14 09月
神の軍隊
リック・ジョイナー
神は戦いの神です。神の称号の一つに「Lord of host 万軍の主」というものがありますが、他のどの称号よりも多く聖書の中で用いられています。
「Lord of host 万軍の主」とは「軍隊の主」ということです。イスラエルがエジプトを出たときは規律のない雑多な集団に過ぎませんでしたが、紅海に来たときには軍隊として行進していました。神が彼らをそのようにされたのです。荒野を進んでいくときもそのようでした。彼らの中には秩序がありシステムがありました。
神の軍隊として私たちが正しく行進することが非常に重要です。それはただ整然とパレードが出来ることではなく、司令官の命令をキチンと聞き、すぐに正しく応答することです。軍隊の中ではどのように言動しなければならないかを知り、規則をしっかりと把握していなければなりません。戦略や戦法を学び、それを実際どのように適応していくかを明確に知る必要があります。どのくらい進軍しているかも把握せねばなりません。また戦いに必要な物資も蓄えねばなりません。もし計画した戦略がうまく行かないならば、戦いの途中で計画を立て直すことも必要です。目的を果たさない戦いをすることは全く無意味です。
軍隊で行われていることで、私たちモーニングスター・ミニストリーが召されている目的に適応できることがあります。軍隊にとって必要不可欠なものは情報収集です。敵の戦略、戦法に関する知識を得る能力です。教会は地上のどの機関やどの軍隊よりも、最も効果的でパワフルな情報収集能力を持たねばなりません。軍隊の失敗成功を決めるのはこの能力に掛かっています。歴史をみれば明らかですが、よい情報を得ることで、多くの不利な状況をもくつがえすことができます。イスラエルは敵の王たちが寝室で話すことを知る預言者を持っていました。王たちは誰がスパイかといぶかりました。彼らが預言者たちに知られないで事をすることはできなかったのです。
私たちは旧約の預言者よりもすぐれた契約の下にいるのですから、更によく出来るはずなのです。第2コリント3章には、私たちにはモーセの栄光よりもさらに優れた栄光があると書かれています。私たちはもっと栄光を見るはずなのです。旧い契約のもとで行われていたものよりもずっとすばらしい預言のミニストリーを私たちは持てるはずなのです。私はそれがまさに起ろうとしていると信じます。私たちにそれが起るのです。
「私はそれほど賢くない」とか、「それほど義しくない」、「神学校に行っていない」というような言い訳をするならば、神は怒られます。モーセが燃える柴で神に召された時も、そのような言い訳をしたのです。神はその時「ああ、お前はとても謙虚でいいね。」と言われましたか?違いますね。出エジプト4:14に、主の怒りがモーセに向かって燃え上がったとあります。どうしてでしょうか。それはモーセはが自分の不十分を神の十分さより上に置いたからです。彼は自分の不十分さは神の十分さよりも、もっとパワフルであると言ったのです。皆さん、神は愚か者を用いられるのではないですか?
その点で私たちはみな資格がありますね。弱い者はどうでしょうか?
新約聖書の中でパウロは私たちの弱さが一番の資格だと言っています。皆さんの中で、旧約の預言者たちよりもすぐれた預言者になる人がいるのです。それが第2コリント3章の教えです。
旧約の預言者たちは、自分が知らずに大きな出来事が起ったときは驚いたほどでした。私たちはスポーツの結果を予め知ってスポーツ欄に一週間前に書けるべきです。(笑)天候についてもそうです。
これからそういう事が起ると思います。勿論、その知識をギャンブルに使わないことをまず学ばねばなりませんが。私たちは過去にゲームの結果を正しく預言したこともありますが、それはほんの小さなことです。これからはもっと重要なことを預言するようになるのです。
私たちは主と同じように必要なことを何でも予見することができるようになります。主はすべてのことを見ることがお出来になります。私たちは主の目、主の耳を持つことができるのです。又、見たもの聞いたものを理解する心を持つことができます。
英国のウィンストン・チャーチル首相のことを話したいと思います。彼は預言的な声でした。彼の預言はまったく驚くべきでした。彼は英国のための預言者であり、その時代のために預言者、地上を城壁の上で見張る者でした。神は旧約の預言者たちを城壁の上の見張り人として立てられました。見張り人は高いところに立ち、人々より先だって敵が押し寄せるのを見つけ人々に警告を発したのです。又、王が来るのも人々より先に見えたのです。「王が来られる!
王が来られる!王を迎える備えをせよ!」と人々に警告したのです。
私たちも礼拝や集会、カンファレンスの中で何が起るかを、予め知ることもあります。チャーチルは全世界のための見張り人でした。彼は20世紀に起ることを非常に正確に預言しました。彼の死後に起ることもです。皆さんの中にも彼のように用いられる事ができる人がいるのです。しかしまず、私たちは自分の家族、自分の会社や職場の人のための見張り人にならねばなりません。多くの人が「私は世界のための預言者となる」と言いますが、その反面自分の住んでいる地域や自分の教会を見張ることを怠っているのです。世界の預言者になるかもしれませんが、今のレベルから一足飛びになるのではありません。今自分が置かれている場所で忠実であることが大切です。
チャーチルは「政治家は次の選挙のことを考えるが、真のリーダーは次の世代のことを考える」と言いました。彼は第一次世界大戦、第二次世界大戦が始まる理由や時を正確に預言しました。彼の言葉は信用されず、人々に憎まれ彼は議会を離れましたが、個人として戦争のために必要な情報を集め、戦略を考えたのです。多くの情報員を雇い、スパイをドイツに送りました。ドイツがどのくらい戦闘機や戦車を持っているか、戦略はなにか、指揮官はどのような者か、すべての情報を得たのです。彼が送ったスパイは007でした。ジェイムス・ボンドはチャーチルがドイツに送り込んだスパイをモデルにしています。彼は英国政府よりも正確な情報を得たのです。時至って英国は彼の力を認識し、必要として、彼をリーダーに選びました。
彼は1920年代に原子爆弾を預言しました。ワイヤレス、テレビ、ロボット、テロ、エレクトリック・グリッドがまだない時にそれを破壊する戦争を予見しました。もしアメリカのエレクトリック・グリッドが破壊されたならば、これは大変な事態になりますが、チャーチルはそれを預言したのです。彼は又メディアの堕落、虚偽の氾濫を預言しました。1922年にイスラム過激派が将来起ることを預言しました。これら彼が見たものはすべて人類を破滅させるものという共通点があります。その意味で彼は「城壁の上の見張り人」の油注ぎを受けていたのです。
第一次世界大戦が終ったとき彼は次にように言っています。「人類はかつてなかったような危険な所に立っている。徳が高まることはなく、知恵のある指導者もなく、人類を破滅させる道具を手に入れてしまった。」
私が海軍にいたときに乗っていた戦艦は航空母艦でしたが、地球上のすべての人類を破滅できるだけの核爆弾が積み込まれていました。海軍が持っていたすべての核爆弾を合わせれば全人類を25回破滅させるに十分でした。アメリカの全戦力ではなく、海軍だけでそうだったのです。そしてソ連も沢山持っていました。それらの核兵器は廃棄処分をしたものもありますが、多くはまだ存在しています。勿論、神は全人類を破滅させることはお許しになりません。しかし、人類は賢くなっていませんし、世界はもっと危険な状態になっています。ですから今、城壁の上の見張り人が絶対に必要です。
チャーチルのように事態を鮮明に把握し、正確な預言、ヴィジョンを持つことが必要です。私は今ここにいる皆さんに中からそのような方が起こされることを信じています。街のため、教会のため、国のための見張り人です。古の預言者のように敵の戦略を知り、彼らを待ち伏せてやっつけるのは愉快だと思いませんか。この教会のための見張り人はいつも敵の策戦を見抜いて教会を守っています。家族を攻撃しようとする敵の戦略を見抜いて、家族を守るのです。
そのためには時間を無駄にしないで、主と深く交わる時を多く持たねばなりません。今は携帯電話を通して私たちの言動はすべて把握されています。コントロールするのが非常に簡単にできる時代になったのです。しかし、私たちには聖霊がおられます。聖霊はすべての敵の策略を無にする力があるのです。私たちはパワフルな神に仕えているのです。確かにエレクトリック・グリッドが破壊されるのは今のアメリカにとって最大の危機ですが、神はそれに対処できる力を与えてくださると信じます。そのためには「みずからへりくだり、悔い改め、祈る」ことが不可欠です。
預言者、見張り人が絶対に必要です。私たちのミニストリーは話をするだけではなく、実際に出来る限り早く預言の教えと訓練をしていきたいと思います。今、まわりの人と共に国のため、州のために祈り、主が何かを示してくださるか聞いてください。見張り人が見つけるのは敵だけではなく、王が来るのも見るのです。悪いことだけではなく、神がどのようにすばらしいムーブをされるのかも聞いてください。神は求めるならばすべての人に与えてくださいます。(終り)
06 09月
主が最も嫌われるのは「生ぬるいクリスチャン」であること
坂 達 也
私は最近、この世の中、それも特にクリスチャン国であるはずのアメリカにおいて、どうして世の中のモラルと、それを律するはずの政治が、ここまで頽廃してしまったのかに大きな疑問を持って参りました。
と言うのは、50年以上アメリカに住んで来た私には、しばらく前迄は全く考えられないような事態に今のアメリカが変わり果てていることがどうしても信じられないのです。それに、これはアメリカだけの話ではありません。世界中でそのモラルの退廃が起こっています。
今のアメリカでは堕胎を公然と許すどころか、最高裁判決で、公に同性結婚の権利を認めるだけでなく、それに反対する行為 ー 同性結婚の司式を拒否する牧師とか、同性婚結婚式に出すお祝いのケーキを作らないお菓子屋さんは罰せられる ー と言うのです。
又、民衆の政治に関する不信感はつのる一方です。最近の世論調査では、アメリカの国会議員と国会政治への信用と人気は、何と20%台に迄落ち込んでいるそうです。それに対照的なのが、共和党大統領に立候補した毒舌家のドナルド・トランプ氏の人気です。他のほとんどの共和党立候補者からどのように批判されようと、又ミディヤからどのように叩かれようと、むしろ叩かれれば叩かれる程、彼の人気は上がる一方です。しかもそのトランプ氏を追い上げているのが、クリスチャンの医師として大変尊敬されてはいますが、政治のプロでは全くないベン・カーソン氏(黒人)です。口だけうまい政治家よりも、世に認められるだけの実績を持つ実業家に政治も任せた方がまだましだと言う世論でしょうか。
そこで私は主に、上記の疑問と共に「どうして主はアメリカがそうなることを許されたのか」を聞いてみました。すると主は、その責任はクリスチャンと教会自体にある、クリスチャンがあまりにも「なまぬるいクリスチャンのままであること」を当然のように許しているからである、とおっしゃいました。しかも主は、それを放置しておられるのではなく、むしろ、とことんクリスチャンがそれに気が付いて一刻も早く目覚めるのを待っておられると言われるのです。(アメリカの政治家にも両党議員にかなりのクリスチャンがいるのですが、その人たちが生ぬるいということにもなります。)
ところで今朝、久し振りにマダム・ガイヨンの本を手に取りました。そして、私の目に飛び込んで来たのは、「モーセと燃える柴の中に立つ主との出会い」に関する彼女のメッセージでした。モーセは柴が燃えているのに「燃え尽きていない」ことに気が付き、いぶかしく思いました。ガイヨン師は「この炎は主の愛そのものです」と言います。
モーセはその時羊飼いとして羊の群れを連れてホレブの山に来ていました。主は羊飼いです。主は羊である私たちを、燃える炎のような熱烈な愛で愛されます。そして、その愛を、「主の羊飼い」でもあるクリスチャンの私たちの中に入れられますが、その激しい愛の炎は決して柴である私たちを焼き尽くさない、神の愛とはそのような愛であると師は説くのです。
主の愛は、私たちがどんなに未熟で、人をさばく行為をし続けたとしても(それは神のさばきを受けるに充分値します)決してその愛を消すことなく、忍耐をもって私たちを愛し続けてくださいます。ですから私たちはクリスチャンでいることが出来ます。これは何とすばらしい主のめぐみでしょうか。
主はモーセをイスラエルの民の羊飼いに任命する前に、モーセの前に現れて、この教訓を先ず示されたのでした。そして主は、いぶかるモーセの質問に答えて「ここ(神の山)に近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言われました。(出エジプト3:5)
ガイヨン師は、「あなたの足のくつ」とは神の愛以外のあなたの持つ人間的愛 affectionのすべてを意味すると言い、神の山を主と共に歩む「主の羊飼い」である私たちは、先ずそれらのすべての人間的愛情という靴を脱ぎ捨て、あなたの内に燃えるものは唯一、見返りを期待しない無私、無条件・無償の「神の愛」だけにならねばならないと言われています。これが真のリーダーになる条件であるのです。
そこで、はたと気が付いたのですが、モーセと燃える柴に関するガイヨン師の説く「熱烈な無償の愛」と「クリスチャンが生ぬるいか、熱いか」とは密接に関係していると言うことでした。今は終末の時代です。そうであれば、主からラオデキヤの教会に宛てたメッセージが、今こそが問われる時代であると信じます。
「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであって欲しい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)
ここでお断りしておきたいことは、クリスチャンがどんなに「宗教的」に熱心になっても、「なまぬるい」ことには全く変わりはないと言うことです。むしろ、クリスチャンが宗教的に熱心であればある程、その人は、宗教的に正しくない相手のあら探しに熱心になりがちです。そこにおいて、私が最初に述べたモーセが見た炎に燃えた柴が、実は燃えていない、そこに真のキリストの愛があると申し上げたことが問われると思うのです。
なぜなら、真にキリストの愛に満たされている人は、無条件で、すなわち相手がどのように悪い場合でも、それを真っ先には問わず、性急に批判せず、さばかずに、やさしく愛し続ける愛に燃えている人であり、そのような人こそ、むしろポジティブで建設的な意見を出して人を引っぱって行く人、そのような人こそ最高に主の愛に似た「激しい愛のパッション」を持つ「熱いクリスチャン」であると思います。
私たちは時に、クリスチャンとして「人がどうあるべきか」を宗教的に知り過ぎているが故に、特に家族とか、教会内での親しい人間関係とかで、「相手を赦せない」「黙っているべきではない、一言言うべきだ」と考え、相手を「さばく」誘惑に負けてしまいます。そうであるなら、その人こそ人間的な「生ぬるいクリスチャン」です。なぜなら、そのようなクリスチャンは未信者のこの世の人々と全くと言ってよい程変わらないからです。そんなクリスチャンに、主は「天の御国を地に建て上げる」仕事が任せられるでしょうか。
この「相手をさばいてしまう」誘惑を押さえるには、先ず主の愛をもっと多くいただいて、その主の溢れる愛で隣人を愛することを実行することです。誘惑に負けて「言いたいこと」をつい口に出すと、自分の柴は燃えないかもしれませんが、相手のクリスチャンの柴に火をつける、つまり相手を「傷つける」結果になりかねません。
私が申し上げるまでもなく、今は何をさておいても、先ず家族が、そして教会員同士が完全に赦し合い、主の愛に満たされて、一致・和解する時ですね。それによって、主の家族である皆が真にひとつ心になり、増々熱心に主だけを見上げ、主に従い、天の御国を、天の人間関係を地にもたらそうではありませんか。今はクリスチャンこそが、国の政治・経済とか社会のすべての面で、主と共に世に打ち勝つ最終的な「勝利者」とならねばならない時です。
これから、いよいよ「火で洗練された金をわたしから買いなさい」(3:8)と言われる時に入ろうとしています。それは燃えるような愛で満ちた熱烈なクリスチャンになることであり、よもや「生ぬるいクリスチャン」にとどまる、あるいはなり下がることだけはないようにしたいと願うものです。(終り)
31 08月
愛の順序(その二)
ベンジャミン・ロビンソン
二番目の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ですが、この順序も私たちはいつも間違えてしまいます。ほとんどの人は「あなたは隣人を愛するように自分自身を愛せよ。」を実行しているのです。
どのように違うのかを考えてみましょう。もし「隣人をあなた自身のように愛する」ならば、あなたは自分が自分をどのように愛しているかを知らねばなりません。そしてあなたは「私の隣人もこのような愛を経験するべきだ。」と考えるのです。そしてあなたは「自分が自分を愛した愛を隣人にも経験して欲しい」という願いの故に、その隣人を愛するのです。即ち、あなたは神からの愛を溢れるほどに受けて、その有り余った余剰の愛を隣人に分け与えたいと願い、それを隣人に降り注ぐのです。隣人から何か見返りを得るためではありません。主から有り余る程いただいた愛を注ぐだけです。
しかしほとんどの人は愛があり余っているからではなく、愛の欠乏から隣人を愛します。あなたは「私は愛が必要だ。あの人の所にいって愛を示そう。そうすれば彼は私を愛してくれるだろう。」と思うのです。「私は妻から愛が欲しい、だから彼女の車を洗おう。」とか、「私は自分の説教がすばらしかったと言って欲しい。だからAさんをランチに誘おう。」という具合にです。これはあなたが「あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛している」証拠なのです。
そして、もしあなたの隣人が、あなたが示した愛に対して望んでいたような反応、対応をしてくれない場合は、腹が立つのです。腹が立つのは、あなたが愛の余剰からではなく、愛の欠乏から愛していた証拠と言えます。私はこの事に関して神から示されました。
私が妻に愛を示す時はいつも、彼女から大きな反応を期待するのです。「ワーッ、すごい!ありがとう!!あなたは最高の夫よ。すばらしいわ!」と言って欲しいのです。でも10回のうち9回は、そうではありません。妻はただ「あ、そう。」と言うだけです。昨日私たちは教会のユースキャンプで山の方に行っていたのですが、彼女の車が汚れていて、ガソリンもなくなっているのに気がつきました。私はわざわざ遠くまでガソリンを入れに行き、水がなかったのでペーパータオルとガラス磨きで、窓だけではなくほこりだらけの車全体を汗だくになってきれいにしました。一時間掛かりましたが、車はピカピカになりました。
私は「自分はなんてすばらしい夫なのだろう。主よ、あなたの愛を妻に示させて下さってありがとうございます、、、」と誇らしく思いました。妻はきっと大喜びをするだろうと確信しました。
キャンプに戻り妻に車を返しました。「何か車が変ったことに気がつかないかい?」と聞くと「ソナタ(車種)のままだけど」というのです。「車をきれいにしたんだけど、、、」と言うと、妻は「あら、そう、ありがとう。ところで娘が泳ぎに行きたいのだけど、連れてってくれる?」とすぐに話を変えてしまいました。
「おや、これは私が期待した反応とは違うぞ、一時間も掛けてきれいにしたのに、、」と私は思いました。私は「主よ、私の心に平安がありません。心がまっすぐではありません。」と主に申し上げました。私が妻のために何かをした時はいつも、「こんなすばらしいことをしたよ!」とラッパを吹きならしたいのです。「お皿を洗ったよ!パッパカ パー」と言う風に。ところが、よくよく考えてみると、妻は私のために毎日数えくれないほどのことをしてくれていますが、ラッパは吹きならしません。どうして私はラッパを吹かねばならないのでしょうか?
そこで私は気がつきました。私は妻を愛しているから愛するのではなく、妻に愛してもらいたいから愛しているのだということに。心に平安がなかったのは、私が愛の余剰からではなく愛の欠乏から行動していたという証拠でした。
「私はあなたからの見返りの愛は必要ではありません。私は神から愛されて愛が溢れ出ているので、その愛を注ぐ対象を求めているのです。」という思いで妻を愛することができたならば、妻がそれに気がつかなくてもいいのです。神が惜しみなく私に与えてくださった愛を与えることが出来ることで私は満ち足りるはずです。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ー 考えてみたら、私は自分の車を少なくとも週に1、2回は洗っています。自分のためにそうする時に、私はラッパを吹きならしません。鏡の前で自分にむかって「あなたはなんてすばらしいんだ!」とは言いません。車をきれいにすることが好きだからするまでのことです。ですから、妻のためにした時にどうしてラッパをふく必要があるのでしょうか?自分を愛するように妻を愛しただけなのですから。
ホセア10:12に「恵みの業をもたらす(義の)種を蒔け(そして主から)愛の実りを刈り入れよ。」(新共同訳、但し、括弧内は訳者が挿入したものーそうすれば説教者が用いた英語訳に近い。英語訳は)「Sow righteousness for yourselves, reap the fruit of unfailing love」です。義(righteousness)とは正しい関係にあることです。義に種を蒔くとは、人間関係に種を蒔くことに他なりません。しかし私たちはその種を刈り取ってしまうのです。あなたは種ではなく収穫を刈り取るべきです。私はKさんに優しい言葉をかけて種を蒔きます。「Kさん、あなたの髪はすてきですね。」と。するとKさんは「ありがとう。あなたの髪もすてきよ。」と言ってくれるかもしれません。私は神から愛を受けて、その愛という種を蒔くのです。そうすることによって私は変らない愛(unfailing love)を神から受けるのです。それは相手の人からではないかもしれません。もしも私があなたに100回良い事をしても、あなたは何も私にお返しはしないかもしれませんが、神は必ず変らない愛を与えてくださいます。すなわち、相手(あなた)が愛を私に返さないからと言って、私はあなたに腹を立てる必要はないのです。もし腹を立てるならば、それは私が神への信仰を失ったからです。ヨセフの人生を見てください。彼は様々な困難な目に会ってもその困難をもたらした相手に腹を立てずに神を信じ続けました。牢獄の中でも信仰を保ち、正しい態度で人に接しました。彼はすべての人に義の種を蒔いたにもかかわらず裏切られました。しかし彼は態度を変えなかったのです。彼には神から受けた愛の余剰があったのです。もし今あなたが困難にあっているならば、今できることは義の種を蒔くことです。
妻の父親は、彼女が11歳のときに家族を捨てて出て行きました。妻が26歳の時、神が妻に父親を捜しなさいと言われました。彼女は「主よ、それは反対ではありませんか。父が私を捨てたのです。彼が私を捜しにくるべきです。」と言いました。しかし主は「違います。あなたはイエスの歩んだ道を歩むのです。イエスがあなたに罪を犯したのではなく、あなたがイエスに罪を犯しましたが、イエスはあなたを捜しに来てくださったでしょう。さあ、あなたのお父さんを捜し出し、和解をしなさい。」と言われました。あなたがある人間関係で痛みを持ったならば、癒しもまたその人間関係の修復から来るのです。
つながる愛
ですから4つのことはすべてつながっています。あなたはまず神から愛を受けます。そしてその愛で神を心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛すことができます。あなたは神が与えてくださる愛で自分を愛することを学び、その愛の余剰で(神はいつも有り余る愛を私たちに下さいます)自分を愛するように隣人を愛することができるのです。これが順序です。
よく聞いてください。あなたが神から与えられた有り余る愛の余剰で隣人を愛する時、その人は神の愛を生まれて初めて受けたのかもしれません。そしてその人は神を愛することを学び、自分を愛することを学び、神から受けた余剰の愛で次に他の人を愛することが出来るのです。
神からの愛を受けるというと、私たちは祈りの部屋に入ってワーシップ・ミュージックを流し、「ああ、主よ、私は今あなたの愛を受けるためにここにおります。」と言うことだと考えてしまいます。しかし、神の愛を経験する最高の方法は、人々の中に入り、自分をオープンにして人々があなたを愛することを許すことです。
祈り ー「主よ、今あなたの愛を私たちに顕してください。すべての壁を打ち砕だいて、人々と交わることができますように。ある者は主が自分に失望しておられると信じ込んでいます。自分は主にとって十分な人間ではないと信じ込んでいます。ある人たちはまだ園の茂みに隠れています。あなたが来られる足音を聞いて隠れるのです。そしてあなたの愛を感じないと言って泣き出します。
主よ、今日私たちが隠れていた所から出て行けるようにして下さいと祈ります。自分が痛みの中にある時も、人々の中に入ることができますように。癒しは一人になった時に起るのではなく、人々との交わりの中で起ることを教えて下さい。あなたの愛を反射するものとして下さい。今まで無私の愛で愛することが少なかったことを告白致します。多くの場合私は自己中心でありました。しかし、主よ、今私は兄弟姉妹の前で決意します。私はあなたが私を愛して下さったような無私の愛で人々を愛すために、あなたの愛を受け取り、あなたに拠り頼みます。見返りを求めないで与えることを、惜しみなく受けたように惜しみなく与えるように。私たちは教会として、この心を受け取ります。傷つくことを恐れないでお互いに心を開き、まことのぶどうの木につながって、あなたが計画されたような教会となりますように。あなたの祝福がすべての人にありますように。主の御名によって祈ります。アーメン」(終り)
24 08月
愛の順序(その一)
ベンジャミン・ロビンソン
すべての真理が正しく用いられるためには順序が大切です。真理が正しい順序でなければ、それは偽り、惑わしと同じになります。私たちが経験する人生上の多くの問題は、私たちが真理を持たないからではなく、真理が正しい順序で行われないからです。「これを解決するのはものすごく大変だ」と思う問題でも、実はほんの少し真理の順序を変えるだけで解決することが多いのです。
今日は愛の順序について話したいと思います。
マタイ22:36−40 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、これと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
この二つの戒めは、それぞれに順序が正しくなければならないのです。もし順序を間違えるならば、あなたはこの命令を守ることができません。
それでは、まず第一の戒めから見てみましょう。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。これは本当に大変難しい命令です。皆さんはこれを実行しようと思ったことがありますか。「私は自分の心に神を愛せよと命じよう、自分の思いに命じよう、自分の知力に命じよう。」とがんばったとしても、フラストレイトするだけです。これは私たちには不可能な命令だからです。この命令を行うためには私たちが知らねばならないことがあります。
第一ヨハネ4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
第一ヨハネ4:19「私たちは(神を)愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
ここに書かれているのは、第一に神が私たちを愛され、次に私たちが神を愛するという順序です。イエスは「神を愛せよ。」と言われましたが、その意味は「まず神の愛を受け取りなさい。そしてその応答として神を愛しなさい。」ということです。
多くのクリスチャンは、神は「神の御国」という会社の社長で、自分はそこに雇われている社員だ、と考えています。神は御国のために働く適当な人材を求めておられ、私たちは自分がするべき仕事を与えられて果たすというのです。もしよい仕事をしなければ、神はあなたを必要としないというわけ(メンタリテイー)です。私が育った教会はそのように教えていました。
しかし、神は社長ではなく父です。もし神が父であるならば、あなたは自分が子として創られた本当の目的を知るべきです。地上の両親が子どもを持つ理由はなんでしょうか。家事を手伝ってもらいたいとか、庭仕事をしてほしいから、という理由ではないですね。また老後の面倒を見てほしいからというのでもないでしょう。
私たち夫婦は子どもが欲しいと8年間祈りました。二人が持っている愛を注ぐ対象が欲しかったのです。8年の間には多くの失望と痛み、悲しみを経験しました。8年目の終り頃には私の心の痛みは非常に深く耐えられないほどになりました。ある時、ある教会の集会に招かれたとき、神が会衆の前で妻に油を塗り、「あなたは子を妊ります。」と預言して、彼女が子が宿す準備をしなさいと言われました。私はそのようにし、会衆に「私の妻が妊ることはあなた方も実を結ぶというしるしとなります。」と宣言しました。
それからしばらく経った2008年11月4日のことでしたが、私は子が与えられないことの痛みで耐えられないほどでした。朝の祈り会で、私は神に「子を与えていただかないでは、私はもう一日も生きていけません。」と申し上げました。神は「どうして泣いているのですか。わたしの愛は10人の息子にまさるものではないですか?」と言われました。それを聞いて私は泣き崩れて「もう子どもが与えられなくてもかまいません。私にはあなたの愛があるからです。」と言い、本当にすべてを神に委ね解放され、喜びで満たされました。
その日のお昼ころに、妻から電話があり、ひどく気分が悪いから帰ってきてほしい、そして途中で妊娠テストキットを買ってきてくれ、と言われました。お分かりでしょうが、私たちは妊娠テストキットは8年間に数えきれないくらい使用したのです。でもいつもネガティブ、妊娠していない、という結果が出ていました。でも今回は「妊娠している」という紫のプラスのサインがでたのです!
本当に夢のようでした。その日の朝私が泣いたときに主は「あなたの妻はもう妊娠しているから元気を出しなさい!」とは言われなかったのは、興味がありますね。主は私から取り上げられた日に、与えられたのです。神は取り上げられる神ではなく、与えられる神なのです。
その次の日、私は中国に行きました。3つの州の地下教会で話をするためです。ビルの地下での集会でしたが、とてもすばらしい経験でした。集会の途中で妻からメッセージがあり、出血があり医者から流産をしたと言われたという文面でした。私は本当に打ちのめされました。主に「どうしたらいいでしょうか?」と聞くと、主は「あなたの妻は流産したのではありません。家に帰って彼女のお腹に手をあてて、あなたの子にむかっていのちを語りなさい。」と言われました。帰った時私はそのようにしました。神の御霊が彼女の中にくるのを感じました。
翌日流産をしたと言った産婦人科の医者のところに行き、超音波で見ると、8週間目の心臓が動いている赤ちゃんの姿が見えたのです。その心臓を見た瞬間、私の中にある愛は「愛する対象」を持ったのです。私と妻の中に有り余っていた愛は、その対象物を与えられたのです。そこに写っていた小さな赤ちゃんは、まだ何もしていませんでした。私たちのために一日たりとも何かをしてくれたわけではありません。スクリーンの中のほんの小さな光に過ぎませんでしたが、私たちにとって、それで十分だったのです。私たちは愛する対象を持ち、娘はその時にすでに愛される対象という目的を果たし始めたのです。彼女が愛とは何かを知る以前です。
生まれてから、娘は昼も夜もよく泣きました。私たちは娘をいつも抱いて過ごしました。背中をさするよりもぽんぽんと叩くのが娘は好きでした。私は何時間も娘を抱いてその背中を優しく叩いていました。忘れもしません、彼女が一歳になったころ娘が私の背中をぽんぽんと叩き始めたのです。彼女は自分に知っている方法で私を愛してくれたのでした。私が頼んだわけではありません。
娘がニ歳になったとき、今度は背中を撫でられるのが好きになりましたので、私はいつも撫でてあげました。三歳になったころ、私が彼女を寝かせるために彼女と一緒にベッドに横になったのですが、私が先に寝てしまいました。気がつくと娘が小さな手で私の背中を撫でてくれていました。15分くらいもずっとです。彼女は自分が受けた溢れる愛を流し出したくて、自分が知っている方法で私を愛してくれたのです。それは彼女に喜びを与えました。
イエスが「あなたの心と思いと知力を尽くして神を愛しなさい」と言われたとき、あなたがまず、神の愛を受け取ることを前提とされたのです。もしその順序を間違えるならば、「私は十分に神を愛していない、神への愛を私は持っていない、感じない」という自責の念にかられます。あなたはまず、神の愛を受ける対象として自分を捧げねばなりません。そうすればその愛を反射して神にお返しすることができます。もし神をもっと愛したいならば、神があなたをもっと愛することを許さねばなりません。神の愛を受けるのを妨げているものがあなたの心の中にないかを調べてください。神の愛があなたに的中するようにしてください。
もしあなたが私を傷つけたいならば、簡単です。私は悪口を言われても平気です。身体を傷つけたいなら、気をつけてください。私の身体は大きいですよ。しかしもし、あなたが私の娘のところに言って「あなたのお父さんはあなたをもう愛していないよ。」と信じさせるならば、それが一番私を悲しませ傷つけるのです。「あなたのお父さんは、『あなたはいい子ではないし、私がして欲しいことをしなかった。どこかに行って私を喜ばせる方法を考えついたらまた来てもいい。』と言っていたよ。お父さんが来たら逃げてどこかに隠れるようにした方がいいよ。」とあなたが娘に言うとすれば、私は本当に傷つくでしょう。
娘は私の神経をいらだたせることがよくあります。これからも沢山の間違いを犯すことも知っています。しかし私たちは娘を愛することを止めることは決してありません。それと同じように、神が私たちに求めるのは完璧さではなく、私たちの心の態度です。神は私たちの目を見て、私たちがすべてのことを神への愛からしたことを見てくださるのです。私たちが神からの愛を一杯に受けて、その愛で神を愛することを喜んでくださるのです。ですから私も間違いを犯すことを恐れません。神は私が神を心から愛していることを知っておられるからです。
このように愛の順序が大切なのです。神はあなたを愛しておられます。そして神から愛されているあなたは、神を愛することが出来るのです。(続く)
17 08月
悔いた心と神が求める聖さ
フランシス・フランジペイン
今、多くの人がアメリカのために祈るようにと人々に呼びかけています。私はそれに加えて、悔い改めへの呼びかけをしたいと思います。実際に第2歴代誌7:14を見ると、そこには祈りだけではなく、へりくだり完全に悪から離れよとの招きがあります。私たちは悔いてへりくだった霊をもって神のみ顔を求めるべきです。
私たちのうちには生ぬるい妥協があまりにも多くあります。真に砕かれるためのブレークスルーが必要です。神が動かれる時が来ようとしています。しかし神がどれほど大きく、またどれほど深く働いてくださるかは、私たちがどれ程深く悔い改めているかによって決まるのです。
私たちが単に「罪を犯して悪かったです、ごめんなさい。」と言うだけで済ましてしまわないようにと、私はこれを書いています。私たちの人生に義の実がフルに実るまで、神のもとに何度でも悔い改める謙虚さへと、神は私たちを導きたいのです。
聖書にイエスがミニストリーを始められる前に「神から遣わされたヨハネという人が現れた。(ヨハネ1:6)」と書かれています。バプテスマのヨハネは神が遣わしたのです。ヨハネの悔い改めのバプテスマは、旧約をしめくくる最後の出来事ではなく、新しい契約の最初の出来事、開墾の鍬入れでした。ヨハネはイエスのミニストリーの先ぶれとして神から遣わされたのです。彼のユニークな役目は、イスラエルを悔い改めにしっかりと浸すことでした(使徒19:4)。彼はキリストに先立って行くようにと任命されたのです。彼の任務は「主の道を整え、用意すること」(マルコ1:1、2)でした。
クリスチャンは誰でも、生けるキリストが救い主であると示される前に多かれ少なかれ必ず悔い改めに導かれます。「整え、用意する」のが悔い改めの目的です。私たちはこれをよく理解する必要があります。即ち、ヨハネの悔い改めは、人々を悔いて悲しませるだけではなく、人を整えキリストを受け入れる用意をさせたのです。真の悔い改めとは、心の地面を掘り起こすことです。悔い改めは、神からの指示を受け取るために、又義の新しい苗を植えるために心という土を整えることであり、霊的成長を促す多くの事柄の中で最も重要で不可欠なものです。「心の思いや考え方を変えること(即ちそれが悔い改めの意味ですが)」は実際のところ時間がかかりますし、ほとんどの場合、あきらめないで忍耐を持って続けなければ出来ません。バプテスマのヨハネがユダヤ人に対して言ったことは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)でした。
悔い改めはその実が結ばれるまでは完了しないことを、はっきりと認識せねばなりません。
ヨハネは「低くされたことを喜べるまで、高慢を退けることを止めてはいけません。愛することがあなたにとって自然になるまで、自己中心を悔い改め続けなさい。あなたが100%聖くなるまで不純さを悲しみ続けなさい。」と言っているのです。ヨハネは、悔い改めの実が現れるまで悔い改め続けることを人々に要求したのです。もしあなたが聖くなりたいならば、聖くなるまであなたは悔い改め続けるのです。
使徒ヨハネは「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)と言っています。どうかあなたの罪から隠れないで、告白してください。神の恵みと御子イエスの十字架の御業は、どのような罪であっても、すべての罪を覆い赦すのに十分です。しかし、私たちは赦しを乞わねばならないのです。へりくだり、心から何度でも神に服さねばなりません。自分の罪を正直に告白してください。神はあなたをその罪からきよめてくださいます。
悔い改めを執拗にし続けてください。
神の憐れみは尽きないことを決して疑わないでください。あなたに罪を犯した人を赦すようにと神が命じられるならば(マタイ18:21−22)、それと同じ要求を神がご自身にされないことなどありません。あなたがもし一日に490回罪を犯すならば、そのつど、神に赦しを乞い願ってください。神はその罪をすべて赦し、またその罪の影響からあなたをきよめてくださいます。
私の人生の一時期、私は繰り返し何度も同じ問題につまづきました。深い悲しみと疑念をもって私は「主よ!あなたはいつまで私にがまんしてくださるのでしょうか?」と主に叫びました。一瞬の恵みと真理のひらめきのうちに、主は「わたしがあなたを完全にするときまでです。」と答えてくださいました。
聖書は「訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(箴言6:23)と言っています。これは正されることを否むのでなければ決して嫌なことではありません。叱責される道はいのちの道なのです!
イエスは「わたしは、愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示3:19)と言われました。私たちに悔い改めを説くのは、神の怒りではなく神の慈しみなのです。私たちは「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださること」(ピリピ1:6)を約束されているのです。私たちが主の似姿になることを望み続ける限り、主の叱責こそが主の臨在への扉になるのです。
しかしながら、もしあなたが悔い改めという言葉に怯むならば、それはあなたが変わりたくないからであり、あなたにはこのメッセージが必要です。「悔い改め」が荒布や涙の陰鬱なイメージを与えるものでなくなり、「矯正」が神の恵みへの喜びと賛美を喚起させるものとなったとき、あなたの霊は真に純粋になったと分かるのです。その時あなたは神が「聖いと呼ばれる道」を歩いているのです。(終り)
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