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Walk With God Ministries

22 05月

祈りの言葉を発達させる  ジャレッド・ラスキー          2017年5月22日


祈りの言葉を発達させる

 

ジャレッド・ラスキー(デスティニー・オープン・チャーチ)

 

 

異言で祈ることは、すばらしく尊い賜物ですが、多くの教会はそれについてあまり触れず、ただ執り成しの祈り会やカンセリングの時にだけ用いているようです。異言は今日にいたるまで聖書的な真理であり、最初ペンテコステの日に(使徒行伝2章)公に表されたにもかかわらず、教会のリーダーの中にはそれを隠して言わない人たちもいます。

 

第一コリント13章は「愛の章」として有名であり、結婚式で最もよく読まれます。それは確かに麗しい箇所ですが、その内容は結婚ではなくて聖霊の賜物に関することです。13章は12章と14章の間に挟まれていますが、その2つの章は神のすばらしい賜物の正しい用い方について書かれています。

そして13章は、御霊の賜物を用いるときの私たちの態度と動機について書かれています。

8−10節「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならすたれます。異言ならやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」

この箇所から御霊の賜物は一世紀だけのものであり、「今はすたれた」という人達がいます。しかし御霊の賜物は「完全なものが現れる時にすたれる」と書かれているのです。

「完全なもの」とは聖書が完全になった時のことだと議論する人もいるでしょう。しかし、「完全なもの」とはキリストご自身を指すと考える方が自然でしょう。なぜならば12節に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」とありますから、御霊の賜物はイエスの再臨の時に初めてすたれるのです。

この解釈には無理があるという人たちもいるかもしれませんが、もし第一コリント全体の内容を見るならば、それは1章7−8節のパウロの言葉にも表されています。

「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」

「主イエス・キリストの日」とは、主が教会にかえって来られる時のことをさしています。

 

異言は他の賜物と同じようにすばらしい霊的賜物であり、イエスからそれを受けた後、それを訓練し発達させていくのです。(マタイ3:11,ルカ3:16,使徒行伝1:8)使徒パウロは私たちが見習うべき偉大なお手本です。彼は異言は、一度だけとか、時々話すとかではなくライフスタイルであると言っています。第一コリント14:18で彼は「私は、あなたがたのだれよりも多く異言を話すことを神に感謝していますが、」と言っています。これは私たちの生活や教会においても同じであるべきです。ただ夏のキャンプの経験や、年に一度の教会の特別礼拝だけではなく、私たちの毎日の生活の中に適応されるべきものです。

 

聖霊のバプテスマを受けてから数週間後に私のところに相談に来る人が時々います。彼らは聖霊に初めて満たされ異言を受けたけれど、ほんの数言を繰り返すだけなのでがっかりしているのです。私は彼らが正しい道を歩んでいるのであり、続けて異言で話し続けるならば、数行が多くのことばに発達して増えていくと話してあげます。

 

私たちは子どもの時、新しい言葉を何度も繰り返すことによって憶え発達させ、単語や表現の数を増やしていきます。そのように私たちが祈るときに聖霊が与えてくださる異言の言葉や表現を繰り返すときに、私たちの異言は成長し発達していくのです。車を運転している時も、道を歩いている時も、部屋で祈っている時も、私たちは異言で祈ることができるすべての機会を用いて、このすばらしい賜物を用いて神を礼拝するべきなのです。

人や御使いの異言で祈ることは時間をかけて発達させていくものです。またパウロは異言での祈りは自分の徳を高めると言っています。(第一コリント14:4)私たちは異言によって祈り、主を礼拝し、自分を建て上げることを大いに喜ぶべきです。それは神と超自然的な方法で個人的に繋がることなのです。

 

私たちはまた、一人で神と交わるときに異言で歌うと良いのです。第一コリント14:15に「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」とあります。異言で祈り賛美することは霊の言葉を発達させ、異言を解き明かすことを学ぶための鍵です。私たちは家で一人で神と過ごすときに、異言で祈ったり賛美することができます。

そして神に自分が異言で祈ったり歌ったりしたことの解き明かしをくださいと願うことができます。神のすばらしい御霊が私たちに解き明かしをくださる時、それを書き留めて、主と自分との間の特別な賛美として用いることができます。

 

あなたの霊の言葉が神の御霊において新しい高みにまで上り、あなたが神への愛において成長し発達し続けますようにお祈りいたします。(終り)

 

 

Jared Laskey ( firebornministries.org.)


22 05月

異言の賜物のすばらしさ      ビル・ハモン           2017年5月22日


世界中で6億以上の人が異言という聖霊の賜物を受け取っているにもかかわらず、そのほとんどがこの尊い賜物を十分には活用していないことをご存知でしょうか? それはまるで1億円もらったのにほんのちょっとしか使わないようなものです。 霊の言葉は、私たちの霊的生活や、聖霊のすべての徳や現れへの扉を開く重要な鍵です。私たちが毎日30分を聖霊に捧げて霊の言葉で祈るならば、世界を変え始めることができるのです!世界中の教会にものすごい力が解き放たれ、イエスが王である証しとして、すべての国々で神の御国が目に見える形で現れてくることでしょう。 まず、聖霊のバプテスマ、或いは聖霊の賜物とは何でしょうか? すべてイエスを信じる者が水のバプテスマを受けるのと同じように、聖霊のバプテスマもすべての信者のためのものです。ボーンアゲインした信者の霊に、学んだこともなく、理解もできない言葉で祈る力を神が与えてくださるのを経験することです。 私たちの霊の言葉は聖霊によって動かされ、覆われ、導かれますが、実際に祈るのは私たちの霊です。霊の言葉の賜物は、神と直接霊から霊へと話すことを可能にします。信者は神の御座に直結している個人的な電話線を持ち、それはサタンや他の人間には理解できず妨げることもできないものなのです。 それはクリスチャンが受けることのできる最高のギフトです。なぜならば、それは他のすべての賜物や神の恵みをもたらし、機能させるものだからです。異言で話すべき理由は非常に沢山ありますが、最大の理由は、私たちがこの最も価値ある賜物を使うために、イエスが最大の代価を払ってくださったことです。 私の研究と人生上の経験から、クリスチャンが毎日異言で祈るべき理由が少なくとも70あります。そのうち幾つかをお話したいと思います。 1.聖霊は私たちが神の御こころに沿って祈るように私たちの異言を導いてくれます。私たちが100%神の御こころを祈っていると確信できるのは、多分霊の言葉で祈るときだけでしょう。神は御こころと一致した祈りにいつも答えてくださるのです。 2.霊の言葉は私たちの超自然的創造力を活性化し、天の情熱で燃やしてくれます。そして知恵、力、啓示、超自然的なミニストリーという神の倉の戸を開きます。 3.異言で話すことは、心臓が身体にするのと同じことを私たちの霊にしてくれます。心臓は鼓動によって血液を身体全体に送っていのちと健康を与えますが、それと同じように、異言で祈ることは、神の臨在を私たちの存在のすべての細胞に持ち運びます。 4.異言で話すことは、私たちの思いの中に啓示の光のスイッチを入れ、神の御声を聞きイエスのなさりたいことを見ることができるようにしてくれます。私たちは啓示を受け神への信仰を増し、聖霊の力を内に増し加えて、神の奇蹟の力が現れるのを見始めるのです。 5.サンディー・カタラノさんは私たちの教会の長老です。彼女はある時英語で祈っていましたが途中から異言に切り替えました。すると突然、彼女が祈るつもりであった人々や物事が頭の中に映画のコマ送りより速くひらめき始めました。彼女は「主よ、速すぎて一つひとつのことをちゃんと祈るひまがありません。」と言いました。すると神が「あなたが普通の思いと言葉で祈るならば、それは音のスピードで行われます。しかし神が与えた霊の言葉を用いるならば、あなたは光のスピードで祈ることができるのです。」と語られました。 6.御霊の9つの実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)はすべて、霊の言葉で話すときに活性化され増し加わります。愛に成長したいならば、もっと異言で祈る時間を増やしてください。 7.異言で神を賛美しワーシップすると、私たちの内に神の臨在が満ちます。異言で祈ると神の平安があなたの魂に溢れるのを感じるでしょう。 8.霊の言葉で話す一番の目的は自分の徳を養うためですが、他の「御霊の賜物」は人々の必要を満たすために私たちに与えられるものです。御霊の賜物には9つあります。即ち、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒しの賜物、奇蹟、預言、霊の見分け、様々な異言、そして異言の解き明かしです。これらの賜物は私たちの神と救い主イエスが今日この世に生きておられ働いておられることを現すものです。霊の言葉で祈ることは御霊の他の賜物を活性化し、神の力の現れを信じるために必要な信仰を生み出すものです。 9.異言で祈ることは勝利を得るための鍵です。異言で祈れば祈るほど、自分の霊を信仰と力を充満させることができ、あなたを勝利へと導きます。 10.聖霊に満たされ救われた霊は、私たちの中の発電所のようであり、すべてのイエスの賜物、恵み、力、徳が私たちの内に、そして私たちを通して生み出されていくのです。異言で祈れば祈るほどもっと力が生み出されていきます。 11.霊の言葉で祈るならば、私たちの願い、嘆願、崇拝、心の望みが神のハード・ドライブに書き込まれて保存されると思います。また異言の祈りは救い主の思いから奥義をダウンロード(落とす)し、私たちの霊のハード・ドライブに伝えるのです。異言の祈りは、私たちが弱っているときに力を与えてくれ、悲しいときには慰めてくれ、神の御こころに沿ってとりなしてくれる、いつでも頼ることができる忠実な友です。どのように祈ればよいか分からないとき、霊の言葉に委ねるならば、その祈りは知恵と神の力と共に問題の核心に直接届き、必要を満たしてくれるのです。 30分の異言の祈りはどういう効果があるのでしょうか?ある聖霊を受けた精神科医は、患者が30日間、毎日30分異言で祈るならば、もう彼のところに来る必要はなくなると言っています。どうしてでしょうか? それは霊の言葉は人の意識下から祈るからです。聖霊が潜在意識の隠れた部分に神の光を当て、霊の言葉がそれを根から掘り起こし魂から洗い流してくれるのです。異言の祈りは私たちの身体の免疫も強くすることが発見されています! 「聖霊のバプテスマ」はどのようにして受ければよいのでしょうか? それはあなたが永遠の命の賜物を受けたときと同じです。まず第一に、この賜物があなたのためのものであるという知恵と啓示を受けねばなりません。次に、主が下さるのはあなたが願ったものであるという確信を持ってください。三番目は、それを信仰によって受け取らねばなりません。聖霊の賜物をくださいと願ったならば、信仰を用いて違う言葉で話し始めるのです。 霊の言葉を用いて、すべての神の目的を達成し、神のすべての祝福を受け取り力を得て、神の力と救い主イエスが主であることを現すことが出来るとは、何とすごい特権であり責任であることでしょうか。(終り)
16 05月

イエスの癒しの鍵     ビル・ジョンソン            2017年5月16日


イエスの癒しの鍵

 

ビル・ジョンソン

 

 

 神の声を聞くことを学び、聞いた通りに従うことは、喜びでありわくわくすることですが、そのためにはいつも緊張している必要があると言わねばなりません。ある時私がテネシー州ナッシュビルの郊外にあるグレイスセンタ−というすばらしい教会にいたときのことですが、一人の女性が祈ってほしいと言ってきました。彼女は全身のリューマチ性関節炎で苦しんでいました。そこで私は早速彼女のために祈ろうとすると、「祈るべきではない」という思いが私の心にきたのです。何かが常とは違っていました。イエスが彼女を癒すご計画だということはわかりましたが、もし私が祈ったり手を置いたりするならば、神の働きを邪魔するような気がしたのです。イエスがスロ・フェニキヤの女に「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました(マルコ7:29)」と言われたように「癒しの宣言」をすることさえも、神は私に許可されていないことがわかりました。

この時の女性の癒しの経験は私にとって「聖霊道場」となりました。彼女が周りに気が散らないように、目を閉じるようにと私はお願いしました。彼女はその通りにしました。すると私の首の後ろに、かすかではありましたがはっきりと熱を感じたのです。熱い油がゆっくり流れていく感覚があったので、彼女に「油注ぎがあなたの首の後ろを流れて行きます。」と告げました。彼女はそれを感じたと答えました。私は油の流れが首の付け根に達するのを感じたので、彼女に「首は癒されたはずです。」と告げました。彼女が首をいろいろ動かしてみたところ、以前感じていた痛みはなく、癒されていることが分かりました。

 

その瞬間、神が何をしておられるのかを私は悟りました。私はスポーツの実況放送のように、起こっていることをただそのまま伝えるアナウンサーの役をしていたのでした。神は私の身体に感覚を与えることによって、彼女の身体に起こっている癒しを描写する役目を私にくださったのです。神は、癒しが私の祈り、宣言、按手などによって私を通して流れ出るのではなく、ご自分で直接に彼女を癒したかったのです。癒すのは常に神であると理解するのは私たちにとって非常に大切です。

熱いオイルは下に流れ続け、彼女の足の指のつま先まで癒しが達し、身体全体が完全に癒されたことを私たちは感謝しました。この癒しは誰ひとり彼女のために祈ることなしに起りました。「知識の言葉」を与えられて神がその時に癒される病気を人々に知らせたり、又奇蹟が起こるように誰かに手をおいて祈ったりして神に用いられることは大変うれしいことです。しかし私が一番好むのは、私自身は何もしないで、ただ神がされることを見て喜ぶことです。

 

多くのことは、既に私たちの握中にあるのです。それにもかかわらず私たちは、既に神からいただいているものを祈り、それを実現させようと自分で努力する傾向があります。そして多くの場合、神が既に決めておられるにもかかわらず、それを「してください」と頼むのです。それは、ランディー・クラーク師が言うように「神に癒しを乞い願うことは、あたかも神よりもあなたの方がもっと憐れみ深いとでも思うことと同じ」なのです。神は人々を癒すと既に決めておられ、その方法を神は、イエスの打ち傷によって行うと明らかに示されているにもかかわらずです。

 

御父に導いていただく

 

イエスは御父がされることだけをされ、御父が言われることだけを言われました。(ヨハネ15:17−18、8:26参照)これは非常に高い水準の生き方を示していると言えます。

イエスは永遠に神であられますが、神としての力、特権を捨てて人となられました。(ピリピ2:7参照)主がすべての奇蹟を、神としてではなく、人としてされたことを知るのは大きなキイポイントです。

 

もしイエスが奇蹟を「神として」したのであったとしても、それはすばらしいことでしょう。しかし、主は奇蹟を「神に委ねきった人」としてされたのであり、それを思う時に私は自分の生き方に満足はできません。それは「主が与えてくださったお手本に見習いたい」と強く願うからです。イエスだけが私たちが見倣うべきお手本です。

聖書に記録されているイエスの奇蹟で、同じように起こったものは一つもありません。ともすれば私たちは型や法則にはまってしまう傾向にあり、それはそれなりによい点もありますが、私たちが御父のしておられることに実際に繋がるための障害となっているのではないかと思うのです。癒しが神の御こころであるのは最早間違いのないことですので、残るのは神が「どのように癒されるのか?」という問題だけです。

 

この問題の核心は、「神の声を聞く耳を養うこと」のように思われます。というのは、信仰は「(今)聞くことhearing」によって始まるのであって、「(今までに)聞いたこと having heard」によるのではないからです。(ローマ10:17参照)信仰は神との現在形の関係を示唆しています。私たちが人生やミニストリーに対して幼子のようであり続けないならば、「すでに知っていること」が「今知らねばならないこと」から私たちを遠ざける危険性があるのです。

例えば、イエスの奇蹟の鍵は、男の目に泥を塗るとか、シロアムの池で洗えと言ったこと自体ではありません。(ヨハネ9:6−7)鍵は御父の声を聞き、それに従ったことであり、それによってこれらの行為が力あるものとなったのです。ルカ4:4にあるように、私たちは神の口から出る一つひとつの言葉によって生きるのです。

打ち破りのために御父がイエスにどのように指示されたのかを見ることができます。口のきけない人の舌につばきをつけたことであれ、百人隊長に「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われたことであれ、イエスは御父の指示に従って行動されました。(マルコ7:33、マタイ8:13参照)

 

それでは、イエスの着物のふさに触った女の場合はどうでしょうか?

或いはイエスが「異邦人の時はまだ来ていない」と告げたにもかかわらず、娘の癒しを願い続けたスロ・フェニキヤの女はどうでしょうか?(マタイ9:21、マルコ7:24−30参照)どちらの場合も御父はイエスに指示を与えませんでした。しかし信仰という御父の賜物がこの二人の中で働いているのをイエスははっきり認め、彼女たちが求め続けていた打ち破りを主はもたらしたのです。

 

神の御こころが常に直接的に知らされるとは限らないことを示すこの二つの例は、私を大いに助け励します。時に私たちは、聖霊の働きかけに対する人の反応から、神がしておられることを悟らねばなりません。神の御こころは、それを知りたいと願う人には必ず分かるようにされることによって、しるし、不思議、奇蹟を起こすことが「ノーマルなクリスチャン生活」の重要な一部となるためです。

 

イエスは弟子たちに、ご自分と同じように業をする力と権威を与えられました。

ルカ9:1−2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」

「力と権威」は、私たちの人生とミニストリーに天からの影響を与えるものです。実に両者はどのような状況の中でも私たちが更に効果的に働くための「両刃の剣」です。神の力によってミニストリーすることを、私はサーファーが波を捉えるのに喩えてみたいと思います。私たちはまずミニストリーでの自分の位置を定めます。そして神がしておられること見つけると、その波を捉えるためにその方向に死にものぐるいで水をかいて進みます。そのような機会を捉えるのはすばらしい特権です。実際、神の力が大きく顕われたとき、その波に乗るのを学ぶことこそが、私の辿った人生の旅路でした。

 

ある日曜日の夜、イエスの癒しの臨在が会堂に入ってくるのを感じた時のことを私は憶えています。私はすぐにメッセージを止めて、自分が感じたことを会衆に告げ、イエスが入って来られた会堂の後方を指差しました。

私がその言葉を発したとき、一人の男性の前立腺がんが瞬時に癒されました。誰も彼のために祈ったのではありません。彼の痛みが直ちに去ったのです。その週のうちに彼の医者が癒しを立証しました。胸に腫瘍のある女性も癒されました。癒しの臨在によって他の多くの人が影響を受けたのです。(ルカ5:17参照)

私がしたことは、ただ「波」を見つけ、集会の方向を変え(波に向かって進む)、自分が見たことを告げた(波を捉える)だけでした。その結果は明らかでした。イエスはご自分の言葉を力をもって確証されたのです。

 

「権威」は「力」とは大いに異なります。「力」は、地上の霊的空気を天からの霊的空気で変えるものという点で、爆発的であり、自然界で起こることです。一方「権威」は、イエスご自身が授けてくださる地位、立場です。警察官は銃(力)を所持しますが、バッジ(権威)も付けています。バッジは銃より効力を発するのです。

 

力とは天の環境そのものです。「力のミニストリー」とは波を捉えて乗るようなものです。一方、権威は波を起こすものです。

私たちは何者であり、私たちの責任は何なのかを神が言われる時、物事は起り始めるのです。信仰とは私たちを権威の領域に結びつけるものです。神が自分について言われることや、神が与えられている任務を、私たちは堅く信じなければなりません。

 

教会の青年であるブランドンは21歳の誕生日(アメリカでお酒が飲めるようになる年齢)に街のバーに行きましたが、お酒を飲んでこの世的お祝いをするためではありませんでした。彼は後ろの方にいる若者たちのところに近づいて話しかけました。一人の若者と話し始めたとき、主が若者の人生で癒したいと思っておられる点を教えてくださり、その結果として、その若者は神の御霊を受けただけでなく、彼の友達にも同じ経験をさせたいと思い彼らを自分の席に招きました。

 

ブランドンは、 若者が父との関係において物事をどのように扱えばよいかを「知恵の言葉」をもって若者に話しました。それはブランドンがまず「知識の言葉」を受けたことから始まりました。若者は泣き始めました。そしてブランドンに「一杯おごりたい」と言いました。ブランドンが飲みにきたのではないと言って断ると、若者は「じゃ、どうしてここにいるんだい?」と聞くので、彼は「君のためだよ。」と答えました。

 

そのバーの中には、神の臨在を招き入れるために助けになるものは、何も起こっていなかったことを理解してください。力ある説教とか、高揚させるワーシップ、他のクリスチャンの応援などは無かったのです。ただ光によって侵略された暗やみがあっただけです。一つの光、それで十分だったのです。

公共の場で奇蹟を見ることが私たちの間で普通のことになってきましたが、それは権威の故です。「自分は神にとって何者であるのか」を実際に実行に移すことは、奇蹟の領域で成功するポイントであり、それが「権威」と呼ばれるものです。

権威によってミニストリーをすることの定義は力のミニストリー(御父がしていることだけをする)と相反するものではありません。時として御父がしておられることを見出す唯一の道が、あなたの権威を用いてそこに到達することであるからです。

 

ルカ9:1−2でイエスが弟子たちに力と権威を与えられる前は、彼らはイエスの油注ぎと召しの傘の下で働いていました。私も非常に小さな規模ですが、ディック・ミル師の下でそれと同じようなことを経験しました。

ディックは聖書の約束を7700以上、いろいろな訳で暗記しています。彼は聖句を用いて行う深い預言のミニストリーで知られています。励ましをあれほどまでに与えることができるのは、ユニークで驚くべき賜物であり、現代の預言のミニストリーを信じない人たちにも受け入れられています。彼は預言に御ことばだけを用いるので彼のミニストリーを拒否するのはむつかしいのです。

 

ある日家族でミル師夫妻と一日を過ごしたことがあります。その夜集会があったので、それに出席して彼のユニークな賜物を楽しむことにしました。彼はメッセ—ジを終えて、会衆の中から特定の人を呼び出して聖書から預言の言葉を与えると言いました。次に彼は「私が預言したあとマイクをビルに渡しますから、彼も同じように預言してくださいます。」と言ったのです。私には何の相談もなしにです!私はたまげましたが、彼の言葉に従いました。

驚くべきでした。私はディックの賜物の中に入りこみ、彼の賜物を尊び彼の指揮に従うことによって、彼の油注ぎの下で彼と同じように働きました。彼の賜物は私自身のミニストリーの容量を増加させたのです。

同じように、弟子たちはイエスの油注ぎのもとで機能したのですが、それは3年半の間だけでした。イエスが死んだとき、弟子たちのために物事が変化する必要がありました。

彼ら自身が神との経験をする必要があったのです。復活の後、弟子たちは復活の主から格上げされた任務と権威を受け取ったのです。(マタイ28:18−20、ヨハネ20:21参照)

権威を持つお方が、ご自分の権威で残った弟子11人を任命したのです。死、罪、暗やみの力は打ち負かされました。その勝利から弟子たちは今までの3年半にすでにしていたことを更に加速するようにと召されたのです。今や彼らはすべての人のための罪の赦しを宣言し、復活そのものの証人として働くことができました。

ここで、まだ一つすることがあります。弟子たちはルカ9章にあるように権威を与えられましたが、力はどうでしょうか?弟子たちは大宣教命令でも権威を与えられましたが、イエスは「 上からの力を受けるまでエルサレムを離れないように」と弟子たちに言われました。(ルカ24:49、使徒行伝1:4)

 

イエスは水の洗礼を受けたときに聖霊の力をまとわれましたが、それは主が人として聖霊と個人的に出会われたのです。(ルカ3:22、ヨハネ1:32参照)弟子たちもそれと同じ経験が必要でした。

今日、キリストを受け入れる者は誰でも権威を与えられます。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1:12

この特権(right)という言葉は権威と同じ言葉です。

今私たちに与えられている命令は、エルサレムに留まった弟子たちへの命令と同じです。私たちは上からの力を受けるまでミニストリーの拠点を離れてはならないのです。(終り)


15 05月

五月の預言 ダグ・アディソン(インライト・コネクション)      2017年5月15日  


五月の預言

 

ダグ・アディソン(インライト・コネクション)

 

私の周りにいる友人や知人の中には、今非常に落胆し様々な戦いに疲れている人が沢山います。彼らは「今、神は私に何を語っておられるでしょう?」と聞く人に、「5月が終るまで、待ってみてください。」と話しています。

 

今いろいろな事が起こっている理由は、「変化の風」が私たちの人生の物事を並び変えているからです 。多くの戦いや困難があるので、「希望」を受ける必要がある人が沢山いるのです。

ローマ5:5「この希望は失望に終ることがありません。なぜなら、私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

「勝利と昇格の新しいシーズンに移る備えをしなさい!」

あなたの祈りが聞かれ、預言の約束があなたの人生の中に成就し始め、それによってあなたが神から希望の分与を受けるのを見ていてください。

 

答えられる祈りと昇格

 

祈ったことも忘れていたような祈りの答えが来始めるのを見ていなさい。祈りの答えの多くは、様々な状況や人々、敵の妨害のために遅れたり、奪われたりしました。5月には、そのような祈りの答えがあなたの所に来始めます。それはあなたが期待し予想したのとは違う答えかもしれませんが、それが起こり始めるのを見ていなさい。

 

5月はまた、昇格に先立って起こる試煉に勝利した人のためでもあります。3月31日に私は天からの音で目を覚ましました。「今から5月までに最早遅延はない。」という言葉が、一時間ほども繰り返し繰り返し聞こえました。それは賛美と祝いの叫び声の中から起こっているようでした。

 

多くの人々が試煉に打勝ち昇格されているので、天で大いなるお祝いがされていることを神が教えてくださいました。これは今から5月末までの間にもっとはっきり示されてきます。あなたが創造されたまさにその理由があなたに明らかに示されようとしています!

 

変化の風が強まる

 

5月末まで、ある人々には変化の風が強烈になってきます。これは神があなたの人生の物事を並び変え整理し直しているということによって変化が起こるのです。それは神が次のシーズンのためにあなたを正しく整えているからであり、すべて良い事なのです。

この間、ある人たちは引っ越したり、仕事を変えたり、違う教会に行ったり、新しい人とつながり始めます。このような変化が必要とは限りませんが、すべては変化の風の結果であり、それは5月末までには収まります。

 

「忘れさった祈りの答えが来始めるのを見なさい。」

この五月の預言を受け取ってください。

主はあなたの叫びに答えておられます。主はさらに大いなるサポートと恵みを与えようとしておられます。主はあなたが主のためにしたすべてのことを思い起こしておられます。主はあなたのこころの望みをかなえてくださいます。主があなたの願いを聞いてくださるのであなたは喜びの叫びをあげます。

 

これを確証する「しるし」をくださるように神に願ってください。直ぐには始まらないかもしれませんが、今すでに背後で動きはじめているものがあり、主はそれが実現する前ぶれとしての「しるし」を与えてくださいます。

 

過ぎ越しの祭り以来溢れる啓示

 

今、天は今までよりも更に大きく開かれています!多くの啓示を受け取る備えをしなさい、と神は私に告げられました。そして啓示は4月の過ぎ越しの祭の時に始まり、未だに止んでおりません。

 

神はどんどんと啓示を話されるのでタイプするのが間に合わないくらいです。3週間の間、毎日2、3時間の天との出会いを経験しています。啓示の大部分は、天で「大リバイバル」と呼ばれている来るべきリバイバルに関してです。

夢、ヴィジョン、超自然的出会いを通して啓示を受ける準備をしてください。神を聞くために今天は今までになく開かれているのです!(終り)


08 05月

世の終わりの宣教とは何か ー  それは マルコによる大宣教命令       坂 達 也


世の終わりの宣教とは何か ー

         それは マルコによる大宣教命令              

 

                  坂 達 也

 

 私たちは今、世の終わりが近づいた「御国の時代」に生かされております。

 

 マルコによる福音書の最後のところで、よみがえった主イエスが十一人の弟子たちに現れ「『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。・・・』」(マルコ16:15−16)と言われました。これがマタイ福音書の末尾にある主の「大宣教命令」と同じであることは疑いの余地がありません。

 しかしマルコでは、この命令に続いて「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』主イエスは彼らにこう話された後、天に上げられて、神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:17−20)と書かれています。

 

 ここで気が付くことは、通常私たちが未信者に紹介する救世主キリストによる「救いの福音」とは、上記の15−16節だけで、多くの場合、それでお終い、後に続く17−18節「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』 の部分を省いてしまうことです。もしそうであれば、15−16節だけが、あたかもキリスト教の最終目的であるかのような印象を与えないでしょうか。しかし一世紀の使徒たちは、イエスにいわれた通り、イエスがなさる業を忠実に見習って超自然の力を用いたパワーフルな福音を実行に移しました。

 マタイ10:7で、イエスが十二弟子を弟子訓練の一環として宣教旅行に出されたときに「『天の御国が近づいた。』と述べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出しなさい。・・」と言われました。これは前述のマルコの大宣教命令と同じ内容です。

 そして今は、それと同じ福音をたずさえて私たちが出て行く時です。そこで改めて「天の御国の時代とその福音」とは何かを、その原点にもどって考察してみたいと思います。

 宣教旅行に出る人を例えてみれば、それは行商人のようなものです。私たちの売り歩く「商品」は「イエス・キリスト」とその「天国」です。普通、ある商品を売る時に一番効果的な方法は、その商品の効能をくどくどと説明するよりも、その良さを実演して見せることではないでしょうか。そうであるなら私たちクリスチャンも、人の見ている前で「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出す」ことを実演して見せれば、黒山のように人が集まって来ないでしょうか。それがイエスご自身のやり方でした。主は私たちに今それをしなさいと言われています。そのようにして集まった人々に、イエスとその御国の話を説けば、説得力が抜群に出ることに間違いありません。

 もう一つの効果的な方法は預言の賜物を用いることです。そのよい例は「知識のことば word of knowlege」の活用です。ご存知の方も多いと思いますが、ショーン・ボルツ師という方が、全く面識のない人に向かって、その人の家族の状況とか、普通誰も知るはずがない情報を言い当てます。当てられた人は大変驚きます。それと同じように、もしあなたが知らない人に向かって「今あなたはこういう大きな問題にぶつかって困っていますね」とか「あなたは自殺しようとしている」あるいは、その人の誰にもいえない罪を犯している内容を言い当てれば、その人はショックを受けてがぜん聞く耳が出て来るはずです。その時にすかさず「それを救う救い主」として「イエス・キリスト」を売り込めば「買ってくれる確立」は非常に高くなると思いませんか。

 それに反してイエスの弟子であるはずの私たちが「天の御国の福音」を実践して見せずに、聖書の神学的理屈だけを「救いの福音」として長々と説こうとすれば、セールスの実につながりません。私もいやと言う程そういう失敗をして来ましたことを認めます。

 「救いの福音」と「御国の福音」とは同じであるようですが、実は明確に区別して認識すべきであると思うのです。すなわち、キリストが説かれるメッセージの最終目的は、キリストによる「天の御国の福音」であって、「救いの福音」はあくまでその一部、あるいは入口に過ぎないということです。

 

 バプテズマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と叫びましたが(マタイ三:8)その実とは、単にキリストを信じて死後に天国に行けることだけを指しているのではありません。それだけしかいえないならば、他の多くの宗教も「死後の極楽浄土行き」等の空約束とあまり変わりありませんから説得力に欠けます。なぜなら、それが事実かどうかは死んでみなければ分からないからです。

 ですから今の時代に生きる私たちは、キリストの名において、この世で天国と同じ状態を実現してみせるべく「病人を癒し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出す」ことによって、私たち自身の過去の間違いを悔い改め、その悔い改めにふさわしい実を結ぶ宣教をすることを提案させていただきたいと思うのです。その意味で、もし私たち現代のキリスト教会が「天国をこの世で実証できない」のであれば、キリストとかバプテズマのヨハネが罵倒した当時のユダヤの「宗教家」とあまり変わりはないと私は危惧するのです。

 

 もう一つ私たちが悔い改めねばならないことがあります。それはバプテズマのヨハネが「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方(イエスキリスト)は、わたしよりも優れておられる。その方が、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11新共同訳)と言ったように、「聖霊と火」の洗礼があるにもかかわらず、それを受けようとしないクリスチャンが未だ大勢存在していることです。多くのクリスチャンが「それはキリスト教の教義解釈の問題であり、私たちの教派はそれを信じないので行いません」と言うだけでは済まされないと思います。私は聖霊のバプテスマを受けることがどれ程御国のミニストリーに「必要欠くべからざること」であるかがこれからの時代で証明されると信じます。

 

 ビル・ジョンソン師は次にように言っています。「救いの福音は、人々を救いに導いて天国に行かせることに焦点を置きますが、御国の福音は、人々の生き様、住む街々、国々を抜本的にトランスフォーム(変革)することに焦点を置きます。そのために御国に神(イエス)ご自身が(王として)君臨します。それは天の御国の現実をこの地にもたらすためです。私たちクリスチャンは天国に行くのが最終的なデスティニーですが、その前に、この地に神の御国をもたらすために王から与えられた仕事(asignment)をしなければなりません。従って王から命令された仕事をすることと、天に行くデスティニーを混同しないようにしてください。」(2017年3月号カリズマ誌に載ったビルジョンソン師のメッセージより)

 勿論、こう言われるのはジョンソン師だけではありません。今では多くの終末の使徒と預言者たちがそれを強調するようになりました。

 

神の御国をこの世で立ち上げるのは私たち

 

 「神の御国とは何か」を突き詰めれば、それはイエス・キリストが王である神の王国です。この王は、宇宙とそこに存在するすべての被造物を造った創造者として、そのすべてを永遠に統治する全知全能の絶対君主である方です。そして重要なことは、その王は現在、天の御座におられる父の右に座しておられ、未だこの地には帰って来ておられない不在の王であることです。しかし主は地上に神の王国を立て上げる仕事をクリスチャンの私たちに委ねられているのですから、私たちの責任は非常に大きいのです。王は設計者として上から建設現場にいる私たちに毎日細かい指示を出しておられます。しかし、もし私たちが王の指示をよく聞けないとすれば、主のしもべとして本当によい仕事ができるでしょうか。主は私たちが常に主の忠実なしもべであることを期待し、「わずかなものに忠実であったからあなたにたくさんのものを任せよう。」とおっしゃる王です。

 

 私たちは、一地域教会に属する信徒としてその運営さえできていればよいのではありません。王国であれば、王国の経営に必要な政治・経済・教育からあらゆる分野での組織作りをし、適切なリーダーを立て、その下でたずさわる有用で忠実な働き人を育てて配置しなければなりません。従って、私たちが主からの命令と指示を注意深く聞く能力を持つことは絶対に不可欠です。まして私たちは「キリストの花嫁」ですから、主人のキリストと親密なコミュニケーションができていて当然です。

 

霊の目で主を見つめることの大切さ

 

 そのために必要なことは、先ず、私たちが霊的な「見る眼」と「聞く耳」を持ち、超能力の源である霊の領域に目を向けることではないでしょうか。そのために次の聖句をご覧下さい。

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22ー23)

 この御ことばは、私たちが霊的なものに目を向けることがどれほど重要であるかを強調しています。又、2コリント3:18もそうです。

 

 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」

 特にこの聖句は「主を見上げる」ことによって、主の「霊的な栄光の光」が見上げる人の目を通して身体に入って来ることを学ぶことができます。そして、その人の内部が栄光から栄光へと主と同じ姿に霊的に変えられるという大変重要な目の働きを教えてくれます。

 重要なことは、私たちは肉の目を通して、霊の世界も見ることができることです。それは主がエリシャの要請に応えて、エリシャの召使いの目を通して霊の世界に起こっていることを彼に見せました。(二列王記6:17)これによって人間は、肉の世界と霊の世界の両方を見ることができることが分かります。

 又、私たちは幻とか夢をよく見ますが、これも目で見る、あるいは「心の目」で見るのであると思います。そしてもう一つ重要な聖句があります。それはヨハネ5:19、20です。

 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。・・・」

 この御ことばが意味するところは、主を見つめていると「主がなさっておられること(御心)が見えるようになる」ということであると私は信じます。

 そうであれば、私たちは願望と信仰を持った「熱い目」で、極力多くの時間を「主を見上げる」ことに費やすことが、私たちの霊性を高めるためにどれ程大切であるかがご理解いただけるのではないでしょうか。

 

どうしたら霊の世界が見えるようになるのか

 

 結論から先に申し上げれば、それは訓練と経験を積むしかないということです。弟子訓練ということばがありますが、その英語は discipleship であり、その動詞のdiscipline は「訓練・しつけ」を意味します。そうであれば弟子訓練とは、学校に行って「頭の知識」だけを詰め込むことではなく、むしろスポーツ選手のように毎日血の出るような激しい「訓練と実地経験」を積み重ねることが必要です。さうでなければ本当に「自分のもの」にはなりません。多くの人は途中で諦めてしまいます。

 オリンピック選手になるには毎日人の二倍三倍のたゆまぬ訓練をする必要があります。有名なピアニストであり続けるには一日五時間の練習を欠かすことはできないそうです。バレリーナもそうです。それと同じように、普通のクリスチャンであっても信仰の訓練を重ねれば、誰でも超能力に到達できるのです。

 

 霊的訓練の最たるものは、40日間水も飲まない断食を行ったモーセに見られるのではないでしょうか。しかも彼はそれを二度続けて行ったのです。

 驚くべきことに、これ程長い間、水も飲まずに顔と顔をつき合わせて神を見つめたモーセはその断食では死にませんでした。これは、主の御前に出ている限り死も不可能もないことを証明していないでしょうか。彼がその直後に山を下ったとき、民はモーセの顔があまりにも眩しく輝いているので顔に覆いを掛けてくれるよう頼んだ程でした。

 これは私たちの霊的成熟の究極の目標が「神なる主と常に顔と顔を会わせて」いつも主のなさりたいことが「見える」「聞ける」親しい関係に入ることであることを示していると思います。そうなれば、私たちは毎日、主と親しくコミュニケーションすることによって、主から託された仕事の指示を忠実に実行できるようになります。そうすれば主は喜ばれ、アモス3:7にあるように「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」つまり、私たちが最愛の妻とか最も親しい友人には何でも話したい、話さずにはおられないのと同じように、主は信頼できるお気に入りのクリスチャンには何でも語ってくださるようになると思います。

 皆さんの中には既に神との関係で「主のお気に入り favorite」になられた方が大勢おられると思います。それは牧師とか教会のリーダーでなくても、クリスチャンなら誰でも、主と個人的に親しい intimacy の関係に入れますし、そのような人はみな立派な「主のお気に入り」です。私も長年主との関係がそうなるように務めて来ましたが、やっと最近、主の御声がよく聞こえるようになって来ました。私は文章を書くのが仕事ですが、筆の進みが遅いのでいつも苦労しています。ところが最近、よく主を礼拝したり、主を見上げる時間を長く過ごしたような日の翌朝は、私がお願いする前に、主は待ちきれなかったかのように、私が書くべきことをどんどんと語ってくださいます。

 

主から個人的に弟子訓練を受ける

 

 一世紀のキリストの直弟子たちは、何もかも捨てて主の家に住み込み、毎日主と向き合って暮らすという、本当にうらやましいような弟子訓練を受けました。しかし考えてみて下さい。私たちも彼らと同じ状況の中で、今でも主から直接毎日訓練が受けられるのです。それは主が聖霊を通して私たちの中に既に住んでおられるからです。御存知のように、私たちも天にある主の右座が私たちの座るべき席であり、そこにはいつでも行くように招かれているのです。キャット・カーというご婦人はつい先日、ジョイナー師のカンファレンスに招かれていましたが、彼女は毎日のように、時には一日二度も天の御座に行くそうです。

 そして、前述の2コリント3:18のところでご紹介したように、いつでも「主を見上げて主を見つめる」ことによって主の前に出られるのです。私は今のところそれ以外の方法を知りません。しかしモーセがシナイ山上で主に向き合って主とお話したのですから、私たちもできないはずはありません。ですから私たちも同じように、個人的に主と向き合い、見えるようになる迄、とにかく主を見上げるしかないというのが私の今迄の経験から学んだことです。そして、主は「信じる者にはどんなことでも出来る。」(マルコ九:二三)と保証しておられるのですから、それを続けていれば霊の世界が見えて来る、聞こえて来ると、私は信仰で信じて実行しています。そして希望の光が見え始めて来ています。

 

 とは言っても、これは確かに大変なチャレンジです。しかし聖書が説く「強い信仰」「真の愛」「自分の十字架を担ぐこと」等はどれをとっても楽にできるものは一つもないではありませんか。みな、とてつもなく激しく、執拗で諦めない強い意志と情熱を要求します。それはまさにマタイ11:12に「バプテストのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく・・攻める者たちがそれを奪い取っています。」と書かれている通りです。

 

 主と親しくなって「見る、聞く」という基本ができるようになれば、後の超能力の訓練については、どうすれば得られるかを直接主にお聞きください。それはまさに「信仰の訓練」です。主は必ず皆さんのデスティニーに適ったよい方法を教えてくださいます。

 最後に申し上げたいことは、単に外国から超能力を会得した使徒や預言者たちを呼んでのカンファレンスに出て話を聞いたり、祈ってもらうだけでは、主と個人的に親しくなれるとは限らないということです。今神は、私たちが誰かを通して預言を受けるよりも、自からが神と親しくなり、神から直接預言を受けることを何よりも望んでおられると思います。 (終り)


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