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Walk With God Ministries

17 01月

ニューヨークの私たちの家の証   坂  達 也       2018年1月17日


ニューヨークの私たちの家の証

 

                 坂  達 也

 

 先週末に待ちに待った引越し荷物が着きました。私たちの新居には運送会社の人たちによって二日掛かりで、それぞれの部屋に荷物が運び込まれました。特に前より狭いスペースの私の書斎兼マスターベッドルームは足の置き場も無い程荷物が溢れ、その整理に追われて数日間は何も手に着かず、ついに、皆様への毎週のメッセージを日本の火曜日までにお届けすることができませんでした。

 

 問題の一つは、ばらばらに分解されて来た本棚を元通りに組み立てるのに丸三日も掛ったことです。この本箱は北欧の Ikea 製で、釘類は一切使わず実に巧妙に設計された do it yourself の製品です。分かり易い説明書がついており、器用な人なら恐らく3時間以内に完成しているでしょう。ところが私は前に一度経験しているからという安易で増長した心構えがわざわいして、忠実に説明書通りにやったつもりが二三の手抜きをしていることが判明したのです。それは二日目の夜になって、見るに見かねた家内が説明書と照らし合わせた結果、私が大きな間違いをしていたことを発見しました。そこで翌日もう一度最初から見直し、一、二カ所にねじ釘を使いましたが、やっと何とか使い物になる程度に出来上がりました。

 実はここに至る迄、私は何度も主におうかがいし、主が正しいやり方を示して下さることを期待したのですが、主は何もおっしゃらないのです。それが分かるのは、そのお願いをした直ぐ後にまた別の間違いを起こしているからです。そこで改めて主を見上げてみますと、確かに主は私の側におられ、微笑みをもって私を優しく眺めておられるのが分かるのです。私はなぜ主は何もされずに見ておられるのですかと聞きましたが、主は無言でした。しかし私には平安がありました。

 

 そうしている間に私は、年の所為で自分の頭がこれ程迄に著しく融通が利かなくなり、若い頃と比べれば比べものにならない程「激しい能力低下」に陥っていることに嘆くと言うより、むしろ大きな驚きを覚えました。そして実際に何もなさらない主を見上げて、その「何もされない」ことこそが主の御心であり、私のためであることが分かり始めました。

 

 それで主が私に分からせて下さったことは、私が自分の「年相応に衰えていく」ことを主は許しておられる。それも霊的成熟に貢献するためのプロセスであるということでした。確かに人間は年とともに生まれ持った能力は衰えて行きます。しかし、そのようにすべてが衰えるように造られたのは主です。

 しかしながら私たちはクリスチャンとして往々に、万能な主は私たちを若返らせて下さったり、スーパー能力とか奇跡を起こして下さると期待しがちです。確かに主はすべてが可能なお方で、時に必要な際にそのような奇跡を起こさせて下さいます。しかし年を取って衰える過程での私たちには、若い時にはできない、より重要な「霊的成熟の完成」に向かっての「老成した者の若い世代への配慮・注意深さ」とか「円熟さとその知恵」を学ばせるという、より重要な成熟のご計画を持っておられることがよく分かりました。それは人間に「父の愛」を真に学ばせ、私たちが神の家族となる大きな目的があるからであると思います。

 

 従って今回神が「私たちの書籍を入れる本棚」に3日も掛けさせたことは、実際に私に対して「衰えた自分」こそが現実の姿であり、この際それを先ずリアリティーとして甘受すべきであること、その上でそこから必要な知恵をへりくだって学び、周りの人々(特に家族)への対応と見方を年老いた者にふさわしい「老いては子に従いつつ、教えるべきことを行動で示して行く」ことこそ「霊的成熟」に最も必要な「心構え」であることを学ばせるのが主のご計画であったと悟った次第です。

 就いては次のみ言葉を今回学ぶことができました。それは2コリント4:15−17「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。ですから私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は私たちの内に働いて、計り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」

 

 ところで私たち夫婦は、当初、こちらでは「息子家族の近くで別々の家に住む」予定でした。そして私たちがこちらに到着後そのようなコープ Co-OP/コンドを探し始めると、直ちに息子夫婦の買った家の近くに、とてもよい物件が見つかったのです。しかし主のご計画は違っておりました。主は私たちが今回カリフォルニアの家を売った入金を含む財産のほぼ全額を息子夫婦の家のホームローンに投入し、その息子夫婦の家を全額借金なしで買い取らせたばかりでなく、余剰のお金をその古い家の改良資金として息子夫婦に持たせて下さったのです。

 

 そこで、実はこのことで主は私たちへの約束を守って下さったことをお分ちします。その約束とは、私たちがまだハワイに住んでいた頃ですが、私たちは「これからの一生を借金なしで、すべての必要を主にお委ねする」ことを願い出ました。主に全面的に委ねた者が他人から借金して買い物をする訳にはゆきません。その申し出を主は受け入れて下さり、それ以来私たちは家も車も、すべてローン無し、クレジットカードも毎月全額返済できる経済的祝福を主からいただいており、すべてを主に頼る生活を続けて参りました。

 従って将来ではなく今から息子夫婦の家族と同居する形を取らせ、その家も無借金で手に入るようにさせて下さったのです。気が付いてみますと、私たちへの約束を、主は今回も忠実に果たされ守られる結果となったことに対し、私たちは唯唯主を畏れ敬い、「全面的に主に頼ることのすばらしさと尊さ」を証しする機会を与えられて、主への信仰が益々深まったのでした。

 

 加えて申し上げれば、勿論私たち老夫婦は、将来いずれ、二人の孫もいる息子夫婦の世話になることが密かな願いでありましたので、主は私たち家族三代がこの地で共に住むことを喜んでおられることを確信し、それを実現させるのは家内と共に、老いた私自身が、息子家族に対しクリスチャンとしての愛を示す大きな責任があることを今回の本箱組み立てを通してのメッセージであるとを改めて感じた次第です。

 どうぞ私たちの家族のー上に息子夫婦の家族、下の階(半地下)に私たち夫婦が住むーというこれからの生活が、名実共に子どもたちがそれを喜び望むようになり、主の御名をたたえるクリスチャンの名に恥じない神の家族となれますようお祈りください。よろしくお願い申し上げます。(終り)

 


09 01月

新年に神が望んでおられることは私たちが「主と共に歩む」こと     坂  達 也


新年に神が望んでおられることは

        私たちが「主と共に歩む」こと

 

                  坂  達 也 

 

 

 新しい年に入って一週間が過ぎました。この間、前代未聞の猛吹雪と零下18度という極寒を体験しました。そして入居した家の下水がつまっていて、地下のシャワー室の下水口からトイレの汚水が逆噴するという緊急事態になりました。しかし極寒時に主は下水の詰りを修復するプラマーを直ちに送って下さいました。また、昨日は私たちの新居に待ちに待ったインターネットが入りました。

 

さて主が今、私たちクリスチャンのしていることのすべてを、改めて根本から見直すように仕向けておられることを、先週に引き続き、改めてひしひしと感じていることをお伝えします。それは、すべてのクリスチャンが今迄にして来たことが「人間業による偽物(フェイク)」であること、それを「霊的な本物」に取り替え改革するプロセスが急がれていることの証拠であるように思えます。

しかもそれは何一つ新しい考えによるものではありません。すべて初めから聖書に書かれていることの元々の意味に立ち返ることであり、そのためには先ず、私たちが長い間に少しずつではあってもどれ程大きくずれ落ちて「人間的になってしまっているか」に気が付く必要があります。

 

そこで申し上げられることは、神は「今の私たちクリスチャンがフェイクであること」を、最高の聖人君子のようなクリスチャンに言わせるのではなく、こともあろうにトランプ大統領のような、過去に多くの罪を犯し、無数の傷を持ち、言うことなすことがどう見ても「一見フェイクに見え、最もクリスチャンらしからぬ毒舌家」を立てて「フェイク暴露」に挑戦されたことです。しかもその真実を、最もフェイク・クリスチャンの多いアメリカで、全く腹の立つような方法で暴き出させたのですから、この世の中、今では世界中がおもちゃ箱をひっくり返したような喧々囂々の大騒ぎとなりました。しかしよくよく考えてみれば、そのこと自体が神でなければ絶対にできないことではないでしょうか。

トランプ大統領は恐らく世界有数の罪人のチャンピオンであったとしても、その彼は、そのことを神の御前で悔い改めました。そして、見せかけは最もまずい「よちよち歩きのベービークリスチャン」であるかもしれない彼が、その前の三代の大統領が国の立法府が承認しているにもかかわらず「エルサレムにイスラエルへの大使館を移す」という「世界で最も正しい、すべきこと」を実行できなかったことを自分はすると世界に向かって宣言したのです。クリスチャンとは正しいことを正しいと言い、それを愛をもって実行する勇気を持たねばならないことを、私たちはトランプ大統領から学ばねばならないと思います。

それを言えば、聖書の中で最も影響力のある人物とか王で、この人こそ「聖人君子」であると言える人が一人でもいるでしょうか。アブラハムにしてもダビデ王、またソロモン王にしても皆キズものの人間ばかりです。それ自体、神が聖書を通して「真の人間の正体」を暴露しているという厳粛な事実であるのです。

 

そこで「私たちがクリスチャンである」ことを最も端的に表す尺度が何であるかを考えてみたいと思います。私はそれは、クリスチャンにとって最も重要な行為である「祈り」がどのようになされているか、ひいてはその祈りが聞かれているかどうかーにあると信じます。私たちと神との間でなされる「祈り」とは「親しい会話であり」その「祈りの関係」の実態が、クリスチャンたる私たちと神なる父との関係を如実に表していると思うからです。真のクリスチャンとは、神と最も親しい親密な(人間)関係に入っているか、否かが真っ先に問われます。

就いては、その「私たちの祈り」について、カンサス州にある IHOPに所属するサムエル・ウィットフィールド師が最近書いた下記のメッセージを先ずご紹介させていただきます。

 

祈りの真の秘訣    サムエル・ウィットフィールド師

 

ルカ11:1−4にこのように書かれています。

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終ると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときは、こう言いなさい。父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 

このルカ11章において、私たちは、イエスと弟子たちの間の親しい会話の様子を垣間見ることができます。イエスが祈っていた時、弟子たちはイエスと御父との会話に感銘を受け、祈り方を教えてくださいと頼んだのです。彼らへのイエスの答えは驚くべきものでした。

イエスは弟子たちの願いにやさしく応答し始めました。主は、ご自分の御父への祈りの生活は、自分が御子である故に「わたしに特有なもの」と簡単率直に答えることもできました。又、彼らの弱さ、罪、未熟さの故に自分のように御父との親密な関係はとても持つ事はできない、と言うことも出来たでしょう。しかし主は弟子を叱責したり、御父と弟子たちの関係は「そんなに親密ではない」などとは言わずに、シンプルで深い祈り方をやさしく彼らに教えたのです。

 

その祈りの初めの部分は、私たちが どのような期待をもって祈り始めればよいかを示しています。

 

ルカ11:2

そこでイエスは彼らに言われました。「祈るときはこう言いなさい。『父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように』」と。

ここで主がいわれた言葉ですが 、私たちはこの「主の祈り」に実はあまりにも慣れ親しんでいるので、ついその重みを十分に理解しないまま通り越してしまい勝ちです。しかし主は、神に近づく時は、私たちも主と同じようにしなさいと教えてくださったのです。即ち、正しく祈るためには、神の御前で私たちはイエスと同じ「確信」をもって祈らねばならないということです。

 

祈りを学びたい時、私たちは祈り方に関していろいろな方法や教えを見つけようとします。どのような言葉を使えばよいのか、何をどのように祈ればよいのかと、正しく祈るためのフォーミュラ(法式とか定則)を必死で得ようとします。しかしイエスはそのようには始められませんでした。イエスは「関係」から始められました。祈りで用いる言葉や内容よりも、 祈る相手に 「確信」を持つことの方が余程重要であることを、イエスは知っておられたからです。

ほとんどの人は正しい祈りの方式とか型を見つけ出そうとしています。しかしイエスは、そのような態度で祈りに近づいてはならないと警告しておられるのです。

マタイ6:7−8

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈りは「正しい言葉使いとか、その言い回しの決まり文句を唱える」ことから始めなければならないのではなく、「祈る相手に対する親しい関係を表す確信」から始めることが重要であるのです。神を、真に愛に溢れる善き父として見上げるならば、それは私たちの祈り方を革新的に変えます。私たちの祈りは心からの、正直なものとなり、なんでも包み隠さず言うようになる、そうして初めて、御父との親しい信頼関係を土台にした祈りとなるのです。

すなわち祈りは、華麗な言葉を用いたり正しい方式で祈るから聞かれるのではありません。神が私たちの父であるから聞かれるのです。

私たちが用いてもよい祈りの助けとなるものがあります。例えば、御ことばを祈るとか祈りのリストとかです。しかし、祈りは先ず御父との親しい関係に対する確信から始めねばなりません。そうでないと、祈りの言葉はただの空しい儀式になってしまいます。イエスはご自分と同じ親しさをもって神に近づくようにと、私たちに教えてくださったのです。

 

もしあなたがイエスなら、祈るときどのように御父に近づきますか。私たちもそれと同じように御父に近づき祈るべきです。あなたが今度祈るとき、イエスが父に対して持っておられるのと同じ確信を持って御父に近づいてください。祈りに関するいろいろな教えは確かに助けになります。しかし、実にこれこそが生き生きとした祈りの生活の始まりとなる、ならねばならないのです。(以上師のメッセージ終り)

 

神との親しい関係

 

上記のメッセージは当然といえば当然なことを言っているに過ぎないー単なる理屈だと思ってはならないと思います。この方が言わんとしていることは、私たちクリスチャンと神なる御父との関係が、本当にすべてを委ねて頼り切っている幼児とやさしい愛に溢れる父親(母親)との間にあるような「信頼関係」になっているかどうかが問われていると思います。

 

そこで私は今回の私たち夫婦が再びニューヨークの家族の元に移り住むために費やした2017年と今年に入っての約一年間の経験を通して私が学んだことを少しお分ちさせていただきます。

それはカリフォルニアに住んでいた約三年半は、落ち着いたクリスチャン生活を送ることに務め、何もない日はほとんど毎夜、夫婦で主の前に出て少なくとも30分から1時間余の時間を祈りに費やしました。そして私が前にも何度も申し上げて来たように、最後にマタイによる「主の祈り」をもって夫婦の祈りを終わるようにして来ました。勿論私たちは、それ以外にもそれぞれ示された時とか必要に応じて、異言を含む色々な形の祈りを毎日して来ました。しかしそれはほとんどの場合、家の中で時間を取ってのお祈りでした。ところが私たちの住まいを売りに出した後の手直し、売却、その後の引っ越し、そしてこちらに着いた後の古くて問題だらけの(それを見越して安く入手した)新しい住まいでの改修工事を始めたばかりですが、この間の年末年始の2−3ヶ月は、いつも家でしていた定番的「祈りのパターン」とか、型にはまった「祈りこみ」ができなくなりました。実はそれによって「祈りが足りないのではないか」という一抹の不安と、それでは「祈りは聞かれない?」という恐れを私が持ったことは否めない事実でした。

 

ところが実際に経験したことは、ほとんど未知の土地で、予測できない行動を必要とする多忙な生活を過ごす時に、逆に主からのとっさの「祈りの指示」がぱっぱっと聞こえてくる、そしてそれを祈ると、火急の場を救うための見知らぬ適任者が現れて適時に事態が処理されるのです。つまり主は私に祈らせ、即時に実行させるーこうした主との祈りの会話で話しが進転するーすべてを主が手配し、私はそれに従って行動しているだけーーという毎日を経験しました。そしてハタと納得したのは「そうだ、これが主と共に歩くことだ」という実感でした。

 ここで毎日を主と共に歩くこととは、歩いていても電車に乗っていても常に主に話しかけ、質問する、あるいは喜びと感謝を気軽に伝え、分かち合うことであると思います。親しい友人になることです。これが自然に身に付けば、一日中何をしていても、あるいは寝ていてさえ主は話しかけてくれるようになり、気軽に何でも答えてくれてどんどん指示が来るようになる、それが私の目標で、その味を今少し経験しております。

 

 

 もう一つの例を挙げます。実は、私は息子が取得した新しい家を訪ねた最初の日にその地を「祈りの歩行」するつもりでしたが、その時は紛れて忘れていました。そして住み始めて2、3日経った時、この買った古い家が予想していた以上に問題だらけであることから、私が息子と打ち合わせ中に、突然恥ずかしいことに感情任せに私がつい声を荒げて息子にどなってしまったのです。(息子をどなったのは何十年ぶりでした。)その時、祈りの歩行をしていないことに気付きはっとし、慌てて私のたちの宅地と数件の隣家との境界線を祈って歩きました。そして私は、主の臨在が戻って来て、息子を怒鳴るという全く恥ずかしい未熟な行為を悔い改めました。その後息子との関係は、すぐいつもの親しい良い関係にもどり、事はうまく進んでおります。

私はクリスチャンとして成熟することへの努力を私なりに努力して来たつもりでしたが、それが少しでも宗教的行為である限り、頭での努力だけでは真の「主との親密な関係」はでき難いことを改めて経験させられました。しかしその一方で私がやってきた「主を見上げて待つ」祈りとか、夫婦での主との交わる習慣、特に「主の祈り」を心から唱えることは、主との親密さを増すことに貢献していることを改めて感じている次第です。

 

最後に、上記のルカによる主の祈りの最後のところは、マタイ6:13によれば「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン)」となっております。それはその前にルカ伝でもマタイ伝でも書かれている「御国が来ますように。」につながっていると私は思います。

それは主をお迎えする前に、私たちがこの世を御国にする責任を主からいただいていることを真に自覚し、終末の最後の時代に生かされて、「主とともに歩みつつ」その責任を果たすことを主が期待しておられるのが「主の祈り」の意味であることに改めて気が付かされました。(終り)


03 01月

人生における障害物は私たちの愛の容量を最大にする エリザベス・エンロウ   2018年1月3日


 

2018年を迎えて      坂  達 也

 

皆様明けましておめでとうございます。いよいよ「ニュービギニング」への突入ですね。

 新年最初に私の心に浮かんだみ言葉は2テモテ3章でした。それは私たちクリスチャンこそが、2テモテ3:5にある「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」になり、そして7節で「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち」になり果てていることでした。そして「そうなってしまっている状態からいよいよ真に脱皮する年であるという強い思いをいただきました。

 すなわち形だけのクリスチャンであること、これを現代風にいい直せば、フェイク・クリスチャンを止めて本物の信仰を持つ信者になれということではないでしょうか。2017年はこの世の中のあらゆる面で「フェイク」な者たちを浮き彫りに暴露して、主はそのような人を私たちへの戒めとして暴かれ始めました。

 

 しかし、それはまさに、パウロが上記の3章1節で「終りの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」といった警告とマッチします。

 そこで本日は下記のメッセージをご紹介し、新年に神が、私たちクリスチャン一人ひとりのために特別に用意される「困難」「試練」にどのように対処してゆけばよいか、それが私たちを「本物」にする、その神の奥義の一端を学んでいただければ幸いです。

 

 

人生における障害物は私たちの愛の容量を最大にする

 

エリザベス・エンロウ

 

私たちの魂が出会う様々なシーズンは厳しい時もありますが、もしそこに神を見出すならば、私たちのうちに何かを生みだすユニークで良いものとなります。夏の日々は暑すぎますし、冬は寒すぎます。季節はそれぞれに素晴らしいところもありますが、またそれなりの試煉や問題があります。それは何故でしょうか。この質問に答えるために夫の言葉を引用したいと思います。

「人生は障害物競走であり、あなたの愛の力を最大限にするために神によってデザインされたものです。」

 

第一のポイント

人生は障害物競走です。人生は楽であるようには作られていません!

ある走者がこれは短距離レースだと思って走りだしたら、実際はハードル・レースを走っていたとしたらどうでしょうか。彼はただ速く走ればいいと思っていたので、ハードルに出会う度に邪魔な物があると感じ、驚き、ショックを受け、いらいらすることでしょう。しかしもし彼がハードル競走のために訓練を積んでいて、ハードルが或る事を予測していたならば、このレースに勝利するために訓練してきたのですから、ハードルを飛び越えることを楽しみながら走ることでしょう。

障害物競走でも同じことが言えます。多くの者がそのために訓練し、障害物が現れるのを予期してそのチャレンジを楽しむのです。障害物競走のコースに置かれた障害物は、それを征服して勝利することがポイントです。人生のシーズンは困難も多いですが、私たちがそれを克服して勝利者になることを教えるという大きな目的を持っています。ですから障害物に出会ったとき不平を言って走るのを止め、疲れて動けなくならないようにしてください。どうか走り続けてください!

 

第二のポイント

あなたが今走っているコースは、あなたのために神によって特別にデザインされたものです。それが苦痛を伴うものであれば、あなたは落胆してしまいそうになるでしょう。苦痛は混乱をもたらし、他のどんなものよりも惑わしへの扉を開いてしまいます。しかしその反面、苦痛は真理を明らかにする力があり、私たちがそのようにとるならば、人生の最高のギフトを与えてくれることもできるのです。苦痛の源は神ではありません。しかし苦痛を止められるのは神しかなく、もし神が止めてくださらなければ、それは私たちが絶望へと転がり落ちる坂道への 戸を開くことになるかもしれません。

 

 

希望の本質は、神が自分には善いことをしてくださるお方であると信じて期待する能力です。希望を失うと、私たちが物事を受けるフィルターが損なわれます。そして自分に対する神の真の御思いが見えなくなり、神に対する悪評を拡大する者として敵に用いられてしまうことにもなりかねません。それだけはしたくありませんね。ですから時として神が非常に苦痛の大きい障害物競走をあなたにデザインしたとしても、それは神があなたの苦痛に無関心であるとか、そこにずっと留まるようにと言っているのではありません。とにかく走り続けてください!

 

第三のポイント

障害物競走の持つ目的は、あなたの愛の力を最大限にのばすことです。即ち、自分がどれほど深く愛されているかを知る能力を最大限にすると共に、自分が受けたその愛を人に与えていく能力を最大限に大きくすることです。自分がそのような愛の能力において成長しているのを見るとき、与えられた障害物競走の困難なシーズンを正しく受け取り、通過するのに成功したことが分かるでしょう。

 

愛よりも大いなる勝利はありません。それは私たちではなく神が定義する「愛」のことです。即ち、寛容で、親切であり、人をねたまず、自慢せず、高慢ではなく、礼儀正しく、利己的でなく、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、、、そのような愛です。そして「愛は決して絶える(fail 止む、失敗する)ことがない」のですから、障害を乗り越えて勝利するとき、あなたはこの神の愛を学んだのです。

 

即ち、神の愛はあまりにも完全であるので、私たち自自身の内からは決して出て来ません。あなたの周りのすべての人が「神はあなたを愛していない」とか「神は信頼できない」と言ってあなたを説き伏せようとします。しかし、あなたの痛みや「楽になりたい」という願望を越えた神の優しさを聞き、神の愛にあなたの心の的を射ていただくならば、人に分け与えることができるほどに豊かに神に愛を受けとることができるのです。

 

ヘブル12:1は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と言っています。

実際の試合の時、 優秀なスポーツマンならば誰でも基本に戻り集中することが大切です。私たちも人生の障害物レースを走るとき、「忍耐し続ける愛」という基本に戻らねばなりません。神を十分に愛してください。自分を十分に愛してください。人々を十分に愛してください。そして走り続けてください!(終り)


26 12月

主が私たちに期待される2018年  坂  達 也           2017年12月26日


主が私たちに期待される2018年

 

                  坂  達  也

 

 皆様にとって2017年はどんな年でしたでしょうか。多くの人が厳しいところを通された「戦いの年」であったといわれます。私にとっては一にも二にも「待つ」ことを学ばされた忍耐の年でした。丁度一年前、私たちの息子家族がニューヨークに移ることが決定し、そうであれば私たち夫婦もその後を追うことが主の御心であることと確信し、息子家族が一月末に引っ越したので、早ければこの春には移動と思い立ったのですが、その実現が遅れに遅れ、とうとう一年後の年末になってしまいました。そしてこの十二月八日に、三年半ぶりにニューヨークに戻って参りました。そして今新しい住まいへの入居準備に追われておりますが、やっと「忍耐と信仰に立って待つ」年を終えて、主が具えられた新しい道を主と共に、より一層の信仰で歩む期待に胸を膨らませつつ新年を迎えようとしております。

 

 新しい年とは新しい出発 new beginning です。皆様は新年の門出に当り、どのような期待と決意をもってこの新しい門をくぐられようとしておられるのでしょうか。

 ユダヤ暦では,去る9月20日夕刻より既に、ロシュ・ハシャーナ5778年という新しい年に入っております。この新しい年は「新しい門」(あるいはドアー)をくぐる年であると、テキサス州にあるGlory of Zion International 教会のチャック・ピアース師は言われました。

 師は、昨年5777年(2017年)は剣の年であり、その年を通じて(あるいは始まりとして)主は古い組織を切り捨て、新年には私たちに新たなアイデンティテーを解き放つゆえ、今こそ強さと力を象徴する剣を手に、身に武具をまとって約束の地に出て行きなさい、5778年はその新しいドアー(門)に大胆に入って行く年である、と言われました。

 

  その後しばらく経った昨年11月末に、私はたまたま敬愛するポール・キース・デイビス師のビデオメッセージを聞いたのですが、師が昨夏に見た幻ー幼虫がさなぎとなり、時が来るとその殻を破って空中に舞い上がる姿ーの話をされました。彼は幻の中で一つの殻が破れて中から複数の人間が空中に舞い上がる幻を見たのです。彼はその幻を見た時、今こそクリスチャンが霊的に「トランスフォーメーション」されて天に舞い上がる時が来たことをはっきりと主から示されたそうです。そして天に向かって舞い上がったのは「神の息子・娘たち Huios 」であるとデイビス師は宣言しました。

 

 私はその話を聞いたとたんに、黙示録12章5節に書かれている次のくだりを思い浮かべました。「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖を持って、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」

 私はこの5節に出て来る「男の子 a man child」とは誰かという疑問を、実は、30年前から持っていました。ですからデイビス師の見た幻は、もしかして、黙示録に出て来る「男の子」が神のみもとである天の御座に引き上げられることを指すのではないかととっさに気が付き、はっとしたのです。

 ここでご参考迄に下記に黙示録一12章の最初の12節をご紹介します。

 

「巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

 また、別のしるしが天に現れた。みよ。大きな赤い竜である。・・・・その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

 (5節)女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖を持って、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。・・・さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

 こうして、この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は(地上に)投げ落とされた。・・・そのとき私は天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。11節)兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち、喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示録一二:一から一二)

 

 5節の初めに出て来る「女」とは、「十二の星(部族)の冠をかぶる」イスラエルを指すといわれていますが、私はその解釈でよいと思います。但し私たちクリスチャンは「霊のイスラエル」ともいわれるので、ここの場合は、全クリスチャンを指す「主の教会」と私は解釈しています。そして「男の子 a man child」は通常イエス・キリストを指すといわれ、これも問題ないと思います。但し、この場合私は、イエスご自身よりも、主と共に世界の国々を牧する真にキリストに似た者となった神の子(息子・娘)と解釈したいのです。

 そして「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」ですが、その神の子(息子・娘)たちは、今は天の右座におられる主に属する者として、たとえ肉的には天に「携挙」されなくても、既に心と霊は完全に主とつながった人たちです。(霊と幻で天に行き来するクリスチャンは既に大勢いることもご考慮下さい。)聖書によれば、私たちクリスチャンとは主(聖霊)が私たちの内に住み、私たちは「霊的に」天の父の右座に主と共に既に住んでいるはずです。そのことはヨハネ17:14ー26に書かれています。また、ロマ書8章をもご参照ください。

 そこで私は早速デイビス師にメールで、主が今こそ Huios を熱望しておられるという師のメッセージに感謝の意を伝えると共に、黙示録一二章への私の疑問をお分ちし、その疑問に師が答えを下さったことを感謝しました。すると師は数日後にそれに対する確認と励ましの返事を下さいました。

 

 私は思ったのです。今年5778/2018年は、剣、すなわち「鉄の杖」を持ち「Huios  神の息子・娘」という新たなアイデンテイテー をいただいて「霊的に成熟した真のクリスチャン」になる、すなわち、その人たちとは主が帰って来られる前に地上で整えられ、真に御国の王に仕える「すべての国々の民を牧するはずの者」以外の何ものでもないのではないか。ーーそれは黙示録14:4に書かれている「女に汚されたことの無い童貞ー彼らは小羊行く所にはどこにでもついて行く、神および小羊にささげられるべく、人々の中から購われた初穂」であり、又、真の「キリストの弟子たち」であるーということに気が付いたのです。この「男の子」こそ主と共に世界の国々を牧する「主に選ばれた人たち」であり、このことがマタイ書の最後に書かれている「大宣教命令」の意味であるのですから、そのことをもう一度皆様ご自身でお確かめください。(マタイ28:18ー20)

 尚、一節に出て来る「巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」 とは、千年に一度現れるか現れないかと言う、天空に現れる星座/惑星/太陽/月の配列現象であるといわれます。そしてこの現象が、たまたま2017年9月23日、すなわち五七七八年ロシュハシャナ新年を迎える時期に起こったと言うのですから実に驚きです。

 

 ここでお断りしておきますが、私は上記のような聖書箇所を持ち出しましたが、それによって世の終わりの神学をこの紙面で論じるつもりでは全くないことです。なぜなら聖書を含む霊の世界では、この世的「時間と空間」の観念とは違い、時が前後交錯して書かれていたり、又、聖書のことばの解釈は二通りにも三通りにもできる、あるいは当てはめられるとしても問題ないと信じるからです。従って別の解釈とかお考えを持たれる方はどうぞ私のいうことをお聞き流しくださるようお願い致します。

 

「Huios  神の息子・娘」とは永久に仕える「主の奴隷」

 

 数年前に天に召されたウエード・テーラー師は、ある時、自分は「永久に主に仕える奴隷 bond servant になるコミットメントをしたいと決意し、教会の講壇の端を「戸口の柱」として自分の耳をあて主に突き刺してくださるように願ったそうです。(出エジプト記21:5−6参照ください)ご存知の通り、市場で売買されるイスラエル人の奴隷たちは、六年働いた後、七年目のヨベルの年には解放されました。しかし、もしその家の奴隷であることを自らが選ぶならば、彼らは耳を戸口の柱につけてきりで刺して通され穴をあけられました。それは彼らが永久にその家の主人に仕える奴隷となる儀式でした。これはクリスチャンが「主なる神に永久に仕える」という型を示したものです。そして、耳に穴を開けられることの意味は「主の御声を聞く」ことが、永遠に主にだけ仕える絶対の前提条件であることを示しています。

 「Huios 神の息子・娘」とは、自ら進んで自分の人生に対する一切の権利を無条件で主に明け渡し、自分の人生を全て主に委ねる「愛で仕える主の奴隷」になる決意をしたクリスチャンです。キリストともに死に、キリストと共によみがえり、神と一体となって「主と共に歩む永遠の命」を生きるクリスチャンです。そのような「神の子」になりきった者は、主が必要なもの一切をその人のために用意されるだけでなく、永遠に最高の人生を生きさせて下さるのです。残念ながら、今の時代のクリスチャンはそのことを知識として知ってはいても、それこそが神からのこの上ない福音であると心から信じ、その決意で生きてはいません。第一、奴隷などという言葉は古い観念で禁句であるとおしかりを受けることを覚悟でこれを書いております。

 

 しかし聖書で神は、すべてのクリスチャンがそうなることを望んでおられると私は信じます。残念なことに、それを実行する人はほとんどいませんし、それを考えること自体が古いといわれるでしょう。その生き方を選んだ人は、むしろ、「主に選ばれた人」の生き方ではないかとさえ私は思います。

 主がこの世に再臨される前の最後の「御国建設」の時代に絶対に必要な「器」「忠実な主のしもべ」「真のキリストの弟子」として用いられる人のことを指すのではないでしょうか。これこそマタイによる福音書の最後に書かれている、普通「大宣教命令」といわれるクリスチャンであると信じます。

 

 主のシェカイナの栄光が真昼の太陽のように輝き出る迄、主は試煉を与えてそのような「神の子たち」を訓練し、私たちの中の不純物を取り去られます。今がまさにそのときではないでしょうか。

 今、私たちは主の栄光が現れる終末の時に入ろうとしています。皆さん、新しい年の門出の門で、耳にキリで穴をあけられ、殻を破って天に舞い上がる蝶となる決意をしようではありませんか。

 

世界は激しく揺すぶられている

 

 世界は今大変な混乱・混迷の状態にあることを否む人はいないと思います。一言でいえば、それはヘブル人の手紙12:26ー27に「・・・『わたしは、もう一度地だけではなく、天をも揺り動かす。』このもう一度という言葉は、決して揺り動かされることがない(霊的な)ものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。」と書かれているように、すべての被造物が激しく震われています。先ず、世界中の天と地が揺り動かされています。前代未聞の猛烈な嵐とか、干害、地震、火山噴火、それによる飢饉、風水害による天災のみならず、人災も戦争とテロ、民族は民族に、国は国に敵対し、迫害、その他の破壊行為は激しさを増す一方です。

 これはまさに、すべての隠れた罪を神は今一気に明るみに震い出す御計画であるように見えます。それはあたかも創造者の神が、人間の犯して来た罪がどれ程多大で、深いものとなったかを示し、特にクリスチャンがいかに頽廃堕落しているかに目覚めさせるのが真の目的であるように思えます。

 アメリカは、つい10年位前迄は70%近い国民がクリスチャンといわれ、世界一のクリスチャン国であることを私は誇りに思って来ました。しかし、今では何とクリスチャンと名乗れば身の危険を感じ、肩身の狭い思いをしなければらなくなるという、世界一のクリスチャン国が一変してクリスチャンが迫害される国と変わり果てたのです。それでは70%のクリスチャンはどこに行ってしまったのか?どこにも行きません、その人たちのほとんどは名ばかりのクリスチャンであることを主が暴露しておられるのです。

 今アメリカでは御存知のように、すべての公共団体と政治組織にたずさわる人だけでなく、民間企業・教育文化・メディア関係を含むあらゆる社会組織においてのあらゆる不法と不道徳行為による罪ーそれは、殺人、暴行、詐欺、人種差別・メディアのうそ・腐敗と癒着行為・不正が問われています。特に最近では、著名な政治家からメディア関係幹部・ハリウッドの有名人等に、過去現在の道徳的不品行、特に性的暴行、嫌がらせ行為が明るみに出た結果、国会議員には退任を、民間人には組織から解雇されるケースが続々と出て来て、まるで蜂の巣を突いた様相を呈しており、しかもそれが急速に世界に波及しつつあります。どう考えても今は通常の時代ではないように思え、そのすべての世界情勢は、いよいよ神が地における御国の体制を整えるのを急いでおられる兆候であるように思えます。

 

ひっ迫する北朝鮮問題とイランの核兵器開発

 

 最近の軍事専門家による分析では、北朝鮮の核爆弾がアメリカ全土に実質とどくようになる迄には後一年足らずといわれ、ハワイをはじめ本土の国民は特に EMP 爆弾を真剣に危惧し始めております。過去三代のアメリカ大統領が、北朝鮮の核開発を口では警告しても実質野放しにして来たのと違って、トランプ大統領は真剣に先制軍事行動に出ることを検討していることはまぎれもない事実です。アメリカは、中国が北朝鮮に完全な経済封鎖(特に石油)を実行することを期待して圧力をかけて来ましたが、案の定中国はそこまでは踏み切りません。

 端的に言って、私は、中国とロシヤは北朝鮮とイランに少しばかりの核を持たせ、彼らを先ず矢面に立たせてアメリカの出方を見る、そして、最終的には中国とロシアがアメリカを打つ構図ー少なくともこの四国によってアメリカを共通の敵として包囲する構えーが見えて来たように思います。

 一方トランプ大統領はそれを見越して、北朝鮮だけでなくイランとシリヤの化学兵器問題にも厳しい手を打つ強い姿勢を見せています。併せて、エルサレムに大使館を移すという選挙公約を今実行に踏み切ることを発表し、世界は騒然としています。これは明らかに、アメリカとイスラエルが上記の四国だけでなくアラブ諸国に対しても全面的な宣戦布告を宣言したかのように見えます。世界はいよいよ二分化しつつあり、既に事態がアメリカ対北朝鮮だけの問題を超えていることを示しています。これこそマタイ二四:六の「戦争と戦争のうわさ」という終末の徴が整いつつあるように思えてなりません。そのような中で日本はどうなるのでしょうか。

 

トランプ大統領への祈りのお願い

 

 反トランプの動きは益々激しさを増しており、アメリカは孤立し、世界は不穏な空気が高まる一方です。まさしく「この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は(地上に)投げ落とされた。・・・地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」の様相です。しかしそれは神のご計画の一部であって恐れる必要はありません。トランプ大統領は選挙公約以上に、クリスチャンとして正しいことは正しいと、たとえ世界中を敵に回しても恐れず、神をこそ畏れる姿勢を明確に示し始めていることに私は拍手を送ります。今は私たち世界中のクリスチャンが正しいことを正しいといい、黒白をはっきりさせ、恐れず、それを堂々と表明する時が来たと思います。それが私たちへの「踏み絵」であると信じます。

 

 特に申し上げられることは、トランプ大統領は信頼できるクリスチャンリーダーたち、特に預言者の意向に耳を傾けており、クリスチャン・コミュニティーとの連絡が密にとられていることは、日本の一般の皆さんには知られてないと思います。この時期に敢てイスラエル支援への決断が表明されたことはその証拠の一つでありましょう。しかし今こそアメリカとトランプ大統領は、世界のクリスチャンからの祈りを必要としています。

 この緊急時、年末年始に当たって、ぜひともイスラエルとアメリカへの一層の祈りの支援をお願い申し上げます。最後にまた、この一年間、皆様から大変なご支援とお祈りの励ましを頂戴しましたことを末筆ながら心から御礼申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。(終り)


18 12月

新しい靴       ボニー・ジョーンズ               2017年12月18日


新しい靴

 

ボニー・ジョーンズ

 

 

フレッシュな油注ぎ

 

今シーズンに私は靴に関する夢を数回見ました。靴は主との歩みを表しています。今は新しいシーズンであり、私たちは今まで歩いたことのない道を歩くのです。主は次のように語ってくださり、私は聞いたことをただそのまま書きました。

比喩的で面白く素晴らしいと思いました。

しかし面白い話ではありますが、私はこの言葉を真剣に真面目に受け取っています。今はキリストのからだが主と共に歩き、他人の召しを羨むのではなく自分の召しを遂行すべき時だと思います。嫉妬やプライドを持つ余裕はありません。主が別の人のためでなく、自分のために備えてくださったコースを完走せねばなりません。この主の御ことばは面白いですがとても重大です。どうか読んで祝福を受けてください。

 

主の話「全員が新しい靴をもらう」

 

すべてのクリスチャンが新しい靴を受け取ります。なぜでしょうか?

古い靴がすり減ったからです。ある人たちは今までどこにも行かずに同じところをぐるぐる回っていました。なぜでしょうか?人生を歩む「目標とその行程表」がないからです。今日、わたしは聞く耳のある者に行進命令を出します。

 

ある者たちは山を登っていましたが、頂上に着くことはありませんでした。なぜでしょうか?

彼らが途中で止めてしまったからです。道が険しくなりあきらめてしまったのです。障害物で先が見えなくなったのです。太陽の光がまぶしく目がくらみました。彼らは神の御子から啓示を受けても、プライドが高かったので自分の計画を捨ててわたしに従うことができなかったのです。それで彼らの靴はすり減りました。ほこりまみれでボロボロになり、底には穴があきました。

 

ある者たちは人生のレースを走り出したけれど止めてしまいました。彼らは死よりも命を選び取る決意が固まらず、すぐ脱げてしまうようなゴム草履(フリップ・フラップ)をひっかけていい加減に歩いていました。彼らは舌にくつわをかけることをせず、何の自制もできませんでした。彼らの足はすぐにくたびれ、道ばたにすわって誰かが水をもってきてくれるのを待っていました。

また、ハイヒールで歩こうとした者たちがいました。彼らはすぐに足が痛くなり、驚いてすぐ靴を脱いでしまいました。彼らのゴールは自分を高くして人々に感銘を与えることでしたが、歩き続けることが出来ませんでした。彼らは少しずつ背が伸びるのを待つべきだったのですが、プライドの故に早く高くなりすぎたのです。高ぶりは滅びに先立ちます。彼らも道ばたに座り、リフレッシュされるのを待っていました。

ある者たちは小さすぎる運動靴と締め付けすぎた紐で走り始めました。彼らの足は豆が出来て痛くなりました。なぜでしょうか。もっと大きな靴が必要だったのです。成長するスペースが必要でした。彼らは謙遜で臆病で、ものを言うのを恐れていました。口にくつわをはめ、痛みをこらえて走り続けました。そして傷つき渇いてレースを終え、それなりのよい報いを受け取りました。

 

すべての者は、今日、新しい靴を受け、新しい任務を与えられます。彼らはそれを受け取るでしょうか、拒むでしょうか?今まで通りに歩くでしょうか、それともわたしのあとを歩き始めるでしょうか?

選択権は彼らにありますが、わたしはすべての者に新しい靴を差し出しています。平和の靴や愛の靴、彼らが想像したこともないほどの高みに連れていく靴です。啓示の靴、奇蹟の靴、繁栄の靴、成熟の靴です。

 

誰がわたしについてきますか? 誰がわたしと一緒に歩きますか?

さあ、来なさい、今日から一緒に歩き始めましょう。あなたが求めさえすれば靴は無償で与えられます。わたしに従って来なさい。

 

新しい歩み

 

わたしの子どもたちはこの道を歩いたことがありません。それは今が新しい時であり、新しいシーズンであり、彼らが過去にしてきたことは今のシーズンには役に立たないからです。わたしは創造しようとしています。新しい音や歌、新しい内臓や身体の部分を創造しています。ワーシップと讃美の家を造っています。男性や女性のグループの親しい交わりを造り出しています。わたしは新しい仕事の機会を造り、新鮮な香りを漂わせてます。

 

わたしの子どもたちは疲れたりつまずいたりしません。やすらかに歩きその荷は軽いでしょう。彼らは困難にぶつかるでしょうか?

確かに困難はあるでしょう。彼らは社会を変革させていく者であり、世はそれを喜ばないからです。彼らはわたしの名の故に糾弾、罵倒されますが、決して動かされません。それはわたしが彼らと共に歩いているからであり、人びとはわたしを動かすことは出来ないからです。

 

新しいアイデンティティー

 

現在、アイデンティティーの危機が起こっていますが、わたしの子どもたちにはそのような危機はありません。彼らが新しい靴を受け取り、わたしのうちに歩み始めるならば、自分が何者であるか、どのような位置を占めているのかと疑う者は一人もいないでしょう。なぜでしょうか?

キリストのからだの中にアイデンティティー泥棒がいなくなるからです。嫉妬、プライド、恨みは道ばたに捨て去られました。それを捨てなければ新しい靴は支給されません。捨てるのが困難な者もいましたが、ある者たちは素早く脱ぎ捨てました。

 

すべての者は疲れて痛んだ足を足湯で癒してもらいました。次に彼らの足を柔らかく滑らかにして新しい靴を履く準備をするために新しい油が塗られました。

靴は一人ひとりのためのオーダーメイドでした。同じものは一つもありません。わたしは一つひとつ彼らの任務にあわせて選びました。ある者は短距離を全速力で走り、ある者は山に登り、ある者は長距離を走るのです。ある者たちはハイヒールで歩くことさえ学び、新しい高みに上げられるでしょう。(以上が主からの言葉です)

 

結論:今は 新しい歩み、主にある新しいアイデンティティーの新しい日です。過去のことを振り返ることはもうできません。私たちは後ろ向きにレースを走る事はしません。ゴールを目指して人生のレースを走り、倦み疲れてはなりません。私たちは測り直され、サイズを合わせ、清められ、フレッシュな油を注がれました。私たちの旅路は今始まったのです。主の後に従い、信仰の一致をもって共に聖霊の橋を渡ろうではありませんか。(終り)

Bonnie Jones
The Prophetic Ministry of Bob and Bonnie Jones
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Website: www.didyoulearntolove.org


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