も参照)
私のクリスチャン生活の最初の頃、私はよくこの話をして「イエスは常に神に対して時間をつくっていた」ことを強調していましたが、今はそう言う見方をしなくなり、むしろ神の子が過ごした時間は、生涯を通して「すべて完全に父の時間そのものであった」と見るようになりました。イエスは決して急いでことをしたり、時間が足らないということはありませんでした。なぜなら主はご自分の時間は常に父の時間と同じと見ておられ、父がしておられることを見た通りに、それだけをご自分も行ったからです。(ヨハネ5:19)そうして、彼は天の父の望まれることを成し遂げるために、常に正しい場所に正しいタイミングでおられたのです。
イエスは何をされるときでもその態度は全く自然で四角張らないことに私は気付かされ、それに益々感銘を受けております。イエスは予期もしなかった五千人以上の群集を前に話された時も、山上の垂訓を語られた時も、井戸端で会った一人のサマリヤの女と話をされた時も、常に語ることが準備されており、正しく必要なことだけを話されました。イエスが説教のメッセージを作るのに苦労したことがあるなどとは想像することも出来ません。なぜなら彼の生き様そのものがメッセージであるからです。それは毎日の、天の父との深い交わり(コミュニオン)から溢れ出るものによってなされたからです。それはイエスがどんな時も常に御父に仕えていたからです。
私がこんなお話をするのは、毎日主と「静かな時」を持つことを力説しようとしていると思わないでください。それよりもずっと深いことを話しているつもりです。私は、毎朝5時半から聖書を読んで主と「静かな時」を過ごしながら、それでいて、毎日をゴミ捨て場をうろつく犬よりも惨めで(心の貧しい)人生を忙しく送っている人々を知っています。毎朝主との時を持ちながら、同時に神に仕える生活を全くしていないことはあり得るのです。毎朝の静かな時を主と過ごす日課をやりさえすれば、後は全く神のことなど忘れて一日中自分の生活に没頭する人たちと違って、神にいつも真に仕える人たちは自分の一日はすべて神のものであると考えているのです。そのような人たちは一日中主の臨在を経験しながら、主に喜んでいただくことだけをすることで満足する人たちです。
多くのクリスチャンは、宗教的な義務を熱心に果たすことによって神に満足してもらえると思っているかもしれませんが、神が本当に喜ばれるのは、私たちが神と親しい「友人関係」になることです。(ヨハネ15:15)私たちの本当に親しい友人が困った時とか、助けが必要な時には、万難を排してでもその人のところに飛んで行って助ける気持ちになると思います。相互にそのような気持ちを持つ関係、それが真の友人関係です。すなわち、友人関係とはその人のためなら、いつでもその人のために尽くす用意がある関係、これがavailability です。天の父と私たちとの関係も同じです。神はご自分に最大限に尽くす用意のある人には、神もその人に最大限尽くされます。多くのクリスチャンは神がそのような方であるのは公平ではない、神はすべてのクリスチャンに対して、どのような時にもいつも誰にも公平に尽くされるべきだと考えがちです。そのように考える人たちは、神をまるで宇宙スケールのベル・ボーイ(使い走りの用足しをしてくれる人)とでも考えているのでしょうか。自分が神を必要としないときには、その人にとって神は何の関係もないのです。勿論そのような人は、神のめぐみと神との個人的関係を持つことの意味を全く誤解しています。神は豚に真珠を与えるようなことはしません。神を求める人が神を見いだすのです。(申命記4:29)
もし私たちが神と深い友人関係を持ちたいなら、私たちの過ごす時間はすべて神のものであり、私たちは常に神に仕えていると言う心構えを持っていることが非常に重要です。又、この気持ちで毎日を過ごすことの重要なのは、神は私たちが一番不用意で都合の悪い時に話し掛けられるからです。時として神は、ご自分の最もお気に入りのしもべを宣教の旅に出しておきながら、途中でその仕事を中断させ、別なところに行くように命じたりします。使徒行伝16:6-10に出てくるパウロたちがそうでした。神は彼らに時間と、お金、エネルギーを「無駄に使わせ」てから、彼らを別な方向に向かわせたのです。それは神が、あたかも私たちが本当に神に対して忠実に仕える気持ちが常にあるかどうか(彼らの時間は神の時間であることをいつも心得ているかどうか、又、自分のやり方でやるのではなく、神のやり方に従っているかどうか)をテストしておられるように思えます。
神は夜中の三時にぐっすり眠っているあなたに夢を与えて目を覚まさせ、忘れないようにそれをメモに書き取らせたりします。あなたがどんな時でも忠実に神に仕える用意があるなら、神もあなたに仕える(祈りに応えてお話しをする)用意があることを思い出してください。イエスが十二人の使徒を選ばれた時、先ず山に行かれて父に祈り一夜を明かされました。(ルカ6:12)そして明け方、ご自分の望まれる弟子たちを呼び寄せて、十二人の使徒を任命されました。(マルコ3:13-15)ここで明らかなことは、イエスが彼らを任命した目的は、彼らを世に遣わして福音を述べさせ、悪霊を追い出させることでした。しかしその前に、先ず使徒たちをイエスの身近に置かれました。彼らにミニストリーをさせるためには、彼らが常に神に仕える用意があるように習慣づけさせることが先決でした。イエスと親しく緊密な関係 intimacy を持つことがすべての主のミニストリーの基礎であるのです。福音を説くとか証をする場合に、その証しが、その人の持つ神との親しい関係から自然に溢れ出る時に、油注がれ、それを聞く相手の心を動かす力が伴います。常に神の傍に仕えていることが、ミニストリーをするに当たっての第一のプライオリティーであり、又、神の御声を聞くための第一の必要条件であるのです。
その仕え方には受動的な面と能動的な面があります。多くの場合に私たちは、ただ主を待ち望むことが必要ですが(エレミヤ42:1-7、イザヤ40:31)、その反面、能動的に何かを行なうことが必要な場合もあります。(マタイ6:33)どのくらい待てばよいのでしょうか。朝三十分、昼食後一時間、夜二時間位でしょうか。その正しい答えは、私たちは主が現れるまで求め続けることなのです。(ホセア10:12)多くの人は毎朝、三十分とか一時間、聖書を読んで祈り、たとえその時に主の臨在が現れなくても満足します。しかし同じ人が、その人の友人の一人と一時間話をして、もし相手の人が本当に聞いてくれていると言う反応がなかったら、恐らく満足しないでしょう。単に宗教的な義務感からディボーションを長年続けて来た人たちにとって、何十年もの間ほとんど神の臨在を経験したことがないために、神の反応がないままでも(それに慣れてしまって)満足してやり続けている人たちが意外に多くいるのです。(訳者注:宗教的な人たちです。)
ハバクク2:1で「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」と書かれているように、常に神に仕えている人は、神が話してくださることを当然のように期待します。そのような人の態度はいつでも神に対して「お話しください。しもべは聞いております。」(1サムエル3:10)であるのです。まさに「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)ではないでしょうか。(続く)
10 04月
霊的成熟について
坂 達 也
私は前回の「坂 達也の今月のメッセージ」(2月22日)の中で次のように申し上げました。
「母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。」
私がこのように書きましたことは、間違ってはいないと信じますが、今回はその意味を更に深く掘り下げ、より明確にしてみたいと思います。
先ず、この文章はパウロが「キリストのからだ」教会 を建て上げることについて述べたものであることです。その意味を完全に把握するためには、この節のみならず11節から少なくとも24節までを通して理解する必要があると思います。しかし今回ここでは引用しませんので、ぜひ皆様各自でお読みいただくことをお勧めします。
さてそこで、私たちが最初に見直してみる必要があるのは、私たちが「信仰によって救われた」と言う事実についてです。
信仰とは何か
私たちはイエス・キリストを心で信じ、洗礼を受けて、信仰告白をすることによって、その時点から古い罪だらけの自分に死に、キリストと共に復活して新しく生まれ変った「霊の人間」になりました。そのことがロマ書6:4とかコロサイ2:12等で、まるで既成事実のように過去形で書かれております。そして、私たちは常にその「既成事実」を現在形で生きている――それが私たちの持つ「信仰」の特質であるように思います。R.J.Utley師は、注釈書の中で「信仰者は、御国においては『既になされた』と『未だなされていない』の間の緊張tensionの中で生きるべきです」と言い、その意味を「御国での恩典benefitsのフル・ペイメントの支払いは未来ですが、御国に入る市民権とそのステイタスstatusは既に現在形として獲得しているのです」と説明しています。又、信仰と言うものは、まだ起っていないことを必ずそうなると信じて行動する、つまり将来起こることを先取りすること、とも言われます。
実は、時間とは被造物の一つであって、本来神は時間を超越した空間に(それは一定に流れる時間に拘束されない、まるで時間がないような世界に)住んでおられると言われます。そうであれば、ご自分で決められたことは、即その瞬間にそれが実現しているのです。まるで手品師のようですが、これはとても重要なことであると思います。なぜなら、私たちが最初にキリストに信仰を持った時から、私たちは(自分では全くそんな気がしないのに)キリストご自身に堅く結び付けられ、何物もこの「神の愛から私たちを切り離すことができない」永遠の家族の関係、すなわち「キリストの花嫁」になっていることが、あたかも既成事実として成立しているからです。
そのことを説明してくれるよい例がイスラエルにおける古い時代の結婚の習慣です。イスラエルでは結婚の約束を交わした(婚約)時点で、「夫と妻になった」と公表されます。そしてその後一年ぐらいは別々に住んで性的結合に入らないのですが、時が来たら、夫が妻を迎えに来て、初めて二人で住み始め、名実共に夫婦生活に入ります。もしこの待っている一年の間に他人と性的交渉があれば姦淫の罪に問われ、結婚解消をしようとすれば離婚の手続きが必要とされました。(イエスの肉の両親であるマリヤとヨセフのことを思い出して下さい。)それと同じで、私たちは信仰告白をしたらキリストと正式に夫婦の関係に入ったことを意味します。少なくとも神はそう見ます。しかし、本当にキリストと住み始めるのは、キリストが私たちを迎えに来る再臨の時からです。
又同じように、神と私たちクリスチャンの関係は、キリストを信じると告白した時から、正式に養子縁組が成立して「神のむすこ、むすめ」となり(入籍)、遺産相続を受けられる親子関係に入ります。又、キリストと「一つのからだ」になることにおいても同様で、信仰告白した時点から霊的にキリストに結び付いた「一身同体の関係」に入ることに変わりはありません。この霊的に結び付けられた状態statusを英語ではunion with Christと言います。私たちクリスチャンはもう既に完全にキリストに所属し、キリスト(神)のものなのです。
しかも神は、その(霊的な結婚証明書とも言うべき)保証として、聖霊を信仰告白した時から私たちの霊の中に送り込み、事実上霊的な神との住み込み生活が始まっているのです。と言うことは、もう二度と聖霊は私たちを離れないと保証しておられるのですから安心してよいのです。(2コリント5:5)ですから私たちは、既に内住されている夫、キリストの霊である聖霊にすべてを委ね、聖霊に従って生きるのは当然であるのです。そのステイタスの生き方をパウロがガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言っています。この状態をヨハネは「わたしたちが神におり、神がわたしたちにいる」(1ヨハネ4:13、口語訳)とも言いました。
私たちはこの信仰の原点を忘れてしまい、つい古い自分でものを考え、古い自分で行動しがちです。いや、少なくとも私がそうです。恥ずかしい話ですが、私が先回のメッセージを書いた時は「つい、古い自分で書いてしまった」部分がありました。その文章とは「・・・しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。」と書いたことです。不可能はない万能の神が最初から計画していることに不履行は絶対にありません。少なくとも私はそれを疑ったことはありません。信仰とはそんなものではないはずです。ですからほんの一瞬でもこんな不信仰なことを書くなら、それは私の古い自分が書かせたことであって、信仰から出た言葉であるはずがないのです。しかし、すばらしい愛とめぐみの主は、その後で、私の不信仰に直ぐ気が付かせて下さいました。それで今、これを書いている次第です。
「キリストのからだ」になるとはどう言うことか
それは繰り返しになりますが、私たちが既に「キリストの花嫁」であるのと同じように、夫であり頭であるキリストの意思に完全に従い、神と共にこれからすべての苦しみと喜びを分かち合う一心同体の「キリストのからだ」として行動することを意味します。しかも頭(夫)であるキリストが、先ず聖霊を送って、私たち(妻)を夫にふさわしい妻、からだになるように教育し、そこまで霊的成熟させると言う「手はず」が有史以前の初めから創造者の神のご計画であるのです。神はご自分の立てた計画と約束は必ず守られます。(神は約束した時に既にそれが実現することが仕組まれていると言った方がよいかもわかりません。)
そして、待ちに待ったキリストの再臨を迎えて夫と同じような「よみがえりの霊のからだ」が与えられ、それ以降は未来永劫にキリストと共に住むのです。
その意味では、たとえ今の教会が、現時点でどのようにキリストに似ても似つかない状態であっても、万能の主にとっては「当初の計画通り」で、全く問題ないのです。今は終末の時代と言われ、これから大きな艱難の時代に入ろうとしていますが、それを通って必要な花嫁訓練を終えて後、夫であるキリストが妻のところに帰って来られるのです。
従ってそのようなキリストにふさわしい子ども、あるいは花嫁になるために、今こそ「わたしたち(キリストのからだの)すべての者が、(頭である)神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ことが必要であると同時に、それは必ず聖霊によって実現されるのです。それがエペソ4:13の意味するところであると信じます。
私たちは目下キリストにかくまわれて修行中
ここで改めて強調させていただきたいことは、私たちクリスチャンは個人的にキリストを信じて救われても、私たち個人が勝手ばらばらに生きるのではないと言うことです。重要なことは、父なる神は私たちを見ても、私たちがキリストの内部にかくまわれ、今は隠れた形で入っている限り、あくまでキリストご自身として私たちを見ておられるのです。すなわち、私たちが救われるのは、キリストの中に入れていただきキリストと一体となるしかないと言うことです。そうであるからこそ、成長過程で多少の間違いとか罪を犯しても、私たちの罪の身代わりとなられたキリストの中に私たちが入って守られていますから、父は私たちの非は見えないとおっしゃるのです。それゆえに、父なる神は文句なしに私たちをキリストと同じ我が子として心から愛して下さいます。それがコロサイ3:3に書かれている「あなたがたは既に死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と言う御言葉の意味であると思います。
これで気が付くことは、私を含めほとんどの信仰者が、私たちの主にあっての兄弟姉妹を父なる神の見方と同じ見方で見てはいないと言うことです。私たちは、今は全員が信仰における霊的成熟の途上にあり、未完成で修行のプロセス中にいるのクリスチャンなのですから、その間の罪はキリストによって既に赦され、かばわれていることを忘れてはならないと思います。従って今は未熟なクリスチャン同士が、お互いのあら捜しをしたり、批判し、攻撃するとすれば、そうする人の信仰が問われます。それでなくとも未熟な私たちはこの世の未信者から常に批判の目で見られ、攻撃の的となっているのですから、少なくとも一心同体で共にキリストにあって修行中の私たちの間では、その人を批判したいことは聖霊にお任せして、安心してお互いが愛し合い、赦し合い、励まし合うことこそお互いに一番必要なことではないでしょうか。
ひとりの「キリストのからだ」と言う共同体は、私たちの肉の親子とか、夫婦、兄弟姉妹の関係が、この世だけの一時的な関係であるのと違って、決して離れることのない永遠に共に生きる関係にあります。
ところが残念なことに、今ほとんどのクリスチャンは個人的に信仰が成熟することに重点を置き、他のクリスチャンは、極端に言えば、二の次扱いの「他人」と言う感覚を持っているように思えます。この際、先ずそれを捨てて、前述の通り、クリスチャン同士が真剣にお互いをいたわり、助け合い、励ましあい、導き合うべき時であると思います。そのために今一番必要なものは愛であると思います。私たちがキリストの愛を受け、主を愛し、その愛で互いに愛し合うこと、これに尽きます。
私たちは又、既に自分に死んでいるはずですが、その古い自分でものを考えたり、判断しながら生きようとしていないでしょうか。これが現実に差し迫っている最も重要な課題であると思っております。
主にすべてを聞く
私たちが死んでいるはずの古い自分とかかわりを持たない方法は一つしかないと思います。それは自分で考えて行動する前に、先ず私たちに内在する主キリスト(主の御霊)にどうするかを聞くことです。例えてみれば、私たちの霊の中には、主(の霊)が常駐されている部屋があり、その部屋は常に私たちのためにドアが開かれています。私たちはその部屋(事務所と言ってもよいですし、あるいは社長室と言へば尚分り易いかもしれません)に入り浸り、足しげく出入りするようにドアが常に開けられているのです。ですからそこにおられる主の御霊と親しい関係になり、何事も気安く親しく相談し、すべての指示を仰ぐ間柄になれば、古い自分が介入する余地を締め出すことが出来ると思います。それしかありません。
それに私たちの霊的成熟を達成させて下さるのもすべて主の御霊であることを忘れてはならないと思います。(コロサイ2:19)
エペソ4:21に「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」と言う御言葉がありますが、この御言葉に上記で私が申し上げたことが書かれていると思います。「キリストから直接お話を聞き」=「キリストに聞き」、「キリストの内(部屋)に入って、いつも直接教えられているべきであると言う意味です。」=「キリストにあって教えられているのならばです。」、「なぜなら、すべてのことの正しい答えはキリストにあるのだからです。」=「まさしく真理はイエスにあるのですから。」
それでは最後に一昨日与えられた御言葉をお分ちして終りにしたいと思います。それは1ヨハネ3:2-3です。
「3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(新共同訳)
上記の聖句は、私たちの最終目標である「キリストに似た者になる」ことについて書かれています。ヨハネはこの目標が達成されることを強く望んでおりました。彼は現在の私たちと同じように信仰によって既に神の子になっていることを知っておりますが(この世はそれが分らず認めておりません)、それが具体的にこれからどう言う形で神の子としての特質があらわれるか(特にその栄光が)それは分らないと言います。しかし一つだけ分っていることは、キリストが帰って来られる時に、私たち全員がキリストのすべてをありのままを見ることが出来ると言うのです。
この「ありのままに見る」と言う原語は、その人を、ものが見えるように見えると言う以上に、その人の心の状態(内面)が見える、分ると言う意味だそうです。余談ですが、天国に行った経験のある人は、天国で人と出会う時は、その人に聞かなくてもその人の考えとか思いが分かる(見える、感知する)そうです。
恐らく私たちは再臨のキリストと個人的に向かい合う時、イエスの人となりに心打たれ圧倒されると信じます。この瞬間こそクリスチャンとしての最高のクライマックスの時となることを疑いません。この時に、主キリストがいかに愛に富んだ方であるか、その愛の大きさが分ると信じます。同時に、自分に対して主がどれ程の思いを持って来られたか、又、自分自身がどれ程主を愛し、どれ程個人的に知って来たかも、主ご自身によって明らかにされると思います。
主キリストの人となりを見る時に、自分も同じようにキリストに似た「よみがえりの霊のからだ」に変えられるのです。こうして私たちの心からの望みである「キリストに似る」ことが最高の形で成就します。次の節では、その望みを持つ人はキリストの聖(清)さが分り、自分も聖くなりたいと強く思うことによって自らが聖くなると言われています。これがキリストに似ることの最大の成果であり、それ以降は私たちは決して罪を犯さなくなると信じます。「心のきよい人は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)
主は創世記1:26で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(新共同訳)と言われました。この神に似せて人間を造る当初のご計画が、キリストの再臨において完全に回復し、最終的に成就されるのです。その日が本当に待ちどうしいですね。(終り)
31 03月
宗教の霊に打ち勝つ その4
リック・ジョイナー
光の天使
パウロがコリントのクリスチャンに「宗教の霊で働く者たちを警戒せよ」と言いましたが、それは始ったばかりの教会に律法主義というくびきを負わせようとする者たちに対する警告でした。彼は次にように説明しています。
「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(第二コリント11:13−15)
「光の御使い」という言葉は「真理のメッセンジャー」とも解することができます。最も偽り深く恐ろしい変装は、義のしもべになりすまし、 真理を破壊することを目的に 用いることです。サタンは聖書を引用し知恵を用いることに長けていますが、その知恵は知識の木の知恵であり、人を殺すものなのです。彼は人の欠点や落ち度を的確に指摘することが出来ますが、それはその人に解放といのちを与えるのではなく、その人をズタズタにしてしまうようなやり方でするのです。
宗教の霊から力を得た「光の御使い」は、まず最初に人の正しいところではなく間違っているところを探そうとします。この霊は通常、羊を守り真理や主の栄光を守るようなふりをしてやってきますが、実は邪悪で批判的な霊であり、常に分裂や破壊という結果を招くのです。
批判とか批評は一見知恵のように見えますが、実は最も卑劣なプライドの一つなのです。私たちが誰かを批判する時、本当のところは「自分は彼よりは良い」と宣言しているのです。私たちはある面では他の人よりまさっているかもしれません。もしそうだとすれば、それはただ神の恵みによるのです。真の神の恵みを理解するクリスチャンは、決して人を見下すような道を探すことはせず、むしろ人を建て上げる方法を探すのです。
宗教の霊と殺人
アダムとイブが善悪の知識によって生きることを選びとったとき、彼らは宗教の霊を受けたのです。その最初のあらわれは「自分中心」でした。即ち彼らは自分自身を見始めたのです。彼らがこの実を食べたあとカインが生まれましたが、カインは聖書の中で宗教の霊によって支配された者の最初のモデルです。
カインは「地を耕すもの(創世記4:2)」でした。彼の思いは「地」にあったのです。宗教の霊は、私たちを天の領域ではなく地の領域に焦点をおくように常に企むのです。「カインの子孫」は目に見えるものによって物事を判断し、「目に見えない方を見るようにして忍び通す者(ヘブル11:27)」を理解することができません。
黙示録13章には二番目のけものが「地から上って来た」とありますが、これはカインの霊の子孫は地を耕す者であるからです。「地に思いをおく、地のことだけを考える」ことは、歴史上最も邪悪なけものの一つを生み出すのです。
カインは又、自分の労働の実を主に捧げようとしました。主はその生け贄を拒絶し、アベルの血の生け贄は受け取られました。私たちの労働の実は、決して主への捧げものとして受け入れられることはできません。神が小羊の血だけを生け贄として受け入れられることは始めからの神の御こころでした。カインは訓戒を受け入れて悔い改めることをせず、アベルを嫉妬し殺害しました。自分の働きによって生きようと試みる者は、往々にして、小羊の義により頼む者に対して激しい怒りを抱くものです。
パリサイ人の中のパリサイ人であったタルソのサウロが、クリスチャンに対して怒り狂ったのはこの理由によります。パリサイ人が人生をかけて築き上げてきたものを最大限に脅かす者、それがクリスチャンだったのです。それ故にパリサイ人たちはクリスチャンの存在に耐えることができなかったのです。自分の業を土台にしている宗教は、いとも簡単に暴力化するのです。キリスト教と称するセクトで、キリストの十字架の業を自分の業に置き換えてしまった教義をもつものも、これと同じです。
主は、兄弟を憎むならばそれは殺人と同じであると言われました。(マタイ5:21−22参照)宗教の霊によって駆り立てられる者が、人を実際に殺す以外の方法でその人を滅ぼそうとすることはありがちなのです。教会やミニストリーに対して浴びせられる批判、非難の多くは、カインにアベルを殺害させたと同じ霊が怒り狂う結果なのです。
真のメッセンジャーのテスト
エゼキエル37章で、エゼキエルは乾いた骨の谷に連れていかれ、これらが生きることができるか、と主に訊かれました。次に主は「骨にむかって預言せよ」と命じられました。彼が預言すると、骨は集まってきて生き、大いなる軍隊となりました。これは真のミニストリーが合格せねばならない重要なテストです。真の預言者は、乾涸びた骨の中にさえ偉大な軍隊を見ることができねばならないのです。エゼキエルは骨にむかっていのちを預言し、骨がいのちを得て軍隊になるまで預言し続けたのです。宗教の霊を持つ偽りの預言者は、骨にむかって「お前たちはどれほど乾涸びているか」を告げ、彼らを罪に定め絶望させるだけであり、彼らにいのちを与えるとか、今の状況から抜け出す力を与えたりはしないのです。
使徒と預言者は、「建て上げ、また崩す権威」を与えられています。しかし、まず建て上げることをしないならば、崩す権利はないのです。霊的に人々を養い、建て上げてきた人以外には、私たちに責任のある人たちを正す権威を与えてはなりません。「預言者」と言われている人であっても、人々を建て上げる心を持たないならば、その人はミニストリーから取り除かれるべきだと私は思います。
しかしながら、エリの悲惨な例に見るように、羊を養い世話はしても彼らの間違いを正さないならば、その牧者はわざわいです。真の神の恵みは、「人のあら探しをする不義」と「(神が罪と定めたものを承認してしまう)聖ではないあわれみ」という両極端の中間にあるのです。この両極端のどちらもが、宗教の霊の結果である可能性があるのです。(続く)
24 03月
宗教の霊に打ち勝つ - その3
リック・ジョイナー
宗教の霊が用いるプライドという土台
宗教の霊が偽装する姿の中で最も偽り深く破壊的なものの一つに理想主義があります。理想主義は ヒューマニズムのとる一つの形であり、人間に端を発しているものです。一見それは、最高の水準を求め神の栄光を追求しているように見えます。しかし理想主義は恐らく、真の啓示と真の恵みに対して最大の毒をもつ敵なのです。それは、人々が神の恵みと知恵の中へと成長することを阻み、神の栄光を追い求めつつもまだそこまで到達していない人々が立っている土台を攻撃し破壊してしまうからです。
私たちが理想主義を掲げるならば、神が人に求めているもの、又それを達成するためにその時点で与えておられる恵み以上の水準を、その人に対して押しつけてしまうのです。 このような宗教の霊に支配されている人は、例えば、自分と同じように一日に2時間祈らない人を断罪してしまう可能性があります。人がそのくらい祈るのは神の御こころかもしれませんが、どのようにしてそこまでに達するかが、実は一番重要なのです。神の恵みは まず一日に10分祈るように私たちを招かれるかもしれません。やがて私たちはそれによって主の臨在で大いに祝福され、更にもっと主と共に時を過ごしたいと思うようになり、10分、そして1時間が過ぎても祈りを止めたくなるのです。そしてついに2時間祈るようになったとき、それは私たちが祈りを愛し主の臨在を愛するからであり、恐れとプライドからではないのです。
理想主義に根ざした宗教の霊を持つ人は、通常、「完全な教会」を探します。そしてそれ以下の教会に参加することを拒みます。他方、聖霊に導かれる人も又、教会に対しては高い望みを持つかもしれませんが、どのように小さな仕事にも自分を捧げ、その奉仕によってその教会のヴィジョンと成熟度が増すように助けようとします。聖霊は「助け主 helper (ヨハネ14:26)」と呼ばれます。聖霊によって真に導かれる人は、ただ高い所から教会を批判するのではなく、 自分が手伝えることはないかと常に探します。
宗教の霊がプライドを土台としている場合、それは完全主義によってはっきり証明されます。完全主義はすべての事柄を黒か白かに区別したいのです。ついには、すべてのもの(人、教え等々)は、100%正しいか100%間違っているという極端な判断をするようになります。もしそのような基準を人々や或いは自分自身に課するならば、私たちは重大な惑わしに落ち込むことになります。
宗教の霊を持つ者は、非常に正確に或る事に関しての問題点を指摘することが出来ますが、それはすべて建て上げられたものを崩すだけのものであり、 殆どの場合問題に対する解決策はもってはいません。すでに存在するものの進歩を止め、将来の発展を阻む失望落胆の種を蒔くのが、敵の策略です。これは「もし山頂まで登れないのなら、最初から登らない方がよいのだ。ただ自分に死ねばよいのだ」というメンタリティーに人々を陥らせるのです。しかしこの「死」は神が求めておられる「日々自分の十字架を負う」というものではなく、それを曲解し歪められたものなのです。
完全主義者は、自分にも他者にも、真の成熟と成長の息の根を止めてしまうような基準を課すのです。真の神の恵みは、山頂まで私たちを一歩一歩導いてくれるものです。神は私たちが登っていくとき、何回かつまずいたからといって 私たちを断罪されたりはしません。神は恵み深く、憐れみ深く、私たちを立ち上がらせてくださり、私たちが又進んでいけるように励ましてくださるのです。私たちは勿論頂上まで行き着くというヴィジョンを持たねばなりませんが、それと同時に、登り続けている限り、まだ頂上に達していないことで自分を断罪するべきではありません。
ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。(ヤコブ3:2)」と言っています。 主のために働くためには私たちは完全になるまで待たねばならないとしたら、誰一人としてミニストリーをする資格のできる者はいないでしょう。完全なる従順と悟りを常に私たちの目標とするべきではありますが、それは決して私たちのうちに見つけられるものではなく、「完全なるお方」の中に私たちが完全にとどまることによってのみ可能なのです。
私たちは今「ぼんやり映るもの(第一コリント13:12)」や部分的にしか物事を見ていないのですが、信仰や教えに関して更に正確に知ることに対しては常に心を開いていなければなりません。すべての惑わしの中で最も大いなる惑わしの一つは、「自分はすでに理解において完璧である」とか「自分は物の考え方、認識、行動において100%正しい」と思ってしまうことです。宗教の霊を持つ人は、通常、「自分は更なる理解に対してオープンである」と言い張るのですが、殆どの場合、それは彼らの教えに対して人々をオープンにするためであり、自分は他の考えに対して頑に心を閉ざしたままでいるのです。
主の弟子養成のスタイルは、「私に従う者はしばしば間違いを犯すが、その間違いから学ぶ機会を私は与える」というもののようです。もし自分の子供がまだ小さいのに完全に成熟することを要求するとすれば、その子が成長する道を阻み窒息させてしまいます。教会においても同じなのです。私たちは確かに間違いは正さねばなりませんが(それによって学ぶのですから)、その方法はその人を励まし自由を与えるような矯正でなければならず、罪に定めてその人の芽を摘んでしまうようなものであってはなりません。
恐れとプライド
宗教の霊が、恐れとプライドの両方を土台として働くときは、最もパワフルで人を大きく惑わす霊となります。このような宗教の霊に縛られている者は、失敗をした時は深く落ち込み後悔の時を過ごしますが、これは偽りの悔い改めでしかなく、更なる自己卑下という結果を生み、自分は主に受け入れられるためにもっと生け贄を捧げねばならないと思い込むのです。又彼らは、往々にして、次にはその逆の反応を示し、自分が他のクリスチャンよりも優れていると信じ込み、他の意見、教えを受け入れなくなります。又、人からの勧告も聞くことができなくなります。彼らの意見、立場のよりどころは、真の信念からというよりは外からのプレッシャーによります。
この種の宗教の霊は非常に巧妙で捉えにくく、それに対処、言及、対決しようとするあらゆる試みからすりぬけてしまいます。プライドに対して言及すると、恐れ、不安の念がその人のうちに起り、同情をひこうとしてきます。恐れに対して言及すると、信仰のふりをした宗教のプライドが頭をもたげます。
偽の「霊の見分けの賜物」
宗教の霊は通常、偽の「霊の見分けの賜物」を人に与えます。この偽の賜物は、ある人に対する神の御こころを知りその人を助ける道を与えるのではなく、その人の悪いところを見つけて喜びそれによって力を得るのです。これこそまさに宗教の霊が教会に最大の打撃を与える方法の一つなのです。宗教の霊によるミニストリーは、癒しや和解ではなく、分裂やダメージを教会に与えるのです。宗教の霊の知恵は善悪を知る木に根ざすものであり、その言うところは真理かもしれませんが、それは人を殺す霊をもって人に作用するのです。
この偽の「霊の見分けの賜物」は、疑いと恐れを原動力とします。 疑いは自分は拒否されたという思い、自分の縄張りを守りたい思い、不安感、自信のなさ等に根ざしています。真の見分けの賜物は、愛によってのみ機能するのであり、愛以外のすべての動機は、霊の見分けを歪めてしまいます。誰かがある人、又はあるグループに対して裁きや批判をする場合は、いつでも私たちは(その人が裁いている相手に対して愛し仕えていたことを知っている時は別として)その言葉を無視せねばなりません。(続く)
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