24 09月
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ (その2)
坂 達 也
「主を見つめて待つ」祈り
私はデイビス師がコンテンプレィティブ・プレイヤー contemplative prayer の実践者であることが分り、大変励まされております。中世のカトリックの修道僧が始めたと言われるこの「祈り方」をぜひ日本の皆様にも実行していただきたいと言う願いから、私は2003年に「主を見つめて待つ」と言う本を書いて出版しました。その本の中で、この祈り方が日本語で何と呼ばれているのか私には分りませんでしたので、私は勝手に「主を見つめて待つ祈り」と言う名前をつけました。
この祈りの特徴は、主の御前に出て、自分からは全く何も祈らず、一方的に主が語られるのを待つことにあります。そのためには、自分の心を無にすることが最も重要なキーとなります。空っぽの心で静かに主を見上げて待っていますと、内住の聖霊と私たちの霊の間で一種の霊的オスモーシス(浸透)と言う現象が起きて、神の霊の命、愛、知識とか、その時に主が私たちに語りたい生きた御言葉が私たちの霊に伝達されると言われます。但し、このプロセスは私たちの魂の活動とは無関係に行なわれます。従って、その間私たちは何も感じないことが多いのですが、ある時は主が語られることを受け取った私たちの霊が、その場で私たちの心に伝える場合もあり、その時はその内容が知覚出来ます。そうでない時でも、主から受けたものはすべて私たちの霊の中に蓄積されると言われます。私はこの祈りを曲がりなりにも一日一時間をモットーに、20年近く続けて来ました。
デイビス師はこの祈りをWaiting on God「主を待つこと」と呼んでいます。師は、これから入ろうとしている今のシーズンへの霊的準備として、個人的に毎日この「主に向き合う時間」を持つことは、特に西洋に住むクリスチャンにとって今最も必要な霊的鍛錬 discipline であると主が語られたそうです。
彼は昨年秋に一定の期間中、一日3-4時間この祈りを実行した時の経験を話していましたが、心が空でまるで鉄のようになった時、目が覚めているのにはっきりとした夢を見ることを経験したそうです。彼は、魂の活動を停止させマインドを静めることは、人生で経験することの中で最も難しいことの一つであることを認めています。しかし師は、もしあなたがこれを一日1時間、一月間続けたらあなたの人生、霊的な生活が一変するでしょうと言います。そして、「空飛ぶわし」の油注ぎがこの祈りをより深いものとしてくれると付け加えております。
主の御顔を拝する
モーセはシナイ山上で40日間、神に対面して神と話した後に麓で待っている民のところに戻って来ましたが、その時、モーセの顔の肌は神の栄光を受けて眩しく輝いていました。会見の天幕に入って神と対面して出て来た時もそうでした。ですから、モーセはその後、主と会見する時以外はベールを被るようになりました。
よく考えてみますと、残念なことですが、現代のクリスチャンでモーセのように主の栄光で顔があまりも輝いているためベールを被らなければならないような人は見当たりません。
出エジプト 33:11に「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」と書かれています。又、民数記 12:8では、神が「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」と言われました。これを見ればモーセがどれ程神と親しい関係にあったかが分ります。そして、モーセには、彼が未だよみがえった身体ではない時に、既に霊の目でかなりはっきりと主が見えていたと思われます。
ところで主は、上記の民数記12:8で「彼(モーセ)はまた、主の姿を仰ぎ見ている」と言われました。私は「主を仰ぎ見ること」がモーセをして顔と顔を合わせて主と話す間柄にさせた理由ではないかと思うのです。と言うことは「主を見つめて待つ祈り」contemplative prayerを多くすることが、もしかすればモーセのように「主の姿を仰ぎ見る」結果を生み出すのではないかと、私はかねがね思って来たのですがいかがでしょうか。
多くのクリスチャンが旧約聖書に書いてあることは律法主義の下にあるものであり、聖霊が下った後の今の聖霊時代には必要のないものとして、悪く言えば、見下げている傾向があるのを私は本当に残念に思います。ですから旧約聖書をほとんど読まないクリスチャンもいる程です。しかし、2コリント10:11で「(旧約聖書に書かれている)これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とパウロが言っていることに御注目下さい。特に「世の終わりに臨んでいる私たち」こそ、旧約聖書をもっと心して読み、そこから多くの教訓を受け取らねばならないとパウロが訴えているのです。その一つが、主の姿を仰ぎ見続けたモーセの姿です。
モーセに率いられて40年間荒野を歩いたイスラエルの民は、テント生活をしながら移動しましたが、その集団生活の中心に神ご自身が臨在され、民と共に移動されました。この神のための「会見の幕屋」は、初め宿営の外の静かなところに設置されましたが、後に正式な神の住まいとして契約の箱を安置して造られた「聖所の幕屋」に代わり、その聖所は民の宿営テント群の中心に置かれました。
驚くべきことに、この「会見の幕屋」へはモーセだけでなく、神にお伺いを立てたい者は誰でも中に入って神と時間を過ごすことが出来たのです。これは私たちのために神が造られた神と神の民との関係を表す、特に終りの時代に住むクリスチャンに神が示しておられる御国の住まい方の「型」であると信じます。
なぜなら今の私たちには神がもっと近づかれ、私たち一人ひとりの中に入って来られているからです。問題は、そのように神と霊的に密接な関係にあるべき今の私たちが、当時のイスラエル人のように、神を中心として神と共に毎日の生活を送っているでしょうか。そうすることが聖霊時代に生きるクリスチャンの基本であるのです。そのためにイスラエルの歴史が私たちにその型をはっきり示していることを忘れてはならないと思います。
コロサイ 3:1-3 に、キリストを信じる私たちは「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」と書かれております。そうであれば私たちが毎日、主を見上げながら主と過ごす多くの時間を持つことが絶対に必要であることは明瞭であると思います。
そして、その後の3:4に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(新共同訳)と書かれています。これはキリストの再臨の時のことを指していて、私たちはその時、よみがえりのからだに変えられますから、栄光に顔も身体も包まれていると言うのです。しかし、それではむしろ遅すぎる、キリストの再臨の前の今から、私たちはモーセのように顔が輝いていて当然であると私には思えるのです。
そこで、1ヨハネ 3:2 をご覧下さい。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき(主の再臨の時、私たちはよみがえりのからだに変えられていて)、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(新共同訳)
上記のみ言葉についてデイビス師は、上記の最後の部分「そのとき御子をありのままに見るからです。」を「その時まで私たちは御子を見続けて来た」と過去完了形で解釈していることに私は気が付きました。すなわち師は、再臨の主と会う時だけでなく、その以前から日頃いつも主を見上げる結果として、御霊の働きによって私たちの内側が霊的に変えられて行き、「主に似た者」になっていると共に、主とお会いする時までに、主のより深い内面を見ることが出来るようになっているべきだと言われるのです。
そのことは、2コリント3:18 で「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と言う御言葉が説明してくれます。
又、Ⅰコリント 13:12では 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時(再臨時)には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と書かれていることも参考になると思います。
しかしそれでは、皆様は多分、長い間この祈りをして来たと言う私の顔が、今もモーセのように輝いていないのはなぜかとお聞きになりたいかと思います。その答えは、マタイ5:8に書かれています。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
正直なところ、今の私は上を見上げても栄光の主の御顔が未だはっきりと見えません。それは私がモーセほど主を見上げていないからであり、その結果として、私の心が未だモーセのようにきよくなっていないからです。ですから、上記に挙げた1ヨハネ3:2の御ことばに続く3:3に「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」と言うみ言葉を私はもっと心掛けねばならないと思っております。
デイビス師は、そのことについて、バプテスマのヨハネが荒野を住まいとし、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と書かれていること、彼はイエスご自身がぶどう酒を飲んでいる時に、お酒を口にすることもせず、全くこの世と無縁の生活をしていたことを挙げます。そして、私たちも世にどっぷり浸かる生活の中で、例えば、ゴルフをすることは罪ではありませんが、そのゴルフをして3-4時間つぶす時間に(師はゴルフをします)contemplative prayerをすることを思い立つてゴルフを少し控えるとか、テレビを見るのを控えるとか、何かで自分を自制して、率先してこの世をエンジョイする生活を控えることは「霊的になることに役立つと思います」と言われます。但し宗教の霊からそう言っているのではないことを重ねて断っておられます。確かに霊的な人として知られる人の多くは spiritual disciplineをされていることに気がつきます。
そして、これからの世の終わりの時代に生きるクリスチャンは、格別の自制により「自分を清くする」ことに努力する人が主の栄光から栄光へと変えられ「キリストに似た者」になるとデイビス師は言われています。(終り)
14 09月
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ
坂 達 也
私たちが今生かされている時代が、キリストの再臨をまじかに控えた「最後の時代」であると信じるクリスチャンにとって、聖書の最後に書かれている「黙示録」に関心の無い人はいないと思います。しかしこの「黙示録」は聖書の中で最も難解な書の一つと言われるように、その解釈についての見解は、歴史的に見ても本当に多義多様に分かれております。
その中で私は最近、ポール・キース・デイビス師の考え方に非常に興味を持ち、目下師のインターネット・ウエビナーのシリーズを聞き始めておりますが、その一部を私の考えと共に御紹介したいと思います。
この「黙示録」は、皆さんがよくご存知のように、その著者である使徒ヨハネが、当時のアジア・マイナーと呼ばれる地域(現在のトルコ)に実在した「七つの教会」に向けてこの書簡を送ると言う形で書かれております。
デイビス師はこの「七つの教会」を、キリスト教の約二千年の歴史上において、それぞれの教会が広い意味で「七つの時代」を代表していると言う見解の元に、その区分について詳しく述べていますが、今の時代は、七つ目で最後の教会である「ラデオキヤの教会の時代」であると言います。
そこで、この最後の教会時代の特徴を一言で言い表すならば、それは霊的に「なまぬるい」時代であることです。それは主御自身がこの教会に対して「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙示3:16)と言われたことばに象徴されます。
つまり、最後の時代のクリスチャンは、霊的にあまりにも「なまぬるい」ので口から吐き出したくなるようだ、と主がおっしゃるっているのです。
私自身も、今の時代がラオデキヤの教会のような時代であることに関しては、デイビス師と全く同意見ですが、主が言われるように、私たちは「霊的になまぬるくなっている」ことを抜本的に反省し悔い改めなければならないと思います。
なぜ現存のクリスチャンの多くがそうなったのでしょうか。それは今が最後の収穫の時であるからであると思います。収穫の時とは、良いものも悪いものも実る、すなわち、良いものも究極の形で実りますが、悪魔の働きも究極の頂点に達する時です。ですから人間の不信仰と反キリストの霊が最も強まり、悪魔の「惑わし」が最大限に横行する時となります。そのことは聖書の多くの箇所に書かれています。
黙示3:17、18に、ラオデキヤの教会がいかに惑わされていたかがこう書かれています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
この「なまぬるさ」に完全に打ち勝つにはどうしたらよいのか、それをポール・キース・デイビス師は「黙示録4:7に書かれている天の御座の中央とその回りにいる四つの生き物のうちの四番目の生き物である『空飛ぶわし』の油注ぎを受けるしかない」と言います。そして一度この油注ぎを受けた人は、いかなる形でも「霊的になまぬるい」状態にいることは絶対に我慢できなくなる、それはちょうど光と闇が絶対に交じり合うことがないのと同じであると言い切ります。
聖書には、その後の黙示録6章で、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬と言う四つの馬が出てきます。この馬が4章に書かれている前述の四つの生き物とそれぞれ対応していることが分ります。
その四つ目の生き物「空飛ぶわし」が出てくる時が「青ざめた馬」の時です。「青ざめた馬に乗っている者の名は『死』といい、その後にはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」(黙示6:8)と書かれているように、まさにこれからの時代は、世界中が戦争と飢饉と死病で多くの人が死ぬことが預言されている時代です。その中に生きる「なまぬるい」クリスチャンが最も必要とするものが「空飛ぶわし」の油注ぎを受けることであると師は言われるのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎ
最後の時代とは、地上における悪魔と勝敗を決する最後の対決、総決算の時です。敵は最後の青ざめた馬を解き放つことを許されます。そのような戦いにおいては、単に人間の知識とか魂のレベルの知恵ではもはや絶対に勝ち目はありません。従って私たちは、鷲のように天の領域まで高く飛び、天の領域に私たちのために用意されているあらゆる霊的な情報と神の指示を得ることが絶対に必要であると師は言われるのです。
この終末に用意されている特別の油注ぎは、単に賜物と言う以上の、霊によるインスピレーション、啓示、夢、ビジョン、解き明かしが与えられ、これ等を通して神との密接なコミュニケーションを得ることが出来るのです。
そこでこの油注ぎですが、それを心から求めるクリスチャンであれば、誰でも得られるものであると師は言われます。勿論、特別の使命を受けている使徒とか預言者は、より多くの啓示が示されるかもしれませんが、基本的には、主を心から信じ、聖霊に満たされ、主の御心を求め、主と親しく交わり、とことんそれを願うクリスチャであるならば誰でもいただけるものであるのです。
ただ私たちは、それを熱心に desperately 死に物狂いで求めなさいと師は言われます。主の賜物にしても、力にしても並みの程度では満足しないで、究極のものを執拗に求めること、そのことが神からの最高の賜物の一つであると師は言います。
もし、与えられない人がいるとすれば、それはクリスチャンとは名ばかりで、あくまで主を親しく知ろうとしない「宗教的な」人たちであると師は言います。なぜなら、主と個人的な親しい関係に入っていない人、主と一つとなっていないクリスチャンは「なまぬるいクリスチャン」であって、主が吐き出したくなる人たちであるからです。
主を熱心に求める人
熱心に心から主を求める人には主がこの特別の「油注ぎ」を与えることが、ラオデキヤの教会に向かって次のように書かれていることからも分ります。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3:20-22)
今は特別の時です。主があなたのところに来て、あるいは預言者を通して、あなたに御声をかけられるのです。その時にあなたは目を覚ましていて、すかさずそれに答え、あなたの心のドアを開かねばなりません。そうすれば、それ以降あなたは、入って来られる主と親しく話し合い、いつも食事をする親密な関係に入るのです。
ここで大事なことが書かれています。それは主が言われる「勝利を得る者」という言葉です。この「勝利を得る者」と言う言葉を、主は黙示録の2-3章で七回も繰り返しておられることに御注目下さい。その意味は、クリスチャンは最終的に完全なる「勝利を得る者」にならねばならないからです。それには悪霊や病気との闘いに完全に勝利することを含みます。
多くのクリスチャンが「主を心から信じていればそれでよい。悪魔との闘いとか、癒し手にならなくてもよい」と言いますが、そのような人は、主が最終的に期待しているクリスチャンではありません。
特に師は「今の時代に病気が癒されないで死んで行くクリスチャンがあまりにも多いことに私は耐えられない、クリスチャンなら皆病気から癒されるのは当然であり、そのような癒し手たちがこれからどんどん現われる」と言います。なぜなら、クリスチャンがそうならなければ、天で主と共に主の御座に着くことが出来ないからです。主は、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」とおっしゃっています。
私は最近このデイビス師の言うことに特に注目しているのですが、師はものごとを、特に聖書に書かれていることを、今の時代においては曖昧にせず、言うべきことはきちんとはっきり教えるべきであると言います。さもなければ、本当の真理をはっきり教えないばかりに、よいクリスチャンをも惑わす結果になりかねないからです。
その一つの例として、師は、「キリストの花嫁」になる人は、「しみもしわもない」完全にきよくなることを目標としているクリスチャンであって、クリスチャンであれば皆が「キリストの花嫁」になれるのではないことをはっきり指摘すべきであると言います。終末の時代には、たとえ人間的な常識では不可能と思われることでも、聖書が約束していることはすべて、必ず実現すると師ははっきり言っています。そのために神は、そのような「完全な」人になりたいと死に物狂いに望み、真剣にそれを目指す人を求めておられるのです。このようなクリスチャンが、最後の時代に出て来る良い方の究極の域に達する人たちです。
私自身も、過去においてそのことに触れたことがありますが、例えばエペソ4:13-16に書いてある「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」を例にとってみれば、パウロが大真面目に言うように、ここに書かれていることは、主が来られる前に必ず実現すると信じて疑いません。しかし多くのクリスチャンは、その域に達するとは思いもせず望みもしないので、その領域に達しないのではないでしょうか。
そのような「完全におとなに成熟した神の息子・娘たち(ギリシャ語で fuios )」がこれからの御国で主に用いられる人々です。そのためにこの「空飛ぶわし」の油注ぎが不可欠であることを師は何度も強調しています。そして、そのような人のために、天には特別のドアが開かれていて、いつでも天に入って行ける時が来ると言われます。
間も無くこの世に帰って来られる主の元で効果的な御国の働きをするには、「神が何をされているのか」を知り(ヨハネ5:19,20)、天の「御国の見方を知る」ことが肝要であり、主と一致していないのでは決してよい仕事が出来ないことは明白です。本当に「なまぬるい霊」に打ち勝つにはこれしかないのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎは「霊的に見る目と、聞く耳と、それを理解する心を」与えるものである、と師は指摘します。
この「霊的な目と耳と、心」を持つか持たないか、あるいは与えられるか与えられないかは、神への信仰に関して、聖書を通じての最大の課題の一つであると私は信じております。この問題については、旧約、新約聖書を通してモーセ(申命記29:4)、イザヤ(イザヤ6:9,10)、イエスご自身(マタイ13:13、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40))パウロ(使徒28:26、ロマ11:8))を含む、少なくとも八回も取り沙汰されていることから見てもその重要性が理解できます。特にイスラエルの多くの民にそれが与えられなかったことが問題となっているのですが、デイビス師は、終末の最後の時代のクリスチャン(全部ではありません)にそれが与えられると言われるのです。(続く)
02 09月
神があなたのシーズンを変える ー The Divine Shift ー
ダッチ・シーツ
【このメッセージは主にアメリカのクリスチャンのために語られていますが、日本のクリスチャンへのメッセージでもあると信じます。訳者 坂 達也 】
私たちにとって、自分が今どのようなシーズンにいるのかをよく理解することは大変重要です。そうでないと、あなたがその時にいるシーズンに神が成したいと思っていることを理解せずに全く関係ないことをしてしまう結果になります。
私は自分が神より先行してしまい、その結果として焦っていらいらしたことがありました。その時は「神が私を通して何かをされる」のではなく、「神が私に何かをされる」というシーズンだったのです。
又私は、適切な時に適切にシフトしなかったり、 そのために十分備えをしなかった故にいくつかのチャンスを逸してしまいました。
かなり以前のことですが、ワシントンD.C.でミニストリーをしているとき、私はダニエル2:20−21について思い巡らしていました。
「神の御名はほむべきかな。
とこしえからとこしえまで。
ほむべきかな。
知恵と力は神のもの。
神は季節と時を変え、
王を廃し、王を立て、
知者には知恵を、
理性のある者には知識を授けられる。」ダニエル2:20−21
私がこの箇所を思い巡らしていたとき、聖霊がはっきりと私の心に「わたしはワシントンを霊的に今シフトしている。」と語られました。 私は神の民の祈りを聞かれた神が、ワシントンに霊的シフトを起されているのだと直観しました 。あの時私たちは、神の御国拡大の機会、もしかしてアメリカのリバイバルへの絶好の機会へと動いていたのです。
神のシフトに対して適切に対応する
私は今、毎週いろいろな都市でメッセージを語りながらアメリカを巡っていますが、霊的覚醒とリバイバルの様々なしるしを見ています。今再び私たちがアメリカにおける神の御国拡大の好機を迎えていることを、私は私の霊のうちに強く感じます。
しかしながら、私たちはまず自分個人に対する神のシフトを認識してそれに適切に応答することを学ぶ必要があります。 神が時と季節を変える瞬間、即ち「クロノス(普通に流れていく時間)」から「カイロス(ある事のために定められた戦略的な時)」に変る時を知るのです。
このようなシフト、即ち「耕し、立ち、信じ、祈り続けること」から「新しく開かれた扉、戦略的な機会の中へと進んでいくこと」へのシフト、は非常に素早く起こりえるのです。(イザヤ43:19「見よ。新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」)一夜にして(そのように思われるのですが)神は荒れ地に川を、不毛の地を実り豊なところに、道のないところに道をつくられるのです。
あなたは現在「長い間待つ」という シーズンの中におられるかもしれません。それは丁度アブラハムがイサクの誕生を待っていた時のように、又ダビデが王座につく日を待っていた時のようにです。その道から逸れないでください。倦み疲れたりいらいらして、その神があなたに定めた「待つ時間」を短縮しようとしないでください。あなたが収穫するものは今神が調えられ準備されておられ、あなたがそれを刈り取るべき 時が 定められてあるのです。日常の仕事を忠実に果たしてください。小さな始まりの日をさげすまないでください。善をするのに飽かないようにしてください。決してあきらめないでください。あなたのためのシフトの時はあなたが思うよりも間近に迫っているかもしれないのです。
常に見張り、断食と祈りをせよ
主の時を祈りつつ待つときには、よく見張ることも怠らないようにしてください。サタンはあなたのための主のタイミングを変えようとしますし、それがある都市や地域、あるいは国家全体の命運に関わる場合には特にそうです。
パロはモーセを、又サウロはダビデを排除しようとしました。なぜなら敵はモーセとかダビデというような神の人たちが暗やみの王国にとって大いなる脅威であることを見て取り、パロとかサウロという邪悪なリーダーたちを用いて彼らに対抗させようとしたのです。
あなたは常に敵に対する防御の手を緩めてはなりません。片手にシャベルを持ち、もう一方の手に剣をもって毎日歩んでください。(ネへミヤ4:16−18参照)
ダニエルは預言を見てイスラエルの捕囚の期間が終りに近づいており、打ち破りの好機が間近であることを知りました。そして彼はへりくだって断食と祈りに専念しました。21日経ってから、主の御使いがダニエルに現れ、彼の祈りに対する答えが来る時はすでに定められていたと知らせました。
しかし、ダニエルを疲弊させイスラエルの定められた解放の 時を妨害するためにサタンの手下が御使いに戦いを挑み、その故にその答えは遅らされました。日常生活というクロノスのシーズンの中でダニエルが忍耐し持続したことが、イスラエル国家のカイロスであるブレイクスルーへの道を備えたのです。(ダニエル10章参照)
個人のデステイニーは全体のデステイニーと関連しています。私は神の定めたシフトがアメリカに来ると信じます。それは過激的な変化と大いなる収穫をもたらすシーズンです!
都市全体が変革されます! 社会のすべての部分が改革されます!
戦略的好機
ダビデを高原に、モーセを荒野に、ダニエルを祈りの場に備えられたように、神はクロノスのシーズンに先駆者 pioneers 、解放者 deliverers 、改革者 reformers たちを備えられています。それは彼らが間もなくやってくる戦略的チャンスであるカイロスの好機を見逃さずに掴むためです。
備えをして自分が立つべく神が定めた位置についてください。あなたは、アメリカを三番目の大いなる霊的覚醒へと導くための重要な鍵となる働きをするために、神が起された者の一人となることが充分にあり得るからです。
私は今まで教会(全体)を覆って来た倦怠と疲労が取り払われつつあることを宣言します。 神のカイロス・シーズンへと踏み込むために私たちを備え待機させる新たなる活気 Refreshing がやってきます。私たちの中の炎や情熱を衰えさせていた抑圧、混乱、不信仰(それは邪悪さからではなく疲労の故でしたが)は取り去られました。断食と祈りをあなたが決意するとき、ダニエル10章にあるようなサタンの妨害による遅延は断ち切られます。勇気を出してください。聖徒たちを疲弊させるために来るものは退けられたからです!
王であり裁判官であるお方が王座に座し、聖徒たちへの恵みを宣言されています。持ち場に立ち、備えをし、クロノスの日常において忍耐してください。カイロスの時が来ようとしてます!
ブレイクスルーが近づいています!
神があなたをシフトする時のために備えてください!(終)
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25 08月
マンハッタンを祈って歩く (その2)
神と共に歩くとはどういうことなのか
坂 達 也
前回、主と共に歩いた人としてエノクのことに触れましたが、エノクの他には誰がいるでしょうか。聖書で次に出て来る人はノアです。そのノアの歴史を語るに当たって、聖書は「ノアは神と共に歩んだ人」として紹介しています。
「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)
上記でいう「その時代・・・」とは、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって」心を痛められた主が「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と言われたような時代でした。(6、7節)
しかし、ノアだけは、主の心にかなっていました。そこで神はノアに「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている」(創世記6:13)と語られました。
そこで神は、皆様よく御存知のように、唯一人の「全き人」ノアとその家族だけを生存させるために、ノアに巨大な箱舟を作らせ、彼らの家族8人と、後はすべての生き物の中からそれぞれの種類の雄と雌一つがいを選んで舟に乗せるように命じました。そして神は、地球上に前代未聞の大洪水を起こし、悪を極めた人類の残りすべてと生き物を全滅させたのです。
当時の人々は、陸の上で巨大な箱舟を造りながら人々に世の終わりが来ると警告し続けたノアをからかい嘲笑するばかりで、洪水が押し寄せ箱舟のドアが閉じるその瞬間までノアの言うことを信ぜずに死んで行きました。
このノアの洪水と箱舟の話は決して単なるおとぎ話ではなく、本当に起った恐ろしい話です。神はこの世の終わりに、頑なに真の神を拒否し続けるノアの時代と同じような不信仰な人間に対して「最後の裁き」の審判を下すことが聖書では明確に預言されています。
さてここで、私が問題にしたいのは、ノアのどこが正しく、全き人であったかと言うことです。私はノアがすべてにおいて神の言われることに聞き従い、それを忠実に実行したことによって神の目に「正しく、全き人」であったのであると思います。
しかも驚くべきことに、ほとんどノア一人と後は家族数人だけで、全長132メートル、横幅22メートル、高さ13メートルの巨大な何万トンクラスの木造船をこつこつ作り上げたのです。恐らく百年以上掛ったことでしょう。材料の原木を山で伐採して海辺まで運び込み、それを製材機械で加工して、正確に組み合わせて造ったのですから、その方法と製材道具、それに精密な舟の設計図、造船技術に至るまでのあらゆることを、どうして経験のない素人のノアが考え付くことが出来たのか、想像を絶します。
考えられることは唯一つ、ノアは毎時毎分すべてを神に聞いて、神はそれに綿密に答えてノアを指導しながら建造して行ったということです。これは本当に驚くべき神とのチームワークであったと信じます。
私はここに「神と共に歩く」意味があると思います。念のためと思い、私はヘブル語で「歩く」と言う原語を調べてみました。そして分ったことは、この歩くという動詞は、ほとんどの場合、文字通り身体を動かして行く、来る、歩く、旅をすることを指しており、比喩的に使われているとしても、「人が身体を動かしている時は、いつも神と共に、神の御前で、神の御心に従って行動をする」ことを意味しているのです。
と言うことは、私たちが朝起きて寝るまでの間、身体を動かしている時間は、ノアのように、いつも神に聞き耳を立て、分からないことはすべて神に聞いて神の言うことに従うことが「神と共に歩む」ことであると言うことになります。その結果が神が喜ばれる「正しい人」で「全き人」になる訳です。
そこでもう一人の例を見てみましょう。それはアブラハムです。神は彼にノアと同じことを要求しました。
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」(創世記 17:1)
新共同訳では、主が言われた部分を「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と訳されています。
エノクは300年間神と共に歩き、生きたまま天に取られました。それはエノクが神と親密に話し合いながら、言われたことを忠実に実行したから「正しい人で全き人」と言われ、神に喜ばれていたからです。(ヘブル11:5)
リック・ジョイナー師は天で色々な人に出会った中で、エノクと言う人は最もハッピーな(喜びに満ちた)人であったと言っています。それほど「主と共に歩く人」の人生は最高にすばらしい人生となるのです。
主のしもべ Bond servant になる
もう二十年も前になりますが、私は17世紀に生きたブラザー・ローレンスと言う人の本を読んで心を打たれました。彼は、何をしていてもいつも主のことを思い、主を喜ばすこと以外には何もしない人であったと言うのです。主と絶え間なく会話をしながら、主の臨在の中で主と二十四時間共に語り合いながら生きる人でした。夜は4-5時間必ず主と時間を共に過ごしました。
ブラザー・ローレンスを知った後で、私は同じくフランス人で17世紀に生きたマダム・ガイヨンの本を読みました。そして、彼女のように本当にすべてのことを神の手に委ねる決意をしようと思いました。彼女が提案する「主に完全に所有される、possessされたい」と思ったのです。
彼女は言います。「それは全面的に自分の存在を放棄し、神に手渡すことです。具体的に言えば、あなたの人生で起こるすべての事、あなたの身に毎時毎分起っている事の総ては神の御心か、あるいは神の許可を得て起こっていることを心から信じるのです。総てが神から出たもので、総てがあなたに必要なことであると信じなければなりません。」
マダム・ガイヨンは「あなたが主に対してそこまでの信仰が持てるようになれば、あなたの身にどんなことが起ってもそれを安心して受け入れることが出来るようになります。」と言います。これは大変重要なことであると思います。それでなければ、何が起こっても、「いつも喜んでいなさい。」「すべてのことに感謝しなさい。」と言う聖書の言葉はうそになります。
ガイヨン夫人は問いかけます。「あなたは真に心から全面的に神に自己放棄することを願いますか。これがあなたの生涯を通しての心構えでなければなりません。そうすれば、あなたは神によって完全に覆われ、神の支配下に入ります。」
「あなたが何かしたいという思いが来たら、その思いがどんなによいと思っても、自分からの欲望ならばそれを拒否して下さい。これを徹底的に行うことによって、自分には全く無関心にならねばなりません。 本当にそれを実行すれば、考えられないほどすばらしいことが起き始めます。その結果は自分から完全に解放され、後は主の御心だけを熱望するようになります。」「そうなると主があなたを離さなくなり、主と深い深い愛の関係に入ります。」とマダム・ガイヨンは言います。
私自身の話にもどりますが、私は当時、自分を主に完全に放棄することが、自分を主の十字架につけることであると信じました。
そして、私はそれを実行しようと一度は決意をしたのですが、長続きはしませんでした。その後幾度か決心をし直しながら、自分のふがいなさをその都度主に悔い改める年月が過ぎて行きました。つまり、毎日毎時毎分「主と共に歩く」ことはとても出来ないことが分ったのです。
今年になってからも神に possessされたいという思いが私にもどって来ました。そして、徐々に自分がその決意を曲がりなりにも実行出来る日が近づきつつあることを今、感じております。少しづつその目標に向かって主が私を変えてきてくださったからです。
私が主に全面的にpossessされたいと言う願いは、実は新しい考えでも特に崇高な考えでもありません。昔から聖書に書かれていることです。それは「主のしもべになる」ことです。旧約聖書に出て来るモーセとかダビデ、あるいは新約の使徒たちは皆、自分たちを「主のしもべ」、すなわち英語で言うBond servant と呼びました。旧約の時代の古い昔から「奴隷」と言う身分の使用人とか労働者が多くいて、その人たちはお金で売買されていました。
クリスチャンはまさにイエス・キリストが主人であり、クリスチャンになった時にキリストが御自分の血潮で代価を支払うことによって私たちを買われた結果、私たちはキリストの「持ち物」となったのです。自分の一生を主人の持ち物possession として捧げる、自分には何も権利がない、すべて主の命令に従う「しもべ」になることを自らの意思で喜んでなったのです。その代わり主がそのしもべの生活の一切の面倒を見て下さいます。
奴隷は主の命令で「死ね」と言われればそれに従わねばなりません。給料も支払われず、一定期間食べさせてもらって働くだけです。しかし、その義務期間が終了したとき、もしその奴隷が終生その主人に仕えることを自らの意思で選ぶならば、その奴隷は家族共々一生その主人に仕える者となります。その時、その家の門柱にその人の耳を錐で刺して穴が開けられBond servant となります。(詳しくは出エジプト21:5-6を参照下さい。)
御国の時代
今までの時代は、特別の賜物を持つ限られた人がミニストリーをしていた「教会時代」であったとすれば、これからは「御国の時代」に入り、キリストに似た者が100%主の方法でミニストリーをする時代になる、と今多くの使徒的・預言的な方々が言っています。
ある人は、自分に死んで主に100%委ねている人には、聖霊に加えてイエスご自身が霊の形で入って来られ、主が直接業をされると言います。これが主によって完全にpossess された形であるのかもしれません。
これからは使徒行伝に書かれているような、奇跡と癒し、死人をよみがえらせる業ですら日常茶飯事のように起ることが期待されます。
そこで皆さん、御国の業が出来る人になる第一の資格は何だと思いますか。実に簡単なことです。それはイエスが山上の垂訓で最初に言われた「心の貧しい者」になることです。それは真の主のBond servantとなることに等しいと私は思います。主は「天の御国はその人たちのものだから。」と言われました。
これはどう言う意味でしょうか。それは洗礼を受けたクリスチャンが「よみがえって霊で生きる」ことを本当に実行しようとする時に、最初に気付いて、「主よ、私の中には何もありません。何を始めることも出来ません。」と主に告白することです。
「霊に生きようとしても自分の霊の中には何もない、あるものはみな無益無用 futility なものばかりである」と気付く人です。これは Oswald Chambers 師が言われたことばです。
そのような人は主にすがりつき100%主に頼ります。
これからのミニストリーはこう言う人たちで行なわれると言われます。皆さん、大勢の成長しないベービーばかり作るのが主のお望みではありません。病人が来ればすべての人を癒されたイエス・キリストに似た「弟子」を作り、その人たちが、主以上の奇跡を起こす時代になるのであると信じます。そのために教会の中身と仕事の方法が、これから主によって抜本的に変革されるでしょう。
私はこれから来る世の終わりのさばきの時、あるいは刈入れの時には、ちょうど洪水のさばきの折に「主と共に歩く」ノアだけが用いられたように、やはり「主と共に歩く」すなわち、主の完全な持ち物になっている「全き人」だけが用いられる可能性が充分あると信じます。従って真に御国を「主と共に歩く」皆さんに大いに期待しております。(終り)
18 08月
すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる
フランシス・フランジペン
私たちはクリスチャンとなり救われて慰めを得ているかもしれませんが、クリスチャンになっても私たちが完全になった訳ではありません。私たちに中にはまだ多くの悪霊の要塞があります。ですから、それらの悪の要塞のいくつかについて考えてみたいと思います。
クリスチャンの中で次のような要塞が一つもないという人は殆どいないでしょう。 即ち不信仰、冷淡、恐れ、プライド、人を赦さない心、情欲、貪欲等であり、他にも多くの要塞を持つ可能性があります。
私たちは自分のことはいとも簡単に赦してしまうので、自分の人生の中の悪いところや横暴なところをはっきり見極めることはとても困難です。 それは私たちの思い、態度、ものの受け取り方に関することです。私たちは自分自身を正当化するのと同じ熱心さで、自分の考え、思いを正当化し防御しようとするのです。「 人はその心の中で考える通りの、そのような人物となる。As a man thinks in his heart, so is he. 箴言23:7KJV」と書かれている通りです。
言葉を変えれば、その人がどのような人物かという本質は、その人の思考の中にあるということです。ですから、どの悪霊からの解放であっても、それが本当に達成されるためには私たちは正直に自分の必要を認めてそれを告白せねばなりません。すべてが大丈夫、うまく行っている、というふりをすることを止めて、へりくだって助けを求めねばなりません。実際、先に述べたように神が一番に取り除かねばならない私たちの要塞はプライドです。自分には解放が必要であることを進んで認めることなしには、決して悪霊の要塞から自由になることはできません。
自分の悪いところ、間違っているところを認識するためには、神の義の基準を知らねばなりません。ダビデが感極まったとき、 ヨブが惨めさのどん底にいたとき、そして、人生について思いを巡らした人たちすべては、同じ問い、即ち「人とは一体何者なのか?」という問いに直面するのです。
ヘブル書の著者も又、この質問をしていますが、彼が受け取った答えは 神の御顔を仰ぐようにと私たちを教え、イエスを見させてくれます。(ヘブル2:9)
御父のご計画として、「人が何者であるか」という奥義は、(人間)イエス・キリストがどのように生きられたかの中に見いだされます。キリストは「多くの兄弟たちの中で長子となられました。(ローマ8:29)」主イエスは天の創始の長子であり、人類のための御父のご計画です。人の奥義を考えるとき、私たちはイエス・キリストを見上げることによってその答えを得られます。主は救い主であるばかりではなく、私たちをご自分と同じ姿にしてくださる内住の主であるのです。(ヘブル2:10、ローマ8:29参照)
又、主イエスだけがイエスでありえる(主以外の人は誰もイエスのようには、イエスにはなれない)ことも認識し悟ろうではありませんか。私たちがますますイエスに服従し明け渡し、 私たちが主の内にとどまり、主の御ことばが私たちのうちに留まるとき、主はただ「主のいのちに似ている」というだけではなく、「主のいのちそのもの」を私たちに内に造りだしてくださるのです! キリストご自身が私たちの内に生きるということが、神の永遠の目的である「人をキリストと同じ姿にすること」を成就させます。
私たちの内に主イエスの臨在(イエスそのものであるその方)が来られることが、 悪の要塞を打ち壊すための私たちの武器を大いに力強いものとし、私たちの命ずる言葉に真の権威を与えるのです。
ですから、私たちは自分のどのような思い、考え、態度であっても、それがイエスに似ていないもの、イエスの教えと違うものならば、それを客観的に吟味することを学ばねばなりません。そして、そのような思いをつかまえて虜にし、間違った態度を十字架にかけねばなりません。そして私たちの内に主が来られる道を開けねばなりません。主の臨在(主ご自身)がどんどんと増し加わり、それが私たちの霊のなかに全くと言ってよいほど吸収され浸透し切る、それによって、私たちはただ主を信じるだけではなくて、主のようになったと信じるようにならねばなりません。主の愛と、主の思いと、主の願いそのものが私たちの内から自然に流れ出す――それは単に「似たもの」としてではなく、ちょうど、ぶどうの実がぶどうの木から自然に実るように、です。
自分の内にある悪霊の要塞が何であるかをはっきり認識してそれを打ち壊そうとするとき、二番目に打ち壊さねばならない要塞が私たちにはあります。それは不信仰という要塞です。その要塞は私たちに「キリストと同じ姿になることなど不可能である」と告げ、すべての霊的成長を虜にして止めてしまうのです。この嘘と私たちの心をしばる鎖を、私たちの人生から打ち砕かねばなりません。なぜならキリストの似姿になるのは可能であるばかりか、それは私たちのディステニーであるからです。
ですから今祈りましょう。聖霊があなたの心を満たし洪水のように溢れてください。「キリストのようには絶対なれない」という不信仰の要塞で苦しめられているならば、その偽りは今から打ち砕かれ始めますように。
祈り「主イエスよ、あなたに従います。私は、すべてのものを従わせるあなたの御力により、私の戦いの武器は要塞を打ち砕くほどに力強いものであることを、神の御ことばによって今宣言します。(第二コリント10:3−4参照)『私は絶対にイエスのようにはなれない』という偽りを、私が罪を犯し妥協する言い訳に用いていたことを悔い改めます。イエスの御名によって私の不完全な、罪深い、古い性質を断ち切り、神の恵みと聖霊の力によって私の心にある不信仰の要塞を打ち砕きます。イエス・キリストの完全な贖いにより、私は新しく造られた者となりました。そして主と共に主の恵みのうちに歩むとき、私は栄光から栄光へとキリストの形imageへと絶えず変えられていくことを信じます。アーメン」(終り)
Adapted from the book The Three Battlegrounds, by Pastor Francis Frangipane.
Francis Frangipane
Ministries of Francis Frangipane
Email: francis1@frangipane.org
Website: frangipane.org
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