01 06月
クリスチャンに与えられている権威
ベンジャミン・イスラエル• ロビンソン
マタイ28:16−20
「しかし、11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってパプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたと共にいます。』」
弟子たちはイエスを礼拝した
イエスは復活後40日間、御国に関することを弟子達に教えられました。この箇所では弟子たちがイエスを見たときに彼らは「礼拝した worshiped Him」と書かれています。これは非常にすごいことが起ったのです。弟子たちはこれ以前に主を「礼拝 worship」したことはありませんでした。ナザレのイエスに対してこの行為がなされたことはそれまでなかったのです。盲目のバルテマイをイエスが癒されたとき、彼らは誉め称えました。主が悪霊を追い出し、病人を癒されたとき、又水の上を歩かれたときも彼らは主を礼拝はしませんでした。主が嵐を静められた時、彼らの口から出た言葉は「いったい、この方はどういう方なのだろう。」というものでした。彼らは神学的にイエスはどういう方なのだろうかと思い巡らしたのです。
しかし、この山で復活の主に会ったとき、彼らは「礼拝」したのです。それは彼らが主の生きた臨在に触れたということです。主の臨在に触れ主の栄光を見たとき、彼らは反射的に礼拝したのです。「自分たちは何をしているのか」「どういう意味があるのか」と考える前に、彼らは主の前に反射的にひれ伏したのです。
この後弟子たちは、ここで自分たちがしたことをずっと思い巡らすことになりました。新約聖書はこの経験を一つの原点としているのです。私たちが主を礼拝するのは、神学的な結論からではありません。私たちは聖書研究をした結果、「それでは主を礼拝しよう」と思うのではありません。礼拝は反射的に起ることです。もし主が今この部屋に入って来られるならば、たとえ無神論者であったとしても主を礼拝することでしょう。主の臨在にふれた時、反射的に私たちは礼拝するのです。
この山で弟子たちは復活の主の栄光に圧倒され、思わず地にひれ伏しました。しかし「ある者は疑った。」とあります。それはある者たちは立ち止まり、これは神学的にはどういう事なのか、と考えたのです。「もし父なる神が神であるならば、そしてイエスも神であるならば、イエスは父なる神なのか、それならば御座には誰がおられるのか、それとも神が一人以上いるのか。神はお一人のはずだが、、、」と。しかし他の者たちはそのように神学を考える余裕もなく、ただ主の栄光に出会い礼拝することしかできなかったのです。後になって彼らはこのことを思い巡らし、そこから三位一体の教義が生まれたのではないでしょうか。
礼拝の意味
「礼拝 worship」と訳されている言葉は、ギリシャ語では2つあります。ローマ12:1に「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とありますが、ここの「礼拝」にはロトレイヤという語が用いられています。これは奉仕、祭司の務め、主に捧げた人生、私たちが生きた供え物として主に仕えることであり、即ちそれが礼拝、ロトレイヤなのです。
もう一つの源語はプロスクネイヨで、これはヨハネ4:23−24でイエスが言っている言葉です。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ここで言う礼拝とは神の御前にひれ伏し拝むことです。霊とまことによって心のうちから神を崇めひれ伏すことです。御父はこのような礼拝者を求めていると主は言われます。
マタイ28:17の「礼拝」はこのプロスクネイヨです。「そして、イエスにお会いしたとき、彼らはプロスクネイヨした」のです。彼らは地にひれ伏し、全面的な崇拝、服従、忠誠を表したのです。
復活の主の権威
イエスは弟子のその姿を見て、先ず「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と言われました。権威とは力を行使する権利です。もしあなたがすごいスピードの出る車に乗っていたとしても、制限速度以上で走ることは法律上できません。イエスは力(デュナミス)を持っておられましたが、今までは「いっさいの権威」は与えられていなかったのです。
人として地上で歩かれた時のイエスを見ると、常に神の力に満ちておられましたが、そのミニストリーは幾つかの点において力の行使を制限されていました。主は父のなさることを見てそれだけをされました。マタイ10章では弟子たちに汚れた霊を制する権威をお授けになりましたが、「異邦人の道に行ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と言われました。イエスの3年半のミニストリーはほとんどガリラヤ地方に限られていました。イエスの権威は地理的にも制限されていたのです。
しかしながら、復活の主は「天でも地でもいっさいの権威がわたしには与えられている」と言われたのです。主は「わたしの力を行使するための権威の制限はすべて取り払われた」と宣言されたのです。車の制限速度は取り払われたので、主は全速力で全世界に力を表すことができるのです。弟子が主と会ったとき、それは今までとは違う権威に満ちた主であり、彼らはその顕在にふれて即座にひれ伏したのです。
私たちの使命
つぎに主は「それゆえ、あなたがたは出て行って」と言われましたが、「それゆえ」とは、前述したことを理由として次のことをしなさい、という意味です。「行きなさい」というイエスの命令は、「わたしには天でも地でもいっさいの権威が与えられています」という事実により、「それゆえ」あなたがたは出て行きなさいということです。そしてそれはイスラエルだけではなく、「あらゆる国の人々を弟子とするため」なのです。イエスは弟子たちにご自分の権威を与え、ご自分の代理人として送り出しておられるのです。
創世記1:28で神はアダムとイブに「生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と言われましたが、イエスは「すべての国々に出て行って人々を弟子とせよ。」と言われます。アダムとイブは肉の子どもを生み地を治めましたが、私たちに与えられた仕事はすべての国々に出て行って霊の子どもである弟子を生み出すことであり、これはすべてのクリスチャンに与えられた命令です。
牧師、伝道者、使徒、預言者、教師とかだけではなく、すべてのクリスチャンがこの命令を受けているのです。
私たちの多くは、イエスの大宣教命令が自分に与えられたものであると自覚していません。その理由は大宣教命令を次の4つに限定し非常に狭義に解釈しているからです。
1.路傍伝道をする
2.牧師になる
3.宣教師になる
4.教会の伝道活動を助ける
勿論、これらは非常に重要な働きであり、もっと多くの人がこのような働きをしてほしいと思います。
自分が置かれている場所での伝道
しかし、これらをしていないと自分は大宣教命令を実行できないと思う必要はありません。まずこの命令は自分にも与えられていることを信じ、自分の今置かれている場所で何ができるかを主にお聞きするのです。あなたにしか出来ない伝道の仕方、伝道の場があるのです。あなたの仕事の場がそのまま伝道の場です。牧師が行く事ができない場所も沢山ありますし、出会えない人も沢山いるではありませんか。
ここに座っているジェイソンはモデルの仕事をしていますが、先月ニューヨークの大きなショーに出演しました。その時一緒に働いていた女性のモデルと話をしていたのですが、聖霊の助けにより彼女に預言をしたところ、彼女は涙を流しイエスを主と受け入れたのです。そこにワーシップ音楽が流れていたわけでもなく、彼がトラクトを持っていたわけでもありません。彼はただ神に福音を伝える機会を与えてくださいと祈り、神が扉を開いてくださったのです。それは無理やりな形式的なものではなく、神の御手の中で自然に起ったことです。ハレルヤ!!
19節の「それゆえ、あなたがたは行って、」という「go」というギリシャ語は、行き続ける、という意味です。あなたは行き、行き続け、行き続けながら、即ち日常生活をしながら、その時、その場所で大宣教命令を果たしていくことができるのです。あなたがどのような仕事をしていたとしても、それは出来るのです。
弟子の作り方
イエスはここで弟子を作る方法も言われています。
ステップ1:父、子、聖霊の御名においてバプテスマを授ける。このバプテスマということばは原語バプテゾの音訳ですが、「浸す」という意味です。そしてそれはただ水の中に入れるということではありません。「御名」とは父、子、聖霊の存在そのもの、臨在です。人々を救いに導きたいならば、まず神の臨在に触れさせねばなりません。ジェイソンは神の臨在を持ち運び、女性のモデルはそれに触れたのです。
ステップ2:すべてのことを守るように教える。私たちはステップ1を抜かしてステップ2をしてしまう間違いを犯しがちです。タバコを吸うな、酒を飲むな、というだけで、もしイエスの臨在を与えないならば、ただの宗教です。私たちがイエスという真珠を与えるならば、彼らはすべての持ち物を売リ払ってその畑を買うでしょう。
私たち一人ひとりがこの大宣教命令を受け取り、自分の持ち場で実行していく権威を頂いていることを忘れないようにしようではありませんか。(終)
24 05月
ペンテコステの日を心よりお祝い申し上げます
坂 達 也 ・ 柚 実 子
ハレルヤ! 日本の皆様は既にペンテコステ礼拝を済まされたと思いますが、アメリカは今日がペンテコステをお祝いする日曜日です。
ついては、皆さんの礼拝で次のことが起こりましたか。
その日には「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。・・・すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。・・・ この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。」と使徒行伝2:2−6に書かれています。
私たちは最後のリバイバルはこのようにして起こると信じて疑いません。それは下記のヨエルの預言の通りです。
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』(使徒行伝2:17−21)
そうです。聖霊が私たちの上に臨まれる時、私たちは力を受けます。
おめでとうございます。もう皆様方にはリバイバルへの準備が出来ておられますか。いよいよこれからは、皆様の集まりの上に「突然」大きな音とともに激しい風が吹き下ることがいつ起こっても不思議はありません。それを心から期待しております。(終り)
20 05月
預言の約束と祈りの関係 (その2)
マイク・ビクル
1982年9月に私はエジプトのカイロのホテルに泊まっていたのですが、夜一人で祈っていたときに経験したことをお話しいたします。その時私は27歳で、セントルイスで牧師をしていました。主が24/7の祈りに関して語ってくださる少し前のことです。
私はその夜非常に劇的な霊的経験をしました。勿論私の人生でボーンアゲインしたことが最大の経験でしたが、これはその次に重要な経験でした。私の内に主の御声をはっきりと聞きました。肉の耳で聞いたわけではありませんが、単なる印象とかではなく、非常に鮮明に聞いたのです。主はこう言われました。
「わたしは全地でキリスト教というものの理解と表現を一世代のうちに変える」
この言葉は私のうちに矢のようにささり、主ヘの畏れに私は打たれ、主の臨在がそこにあふれていました。
「キリスト教というものの理解」という言葉を聞いたとき、それはノンクリスチャンがキリスト教をどのように見ているのか、ということを指していることが私にはわかりました。使徒5:5には「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」と書かれています。すべての人が教会に働いている聖霊の力を恐れたのです。
使徒5:13には「ほかの人びとは、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人びとは彼らを尊敬していた。」とあります。それほどに教会は人びとから一目置かれていたのです。
今世界の中で教会は力を持っていませんし、尊ばれてもいません。国家に対しても、都市に対して、家族に対しても、ほとんど影響力がありません。主はノンクリスチャンたちの教会をそのように見る目を変えると言われているのです。人びとは再びキリストのからだの中に神のすばらしさと同時に恐るべき力を見るようになるのです。
次に「キリスト教の表現」とは、教会がイエスのリーダーシップのもとで共にその命をどのように表すかということです。神は私たちを劇的に変えてくださり、教会は神の愛と力において一致し、一世代のうちに聖い民とされます。キリストのからだが集まるとき、そこに新しい姿が表されるのです。それは私たちが今想像する以上のものでしょう。ただ礼拝に集まるときだけではなく、世の中で、クリスチャンが二人三人と集まるときに、主の臨在がそこに現れるのです。大きな競技場が聖会で一杯になる時が来ると私は信じます。ある人が説教をして沢山の人が救われるという集会も確かにすばらしいのですが、それだけではなく、集まったすべての人のただ中で神が働かれ、しるしと不思議と奇蹟が起るということがもうすぐ起こると私は信じています。
神はその時、キリストのからだのすべての人を用いられます。小さいレムナントの群れがあそこに一つ、ここに一つ、というのではありません。
何故か「レムナントとは、即ち私が属しているグループだ」とみんなが思っています。しかし、世界には数えきれないほどのミニストリーが主のために仕えています。それぞれ異なる働きですが、皆全身全霊で主に仕えているのです。
頻繁に「リバイバルはどこから始まるか」という話を耳にします。どこから始まってもいいではないですか! いずれ全地がおおわれるのですから!
普通そのような話をする人は、リバイバルは自分のグループから、自分の国から始まると言うのです。しかし神はキリストのからだを全部愛しておられます。
「あの群れはもう霊的に死んでいる」と非難する人もいます。確かに死んでいるところもあるかもしれません。しかし、その死んでいる祈り会に激しい聖霊の風が吹けば一夜にして変えられるのです。ですから私は誰をもリストから消したりはしません。何故ならば、リバイバルは「いかに人びとがすばらしいか」ということではなく、「いかに神がパワフルで偉大であるか」ということだからです。「どの教団が」とか「どの教派が」とかいう話はまったく聖霊の働きとは関係ありません。「私の街からリバイバルが始まります。」という人にむかって、私は「すばらしい!他の一万ほど場所でも起こりますよ。」と言うのです。
ヨエルの預言について
使徒行伝2:16−20でペテロはヨエルの預言を引用しています。
「これは預言者ヨエルによって語られたことばです。『終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしに霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』」
ペンテコステの日に120人が集まっていたときに聖霊が下り、一瞬にしてこの小さな祈りのグループは変えられました。このあと3千人が救われ、その後も多くの人が教会に加えられました。
16節を見てみますと、ペテロは「これは預言者ヨエルによって語られた言葉です。」と言っています。実にこれは非常に重要なポイントであり、ペテロは今起っていることはヨエルが預言したことだ、と言っています。「主の日が来る前に」地上のすべてのクリスチャンの上に聖霊が注がれるのです。そして奇蹟が空中にも地にも毎日のように現れるのです。物事はだんだんに少しずつ起ることもありますが、また突然起ることもあります。
「すべての人に」というのはイスラエルにとっては、全く新しい考えです。ヨエルはBC600年くらいの預言者でしたが、聖霊がすべての人に注がれると言ったのです!当時預言の霊は王と預言者に注がれただけでした。そして2、3の例外を除いては、すべてユダヤ人の成人男子にだけ注がれました。しかしヨエルは子どもにも注がれると預言しました。当時のリーダーたちは「えっ、子どもにも?」と思ったことでしょう。そして女性にも注がれ、なんと異邦人にまで注がれるというのですから、彼らは心底から驚いたことでしょう。これは本当にとんでもない馬鹿げた話だったのです。聖霊が異邦人の女の子どもに注がれるなど、当時は全く考えられないことでした。ヨエルは「まあ、見ていてごらんなさい。」と思ったことでしょう。
ペテロはヨエルの預言を120人に起ったことに対して引用しています。しかしヨエルの預言はすべての人に対する預言です。「でもペテロさん、ヨエルはもっとすごいこと、全地のすべての人に聖霊が注がれることを預言しているのですよ。」と私は言いたいのです。ペテロはたったの120人にヨエルの預言を当てはめているのですが、でもそれは確かに預言の完全な成就の始まりだったのです。使徒行伝を読む時は、これが最高だと思わないでください。これは出発点、発射台、始まりです。私たちはペテロが見たものより、ずっとすばらしいことを見るようになるのです。
愛する皆さん、私たちはこの預言の約束を握りしめ、これを忍耐強い祈りに変えねばなりません。また国家に与えられた預言や、個人的な預言もそれを信じて祈り続け、実現に至らしめるのです。なぜならば預言は神からの招待状だからです。(終)
16 05月
預言的約束と祈りの関係( #1)
マイク・ビクル(IHOP国際祈りの家ディレクター)
喜んで与えてくださる神
多くの預言的約束は、主からの招きであり、結果を保証するものではありません。主が「わたしはこれこれをしたい。もしあなたがわたしと共に働くならば、あなたの人生に対する私の計画は完全に成就するであろう。」と言われるのです。ある預言の約束は完全に保証されているものであり、私たちがどのように応答したとしてもそれは成就します。しかし多くのものは、主からの招きです。私たちがそれに十分に応答できないときは、私たちの人生に対する神のご計画は完全には成就しません。
イエスはルカ12:32で当時の人にとっては考えられないことを言われました。
「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。 Do not fear, little flock, for it is your Father’s good pleasure to give you the kingdom.」
当時、ユダヤ人たちは神が自分を愛していてくださる父であるという認識はなく、又、王とか預言者ではなく普通の小さな群れを通して御国を喜んで与えてくださるというのは非常に驚きでした。
マルチィン・ルターは次のように言っております。
「祈りとは気が進まない神を説き伏せることではなく、喜んでしたいという神の思いをしっかり掴むことである。 Prayer is not overcoming God’s reluctance but laying hold of His willingness.」
時として私たちは、「祈りとは私たちが神を説き伏せ、神も私たちを説き伏せようとすること」と考えるのです。しかし、神は「それを与えるのは私の喜びである。もしあなたが共に協力するならば、わたしが預言的言葉をもってすでに定めたように、あなたはわたしの計画をフルに歩むことになるであろう。」と言われているのです。
3種類の預言的約束
私たちは、今神がこの世代に計画されておられる預言的約束が成就するように、とりなし勝ち取らねばなりません。預言的約束には3種類あります。即ち、聖書に書かれた預言的約束、国々に与えられている預言者を通してその国、その世代に与えられる預言的約束、そしてあなたやあなたの家族あなたのミニストリーに対して与えられている個人預言の約束です。私たちはこの3種類の神の約束を信じてしっかりと握りしめ、決して途中で投出たりしないで、それが成就するまで戦うのです。
ここで注意せねばならないのは、私たちのミニストリーの土台は聖書に書かれているイエスであり、イエスとの交わり、イエスの十字架の御業です。預言の言葉はあなたを鼓舞し、困難な時にもくじけない力を与えてくれるでしょう。しかし、土台は聖書に書かれている御言葉です。
人はよく「私は御使いの訪れがほしい。」と言います。しかし天使の訪れや神の御声があなたに聞こえるのは、天使が伝えようとしている神の任務が非常に困難なので、あなたが途中であきらめないで最後まで遂行するためにはそのような劇的な確証、励ましが必要だからです。ですから私はこう言うのです。「5分間の天使の訪れを受けて、50年間困難な任務に就きたいのですね。」するとみんな「ちょっと考えさせてください。」と言います。
聖書の御ことばが信仰の最終的な権威であり、それは預言的約束に関してもそうです。もしあなたが天使から何か聞いたとしても、聖書の御言葉の中にそれがはっきりと確認できないのであれば、その言葉に従うべきではありません。
現代の国々への預言と個人的預言は、2人又は3人の証人によって確認されねばなりません。正確な数字は分かりませんが、私のもとへは毎週5つから20くらいの私に対する個人的預言が送られてきます。毎週です。あるものは、「栄光があなたにやってくる、神はあなたを喜んでおられる....」というものであり、またあるものは、「神は悲しんでおられる。もう栄光はあなたのミニストリーから去るであろう。ミニストリーは崩壊するであろう....」というようなものです。過去25年間毎週このように両極端な預言を受けてきたのです。ですから、私は明確な神からの確証がないかぎり、それは奥の棚において置くのです。もし神がその預言の中から何か一つを「これは確かにわたしからの預言であるから見なさい。」と私に示したいのならば神はそれがおできになる方ですから、安心して棚に置いてあります。
預言を受けたときに、神からの明確な確証がないならば、それに関して祈り始めることを私はしません。ただ誰かが「私もそんな気がします。」と言うような曖昧な確認では私は動きません。私たちはしっかりと目をさまし、預言が真に神からのものだと確認したならば、それを心にしっかりと抱くのです。
前述のように預言の言葉はそれが必ず起るというのではなく、多くの場合神からの招待状です。32年前、私は24/7の絶え間ない礼拝に関する主の御声をはっきりと聞きました。聖書の中にはイスラエルの王によって絶え間ない祈りと賛美が捧げられたことが多く書かれていますから、それは聖書的なことであり、また歴史を通しても行われてきたことです。新約時代、使徒たちは深く祈りに没頭していました。それは今のクリスチャンがいう「祈り」のレベルとは全く違う深いものでした。昼夜を通しての祈りは新約の教会においては「ノーマル」だったのです。
神は私に「あなたにそれをしてほしい。」と言われました。それは神からの招きでした。それが実際に起るかどうかの保証はありませんでした。神の招きに対して私たちは「いいえ、できません。」とも言えるのです。「神よ、もしあなたがしたいのなら、ポンとどこかに出現させたらいいではないですか。私はしたくないです。」とも言えるのです。神の招きには人間側からの協力が求められているのです。このように神からの預言的約束の多くは、あなたに対する招きなのです。
預言的約束と祈りの関係
預言的約束は、私たちが忍耐をもって戦い抜き、ミニストリーに困難を覚える時にも忠実にやり続けるのを助けてくれます。力強い主からの約束を確信し、祈りによってそれを握り続けないと約束は実現しないでしょう。神の預言の約束と私たちの忍耐ある祈りとは、深く結びついているリアリティーです。約束があなたを祈りに導き、祈りが約束を実現させるのです。
神からの尋常ではない招待によりあなたの心は強く動機づけられるのです。勿論あなたが弱くなる時もあるでしょうか、それでもあなたはその任務に対しての情熱をもち続けることができるのです。特に神があなたに預言的な激しいヴィジョンによって与えられた任務は、あなたがもう止めたいと試みられるものです。それは非常にチャレンジの多い困難なものであるからです。ですから神はご自分がどれほどそのことに情熱をかけておられるかをあなたに示されて、あなたが最後までやり遂げるように励まされるのです。
第一テモテ1:18「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」
パウロはここで「あなたがあの預言によって...勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。テモテが以前受けた預言を思い出すことによって心を燃え立たせるように、そして祈り続け、預言の約束が成就することを信じ続けるようにと勧めています。
私たちは聖書に書かれている預言的約束を一番重要視します。1から10の段階でいえば、10です。しかし私たちは個人に与えられた預言的約束を無視するわけではありません。あなたは多くの個人預言を受けられたかもしれませんが、それは勿論明確な確証が無ければなりません。でも主がそれを確証されるならば、それを無視してはいけません。神はその預言をあなたが受け取り、神と共にその実現のために祈り続け戦い取ることを望んでおられるのです。
神のパートナーとなる3つの段階
1.まず神がご自分の望まれることを発表される。御言葉により、又いろいろな方法で、神は私たちの心に語りかけられる。私たちが自分で思いつくことではなく、すべて神の考えであり、神がイニシャティブをとられ始められることである。
2.私たちがその神の招きに従順にしたがい、信仰の祈りによって応答する。これは一週間とかではなく、何ヶ月も、あるいは何年にも渡ることも多く、私たちは聖霊の励まし、預言の約束の励ましによりそこから逸れないで祈りつづける。
3.神が私たちの祈りに答えてくださり、祈ったことを現実にこの世に現してくださる。これは段階的に起ることもある。
例えば、1.神が「わたしはあなたの街にリバイバルを送る」と言われ、2.人びとがそれを信じ受け取って聖霊の励ましにより熱心に祈り、3.神がその祈りに答えてリバイバルを起こしてくださる、というようにです。
つまり、神がすべてのプロセスを司っておられるのであり、パウロの次の言葉はこのことをよく表しています。
ロマ11:36「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。(From Him, through Him and to Him are all things.) どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
多くの人はリバイバルが起るという確信がないので、あまり祈りません。私は多くの牧師と話す機会がありますが、彼らは「どうしたら信徒たちがもっとリバイバルのために祈るようになるでしょうか。」と訊きます。その問いに対して私は「聖書に書いてある終末のリバイバルについて説教をしてください。」と答えます。聖書にはリバイバルという言葉こそ使われていませんが、終末に主が起こされる聖霊の傾注について多く書かれています。主が来られる前に主がされることを話すのです。人びとがその真理を知る時、祈りへの確信と情熱が彼らの内にわき起こります。確信と情熱が大きければ大きいほど、人びとは主に心から祈り求めるようになるのです。(続く)
10 05月
涙の部屋
ジェニファー・ミラー
ある日私が祈っている時、主が私の霊の目を開いてくださいました。私は自分が天に引き上げられるのを見ました。私の目の前には非常に大きな家が立っていて、中には沢山の部屋があり、それが「天の父の家」であることがすぐ分かりました。御父の愛が私を家の中へと引寄せるのを感じたので、私は全速力で走って行き家の中に入りました。すると主ご自身が一つ一つ沢山の部屋を案内してくださいましたが、どの部屋も深い霊的意味で満ちていました。
主は家中で一番美しい部屋へと私を招き入れてくださいました。そこは「主との親密な交わりの部屋 the Intimacy Room」でした。それはすばらしく美しく豪華な部屋でした。そこに入たとき、私は圧倒的な愛に包まれ、ずっとそこにいたいと思いました。私は他のクリスチャンたちが家の中のいろいろな部屋にいるのを霊で聞くことができました。ある人たちは図書室で勉強をしていました。又ある人たちは霊的ぶどう酒の蔵で酔っていました。「親密の部屋が家中で一番美しいのに、なぜみんなここに来ないのだろうか」と私は少しばかり驚きました。
私はこの部屋の美しさを称賛しつつ眺めていましたが、ベッドの横の床に小さな木の上げ蓋があるのに気付きました。私にはそれは大層奇妙に思えました。というのは上げ蓋は少しも美しくなく、部屋には全くそぐわなかったからです。何故この部屋にあるのですかと主にお訊ねすると、「それはこの家の他の部屋に通じている入口です。」と主は教えてくださいました。私はどうして主はそれをこの部屋の中で最も美しいベッドのすぐ傍に置かれたのかをお尋ねしました。主は「わたしはほとんどの時を下の部屋で過ごすのでここに置いたのです。」と言われました。私は好奇心からそこにはどんな部屋があるのですかと訊ねました。主はそこは「涙を流して泣く部屋 the Weeping Room」だと教えてくださいました。
決して入ってみたいと思うような名前の部屋ではありませんでしたが、私の心は「もしそこで主が最も多くの時を過ごされる場所であるならば、私もそこに行きたい」と叫んでいました。「主と御一緒にそこに行けますか?」とお聞きしました。主は「その部屋に下りて行く人はほとんどありません。それはこの部屋のように豪華ではなく、孤独で、心地よくもないのです。それに部屋の入口のドアはとても小さいので、あなたは身を非常に低くかがめねば入れません。」と言われました。私は「どんな所でもかまいません。私はただ本当に主がおられる所にいたいのです。」と言いました。
それで私たちは小さな上げ蓋を開けてゆっくり暗い階段を下りて行き、とても小さな部屋の前に出ました。その入口のドアはとても小さかったので、私は膝を床につけて入らねばなりませんでした。部屋の中はとても簡素で、小さな木の椅子が一つあるだけでした。一方の壁に小さな窓がついていました。主はその椅子に腰掛けて、顔を窓の方に向けられました。私はこの部屋が涙の部屋と呼ばれる理由をすぐに悟りました。
その窓からは地上が見えて、人びとからの叫び声が一つ残らず聞こえるのです。全世界のすべての不正行為が見えます。すべての飢えた子どもが神に叫ぶ声、強姦されたすべての女たちの声、拒絶されたすべての者のうめき声、すべての祈りと叫びをその場所で同時に聞くことができるのです。主はその椅子に腰掛けて、すべてを見つめ、すべてを聞かれました。
すぐに私はとりなしの思いに圧倒されて泣き始めました。何時間も泣いていました。私は苦しんでいる人たちのために泣きました。しかしそれにも増して、ここで時を過ごされることを選びとっておられる王なるお方の麗しさに打ちのめされました。すべての叫びに心を留められ、憐れみに満ちておられる主、、、。
私はそこに座って主と共に泣いていると、次第に主の御こころをうちに感じ始め、私が持っていた自分本位なすべての願望が消え去って行きました。
主と共にその部屋にいた時、部屋にもう一つ別のドアがあることに私は気付きました。そのドアの向こうには何があるのですかと主に訊ねると、そこには「戦略の部屋 the Strategy Room」があると教えてくださいました。一瞬にして霊のうちに私はその部屋には終末のリバイバルのための神の戦略があることを悟りました。そのドアは閉まっていましたが、そこに知恵と啓示があることが私にはわかりました。
地上に御国を来らすための天の戦略の青写真がその部屋に広げられているのです。それはまるですべての人が捜し求めている秘密の部屋のようでした。皆が天からの戦略を求めています。私はすぐにその部屋の中に入っていいですかと訊ねましたが、主は厳かに、まだ私はそのドアから入ることはできないと言われました。私はもっと涙の部屋で時を過ごさねばならないのだ、と悟りました。神が貧しい人や傷ついた人に対して抱いておられる思いがわかり始め、自分の肉なる性質が取り去られていくならば、私はそのドアを通れるほどに十分小さくなれることを理解しました。
その時、私にすべてが明らかになりました。神の戦略を手に入れるための道はこれしかないのです。神との親密な関係を持ったとき、神は私たちをもっと深いレベルへと招いてくださいます。主は私たちを涙の部屋へと招き、そこで、私たちは主が見るものを見、主が感じられることを感じることを選ぶのです。そして私たちがそこで時を過ごし神の御心を知るときに、私たちの肉なるものはそぎ落とされて、戦略の部屋に入るドアを通れるほどに小さくなれるのです。
私はこの霊的経験を2年前にしたのですが、今神は教会の多くの者たちを親密の部屋から涙の部屋へと移しておられると思います。ですからやがて彼らは戦略の部屋へと導かれるでしょう。実際に、私たちは親密の部屋を去る必要はありません。あなたは親密さの深いレベルを見出すのです。多くの者はすでに涙の部屋へと自分を捧げ、傷ついた者への神の御心を熱心に求めました。彼らは今戦略の部屋へと招かれています。
私は一年ほど前にもう一度霊的経験をしました。大きな声が「時は今だ!」と言うのが聞こえ、私は霊のうちに戦略の部屋のドアが大きく開かれるのを見ました。地球規模の魂の大収穫を解き放ち、勝利する聖徒たちを通して地上に御国を打ち立てるための戦略へと神は今、私たちを招いておられます。私たちが戦略の部屋に入るとき、私たちは涙の部屋で見たり感じたことに心迫られ突き動かされると信じます。
ある人たちが私たちより先にすでに戦略の部屋に入ったことがあることを私は感じます。残念なことに、そのほとんどの人はそれが何のための戦略であったのかを直ぐに忘れてしまい、自分の王国を建てるためにその戦略を用いてしまいました。(ハガイ1:3−7参照)神は今、「自分の王国を建て上げる」という考えを拒絶するクリスチャンの一群を起こしておられます。この一群の者たちの心には、情熱と憐れみという焼き印がくっきりと押されています。彼らこそ神が戦略の部屋へと招いておられる者たちです。(終)
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