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Walk With God Ministries

20 01月

2015年:主の道を備える   リック・ジョイナー      2015年1月20日


2015年:主の道を備える

 

リック・ジョイナー

 

私たちが新年を迎える時は、過ぎた年に対し大抵は「やれやれ、終ってうれしいよ。」という気持で別れを告げるのではないでしょうか。どの年でも私たちは様々な困難に遭遇するものです。でも数年経つと、悪いことは忘れて良いことだけしか思い出せなくなるようです。私たちが確かに喜べることは、主は私たちが告白した罪をすべて赦してくださり、良い行ないだけを憶えていてくださることです。もし私たちが主と一つになりたいならば、私たちも又、自分の犯した罪や失敗を忘れて、良いことだけを憶えていなければなりません。

 

それは自分のした事をいい加減にごまかすとか、自分の間違いから学ぼうとしない、ということではありません。私たちは「失敗を基準に生きる者」としてではなく、栄光から栄光へと進む者として召されているからなのです。もし私たちが信仰の目を持って過ぎた年を振り返るならば、そこにはただ栄光だけを見るでしょう。

第二コリント3:18:私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

新年を迎えた今、2014年に起った特にすばらしい十の出来事を書き出して主に感謝を捧げる良い機会ではないでしょうか。実際のところ、もし私たちが真に光のうちを歩いているならば、感謝することが数えきれないほどあるはずです。私たちが2015年を歩み始めるにあたり、これは大いに益になると思います。私たちは「感謝をもって主の門に入る」のだからです。

2015年は今までのあなたの人生で最高の年になるはずです。毎年、去年よりはよくなるはずなのです。箴言4:18に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して、真昼となる。」とあります。これは、私たちが正しい道を歩んでいるならば私たちの人生はどんどんと輝きを増すはずであるということです。もしそうでないとしたら、自分が道をそれてしまったところまで引き返して、正しい道に戻らねばなりません。

 

しかし、新年に問題がないということではありませんし、以前よりもっと大きなチャレンジを受けるかもしれません。もしそうだとすれば、それは過去に経験したよりももっと大きな勝利を勝ち取るチャンスがあるということです。なぜならば、「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださり(第二コリント2:14)」又、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人びとのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるからです。」(ローマ8:28)これは確実に成就する神の御ことばですから、私たちは信仰と期待をもって未来へと進んでいこうではありませんか。

 

主の道をあなたはどのように備えるか?

 

2014年にあなたが経験した最大の試煉、問題を思い起こして、それらがどのように解決されていったかを見てみることも有益だと思います。そのうちのあるものはまだ解決途上かもしれません。しかし一つだけ確かなことがあります。それはもし私たちが正しい方法で問題に取り組んだのならば、その問題によって自分が変えられたということです。ヤコブ書によれば、それは私たちにとって金銀よりも価値あることです。

私たちが何をなしたかと言うことよりも、私たちがどのような者になったかということの方が、神にとってははるかに関心事なのです。あなたは2014年にどのように変えられましたか?

 

終末にさらに近づく一年が始まりましたが、それはとりもなおさず人類史上最大の出来事に更に一年近づいたということです。即ち、終末の魂の大収穫と、御国の福音が全世界に伝えられるという出来事です。主が来られる道を備えるこの二つの出来事に、あなたはどのように関与し参加されるのでしょうか?

あなたが今の時代に生かされているということは、即ちあなたにも役目があるということです。

 

私たちの個人的な生活の中でも様々な事が起っているかもしれませんが、私たちが神の御国をまず第一に求める時に必要なものはすべて与えられるという主の約束を、決して忘れないようにしましょう。今年は、主と主の御国を今までより更に求めることを決意しようではありませんか。そうすれば最高の年になるに間違いありません。(終)


16 01月

2015年は勝利の年 ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン   2015年1月16日


2015年は勝利の年

 

ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン

 

私は年頭に当たり、当教会の今年のテーマは「2015年は勝利の年」であることを発表致します。勝利には色々な勝利がありますが、そのすべてに於いて勝利する年であると言う意味です。そこで皆さん「今年はあなたが勝利する年です!」と先ずお互いに宣言し合って下さい。

このテーマに対する今年の御ことばは、1ヨハネ5:4です。「なぜなら、神によって生まれた者はみな世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(新改訳)

 

先ず最初に、「神によって生まれた者はみな」の「者はみな」のギリシャ語の元々の意味は、「人だけでなく、造られたもの一切のもの」と言う意味ですから、「何であっても神から生まれたものはすべて」と訳せます。そう訳してある英語訳がかなりあります。ヨハネはここで一つの重要かつ根本的な原理・原則を表そうとしています。それは「神から生まれたものは、この世に打ち勝たずにはおられないー必ず勝つように造られている」と言う原則です。

その意味はこうです。自然界に存在するものは、すべて、それぞれその種類に従って再生産されて行きます。そうであれば、すべてに勝利されている神は、勝利する者だけを再生産されます。もしあなたが神から生まれた者であれば、あなたは神の子どもであり、そうであれば、あなたは神の性質に似て神と同じ中身に造られています。と言うことは、神にとって自然であることは人間にとっても同じように自然であるはずです。

神は何事にも縛られることのない方であることをこの中で何人の方が信じますか。神を押さえつけたり、制限したり、牢獄に入れたりするものがあるでしょうか。神に打ち勝ち、神をストップするものは何もありません。すなわち神はオールマイティーな神です。

クリスチャンはそのような神を信じます。しかしそれだけであってはならない。あなた自身がそのような神から生まれた者であることを信じなければならないのです。もし神が世に打ち勝つ、打ち勝った方であるなら、あなたも世にあるすべてのものに打ち勝つ(進行形)あるいは、少なくともそのプロセスの中にあるはずです。あなたは現在何かに打ち勝てず、克服出来なくてもがいている最中であるかもしれません。時には絶望的 としか思えないような時もあるでしょう。しかし上記の御ことばからすれば、神を信じる者には「絶望的」 いう形容詞は存在しないはずです。それが意味するところは、どんな困難な目に会っていても、あなたはこの世にある「いかなること」にも必ず打ち勝てるのであり、今はそのためのプロセス中にある進行形状態と言うことです。なぜならあなたは神から出たものであるからです。

 

私は今、私の家族代々に継承するもの、DNA、遺伝の力について学んでいるところです。このクリスマスにワシントン DC で一年半前から牧会を始めた弟が帰って来て、家にあるピアノの前で弾き始めるのを聞いて驚きました。彼はピアノが弾けなかったはずなのが、牧会を始めた時、教会には誰もピアノを弾く人がいなくて、やむなく自分が担当するようになったと言うのです。ところが僅か一年半とは思えない程うまいのです。考えてみると、私たちロビンソン家は父方も母方も音楽の才能に優れた人が代々出ていてその DNA が継承されているので、弟がピアノを短時間で上達したのは全く不思議ではありません。そこで、私がお話ししたいのは5歳になるうちの娘です。最近彼女にキーボードを与えました。最初は私が教えようすると、楽しくないと言っていやがりました。私は、無理に教えようとして彼女の喜びを殺してしまい、それが彼女のピアノに対する情熱を殺していることに気が付きました。そこで私は娘がしたいように自由にさせました。すると娘は一人でピアノに向かう時間が増え、そうっと部屋の前に行って聞いているとどんどんうまくなり、間もなく弾き語りで歌を歌いながらそれにピアノがしっかり付いて行っているのを聞いて驚いたのです。しかし、それは私のDNAを 受け継いでいる娘ですから驚くことはないことに気が付かされました。

 

同じように、 あなたが今どんなに苦闘中であっても、神の DNA が入っている以上、あなたは最終的には必ず克服するのが当然であると神は見ておられます。私たちはそのような「心の持ち方 (信念)mindset 」をもって立ち向かうことが絶対に必要です。そうすれば、この世の中の障害物はかならず乗り越えることが出来るのです。

罪とか霊的に縛られている状態にある場合、その罪を悔い改めることは簡単です。しかしそれからの解放を信じることはそう簡単ではありません。聖書には「悔い改めて、信じなさい」と書かれています。打ち勝つことを「信じて」立ちはだかる困難に向かう時、必ず勝利する、そのプロセスの中に、神は私たちを置かれて訓練して下さっているのです。

 

この御言葉で次に気が付くことは、最初「打ち勝つ」と現在形で言っていたものが、次に過去形の「打ち勝った」になっていることです。それは「私たちの信仰によってである」と書かれています。信仰の力とは一日だけは勝利したが、後は未だ、と言うものではなく、信仰によっって私たちは既に完全にー究極的にー勝っているのです。これを言い直せば「あなたは信仰により既に打ち勝っているが、今その信仰の仕事のプロセスの最中にある」と言うことです、お分かりでしょうか。この世に既に打ち勝ったのはあなたの信仰です。その理由を説明しますと、信仰とは力であり、その力によってあなたは既に完全に勝利しているイエス・キリストと結びついているからです。イエスは今天で何かに打ち勝とうとしてもがいているでしょうか。そのようなことは全くありません。そのイエス・キリストへの信仰が、イエスが既にこの世のすべてのものに打ち勝っているという最終的事実に私たちを結びつけています。つまり、信仰によってあなたは「勝利しつつある」と同時に「既に打ち勝っている」のです。

 

ここで少し勝利と言う言葉に触れてみます。実のところ、勝利 victoryと打ち勝つ overcome はギリシャ語では同じ言葉が使われていて、それは nike です。ニッケ、あるいはニカと発音しますが、それはお気付きのように(スポーツ用品の会社の名前)ナイキと同じです。(笑い)

勝利とは打ち勝つことです。「打ち勝つ」ことは、その相手の敵、あるいは障害物があって、それに対面することを意味します。神はあなたを勝利者にするためにあなたの前にそのような障害物が置かれことを許します。それが信仰の訓練です。

 

ところで、よく「新しい、一段上のレベルがある」とか、「上のレベルの神学がある」と言われます。そのレベルに達すると「新しい悪魔(敵)も現れる」と言う人もいます。これを英語で言えば new level new devil ですが、もしあなたが一段高いレベルに到達すると、そこであなたは新しい悪魔にも会う?ーこれ以上馬鹿げた話が他にあるでしょうか。私は今のレベルでも悪魔の妨害に打ち勝つために苦労しているのに、高いい所に行こうとして、そこにもっと手強い悪魔がいるのなら、私は一段上のレベルには行きたくないです。(笑い)勿論悪魔はこの世の至る所で私たちを待ち構えていることは事実です。しかし一段上のレベルに行けば、別のレベルの悪魔でいるのではなく、もっと深い神からの啓示 revelation が待っているのです。詩編91:14に書かれているように、神は、神を愛している者を一段高い所に上げ、悪魔の手が届かないようにして下さるのです。新しい上のレベルでは啓示と勝利が与えられます。

 

ヨハネは、私たちはこの世に打ち勝つと言いますが、この世とは何を意味するのでしょうか。一言で言えば、それは悪魔が支配するこの世において、人間に神を愛させないようにするための悪魔の組織的妨害の総称です。1ヨハネ2:15、16に次のように書かれています。「世をも、世にあるものをも、 愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」

 

第一に言えることは、人間に何とかしてこの世を愛させようとすることは悪魔の策略であって、その目的は天の父を愛させないようにすることにあることです。イエスが人は二人の主人に(或は神と富とに)同時に仕えることは出来ないと言われたように、クリスチャンは神とこの世を同時に愛することは出来ません。

よく、クリスチャンが具体的にこれこれをしてはいけないのだろうかー例えば映画を見に行くとか、女性がズボンをはくことがよくないことかーを気にして、そのことが聖書のどこに書いてあるのかを詮索する人がいます。しかし、そのようなことを判断するために一番確かな方法は、それをすることが天の父への愛に反する、あるいは減少させるのであれば、それはすべきことではないのです。

16節に「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは」と書かれています。これ等は私たちのこの世での欲望について書かれたもので、一見必ずしも悪いことではないと思えるかもしれません。しかしそれらは「御父から出たものではなく、この世から出たものものだからです。」とはっきり書かれていることに注意しなければなりません。

 

すなわち愛とは、愛する者同士を同じデスティニーにつなぐものであると言うことです。私たち夫婦は結婚した時に誓い合ったように、私たちが共にこの世に生きている限り、同じデスティニーに向かって夫婦は一体となって主と共に生きるのであって、二人が勝手に別の場所に住んだり、別々のデスティニーに向かうような行為はしません。

ヨハネが言おうとしていることは、あなたが天の父を愛しているなら、あなたを愛している父のデスティニーに到着します。しかし、もしこの世を愛しているなら、この世のデスティニーに行き着く、すなわち、この世と共に滅び去るのです。そのことが17節に「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と書かれています。ロトの妻がよい例いです。後ろを振り返ってはいけないと警告されていたにもかかわらず、彼女はこの世に対する愛着から後ろを見てしまい、その結果そこから逃げることが出来ませんでした。私たちも同じです。皆さんは「この世をも、世にあるものをも愛してはならない」のであって、父と主のおられるところに行き着かねばならないのです。

 

さてその後、ヨハネは1ヨハネ4:3で、この世には既に反キリストの霊が放たれていると言っています。その目的は何でしょうか。皆さんはこの世の悪魔のやり方とそのシステムをよくご存知ですね。それは反キリストのことです。反キリストと聞くと多くの人は反キリストと言う一人の人を思い浮かべますが、問題は反キリストの霊にあります。パウロはキリストの霊は私たちの霊を強めると言います。キリストの霊は、私たちの信仰に大胆さを与えてくれます。一方、反キリストの霊はその正反対で、私たちの信仰を弱め、破壊しようとします。

 

自分の能力 might を正しく使う

 

2015年に私たちは、「自分は必ず勝利する」と言うマインドセットを持たなければなりません。そこで重要なことは、その勝利は、誰かが直接私たちに勝利そのものとして与えてくれるのではなく、間接的に私たち自身が、自分に与えられた力によって自分で勝ち取ることによって実現すると言うことです。そのために私たちは、人間に元々与えられている「力(能力) might 」と言う神からの賜物を正しく用いねばなりません。皆さん「力 might 」と言って下さい。この might と言う力は何でしょうか。それは私たちがやり遂げようとしていることを実行出来るようにしてくれる力です。

 

クリスチャンはよく誤解するのですが、この力と言うのは声を大きくしてシャウトすれば来ると思ってしまいます。教会とか聖会に出て多くの人が声を張り上げて叫んだ後に意気揚々として家に帰って来ますが、その多くの人たちは残念ながら家を出る前と変わらず敵にやられたままです。

この事実は1サムエル4章を思い出させます。その当時のイスラエルは神と共に歩いてはいませんでしたが、挑戦して来るペリシテ人を迎え撃つために陣を敷き、戦いました。しかし敗れました。そこで長老たちが一計を講じ、主の契約の箱を陣営に持ち込んだのです。それを見た全イスラエルは勇み立って大歓声を上げました。それは地がどよめく程の大声だったと言います。一方、そのどよめきを聞いてペリシテ人は一旦は恐れましたが、逆に奮い立ち、彼らの方が勝利のマインドセットが整ったのです。そして翌日の戦いでは、勢い込んで攻め込むイスラエル軍に大敗を負わせ、挙げ句にイスラエルは神の箱まで奪われました。

ここで注意して聞いて下さい。悪魔は神の手から私たちを取り上げる力はありませんが、神を私たちから取り上げることは出来るのです。

その日イスラエルが負けた理由は、神が彼らを見放したからではなく、彼らが神を見放したからです。イスラエルは神にだけしがみつく力がありませんでした。一方、ペリシテ人はイスラエルから神を盗むことが出来ました。これは私たちの中でいつも起こっていることです。多くの人は神のみを愛して神にしがみつくだけの力がないのです。

その意味はこうです。私たちはどんな苦境にあっても、この世の中には、神を信じる者から神を取り上げるような力は本来ないのです。私たちがしっかりと神への信仰に立つ限り、神の栄光は私たちからは決して去りません。しかし、全財産を失うような事態になると慌ててしまい、神だけに頼る人は少ないのです。その点ヨブは違いました。彼は大変な試練に放り込まれましたが、それでも神を呪うことをせず、神にしがみつき通しました。これこそヨブが自分の力・パワー・能力を正しく使ったよい例です。

 

イスラエルの南北王朝の時代には多くの王が出ましたが、その中で主の目にかなうことをした王にアサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤ等がおります。アサは町を築くことにおいて、ヨシャパテは戦うことにおいて優れていました。又ヒゼキヤは貯水池と水道を造り都に水を引き入れると言う偉業を成し遂げました。しかしそのような王の中でも特異な存在は、2列王記23:25に出て来るヨシヤ王です。「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った turn to the Lord 王は、彼の先にも後にもひとりも起こらなかった」と書かれているように、彼は自分の全身全霊と力 might のすべてを尽くして「神に立ち返る」ことをした王です。

従って重要なことは、この人間に具わる力・パワー・能力は正しく使わねばならないことです。私たちが何かをしようとする時に、私たちは先ず全力で神に顔を向け、どんな誘惑に会っても、神に立ち返ることをしなければなりません。それによってあなたは神の力を得ることが出来ます。そうすれば戦いに勝つことも、よい町づくりをすることも、すべてのことを神に従って御心通りに成し遂げることが出来るのです。

 

エレミヤ23:10で、偽預言者について書かれていますが、「・・・彼らの走る道は悪で、不正にその力を使う。their might is not right.」(新共同訳)とあります。

そこで皆さん、声を出して「あなたの力をあなたは正しく用いていない。 Your might is not right. 」と隣の人に言って下さい。そう言われて怪訝な顔をしている人がいますね。(笑い)・・・偽預言者は力は持っていましたが、その使い道が正しくなかったのです。あなたの持つ能力と力は(何をさておいても)常に神を向き、神に頼ることに使わねばなりません。自己に頼ること self dependance と、神に頼ること God dependance の間には大変大きな差があります。あなたが自分(あるいは人間=この世)を頼りにして力を用いるならば、あなたはあなたの力を正しく用いてはいないのです。「自己に頼る」ことはこの世で最も普遍的な能力の使い方です。それによって世を愛する人は1ヨハネ2:16にあるように「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(プライド)・・・」と言う自分の欲望を追い掛けます。しかしそうであってはならない。ゼカリヤ書4:6に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって not by might, nor by power, but by my Spirit」と書かれているように、私たちは人間の力と能力に頼って物事を行うのではなく、主の霊にーすなわち神に頼り、神の御心に従わねばなりません。神に従うことはどんなに卓越することより勝り、神に頼ることは、自分でどんなに優秀なことをするよりも勝ります。

 

ですからあなたは「自分の力と能力を正しく使わねばならない」のです。これが本日の説教のタイトルです。今年2015年は勝利の年です。しかし本当に勝利するためにはあなたの力と能力は、正しく使われ、正しい秩序によって、正しいところで用いられねばなりません。(終わり)


10 01月

神の宮の建築地   フランシス・フランジペイン   2015年1月10日


 

神の宮の建築地

 

フランシス・フランジペイン

 

二つの神殿

 

聖書は二種類の神殿について語っています。一つは石で造られたもので、イスラエルに建てられました。もう一つは人で造られるものであり、即ちそれは「教会」です。ソロモンによって建てられた最初の神殿は、予め神に選ばれ定められていた場所に建てられました。神は石の神殿のために注意深く建築場所を選ばれましたが、それと同じように神は私たちを人の神殿にしようと、私たちの心の地形をじっと見ておられます。

 神殿の場所の選択は、その場所で二つの重要な出来事があったことに起因しています。この二つの出来事は長い年月を隔てて起こりました。しかし、それは私たち自身がなるべき二つの大切な霊的要素を持っています。一つ目はアブラハムの人生で起ったことです。

 

 主はアブラハムに息子イサクを与えることによって、彼に霊的成就をもたらしました。しかし、アブラハムに、自分の神に対する愛と神が彼に与えたものに対する愛とのどちらかを選ばねばならない時がきました。主はアブラハムに息子をモリヤの地に連れて行くように命じられました。そして、アブラハムは神が選ばれた山の上でイサクを捧げるように告げられました。

創世記22:4、5「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それで、アブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言いました。

アブラハムの「わたしたちは礼拝して戻ってくる」という言葉に注目してください。私たちはここで、神を心から礼拝している環境においては、信仰が完全になることを見ることができます。アブラハムの信仰が「私たちは二人とも戻ってくる」と彼に語らせましたが、彼が上っていくことが出来たのは、彼の神を礼拝する態度でした。この話はよく知られています。ナイフをもってイサクを殺そうとしていたアブラハムを主の使いがとどめました。しかし、神がご自分のしもべに従順を求められたことは、確かに神の計画であり目的の内でした。アブラハムの神に対する愛が試みられ、それが本物であることが証明されたのでした。

 

それと同じように、私たちが主の家の一部とされる資格を得るために第一に持つべき姿勢は、神を崇め礼拝する心です。私たちは自分の最愛のものを神に喜んで捧げねばなりません。もしあなたが牧師ならば、それは自分のミニストリーや教会に関しての自分の夢を神に明け渡すことかもしれません。もしあなたがとりなし手ならば、ローカルの祈り会のリーダーとしてのポジションを捨てて、もっと大きなキリストのからだの働きの中に合流することかもしれません。

 

人が死ぬときには、究極的に、すべてのものを神に明け渡さねばなりません。キリストの家を建て上げるために召された人は、最愛のものさえも神に明け渡すことによってそれを実行するのです。アブラハムは彼の最愛のもの、即ち神の約束の成就であったイサクを神に捧げました。彼は自分のすべての夢を自ら築いた祭壇の上に置いたのでした。

 

アブラハムは全能の神にとって死は障碍ではないことを知っていました。彼は神がご自分の約束を成就してくだることを信じました。それと同じように、神がご自分の家を建てるために用いられるのは、神に自分の最愛のものを喜んでささげる者たちなのです。

すべてを明け渡して礼拝する者の心の中に、神はご自分の家を建てられるのです。

 

全額を支払う

 

霊的な神殿のDNAを表す次の出来事は、ダビデ王の生涯に見ることができます。ダビデはエルサレムを見下ろす山の頂上に立っていました。彼の罪により神の怒りが国の上に降り掛かりました。それを悔い改めたダビデに対して、神は、オルナンの打ち場に主のための祭壇を築くようにと命ぜられました。オルナンは自分の牛とたきぎにする脱穀機を無料で差し出しましたが、ダビデはそれを拒み、次のように言いました。

 

1歴代誌21:22−24「私に打ち場の地所をください。そこに主のために祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私にください。神罰が民に及ばないようになるためです。...私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」

 

ダビデのこの態度は神が求めておられる心を如実に表しています。私たちは「あるがままの姿で」キリストのもとに来て救いを得ることが出来ますが、救われたのちには、他のクリスチャンと結合するという(大きな)代価を払うことによって神の宮とならねばならないのです。私たちが真に神に仕えたいと願うならば、その時私たちは、私たちの心のすべて(全額)と、払うべき金額のすべて(全額)を支払って仕えねばならない、そのようにしようではありませんか。

 

次に、オルナンがユダヤ人ではなくエブス人であったことを考えてみましょう。エブス人は先の戦いでダビデによりこの地から追放されたのですが、オルナンはそのまま残っていたのです。ダビデは彼の土地を分捕り品として取りあげることも出来たのですが、それをしないで彼は全額を支払ったのです。

愛する皆さん、ダビデの態度は アメリカの典型的キリスト教会の人たちの態度・考え方とはまったくの正反対です。私たちのほとんどはどうにかして安価な近道 shortcuts to God を見つけようとし、ヴィジョン(正しい見識)も(全き神えの)コミットメントもなしにただ漂っているのです。神に近づく近道を捜したり、他人のものを主に捧げたりするのを止めようではありませんか。そして全額を払おうではありませんか。

 

深い洞察

 

時は流れ、すべての人と同じようにダビデも死にました。神殿を建てるというダビデのヴィジョンを成就したのは息子のソロモンでした。神殿を建てる場所に関する聖書の記述を見てみましょう。

第二歴代誌3:1「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」

注目すべきことに、ダビデが代価を払わずにいけにえをささげることを拒否した山はモリヤ山であり、それはアブラハムがそれより6世紀前にイサクをささげたのと同じ場所だったのです。

 

愛する皆さん、主が戻って来られる前に、主の家の山は堅く立てられ、すべての国々がそこに流れてくることを、聖書は私たちに約束しています。(イザヤ2:2参照)

私たちが神の祭壇に最愛のものをささげる者として、又、礼拝者として召されていることをしっかりと胸に抱こうではありませんか。そして、今の私たちの時に、私たちの中に、主の家が再建されることを見るために全額を払おうではありませんか。

 

祈り:主イエスよ、私のすべてをあなたにささげたいと願います。自分を犠牲にするという値を払わずに済むいけにえや、借り物のギフトをささげたことをどうかお赦しください。私は、私が支払うべき一切の代価のフル・プライスを払いたいと願う者です。主よ、大切なことは、私があなたのために何かができるということではなく、あなたが私をどのような者にしてくださるかであることを知っています。私のすべてをあなたにおゆだねし捧げます。私の人生があなたの家にふさわしい質の高いものでありますように。私のイサクを祭壇にささげる信仰と礼拝の心をどうかお与えください。御名によって祈ります。アーメン(終わり)


03 01月

2014年 ニューイヤーズ・イブ集会でのメッセージ                     ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン   2015年1月3日


謹んで2015年新春のご挨拶申し上げます。

 

今年最初のメッセージは、私たちの所属教会リビング・ホープ・クリスチャン・センターの主任牧師であるベンジャミン・ロビンソン牧師が2014年最後の集会で語った新年に向けてのメッセージをご紹介させていただきます。それでは、どうぞ今年もよろしくお願い致します。

                  坂  達 也 ・ 柚 実 子

 

 

2014年 ニューイヤーズ・イブ集会でのメッセージ

 

           ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン

 

後42分で2014年が終わり、新しい2015年に入ります。

新しい年は、きれいな白紙で始めたいものです。そのために今、私たちは今年残した「お荷物」を取り扱っておかなければなりません。それは古い着物を脱ぎ捨てて新しい着物 garment に着替えることです。新しい年、ニューシーズンには、それにフィットするふさわしい着物を着なければなりません。

 

エペソ5:1−21をお読みします。(どうぞ聖書を開いてお読み下さい)新しい年は聖書の御言葉が皆さんの耳と、心と思いの中でいつも鳴っている年にしていただきたいと思います。

 

今夜は久しぶりに私たちロビンソン3兄弟で賛美をさせていただきました。私たちの家は、いつも賛美が鳴り響き、そのための楽器であるピアノとドラムセットとその他の種々な楽器で一杯でした。父(牧師)は、私たちがこの家でたとえ夜遅く賛美して近所から苦情が出ようと出まいと、私たちが礼拝することを決して止めませんでした。私たちはそのようにして育ちました。

思い出せば、この三人でニューイヤーイブに賛美した最後の夜は16年前の1998年でしたが、それはサンノゼ市にある教会ででした。私は未だ21歳の学生でした。ちょうどその頃、父は私たちの家の大改築をしていた時で、私たち三人は丸一週間父の手伝いをしておりました。その夕方仕事を終えて家を出ようとすると、私の直ぐ下のヨシュアと言う弟が(彼は何でも思っていることは口に出す性質で、そんな彼でも今は牧師になっていますが)父に向かって「私たちはまるで奴隷のように一週間働いたのだからお金を支払って欲しい」と言いました。父は「あなた方は一生懸命働いたのではなくて、只家の中をうろついていただけなんだからお金を払う価値はないよ。」と答えました。こんな会話を聞いていた私は一番上の「マチュアー」な息子として二人の間に割り込み、先ず弟に「やめなさい!私たちはこの家の息子であり、この家に仕える者なのだから、お金を要求するのは間違っている。」と諫めました。そして次に父を指差して言いました。「あなたも間違っている。なぜなら私たちは昔のイスラエルの奴隷のように一生懸命働いたのです。」

急いでいたので、そう言い残して私たち三人は車に乗って家を出ました。車の中で私は言うべき正しいことを言ったのだという思いで得意になっていたのですが、それは45秒も続きませんでした。なぜなら「未だ21歳にしかならない者が父に向かって指を指して責めることは恥ずべきことである」と主から示されたのです。とたんに私は罪の呵責に責められ始め、教会に着くと直ぐ、父に電話をして心から自分の非を謝りました。そして弟にも謝まらせました。父は私たちを赦してくれました。

その夜の私たち三人のリードによる賛美は今までにない程主の臨在が溢れ、豊かな油注ぎがありました。私たちは何をするにしても先ず父の前で正しくあることが必要です。私が父親に言ったことが間違っていたのではなく、私が父に対して言い返したそのことが間違っていたのです。

 

そこで私は、今夜皆さんに、私たちクリスチャンのアイデンティティー(私たちは誰であるか)と性質・性格キャラクター(私たちの行いの現れ)の関係についてお話したいと思います。私がたとえ父親に向かってどんな馬鹿なことを言ったとしても、それによって私のアイデンティティーが変わる訳ではありません。しかしキャラクターとなれば、私の行いが私のアイデンティティーにふさわしい品性、まじめさ、誠実さとマッチしているかどうかが問われます。つまり、誠実さ integrity とはあなたのアイデンティティーとあなたの行いが一致する状態のことを言い、両者が互いにふさわしければよいのですが、矛盾していれば、あなたの誠実性に問題があるということになります。私が父を責めた時、私は咄嗟に平静を失って、私のアイデンティティーにふさわしくないことを口にしてしまったのです。実に恥ずかしいことでした。私たちがイエスを救い主なる主と認めた時から私たちは神の子どもとなったのであって、そのアイデンティティーは変わらないのです。5:3を見て下さい。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしくない」行動をとってはいけないのです。言ってみれば、あなたの着物(行い)はあなたの身体(アイデンティティー)にぴったりフィットしていなければ、小さ過ぎても大き過ぎてもおかしいのと同じです。

 

私の(5歳の)娘は育ち盛りで靴でも着物でもすぐフィットしなくなります。それでも娘はお気に入りの靴があって、最近、それが小さくなったにもかかわらず無理してでも履こうとしたものですから、足が痛くなり歩けなくなってしまいました。娘はパパに新しい靴を買って欲しいと言うべきだったのです。今、2015年を迎えようとしています。しかし、この一年で私たちは一段と成長(霊的に)したのですからフィットしなくなった「古い着物とか靴」は捨てて、神に新しい年にふさわしい着物をもらい、それを着る準備をすべきではないでしょうか。そのことが5:4に書いてあります。「淫らなこと、愚かな話や下品な冗談」を脱いで、新しい年は「むしろ何事にも感謝する」という着物を着るべき年であるかもしれませんね。それを言えば、パウロは5:1で「神にならう(imitate する)者になりなさい」と言っています。

 

キャラクターとは立ち止まった時の状態 ではなく、歩いて(行動して)いる時の状態であることを理解しなくてはなりません。すなわち、神の前に立っている状態と、神と共に歩いている時の状態とは違うのです。神の前に出て立つ時、それは、神の臨在の中で、神を礼拝している時の状態ですが、それはあなたのアイデンティティーであって、あなたの現実の霊的状態 ではありません。あなたの今の霊的状態を知りたいですか。それはあなたが突然火の中に放り込まれたような試練に会う時に分かります。高速道路で突然車があなたの前に強引に割り込んで来た時とか、激しい夫婦喧嘩をした時とかに分かるのです。夫婦喧嘩が加熱するとあなたは大概つまずきませんか。そのような時の相手に対する反応、それがあなたの現実の霊的状態を表します。神はあなたに色々な試練を与え、あなたの霊性とキャラクターのどこかに隠れたひびが入っていないかをテストされます。主は私たちの日常の生活の中で歩いている時に、私たちの行いが私たちのアイデンティティーと合致しているかどうかを知らせてくれます。

 

昨夜私は娘を三日ぶりにお風呂に入れました。(妻が韓国に帰っていました)娘はダンスがとても好きでバスタブ中でも踊ります。私も嫌いではないので一緒になって音楽に合わせてダンスパーテイーになり、楽しくはしゃいでおりました。ところが調子に乗り過ぎた娘は着物を着たままの私に足で水を掛け始めました。私は止めなさいと静かに娘に言うのですが、娘は面白がってなかなか止めません。五分程はよかったのですがその後娘が突然又水を私の方に足で蹴るので、私はとっさに大声で怒鳴ったのです。自分でもびっくりするような声でした。娘は泣き出し、パーテイーは終わりました。その後私は静かに娘を諭し、娘はもう水を掛けなくなりました。しかしそこで気が付いたことは、私が大声で怒鳴ったその瞬間、私の霊の歩みと私の立っているアイデンティティーとがイコールではなくなったことです。ことばを換えれば、私は霊で歩いてはいなかったのです。私がしたと同じように神が私たちを怒鳴ることなどあなたは想像できますか。もしそれが起こったのなら、私が存在しなくなるだけでなく、世の中は終わりになります。私はその瞬間に私の天の父がどのようなお方であるかを忘れた行いをしてしまったのです。天の父は私たちに対して決してそのようには行動されません。神は私たちに「愛は寛容であり、親切である」と教えて下さいますが、それを忍耐をもって教えて下さる方です。確かに私も娘に教えようとし、それは正しいことでしたが、忍耐に欠けていました。その意味は、私はその瞬間に霊の中を歩むことから自分自身を放り出したのです。これはとても大切なことです。

私たちはよく「解放  」を求めますが、解放されると言うことは(聖霊と共に)霊の中を歩くようになることであり、縛りとは肉の中を歩むことです。しかしあなたは肉の中を歩んでいる時に肉から解放されることはないのです。悪魔を追い出すことは出来ても、自分の肉を追い出すことは出来ません。肉は十字架につけるしかないからです。その上に、あなたは肉の中を歩まないと決意しなければなりません。

 

霊の中を歩くためには、先ず、あなたの過去においてあなたを霊の流れから追い出してしまった経験とかその状況を具体的に思い出し、それを取り扱うことを決意することです。2015年にはそれをすることを提唱します。

私のゴールは、何とか自分を訓練して、20分以上神を呼ばずに時間を過ごすことがないようにしたいのです。多くの人は、霊的になるには多くの時間を神と共に過ごさねばならないと言います。しかし、世の中には毎日何時間も神に祈る時間がない人が大勢います。このことを私はスミス・ウイグルウオースから学びました。彼は「私は20分以上は祈りません。しかし私は、祈ることなしに20分以上の時間を過ごすこともありません。」と言いました。私は2015年にはそうなりたいのです。たとえ私のワイフとどのような口論になっていても、あるいは娘によって私の堪忍袋の緒が切れそうになっていても、私は何とかして霊の流れの中に留まりたいのです。

どうしたら、霊に留まりつつワイフと口論することが出来るのでしょうか。それには、どのように口論すればよいのでしょうか。「霊の人」とは、どのように物事にリアクトする(肉でない反応をする)のでしょうか。とにかく私の願いはいつも霊に留まりたいのです。どんな危機に面しても、聖霊の支配の下に自分を置きたいのです。私はそれを学びたいーそれが私の目標です。

それは取りも直さず、私たちが神との親しい関係 を四六時中常に保つことを意味していると私は信じます。神はこの一つのことの為に、私たちが2015年により大きな着物を着ることを願っておられると信じます。それは 霊をフルに着ると言うことです。

 

パウロはこのことを5章全体で語っています。18節に「酒に酔ってはいけません。」と書かれていますが、ここで彼は単にアルコール飲料についての神学を語ろうとしているのではありません。この世で聖霊以外の一切の異物を指して、そのようなものに酔っていてはいけない、それより聖霊に充たされ、聖霊に酔いなさいと言っているのです。私が娘に対して怒鳴った時、私は「辛抱と忍耐のないこと(或はそう言う自分に)」に酔っていたのです。

 

私は今朝ヨシュア記5章、6章を読んでいました。そびえ立つ高い要塞の城門の壁に囲まれたエリコを打ち破って勝ち取る話です。エリコは私たちが究極のデスティニーに向かうときに出会う最初の障碍物とも言えます。目の前に立ちはだかる壁をヨシュアは一人でつぶさに調べて見たでしょう。しかしそこには何の脆さ、突破口もありませんでした。それと同じで、皆さんの中には霊の中に入りたくても大きな壁があってどうしても入れないと感じた経験はありませんか。私はよくそれを感じます。自分が一瞬カッとなって、自らを「聖霊の流れ」の外に放り出した時何とかして戻りたいと思っても、直にはもどれない大きな壁のことです。そこにはいらいらする自分はあっても聖霊はおられません。

 

考えてもみてください。私たちクリスチャンの中には神の聖霊が住んでいるのです。そうであるのに、どうして私たちはスーパー・パワフルな霊のいのちと力をいつも感じることが出来ないのでしょうか。神の栄光と、もの凄い力にどうして充たされないのでしょうか。私と霊のいのちの間に立ちはだかる壁があるのを感じます。そのために何時間も祈るとか、例えば8時間かけて聖書を読んでメディテーションすればよいのか・・・そうではありません。その壁は自分の力では取り除くことは出来ないのです。

 

ヨシュアの前に一人の抜き身の剣を持った御使いが現れました。そこでヨシュアは彼に「あなたは私たちの味方ですか敵ですか」と尋ねました。私はそれに対する御使いの答えが大好きです。彼は先ずそのどちらでもない「ノーである」と答えました。そして、「あなたは誤解している。私は、どちらのためでもない、主のための主の軍の司令官として来ているのだ。」と告げました。それで理解したヨシュアは「主の御ことば(命令)は何でしょうか」と平伏して尋ねました。その答えは「あなたの立っているところが聖なる場所であることをわきまえるために、先ず履物を脱ぎなさい。」でした。御使いはそう答えてから主の克明な作戦をヨシュアに伝えました。すべてのことにおいて神の方法しか解決策はないことがこれでよく分かります。

主は御使いを派遣し、エリコの厚い壁を打ち破るためのブレークスルーの方法をヨシュアに伝えたのでした。

 

同時に主が御使いを通してイスラエルの戦士に伝えていることは、彼らが自分のアイデンティティーにふさわしい行動を取らねばならないと言うことでした。ですから主の戦術の第一は、敵である城壁の周りを主の霊と共に「歩く」ことであったのです。そして第二は「プレーズ&ワーシップする」ことでした。これがそのまま私たちの2015年における戦術であると信じます。

 

私たちは皆、今打破らなければならない何らかの壁を持っています。あなたの壁となっているのは、夫か妻であるか、あるいは子どもたちであるかもしれません。又、仕事そのものであるか、仕事上での人間関係であるかもしれません。それらの壁があなたの「霊の歩み」をさせないようにしています。しかし「歩いて、礼拝する」あるいは「礼拝して、歩く」こよによって、主が遣わす御使いがその壁を打ち破ってくれます。

 

2015年は壁が崩れ落ちる時です。それは教会での礼拝中に起こるのではなく、歩いている時に起こるのです。そのためにパウロは、エペソ4:1で「主の囚人である私はあなたがたに薦めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と言います。私たちは日曜日に教会に来て神の力を受け、月曜からの一週間における主との歩みの中で敵の要塞の壁に打ち勝つのです。

 

(時計を見て)今年はいよいよ後二分残るだけとなりました。ここで皆さん新年に向かって大声を上げて主の御名を礼拝しましょう。・・・声が小さいです。もっと大きな声で。・・・新しい年に着る一回り大きな着物を今着ましょう。・・・そしてエリコでイスラエルが七日目の最後にしたように、ここに集まる人全員で今、ときの声をあげましょう。大声で。・・・・(終わり)


31 12月

弱い者に引き寄せられる神   ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)


弱い者に引き寄せられる神

 

ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)

 

クリスマスはすばらしいシーズンです。多分90%の人は一年で一番楽しい時だと思っているでしょう。でもそう思わない人たちにはそれぞれ理由があります。愛する人を失ったとか、挫折や失敗というような理由です。このシーズン、喜ぶ人と共に喜んではいるけれども、自分は喜んでいない人たちが私たちの周りにいます。主はそれをそのままにしていてはいけない、すべての家庭にブレークスルーが必要であると言っておられるように私は感じています。この教会のすべての人に職が与えられることを私は願います。「職が与えられないのは神からの試煉だ。」と言って済ますことをしたくないのです。確かに神はそのような状況を用いてはくださいますが、神が計画されたことではありません。神が用いられるけれども神のご計画ではないことは沢山あります。私たちは自分たちで天国にはない神学を作ってしまっていてはいけないのです。神はすべてのことを、命を与えるもの、目的のあるものとして作られました。私たちはそのように造られたのです。もしそうでないとすれば、私たちが罪を犯したからそうなったのではなく、未だ私たちがその(神の意図した)レベルに到達していないということであるからです。

神が約束してくださったすべてのことを理解し受け取るという訓練を現在私たちはしています。その訓練を受けるときに、私たちは神の満ち満ちたものを受け取ることができるようになっていく(成長して)のです。

 

今までの5、6週間、私の心にずっと一つのテーマがありました。神の物の見方は私たちの見方とは全く違うことを、皆さんはご存知ですね。神はいろいろなことに惹き付けられるお方です。その一つは「弱さ」にです。「あなたの弱さの中に私の力はあらわされる。」と言われました。実際、神は弱さに惹き付けられます。それは強さを嫌うという意味ではありません。これは神にとってとても大切なテーマなので、ヨエル3:10で「弱い者に『私は勇士だ。』と言わせよ。」と言っておられます。弱い者たちが天と同意し、ご自分と一致し、強い者になることを神は望んでおられます。それは天と地が一つになるためです。

 

聖書は、経済的に貧しい人は信仰が強いと言っています。信仰を強くするためにあなたは一文無しにならねばならない、と言われているのではなく、貧しいとあなたの気を逸らすものがないと言う意味でそう言われているように思います。マタイ13:22で、イエスは「富のまどわし」のことを話されました。それは信仰とお金が共存できないからではありません。もしあなたの心が正しいことへ向けられてないのであれば、多くのことがあなたの心を惹き付け誘惑して、あなたをいるべき場所からおびき出してしまうからです。ヤコブ1:9に「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とあります。神は、人間が何かに「不足」し、何かが「必要である」状態に目を着けられ(向けられ)そこに信仰を与えてくださるのです。

 

神は又、悲しみに引き寄せられると言われました。「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」とあります。神の名の一つは「慰め主」です。それは勿論、神が人間が喜ぶことを嫌っておられるからではありません。聖書は喜びの言葉で満ちています。しかし、神は人が悲しむとき、その悲しみに引き寄せられるのです。そのような人たちに神は慰めを与えられる方であるからです。

 

しかし、一番ショックなことと言えば、神は罪に惹き付けられることです。勿論神が罪を容認し認めるわけではありませんが、罪を見て怯む方ではありません。「罪が満ちるところに恵みも満ちあふれます。」地上で最も暗やみに被われている場所に福音の働き人を遣わす時に、そこに大いなるブレークスルーが起こることを私たちは経験しています。途方もない神の偉大な栄光がそこに現されます。神は地獄のような場所の罪を見て、どうしようかとおろおろする方ではありません。実のところ、神はそこにある罪に引き寄せられるのです。なぜなら、そこにいるすべての人が、罪が取り除かれることによって喜ぶことを神は見たい、そのような事態を現したいと思われ方だからです。

 

私たちが「良くない」とか「駄目だ」と思うことに、主は引き寄せられます。そして悲しみには慰めを、罪あるところには悔い改めと義を、弱いところには強さを、不足のあることころには充足をもたらしてくださいます。

 

士師記20章を見て下さい。ベニヤミン族の者たちがレビ人のそばめに暴行を加えて殺しましましたが、ベニヤミン族の人たちは自分の部族の男たちがした恥ずかしい行いに対して特に悪いと思わず悔い改めませんでした。そこでそばめの主人であるレビ人は、そばめの死体を12に切り分けて、イスラエルの各部族に送りました。18節から28節までを読んでみましょう。

 

ベニヤミン族に報復を加えることにした他の全イスラエル部族の人たちは、ベテルに上り神に伺って「私たちのために、だれが最初に行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と伺うと、主は「ユダが最初だ。」仰せられたので、イスラエル軍はベニヤミン族のギブアの町に対して陣を敷きました。そのとき、ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエル人二万ニ千人をその場で殺しました。しかし、イスラエル人はひるまずに奮い立ち、初めの日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをしました。そして主の前で夕方まで泣き「私たちは再び、私たちの兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と主に伺うと、主は「攻め上れ。」と仰せられました。そこで、イスラエル軍は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたのですが、ベニヤミン族は彼らを迎え撃ち、再びイスラエル軍のうち一万八千人の剣を使う者をその場で殺しました。

そこでイスラエル軍は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をして、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげました。(当時、神の契約の箱はそこにあり、アロンの子エリアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた。)そして「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それともやめるべきでしょうか。」とうかがうと「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」主は仰せられました。

 

これはとても奇妙な話です。神はイスラエル人を2回の負け戦さに行くように仰せられたのです。この時、神はイスラエル軍に何の落ち度も見つけませんでした。ヨシュアがアイを攻めて敗北したときには、キャンプの中に罪があったことがその敗因でした。聖書の中にはイスラエル軍が敗北した戦いのことが多く書かれていますが、そのすべてに敗北した原因があり、神はそれを咎め正されました。

 

しかし、この戦いの時、彼らは攻め上るべきかどうかを主に伺い、しかもユダが最初の行くようにという指示も受けました。ユダは「賛美」という意味があります。私たちは戦いに行くときは賛美を先頭にして行きます。士師記1:2でも主はまずユダが最初に上っていかねばならないと仰せられました。私たちの霊的戦いはサタンに焦点を当てるのではなく、神に焦点を当てるべきであるからです。又,別の聖書箇所では、聖歌隊がまず最初に進みました。まず第一に主に仕えることが勝利への鍵だからです。彼らはここで、「だれが最初に上っていくのでしょうか」と尋ね、主は「ユダが最初だ。」と答えられました。イスラエル人は主の言葉に従い、すべてのことを主の言われる通りに行ったにもかかわらず、その日ニ万ニ千人が殺されたのです。

彼らは陣に戻りもう一度奮い立って、神の御前に出て、泣いたのです。「再び戦うべきでしょうか。」と神に伺い、神は「もう一度攻め上れ。」と言われました。彼らは攻め上り、その結果一万八千人が戦死しました。彼らは又主の前に座りましたが、主からの咎めは何もありませんでした。彼らは「再び攻め上るべきでしょうか。それとももう止めるべきでしょうか。」と主に伺いました。主は「攻め上れ。今度は必ず勝利を与える。」と言われました。

 

ここがポイントです。私たちは通常、回りの悪い状況にチャレンジして、それを変えることが出来たときが「勝利」であると考えます。しかし神は、あなたが敗北したにもかかわらず再び神に祈ることこそ「勝利」であると考えられるのです。イスラエル軍は敗北しましたが、神からの咎めはありませんでした。彼らは又祈り、そして従いました。2日間の戦いで四万人の死者を出したにもかかわらず、3日目にも彼らは主に従って戦う用意が出来ていました。それによって自分も命を落とすかもしれないのにです。

 

私たちは回りの悪い状況を変えることに力を尽くしますし、従ってそれが戦いの究極的な目的となります。しかし、主は主の御こころと目的をしっかりと胸に抱くことができる民を建て上げておられるのです。

 

神の御こころは多次元です。「御心が天で行われるようにこの地でも行われますように」というのは、私たちの人生のすべての面で完成されるべきことです。それはおろそかにすることではなく、先延ばしにするべきでもなく、すべて主に従う者たちが実行すべきことーそれが究極的なレベルの神の御心です。しかし、神の御こころのレベルをどれほど喜べるかは、私たちの霊的成熟度によります。どうしてでしょうか?

 

神の御こころが地上でなされるためには、奇蹟が必要であることは皆さん同意されますね。悪霊の圧迫からの解放、罪から義へと人生が変えられる、癒し等、すべて天国で存在するものがこの地に現れねばなりません。天国にあるのと同じ霊的領域を神が人びとの上に解き放つのです。それには奇蹟が必要です。奇蹟が起ると何が起るのでしょうか。ヨハネ2:11に「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現された。」とあります。すべての奇蹟は「栄光を現すもの」であるのです。神の栄光には重みがあります。

神というお方の重み、契約の重み、臨在の重み、顕在の重みという「栄光の重み」が、奇蹟が起る時には必ず現されます。この重みがそれを支えるだけの徳を持たない人の上に下ったときにはどうなるでしょうか。その人を祝福するための神の栄光が、実際にはその人を滅ぼしてしまいます。ですから、神は私たちへの憐れみのゆえに、ご自分の栄光に覆いをかけてくださるのです。栄光を出し惜しみしておられるのではありません。

 

神が「NO」と言われるのは、もっとよい「YES」が用意されているからです。神が「待て」と言われる理由は、その人が神からの答えを十分に受け取れる力を増し加えて下さるためにです。神はどうして神の民を訓戒されるのでしょうか。それは神が私たちに罰を下すのではなく、神の祝福が私たちを滅ぼさないためであるのです。ヨハネ16:12でイエスは「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われました。弟子たちは重みを受け止める力がまだなかったからです。

 

神が話される時はいつでも、その実質のリアリティーが解き放たれます。神は言葉だけを話されることはありません。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスが話されるとき、聖霊が解き放たれ、神の栄光の重さを持ってその場所でミニストリーをされるのです。イエスは多くのことを話したいが、今は彼らにはそれは耐えられないと言われました。ですからイエスはほんの少しだけ現してくださったのです。ブレークスルーをあそこで少し、ここで少し、という具合にです。それによって不思議を行われるお方に私たちが心惹かれるようにされたのです。私たちの中に神の栄光の重さの中で生きる力を養ってくださっているのです。それは神の臨在の栄光の中で生きていく力です。神はそれをすべての人に持って欲しいからです。今は神の憐れみのゆえに、少しずつ与えてくださいます。

 

私は祈りの答えを「種」の形で受け取ることがあります。神は樫の木を与えてくださる代わりに、ドングリを下さいます。それを私たちが管理して大きな木に、即ち私たちが願ったものに育てていくためです。種を管理して育てて行くときに、私たちの中に徳と力が増し加わり、元の祈りが最終的にかなえられたときには、それを巧く用いる力が私たちの中に育っているのです。結果は価値あるものですが、神は結果よりもそこに辿りつくまでの過程、プロセスに価値を置いて大切にされます。私たちを形作るのはそのプロセスにあるのです。

 

士師記の話では、神がイスラエルを2度の敗戦に導かれましたが、神はそれを勝利と考えられました。戦いに破れた後もイスラエルは神の御前にもどり、神に祈り、神に従ったからです。皆さんの中には、神が言われたと信じて従った結果、厳しい状況に置かれている方がいると思います。本当に危機に面している方もおられると思います。ある人の場合は神がそのような指示を与えられたでしょうし、又、ある人の場合は神ではなかったでしょう。でも大丈夫です。神はそれでも面倒をみてくださいます。神からの指示だと思って、馬鹿なことをしてしまった人はおられませんか? 私たちはみなそのような経験があります。

 

神は私たちをあることに導かれます。その結果、ある人たちはひどい破船にあって、やっぱりあれは神ではなかったのだと、考えます。でもあなたがその時、再び神の御前に出て祈るとき、神はそれを尊んでくださいます。結果は悪く出てあなたが望んだことではなくても、神の目にはあなたは勝利したのです。今日、神はここにいる方々にブレークスルーを与えてくださると信じます。神に従って失敗をしたことを神は逆転させてくださいます。(終)


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