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Walk With God Ministries

10 07月

心の井戸の水を汲む   ペリー・ストーン         2017年7月10日


心の井戸の水を汲む

 

ペリー・ストーン(ペリー・ストーン・ミニストリーズ)

 

ヨハネ4:11「彼女は言った。『先生。あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこからお入れになるのですか。』」

ヨハネ4:23、24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

新約の礼拝に関する教えは、イエスによってヤコブの井戸で最初に与えられました。ヤコブは全イスラエル部族の父祖であり、彼はスカルの地で井戸を掘りました。イエスは旅の疲れをおぼえ、この井戸の傍らに腰をおろされました。

 

井戸から水を汲むためには、何か入れ物が必要でした。当時の井戸の上には石の蓋が置かれていました。小動物が夜中に井戸に落ちて死ぬならば、水が汚されるからです。他にも木の葉とか枝が入って井戸の中で腐ることもあります。ですから水を清く保つために蓋がしてあったのです。

このことから示されることがあります。アメリカで「ワーシップ」と呼ばれるものがありますが、実際にはそれはワーシップではないことがあるのです。

まことの「ワーシップ」は、人が心から主を礼拝し、それを口で言い表すものでなければなりません。「私は心の中で主をワーシップしながら、静かにしています。あまり何も言わないし手を上げたりもしませんが、心の中でワーシップしているのです。」と言う人がいます。

 

しかしマタイ12:34に「・・・心に満ちていることを口が話すのです。」と書かれているように、もし神への賛美や礼拝があなたの心にないならば、それを外に表すことはできません。神の臨在や愛が心に、即ちあなたの井戸の中にないならば、それは水のない井戸です。あなたの心の中にあるものが口から言葉を出させるのです。

 

ヨハネ7:37、38でイエスは「だれでも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちの中には井戸があり、それは生ける水で満ちているはずです。乾いた人はその水を飲むことができますし、身体が汚れていれば清めることができます。ヨハネ伝では、水は聖霊を表すだけではなく、人の心の奥底の霊から溢れ出るワーシップも表しています。ですからあなたは内なる井戸の水が常に清いように守らねばなりません。

 

あなたの心にあるワーシップは、口に出して表さなければワーシップとはならないのです。教会やクリスチャンテレビを見ると、すばらしい説教やすばらしいワーシップがありますが、会衆はただ座ってそれを聞いて楽しんでいるだけです。手を上げている人もなく、ワーシップしている人もいません。誰かが楽しませてくれるのを見ているだけなのです。それは「ワーシップをする」と言えるかもしれませんが、実はそうではないのです。あなたの口から音が出てこなくては、あなたはワーシップしたことにはなりません。

 

ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)では、カンターと呼ばれる歌い手がいて、聖書を読むときは、ただ読むだけではなく、節をつけて歌います。詩編はダビデや幕屋の歌い手などによって書かれましたが、それは朗読するのではなく、歌うべきものであり、詩編はイスラエルの賛美歌なのです。エペソ5:19には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。

 

今ご自分で私の言うとおりにやってみてください。お腹の上の左右のあばら骨がぶつかるところにある横隔膜の下に指を4本縦に少し強く当ててください。そして「ハレルヤ!主を賛美します イエス様ありがとう」と言ってみてください。筋肉はほとんど動かないのが分かると思います。次に同じ言葉で歌ってみてください。横隔膜が動くでしょう。あなたが賛美を単に言うとき、それはただ「習慣的に」言うこともできます。イエスはパリサイ人についてマルコ7:6で「この民は、口先(lips)ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われました。礼拝後に何を食べようかと考えながら、口では主への賛美を言うことができるのです。しかし歌うときにあなたの身体の中心で横隔膜が動き、あなたの中の何かが動き、賛美が心から出てくるのです。

 

残念ながら多くの人は、自分の中にある井戸の蓋をしたままでいます。蓋は動物やゴミ等の井戸水を汚すものが入らないようにするものですが、その井戸から水を汲みたい時は蓋を取り除かねばなりません。水を汲むのを遮っているものを取り払うのです。信じる者の腹の奥から、即ち霊から、生ける水の川が流れると主は言われました。井戸から水を汲むためには、バケツを深く入れて外に水を汲み出さねばなりません。私の霊にあるワーシップはそれを口に出す時に奥深いところから上がってくるのです。

 

会衆が皆大きな声でワーシップをしているとき、霊的空気が変るのを感じると思います。例えば私の周りに50人ほどの兄弟姉妹がいるとします。私一人がワーシップをするならば、一本の川が私から流れ出ます。周りの人たちが一緒にワーシップするならば、その一人ひとりから川が流れ出し、それが集まって非常に大きな川の流れとなります。そしてその賛美は天の御座に立ち上っていきます。エゼキエル47:1−5でエゼキエルは、神殿の敷居の下から流れ出る水の幻を語っています。1千キュピト行くと足首までの深さとなり、更に1千キュピト行くと膝まで、次の1千キュピトで腰に達し、更に1千キュピト行くと水に囲まれて浮かんで泳げるほどになったのです。

 

水かさが足首までの時を「アブラハムの時代」だと私は思います。アブラハムは信仰で約束の地を歩きまわりました。(創世記13:14−17)それから千年後にはダビデ王の時代となりました。ダビデは戦士であり、様々な敵を打ち破り進軍していきました。信仰で歩くだけではなく、戦いに勝利したのです。それからまた千年後は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを授けました。洗礼を受ける者は水の中に腰まで入ります。ヨハネは天の御国が近づいたから罪を悔い改めるように語りました。水の清めによる新生です。

 

そして今私たちはエゼキエルが見た「水かさが増し、泳げるほどの水の川」の時代に住んでいるのです。先に進めば進むほど水かさがまして、立っていることができず、泳ぐようになります。今私たちはヨエル2:28の時代、即ち「すべての者に霊が注がれる時」にいます。それはまた、イエスがヨハネ4:23で言われた「霊とまことによって神を礼拝せねばならない時」なのです。サマリヤやエルサレムの山ではなく、私たち一人ひとりが聖霊の宮であり、私たちが行くところ何処にでも神を持ち運ぶことができるのです。しかし私たちの腹の奥にある水を汲み出すためには、賛美を言葉に出すだけではなく、横隔膜を広げて井戸の蓋を取って、歌う必要があります。今の終りの時には「詩と賛美と霊の歌を持って主にむかって心から歌う」ことが非常に大切なのです。

 

このようにワーシップに関する啓示はヤコブの井戸においてなされました。イエスはサマリヤの女に「あなたは知らないで礼拝しています。

 You worship what you do not know.(あなたは知らないものを礼拝しています)」と言われますが、私たちはそうであってはなりません。私たちは神を知り、口先だけではなく霊とまことをもって礼拝しようではありませんか。(終り)


07 07月

トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢     坂   達  也    2017年7月7日


トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢

 

                坂   達  也

 

国外で発揮されるトランプ大統領の実力とリーダーシップ

 

G20の会議がドイツで始まりました。それに先駆けて、トランプ大統領の最初に立ち寄ったポーランドでの演説は、格調の高い、世界のリーダーシップを握るにふさわしい実力者である事が如実に顕われておりました。ウオール・ストリート・ジャーナル誌は「アメリカ・ファーストよりも大きく、それを超えた、世界の方向性を決める(defining )スピーチであった」と評価し、多くの人がレーガン大統領の歴史的演説に匹敵すると賞賛しました。ポーランドは折から、洪水のようにボートで入って来る難民を一切受け入れないと宣言し、難民を受け入れ過ぎて困惑するドイツとは対照的です。このG20では、トランプ大統領がこの数十年世界に蔓延した無責任なグローバリズムに対決する強い姿勢を示すと共に、アメリカはヨーロッパNATO 各国だけでなく、北朝鮮問題を含む世界的視野で、その強い連携責任を果たすためのリーダーシップを取ることを明確に宣言しました。

それが、プーチン大統領との会談でも表れていたようです。両大統領の会談は2時間を超え、最初はトランプがプーチンのアメリカ大統領選挙への介入とシリヤ問題を厳しく問いつめた後、二人は積極的に問題解決への道をポジティブに話し合い、二人の相性はとてもよかったとチラソン国務長官が報告しています。

一方アメリカのリベラルなメディアは、すかさずトランプ大統領を「レイシスト・民族差別主義者(白人優先イスラム軽視)」と非難しました。

 

トランプ大統領が直面するアメリカ国内の問題

 

アメリカの政治環境と国民のモラルは、左右二派に分かれた対立がいよいよ激しくなり、トランプ大統領が目指す内外の政策は全面的に立ち往生する事態となっております。その大きな原因は二つあります。一つは昨年の選挙に負けたデモクラット民主党が、二大政党が協力して成り立つ民主主義政治への責任を全く果たしていないことです。そして二番目の問題は、リベラルなメディアが常識を逸脱して、報道すべき報道を拒否し、人心を惑わし煽るフェイクニュースだけを流すことによって、アメリカ国民だけではなく、世界を惑わし、攪乱するという前代未聞の事態になっていることです。私はこれは悪質極まりない「テロ行為」と呼んではばかりません。

 

今回、私は日本の皆様に緊急のとりなしのお祈りを要請させていただきたいという一念で、緊急事態のアメリカの現状をお伝えさせていただきます。

 

民主党(デモクラット)と「陰の政府」の暗躍

 

「陰の政府」とは最近アメリカで DEEP STATEと呼ばれていますが、オバマ前大統領があやつり暗躍する陰の政府を指しているようです。オバマ氏が雇い、その後引き続き現職で残っている相当な人数の政府要員を陰であやつりながら、オバマ氏はあらゆる手段を尽くしてトランプ大統領を妨害(というより、彼の後を受け継いだトランプ大統領が成功しないように)しようとしています。それが最近露骨になって来たのです。特に民主党議員への働きかけが目立ちます。その一つの理由は、政権が変わった後の民主党にはリーダーが全くいないということが曝き出され、民主党からの政策的提案は皆無に等しく、彼らのして来た事と言えば、共和党のすべての政策に闇雲に反対することであり、トランプ大統領を弾劾することだけに全精力を集中して来ました。

 

しかしながら、このような民主党に対する国民の審判の目は厳しく、トランプ政権になった後に行われた5回の国会議員の補欠選挙で、その5議席とも共和党議員が選ばれたという結果が出ています。

 

トランプ大統領のツイート問題

 

この動きに協調しているのが大手のリベラルなメディアです。彼らはますます過激的に反トランプ色を強くしていますが、大統領弾劾のための理由として、最近ではトランプ大統領自身が毎日のようにするツイートを指して(特にリベラルなメデイアをこき下ろすツイートに対し)医学的根拠が全くないにもかかわらず、「大統領は精神異常者で、大統領としての資格は無い」として、25人の民主党議員が議会にトランプ大統領弾劾提案をしようとしております。確かにトランプ大統領のツイートは前例のない程多く、内容は激しく率直すぎる、一国の大統領らしくないと言う非難は当っているかもしれません。しかし、これだけ大手メディアが寄ってたかって大統領をこき下ろすことだけしか報道しないのであれば、大統領としてはツイートによって国民に直接訴えるしかないというのは無理からぬ事情といえます。特に最近暴露されたCNNニュース局の内部で「上司が報道者へ、大統領を誹謗するためのフェイクニュースだけを毎日手を変え品を変えて流せ」という指示をしている現場を隠しカメラで撮った映像が公表されたのです。それは呆れてものが言えない程ひどいものでした。それを知った大統領が痛烈に批判したツイートを立て続けに発表したことに対して、今度はそれを逆手に取って大統領に「精神異常者」というレッテルを張り、それを弾劾理由とするという卑劣極まりない話なのです。

 

私は日本の政治情勢が必ずしも最上とはいえないことを知っておりますが、もし皆さんが今のアメリカの実情を知られたら、これが文明最新国のアメリカでまかり通っているとは「信じられない」とおっしゃると思います。今のアメリカのリベラルなメディアではジャーナリズムのモラルなどひとかけらもありません。何故そうなるかと言えば、大手メディアは視聴率が上がる事だけを目標にし(広告収入に影響しますので)、反トランプのニュースだけを聞きたい見たいリベラルな民衆が50%近くいるので、その人たち相手の視聴率を上げるフェイクニュースだけを流せと上司が指示するからです。

そこでご参考迄に、それ以前の6月に起こった主な事件をご報告します。

 

世界中に暴虐と殺人が氾濫する

 

その一つは、民主党と共和党両院議員による恒例の慈善野球試合の前日に、一人の白人が折から練習中の球場に来て、そこにいるのが共和党議員であることを確めた上で、ハイ・パワー銃で50発近くを乱射し、一人の共和党議員が重傷を負い、数人が負傷、そして犯人は、5分後に駆けつけた警官により射殺されるという惨事が起きました。今世界中において、ISIS以外に、これに似た殺人事件が続発しております。日本も例外ではありません。これは悪魔の断末魔的仕業としか言いようがありません。クリスチャンが聖霊の臨在による栄光の環境をつくり出す事ができるとすれば、その逆に、悪魔は暴虐と殺人の殺伐とした環境つくりができることを今如実に実証していないでしょうか。

 

元 FBI 長官コーメー氏の議会喚問証言

 

次に大きな話題となったのは、トランプ大統領が免職処分した元FBI長官コーメー氏の議会喚問証言です。この議会証言が行われたのは6月8日でしたが、その前から大手メディアの報道は今迄に増して反トランプ攻撃が過激化し、まるで気違い沙汰の様相を呈していました。もはや、フェイク・ニュースかどうかの問題を通り越し、自分が好むニュースだけを報道する、そこには報道者の中立性などは微塵もないのです。多くの場合アナウンサーの顔と声がひきつり、トランプ大統領に対する憎しみを隠そうともしません。ある信用できるレポートによれば、現在のアメリカのメデイアは80%が反トランプ報道であると言われます。

 

そこで今回のコーメー氏喚問でさらけ出された最も重大な証言は、彼が「機密にすべき情報」を他人に漏らし「リーク」したことを自ら認めたことでした。しかもそのリークの目的が、元FBI長官で(コーメー氏曰く)「最高に尊敬できる親友である」ロバート・ミューラー氏が折から取り沙汰されていた大統領のロシアゲート疑惑を調査する特別勧告審査官に任命されるように裏から手回しをした」という意味の供述をしたのです。そして事実ミューラー氏はその通りに任命されました。これこそ裏の政府( DEEP STATE ) の仕業であると信じます。

 

私は今これだけ「リーク」が問題になっている最中に、事もあろうにそれを取り締まる立場にいる FBIの長官自身がリークしたこと、しかも彼はあまりそれを「重大な過失罪」として認識していないことに気が付いて愕然としました。そうであるならリークは今回だけであるはずはなく、今後はそれが追跡されて当然と思います。

尚、「ロシアゲート」とは、昨年の大統領選挙でロシヤがトランプ側と結託して妨害介入したという疑惑問題ですが、最近の民主党はこれを大事件として執拗に煽り立て世界をかく乱しております。その目標はひとえにトランプ大統領を弾劾impeachすることにあり、そのためなら僅かなことでもすべて弾劾の理由にこじつけようとしています。しかし実際には、トランプ大統領が明言しているように、今のところトランプ政権のロシア介入の証拠は一つも出て来ていない、そしてコーメー氏自身も大統領介入への疑惑調査は全く行われていなかったと今回証言しているのです。

 

ここで、参考迄にリック・ジョイナー師の意見をご紹介します。師は「今回のコーメー証言はソープ・オペラを見ているようなもので、結論をいえば、コーメーは自らの墓穴を掘り、トランプが勝利したことは明白です。コーメーはいよいよトラブルに落ち込みました。彼は一度は『絶対にリークしたことはない』と宣誓しておきながら、今回、友人に『リークした』と打ち明けたのですから、これはまさしく偽証罪に問われます。

又、民主党はといえば、今回のコーメー証言から徹底的に『あら』をしぼり出し、それを材料にしゃにむに『トランプ弾劾』にもって行こうとしています。悲しいことに彼らには今それしかできないのです。しかしそのことに、やっと心ある民主党員も民衆も気が付き始めました。一方共和党はどうかといえば、民主党と同じ程、問題だらけです。正直なところ、ここに至ってはアメリカの二大政党政治そのものが、それを修繕すこともできない程完全に崩壊してしまったと思います。

トランプ大統領は、今国内だけでなく世界中から憎まれ攻撃の的になっていますが、彼は窮地に立たされれば立たされる程、神が彼を救出し、彼の実力と名声は逆に上がる一方です。そうとしか考えられません。そして今回もそうなるでしょう。それは彼が神の特別の好意を受けていて、神からのデスティニーと目的を持っているからです。アメリカの歴史を見て下さい。彼以上にメディアと民衆から嫌われてた大統領がいるとすれば、それは暗殺される前迄のリンカーン大統領です。リンカーンを嫌った人たちは、彼が殺されてやっと彼がどれ程偉大なことを成し遂げたかに気が付いたのです。トランプ大統領は同じように、これからも嫌われ、やることなすことに妨害され続け、大統領として本当に自分がしたい仕事ができるようになるまでには一年かかるでしょう。

 

ところで私は今回の証言台でのコーメーの言動からは好ましい印象は全く感じられませんでした。なぜでしょうか。それは彼が証言した事柄の他に、人に言えないようなもっと深い大きな事実を隠しているからだと思います。オバマ大統領の任命した人たちで未だに政府職に残っている人が大勢います。コーメーはその人たちが隠していること、絶対に明るみに出せない陰謀、あるいは知られたくないわいろ=多大な闇の資金を使った悪事が予想以上に大きいことを知っているからであると思います。そうでなければ、ここ迄執拗にトランプ大統領を弾劾し失脚させようと焦る理由は他に考えられません。これらのことはすべて明るみに出されねばなりません。間もなくそれが始まり、前政権下の悪事がどんどん暴かれると思います。それがトランプ大統領の召命であると私は信じます。

 

いずれにせよ、これだけ徹底して議会審議が妨害遅延され、又、メディアに反対攻撃されながらも、トランプ大統領がこの4−5ヶ月の間に、政治・経済・軍事・外交面で成し遂げたことはめざましいものがあります。ほとんどのメディアはそれを報道しませんから、残念ながら世界の人々は知らされていないのです。

(以上がジョイナー師のコメントです。)

 

北朝鮮の核兵器保有の危険性

 

ジョイナー師は続いて、この数ヶ月くり返し北朝鮮の核兵器の脅威について述べていますが、最近、下記の記事をフェイスブックに載せて、それを更に強調しています。

「The Sun、 a new UK news Corp.)・・・その筋の上級専門家(Mr. Lewis )

 

によれば、北朝鮮は既にアメリカに到達するための大陸横断用核弾道ミサイルを打ち上げる技術において、僅か後一歩のところ迄来ていると言う。

北朝鮮は既に近い将来使用するICBMの頭に取り付けるコンパクトな核弾頭は開発済であると信じられ、その最後のハードルは、弾道ミサイルが打ち上げられた後で、大気圏に再突入する際に起こる強烈な空気摩擦によるショック、激しい振動、並びに急激な超加熱に耐えるだけのものを造り上げる技術の開発を残すだけとなった。その開発において、既に昨年地下グラウンド・テストに成功しており、最近の数ヶ月で最後の仕上げを急いでいると言われる。その報道とは別に、最近テストされた四つの新兵器の内の一つは、超精度を誇る短距離誘導ミサイルで、それはグアム島の米軍施設に迄届く(訳者注:勿論日本にも)と言われる。又、対軍艦用のクルーズ・ミサイルも既にテスト済という。」

 

北朝鮮のサテライトは EMP 攻撃に理想的な手段となり得る

 

続いてジョイナー師は下記の記事を引用して、次の事態が現実に起こり得ると声を大にして警告します。

「『北朝鮮は現在、地球の周りを周回する複数の人工衛星を持っていると言われ、そのサテライトを利用して、EMP ( Electric Magnetic Pulse ) 爆弾をアメリカ上空で落とす可能性が強くなって来た・・・』と書いた Oli Smith の記事(5月27日)を紹介します。

 

この EMP爆弾による被害とは、低レベルのEMP爆弾によっては、すべてのエレトロニックス・システム(コンピューター等)が少なくとも一時的にとまります。又大きな爆弾ならば、すべての電気とエレクトロニックス関係の器具、パルス(音響、波動、電波)のいかなる機器電源も損なわれ、飛行機、船舶、自動車、すべての乗り物は止まり、上水下水システムも停止=事実上食料生産も含む通常の文化生活ができなくなります。但し、この爆弾による被害は上記の電気、エレクトロニックス機器に被害が及ぶだけで、その他の人体、動植物、物体には影響がないのです。しかし通常の生活が完全に麻痺しますから、最悪の場合一年以内にほとんどの人間は死に絶える可能性がある、と言われます。

 

そこで、このような被爆を受けた後に生き延びるためには19世紀以前の生活様式(即ち電気器具やコンピューターの無い生活)に戻らねばならない。これが映画・小説の世界ではなく現実にいつでも起こり得る世の中になったのです。北朝鮮は他国をこの爆弾で攻撃できる用意ができているといい、彼らがアメリカ本土を全滅する核戦力を持つのは時間の問題と脅迫するのはあながち嘘ではないのです。

そこで考えねばならないことは、第二次大戦前に、イギリスがドイツのナチが台頭し始めた最初の頃に攻撃しておけば、被害は最小限に留めることができたはず、それをしなかったがために第二次大戦という大変な被害を世界が受けることになったという事実があることです。この教訓は今こそ当てはまります。北朝鮮に対して今の段階で敏速に手を打たないと、ナチと同じように手遅れとなり多大な犠牲を払うことになりかねないのです。」以上がリック師の警告です。

 

とりなしの祈りのお願い

 

そこで、最後に私自身が申し上げる事があるとすれば、私たちがクリスチャンであり、クリスチャンこそは「祈り」という最高の武器を持っているという事実です。神は私たちが信仰で主に祈る事を待っておられます。そして御存知のように私たちの正しい信仰の祈りは絶対に聞かれるのです。

 

悪魔がどのようにあがいても、又、闇が深くなればなる程、私たちが信仰で祈れることによって、必ず勝利するという「証し」ができることを私たちは忘れてはならないと思います。悪魔は「うそ」をならべて「惑わし」「威嚇」「恐れさす」ことしかできません。一方、「信仰」と「真実」と「祈り」を持つクリスチャンは、何一つ恐れる必要がありません。なぜなら勝敗は既に十字架に着かれたキリスト・イエスによって圧倒的勝利が決まっているからです。

 

今、世の中が前代未聞の荒廃と真っ暗な闇の中に突入しつつあるように見えるとすれば、私は興奮します。なぜなら、いよいよ、それは私たちの前途に「前代未聞」の圧倒的「勝利のリバイバル」が近づいて来ている前兆であると信じて止まないからです。現代を生きるクリスチャンは、その「主による大勝利」の証人となるべく、最後の時代の働き手として訓練され生かされて来ているのではありませんか。どうぞ日本の皆様の力強い圧倒的な「とりなしの祈り」を期待しています。(終り)


03 07月

過去で未来を縛られるな       グラハム・クック        2017年7月3日


 

過去で未来を縛られるな

 

グラハム・クック

 

神は私たちの人生の地を一掃し、神の約束と将来の計画のためのスペースを作りたいと願っておられます。神は私たちの過去を癒し、未来に生きるようにしたいのです。しかし時として、私たちは過去の痛みが残っていて将来にむかって進むことができません。

 

私たちは全員、例外なく、人生の苦しみや痛み、失望を味わってきました。ある人たちにとっては、不幸な子ども時代かもしれません。ある人にとっては、最近起こったことかもしれません。どちらにせよ、又

大小にかかわらず、それらの傷は私たちの毎日の生活に影響を与えています。それは未来を曇らせ、私たちが神を天の父として受け入れて神の約束に生きることを不可能にするのです。

ですから過去の傷は去らねばならず、癒されねばならないのです!

神がそうであられるように、あなたも健やかで欠けたところのない者となることこそが神の意図されることです。私たちは癒されつつ生きることを学ばねばなりません。あなたの人生における神の癒しのプロセスと神が意図されるところを知らねばなりません。何回か癒される経験を経たとき、私たちが「傷を受ける」のは、癒される喜びを経験するためであったことがわかるのです。

 

私たちが皆、御父のすばらしさを十分に経験することを私は願います。何故ならば神は私たちを本当に愛して止まないお方なのですから、私たちはそれを味わい知る必要があるのです。もしあなたが今、何らかの痛みに直面していたり、行き詰まりを感じているならば、

あなたが今いるその場所で神に触れてもらってください。神はあなたをリフレッシュし、新しくしたいと待っておられます。神はあなたの痛み、心配、悲しみ」を、「喜び、平安、健やかさ」に取り替えてくださいます。

そのような御父の癒しを受け取りたいと思われるならば、次の主の言葉を黙想してください。あなたを癒し、輝かしい未来へと招きたいという神の願いに耳を傾けてください。

 

「愛する者よ、リフレッシュの霊があなたに伴いますから

、あなたの身体、知性、感情、霊をその霊に委ねなさい。喜びと笑いの場所へと帰りなさい。そうすれば、わたしはあなたの人生の乾いた味気なさを克服し、新鮮さを与えるでしょう。」

 

「わたし自身をあなたに与えます。あなたに特別な恵みを与えます。来てわたしの寵愛、喜び、笑い、幸せに帰りなさい。来てわたしの慈しみ、親切、憐れみに浴しなさい。わたしのすべてはあなたのためです!わたしという存在はすべてあなたのためです。わたしの持つものはすべてあなたのためです。わたしの心はあなたに向いています。」

 

「わたしは耳を傾けています。わたしに話しなさい。あなたの心の奥底を話しなさい。あなたの恐れや心配をわたしに話しなさい。わたしはあなたと共にいます。わたしはあなたの味方です。わたしの関心をひくのに小さすぎるものは一つもありません。あなたの人生のすべてのことはわたしと繋がっています。それはあなたがわたしのものだからです。あなたはわたしの所有物です。ですからわたしの川でくつろぎなさい。」

「わたしは、あなたが勝利者の人生を歩むための偉大な信頼と信仰

へと導く確信を与える計画があります。わたしはあなたの内側を完全に変えることによって、わたしがあなたの内側に強さと力と尊厳をもって住まおうとしています。」

 

「わたしはあなたの内側を、恐れから愛に、心配から平安に、惨めさから笑いに、倦み疲れからリフレッシュされた状態に変えます。あなたは、わたしと同じように考え、わたしが見るように見、わたしが信じるように信じて、わたしと同じようになる自分を見出すでしょう。あなたは変革されるので、この世があなたを見る目が変えられるでしょう。ですから愛する者よ、安息し平安を保ちなさい。」

今日、あなたが神の癒しにふれられますように!(終り)


29 06月

主のご臨在と共に生きるには    坂   達 也       2017年6月29日


主のご臨在と共に生きる

 

                                                坂     達  也

 

   私たちはこの二年間、田の字型の四連棟住宅の一角に住んでおりますが、その左隣にはアンデイーとジュデイーという共に81歳になる一組の老夫婦が住んでいます。私たちが引っ越して来て最初にお会いした時、彼らは、隣にクリスチャンが引っ越して来ることをずっと祈っていたと言い、私たちが隣人になったことを大変喜んでくれました。それ以来親しくして来た人たちです。夫のアンデイーさんは元バプテスト系の牧師でしたが、10年程前から心臓疾患による歩行困難が進み、この一年半程は近くの療養所に入っておりました。そしてジュデイー夫人がほとんど毎日そこに出掛けて、夫に付き添うという生活を送っておりました。

先週の木曜日の朝、ジュデイー夫人から電話があり、アンデイーがこの二日間食事も取らなくなったことを報告してくれました。そこで私たちは何が起こっているのかを察し、その日の午後一番に彼が入っている病院付属の療養所に駆けつけました。私たちが病室を訪ねると、彼はいつもと違って顔の血色もよく、のどかな高いびきで寝ていて、私は吃驚し嬉しくなりました。どう見ても死期を迎えた人には見えません。そこで私が祈り始めるといびきが止み、彼は細目を開けて私を見ましたが、又すやすやとやさしいいびきに戻って行きました。

 

そして二日後の日曜日の朝(6月25日)でしたが、私が主の御前に出た時、直ちに、いつに無い豊かな主のご臨在につつまれました。そこで私は、そのすばらしい愛と平安にひたることができたことを主に心から感謝しました。

 

祈りの後しばらくして、礼拝に出掛ける準備をしていますと、玄関のベルが鳴り、ドアーを開けると、そこにジュデイー夫人が立っていて、ご主人が前日の午後に昇天したことを伝えてくれたのです。

 

そこで私は、その朝の祈りで、いきなり濃い主のご臨在を感じた理由を理解することができました。主が私に「アンデイーは無事、わたしの元にもどって来て今ここに、わたしの側にいるよ。今は全くすべての痛みとか拘束から解放され、すっかり喜んでいる。その喜びを分かち合いなさい。」とおっしゃっておられるような気がしたのです。そして教会の礼拝に出た後も、その日終日私は、絶えず主の臨在を感じて喜びに満ちて過ごしました。

 

その日の礼拝メッセージの中でベンジャミン牧師が、ロマ書12:1

*「・・私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。・・」*

を引用した時、私はすかさず、神が喜ばれる真の*「霊的な礼拝」*とは、

 

「いつも主の栄光を見上げて、主の御顔を拝し」

「聖霊のご臨在と共に毎日を生きる」

 

ことであることにハッと気が付いたのです。それは、私たちが生きる毎日の生活のすべてが「霊的な礼拝」でなければならない、そのためには、私たちが自分をいつも

 

「神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげる」*

 

ことが前提となることです。それ以外のメッセージはあり得ないという確信を持ちました。

 

実は私はその前の週に、今の私たちは、ニューヨーク移転の日取りが決まらない事や、私が書こうとしている本の原稿も思うように進展しないことを含め、どこを向いても八方ふさがりであるように思えたとき、私は分かっていながらも、一瞬強い焦りを覚え、上を向いて大きなため息をついたのです。

 

私自身「主を見つめて待つ」というモットーをいつも自分に言い聞かせておりますが、自分のしたいことが「待たされる」時ほど「自分に死ぬ」ことの必要性を感じることが他にあるでしょうか。皆様の中にもそのような経験をされた方があるいは大勢おられると思います。私は「すべてを主に委ねて生きること」の難しさを過去に数えきれない程感じて来ました。しかし主は、その度に、私たちのミニストリーに Walk With God Ministries =「主と共に歩く」という名前を付けて下さったことを思い起こさせて下さり、それが励みとなりました。この世で生きる私たちの人生とは、まさに「信仰の霊的訓練」に尽きることを今回も改めて教えられると共に、その人生を主が聖霊を通して共に生きてくださる愛と恵みに心から感謝した次第です。

 

モーセから学ぶ主の「ご臨在」の大切さ

 

聖霊のご臨在がどれ程すばらしく、また重要なものであるかは、先ず旧約聖書から学ぶことができます。出エジプト記33:7に、モーセが率いるイスラエルの民が荒野を旅行中に宿営するときに、モーセは「会見の幕屋」(新共同訳によれば「臨在の天幕」)という天幕を必ず宿営から離れた所に張り、誰でも主にお伺いを立てたい者ははそこに行けるようにしました。特にモーセがそこに行く時は、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセがその幕屋に入る迄見送りました。彼がその天幕に入ると雲の柱が降りて来て、その入り口に立ち、その中で、主はモーセと語ります。すべての民は、外に立つ雲の柱を仰ぎ見て伏し拝んだと書いてあります。

そして、主は、人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセに語られました。その後、モーセは主に懇願して「主ご自身が、これからの道を、モーセと民と共に行って下さる」という約束を取り付けました。しかし、もし主のご臨在が民と共に行くのでなければ、私たちをここから上らせないでくださいと、モーセは主に念を押したのでした。そしてその後モーセは主に主の栄光を見せて欲しいと改めてお願いしたのです。

 

後にモーセの幕屋が造られたときには、聖所の前の庭には「全焼のいけにえ」を絶やすことなく主にささげる祭壇が設けられました。それが出エジプト記29:42、43に書かれています。下記をご覧下さい。

 

 「これは、主の前、会見の天幕の入り口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの無い全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会い。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」

 

私たち霊のイスラエルこそが、「代々にわたって絶やすことの無い全焼のいけにえ」であると私は解釈できると思います。

 

 

 

私たちのからだが聖い生きた供え物となるには

 

他人の臓器移植を受けると元の人の性質とか嗜好が移植した人に持ち込まれることが多いそうです。英国である中年の女性が、オートバイ事故で死んだ18歳の男性から心臓と肺の臓器移植を受けた所、その女性は突然今迄無かった嗜好としてビールが飲みたくなり、チキンの唐揚げが食べたくなっただけでなく、モーターバイクに乗りたい強い気持ちになったそうです。これら三つの嗜好は彼女自身が持っていた嗜好ではなく、その臓器の持ち主から移植されて受け継いだものであったというのです。つまり、人間の身体はその人の生きた歴史を生物学的に記録するというのです。

 

又、感情がその人の生理機能に大きく影響を与えることは誰しも経験します。恥ずかしいことをしたとか、急に怒り出した人の顔が赤くなることや、恐ろしさに手が震えたり、あるいはストレスが身体に大きな影響を与えることはよく知られています。それだけではありません。ボーン・アゲインして霊的なトランスフォーメーションを経験をした人は、実際に「神がその人に移り住む」変化が起きるそうです。すなわち、「聖霊がその人の人体の細胞に影響を与え」名実共に2コリント5:17に書かれている「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」が生理学的に起こると、生理人体専門学位を持つ神学博士のジェン・クラーク師は指摘します。

その一例として、クリスチャンになれば、キリストから霊的な平安が与えられ(ヨハネ14:27)日常生活でその平安と愛を多く経験しますが、一方で、多くの人は、クリスチャンになった後でも、昔経験したネガティブな感情から来る古傷がトラウマとなって残っています。これらは、その人が過去に経験した感情が細胞の上に記憶として残した人生記録の一部ですが、私たちは、聖霊の臨在によってその傷を完全に癒すことができると、クラーク師は言われます。

 

話しは変わりますが、私が未だ牧会していた頃に「クリスチャンはよい香りと味の沁み込んだ『聖霊漬け』にならねばならない」とよく言っていたことを覚えています。これも量子学的事実として理解できるのではないでしょうか。それを言えば、もう一つあります。

 

それは10年程前にジェシカ・ジョーンズ師という預言者が書いていたことですが、師は「人間が合唱するとき、よい声か悪い声かは別にして、私たちは皆音声を持って歌います。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と共に、私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったもので、この合わさった声が音の振動を作り、それが天にまで届くのです。私たちすべての人は音から創られました。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があります。そして私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。事実、すべてのものは物体ではありますがそれは音(振動)であるのです。そして、すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、その色が一致するとき白い色になります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色でもあります。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。音があなたから発せられ、他の人の音と一緒になって天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百万、何千万という人々の力と一緒になり、天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造の力となっていくのを思い描いてください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか。天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので、言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちているのです。」といわれます。このようにして私たちのからだが神への「聖い生きた供え物になる」ためには、私たちは常に聖霊のご臨在の中で生き、聖霊によって浄められねばなりません。そのことが2コリント3:16−18に書かれています。

 

「人が主に向く(上を見上げる)なら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊(聖霊)です。そして主の御霊があるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

最後に、私たちが「主を見上げて待つ」祈りをする時に経験する最も大事なことといえば、私たちクリスチャンに内在する聖霊の「ご臨在」に出会うことを期待し、それを待ち望むことであると言うことです。すなわち、それは私たちが顔と顔を合わせて主と対面することが霊的に起こることを意味すると私は信じます。それをモーセはシナイ山上での40日間の祈りで経験し、その後下山したとき、彼の顔があまりにも輝いていたので、民がまぶしくて、覆いを掛ける必要があった程でした。私たちもできるだけ多くの時間を割いて主を見上げ、そして聖霊のご臨在に遭遇することが、私たちのからだ全体を主と同じ栄光に輝く主に似た者に変えるのです。それによって、私たちのからだが主への「聖い生きた供え物」となるのではないでしょうか。

 

さて、そこでその「ご臨在の中に入る」のに、どのくらいの時間が掛かるのかと言いますと、グラハム・クック師は普通10−15秒でそうなれるといいます。私の場合はとてもそんなに早くはできません。私がこのコンテンプレイティブ・プレイヤーを始めた頃は祈り始めて一時間も二時間も掛りましたが、今では普通30分以内です。早くそうなれるかなれないかは、どれ程自分が平静で主の平安の中にいるかどうかによります。何かのプレッシャーとか悩み事がある場合はより多くの時間が掛かることを経験しています。それに、普通クリスチャンになれば、聖霊が内在しますが、それだけでは聖霊のご臨在の前に出たことにはなりません。

本物の聖霊の臨在体験とは、例えば、ビル・ジョンソン師が常に願い、命がけで求めて来られた主の栄光に満ち溢れた臨在の体験であると思います。ーそれは、降りて来る「栄光の雲」を待ち望み、その「霊的環境を造ること」にあります。ジョンソン師と彼の教会が主を礼拝する最大の目的がそこにあり、そのような臨在の中でクリスチャンがみな真の礼拝をするとき、癒しはひとりでに起こるといわれます。

しかし、すべての聖霊体験は、クリスチャンがみな、それぞれ個人的に主に飢え乾き、主との顔と顔を合わす交わりに入ることから始まることを忘れないでいただきたいと思います。(終り)


27 06月

神の愛の奥義         ショーン・ボルツ            2017年6月27日


神の愛の奥義

 

ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)

 

もしも神の愛の奥義の見本を見たいのであれば、私たちはイエスを見ればよいのです。御父が世の初めから人びとに対して持っておられた愛の御こころを、イエスほど深く知っていた方はありませんでした。イエスは、当時律法で交わることを禁じられていた人々とも交わりを持たれました。

その中の一人にヨハネ4章のサマリヤの女があります。主は彼女に話しかけて水をくださいと頼みました。そして二人は驚くべき会話を交わし始めたのです。主はその女の人生の詳細を告げたので、彼女は驚嘆しました。

 

ここで私が衝撃を受けることがあります。それは、彼女がそれまで何人もの夫を持ち、何人もの男性と関係したにも拘わらず、主が彼女の中に価値を見出したことです。しかも彼女は現在夫ではない男と住んでいました。その上、彼女はサマリヤ人で、ユダヤ人が言葉を交わすことは律法で禁じられていました。

 

主は時間をさいて話しかけるほどに彼女に価値を見出し、そのような目で彼女を見たのです。主は彼女のよくない行状を明らかにしましたが、その話し方は憐れみと愛に満ちていたので、彼女はイエスを信じ受け入れました。彼女が町にもどって「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいます。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:39−41)と証言したのは、自分が主から裁かれたのではなく、愛されたという確信があったからです。イエスがサマリヤの女にこのように接したことは驚嘆に値します。

 

コロサイ1:15は、イエスを見るならば、神が被造物すべてに対してもともと意図されたかたちを見ることが出来る、と言っています。ですからイエスは実にすばらしい特別な方であることは明らかです。イエスがご自分のまわりの世界をどのように見られるか、どのように取り扱われるかは非常に特別で、それは実に私たちに対するお手本となります。

イエスはまわりの人々を見て、「わたしの父はあなたのために天に家を建てています。」と言われました。神は、神と共にいることを選びとる人々のために、天の家までも既に計画されている愛に満ちたお方なのです。

 

ですから私たちの心の中にはこのような愛の思い、愛の精神がなければなりません。神の愛の奥義はまず私たちの心の中からスタートします。神の愛の奥義は私たちの内にあり、それが私たちと「この地に対する神の元々の目的と計画」とを結びつけるのです。アダムとエバがエデンの園を去ったとき、神は回復の計画をもたれていましたが、その計画はイエスにおいて現実となって現れました。

 

そのご計画は、地上に神の王国を回復することだけにとどまりませんでした。イエスは人類を愛し、私たちをヨハネ10:10にある真実に「そうか、わかった!」と応答する瞬間へと呼び戻し、真に豊かな人生へと招いてくださったのです。それは即ち、神が私たちに与えてくださった元々の目的に生きる人生です。

 

主は何の資格もない弟子たちを、全教会を建て上げていくための土台となる価値がすでに100%あるかのように取り扱われました。主は弟子たちのうちに何か特別なものを見られたのです。他の誰も見なかったものを見られたのです。主は、教養もない平凡な者たちを、特別な愛と信念を持って取り扱うことにより、

リーダーとして建て上げたのです。その結果弟子たちは歴史上最も偉大なリーダーの数に入る者に成長しました。イエスはこのような方でした。そして私たちもそのような者であるべきなのです。それは人びとの内側に金を見出すのです。

 

私たちは「この人は神の御こころの中ではどのような人なのだろうか?」を見なければなりません。「神は世の初めから彼をどのような人として考えておられたのか?」を思い、「彼の誕生日、結婚相手、 選ぶ職業、その人の永遠を見ておられた神は、彼をどのような人として考えておられたのだろうか?」と。

もし神が今地上におられたら、神は彼をどのように見られ、どのように取り扱われただろうか?」と考えてみるのです。

 

ですから預言とは霊の賜物である以前に、私たちが人びとをどのように取り扱うかということを知ることであり、人びとを神の永遠の光に照らして見ることを選び取ることです。

 

ここで一つの経験をお話ししたいと思います。

あるコンベンションのために私はホノルルに行きましたが、ある人が、「ホテルに泊まらずに自分の持っているマンションを是非使ってください」と言ってくれました。一つだけ問題があり、それはマンションがホノルルのいかがわしい場所に隣接していることでした。

 

私は夜の10時頃、よくサンドイッチを買うために街に出ました。ある夜歩いていると、一人の若者が「お兄さん、何か入り用はないかい?」と言って私を止めました。彼はドラッグとか売春のことを言っていたのです。私は「いや、何もいらないよ。サンドイッチを買いに行くところだよ。」と言いました。すると彼は「本当かい?ドラッグはどうだい?」と言うので、私はいらないと答えました。

彼は「女の子はどうだい?」と言って、階段にいる女の子を指差しました。女の子は10代の男の子二人と一緒でした。(その時彼女は16歳でした。)私は「いいや、女の子はいらないけど、彼女とちょっと話をするよ。」と言いました。

 

私は彼女のそばに行き、「一緒にしたいことがあるんだけど..ちょっと変に聞こえるかもしれないけどね..私はクリスチャンで、神様が計画された人生の目的があなたにあると信じているんだよ。あなたは何のために生まれてきたか知ってる?自分がどういう者であるかを知ってる?」と訊きました。彼女は「知らないわ。」と答えました。私は「何をして生きていきたいと思う?」と聞くと、彼女はまた。「知らない。」と言いました。

 

私は「わかった。じゃあ、私の信仰をちょっと借りてみてよ。そして一緒に祈って、私が神様にあなたに代わって質問をするよ、すると神様はきっと答えてくれるよ。いいね?」と言いました。彼女は街の通りで目を閉じることを少しためらいましたが、私のことばに従って私と一緒に目を閉じました。私は「神様、私が生まれる何百万年も前にあなたが私のために考えた人生の目的はなんでしょうか?」と祈りました。

 

すると彼女は「アッ」と声を上げました。彼女はすぐ心に何かを聞いたのです。

それは「あなたはコックになることになっています。」という言葉でした。私は「あなたは料理するのが好きですか?」と尋ねました。彼女は「そう思うわ。」と答えました。私は「すごいね。本当に素晴らしい。あなたが人生に成功することが一つ分かったんだね。何から始めればいいか神様に訊いてみようよ。」と言って、「神様、わかりました。コックになるために2週間のうちに私は何をすればいいのですか?」と祈りました。

すると彼女は又「アッ」と言ったので、一緒にいた若者たちも「何?何?」と訊きました。彼らも興奮してきたのです。彼女は次のように言いました。「私の叔父さんに電話をするように言われたの。私のお母さんと叔父さんはずっと仲違いをしていて、私が家出をしてから家族や親戚に連絡したことは一度もないわ。だから私が叔父さんに電話をしたら、きっと来てもいいって言ってくれると思うの。それに叔父さんはレストランをしているから、私を雇ってくれると思うわ。」

私は「本当にすごいね。これは神様だね。神様はあなたを愛しておられるんだよ。神様はあなたが今の生活から抜け出す計画を与えてくださっているんだ。それはあなたをすごく愛しておられるからなんだよ。叔父さんに電話をすると約束してくれる?」と聞くと、彼女は「ええ。」と答えました。私は私の電話番号を渡して、彼女が叔父さんに今週電話したら、私に報告してくれるように頼みました。

 

 

彼女は翌日叔父さんに電話をしました。叔父さんは熱心なクリスチャンでイエスを愛していました。彼が女の子のお母さんと仲違いをした理由は、お母さんがキリスト教や宗教を非常に嫌っていたからでした。女の子は叔父さん夫婦と住むようになり、レストランで働き始めました。

 

8、9ヶ月経って、彼女が電話をしてきました。「信じられないと思うけどね、叔父さんが新しいレストランを開くことになって、その権利の50%を私に持たせてくれるの!」そしてそれは丁度彼女が復帰した高校から卒業する時でした。

 

神は彼女を街から信仰へと救い出して下さっただけではなく、神がご計画された召しへと導いて下さったのです。私たちは、たとえ召された道からはずれたとしても、神は私たちが相続を取り戻す機会をいつも待ち望んでおられます。ご自分の愛と人生の元々の目的を私たちに話したいと、うずうずしておられるのです。

 

私たちが人のために神の声を聞くことを学ぶならば、たとえそれが預言の言葉にならなくてもよいのです。ホノルルの女の子は自分で神から聞いたのです。神は、私たちが人びとを見るときに彼らの持つ真の価値を見るように教えたいと願っておられるのです。女の子は街の売春婦に堕ちていったかもしれませんでした。しかし神は違う道に導いて下さいました。

 

皆さん、イエスがこの世に来られたのは、御父が初めに夢見られた豊かな人生を私たちに与えるためです。それはヨハネ3:16に書かれています。そして3:17にあるように、神はこの世がどれほど悪いかを指摘し糾弾するためではなく、この世を助け、回復させるためにイエスを送られたのです。

 

今、あなたの人生を考えてください。神との関係において真の自分として生きていない部分があるかもしれません。自分をまだ神の御こころに照らし合わせては見ていないかもしれません。神はあなたを神の元々の計画と目的に回復させるためにイエスを送られたのです。

 

多くの人は私に「もうあまりにも離れ過ぎてしまいました」とか、「もうそんな時間はありません」とか、「もう年寄り過ぎます」とか、「もう機会を失いました」とか言います。「神の元々の計画と目的に回復できる道など本当にあるのでしょうか?」と訝しく思うのです。

でも真実はこれです。イエスはご自分が召された課題すべてを遂行するのに3年半しかかからなかったのです。もしあなたの人生に3年半が残されているならば、あなたには十分な時間があるのです。今これを見ている人のほとんどが「まさにこれは自分のことだ」と感じていると思います。神の御こころの中にはあなたへの愛があり、そこから神の恵みがあなたに注がれ、その恵みはあなたを変える力があるのです。そしてその恵みは神があなたに最初に願った姿へとあなたを変えて行くのです。

 

キリスト教は、あなたが麻薬中毒者であったとしても、回心すれば神にあって完全に充実した豊かな人生を送ることを可能にする唯一の宗教です。私は全くどうしようもないような過去をもつビジネスマンたちに出会って来ました。

彼らの人生は回心により突然変革され、彼らの人生から神ご自身が輝き出るようになったのです。

 

第一コリント1:26〜31は私の好きな箇所の一つですが、私たちの持つ資格について書かれています。神があなたを選んだのは、あなたが最も優れているとか、最も偉大であるとか、よい家柄であるとかいう理由ではありませんでした。神はこの世の強い者たちを辱めるために、最も弱い者たちを選ばれたのです。

 

 マタイ5:14にあるように、神はあなたを一番高い丘に置いてそこで輝かせたいのです。それはあなたが現在どこにいるかは問題ではありません。この聖書箇所は、イエスが全く何の資格もない者たちに向かって話しているところです。イエスは、彼らが神の愛の中で成長して行き、神が元々計画されていた姿になるようにされました。イエスは彼らが既に御父が当初からご計画された者であるかのように、取り扱われたのです。これが神の愛の奥義です。弟子たちは、神が計画されていた「なるべき姿そのもの」になったのです。

 

私たちクリスチャンもこのようでなければなりません。私たちは御父のこころの中にある偉大なる愛の奥義に従って、お互いを「イエスにふさわしい者」として取り扱わねばなりません。私たちは皆、イエスが十字架で支払ったすべての代価に値するふさわしい者だからです。そしてお互いをそのように取り扱うとき、それは即、預言となるのです。なぜならば、それは人をアップグレイドされた姿で見て、お互いを人生のゴールで、手にトロフィーを持った姿で見るからです。

 

私たちは互いの資格が今よりもずっとあるかのごとく振る舞いはじめます。今の姿と未来の姿とのギャップは、信仰で埋めるのです。未来の姿にふさわしい者としてお互いを取り扱うならば、私たちはイエスの御名を高く上げることになります。なぜならば、それによって私たちは神がリアルなお方であり、神の愛がすばらしいことを世に現すことができるからです。(終り)


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