12 08月
主のご臨在と共に生きる
坂 達 也
私は今、この二、三年程休んでいた「創造者の神とイスラエル」(仮名)と言う本の原稿を仕上げることに集中しております。祈っては、主から示されたことを書いて行くのですが、ある時、突然主が「おられないこと」に気が付いて慌ててしまいました。そして何か必死で主の臨在を「感じさせていただく」ことをお願いしたのです。
私にとって、ものを書いている時ほど主の臨在と油注ぎを必要とする時はありません。と言いますのは、私は元々書くのがとても遅く、特に最近は年のせいか、益々書けなくなっているからです。そして願わくば、私の書くことのすべてを、その一語一句まで主の「ことば」をいただいて、その通りに書かせていただくことが私の切なる願いです。
憐れみ深い主は、私の願いに答えて毎日私に必要なことを示して下さいます。それには確信があり心から感謝しております。
しかし、私の信仰の至らなさから、いただいたものを書いているつもりでも、それを書いているうちに、つい自分で勝手に書いているのではないかと言う不安が出てきます。そんな時、主が傍にいて下さるという、出来れば圧倒的な「臨在感」が欲しいのです。しかしそれがない時は、まるで母親を見失った小さな子供のように一瞬不安な気持ちになってしまいます。
勿論、そう思うのは私の間違いです。主は、私が自分の感情で主の臨在を感じようが感じまいが、必ず私と共にいて下さることは確かな事実ですし、それは私も充分に心得ている積もりです。又、不安を持つことも信仰で生きることの一部であることも承知しています。
さて、そんな時に思い出したのがモーセの言葉です。モーセの生き方は私にとって座右の銘、いつも感銘し、励まされております。出エジプト記33章で、モーセは主のご臨在がどうしても必要であることを主に嘆願しました。
モーセはその時、主から「あなたは上って行きなさい。しかし、わたしはあなたたちと共には行かない。」と言われたのです。その理由は、大変な罪を犯した民に対する怒りからでした。そこでモーセは神にとりなすために「臨在の幕屋」に一人で入りました。
モーセは主に「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。・・・ 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。・・・」これを聞いた主はモーセの要請を受け入れて「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう・・・わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」と答えられました。
主とモーセの関係は本当にすばらしいですね。「 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書かれています。本当にモーセほど主がご好意を示し、主の信任を得ている人はいませんね。神とモーセは「・・・口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。・・・」とも言われます。
ここで主ご自身が「彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている」とモーセを称えているところが一層すばらしいですね。私はモーセほど主の栄光を仰ぎ見ている人はいないと思います。しかしそのモーセが、主から「あなたと共に行く」と約束されたにもかかわらず、それだけでは満足せず、重ねて「どうか、あなたの栄光をお示しください」と主にお願いしています。
すると、主はこの申し出も受け入れて下さいました。そして、主は仰せられました。「わたし自身、わたしのあらゆる善 (goodness) をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト33:19)これは実に深いことばです。
ここで主がモーセに見せたかった「主の栄光」とは「神のすべての愛、めぐみ、あわれみ」であったのです。それは外見上のまばゆく光輝く「栄光」以上に、主の内面のすべてを表す「愛・あわれみ」と言う霊的な栄光でありました。
それと、モーセが主の栄光を見せて欲しいと言ったのは、主の言われた「ことばでの約束」を少しでも疑ったからではありません。その御ことばを聞いたモーセは本当にうれしかったと思います。しかし、彼はもっともっと主のことばを聞きたかった、もっともっと主の栄光を見たかったのではないでしょうか。すばらしい主の臨在―その中で主の御ことばを聞けば聞くほど、もっと聞きたくなりませんか。そして主の栄光の姿を誰よりも見ているモーセこそ、もっともっと主の栄光を拝したかったのであると思います。
モーセが心から主の臨在を願ったのは、主がいつも傍にいて下さるのでなければ、彼は神から与えられた仕事を忠実に遂行することは不可能であることを強く感じていたからであると思います。
私はクリスチャンとしてモーセに与えられた仕事ほど辛い仕事はなかったと思います。人間が神から受けた命令の中で最も厳しい、最も報われない、耐えることが不可能なほど辛い仕事でした。彼は神の民イスラエルを引率してエジプトを出て、彼らを約束の地まで届けるのが仕事でした。彼は自分を全く無にして超人的に主に仕えました。朝から晩まで立ち続けて民の言うことを聞き、民を指導しました。そして民が主にそむくような事があるたびに全身全霊で主にとりなしたのです。その民は結局40年間荒野をさまようことになりましたが、最初から最後まで神にそむき逆らい通しでした。(申命記9:7、24)そんな民の第一世代が荒野で死に絶えるのを見届けるのが彼の仕事であったのです。
しかも彼はその仕事が報われない仕事であることを知っていたのです。彼は、主が大半のイスラエルの民を救われないようにするために、神が初めから民に「悟る心」と霊的に「見る目」と「聞く耳」を与えずに「かたくな」にするご計画を持っておられることを知っていたのです。(申命記29:3、ロマ11:8))それはパウロが言うように、救いが異邦人に先に及ぶために、自分の民を救われないようにしたからです。(ロマ書11:11)
こんなやりきれない辛い仕事が他にあるでしょうか。彼はそのような仕事に40年間耐え続けました。それでも彼は不忠実で不平ばかり言う民を愛し、その民のためなら自分の名を「いのちの書」から消し去ってもらってもよいとまで、主に嘆願しました。(申命記32:32)私はそのようなモーセの犠牲的な愛に本当に頭が下がります。
ここまで主に仕えたモーセにとって唯一の慰めとよりどころは主ご自身のご臨在であったと思うのです。主がいつも傍におられることを感じ、主のお話を聞き、必要な時に主の栄光のお姿を見ないではやっていけなかったと思います。
しかし、このようなモーセでも最後に一つだけ主に逆らう罪を犯す時が来ました。それは水源地区のカデシュに着いた時、そこにはいつものようには水がなかったので、民はモーセとアロンに逆って彼らをののしりました。モーセは烈火のように怒りましたが、二人は会見の天幕の入り口で主の前にひれ伏しました。主は「杖を取れ。会衆を集めて、彼らの前で岩に命じれば岩は水を出す。」と言われました。しかし、モーセは長い間の民に対する堪忍袋の緒が遂に切れたのか、岩に向かって話すかわりに、民に向かって「反逆者たちよ」と叫び、主から言われて持ち出した杖(多くの奇跡を起こさせた権威のある杖です)を振り上げ、性急に怒りをもって岩を二度打ってしまったのです。水は出ましたが、彼は初めて主の命令に背いたのです。
前にも同じことが起きましたが、その時は主に言われた通りに岩を杖で一度打って水が出ました。神はモーセのこの一つの罪のために、彼とアロンが約束の地を目の前にしながら、神は彼らを入れなかったのです。
この話から学べることは、モーセがつい腹を立てて、そんなつもりはなかったと思いますが、主に代わって(主の言うこと、やり方に従わないで)自分の権威(杖)で岩を打ったことです。神は確かに杖を取れといいましたが、岩にはことばで命令しなさいと言われたのです。私たちは、特に教職者、あるいはミニストリーのリーダーとして立つ者は自分のポジションとか権威で命令しがちですが、神のパワーはあくまでその時その時に主が語る「ことば」にあることを、いかなる場合でも忘れてはならないと言うことではないでしょうか。これは霊的に高いレベルに達した人たちへの教訓であると思いますが、私たちは高い権威の立場に着けば着くほど、よほど注意してへりくだらなければならないと思います。
私たちがモーセのように、いかに主を慕い求める者であっても、いや、そうであればある程、主はこれからもっと多くの艱難の中をくぐらせ、一見報いは少ないような、あるいは、やりたくないような「辛い仕事」を与えられる可能性は充分にあると思います。それは私たちを訓練される愛の主であるからです。そのような時には、主の臨在と脂注ぎだけが私たちを励まし、その時に必要なスーパーナチュラルなめぐみの力を与えて下さると信じます。そしてどんな状況下でも、自分の感情に左右されることなく、忠実に主の御言葉にだけ仕えることの大切さを私たちは学ばなければならないと思います。(終わり)
05 08月
「荒らす忌むべきもの」について
マイク・ビクル (カンサスIHOP国際祈りの家 ディレクター)
「荒らす忌むべきもの」或いは「荒らす憎むべきもの」(the abomination of desolation)は奇異な言葉ですが、ダニエル書には4回出てきますし、イエスもマタイとマルコで1回ずつ言われています。端的に言えば、これは真の神への礼拝に対抗する偽りのものです。ここカンサスIHOPだけではなく、世界中にワーシップと祈りの家が今立ち上がっています。さまざまな形式、スタイルがありますが、それら世界中の祈りの家は、この「荒らす忌むべきもの」即ち反キリスト崇拝に対抗して最前線で戦うものとなるのです。「荒らす忌むべきもの」の出現は大艱難が始る主たるサインとなりますから、これに関する知識を持つことは大変重要です。
まずイエスの言葉を見てみましょう。マタイ24:15に「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読みとるように。)..」とあります。ということは、私たちはその前に携挙されるのではなく、地上にいてそれを見るということです。それは一つの像(偶像)で、反キリストの姿をしています。 エルサレムの神殿の中にそれを見るならば、そこは反キリストに対する礼拝、即ち世界中で行われうる反キリスト崇拝の中心となることをあなたは知るのです。この像は超自然的で悪魔的な要素を持ち、ものすごい影響力があり、多くの人々を反キリスト崇拝へと巻き込むのです。
イエスは「それを見たならば、あなたは逃げなさい、町から出なさい。」とユダヤ地方にいる人々に言っておられます。イエスは基本的に信者に対して警告しています。世界中で艱難が起りますが、特にエルサレム近辺、そしてその回りのユダヤ地方では最も激しい戦いが起るのです。これは象徴的な話ではなく、本当に生死にかかわることであるので、イエスは「すぐに逃げなさい」と言っています。「屋上にいても仕事場にいても、家のなかに物を取りにいかないで、すぐに逃げなさい。」と言っておられるのです。3年半の大艱難がその時から始るのです。
更に「荒らす忌むべきもの」は一つのことではなく、一連の出来事です。神の目には「忌むべき、憎むべき」邪悪なことが起ります。その結果、世界は荒れ果てて荒廃(desolation)します。「忌むべき一連の出来事(主なものは4つ)が起り、それにより世界が破壊され荒廃する」ということです。その中心的出来事はエルサレムの神殿に偶像が立てられることです。これが起こるときに私たちは地上にいるのです。それはクリスチャンにとっては最高にすばらしい時となり、祈りのムーブメントは最高にパワフルとなります。なぜならばそれは悪魔的ワーシップ・ムーブメントと最前線で戦う働きをするからです。反キリストは真に主を礼拝するムーブメントに対して大いに怒りを燃やし、それをやっつけようとするのです。
パウロは第二テサロニケ2章3−4で非常に重要なことを言っています。彼は「荒らす忌むべきもの」という言葉こそ使っておりませんが、それに関しての重要なキイとなる出来事について語っています。「なぜなら、まず背教が起り、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼はすべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあります。
不法の人、滅びの子とは反キリストのことです。即ち反キリストが現れなければ主の日(再臨の日)は来ないと言っているのです。反キリストは、真の宗教のみならず、他の多くの偽りの宗教をも禁止し、すべての人が彼だけを礼拝することを要求するのです。そして彼はエルサレムの神殿に座し、自分が神であると世界に向けて宣言します。これは「荒らす忌むべきもの」の重要なポイントです。この箇所からも分かるように、エルサレムの神殿は建て直されねばなりません。現在ユダヤ人は神殿の丘に新たに神殿を建てる綿密な計画を立てています。それが実現すれば、それは政治的にも宗教的にも大きなしるしとなるのです。
「荒らす忌むべきもの」の4つの主な出来事
1.反キリストが神殿の座について自分が神であると宣言する。(第二テサロニケ2:4 )ある者たちは「これはすばらしいことだ!」と言うが、神はそれを見て大いに怒られ「それは邪悪なことである、忌むべきことである」と言われる。
2.偽預言者が反キリストの偶像をエルサレムの神殿の中に立てるように言う。(黙示録13:14;マタイ24:15)その像は悪魔的な力を持ち、自分で息をして自分の意志で話すことができると科学者たちからも認められ、多くの者がそれを信じる。超自然的な力で生きているように見える。(黙示録13:15) 即ち、反キリストが神殿に座し、その像が神殿の中に据えられる。
3.偽預言者は諸国のリーダーたちに反キリストの像を造るように命ずる。世界中のいたる所にその像が立てられ、そこが反キリスト崇拝のセンタ−となると思われる。 それらの像は最先端の技術をもって造られ、まるで生きているかのように見えるのであろう。最先端技術とサタンが協力して作りあげる像となるであろう。
4.偽預言者が全世界の人々に反キリストを神として礼拝するように強制する。黙示録13:12、15「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。..また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」
偽預言者はすべての人が反キリストを礼拝しなければ罰せられるという法律を作るのです。何百万、何千万、何億という人たちがそれに賛同し、競技場を埋め尽くすような集会をするでしょう。黙示録13:8に「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」とありますが、全世界のすべての国々で反キリストを礼拝する者たちが起るのです。法律によって反キリストを拝まない者を殺すことが許可されます。そのような法律は神にとって「忌むべきもの」です。ナチスの時代、法律によりユダヤ人を迫害することは合法となり、ユダヤ人を告発すると報償を受けました。それと同じように、反キリストを礼拝するようにという命令が出され,それに従わない義人は犯罪人となり、義人を告発するものには報償が与えられるような極めて忌まわしい法律がつくられます。
以上4つのことが「荒らす忌むべきもの」です。このようなことは人類の歴史を通してかつてありませんでした。これは全世界を網羅することだからです。そのような悪に対して勝つ方法は一つ―それはイエスです。別の言い方をすると、人々がイエスとつながって、イエスから力を受ける器になることです。イエスは人々を用いてその力を世界に顕されるのです。イエスはすでに力を持っておられますが、人々がそのイエスとつながってこの世で生き、イエスの力を発揮していくのです。それが今必要とされています。それが緊急の任務であることを私は感じています。
私たちは国際祈りの家を始めましたが、まだまだ祈りの初心者であり、聖霊の流れに飛び込む初心者です。聖霊は「その調子、いいぞ、がんばれ、もっともっと主の力をあらわせるようにがんばれ!新しい領域へと進め!」と言ってくださっています。世界中の祈りのムーブメントに向かって聖霊はそのように励まされているのです。
すばらしいことに、イエス・キリストを礼拝する真の祈りとワーシップの家が世界中に打ち立てられています。ある人たちは「私はワーシップソングがとても好き」とか「みんなで集まってワーシップすると楽しくて、臨在があってすばらしい」とか言うかもしれません。 祈りのムーブメントが起こってから今までの10年は音楽を中心として 広がっていきましたが、これからは音楽ではなくイエスと聖霊を中心とする祈りのムーブメントに変えていく必要があります。音楽ではサタン礼拝のムーブメントを克服することはできないからです。ただ「クールな音楽」では駄目なのです。サタン礼拝に打勝つ地上で唯一の力は、「真に預言的な油注がれたワーシップの中で、神の臨在から神の力が流れ出ることだけ」だからです。
真に聖霊の力のある祈りと賛美を日夜続けることだけが、サタンを打ち倒すことができるのです。私たちがカンサスIHOPでしているようなスタイルである必要はありません。連鎖祈祷など様々な方法ですることができます。敵は物を言う反キリストの像を中心にサタンに礼拝を捧げます。私たちはそれと戦うのですからすさまじい霊的戦いとなります。しかし私たちには生きた真の御霊がおられます。
世界的な荒廃(desolation)
今まで「忌むべきもの」について話してきましたが、次にその結果として起こる世界的な 荒廃について見てみましょう。それを起こすものに二つあります。
一つはイエスです。そしてニつ目は反キリストです。
忌むべき出来事が起こった故に、この両者が三年半の間、世界に破壊、荒廃をもたらし、地上の多くの者の命が失われます。
マタイ24:22「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」
イザヤ24:1「見よ。主は地を荒れすたらせ。その面をくつがえされて、その住民を散らされる。Behold, the Lord makes the earth empty and makes it waste, distorts its surface and scatters abroad its inhabitants.」
イザヤ24:6「それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。Therefore the inhabitants of the earth are burned, and few men are left.」
わずかな者とはどの位でしょうか。それはわかりませんが、いずれにせよ僅かなパーセントです。主ご自身が地をからっぽにされるというのです。これは大艱難の時のことです。
イザヤ13:9「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ。罪人たちをそこから根絶やしにする。」
イザヤ13:11、12「わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオファルの金よりも少なくする。」
1.イエスがもたらす荒廃
イエスは反キリスト礼拝に対して裁きを下し、荒廃をもたらします。黙示録に書かれていることは、「荒らす忌むべきもの」に対するイエスの裁きです。真にイエスを礼拝するムーブメントに反抗する者に対するイエスの裁きです。イエスは「荒らす忌むべきもの」について語った次に、マタイ24:22で「もし、その日数が少なくされなかったなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくなります。」と言われています。
これは三年半のことを言っています。世界では大きな苦難がありますが、それと同時に教会が最も輝く時です。しるしや不思議、奇跡、超自然的な食糧や物資の調達、天使の現れが顕著になります。殉教者たちは栄光の中に迎えられます。私がもし殉教して命から死への一線を越えるならば、その途端、イエスが「マイク!」と言って御手に抱いてくださるのです。もし殉教しなければ空中で「マイク!」と迎えてくださいます。すばらしいですね! どちらであっても私たちは勝利するのです。
黙示録6:8「..彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」
黙示録6:12「私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」封印を解くのはイエスです。
黙示録9:15「..人類の三分の一を殺すために解き放された。」第六の御使いがラッパを吹き鳴らし、四人の御使いが人類の三分の一を殺すために解き放たれます。これは実際に起こることなのです。しかし、イエスが災いを起すときは、忌むべきものに対する裁きです。
イザヤ66:16「実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。」
エレミヤ25:33「その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。」
私はこのことを決して喜ばしいとは思いませんが、これは主がされることです。教会は聖められ、祈りのムーブメントが 目に見える形で主の偉大な栄光を顕すようになります。これはゲームではありません。永遠の生死にかかわることです。極めて重大なことであるので、神は今私たちに予めそのために祈るようにされているのです。
今の私たちには100%は理解できないことかもしれません。20年か30年経ってから、私たちが祈りのムーブメントに入れてもらったことがどれほど大きな主の恵みであり御計らいであったかを悟ることになるでしょう。世界のどこにいるとしても、祈ることを訓練され、整えられることは本当に鍵となるのです。終末の大きな戦いの最前線で戦うのは祈りのムーブメントだからです。そしてそれは同時にすばらしく麗しいことなのです。
2.反キリストがもたらす荒廃
これは反キリストが自分に抵抗する者に対して起すものです。彼は前代未聞の政治的、軍事的、経済的力を駆使して、自分を礼拝することを拒絶する人たちを滅ぼそうとします。第二テサロニケ2:3「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。Let no one deceive you by any means; for that Day will not come unless the falling away comes first, and the man of sin is revealed, the son of perdition.」
「滅びの子 son of perdition(破滅、滅亡、地獄)」と呼ばれる反キリストは、自分に抵抗する者に対して怒りをぶちまけることによって目に見える世界を破壊し、 人々を惑わして自分を礼拝させ、彼らを霊的に破滅させて地獄に送り、最後には自分もそこに行くのです。反キリストが滅びの子と呼ばれる理由です。
反キリストの像と獣のマーク(刻印)
反キリストの像については黙示録に10回出てきます。(黙示録13:14、15<3回>;14:9、11;15:2;16;2;19:20;20:4)黙示録に一回でも出てくるならば、それは終末において重大なことであると言えますが、獣のイメージに関しては10回も書かれているのです。強制的に行われる反キリスト崇拝に対して、真の礼拝者たちが戦い、それによって彼らが霊的に鍛えられることを神は意図されたのです。真の礼拝者たちは敵と戦うことによって目的を定め、聖められ、整えられ、完全に御霊によって生きる者とされます。
「荒らす忌むべきもの」は多くの奇跡を起こすことが書かれています。
第二テサロニケ2:9「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、」
マタイ24:24「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」
選民も惑わされるのです。しかし、私たちが互いに交わり、主を礼拝し祈り続けるならば、惑わされる必要はありません。
黙示録16、17「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」
「獣の刻印」は、世界中の人々がこれを受けないと経済的な制裁を受けるということです。経済的な反キリストの体制を立て上げるキイとなります。獣の刻印を受けた者は経済的に豊になります。しかし、受けない者はキリストによって超自然的に養われます。主はパンを増やし、岩から水を出されるのです。私たちは反キリストの経済体制に頼る必要はありません。主が主の民の面倒をみてくださいます。
反キリストは悪魔的力とテクノロジーを合わせて獣の像を作り、その像はまるで生きているかのように話をします。その語る言葉を人々は神からの宣託として受けとります。そして像の語ることばが世界で直ちに法律となり、人々はそれを神からの法律だと信じます。又、世界中に配置されている像は、人々に預言するようになるでしょう。真の預言のムーブメントに対抗する偽りのものです。
マタイ4:8−9「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべて国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』」
サタンが全世界に対して要求することは、ここでイエスに要求したことと同じです。又、反キリストはネブカデネザル王と同じように自分の像を拝むことを人々に強制するのです。
ダニエル3:1−6「ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは60キュピト、その幅は6キュピトであった。..伝令官は大声で叫んだ。..『ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像をひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。』」
「荒らす忌むべきもの」を理解する必要 ―
ダニエル9:23「..そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。」
ダニエル9:25「それゆえ、知れ。悟れ。..」
マタイ24:15「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば(読者はよく読み取るように)」
このように聖書は「荒らす忌むべきもの」に関する幻を悟り、心して理解するようにと私たちに勧めています。(終)
30 07月
携挙のタイミングについて
マイク・ビクル(カンサスIHOP 国際祈りの家 ディレクター)
はじめに
イエスの再臨まで賛美と祈りを絶えず続けているカンサス国際祈りの家のディレクターである
マイク•ビクル師が、携挙に関する質問に答えている談話と記事です。ご存知のように携挙に関しては
諸説ありますが、今回ここにビクル師のものを紹介させていただきます (訳者より)
過去150年間、アメリカでは携挙の時期に関しては3つの考え方があります。そしてこの3つの考え方はアメリカの宣教師が行ったところにも広がっています。150年間にアメリカの宣教師が行っていない土地には、この考え方は顕著ではありません。まずこのことを知っていてください。アメリカのクリスチャンは世界中のクリスチャンがアメリカのように考えていると勘違いしていますが、世界的に見れば、アメリカの考え方は一部に過ぎません。
先ず第一番目として、過去150年の間に「艱難期前の携挙 pre-tribulation rapture」の考えがアメリカでポピュラーになりました。艱難時代の前に教会は携挙されるという考えですね。この教義はキリスト教の歴史上からすれば、かなり新しい考えです。2千年のキリスト教の歴史の中で、この考え方は、ほとんどアメリカの中だけで150年くらい前から注目されて来たものであり、それ以前は全く取り上げられなかった考え方です。99.99%そのような考えはなかったと言ってもいいのです。ですから、これはアメリカではとてもポピュラーな考え方ではありますが、 聖書的ではないと私は考えています。(艱難期前の携挙を信じているすばらしい先生方を私は多く知っていますし、彼らは神を愛し、聖書を愛し熟知し、すばらしい働きをしておられる方々ですから、私は心から尊敬しております。)
第二番目は、「艱難期の最後に携挙がある post-tribulation rapture」という考え方であり、私はこれが聖書的であると信じています。この考えはキリスト教の2千年の歴史を通して教会が教えて来たものであり、アメリカの宣教師が行っていない地域で信じられていることです。アメリカからの影響を受けていないところはこのように信じています。
第三番目は、携挙をまったく無視する考えです。「そんなことはわからない」と言って考えもしない人たちです。
私は携挙は大艱難時代の最後に起こると信じています。艱難前の携挙を信じている人たちは、「艱難時代は非常に恐ろしい時であり、神の裁きの時である」と思い違いをしています。艱難時代というのはほとんどの場合、反キリストに対する神の裁きの時なのです。黙示録の大部分は反キリストの艱難について書かれています。即ち、反キリストに対する神の裁きであり、教会に対する裁きではありません。
黙示録には400の節がありますが、(実際は403ですが、400と考えてみましょう。)その中の12の節だけが、教会に対する迫害に関して書かれています。即ち黙示録の3%だけが、教会が反キリストや暗やみの力から受ける迫害に関する箇所なのです。黙示録の97%は違います。従って黙示録の主要なテーマは反キリストが苦しむことについて書かれているのです。イスラエルの民がエジプトにいた時にモーセがパロに対して裁きを下したように、終末の教会はモーセより偉大なイエスによって、終末のパロである反キリストに対して裁きが下されるのです。黙示録に書かれている艱難はエジプトの10の災いと非常に似ています。3千5百年前にモーセがパロに対して起こした災いは、イエスが反キリストに対して起こすものの型です。
ですから大艱難時代というのは、教会も確かに艱難を通りますが、それよりはるかに激しく暗やみの勢力が 艱難を受ける時なのです。それは教会にとっては非常に輝かしい時です。教会が最も力を顕す時であり、最も清くされる時であり、最も一致する時であるのです。私は艱難期前の携挙を信じている方に「もし艱難期がクリスチャンが酷い苦しみを受ける時であるとするあなたの考え方もわかります。」と申し上げます。しかし艱難期がどのような時であるかに関して、違う視点を持っていただきたいのです。それは勝利の時であり、すばらしい時なのです。神の裁きを恐れる必要はありません。
終末に関して最もよくある100の質問からの抜粋
*質問:イエスはマタイ24:36で「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と言っておられます。私たちはイエスの再臨の時を知ることができるのですか?
マイク・ビクル:イエスは「再臨が起こるシーズンや世界の状況、状態を私たちが知ることは出来ない」とは言っておられません。「主が再臨される世代の教会がその日や時を知ることはない」とも言っておられません。
それがいつ始るのかに関しては、御父のことばを捜し求めねばなりません。御父だけがご存知だからです。神は初代教会がその日、その時を知ることは願われませんでした。しかしダニエルと使徒ヨハネは、「荒らす忌むべきもの the abomination of desolation」の出現から丁度1260日後にメシアが来ることを明確に示しています。(ダニエル7:25;12:7;黙示録11:2−3;12:6、14;13:5)
*質問:私たちは時のしるしを知ることができますか?
マイク:はい。終末の時代と時のしるしは、すべての者に理解されるように書かれています。キリスト教の歴史を通してみると、信者のほとんどは無学な庶民でしたから、聖書は彼らにもわかるように書かれているのです。イエスとパウロは終末の預言的しるしを知ることの重要性を強調しています。(マタイ24:32−34;ルカ21:25−29;第一テサロ二ケ5:1−6;第二テサロ二ケ2:1−11)私たちが再臨の時やシーズンを知ることは出来ないというのは、偽りです。
*質問:歴史上のすべての世代が「自分たちは終末の時代に生きている」と信じていたというのは本当ですか?
マイク:「ほとんどの世代が自分たちは終末の時代に生きていると信じていた」というのはよくある誤解です。そのように信じる人たちが各世代にいたかもしれませんが、いたとしてもそれは非常に少数(1%以下)です。世界的にみて、「私たちは終末の世に生きている」と数十年に渡って皆が信じていた世代が一度だけありました。それは初代の使徒の時代でした。
*質問:今私たちが再臨の世代に生きていることがどうしてわかりますか?
マイク:再臨の「シーズン、世代」を指し示している聖書箇所は多くあります。
(マタイ24:4−8) それらの幾つかを挙げます。
1.世界的な祈りのムーブメントの出現(イザヤ56:7)
「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる...わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」
2.知識の増加(ダニエル12:4)
3.花嫁のパラダイムの啓示(黙示録22:17)
4.すべての国における魂の大収穫(マタイ24:14;黙示録7:9)
5.悪の増大(ダニエル8:23;黙示録14:9)
質問:最後の7年がいつ始まるのかはどうして知ることができますか?
マイク:反キリストと国々が契約を結ぶときに始まります。それはパウロが第一テサロ二ケ5:3で預言している「平和と安全」をもたらすといわれるものです。
質問:ディスペンセイショナリズム(天啓時代主義)とは何ですか?
マイク:世界の歴史が7つの異なった時代(ディスペンセイション)に分けられているという考えです。それにはジョン・ダービー(John Darby)によって1830年から提唱され、スコフィールド・リファレンス・バイブルによってポピュラーになった終末論も含まれています。その終末論とは神の民が大艱難の前に「密かに携挙される」という論であり、故に教会は大艱難を通らないことを教えています。ディスペンセイショナリズムの神学の歴史は200年以下です。
質問:艱難期後の携挙(post-tribulation)を信じるとはどういう意味ですか?
マイク: クリスチャンは大艱難時代の最後の時、イエスの再臨の時に携挙されることを信じることです。聖書は明確にこのことを教えています。イエスはマタイ24:15−26で大艱難について説明したあとで、信者が携挙されるタイミングについて述べておられます。(マタイ24:29−31)
「だが、これらの日の苦難(tribulation)に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
質問:イエスの再臨はいつ起こるのですか?
マイク:イエスの再臨は7番目のラッパが鳴る時です。(第一コリント15:52、黙示録10:7;11:15−19)再臨の行程は3段階に分かれていて、その30日間に多くの出来事が起ります。(黙示録11:2−3;12:6、14;13:5;ダニエル7:25;12:7とダニエル12:11とを比較してみてください。)
1.イエスはまず第一に、聖徒たちを携挙するために空中に現れますが、この時すべての人がこれを見ます。(黙示録1:7)
2.次にイエスはエドムの地を行進します。(現在のヨルダン イザヤ63:1−6)
3.最後にイエスはエルサレムに行進し、オリーブ山で(ゼカリヤ14:4)イスラエルのリーダーたちから公式に迎えられます。
*質問:イエスの再臨の行進が30日間というのはどうしてわかりますか?
マイク:大艱難時代は3年半(ユダヤ暦の一年は360日)、即ち1260日(黙示録11:3;12:6)、42ヶ月(黙示録11:2;13:5)です。大艱難は1260日続きますが、ダニエル12:11には「荒らす忌むべきもの the abomination of desolation」は1290日の間あると書かれています。それは、聖徒の艱難の期間は、地上に反キリストがいる期間より30日短いということです。ではどうしてこの30日間があるのでしょうか? 第一コリント15:52によれば、イエスは最後のラッパ(即ち黙示録11:15の第7番目のラッパ)が鳴るときに再臨されます。それから30日間、聖徒たちはイエスと共に行動します。そして「御怒りの七つの鉢」がぶちまけられます。
*質問:その30日の間、イエスと聖徒たちはどこにいるのですか?
マイク:30日間に幾つかのことが聖徒たちに起こります。マタイ24:31;第一テサロ二ケ4:17;黙示録11:15−18に書かれています。聖徒たちは空中に引き上げられ、復活の身体を受け、イエスからそれぞれ報いを与えられます。そして「エルサレムの戦い」の為に軍隊として調えられます。この戦いは地上のすべての国を勝ち取るための戦いとなります。これはイエスがエドム(イザヤ63:1−6、現在のヨルダン)から「モーセよりも偉大な者」として進軍して来る時であり、終末のパロである反キリストに裁きの鉢をぶちまけるのです。イエスはイスラエルを解放し、反キリストとその軍勢を殺し、それによって「荒らす忌むべきもの」(黙示録19:11−21)を止めさせます。聖徒たちはこれらの事に参加します。教会の携挙から、イエスがエルサレムへ凱旋入城し、王の王として迎え入れられるまでの劇的な出来事が30日間に起こります。
*質問:エルサレムに神殿は建てられるのですか?
マイク:聖書にはこれから二つの神殿がエルサレムに建てられると書かれています。一つ目の神殿は大艱難時代に入る前から用いられるもので、「艱難神殿 tribulation temple」と呼ばれます。この神殿は、反キリストがユダヤ人のすべての生け贄を止めさせ、「荒らす忌むべきもの the abomination of desolation」を打ち立てて自分が神であると宣言するので、この神殿の神聖さは汚されます。(マタイ24:15;マルコ13:14;ダニエル9:27;第二テサロニケ2:3−4)
イエスが再臨された後、主はもう一つの神殿を建てられます。これはエゼキエル40−48章に書かれている神殿で、千年間(ミレニアム)の地上でのイエスの統治の座(ゼカリヤ6:12−13)となります。この神殿は「ミレニアム神殿」と呼ばれます。(終)
21 07月
新しいギター
ダン・ポッター(2014年5月9日モーニングスター カンファレンス)
これは私の新しいギターですが、これが私の手に入ったいきさつをお話します。私はある集会で急に話をするように頼まれました。 ビジネスマンの集会のメインスピーカーが急に来られなくなったので、私に話をしてくれと友人に頼まれたのです。「私は世界一駄目なビジネスマンだから、、、」と断ったのですが、友人は「それなら、ビジネスで失敗する方法を話してくれたらいい」というのです。確かに人生では失敗の仕方を知るのも大切ですし、私たち夫婦は何回も経済的危機に直面して来ましたが、こうやって今ちゃんと生活していますから、ある意味ではうまくやってきたわけでしょう。そこで私は引き受けることにしました。
その集会では女性のワーシップリーダーが借り物のあまり良くないギターでワーシップを導いたのですが、すばらしい主の臨在がありました。ワーシップの時間が終って私の出番になりましたが、私は話に入る前にそのギターをちょっと借りて演奏しました。私の話はまあまあ良かったようで、人々は感動したと言ってくれました。その時、若い夫婦が私のところに来て、「神様があなたにギターを買うように言われたと私たちは思います。」と言うのです。私は「これは私のギターではありません。間違わないでください。私は家にすばらしいギターを持っているのです。新しいギターを必要とはしていません。」と答えました。
けれでも、彼らは「神様はあなたに新しいギターを買うように言われたと確信しています。」と言い張ります。私は「私の家にあるギターは私に合うように特注した特別のすばらしいギターなのです。40年前から使っています。」と言いました。
私の考えでは、新しいギターは本当に全く必要ではなかったのです。そこで私はこの話はもう止めにしようと思い「私はちょっと頼まれて話にきただけの者ですから..」と言ってその場を去ろうとしたのですが、彼らは「私も妻も神からはっきり聞いたのです。あなたに新しいギターを買うようにと。」と言い続けるのです。私は心のなかで、「3万円くらいのギターなど、いらないよ。」と思っていました。私は「どんなギターのことを言っておられるのですか?」と聞くと、彼らは「マクファーソンのものを考えています。」と言うのです。私の頭は「マクファーソン、、、えっ、聞いたことがあるぞ、、、何だっけ、、、、」とぐるぐると回り始めました。
これはビル・ジョンソン師から聞いたことですが、マクファーソンは弓矢の弓を作る人です。彼はある日、神に「新しい弓のデザインを与えてください。」と祈りました。神は天から新しい弓のブループリンドを送ってくれました。それは今私たちが「コンパウンド・ボウ」と呼んでいるものでした。彼はそれを見て大喜びでその弓を作ったのです。それは狩りをするハンターの中では世界で一番有名な弓だと思います。彼は神の御前に再び出て、「神様、この弓のデザインを本当にありがとうございました。このデザインはとても成功しました。本当にうれしいです。」と申し上げました。すると神は「いや、感謝したいのはわたしです。わたしによく聞いてくれました。ありがとう。」と言われました。神に聞かないために私たちは多くの発明をのがしているのではないでしょうか。
彼はマシュー・マクファーソン(Mathew MacPherson)という名前なので、弓はマシューズ・ボウと呼ばれます。彼はギターも作っていて、それも又神から与えられたデザインだったのです。私はインターネットで彼のギターについて調べてみました。そしてそれが非常に高価であることがわかったので、私は例の人に連絡して、「あなたの言うギターがどれほど高価であるか、ご存知ですか?」と尋ねました。彼は「はい。知っています。私は2つ持っています。どうかあなたのために一つオーダーしてください。」と答えてきました。「会社に電話をして、あなたが望むサイズ、材質など、すべてあなたが望む通りのものをどうぞ注文してください。」というのです。「あなたが望むその通りのものを」と。
皆さん、私たちが望むものは月日が経つにしたがって変化していくことをご存知でしょうか。40年前に私にぴったりだったものも、今は合わないかもしれないのです。私の家にあるギターは本当にすばらしいものかもしれませんが、それは40年前に私のために作られたものです。私と同じで「年寄り」で、ちょっと疲れてきていました。だから私はそのギターに対して「そこで休んでいていいよ。一緒に沢山レコ—ドを作ったね。古い友達だね。」という感じで、あまり気にせずにそのまま過ごしていたのです。
私はマックファーソンのギターを注文しました。いろいろと難しい注文をつけましたが、すべて「大丈夫です、できます。」と引き受けてくれました。使用する材木も「はい、ありますよ。」という返事がすぐに返ってきました。
このギターは注文してから出来上がるまでに6ヶ月かかります。最初の3ヶ月はちょっと待ち遠しく感じましたが、その後はほとんどギターのことは忘れていました。するとある日、それが届きました。 説明によると、ギターが完成しますと、それに弦を張って一ヶ月そのまま壁に掛けておくのだそうです。そしてそれをじっと一ヶ月間観察するそうです。すべての細部が変形などせずに注文通りのままとどまるかどうかを見るのです。そしてもしも少しでも注文よりずれたならば、最初から作り直すそうです。興味がありますね。私は彼らの誠実さ、製品に対しての責任感に大変感動しました。
私は届いたギターを弾き始めました。「うーん、私にぴったりだ、すごい、音もすごくいい、どうしてこんなにいいんだろう。」という感じがしました。他のギターでは弾ききれなかったことが出来るのです。気がつくと私は歯を食いしばるのを止めていました。最近私が買ったいくつかのギターを弾くときは、私はどうしても歯ぎしりをしてしまっていたのです。それで私は歯を3本割ってしまいました。そして奥歯も抜かねばなりませんでした。過去17年間、自分に合わないギターを弾くために歯を食いしばっていたからです。
私はそれらのギターに自分を合わせるのにあまりにも忙しかったのです。自分に合ったものを作ってもらえるとは思いも付かなかったのです。主はそれから私を取り扱われたので、私はいろいろなことに気が付き始めました。私はずっと自分を回りの状況に合わせて順応する、その場所に合わせて適応する、ということばかりして来たのです。それはその場所で自分は価値があるということを示したかった、感じたかったからです。しかし神は「今はあなたが人生に適応するのではなく、あなたに合った、あなたにぴったりフィットした人生を、あなたのためにわたしが与えます。」と言われました。
神があなたにそのように言われたときに「わたしは結構です。そんなことはしないでください。私には必要ないと思います。」と言う人が皆さんの中にいるでしょうか?
あなたには何が必要なのでしょうか? 私はギターを弾くときには、聖霊を聞きたいのです。私の手のために作られていないギターを弾くと、(ネックの長さ、フレットの間の長さ等、すべての細部がとても重要です)それを長く弾けば弾くほど自分に合っていないことがわかります。あまりうまく出来ていないギターは精密、正確に作られていないので、自分の手の位置をいつも目で見てチェックしながら弾かねばならなくなります。その度に私は聖霊の臨在の中から後退してしまいます。 自分がどこにいるのか見失ってしまうのです。
私たちは「自分にはこれが必要なのだ」と自分が思い込んだものにフィットし適合しようと一生懸命努力しながら生活しているのです。つまりあなたは聖霊からいつも自分を遠のかせているのです。あなたはその人生に適合しようとしていましたが、それはあなたにフィットする人生ではなかったのです。私は自分のミニストリーに自分をフィットさせよう、適合させようと努力し続けていました。
私は新しいギターを弾き始めて、だんだんハッピーになりました。いろいろな弾き方が楽にできました。私は主に「どうしてこのギターだととても楽に弾けるのですか?」と訊きました。主は「それがあなたにフィットしているからだよ。」と言われました。
この中で何かとずっと戦って来られた人がいますか?あまりにも長く戦って来たので、自分が戦っていることさえわからなくなっていることがあるでしょうか。あなたは奥歯をぎゅっと噛み締め,歯ぎしりをしながら歯(人間関係)を壊して来たのです。それはあなたが自分を何かに一生懸命に合わせようとしてあまりにも忙しかったからです。
私はミュージシャンですから、いつもフィットすることに気を付けてきました。自分の嫌いな曲を弾くのは本当に嫌なものです。自分の内にある何かが、それをどうしても弾かせようとしません。ある時主が、「あなたは罪という言葉の意味を知っていますか」と訊かれました。そこで私は改めて調べてみました。多分皆さんもよくご存知だと思いますが、まず「的を外す」という意味が出てきました。でもその次に「to feel you do not have a share 自分には分け前、取り分がないと感じること」というのがありました。罪の定義としては少し変わっていると思いませんか。
まず私たちは「この中に私はフィットしてうまく適合していこう」と考え、次に「私は自分を変えて努力して適合したのだから、分け前をもらうべきだ。私はここの一員で、ここに属していると感じたい」と考えるのではないでしょうか? もしそうでないと、自分はここにフィットしていない、私の居場所はない、私の受けるべき取り分はない、と感じてしまうのです。
この新しいギターをもらったことは感謝を通りこしていました。自分の足にぴったりフィットした履き心地のよい靴のようなものです。私はギターの送り主にメールをしました。「本当にすばらしギターです。なんとお礼を言っていいかわかりません。ありがとうございました。あなたは神から私にギターを贈れと本当にお聞きになったのですねえ。」と。
では神は何故私が必要とは思っていなかったギターを、どうしても私に持たせたいと思われたのでしょうか。このギターは後ろと横はローズウッドで、表はシトカ・スプルースという非常に希有で高価な木で出来ています。このように木目の細かいものは滅多にないです。その表面はすこし丸くカーブになっていますが、そうするためにはとても高度の技術が必要です。ネックは本体に直接は触れていないので、本体は完全に響くようになっています。その他目に見えない部分も完璧にできています。内側もキチンと仕上げられています。それは見えない部分なのですが、外側と同じように美しいのです。あなたは自分の内側を外側と同じように美しくしますか? それはイエス様が考えておられることですね。地上の人は決して見ることがない隠された場所を美しくすることです。ネックの幅、すべてのフレットの位置は完璧です。神様はどうしてこのようなギターを私に下さったのでしょうか?
私はクリスチャンや、教会の中で起きてしまっていることがあるように思うのです。神は私たちに完璧にフィットする何かを私たちに与えようとしておられるのです。でも私たちは「謙虚であるのに忙しくて」それに気がつかなかったのです。教会の中で誰かが教えてくれた「クリスチャンのあるべき型」、「キリスト教のあるべき型」にはまることに忙しかったのです。「ここがあなたがフィットする場所ですよ。あなたはこのようにフィットすればいいのですよ。」という具合に教えられたのです。でももし、私たちが教会にフィットするのではなく、教会が私たちにフィットするように意図されていたとしたらどうでしょうか。そんなことが可能でしょうか? 安息日は私たちのために造られたのはないでしょうか? 主よ、教会は私たちにために造られたのですか? 私たちのために、私たちに合うように、フィットするように神は造られたのではないでしょうか?
このギターはすべての音が正確です、ギターを弾くのが又楽しくて仕方がなくなり、何時間でも弾いていられ、少しも疲れないのです。 「あなたにフィットしている時はそうなのですよ。」と主は言われました。
私たちは日曜日に教会に来て、持っている愛を2時間の間に使い果たすのです。そして空っぽになって「もう家に帰ります。もう愛がなくなりました。もう愛せません。」と言って帰るのです。私たちは自分で何かを作りだそうと一生懸命するのです。私たちは礼拝の場所に来て、祝福されるよりも苦しみに来ているのではないでしょうか。事が巧く行かない方が落ち着くみたいなところがあります。あるギターを弾き始めて18分後にその難点を見つけて、「オッケー、ここはちょっと調節して弾かなくちゃ、、」と首を曲げたり腕を曲げたりしながら弾くのです。私の背中は痛くなり、歯は割れて身体がぼろぼろになります。それは私が自分に合わないものにフィットしよう、適合しようとするからです。
でも神は「わたしがあなたの回りに、あなたの手のサイズに合ったものを、あなたに合ったものを、『キリストの愛』と呼ばれるものを形造ろうとしているのだよ。」と言われます。あなたはその中で歩み、生き、一日中その中で楽しむのです。あなたはそんなにも完璧にフィットするものから離れたくないからです。
今私はこの新しいギターでいろんな弾き方を試しています。知らない間に止めてしまっていた弾き方が沢山あったのです。それによって今までなかったこと、今まで届いたことのない境地に私は到達することができるのです。自分にフィットしているものに対する確信があるからです。フィットしないものでは考えも及ばなかったところまであなたは行けるのです。これが「自由」の真の意味です。
クリスチャンは今まで何世紀も、この世の人々がある日目覚めて教会に来るのを待っているのですが、主は「そうではないよ。あなたがフィットする場所に彼らもフィットするようにわたしは彼らを造ったのです。わたしは教会をすべての人にフィットするように造ったのです。」と言われます。私たちはそのような教会をつくることができます。その時この世の人々もそこに来始めるのです。そこが彼らにもフィットするように造られた安全な場所であることを彼らも知るからです。
祈りましょう。「父よ、私たちは今までどうにかして自分を適応させてフィットしようとして来ました。そしてあたかも適応したかのように見せかけていました。しかし、私たちは教会を、又すべてのものを私たちにフィットさせるのです。私たちが合わせるのではなく、それを私たちに合わせるのです。今まで自分が適応しようとして数えきれないほどの無益な試みをしてきたことを赦してください。私たちの救い主を被っていた衣、 縫い目がなく、裂かれることもなく一つに保たれた衣のように私たちも一つにされるのです。それはあなたが私たちをそのようにされたからなのです。あなたは今教会を私たちにフィットしたものとしてくださいます。私たちはまさに『この時のために』生かされているのです。ここから退きません。どうか私たちの祈りを聞き、今までの無益な努力をお赦しくださいますように。イエスの御名において祈ります。アーメン」(終わり)
16 07月
ダビデの幕屋
リック・ジョイナー(2014年6月29日礼拝説教より抜粋)
聖書の中には主が住まわれる場所として基本的に7つがあげられています。それらは主の宮となるように召されている教会のあるべき姿でもあります。主の住まわれる場所になることこそが教会の目的です。生ける石によって建てられた宮になるのです。神は人々を用いて建て上げられるのであって、規則とか、組織とかの上に建てられるのではありません。最高の組織であってもその中に悪い人がいれば、悪い組織になってしまいますし、最悪の組織であっても偉大な人々がその中にいれば、偉大な組織になるのです。主は人々を用いて建て上げられるのです。システムとか法則とか哲学とかではありません。確かに神はこれらのものを使われますが、建て上げるのには人を用いられます。
主が住まわれる場所の中で一つだけ、主が「建て直す、回復される」と言われたものがあります。それは「ダビデの幕屋」です。使徒行伝15:16に「この後、わたしは帰ってきて」とありますが、それは即ち主が再び帰って来られるときのことです。そして「倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」と書かれています。すべての人々が主を求めるようになるために、主はダビデの幕屋を建て直すと言われるのです。
もし一番重要で主が建て直されるという御住まいについて理解するならば、そしてそれが主が来られる時というタイミングであることを理解するならば、私たちはダビデの幕屋について是非とも知る必要があります。ダビデの幕屋を理解するためには、ダビデについて理解せねばなりません。イエスもダビデの王座につかれたのです。ダビデについて多くのことを私たちは理解せねばなりません。それが今の時を理解することにもなります。
今という時を理解するためには、私たちはサタンがしていることの10倍以上主がしていることに注意を払わねばなりません。終末に関する資料、本、記事などは、サタンがしていること、しようとしていることに焦点が当てられていますが、それは間違いです。主はサタンよりもっと多くのことをしておられます。黙示録を見ても、最初の言葉は「イエス・キリストの黙示(啓示)」とあり、反キリストの啓示ではないのです。サタンのしていることはレーダースクリーンの本当に小さな点にすぎません。勿論私たちはサタンの策略に無知であってはなりません。私たちはそれらを知り、悟らねばなりません。それらは起こることです。しかしそれよりずっと重要なことは、神が何をしておられるかということ、そして私たちもその働きに入れられているということです。
神はその御住まいであるダビデの幕屋を建て直そうとしておられます。そこでダビデは神とお会いすることができました。仕切りの幕はありませんでした。神と人々とを隔てるものは何もなかったのです。誰でも主の前に出ることができました。あなたが祈るとき、あなたは文字通り万能の神の御座の部屋に入っていくのだということをご存知でしょうか。そこは私たちの理解を越えた栄光あるすばらしい場所です。もし私たちがそれを霊の目ではっきり見始めたらどうでしょうか。パウロが「あなたがたの目がはっきり見えるようになって...あなたがたが知ることができますように」とエペソ1:18、19で言っているのはこのことです。旧約の預言者たちは霊の目で大いなる主の栄光を見ました。天使の軍勢を見ました。私たちも今、そのような啓示へと向かっているのです。霊のリアリティーの中に入るのです。
あなたの人生でたったの一瞬でも全能なる主を喜ばせることができるのなら、その人生は価値あるものです。主の民が祈るとき、主は喜ばれます。今日、あなたは全能なる神に喜びをもたらすことができるのです。私たちが目には見えなくても信仰で御座の部屋に入っていくときに、主は更に喜ばれます。ですからこのようなすばらしい機会を無駄にしないでください。
ユダヤ人は常に知識と悟りを得ようとしてきました。ユダヤ教のラビの資格を得るためには、ものすごい訓練を通らねばなりません。トラーを全部暗記せねばなりません。イエスの時代のパリサイ人たちも聖書を全部暗記していました。もし空で暗唱できなければ、その箇所を知らないのだ、と人々はみなします。そしてユダヤ人が特に学んだのがモーセとダビデの二人についてでした。「ダビデはゴリアテを倒した」以上のことがダビデにはあります。ダビデの幕屋について知りたいならば、もっとダビデについて知るべきことがあります。
ゼカリヤ12:8、9には「その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者(the one who is feeble)もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。」とあります。今、主の家でもっとも弱い者たちがダビデのようになる時を私たちは迎えようとしています。ダビデは聖書の中で恐らく一番の勇者だったでしょう。彼はまた一番のワーシッパー(礼拝者)でした。私たちはこの両者が一つになるのを見ると思います。勿論、私たちの戦いは人々を征服するのではなく、人々を解放する戦いです。殺すことではなく、癒すことです。ものすごいワーシッパーと勇者が出てくるのです。
ヘブル12:13には「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。」とあります。レオナルド・ラビンヒル牧師を私がよく訪ねたときのことを思い出します。彼はその時代の多く信仰者のメンターでした。デイビット・ウイルカーソンも彼に薫陶を受けましたし、キース・グリーンなどもそうでした。彼の家に行くと、多種多様な人たちが集まっていましたが、彼は訪れる人のズポンをたくし上げてその人の膝を調べるのです。それは多くの時間を祈りに割いているかどうかをチェックしたわけです。
私は今膝を痛めています。野球の捕手をしていた時に痛めたことと、モーターサイクルの事故でもっと酷くなりました。でも主はそれを
完全に癒してくださいました。ちょっとした階段も上れなくなって手術をしなければならないと思ったとき、主は瞬時に癒してくださったのです。それから5年経ちましたが、もう一度主に触れていただかねばなりません。でも私はこの膝よりも、霊的な膝が欲しいのです。私たちが主に膝をかがめるのは、主の前に遜るだけではなく、祈るということです。聖書の中でダビデに関してもっとも多く書かれていることは、「ダビデは主に伺った」ということです。
サウロは人々が散り始めたときに自分で生け贄を捧げてしまいました。彼は回りからのプレッシャーに負けてしまいました。彼はレビ人ではありませんでしたから、生け贄を捧げる資格はなかったのです。それが原因で彼は王国を失うことになりました。彼はその後も長く王座に即いてはいましたが、神の御国での役割はその時終ったのです。彼は神よりも人々や回りの状況を恐れたのです。
ダビデはその反対でした。彼は極限の状況の中に置かれました。あまり人が経験しないほどのものすごいプレッシャーを受けました。自分の家族、子供たちが連れ去られ、自分の忠実な部下たちの家族も連れ去られ、怒った部下たちが石を投げて彼を殺そうとしました。大変な時でした。しかしダビデはその時、馬に飛び乗って「敵の後を追いかけて家族をとりもどそう!」とは言いませんでした。そのようなプレッシャーの中でも「ダビデは彼の神、主によって奮い立った He strengthened himself in the Lord his God(第一サムエル30:6)」のです。そして8節にあるようにダビデは主に伺いました。これがダビデとサウロの重要な違いの一つだと私は思います。
主が今私たちを導こうとしておられる祈りのレベルは、ものすごいレベルです。私たちが本当にそれを理解し始めるならば、私たちは神の御座の部屋の中にいるのです。そしてあなた自身がどこにいるのか分からなくても、御座の部屋にいるものたちはあなたを見ることができます。そこに私たちはしもべとして入るのではなく、王の息子、娘として入るのです。王の家族として入るのです。大胆に入っていくように私たちは教えられています。神の恵みの御座の前に大胆に行くようにと言われています。私たちはそのような者となり、そのときかつてなかったほどの影響力を持つ者になると私は信じます。
ヘブル10:35に「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とあるように、確信は私たちに報いを与えてくれます。確信と傲慢の違いを知る必要があります。多くの人は高慢、傲慢になるのを恐れて確信を持たないことがあります。神は遜るものに恵みを与えてくださいますが、聖書の中で最も偉大な恵みを受けたのは
ダビデだと思います。しかしダビデは高慢だと思われていました。彼の兄弟たちさえ彼がうぬぼれていると言いました。しかし、ダビデはそのような批判に怯まず、確信を持って巨人を倒しました。人々はゴリアテを「大きな巨人」として見ましたが、ダビデは彼を「大きな標的」と見て、絶対に当たる、と考えたのです。彼は王のよろいをつけましたが、自分の身体に合わないといって脱ぎ捨てました。私たちはダビデのように高慢にならずに確信を持つ事を学ばねばならないと思います。
どのような分野においても確信、自信は重要です。スポーツチームのことを考えて見てください。確かに高慢になったときにそのチームは倒れてしまいます。しかし確信をもたずに勝つことは絶対できません。リーダーを信頼して確信を持ち、作戦に確信を持ち、チームメイトに確信を持つ必要があります。確信には様々なレベルがあり、私たちはそれを理解する必要があります。何よりも主に信頼し確信を持つことが大切です。ダビデは自分の王がどのようなお方であるかを知っていました。クリスチャンはこの世の誰よりも確信をもって人生を送るべきだと思います。恐れをもって人生を歩んではいけません。信仰をもって生きるのです。
私たちは「圧倒的な勝利者 more than conquers」となるべきです。この世の偉大な勝利者たちを思い出してください。私たちはそれらの者を越えた勝利者であると言われています。今人生で起こっていることは、すべて私たちが勝利するための機会、チャンスであると考えるべきです。征服する機会なのです。すべての試煉、すべてのテスト、今直面しているすべての問題を見て、勇士たちは勇み立ち興奮するのです。私たちは勝利を得たいと思いますが、戦わずに勝利を得ることはできません。大きな勝利を得たいならば、大きな戦いをせねばなりません。真の勇者たちは戦いのラッパが聞こえたときに逃げるのではなく、ラッパの音に向かっていくのです。「もう一つ試煉がきたぞ。問題が起きたぞ。」と言ってわくわくするのです。使徒行伝14:22でパウロは「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」と言っています。即ち、すべての苦難、すべての試煉は私たちが天国へ入る門だということです。ヤコブが「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのはこのことです。これからそのような勇者たちが起こされてくると思います。彼らは凱旋、勝利を見ます。そして圧倒的な勝利者になるのです。
第二コリント2:14に「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」とあります。私たちは「いつでも」勝利に導かれるのです。ローマ8:37には「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」と書かれています。勝利を確信して歩む人々が起こされてきます。敗北などはありません。
詩編18:28、29でダビデは「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」と言っています。第二テモテ1:7には「神が私たちの与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」と書かれています。正義は獅子のように勇敢です。私たちは獅子の子ですから、私たちも獅子なのです。
モーニングスター教会は7月は安息の月で、すべての礼拝、集会は休みになります。家族の礼拝や、個人的に主と交わる時を持つためです。
祈ります。「主よ、どうか皆があなたに近づくための時間を持つ事ができますように。どうか天との邂逅がありますように。どうか夢を、幻をお与えください。天使の訪れをお願いいたします。どうか私たちを引き上げてくださり、あなたの御座を見せてください。あなたを仰ぎ見てあなたの栄光を見ることができますように。どうかあなたの民から臆病さを取り去ってください。自分にばかり目を向けていることから抜け出して、御座におられる方に目を向けることができますように。上にあるものに私たちの目を注ぐことができますように。何よりもあなたに目を注ぐことができますように。あなたがどのようなお方であり、どこに座しておられる方かを知ることができますように。どうかあなたの栄光を見せてください。ただの教義を知識として知るだけではなく、この真理の中を生きて歩むことができますように。そして私たちが召された者へと変えられていきますように。どうか自分の失敗からくる恥を取り除いてください。私たちは皆失敗し、間違いを犯しました。どうかすべての恥をあなたの十字架の力によって取り除いてください。あなたの十字架がその代価を払うのに充分であることを悟らせてください。あなたの贖いの生け贄により代価は支払われたので、私たちの罪がどれほど深く悪いものであっても、大胆にあなたの御座の前に進み、恵みを頂くことができることを信じます。自分ではできません。あなたの恵みが必要です。私たちがあなたの恵みを頂いていることを心から感謝いたします。圧倒的な勝利者となるための恵みを頂いたことを感謝いたします。自分を見て何とかしようとすることを止めて、自分の足りなさではなく、あなたの勝利を見てあなたの安息に入ることができますように。あなたの義が私たちの義であることを、あなたが成し遂げられたことは充分であることを、自分の失敗ではなくあなたの勝利を見て栄光から栄光へと変えられていきますように。死んだ自分を墓から掘り返して生き返らせようとするのではなく、それは埋めたままにして前進して行くことができますように。私たちには新しい命があり、新しく造られた者であり、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです。私たちはあなたの中に隠されているのですから、新しい創造としてのいのちを生き始めさせてください。もはや古い創造の足かせにつながれることがありませんように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン(終)
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