WWGM

Walk With God Ministries

08 07月

信仰の歩みの中で起こる疑い キャシー•ペルトン   2014年7月9日


信仰の歩みの中で起こる疑い


キャシー•ペルトン

「もしかして〜だったら」
この「もしかして私の思っていたことが〜間違いだったとしたら?というような否定的な疑いの思いが浮かんでくることがありますが、それをたとえてみれば、肥沃な信仰の土壌に埋められた恐ろしい地雷のようなものと言えそうです。それは信仰深いクリスチャンがまさに眠りにつこうとしている時とか、或いは何か新しいことを信仰で始めようとする時に、サタンが最も好んで投げつける疑いの言葉の一つです。あなたが主の麗しさや慈しみを享受しつつ、希望と平安を感じ始めたまさにその時、この「もしかして...」という言葉は、あたかもあなたの動脈に突然、氷水が注入されたかのように、あなたをゾクッと身震いさせたことがないでしょうか。


もしかして私が聞いたと思ったのは神の御声ではなかったとすれば、、、」
「もしかしてうまくいかないで失敗してしまったら、、、」
「もしかして私が見たと思ったヴィジョンは、神からのものでなく、ただの想像だったとすれば、、、」
もしかして神が言ったと信じたことが実は神が言わなかったとすれば、、、」

氷水!
ちょっと待ってください。これは聞いたことがあるような言葉ですね!聖書の中に最初に出てくる蛇の話はこうです。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。』」(創世記3:1)
これが私たちにとって、最初の「もしかして、、、」であったのです。
私は最近そのような経験をしました。一晩中「もしかして...?」という否定的な思いで悶々と過ごしたのです。実は私たちの家族全員が(すでに結婚している子供たちとその伴侶も含めて)別の州に引っ越すという大きな出来事があったところでした。この引っ越しは私たちが「神の声を聞いたから」と信じたことに100%基づいていました。この引っ越しを正当化する目に見えるしるしは何もありませんでした。引っ越し先には仕事の保証もなく、友人や知人もなく、何の招きも約束されたチャンスもなかったのです。


私たちは主からの言葉を聞きました。ですから、主の御声と信じる信仰によってのみ、その声に従ったのです。「神はほんとうにそう言われたのかしら?」という疑いが私を一晩中攻撃したとき、私はタイタニック号が氷山に衝突した時のように感じました。「信仰で水の上を歩いていた」のに、一瞬にして真っ暗な氷の海に沈んでいったのです。しかも速く。

敵は人を恐れさす質問で矢継ぎ早に攻めてきます。それは従順なクリスチャンを心(信仰)から頭(理性)へと素早く後退させるのです。「もしかして...」という思いは、クリスチャンの頭の中で機関銃のように鳴り響きます。感情の地雷が炸裂し始め、信仰の防御壁をずたずたに切り崩します。


もしあなたがこのようなことを経験したことがあるとすれば、安心してください。というのは、もしあなたが本当に主の御声を聞いていないのならば、敵がこのような質問で攻めてくることはほとんどないからです!
あなたが実際に神の御声を聞いて、それに従う時に、敵は「神は本当にそう言われたのですか?」という攻撃を始めると考えて間違いないでしょう。


それはする価値のあることです!
私にとってこのことだけは確信があります。即ち、神の御声を聞いてからあなたが取るすべてのリスクに対しては、神が「物質的な必要を十分に満たしてくれること」とあなたの行く手には「驚くような機会に通じて開かれる扉」で満ちているということです。敵が「もしかして〜だったら」とか「神は本当にそう言われたのか?」と言ってあなたを恐れさす時には、ただ一つの答えかあります。それはこれです。
それは、「もし私が神の御声を聞いたのではなくて、御こころではない計画を自分で立ててしまったとしても、その計画の中で神は私の歩みを正しい方向へと導いてくださる」ということです!
このことを裏付ける聖書箇所があります。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』(箴言16:9)


私は主の御声を聞く自分の能力を信頼しているのではありせん。私は主を信頼しているのです!神は信頼に足る私のお父さんであり、信頼すると私を救い出して確かな道へと私の歩みを導いてくださるのです。私は神は信頼できる父であることを知っています。私の歩みと計画を神にすべて委ねるとき、神は私を確かな道に歩ませてくださるのです。私たちは自分の賜物や自分が聞いたこと、或いは自分の従順さにさえも信頼しないで、むしろ、私たちが愚かな人間であるにもかかわらず、神は忠実で誠実な父であるという事実に信頼を置くのです。それは、私たちが神のために捧げるすべての愛の小さな始まりを、神は尊重し喜んでくださることを知っているからです。
あなたのするすべてのことを主への礼拝の行為として行ってください。私たちが先月引っ越しをした時は重労働でしたので疲れ果てました。その時、痛い足で歩く一歩一歩を、荷物をつめる一箱一箱を、かかる費用の一ドル一ドルを、主を礼拝する行為とすることに私は決めたのです。それがどれほど仕事をはかどらせたかは言い表せないほどです。
主の御声に従う道はいつも簡単であるとは限りません。しかし、それは常に最良の道です。昔私たち家族が異国に移り住んで、すべてを神に頼るという信仰で生活していた頃、まだ小さかった子供の一人がひどいホームシックにかかったときのことを思い出します。子供たちをこれほどに悲しませてまで他国に来る価値はあったのかと、私は悩みました。その日曜日に私たちの教会のワーシップチームがリタ•スプリンガーの「Worth
It All することのすべてに価値がある」という歌を歌い始めました。その瞬間、御声に従う事によって直面するすべての苦しみ、疑いの声に打ち勝つためのすべての戦いには価値があることを私は悟ったのでした。今の新たな信仰の旅路を後になって振り返るならば、私はきっと同じことを言うに違いないと思います。しかし、私は信仰によって今「これをすることには充分な価値がある!」と宣言します。


「もしかして...」を逆転させる
先月、疑いや迷いと戦っているとき、私は友人から素晴らしい励ましの言葉を受け取りました。それは否定的な「もしかして...」を肯定的な「もしかして...」に変えたらどうか、という提案でした。あなたが前進しようとする時、もし敵に「もしかして...」という言葉で攻撃されたならば、地雷の原っぱを夢の野原へと変えるのです。次のように考えてみてください。

もしかして私がずっと望んでいたことが成就するのかも...」
「もしかして私は失敗するのでなくて飛躍するのかも...」
「もしかして神の御計画は私の夢や期待を遥かに越えているかも...」
「もしかしてこれが私の人生最高の旅になるかも...」
「もしかして私の想像を越えた素晴らしいことが起こるかも...
「もしかして私の行く手にはいつも恵みがあるかも...」


どうか神と一緒に夢見てください。あなたのしようとしていることはする価値のあることです!
私は子供たちが夢や願いを話してくれるのを聞くのは大好きです。私は彼らの夢や願いを否定することなど絶対しません。大きな夢を描くように励まします。彼らの夢が叶うのを一緒に見ることが出来るのは本当にうれしいものです。もし私が子供たちの夢を愛するとすれば、神は私たちの夢をそれよりもっと愛しておられるに違いありません。すべての夢はリスクを伴いますし、すべてのリスクは戦いを伴います。人生はリスクに満ちていますが、あなたが主からの御ことばを持っているならば、「リスク」は「保証」に変えられます(アップ・グレードされます)。


「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
ヘブル11:1には、信仰に伴う約束が書かれています。この約束によりあなたは、敵が疑問を投げ掛けたとき保証と確信をもって答えることができるのです。あなたが望んだことすべてが叶えられるという保証の中を、信仰をもって前進してください。あなたを決して離れず見捨てないお方から目を離さないでください。主は誠実なお方です。(終わり)
Kathi Pelton
Oceans In The Desert
Email: jkpelton@sbcglobal.net
Website: oceansinthedesert.co


02 07月

ワーシップと主の臨在     ダン•ポッター          2014年7月2日


ワーシップと主の臨在

ダン•ポッター(2013年10月モーニングスター•ミニストリー•ワーシップカンファレンスにて)

15年くらい前のことですが、神が私の人生のいろんなボタンを押し始めました。私は押して欲しくなかったボタンだったのですが、神は私の人生を変えていきました。私はフォークソング・シンガーで、のんびりとした甘い歌を歌っていました。そしてクリスチャンになったのですが、同じように甘いクリスチャンの歌を歌っていこうと思っていました。やがてモーニングスター•ミニストリーに来るようになり、そこでリック•ジョイナーと出会いました。皆さんもご存知だと思いますが、彼は社交辞令を言うような人ではありません。非常に預言的なので、霊的にあなたを揺さぶる人です。

モーニングスターで6日間のカンファレンスをすることになり、いろいろなスピーカーによる集会がありましたが、3日目の日曜の夜にコンサートのようなものがありました。数人のミュージシャンが集まって順番にステージに立ちました。ジョン•エリオット、ジュリー•ジョイナーやスジーもいたと思います。私の番は最後でした。それらの人々が次々に演奏したり歌を歌ったりしたのですが、本当にどんどん素晴らしくなっていくのです。皆さんはそのような時、「そんなに上手だと困るなあ...」と思われたことがありませんか?-自分はその後に演奏しなければならないのですから、それよりうまくないとちょっと困るのです。私は自分の演奏曲目を頭の中で何百回も並び替えました。
私がステージに上がる番になったので、私は甘いフォークソング風のクリスチャンの歌をギターを弾きながら歌い始めました。それは人生で一番惨めな経験となりました。サタンが私の耳もとで「おまえは何をしているんだ。死んでしまった方がいいのではないかい?
もう家に帰ったらどうだ? これは預言的カンファレンスだよ。おまえは本当にバカだね。」とささやき続けるのでした。

私は2曲目の半ばまで歌ったときに、あまりにも霊的に乾ききりそのドライさがひどいので、もうやめて帰ろうと思い、歌うのを中止してこう言いました。「皆さん、こういう機会を与えていただいたことは感謝しているのですが、こんなにひどい苦しみに会った経験は初めてです。敵がひどく私を攻撃して来ており、どうしてもそれを振り切ることができないのです。私はこれ以上我慢することができません。私と同じように敵に腹を立てている人はいますか?」すると、そこには2200人くらいの人がいたと思うのですが、みんなが一斉に立ち上がり、叫びながらステージの前に走りよってきました。それには私も驚きました。

しかし、私の背後にいるドラマーのマイク•メイプルはずっとたたき続け、レオナルド•ジョーンズはベースギターを弾き続けました。私が何をしたからではなく、天がその場を支配し始め、霊的戦いが始まったのです。人々は叫び、ドラムはなり続け、私はギターをかき鳴らし続けました。甘い歌を歌うつもりだったのが、もう何の歌を弾いているのかもわからなくなっていました。ただ天からの油注ぎを受けてそれに押し出されるよう弾き続けていました。少し騒ぎが収まるのに2時間かかりましたが、それで終わったわけではありませんでした。私は何度も終わらせようとしましたが、止められません。人々がこれほど敵に腹を立てていたとは知りませんでした。サタンのネガティブな声を聞いて苦しめられていたのは私だけではなかったのです。

そういうことがあったので、リックがワーシップ•カンファレンスをしようと言い出しました。そのカンファレンスは最初「ダビデのこころ」というタイトルだったのですが、最終的には「ワーシップと霊的戦い」に変えられました。ワーシップは戦いだからです。そして驚いたことに、そのカンファレンスに大勢の人が押し寄せて来て、会場はあふれてしまったのです。

それは全くクレージーなカンファレンスとなりました。聖霊が主導権をとったのです。神が介入されたのです。私は自分がすることや自分のやり方には飽き飽きしていました。神にやって欲しいのです。皆さんはどうですか?
今教会で行われているワーシップに退屈している人はいませんか?それを認めるのは罪ではありませんよ。もっと高いものに対する飢え渇きを持つのはよいことです。飢え渇きがないときには退屈にはなりません。飢え渇きがあると、「私はもっと欲しい。私は絶対にもっと必要だ、欲しいのだ。」という思いがわき上がってきます。

その後数年の間、私は多くのカンファレンスを経験し、私の人生は神によって変えられていきました。しかし私の中である一つの小さなことが起こっていたのです。これはほとんど気がつかないうちに起こっていました。

最初の「ワーシップと霊的戦い」のカンファレンスの時、臨在の雲が舞台の上に立ったことがありました。勿論みんな大喜びで興奮しました。モーニングスターはその臨在の雲のおかげで有名になりました。多くの人がワーシップ中に聖霊に満たされたり癒されたりしたときに、そのワーシップをリードしているミュージシャンたちが、「これは自分たちとは全く関係なく起こっている」と考えるのは大変難しいです。どうしても自分の演奏と主の臨在とを関連ずけてしまうからです。

その年の秋にまたカンファレンスがありました。なんと、舞台に雲を立たせるのは「私の責任」という感じになってしまったのです。(笑)そんな試みにどのくらい成功率があると思いますか?
生ける神の臨在の雲を呼び起こすことなど、人間には到底できることではないのですが、しかし、人々はそれを私に期待したのです。私は胸が張り裂ける思いでした。人々の期待に答えるために何かをした経験のある人はいますか?
主はその時こう言われました。「今日のワーシップは全くドライになるよ。あなたは何もできないのだから。」と。

私は臨在の雲を現そうと必死にワーシップを導きました。非常に苦しい経験でした。会衆はとても好意的でナイスで、私の音楽に合わせて歌い踊って「とてもいいね」と楽しんでくれていました。でも霊的には非常にドライでした。ついに神は私に歌の途中で演奏をやめるように言われました。「これはわたしではない。」と言われたのです。私は「これは神様、あなたではないのなら私ということですね、わかりました。あなたではなく私なのですから、これは本当にどうしようもないですね。どうしたらよろしいでしょうか。」と申し上げました。すると神は「『わたしに赦しを乞う』ことをしてはどうか。ワーシップを止めて、人々に『神様に何かさせようとしていたことを悔い改めましょう。』と提案してはどうか。」と言われたのです。自分の力で主の臨在をもたらそうとした経験は、きっと皆さんもあるのではないでしょうか。

私はもう主の言葉に従うしかないところまできていました。それで演奏をやめて自分が自分の力で演奏していたことを人々に告白し、悔い改めました。人々は泣き始め、私を赦し、また彼らも「神ぬきで御国を現そうとしていたこと」を悔い改めました。「御国を来たらす」ことを自分たちの力でしようとしていたのです。でもそれは絶対に起こりません。そこで私たちはしばらくの間悔い改めの時を持ちました。すると主が顕われてくださいました。2、30分の間です。そしてまたアイオワに行ってしまわれました。(笑)その残りのカンファレンスの期間は引き続きとてもドライでした。私たちはどうにかしようとして戦い苦しみました。いろいろとしましたが、うまくいかないことが沢山ありました。

神の御国には統制・管理するガバメントがあります。クリスチャンは自分たちは信じているからガバメントは必要でない、みんなそれぞれの方法で神に従えばいいのだ、と考えがちです。私たちはナイス-いい人です。でも神はナイスではありません。神は親切で慈しみ深い方ですがナイスではない。ナイスというのは、うそをつくことです。神はうそをつきません。私たちはナイスなので、誰かに「やめろ!バック・オフ!」と言うことなど考えられないのです。

神が次ぎのように言われた時のことをよく覚えています。礼拝が始まる前、ミュージシャンたちと祈ったときに、私はこのように言いました。「私は今日のワーシップがどのように進んでいくのか実際のところ予測できません。」するとみんなは「オーケー」といってそれぞれの位置につき、好き勝手に演奏し始めました。私が舵をとらなかったので、他のメンバーたちが思うようにやり始めたのです。私がいてもいなくても全く関係がなかったでしょう。私は心の中で「エー、一体何が起こったんだ!」と思いました。すると主が「あなたがワーシップがどこに向かっていくか知らないからといって、それはあなたがリードしないということではない。」と言われたのです。神の御国にはガバメント、統制、統率があるのです。ガバメントが必要であり、それは確立されねばならず、人々はそれに従わねばなりません。それがないとき、主はワーシップタイムを祝福されません。主はそこには来られません。あなたが「主よ、来て下さい!」と一生懸命にお願いするのは自由ですが、主は来られませんよ。
という訳で、私たちはひどいワーシップを続けました。人々はすごくやさしく親切で、私たちのワーシップがドライであることを非難したりしませんでしたので、私たちはわからないままに演奏を続けたのです。幾度かのカンファレンスがそんな具合でした。

しかしとうとう、バンドが集まり、みんなで私のところに話にやってきました。彼らは私の権威のもとに従うと言って来たのです。言っておきますが、それは私にそのような価値があったからではありません。私たちのワーシップチームのミュージシャンの中には素晴らしい才能をもった人たちが沢山いました。誰でも問題なくワーシップリーダーを務めることはできました。けれども理由はわかりませんが、神は私をリーダーに選ばれたのです。彼らは「私たちはあなたに従いますから、どのようにすればいいのかを言って欲しい。」と言いました。

それからみんなが、私のリーダーシップに従う訓練をされたのです。
神は後ろで歌っている人に霊の歌を与え、それと同じのを私に与えられて、後ろの人をいらいらさせることがあります。スージーが「神が私に歌を与えられて私が歌おうとする前に、どうしてあなたが歌い出すの?私のチャンスをあなたは奪ったわ!」と言って怒ったことがありました。私は「どうしてかわからないけど、多分、神様はあなたがじっと神からのタイミングを待てるかどうかテストしたんじゃないかな。」と言いました。

ステージの上で起こることの半分は、人々の中でも起こることです。ワーシップチームはキリストのからだの中で起こることを目に見える形で表すものかもしれません。あなたが耐え忍ぶことができるか、あなたが主と一致することができるか、神はみんなをテストしているのでしょう。あなたがガバメントに従うことができるか、自分をしつけることができるか、と。これは難しいことです。でも私たちは今までのように生き続けてはならないのです。一歩前進せねばならないとあなたは感じておられるでしょうか?

音楽は音楽であり、どこででも聞くことができます。しかし神が音楽を使われるとき、私たちが神の音楽をどのように取り扱うかを知らなければなりません。

主は私たちのワーシップにすばらしい油注ぎを与えてくださいました。ジャクソンビルで起こった時のことですが、ある集会に朝9時に出掛けました。神が「今日わたしはある事をします」と言われました。私は「それは素晴らしいですね。それで一体何をされるんですか?」と聞きました。勿論神は教えてくださいませんでした。私に教えたらすぐにみんなにその秘密を吹聴してしまったことでしょう。

そこに着いて、私が作曲した「Who Do You Say I Am あなたはわたしを誰と言うか」という歌を演奏し始めました。この曲を演奏したのはその時が初めてでした。歌い始めて「あなたはキリストです」と叫ぶ部分にきたとき、突然停電になり、真っ暗になってしまいました。5秒くらいで電気はついたのですが、全員がこれは停電ではなく神がされたことに気がついたのです。神がそこにおられました。その教会の人が言っていたのですが、そこには私設の発電機があって停電には絶対ならないということでした。停電になることは不可能だったのです。

停電になったとき、人々の叫びと共にいろんなことが起こり始めました。神が私に「わたしは誰が本当の勇士であることを示します。」と言われました。停電になったとき人々は慌てふためき、ミュージシャンは床に座りこんでいました。でもドラマーのマイク•メイプルはドラムを叩き続けていました。ベースのレイノルド•ジョーンズも弾き続けていました。そして、私もギターを弾き続けました。すると主が「これらが勇士たちです。」と言われました。他の人たちは全部床の上に座りこんでいました。しかし勇士たちは油注ぎのパワーの中でも機能し続けたのです。私たちはそのことを学ばねばなりません。

「油注ぎが激しくて人々は驚いて右往左往しています。」そうです。でもあなたの役目はなんですか。演奏を続けることです。「でも人々はたじろいでおろおろしてますよ。」そうです。でもあなたの仕事は何ですか。歌を歌い続けることです。「でも癒しがそこかしこで起こっています!」ええ、でもあなたの仕事は曲を演奏し続けることです。

油注ぎが激しく下ったとき、キチンと演奏することを投げ出してしまうことが何度あったでしょうか。その時主の臨在は去ってしまうのです。私たちは主の臨在をもてなしてその中で演奏を続けることが出来なかったのです。ですからどんなことがあっても演奏をやめてはいけません。主が「ストップ」と言われるまでです。簡単でしょう?
神のパワーが下るとき、おろおろしないで、もっとしっかり演奏を続けるのです。

10分くらいの大騒ぎのあと、やっと人々が落ち着き始めました。その時に10歳の女の子が救われました。それは溺れそうになっていたのが救われたのです。湖でボートに乗っていたときに水中に落ちたのですが、ちょうどそれは電気が切れた瞬間だったのです。電気がついたとき私たちは救いの歌を歌ったのですが、私は霊で感じて「誰かが救われた!」と言ったのです。その時にその女の子は水の中から救われました。それはその教会の駐車係をしていた人の娘でした。
このような小さなことの関連性はまったく無意味だと思われるかもしれませんが、神がされることはすべて重要なことで、神の目的があるのです。その目的が何であるのかをあなたは知らないかも知れません。あなたの歌う歌がまだ教会に来ていない人の耳に神が届かせているのかもしれないのです。

物事を統率するガバメントがあなたの教会においても確立されねばなりません。頭の中だけで賛成しているのではいけません。「私はガバメントに反対ではありません...私がボスでいられるかぎり。」とかね。(笑)でも一つの秘密を教えましょう。イザベルとう人物がいましたね。コントロールをする女性のことだと普通考えてしまいますが、そうではありません。それは聖書の言葉をあなたが生きている時代に合わせて変えてしまう霊のことを言うのです。彼女は「律法はすばらしい、私に適応されない限りは。」と考えたのです。「それは私には適応されないから、私は私の好きなようにするわ。」という霊なのです。

同じ霊が今の教会に来て「あなたたちは恵みによって救われたのだから、何をしてもいいのよ。不品行をしたり、偶像に供えた肉を食べてもいいのよ。」と言うのです。今教会でそれが起こっています。そしてその多くはミュージシャンを通して来ています。ミュージシャンはガバメントの下に従うことを拒否する傾向にあるからです。

恐らくこの私はそういう反抗者の頭でしょう。私を秩序の下に従わせるには長い時間が必要でした。15年間私は「どうやって私の王に仕えようか?
王よ、私は素晴らしいミュージシャンであり、あなたの御国のために素晴らしいことができるんですよ。」という風に考えて来ました。でも神は「確かにそうですね。でももう少し待ちなさい。わたしがあなたを解き放つまで。」と言われたのです。私は15年間、毎年、「今ですか?
今ですか?」と主に聞きました。でも主はずっと「ノー」と言われ続けました。50歳になっても「ノー」と主は言われたので、私はもう家に帰って何もしないでおこう、ミニストリーをもう一生できなくてもかまわない。」と思いました。すると主は「すばらしい。わたしはあなたを用いることができる。」と言われたのです。(笑)

皆さんは何かの賜物があるので、ワーシップチームに入っているわけです。でも神様があなたをひどく試されて、あなたの本性が顕われるまでになることに耐えられますか?
証明するとはそういうことです。あなたに試練を与え、厳しいストレスをかけて、あなたの本性が何であるかを露にするということです。それによってあなたは自分の性格、本性が見えるのです。自分の性格をはっきる見るのが好きな人はいますか?そんな時私は部屋の隅にうずくまって「何故私はこんな人間なんだ。」と言って泣きます。

でも主は「わたしはあなたの人生にパワーを与えるためにこうしているのです。火のバプテスマを通して。」と言われます。マラキ3:1に「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」とあるように、主は神殿、つまり教会に、精錬する者の火のように、布をさらす者の灰汁のように来られ、まずレビの子をきよめられて、ささげものが主を喜ばせるようにされるのです。私たちの王がそう言われます。「わたしはすばやく来る」と。火と洗濯が関係しているようですよ。まずレビ人からですね。レビ人とは主の前に仕える者たちです。

ですから私たちの人生に精錬する者の火が来るのです。ステージで煙の臭いがするならば、それは多分あなたでしょう。あなたに火がついているのでしょう。心配しないでください。水の入ったバケツと大きなブラシをもってあなたをごしごし洗ってくれる人が来るでしょうから。それはやはり嫌なことですね。でもこうされないとあなたはパワーをもって歩むことはできませんキリストにあって訓練されずにキリストと歩むことはできないのです。

ミュージシャンとして楽器を弾いている皆さんは、なんらかの方法ですでに訓練の中を通されています。練習しないで弾ける楽器はありません。皆さんは最初はうまく弾けなくても、練習を重ねてきたわけです。だからある意味で訓練されているのです。ですからもう一歩訓練をされて、キリストと共にパワーをもって歩んでください。

これから主の油注ぎのパワーが教会に臨み、教会を驚かせる時が来ようとしています。それはものすごい力なので、あなたが主にあって訓練を受けていなければ、うまく受け止めることはできません。主の臨在があまりにも濃いとき、それはあなたの身体に染み通り、あなたはどうすればよいかわからなくなります。あなたは主の臨在の中に留まることを習得していなければならないのです。主の臨在を知る訓練が必要です。自宅で何度も何度も主の臨在を知る練習をしてください。とにかく訓練し続けてください。主の御前で歌ってください。自分で歌を作ってなんでも歌ってください。

その時が近づいているのです。いえ、もうある所では始まっています。それは「収穫の音」と呼ばれています。主は失われた魂をミュージシャンを通して呼び寄せておられるのです。(終)


24 06月

思い起こし証しすることの力       ダッチ•シーツ      2014年6月24日 


思い起こし証しすることの力

 

ダッチ•シーツ(2014年6月15日 Golory of Zionにおける礼拝メッセージより抜粋)

 

 

6ヶ月ほど前のことですが、神が「わたしはあなたを一回りぐるっとフルサークルさせて、もう一度もとの所に戻す」と言われました。それを聞いたとき、私はそれが良いことなのか悪いことなのかとっさにはわかりませんでした。私たちが何か間違いをしたので、もう一度振り出しに戻ってやり直さねばならないのか、また荒野をさまようのか、と思ったのです。でもそうではなくそれは良い励ましのことばであることが霊でわかりました。

このことを思い巡らしていると、主は私の霊を天に連れていかれました。そこから私が地上を真下に見下ろしますと、地面に一つのサークルが輪を描いて回っているのが見えました。すると主は、次に私を横からそれが見える位置へと連れていかれました。すると上から見たときは一つの輪に見えたものが、横から見ると新しい輪は同じ高さではなく、螺旋を描いて上がって行き、始めのサークルより高い位置で円を描いていたことがわかりました。フルサークルでぐるっと一回りしているのですが、その高度が違い、それは違うシーズンに入ったことを表していることがわかりました。

 

最近オクラホマでメッセージをしました。その集会の後で一人のメシアニックのラビが私のところに来て訊ねました「あなたはテスティモニー(証し)というヘブル語の言葉の意味を知っていますか?」私は「いえ、知りません。」と答えました。

彼は「テスティモニーという言葉は、『もう一度する』という意味です。神が私たちに昨日してくださったことを覚えて宣言するとき、それと同じパワーが今日ふたたび解放されるのです。」と教えてくれました。

 

このことを聞いてから私はいろいろと考え始めました。彼の言ったことを信じなかったわけではありませんが、それが聖書的であるかどうかをしっかり調べてみることにしました。

その結果、「どうして私たちは過ぎ越しを毎年祝うのか、どうしてペンテコステを毎年祝うのか、過去に起こったことにどうして私たちはいつまでもつながっていなければならないのか、どうして切り離してはいけないのか」、ということが分かってきたのです。

 

リメンバー(過去に起こったことを覚えて証しする)ということばはヘブル語ではzkr

ザカーと言いますが、それは単に過去のことを思い出すことではありません。ただ単に昔起こったことを覚えているということではなく、それによって今日私たちがとらねばならない行動が1含まれているのです。

 

士師記16:28でサムソンは「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。O Lord God, remeber me, I pray!」と叫びました。神がサムソンをリメンバーされた時、サムソンに力が戻りました。神がリメンバーしたとき、もう一度同じことをされたのです。私はこの箇所を今までずっと理解できませんでした。神がサムソンのことを忘れることなどあるでしょうか?

そうではなく、サムソンはもう一度力をください、もう一度してください、と叫んだのです。神はサムソンをリメンバーして力を再び与ました。

 

第一サムエル1:11でハンナは「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心め留め(remember me)..」と祈りました。そして19節にあるように、主は彼女を心に留められ(and the Lord remembered

her)、ハンナはみごもって男の子を産んだのです。

 

最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちに「わたしを覚えて、これを行いなさい。(do this in rememberance of Me)」と言われました。「これを行う度ごとにわたしをリメンバーしなさい。」と言われました。パウロは第一コリント11:24−26でこれに言及しています。26節で「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と言っています。ただ頭で主の死を思い出すのではなく、その事実を今のものとして、その時と同じ十字架の力を宣言して受け取るのです。

 

テスティモニーはそれと同じです。私たちは昨日主がされたことを証し宣言して、それと同じ主の力を今日汲み取るのです。マラキ3:16にある「記憶の書 book of remembrance」はそのためにあるのです。

 

テスティモニーという言葉のヘブル語の語源には「繰り返す、何かを再びする」という意味があります。

ただ思い出し話をするというのではなく、「再び行う」ということです。あなたが証しをするときに、神はあなたをぐるっと一回りフルサークルされてもとに戻し、あなたはその時と同じ力の中に入り、再び同じ御業が起こるのです。

 

ですから福音を語ることは、ロマ書でパウロが言うように「救いを得させる神の力」です。それはただメッセージであるだけではありません。ただ主がされたことを思い出して語るだけではありません。あなたが福音を宣言するとき、十字架の救いの力が再び解き放たれるのです。

 

このメシアニックのラビが言いました。「私たちは今多くの奇跡を見ています。様々な病気をいやされた人々を私たちは街角に遣わしています。彼らがしていいることは、ただそこに立って自分に起こった奇跡を告げ知らせているだけです。彼らが何度も何度も繰り返して神が自分に5年前とか10年前とか20年前にしてくださったことを証しする時、同じ力が流れ始めます。なぜならば、彼らが証しをするときに主はまた同じことをしてくださるからです。主の癒しの力が再び解放されるのです。」

 

ヘブル的な考え方では、時というものは生きているのです。時は孕んでいるのです。彼らにとって時は一直線に進むのではなく螺旋を描いて回るのです。もとに戻るときに前と同じ力を汲むことができるのです。

以前起こった癒しや素晴らしい祈りのムーブメントの話を何度もする時、それは懐かしい話にとどまらず、私たちは宣言しているのです。主が昨日してくださった力を今日解き放つのです。主はイザヤ55:11で「わたしの口から出るわたしが語ることばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言っておられます。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。ことばは生きていて、永遠なのです。

 

第一テモテ1:18に「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」とあります。パウロは預言を忘れるな、と言っているのではなく、それをもう一度宣言することによって預言を通して与えられた神の力が再び解き放たれると言っているのです。

 

ヘブルの学者たちは「時」を螺旋状のものとして捉えています。過ぎ越しからペンテコステまでの50日は、ヘブルの考えかたでは、直線上にあるのではなく、螺旋を描いているのです。ペンテコステ、即ち50日というように数えてもおりません。それは私たちの考え方です。彼らは1週間が7回ある、と捉えています。7日のサイクルが終わると、次にもう一段高いレベルでの7日のサイクルの輪が来る、これを7回、栄光から栄光へと繰り返すのです。そしてその次の日が新しい始まり、ペンテコステです。私たちは7日間の円を描きながら次々と上に上っているのです。7といる完成の数字に達し、私たちは神が備えておられる新しいシーズン、即ちペンテコステの力を受けるのです。私たちは天にまで届くのです。

 

主の聖餐にあずかる度ごとに、あなたは十字架の力を新たに経験します。過ぎ越しから7週を過ごした次の日のペンテコステにはあなたは屋上の部屋で弟子たちが経験したのと同じことを経験し、火があなたに再び下るのです。

 

フルサークルです。主がされたことを証してください。それを今日に持ってくるのです。

出エジプト2:24に「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(remembered)。」とあります。神はアブラハムを忘れていたのではなく、「わたしはアブラハムに言ったことを思い起こす」と言われたのです。「わたしはアブラハムに語ったことを完全に今日遂行する」と言う意味です。「エジプトもパロもわたしがイスラエルのためにすることを止めることはできない。なぜならば、わたしはアブラハムとの契約をリメンバーしたからだ」と言われたのです。「わたしがリメンバーするとき、わたしが語ったすべてのことは今現実となり起こる」と言われます。

 

神はヤコブにベテルに戻れといわれました(創世記35:1)そこには天に開かれた門があるといわれたのです。そこに行けば、そのような力が今日そこに現れる、そこに戻りその力を汲みなさい、と言われました。時間の中で埋もれていたものがその場所に戻るときにもう一度あふれ出るのです。

 

ネヘミヤは廃墟にもどって宮を立て直すといいました。ネヘミヤ1:8で彼は「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください(remember)。」と祈りました。神がモーセに約束されたことを思い出すならば、それらすべての力が再び解き放たれるのです。すべての過ぎ越しの時に起こったこと、紅海が分かれたこと、それらすべての力が解き放たれるのです。

 

カレブはヘブロンで巨人と戦いました。ヨシュア記14:6で彼はヨシュアに「私は約束されています。」と言いました。神が彼に与えた約束の言葉を思い出しています。45年も前のものです。「私がいくら年老いたとして、私の周りの人が次々に死んでいったとしても、私は死にません。私には主からの約束、契約があるからです。私はその契約の言葉を保っています。それは昨日の言葉ではなく、今日の言葉です。なぜならば私はそれを思い出しているからです。主が私に語ってくださったことを私は今宣言します。それは今の言葉であり今、力がある言葉です。その力は今ここに私のためにあるのです。」と彼は言っています。

 

あなたへの神の契約、約束のことばを思い出して宣言するならば、あなたはその契約の力、約束の力を今日、汲み出すことができるのです。(終り)


17 06月

クリスチャンが主の身丈にまで成熟すると何が起こるのか―グラハム・クック師のメッセージより 坂 達也   2014年6月17日


クリスチャンが主の身丈にまで成熟すると何が起こるのか―グラハム・クック師のメッセージより
坂 達也
私たち夫婦は、この春4月初旬から5月末までの約二ヶ月間、日本の各地を訪れる機会を得ました。今回はほぼ2年半ぶりの訪問でしたが、この間に日本の霊的空気がすっかり変わったことを感じて大変励まされました。いよいよリバイバルが起ろうとしていることをひしひしと感じたのです。
さてこの二ヶ月の間に25箇所でメッセージを語らせていただきましたが、それを通して私が強調したことの一つは、「世の終わりの時代は刈入れ、ハーベストの時であり、良いものも悪いものもすべてが完全な成熟度に達する時である」という聖書的な事実です。良いものの収穫とは、聖書に書かれているすべての約束と聖霊の超自然の働きが最高の形で成就し、それが終末の大リバイバルという形で現れるということです。又一方、それは悪魔の「惑わし」の働きも究極の頂点に達する時でもあります。
従って、終末のリバイバルが目指す最終的な目標は、主イエス・キリストの「大宣教命令」(マタイ28:19等)を成就することそのものであると思います。すなわち、教会は救われた者が皆、真の「キリストの弟子」になるように育て上げるべき時が来ているということです。
「キリストの弟子」とは、どのような人のことを言うのでしょうか。それはエペソ4:13,15に書かれています。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する・・・あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」ことが一つとして欠けることなく100%成就することであり、それが真のキリストの弟子であると信じます。
こうした強い思いを持って私たちはアメリカに帰国したのですが、私はその後直ぐにでも日本旅行の報告と感想を書こうとしたのですが、主は別なことをするように私を導かれました。それは私のコンピューターにこの数年間寝ていたグラハム・クック師のメッセージを今訳して出しなさいと言うものでした。主のタイミングが来たと言うことなのでありましょう。そこで早速、そのメッセージを下記の通りに御紹介させていただきます。誠にタイムリーであると信じます。
「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)になること
グラハム・クック (Growing up in Godセミナーより抜粋)
クリスチャンが霊的に子供から大人に成長する過程で、最終的に成熟しきった大人になることとは、その人の内なる人が神のご性質のようになることです。真に神のように誠実で清い性質と品性を持つようになり、それが常に外に表われる言動をする「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)にならねばならないのです。
しかし、そのような霊的成長過程であなたは、聖霊と真っ向から対立することになることを覚悟しなければなりません。なぜなら、あなたの内におられる聖霊の役目は、あなたの生涯を通して「あなたをイエス・キリストに真に似た者にすること」であるからです。
就いては、それに関して皆さんが知らねばならないことがあります。それは、神はクリスチャンである私たちが、この世に生きている間に真に「キリストに似た者」になることしか望んでおらず、それ以下で終わるとは全く考えておられないと言うことです。
そうであれば、私たちはこの世に生きている間にキリストに似た者に本当にならなければならないのです。このことは、単なる概念とかシンボル、あるいは象徴的な話として受け取らないで下さい。主は、実際にリアルにそうなることを意味しておられるからです。
それは実際生活で私たちが人と話たり、人のことを考えたりする時に、キリストに真に似た者として相手に対応できるということです。
しかも、それは相手の人たちがとる言動とは全く無関係です。彼らの言動によって影響を受けそれに反応するのでなく、ひとえに「あなたはその人とどう対応するのか」というあなただけの問題であるのです。あなたという人がどのように外に表れるかだけがポイントです。相手の出方次第(彼はこう言ったとか、こんなことをしたとか)で相手を責める―と言うようなことでは全くありません。なぜなら、御国では人を責めることなど存在しないからです。キリストにある私たちにはもはや恥も罪定めはないのです。又自分が肉的になってしまったことを相手のせいにしたり、状況のせいにしたりすることもあってはなりません。
「どれだけ神から祝福を受けるか」を決めるのはあなた自身でありあなたにかかっています。あなたは「祝福された者」であるはずですが、それはあなた次第であり、あなただけが祝福を受けるための責任者なのです。あなたは主の約束をいただいている人です。しかしその約束を実際に受け取るかどうかはあなた自身の責任です。しかも、それはあなたがどんなに落ち込んでいたり、迫害にあっていたりする最中でも同じなのです。事実、迫害とか苦しみの中を通っていたり困難な目に会っている時でも、神から大きな祝福を受けている時と同じように、すべてを有益なものとする道があるのです。
あなたの内にはどんなことがあっても止めることの出来ない「いのち」が内在しています。勿論、あなたの意志でそれを止めるなら別です。それはあなたが決めることであって他の誰の責任でもありません。
神があなたに与えたいと願っている祝福を、あなたが受け取るかどうかの責任は、あなた自身にあることを学ばねばなりません。神が常に与えたいと願っている祝福に自分から積極的に近づき、主の御計画に沿って日常の生活の中でその祝福を受け取り、その祝福を人々のために用い始めるのです。そうすることによって、あなた自身がキリストのイメージ、似姿となり、それを人々に表すことが出来るようになります。それが霊的に成熟することの最終的段階であり、完全に成熟した神の息子Huiosになることの意味です。
あなたはもはや自分だけが祝福されることはできなくなります。あなたの周りのひとたちは全部あなたから祝福を与えられる可能性が充分にあるのです。あなたが現れると、誰であっても、あなたから祝福を受けることから身を守ることは出来ません。
聖書には「心を尽くし、思いを尽くし・・・あなたの主である神を愛せよ。・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。ここであなたの隣人と言うのは、それがいつであっても、どこであっても、たまたまあなたの傍に立っている人、坐っている人のことです。飛行機の中でも、喫茶店の中でも、仕事の中でも、銀行の中でもです。全くの他人だとしてもあなたを通して神の祝福を受けることから身を守ることができる人はいないのです。主と共に歩くあなたは、他人の人生を変える力を常に持っているのです。あなたがその力をつねに持ち運んでいるからです。それは他の人がすることとか言うこととは無関係です。あなた自身が、一人だけで、あなたの住むコミュニティー全体を変える力を持っているからです。それはあなた次第です。そのような人になることを選ぶかどうかというあなたの意志一つです。
それはあなたがキリストの大使として、どのように人の前、あるいはコミュニティーの前に現れたいかによるのです。人がどれほど酷いか、状況がどれほど悪いとかには全く問題ではありません。あなたが一人の完全に成熟しきったHuiosとしてその町に現れると、その社会を変えてしまうほどの力を持っています。使徒行伝には「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにもはいり込んでいます。」とあります。あなたがやったことが、その後の30年間も「信じられないことが起こった話」として語り草になるのです。あなたはそのような人になる可能性を持ち、あなたがそこを通って行くだけでそのコミニティーを変える人になれるのです。
私は30年前にロンドン近郷のある会社で働いたことがあります。その会社は色々な企業の会社にアプローチして、その会社によい社員を斡旋したり、各種の社員教育のトレーニングを提供する会社でしたが、私が入社した時は全部で24人の社員がいて、私はその24番目の何もよく分からない新米社員でした。
その24人の中には人材をリクルートすることが専門のアドバイザーとか社員教育のエキスパートが多くいました。それとセールス部門があり、そこでは、大中の企業にアプローチして、その会社の業績を上げるためにより良い社員を斡旋したり、社員教育をするプランを作成します。多くの場合全く知らない会社に電話をしてアプローチし、年間契約の提案書を作り、その仕事に対する入札価格を持って交渉に行きます。私はたまたまそのセールス部門に配属されました。
入社後6ヶ月ほどしたある日、突然私の前に社長のジョージが現れ、私にある会社に提出するプレゼンテーションをしてもらいたいと言うのです。私は面食らって、他にもっとよい人がいるでしょうと2,3のセールス担当者の名を上げたのですが、皆都合が悪く、結局私しかいないと言うことで無理やり私がその仕事を担当することになりました。社長はこれはある大会社への提案でこの入札が取れれば大いに助かる、二日後に一緒にその会社に行くからそれまでよく読んで準備をするようにと言われ、大きな提案書類を手渡されました。
二日後に私はジョージと彼のベントレー(高級車)に乗って出掛けました。そして、ロンドンにあるその大会社のビルの最上階の40階にある豪華な社長室に通されました。そこには社長と担当者たちが待っており、こちら側はジョージと私だけ、私はそれまでに経験したことがない程に緊張し、堅くなってプレゼンテーションを行いました。その最後の段階になって相手の社長がジョージに「提案の内要はとてもよかったが、つまるところ一体値段は幾らなんだね。」と聞くのです。それに対して私は提案書の最後に記入されている入札価格を言うだけでよかったのですが、その時、主が突然私に声を掛けられ「グレイ(グラハムの愛称)、わたしを信じますか?」と言われたのです。それを聞いて私は「オーNo! 主よ、今だけは黙っていていただきたかったのですが・・・後にしていただければ・・・」と心の中でうなりました。しかし主は「わたしを信じるか?」と又聞かれます。そこでやむなく私は「今だけは信じたくはないのですが、・・・ハイ信じます。」と消え入るような小声で答えました。すると主は「その値段を倍にしなさい。」と言われたのです。この間に3-4秒掛かりましたが、相手の社長は再び値段を催促して来ました。そこでジョージが私の方を見るので、思い切って私は倍の値段を言いました。それを聞いたジョージは慌てふためき、心の中で「あの男は精神異常のけがあるので、今の値段はどうぞ聞かなかったことにして下さい・・・」と叫んでいるのが私にはよく分かりました。狼狽したジョージは一瞬椅子から落ちそうになりましたが、相手の社長は担当者とその値段について話し合っていたので、ジョージの様子には気付いた様子もなく、にこにこ顔で「この値段は悪くない、契約しよう」と言ったのでした。
そこで話は決まりました。昼食後に無事契約が取り交わされ、ジョージと私は社長室を後にしました。エレベーターの中で二人きりになると、全く気まずい空気になり、ジョージが「一体何が起こってあの値段を言ったのか」と聞きました。そこで私は自分がクリスチャンであること、「倍にしなさい」と言う神の声を聞いたのでそうしたことを告白しました。社長は「神の声を聞いたというだけで、事もあろうに私の会社がこの大会社との大事な契約を反故にしかねないことを分かって言ったのか。」と、もっと気まずい空気となりました。それから車に乗り帰路につきましたが、この間全くの沈黙が続きました。降りる前に私はジョージに「私は首ですか」と聞くと社長はしばらくした後に「分からん。」と答えました。
三日後に昼食を済ませて自分の席にもどると、机の上に分厚い書類が置いてありました。それは新しい別なプレゼンテーション用の書類でした。表紙に走り書きのメモが付いていて、最後のページを見よ」とあったので、その指示に従って私は最後のページを開くと、値段を入れる欄が空白になっていました。(笑い)そこにもう一つのメモが張り付けてあり、それに「あなたの大きな上司に聞いて書き入れよ」と書いてありました。(会場爆笑)そこで私は祈って主に値段を聞きました。その値段と会社の人たちが通常計算する価格とを比べると、主からの値段は会社の出した数字の1.7倍ほどでした。そこでジョージは主からの値段を採用して私にプレゼンテーションをさせたのですが、その仕事も決まりました。その後も二つの仕事を同じ方法で、いずれも高い主の値段で仕事を取ることに成功しました。
そして私は会社での地位が24番目から2番目に昇格され、ジョージは新に私にビジネス・デベロッピング・マネジャーと言う肩書きをくれた上で、大きな個室と私自身の秘書を付けてくれたのです。しかし私はそんな肩書きと責任をもらっても自分だけではどうしてよいのか全く分からず、ジョージに元の地位に格下げして欲しいと頼みました。するとジョージは私の机の上にある電話を指差し、電話帳から適当な会社を選んで電話してその会社から機会を与えてもらい、仕事を取るためのプレゼンテーションをすればよいと助言してくれました。
そして、彼は「私はあなたを格上げして雇っているのではない。あなたがよく知っている『例の人』を雇おうとしているのだ。」と言ったのです。(笑い)
その後大分経ってから、Huiosになるとそのようなことが起るということに私は気が付きました。それはあなたではなく、あなたが一緒に旅をしているお方がそうであるからです。ダニエルが神に属した人であることは誰でも知っています。ヨセフが神の人であることもそうです。
そこで私は主に祈ったのです。月に一度だけ、一つの会社に電話をし、その会社とだけ契約を結ぶという祈りでした。そして後の時間の全部を、自分の預言者訓練学校で教える教材を書くことに費やしました。(笑い)
或る時私は、ロンドンで最も名高い会社のCEOの電話番号を主から教えてもらいました。しかし、そのCEOにはドラゴン(竜)というあだ名で名高い強力な支配力を持つ秘書が付いていて、すべての電話はその秘書を通さずには絶対にCEOには届かないのです。特に見知らぬ人からの電話はまず取り次がれません。主は私にそのCEOに次の火曜日の午後2時23分に電話をしなさいと言われました。その通りに電話をすると、その1分前にその秘書がトイレに立ち、その時たまたまCEOが秘書のデスクの前を通るように主がされたので、彼が私からの電話を取り、私は難なくそのCEOとアポイントが取れました。それを知った秘書は私がCEOに会うために現れると、本当に憎憎しそうな顔で私を睨みつけ、殺し屋を雇って私を殺してやるとまで息巻いたそうです。言うまでもありませんが、その会社と私はよい契約を結ぶことが出来ました。
さて、その頃ジョージは私に、会社にいるすべてのセールスマンを私がトレーニングし、私のやり方で「大きな上司」からの声を聞いて仕事が取れるようにして欲しいと言いました。私はその年にはセールスマン・オフ・ザ・イヤーになっていました。
私がその会社を辞める日に、ジョージは泣き出しました。私は彼にこれからは「私の大きな上司」の仕事にフルタイムで働くことにしたと伝えたのです。私はこの会社を彼らが経験した事がないレベルにまで収益率を上げました。私自身もどのようにしてそこまで成し遂げたかは想像もつきませんでした。あなたがHuiosの域に到達するとそうなるのです。
と言うのは、神は法外としか思えない程あなたと共にいたい方であり、すばらしいということがどんなことなのかをあなたに証明して見せたくてしょうがない方です。又、あなたは神があなたに与えたいと願っておられる油注ぎを決して低く見積もってはなりません。
あなたが完全に成熟した時、あなたは試合をひっぐり返すことの出来るgame changerとなり、あなたが王であり、英雄であり、チャンピオンとなれるのです。誰もあなたに反抗しなくなり、どんな強い反対者に対してもあなたは抜きん出て相手を打ち倒します。あなたが人生から学ぶことは、どのような状況の中からでも浮かび上がり、あなたが占めるべき正しい地位に着けるのです。なぜなら、卓越した神の性質があなたの上に現れるからです。それがHuiosです。あなたはどんな状態からでも栄えることが出来ます。どのような対抗者にもうまく処することが出来るのです。その結果としてあなたが、あなたの隣り近所を、地域を、町を、そしてハドソン•テイラーがしたように一つの国をも変えることが出来るのです。
クリスチャンが宗教的な制度の中に押し込められると、今お話しているようなことは理解できなくなります。宗教的制度は優秀な戦士とかチャンピオンを生み出すようにはつくられていず、単に羊ばかりを育てようとします。そのような羊は人に頼って生きる人たちであり、毎週教会に来て楽しませてもらい、「十一献金をしたから今月の支払いは全部出来るはずだ」と考えて満足して帰ります。こうして教会という企業全体が次の週に向かって進むのです。しかし、あなたが御国の理解と御国の願望を持つコミュニティーに属するとたとえそのコミュニティーがどんなに小さくても関係ありません)そこから多くのチャンピオンと物事の流れを変えていくgame changerが生み出されます。なぜなら、一人の真のリーダはどんな大きな宗教団体よりもベターであるからです。イエスは「わたしを信じる者は、わたしよりもさらに大きな業をするようになる。それはわたしが父のもとに行くからです。」と言われました。主は、私たちが主よりもよくなることを望んでおられるのです。最もよいものが最後に残されているのです。(終)

13 06月

清められ、備えられる    ボビー・コナー       2014年6月13日


清められ、備えられる

 

ボビー・コナー

 

備えの時

愛する皆さん、私たちは今、聖霊の働きが大いに増し加わる時代のまっただ中にいます。キリストのからだは、神の新しいご計画が始る日のために今、調えられているのです。神の御霊は今、新しいことをしておられますから、私たちが聖霊と共に働くためには調えられる必要があるのです。(イザヤ48:6、7)このプロセスが完了するまでに長くかかるかもしれませんが、神はこの日のために長年の間ずっと私たちを準備してこられました! この世の基が築かれる前から神が私たちのために用意されておられたデスティニーへと、今私たちは動いているのです。

 

今は準備のシーズンです。真理の御霊は信じる者たちを深く取り扱っておられ、 私たちが今まで持っていなかったような聖さで一心にキリスト・イエスご自身に近づくようにと、私たちを召しておられます。主の民は燃える火のような主の臨在の中で主とお会いできるように調えられているのです。 心をつくして主を捜し求める者はすべて神を見出すことができ、またその者たちのうちに神は見出されるのです。(エレミヤ29:12、13)

 

まことに「淵が淵を呼び起こす(詩編42:7)」のです。今は中途半端でなまぬるいままでいる時ではありません。今は深みに入って行き、使徒パウロと共に「キリストを知りたいのです  that I may know Him(ピリピ3:10)」と叫び、主の似姿に変えられ、主の臨在を持ち運ぶ者と変えられるべき時です。花嫁はキリストとの真の結合を経験するために調えられています。それは主と親密になり主を深く知り、私たちの霊、魂、身体、すべての面において主と似る者となるためです。

 

聖さの啓示

の啓示それでは、私たちはどのようにして変革されているのでしょうか? 真理の御霊は私たちが純粋で正しいことを強調されています。それは私たちが皆、真の聖さを持ち主を恐れかしこんで歩むためです。(2コリント7:1)これは律法的に生きるということではなく、王なるキリストへの愛と忠誠から生まれる聖さです。

 

確かに今キリストのからだは、単に 「イエスが救い主である」という教義で主を知的に知るだけでは最早満足していません。この主の民の飢え渇きに主は応答してくださり、 私たちの霊の内にイエスというお方を顕してくださっています。今まで「頭の知識」として理解していたものを、私たちは霊的啓示を通して経験し始めるのです。そして私たちの心の目が開かれるので、私たちの人柄、性格、ライフスタイルが変革されていくのです。(エペソ1:17、18) 誠実さ、正直さが一番大切になります。私たちは毎日の生活をそのように歩みはじめ、主はそれを見て喜ばれます。(コロサイ1:9、10)

 

作戦、戦略の啓示

主のためにより深く聖められた結果として、多くの者が今の重要なシーズンに用いるべき神の戦略を受け取るでしょう(ヨハネ16:13)。 主の求めならば何でも応え、ためらわずに主のことばを聞くと決意したすべての者に、真理の御霊は啓示的洞察を解き放っています(ヤコブ1:22)。神のご計画と目的がますます進展して行くのをあなたは見るでしょう。 聖さと力を持ち、キリストの絶対的権威の中で生き、動き、存在する人々を、神は持たれるでしょう。

 

デスティニーの啓示 

今あなたが「自分はデスティニーの中を歩んでいる」と感じているかどうかにかかわらず、あなたは王の王なる方によって主の良き目的のために調えられています。あなたは神によって選ばれ、永遠の昔からデスティニーを与えられているのです。どうしてでしょうか? 主はあなたを御自分のパートナーとして神の御国の将来を共に造る者として召しておられるからです(2コリント6:1)。これはあまりにもすばらしくて信じ難いことですが、神のことばなのです。エペソ2:10にこう説明されています。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

「神の作品」とはどういう意味でしょうか? 「作品 workmanship」と訳されているギリシャ語は「poiema」で、英語の「poem (詩)」もこの言葉に由来しています。まさに私たちはずっと昔に書かれた神のポエム(詩)であり、地上での神の臨在の生きた証しとなるように書かれたものです(詩編139:16、17)。すべてのクリスチャンは例外なく、神があらかじめ備えてくださった良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって創造されたのです。

 

油注ぎの啓示

多くのクリスチャンは「あなたのみわざをあなたのしもべらに見せてください(詩編90:16、17)。」と必死で叫んでいます。幸いなことに、神の油注ぎは イエスに従う聖く正しい者たちの上にとどまり、私たちは 地上の主の目的を果たすことになるのです。神は私たちのために良い行ないを備えてくださったのみならず、それを達成するために必要な恵みをも与えてくださっていま

す(ピリピ4:13)。私たち一人ひとりは神の目的を果たすために油注がれています(使徒1:8)。

 

私たちが今、神からの啓示を敏感に受けとるシーズンへと入っていくとき、私たちの召しとデスティニー(即ち人生の第一の目的)は、愛するイエス・キリストのうちに留まり、主にだけ目を留め続けることだということを決して忘れてはなりません。私たちは主の光の中にだけ光を見ることができるのです(詩編36:9)。主の臨在の中にだけ、私たちは喜びと聖い心を持つことができるのです(詩編16:11)。

 

聖い心のリーダーたち

喜びと聖さという成熟した徳は、多くのクリスチャンの中に見られますが、特にリーダーたちがキリストのからだのために更に高い基準を示すことは大変重要です。私たちが主を見るためには、心の聖さと動機の純粋さが必要とされます(ヘブル12:14)。地上で神の御国を打ち立てることを唯一の目標としている神から選ばれたリーダーたちが、今現れてきています。

 

心の聖さはすべてのクリスチャンやリーダーにとって絶対に必要とされるものです。なぜならば、かつて経験したことのないようなしるしと不思議のシーズンに入っているからです。しかし、警戒する必要があります。超自然的なことは、聖霊だけからではなく暗やみの勢力からも現れるからです。聖書は、終りの時には惑わしが強くなると警告しています(マタイ24:24)。敵は多くの者を惑わそうとしますが、キリスト・イエスはさらに大きなわざをなすために調えられた人々を、ご自分のために持つようになります(ヨハネ14:12)。

 

キリストのからだなるクリスチャンやリーダーは、「どうせ今までとあまり変ったことは起きないだろう」というようないい加減な気持でいてはなりません。今から進んで行こうとしているところは、今まで行ったことのないところだからです(ヨシュア3:4)。この先にあるもののために私たちは皆準備をしなければなりません。それは全能なる神への畏敬を胸に抱くようにという召しです。すばらしい主への畏敬の念が神の民に戻り、それによって神の知恵が解き放たれています(詩編111:10)。これから何百万という人々の心が神の力によって触れられ変えられていきます。それは神の民がキリストへの熱狂的な愛へと戻るからです。(終)

Bobby Conner
Eagles View Ministries


 Page 76 of 194  « First  ... « 74  75  76  77  78 » ...  Last »