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Walk With God Ministries

20 02月

三月に起こる画期的な出来事            ダグ・アディソン                    2014年 2月20日


 

 

三月に起こる画期的な出来事

 

ダグ・アディソン

 

物事が明瞭になる

 現在、物事がどうもはっきりしないように思えても、どうか心配しないでください。2月のあやふやさは、月末に向かうにつれてどんどんと明瞭になって行きます。3月には物事が明確になリ始め、画期的でポジティブな出来事が起り始めます。2月末には雲が晴れていくのを期待してください。そして3月から4月一杯にかけて神はあなたに励ましを注いでくださいます。

 

2013年の敵の攻撃はあなたの権威に変る

2013年におけるあなたの苦難、戦いは何でしたか。敵はどのように攻撃して来ましたか。2013年の攻撃が今年あなたの新しい権威の場となります。多くの場合、2013年に敵はあなたをひどくやり込め、あなたに事を断念させようとしたのです。

それでも止めなかった人々に、神は新しいレベルの権威と油注ぎを与えておられます。しかし、今年神からの新しい昇格を受け取るためには一つの鍵があります。それは私たちが人を批判、告発することを止めることです。神はへりくだって人を愛することの出来る人に新しい油注ぎと権威を解き放っておられるのです。

今のための聖書箇所はマタイ7:12です。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

神は 「もし誰かに対してわだかまりや赦せない思いがあるならば、今がそれを捨て去る時です。特にもし自分が正しいという証拠を握りしめているのなら、それを捨てなさい。今は  あなたのために神が戦ってくださることを信じるべき時であり、すべての不満や遺恨を捨て去る時です。  不満や遺恨は、あなたが今年昇格できる資格を剥奪してしまうからです。

 

新しいアイデアと発明

 私は今月ある預言的な夢を見たのですが、それは、神は今、新しい戦略、アイデア、発明を天から解き放っているというものでした。夢の中で私は一人の天使の横に立っていたのですが、突然私の手の中にハイテックな傘が現れ、それは私を悪天候から守るだけではなく、内側から人をリフレッシュする細かい霧がおりていました。

この夢の意味は、  創造と発明の霊をもたらしてくれる天使は、それと同時に私たちを外敵から守ってくれるということを表しています。私たちは神に守られますが、それと同時に新しい 戦略と発明は、これからの厳しい時代の中で御国のための財源を生み出すのです。

又、私はひどく厳しい天候、気象の夢を幾つか見ました。神は私たちに「物事がどのように悪く見えても心を騒がせないで、どんな状況の中でも神はよいチャンスを私たちに与え祝福してくださることを信じなさい。」と言っておられます。

神は深刻な飢饉の時に100倍もの収穫を刈り取る戦略方法をイサクに与えられました。創世記26:12に「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」とあります。

 

スーパーボウルのスコア

今年、アメリカのプロ・フットボールのスーパーボウルは、それほど大したことはありませんでした。(あなたが勝利したシアトル・シーホウクスのファンだったならば勿論別でしょうが)しかし、その最終のスコアに私はとても興味をひかれました。

最終スコアは「シーホウクス43:ブロンコス8」でしたが、それを見たとき、私は力強い言葉でいっぱい書かれた有名なイザヤ43章を読むように神に導かれました。この箇所で神は、困難な時の慰めを与えておられます。それは私たちが神によって徳を備えた者に形造られ、聖霊に従うとき、 人々を新しいものへと導くことが可能になるということです。(イザヤ43:1−2、5−8、18−19)

最終スコアである43対8という数字をイザヤ43:8に当てはめて見てください。「目があっても盲目の民、耳があっても耳しいた者たちを連れ出せ。」

神は人々の目と耳を開けておられます。聖霊の力を全く知らない人々が、神の名で呼ばれる人たちによって導かれるのです。シーホウクスのフルバックであるデリック・コールマン選手は聴覚の不自由さがありましたが、決してあきらめなかった故に聖霊の助けにより多くの新しい権威を授けられました。

イザヤ43:18−19「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、私は荒野に道を、荒地に川を設ける。」

人生という試合で神がチャレンジされることは、私たちの徳が高められていくとき、即ち様々な試煉に合うときを喜び楽しむということです。あなたの心が神によって変えられて行くことは、神のすばらしい慈しみをまわりに表すことになります。イザヤ43章を全部読んでみてください。あなたの人生の中に祈りこむべき神からの約束が一杯詰まっているからです。

 

人を裁くことを止める

神が何か新しいことを始められる時には、往々にしてその前のムーブメントはそれに対して批判的になります。これは教会の歴史を通して繰り返されて来たことです。神は今、新しいことをされていて、今までキリスト教 Christianity から退けられていた人々を引寄せておられます。「神を必要とする人であれば誰でも裁かずに暖かく受け入れるように」と、私はどこに行っても人々を励ましています。

私たちは人々を助ける前に 、まず自分の心の中に人を批判し裁く思いがあるかどうかを調べてください、と神に願う必要があります。私は次のような祈りをこのところずっとしています。「神よ、私自身の中にあるものを、敵が私に見せまいとしていることを見せてください。」そして又、「私が他人に対して  持っている良くない思いが心に中にありましたら教えてください。」とも祈ります。人を批判し裁く思いを無くすときに、自分とは異なる人々をも愛して受け入れることが更に出来るようになります。

私たちがそのようにし続けられるように助けてくださいと、共に祈ろうではありませんか。その時に私たちは人を裁かない目ではっきりと見ることができるようになり、多くの人に影響を与える新しい権威をどのように用いればよいかを神に聞く方法を見つけることができるでしょう。(終り)


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15 02月

生ける水の泉       リック・ジョイナー         2014年2月16日


生ける水の泉

 

リック・ジョイナー

 

羊飼いのいない羊を見て憐れみを感じた主は、彼らの羊飼いになられました。又、暗やみに住む人々を憐れまれたとき、主は彼らの教師となられました。まことの霊的権威はすべて愛を土台としています。  神の愛が自分の心に溢れ発露したと知るとき、私たちは自分の召しと果たすべき使命の場所を知るのです。

神は私たちをこの世の基が据えられる前に創造されたお方です。ですから、私たちの内に心からの真の願いを入れられたのは神です。イエスは生ける水が「その人の心の奥底から流れ出る」言われました。ですから私たちが神によって創造された目的は、私たちの心の一番深い願いと結びついているのです。私たちの中にある一番深い願いを認識することは、神が私たちの内に設けられた生ける水の泉を開くためには非常に大切で不可欠なことです。この泉は一度開かれたならばその流れは止むことはありません。

 

しばしば私は人々から相談にのったり指導するメンターになってほしいと頼まれます。私はそのように頼まれることは感謝しますし、名誉なことだと思います。しかしながら、その人に対する特別な愛を主から受け取らない限り、  そのような役目を決して引き受けません。私がその人のために出すべき生ける水は、私の「心の奥底」から湧き出なければなりません。そうでないと私がその人に与えられるものは、単に原則的なものだけになってしまいます。原則的な教えを示すことは助けにはなるかもしれませんが、イエスの大宣教命令が示唆する弟子訓練を指導することには遙に及ばないものです。

 

私たちは自分の子どもたちを心から愛するので、  自分自身が達成した域以上に子どもたちが育って秀でたときには大変喜びます。そして、そうなることを彼らのために心から祈ります。霊的な子供たちに対してはそれと同じか、むしろそれ以上でなければなりません。もし私が誰かのメンターになるならば、  その人が私が達した域を越えてより成熟することを心から願います。もし私が自分の仕事の一つとして(本当の主の愛持たないで)メンターになるならば、私はただの雇われ人にすぎません。

 

 ある一つの国を弟子訓練するように召されたときも同じことが言えます。その国に対する主の愛を私たちがしっかり持ったとき、主が私たちをその国のために召しておられることがわかります。しかし、主の愛は人間的な愛を越えるものであることを私たちははっきり理解する必要があります。その違いは何であり、どのようにして区別できるのでしょうか? もしそのような質問を私たちが持たねばならないとすれば、そのこと事態がまだ主の愛を充分にいただいてないことを示していると思ってよいでしょう。主の愛とは人間的な同情とか魅力、親しさとは違います。なんとか言葉でそれを伝えようとしても私にはうまく言い表すことができません。それは経験しなければわからないものです。

 

それではどうすれば経験できるのでしょうか? まず第一にそれを願うことです。ヨハネ17章で、主イエスは「御父がイエスを愛された愛が私たちの中にあるように」と祈られました。神の御子の祈りは必ず聞かれることを私たちは確信できます。御父と同じ愛でイエスを愛するキリストの弟子たちが地上を歩く日が来ることを私たちは知っています。ですから、私たちはそのような弟子の一人となれるように絶えず願うべきであると思います。(終)


10 02月

イエスは私の恋人              グラハム・クック                2014年2月10日


イエスは私の恋人

 

グラハム・クック

 

「イエスは恋人」というと、最初は少し奇異な感じがするとは思います。しかし2月はバレンタイン・デイがあり、それは私たちの人生で大切な人々に感謝を表す日です。でも私たちは、イエス様がその大切な人々の中のお一人であることを忘れてしまいがちです。  バレンタイン・デイに、もし私が大切に思っている誰かにカードを書いたり、詩を書いたり、何か意味のあることを小さな形で表そうとするのであれば、私はイエス様にこそ先ず、それと同じ喜びと感謝を表すべきではないかと思うのです。

そこで私は、今年はイエス様を「私の恋人」として詩を書くことにしました。皆さんもイエス様をこそあなたが愛する方として何かの方法でそれを表されるようにチャレンジしたいと思います。

もし何をしたらよいのかわからないと思われる方のために、ここにいくつかのアイデアを書きます。このままお使いになってもいいですし、また何かを加えたりしてどのように変えてくださってもかまいません。

  • 簡単にできることは、その日に祈りと黙想のために意識的にいつもより時間をかけることです。毎日の生活が忙しくなると、主との関係が希薄になってしまいがちです。ですから少しゆっくり時間をとって主との関係を回復してください。主に耳を傾け、今あなたが主のあなたに対する意図を感じていない部分の中にも主の御こころを見つけてください。
    • イエス様に手紙か詩を書いてください! 次の文はあなたが書き始める助けになると思います。
    • 1.次の文章を完成してください。「私は ーー の故に主が私を愛してくださっていることがわかります。」
    • 2.「私は主に愛されている」と特に強く感じた時のことを書いてください。
    • 3.FRIEND とかSAVIORの文字を縦に書いて、それぞれの文字を頭とした文を横に書いてみてください。

「イエス様のこういうところが一番好き」ということで、自分もそうなりたいと願うことを書き出してください。そして手作りのカードに書いてください。 その中で一番あなたにとって難しいことを一日中念頭において実践し、それによって神の愛があなたから輝き出るのを人々が見て、バレンタイン・デイがそれらの人々にとってもすばらしいものになるようにしてください!(終り)


03 02月

詩篇23:繁栄への新しい道           チャック・ピヤース                 2014年2月3日


詩篇23:繁栄への新しい道

 

チャック・ピヤース

 

神の義の道を歩む人たちへ 

 

今週の日曜礼拝は、ワーシップ、ミニストリー、啓示のすべてにおいて多様で、大変すばらしいものとなりました。

主が次のように言われるのを私はききました。「あなた方のうちのある人たちは、ある事柄に関してわたしが『そのドアを閉めなさい』と告げたにもかかわらず、それを閉める力がありませんでした。ですから、そのドアは未だ開いたままの状態になっており、それが理由であなたは自分を将来に導くために開けるべきドアを見つけることが出来ないのです。わたしから新しい力を受け、その力で前のシーズンの閉じるべき一つのドアをしっかりと閉めなさい。なぜならば、そのドアから嘆きがまだ入ってきています。混乱が入ってきています。別のところに追いやるべきだった何かを捨てきれない思いもまだ入ってきています。

ですから、今日そのドアを閉めなさい。前のシーズンのものであるそのドアを閉める力を受け取りなさい。そうすればわたしはあなたの力を幾倍にも強くするので、あなたは新しいシーズンへと招きいれる新しい一つの新鮮なドアを開けることができるようになるでしょう。あなたが今受けている試練の只中でわたしが招く場所に上ってくるならば、わたしはあなたが見ることのできるひとつの音 sound を解き放ちます。今日は音があなたの目を開くときであり、あなたが試練の只中で見えなかったものをわたしが見えるようにする日だからです。そしてその時から、わたしはあなたがどこで何をしなければならないかを解き放ちあなたに知らせます。」

主は続けて言われました。「今シーズン、わたしは羊を見つける『羊狩り』に出かけます!」これは「主は必ず私たちの居場所を見つけ、私たちをそこから私たちの行くべき未来へと導かれる」という意味だと私は受け取ります。

今週は詩篇23篇をもう一度読み、深く思い巡らすべき週であると信じます。23篇は苦悩と苦難の中にある時に慰めを与える詩篇であると多くの人は解釈していますが、ヘブル語をよく理解すれば、それ以上の意味、すなわち繁栄への道を示しているのです! ヘブル語で「(義の)道 path」 は ‘agol’ であり、それは「回り巡る」とか「サイクル」を意味します。であれば、この詩篇は、主が私たちを「義のサイクル」に導き入れられることを言っているのです。それは毎年やって来る主の祝日(Feast of Yahweh)と関連 しています。祝日というヘブル語’Chag’ はサイクルを作ることを意味します。もし私たちがイスラエルの祝日を理解するならば、サイクルをも理解することになり、繁栄へと正しく導き入れられ、何も乏しいことがない状態になるのです。(終り)


26 01月

2014年への期待 坂  達 也          2014年1月26日


2014年への期待

 

                 坂  達 也

 

新年を迎えてから今までの三週間に、本年に対する三つの預言を既に御紹介して来ましたが、この辺りで私自身が今特に強く感じていることをお分かちさせていただきたいと思います。と言いますのは、私は昨年秋から今年に掛けてかなり多くの預言を読ませていただきましたが、そのどれよりも強く私の心を打ったのは、はっきりした預言の言葉ではなく、モーニングスター・ジャーナル1月号に載っていたダッドレイ・ホール Dudley Hallと言う方の短いメッセージでした。それでは先ず私が要約したホール師のメッセージをお読みください。

 

「パッションを持つ -ダッドレイ・ホール 

 

御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)

コロサイ人への手紙に書かれている生き方を見て、それが熱狂的passionate な人たちの生き様であるという結論に達しない人はいないと思います。現代のクリスチャンのクリスチャニティーに対するカジュアルな(普段着的な)アプローチは、1世紀に生きたクリスチャンの生き方とは全く別なものであり、新約聖書に書かれていることは今の時代のクリスチャニティーとは無縁のもののように思えます。

他の信者の面倒を見るために自分の家と持ち物を売ったり、自分の首を切り落とす権力を持っている権威者の前に引き出されても、堂々とキリストだけが自分が仕える主であると言い切る大胆さを持つ、あるいは悪辣で卑怯な仕打ちをする敵を愛しその悪行を心から赦すことなど、今の時代には考えられないことです。

現代のクリスチャンは、今のこの世的カルチャーの考え方 value system をほとんどそのまま受け入れてしまっているような生き方をしています。イエスがクリスチャンに与え、期待している生き方は、決してカジュアルで何気なく暮らす unintentional クリスチャンによっては生きることは不可能です。イエスの期待に応えるには情熱 passion が必要です。

 

人間の体内に情熱を起させるのは心から怒りを覚えるか、それとも愛によるか、そのどちらかです。この世の中の不平等に義憤を覚えて革命を起こした人たちはおりますが、聖書には人の怒りは神の義を実現するものではないと書かれていますから(ヤコブ書1:20)イエスに仕えるための燃えるようなエネルギーと動機を与える情熱 passion となるのは愛です。

イエスは、御父の愛に全面的に信頼を持ち、何が起こってもひるむことのない不動の信念によってすべてのことに立ち向かいやり遂げられました。その確信は日頃から御父を深く親密に知る知識から来ています。まさに主を深く知ることは主を愛することであると言う真理です。

 

私たちに主に対する全き信頼が必要な時には、主は、その必要を充たすために、主ご自身を私たちに表して下るので、私たちは、その時私たちに必要な主のお考えと見方=「主の状況展望 perspective 」を得ることが出来るのです。こうして私たちが神によって示される慈愛、うるわしさ、神の望んでおられることを一目でも(霊的に)見ることが出来る時はいつでも、私たちの内に熱烈な情熱が一段と輝き炎え上がるのです。」(要約終り)

 

主にしがみつくヤコブ 

 

私は1月22日の早朝、主の御前に出た時に、前触れもなく突然「ヤコブのように主にしがみついて、主の祝福をいただくまでは主を離しません。」と言う思いがこみ上げて来ました。

そして、天へのはしごを見上げている自分を見ていました。とっさに私は、これこそ今年私がするべきことである、と言う自分の決意を表すものであることが分かり興奮しました。

私たちは皆それぞれに、神からいただきたい賜物を長い間祈り続け、その祝福の約束を信仰で受け取っておりますが、その実現が遅れています。私もそうです。その祝福をいよいよ今年から受け取り始めることは、多くの預言者によって言われております。しかし、唯待っているだけではなく、主にしがみついて受け取るパッションが必要であると言う強い思いが私に与えられたのです。

 

そのために主は、私たちもヤコブと同じように先ず「もものつがいを」はずされる必要があることを語っておられます。もものつがいをはずされたヤコブは、全身全霊で一層主にしがみついて思い切って主と格闘しました。これを見て主は「あなたは勝った」と宣言されたのです。すなわち、自分の肉の力には頼らずに、主にのみすべてを頼る心が出来た時に、私たちはヤコブと同じように戦いに勝つて、主の祝福を受ける用意が整うのではないでしょうか。

 

びっこをひくイスラエル-それは私たちの名だ

 

創世記32:24-31に出て来る上記の話は、私たちと非常に深い関係があります。先ず、ヤコブの前に*主イエス・キリストが現れた(聖書には*「ある人」としか書いてありませんが主イエスを代表する御使いであると言われています。)のは、ヤコブがイスラエルの国境を越えてイスラエルに足を踏み入れる直前の出来事であることです。これは、私たちクリスチャンが今イスラエルと言う名の主の御国 kingdom に霊的に入ろうとしていることを表しているように思います。

次に、*主御自身が現われてヤコブと取っ組み合いをしましたが、ヤコブのもものつがいをはずした後に、尚食い下がって離れないヤコブに自分の名前を敢えて言わせました。そしてヤコブと言う名前が意味する「だまして勝とうとするこの世的にずる賢い」という彼の性格を変え、新しいイエスに似た性格を象徴するイスラエルと言う名前を彼に与えました。イスラエルと言う名の意味は「神の皇太子、神が支配する、勝つ、神と共に支配する God’s prince, God rules or prevails 」です。ヤコブは神の御国に入るために「御国の王であるイエスと共に支配する人」と言うすばらしい名前をいただいたのです。又、イスラエルと言う名はイエスの別名の一つでもあります。(イザヤ49:3、ホセヤ11:1、マタイ2:15、16、出エジプト記4:22等)特にイザヤ43:7「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」を見れば、私たちすべての異邦人クリスチャンの名前もイスラエルであると言えると思います。

 

すなわちヤコブはこの時点で主と出会いクリスチャンになったと私は信じます。それだけではなく、私はヤコブは「キリストの弟子」になったと思います。なぜなら、彼はキリストと格闘すること(霊的に執拗に祈り、主と対話すること)を通して、人間的なずる賢い性質から「キリストに似た者」と言う性質に変えられた状態がここに表されていないでしょうか。それは主と密着して個人的な薫陶を得る弟子訓練を受けることによって、成熟したキリスト者となることを象徴していると思うからです。

そして「びっこをひいている」と言うことが重要です。それは肉に死んでいる(ガラテヤ2:20、コロサイ3:3)ことが象徴されているからです。

 

主に対して熱烈な愛を持っにはどうすればよいのか

 

上記の例でヤコブは主キリストに対する愛をどのように持ったのでしょうか。先ず言えることは、主なる神が、ヤコブに個人的に(御使いとして)現われて下さったことです。これは大変なことであると思います。神とは当時さばきの神として恐れられるのが通常であったと想像されますが、その恐ろしいはずの神が自らヤコブの相手をしてくれ、本当に身近に実際に肉の形で彼と取っ組み合いをして下さったのです。ヤコブは最初は恐れを感じたかもしれませんが、そのうちに、その密接なスキンシップによるもみ合いを通して直ぐに恐れが消え、むしろ主のやさしさ、思いやり、情愛の深さを強く肌で感じ始めたと思います。何をしても神に勝てないことはヤコブも最初から分っていたでしょう。しかし、主が相手になってくれて、安心して思い切りもみ合うように励まされ勇気を得たと思うのです。夜明けまでそれが出来て楽しかったと思います。

いや、もっと言えば、熱烈に神が好きになり、このような愛の神なら自分も心から愛せると確信したかも分かりません。私は、神は個人的に知り合える方であり、それも身体ごとぶつかり、もみ合いまでして下さるお方であるのです。そして、そうする時に神の対する親しさが私たちのうちに猛烈に沸いてこない方がおかしいと思います。

 

しかし、愛のパッションと言へば普通、西洋的な猛烈で熱烈な愛と言う印象を受けますが、聖書で強調されているのは、むしろ静かで堅実ないつまでも変わらない steadfast  な愛であり、この忍耐強さの方がより重要であると思います。そこには長期に渡っての「忍耐強さ」「辛抱強さ」が強調されています

愛の章と言われる1コリント13章には愛の定義が書かれていますが、その中でも「寛容であること(英語では patience=忍耐)」「すべてを我慢すること」「すべてを耐え忍ぶこと」が強調されていると言っても差し支えないでしょう。これらが最も重要な愛の特質であると私には思えます。少なくとも主イエス・キリストから感じられる愛はこのようなものです。キリストほど私たちのために苦しみを耐え忍び、忍耐された方は他におられません。従って私たちクリスチャンが一番積まねばならない徳は「忍耐」です。そのためには時間が必要です。忍耐強さだけは性急・気短では得られるものではないからです。

 

神はなぜ時を遅らせるのか

 

今、暗くて長いトンネルを通っている最中の方は大勢おられます。と言うより、暗さと長さの程度の差はあれ、トンネルとか荒野を通されないクリスチャンはいないと思います。神は最も正確な預言者でありながら、時には、その預言された時を敢えて「遅らす、 delay される」方であると思います。すなわち、神はすべてを見通されている方でありながら、その時を敢えて遅らせる場合があるのです。なぜでしょうか。私はそこに預言の目的があるからであると思います。

預言の重要な目的の一つは、私たちを励ますためです。(1コリント14:3)ですから多くの預言者は「今は何々のシーズン」と言う言い方で時がはっきりしているようでしていない預言をします。いつ「主が帰って来られるか」の期日は誰でも知りたいでしょうが、はっきりした時は聖書には書かれていません。その理由は、もし書いてあれば、極端な言い方をすれば、私たちはクリスチャンとして努力すべきことを止めてしまう可能性があるからです。

私たちがオレゴン州に住んでいた頃、子供を連れて車でカリフォルニア州によくバケーションに行きました。その道程が長いことは分っていても子供たちは「後どのくらい?」と何度も聞きます。目的地に近づくに従ってその質問の間隔は短くなります。それに対して私たちは色々な言い方で子供が希望をもって辛抱できるように励ましの答えを与えて納得させようとしました。―そんな経験を持たれた方は大勢おられると思います。つまり預言は「もう少しの辛抱だ、頑張れ」と言う神からの励ましのメッセージでもある訳です。

 

時が遅れるのは私たちの責任

 

私たちクリスチャンの最終目標は「イエス・キリストに似た者になること」、別な言い方をすれば、私たちが神の愛を受けて「愛の人間になること」というこの一言に尽きると思います。しかし、私たちが本当に「神の愛」の人間になることとは「霊的に成熟する」ことを意味します。霊的に成熟するためには長い時間を掛けて「寝かせる」必要があることを私たちは知っております。そのよい例がワインです。本当によいワインを造るには、先ず自然の形でよく熟したぶどうからワインを醸造しますが、その一応完成したとも言えるワインを、尚も理想的な環境の下で寝かせれば寝かすほど深いこくのあるワインに成熟して行きます。中には何十年、何百年も掛けたワインから、とても美味で値段が付けられないほどすばらしいものが出てくると言われます。

私たちの内にはぐくまれる「神の愛」はこの高価で絶妙に成熟した「味」のワインに例えることが出来ないでしょうか。クリスチャンとは、私たち自身が、どこを切っても完全に漬かった「神の愛」の香ばしい香りを放つ漬け物になっていなければなりません。それは一夜漬けでは決して出来ないのです。と言うことは、私たちクリスチャンを成熟させるプロセスにおいて、神の時間表が遅れる一端の責任は、私たち自身の気短さ、性急さにあることを私たちは十二分に心得なければならないと思います。主は私たちを心から愛するがゆえに、少々時間を遅らせても、私たちの霊的成熟が充分に熟すまで待たれる愛の神です。

 

今年、神は素早くことを運ばれる

 

しかし、主はなさるとなれば、今年は事を思いの他素早くなさることが充分に考えられます。すなわち、今までとは違うテンポで事を運ばれる可能性が高いですから、常に主を見上げて、いつでも受けて立てるだけの心の準備をしている必要があります。

そのことを私たちは新年早々、既に経験しつつあります。と申しますのは、私たちの息子夫婦とその子供(孫)が仕事の関係でこの2月初旬にニューヨークからサンフランシスコに移住することになりました。ついては私たち夫婦もニューヨークを間もなく出ることになりますが、ハワイに戻るのかサンフランシスコに移るのかは、今のところ未定です。又、日本を訪れることも祈っております。詳しくは後日御報告しますが、取り急ぎ私たちの家族のためにお祈りいただけますようお願い申し上げます。(終り)


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