21 02月
リバイバルがやって来る!誰がその火を点け、
誰がその実となる未信者を導くのか (その二)
坂 達 也
先週はこの2月8−11日に開催されたモーニングスター・ミニストリーにおける「アドバンス預言カンファレンス」で語られたリバイバルとアウェークニングへの預言についてご報告し、特にジェロマイヤ・ジョンソン師のメッセージに焦点を当てました。
そこで今回はその前日の講師であったポール・キース・デイビス師のお話をご紹介’します。
師は前にもお話ししたかと思いますが、約3年前に奥さんが家を出て行かれ、その衝撃と悲しみの中で、首の付け根辺りの背骨を痛めるという大変な事態になり大きな手術を受けることになりました。一時は一人で立つことも歩くこともできず、痛みに苛まれ食べることすらままならなかったといわれます。また手術後の回復が思わしくなく、再び背中の手術が必要と医師に云われたのですが、師はそれを断りました。そのような大変な痛みと苦しみの最中にあった2015年6月の或る夜、9時過ぎでしたが、濃い主の臨在が彼の寝室を満たし、上を見なさいという声が聞こえて、見上げると天井が吹き抜けて天の御座に座っておられる御父を肉眼以上にはっきりと見ることができたと言われます。それは本当に生きておられる父なる神に会うという劇的な経験であったのです。師は「それは私が痛みと苦しみの頂点にいた時でした。私はその感激で1時間半泣き続けました。そしてそれ以来今に至る迄、その濃い主の臨在が私から去らないのです。」と言われます。
「御父は、『わたしはあなたを養子としてわたしの子どもにしたのではない。 あなたはわたしの朽ちることのない永遠不滅の「種」から生まれ(それは人間の精子を思わせる霊の精子)、実際にわたしの種があなたの中に入っている』と言われました。それは1ヨハネ3:9に書かれてある通りです。ですから天におられる父なる神は、私を養子という形で他人の子どもを引き取ったから子になったのではなく、実の『父の種から生まれた真の息子』であることを強調されて『我が子よ、わたしは決してあなたから離れず見捨てることはしない。』とはっきり言われました。ですから、キリストとともに死に、キリストとともによみがえった私たちクリスチャンは、真実『神の子』であり、天におられる主イエスの父と私の父は同じ父であるという明確な確信をいただきました。」と師は言われます。
そこに師は、御父と主イエスと自分の関係が特別なものー霊の関係は肉の関係より遥かに強いリアリティーを持つ超親密なリレーションシップーであることを感じることができたといいます。そして父の子である自分はこの世が造られる以前から、終末の時代の「この時間」に生まれて生きる、そして予め天で定められた時が来る迄は「決して死なない」というデスティニーを持っていることを確信したそうです。
師は続けます。「この世の中には『永遠のいのちの霊の法則』と『罪と死の霊の法則』があることをはっきり霊的理解を持たないで生きてしまえば、私たちは死の霊の法則を甘んじて受取ってしまう。そのようになりかけていた私に対して主は『止めなさい!ストップしなさい。』といわれたのです。それは私があまりにも痛みが激しく耐えきれなくなったときに『主よ。どうぞ私をもう天に引き取ってください』と主に二度も嘆願したからでもあります。私が死の霊に脅かされ、それに同意していたことを知っておられた主ははっきりと『あなたを天に引き取る時は未だ来ていない。だから、永遠の命の霊によって生きなさい。』と私に命令されたのでした。主は『私たちは罪と死の霊の法則に縛られたまま、それを受け入れた生き方ーライフスタイルーを脱ぎ捨て、本来既に持っている「永遠のいのちの霊の法則」で生きねばならない。そうすれば病気とか悪魔の誘惑に負けることはない。そして神が定めた時が来る迄、全く健康な身体で生きることができる。』と私を強くたしなめられました。」
師は、自分は超自然の力で癒しのミニストリーを強調しようとして言っているのではないこと、むしろそのような力は『永遠のいのちの霊の法則』で生きる者には既に具わっていることを強調していわれたのです。私はこれを「霊的覚醒」と表現したいと思います。
しかし問題は、どうすればそのようにいのちの霊の法則で生きることができるのか、です。これは信仰の訓練であり、それはジムに通って毎日筋肉トレーニングをするのに似ていて、一日二日しても効果は目に見えない。しかしたゆまずその信仰の筋肉訓練を続けるなら必ず効果が現れ、本来持っている永遠のいのちの霊の法則で生きる生き方ができるようになる。筋トレを怠ればその結果も数日では現れないが、一月、二月怠ればお腹のベルトの穴の位置が変わり、遂にはズボンを新しく新調しなくてはならなくなるのと同じであるといわれました。
それでは、その信仰のトレーニングの方法は何かといえば、それは先ず、命の霊の法則で生きる信仰の上にしっかり立つことから始めなさいと主は言われたそうです。その点ボーン・アゲインしたクリスチャンであっても、この世で生きている間は、この永遠の命の霊の法則と罪と死の霊の法則という二つの法則が重なり合っており、死の霊の法則の(誘惑に)陥らず命の霊の法則だけに堅く立って生きることによって、決して病気にならない、あるいは、それに打ち勝つことができるといわれます。
そして師は、チャック・ピアースがいわれることに同意して「今私たちは、新しい希望をいただいて、新しいシーズンに入ったのであり、主が「この新しいニュービギニングのシーズンを勝ち通しなさい。あなたの持つ新たな信仰の戦いの向こう側は勝利であり、その信仰があなたを既に勝利した側に立たせてくれている」といわれて励まされたとそうです。
そのための具体的に何をすればよいのかーその秘訣を主に聞くと先ず「毎朝起きたときに、聖書の御ことばから、いのちの霊の法則のことばを選んで、それを声を出して唱えなさい」といわれたそうです。そこで師は、最初に詩篇の103を選んでそれを口に出して高らかに宣言しました。そして、これを始めてから既に一年近く経つと師は言われたのですが、その師をテレビ画面で見ますと、全く見違える程元気になられ、私たちが4年前に師に会った時よりももっと若返ってはつらつ、生き生きとしておられるのを見て私たち夫婦は心から感動しました。
このデイビス師が極限の苦しみの頂点にいる時に真の神に出会い、真の神を知ることができたことに私は心打たれました。主イエスの苦しみたるやその昔キリストが十字架をかついでゴルゴサの丘に向かうシーンが映画で演じられたことを思い出しました。実際に主が味わられた苦しみはそんなものではないといわれますが、過去・現在・未来に存在するすべての生きものが苦しむ痛みの総計に有り余る苦しみを、創造者の神ご自身が私たちに代わって味わってくださったのです。そのような考えられない程極度の苦しみと痛みのほんの一部を私たちが味わせていただけるとすればーこれ以上の特権がこの世の中にあるでしょうか。この特権こそ、主の十字架を信じ、自分の十字架を担いで、喜び勇んで主の後を追って歩く人だけに与えられた「永遠の命の霊の法則で生きる」特権であると私は信じます。そのような苦しみを味あわせていただいた人は最も幸いな人、特別に選ばれた人ではないでしょうか。今そのような苦労の中を通されている人は幸いです。
そしてデイビス師の話しが終わる頃に静かに壇上に現れ、師の側に並んで立たれたのはリック・ジョイナー師でした。リック師は、この一、二年の間、膝の手術後、複雑な問題から同じような激しい痛みと苦しみを味わって来られました。その彼が、或る時痛みをこらえつつゆっくり歩いていると、一人の少女が近寄って来てリック師の膝には悪霊がついているのが見えると言い、その子が祈ると80%程の痛みが取れたという証しをされました。リック師は詳しいことは云いませんが、最近主から多くのビジョンを見せられて来たといい、それを今数冊の本に書き上げたところであると言いましたから、私はうなずけるのですが、激しい敵の攻撃を受ける最中に書かれたその本は、さぞすばらしい本ではないかとその本が出版されるのが楽しみです。
同じように、私はデイビス師がこの終末の時代にこれから大きく用いられることを今回の彼を見て確信しました。また今回のカンファレンスで彼から預言の油注ぎを受けて「永遠の命の種を持って生きる信仰に堅く立つ決意を新たにしたクリスチャン」こそが終末の時代に主のために大いに用いられる人に選ばれ加えられたことをも確信しました。今回の預言のカンファレンスを画面上ではありますが目の当たりに見て本当に励まされました。
再度申し上げますが、今苦しみの中を通されている方は大勢おられます。しかし、その人たちは特別に選ばれた人、主に用いられる人であることをはっきりとお伝えしたいと思います。私がここ数年知り合った方々の中にもそのような方がおられます。どうぞこのメッセージを読まれ励まされてくださるようお祈りしております。
このような苦しみ、痛みに遭う(主がそれを許される)時には、主がその人に特別の任務を用意されていると信じます。その逆境が大きければ大きい程、その荒野の体験が長ければ長い程、その人は主に大きくすばらしく用いられるのです。事実私は今迄、主に用いられた著名な信仰の持ち主で、苦しい荒野の試練と逆境を通されていない人を見たことがありません。(終り)
13 02月
リバイバルがやって来る!」
誰がその火を点け、誰がその実りとなる未信者を導くのか
坂 達 也
私たち夫婦がヘンリー・グルーバー師夫妻を日本に初めてお連れした1995年頃の日本は、大げさに言えば、国中のクリスチャンが「リバイバル」「リバイバル」とリバイバルへの期待と掛け声で湧いていました。私たちを招いてくださったある教会では一日4時間から8時間もリバイバルのために祈り込まれていたことが懐かしく思い出されます。それ以来「リバイバルがやって来る」という声は聞こえて来ましたが実際にはほとんど何も起きていません。そして今ではたまに「リバイバル」という言葉を聞いても誰も興奮しません。
そんな中で最近また「リバイバルがやって来る!ー早ければ2018年に、あるいは2019年、そして20年には世界中に広がる」と云う声が掛ったのです。私たちはその事を先週ご紹介しましたが、それを読んでも恐らく誰も「そうか!」と興奮して椅子から立ち上がった人はいなかったと思います。しかも「やって来る!」と云ったのがリバイバルの歴史に詳しい、そして最後の大リバイバルに関する多くの預言を主からいただいて「ハーベスト」という本を著した預言者の第一人者である、リック・ジョイナー師が云われたのであってもです。
そんな思いをもって4、5日経った後、折からジョイナー師のモーニングスター・ミニストリーで、年一度の「アドバンス預言者カンファレンス」がこの2月8−11日に開催されました。私たち夫婦はこの実況を聞きました。色々な意味で、このカンファレンスで語られたリバイバルとアウェークニングへの預言は、いよいよ本物のリバイバルが来ることを真摯に宣言していると受け取りましたが、それは、決して浮ついたものではなく、むしろ厳粛な思いと「主からの厳しい叱責」を会場にもたらしました。講師はチャック・ピアース師、ポール・キース・デイビス師、それにほとんど無名の30歳のジェロマイヤ・ジョンソン師でした。そしてジョイナー師が日曜日の礼拝で締めくくりました。
その報告を全部させていただく紙面がありませんので、今日はハイライトとして弱冠30歳の預言者ジェロマイヤ師の預言とそれを受けたジョイナー師のメッセージを要約してお伝えします。
ジェロマイヤ師のメッセージ
私はアメリカの色々な教会を訪れました。最近では、多くの教会からリバイバルのための預言とメッセージを頼まれて訪ねるのですが、そこで預言、超自然の力、奇跡、癒し、或は祈りやワーシップを強調すれば会場は沸き、喜ばれますが、「ホーリネス(聖さ)」と「罪の悔い改めの必要」を語ると、会場はシュンとして静かになってしまいます。私は天国の実質とリアリテイーとは、何をさておいてもホーリネスが根底にあり、クリスチャンの本質は十字架、イエスの血潮、復活の力にあると説くと、その集会での献金謝礼はグンと落ちて旅費にもならないのです。確かにアメリカには多くのすばらしい教会があり、中でもビルジョンソン師のべテル教会とマイク・ビクル師のIHOPの二つはアメリカを代表する二大教会と云えます。しかし、聖書では「三つを束ねると最も強い」と言われます。その三つ目の教会とは、他ならぬサウス・カロライナ州のこのリック・ジョイナー師のモーニングスター教会です。本教会の担う責任は、迫り来るリバイバルにとって最も重要かつ最も必要な「罪の告白と悔い改め」を説き、神を畏れ「神聖さ」を第一に強調する最も大きな任務があると私は固く信じます。リバイバルの歴史を見れば明らかです。代表的なリバイバリストにジョナサン・エドワードがいますが、彼は「ホーリネス」と「悔い改め」のメッセージ抜きではリバイバルは絶対に起きないことを示した代表的なメッセンジャーと云えます。(以上ジェロマイヤ師)
ジェロマイヤ師は「私たちクリスチャンリーダーと教会は、神を喜ばすメッセージをすべきでしょうか、それとも人間を喜ばす説教をするべきでしょうか?」と問い掛け、「自分はモーニングスター・ミニストリーにこの預言を伝えに来た」とはっきりと宣言したのです。そしてジョイナー師は、そのメッセージが神からの預言と受け取り、彼自身その責任を預かることを日曜の礼拝メッセージではっきりと認めました。
「輝く聖さ」を持つクリスチャンが今こそ現れよ
ところで私は、今朝コンピューターのデスクトップに、どういう訳か未だに残っていた昨年6月に掲載したWWGM のメッセージの原稿ーーフランシス・フランジペン師の「輝く聖さ」という表題にふと気が付き、目が吸い込まれました。普通なら既に所定のファイルに移されているはずのこの原稿がどうして残っていたかはわかりませんが、今日の題材はマタイ5:8に書かれている「聖さ」にあると言う思いを昨夜から与えられていましたので、私はこれは主からであると確信しました。以下はそのフランジペン師のメッセージからの抜粋です。
「・・・聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださり、そこにおいて私たちはイエスと結び合わされ交わることによって(イエスの)聖さを受けとらねばなりません。私たちが求める聖さとは、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。・・・すると、私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。
小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができます。・・・考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。
聖くなるために・・・あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。
もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができます。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカ11:35)と警告されたのです。・・・
自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!・・・
私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。
霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)
エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!
ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。」(引用終り)
私はこのフランジペン師のメッセージに改めて心打たれました。なぜならマタイ5:8「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」という御ことばこそは、私にとって最も大切な座右の銘として来た御ことばの一つであるからです。この真に「主を見ることができるようになる」ためにはこの「聖さ」が絶対に必要です。
前にもご紹介しましたが、ピアース師が今回も語られたことがあります。それは、今年(ユダヤ暦5778年)の課題は、クリスチャンが信仰を改めて改革・リフォーメイションする「新しい出発ーニュービギニング」の年であることです。いよいよ終末のリバイバルが来ると預言されて来た大ハーベストが始ろうとしています。
しかし問題は、誰がその火付け役になるのでしょうか。そして誰が、これから生まれて来る大漁のリバイバルの網にかかった人たちを真の悔い改めに導き、真のキリストの花嫁に育て上げるのでしょうか。
そのために、私たちはサムエルを育てようとした大祭司エリであってはならないのです。ーーエリは主を愛しましたが自分の二人の息子 ホフニとピネハス二を厳しく躾けることをしませんでした。主は、今の時代の教会のリーダーたちが、エリと同じように信徒を甘やかし「熱狂的であれば後の罪は放任する」という大きな罪を犯していることに怒りを発しておられると、ジェロマイヤとジョイナーの両師がそれを指摘していることを最後に改めて強調させていただきます。そのような今の教会の信徒こそを先ず誰かが厳しく悔い改めに導く責任があるのではないでしょうか。
終末の時代に生かされている私たちクリスチャンの教会の多くは、今本当に惑わされています。それは真の福音からは程遠い「妥協し水増しされた福音」しか語られていないとジェロマイヤ師は叱責しました。私はそのメッセージを真摯に受止めました。どうぞ皆さん、これについてぜひお祈りいただきたいと心から願う者です。(終り)
05 02月
心の目を開いてください
坂 柚実子
黙示録22:18、19「私は、この書の預言のことばを聞くすべてのものにあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
マタイ5:18「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。すべてが成就されます。」
私たちは聖書の言葉を変えることは神が禁じておられることだと教えられています。これに反して讃美の歌に関しては、「主にむかって新しい歌を歌え」と詩編の中に何度も書かれていますし、またイザヤ書や黙示録にも「新しい歌」という言葉が出てきます。
イザヤ42:10「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。」
黙示録5:9「彼ら(四つの生き物と二十四人の長老)は、新しい歌を歌って言った。」
聖書の御言葉は永遠に変わらないもの、一方歌はどんどんと新しい歌を歌ってよい、いや、歌わねばならない、ということに私は興味を持ちました。讃美は私たちの霊や魂から出るものです。慣れ親しんだものだけではなく、その時の私たちの心から出る讃美を主は喜ばれるのだと思います。その最たるものはスポンテニアス(即興的)な霊歌でしょう。又その時代に新しく作られる曲は、その時代に沿ったものとなるのも当然だと思います。
私は「心の目を開いてください」というテーマの歌が3つあるのに気がつきました。
1.まず 新聖歌38番で、クララ・スコット(Clara Scott により1895年に作詞作曲されたものです。
わが目を開きて さや(明)に見せたまえ
今まで知らざりし みふみの真を
我今しずかに 我が主を待つなり
主よ 与えたまえ 悟りを
Open my eyes that I may see
Glimpse of truth Thou hast for me
Place in my hands the wonderful key
That shall unclasp and set me free
Silently now I wait for Thee
Ready, my God, Thy will to see
Open my eyes, illumine me,
Spirit Divine!
(私のためにあなたが与えてくださる真理を垣間見ることができますように、私の目を開いてください。私を解放し自由にする素晴らしい鍵を私に与えてください。今私は静かにあなたを待ち望みます。私の神よ、あなたの御こころを切に求めます。聖なる御霊よ、私の目を開けて、悟りをお与えください。)
これは詩編119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」からテーマを取っているそうですが、主の御前に静まり、主の真理と御こころを知るために霊の目を開いてくださいと願っています。讃美歌や聖歌の古い訳は、私を含め古い年代にとっては非常に歌いやすく、優れていると思われるのですが、若い人には難解なのでしょう。また英語の歌詞を日本語に訳す時は、散文とは違い、曲の中に収めねばならないので、全部の内容を訳しきれないことが多く、元の歌詞と較べると確かに抜けている部分がありますが、すばらしい訳になっています。深い内容であり、さっと表面的に歌ってしまうのではもったいないものです。
2.次に1976年に ボブ・カル(Bob Cull)が作詞作曲したものです。
開いてください 心の目を
さらに深く 主を知るために
開いてください 心の耳を
さやかな御声を 聞き取るために
Open our eyes, Lord
We want to see Jesus,
To reach out and touch Him
And say that we love Him
Open our ears Lord
And help us to listen
Open our eyes, Lord
We want to see Jesus
(主よ、私たちの目を開いてください。イエス様を見たいのです。主に手を伸ばし、ふれて、「愛しています」と言いたいのです。主よ、私たちの耳を開いて、聞こえるようにしてください。主よ、私たちの目を開いてください。イエス様を見たいのです。)
ボブ・カルは、1960年代末から70年代はじめにかけてカリフォルニアで起こったジーザス・ムーブメントの中で救われ活動した作曲家です。ジーザス・ムーブメントは堅苦しいキリスト教という宗教を見捨てた若者たちが、シンプルにジーザスを求めたムーブメントでした。ベトナム戦争やウオーターゲイト事件が起こる中で、本当に信頼できるものを彼らは求めたのです。
ボブと妻のジョイは1976年にハワイに移住し、ジーザス・ムーブメントをハワイにもたらしました。ハワイの若者たちがボブのメッセージに心を開かなかったとき、彼は苦しみ、その苦しみの中から生まれたのが、「Open our eyes, Lord 開いてください、心の目を」だったのです。ボブは若者を自分の言葉で説き伏せるのではなく、彼らの心の目を主が開いてくださるようにと祈ったのです。難しい理屈ではなく、彼ら自身が 主を見て主の御声を聞くことこそ、真の救いの鍵であることを彼は悟ったのです。「心の目を開いてください。イエスを見て、ふれて、愛を告げたいのです。」というシンプルで熱い思いが歌われています。
3.次に2000年にポウル・ベロシュ(Paul Baloche)が 作詞作曲したもので、かなり乗りのよい曲になっています。
わが心の目を 主よ 開いてください
主イエスを見るために
高く上げられた 栄光に輝く
主イエス あなたに
愛をささげるため
Open the eyes of my heart, Lord
Open the eyes of my heart
I want to see you
I want to see you
To see you high and lifted up
Shining in the light of your glory
Lord, pour out your power and love
As we sing holy holy holy
(私の心の目を開いてください、主よ。私はあなたを見たいのです。私はあなたを見たいのです。高く上げられ栄光の光に輝くあなたを見たいのです。主よ、私たちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌います。今、あなたのちからと愛を注いでください。)
ポウル・ベロシュは、数々の賞を取っているシンガー、ワーシップリーダー、ソングライターです。教会のワーシップのためにセミナーを開いたり、指導書も出版していて、
教会のワーシップが霊的に高められために力を注いでいる人です。この歌は栄光に輝く王なる主の姿を人々に示し、聖なる畏敬と共に強い敬慕の念を表現しています。
彼はワーシップに関して「it‘s simply about intimacy with God.それは神との親密さに尽きます。」と言っています。
以上ですが、皆さんが一番親しまれたのは、どれでしょうか。
三つとも「心の目を開いてください」と真摯に主に願っていることに心打たれます。「私たちは見える」と主張しない者は幸いなのです。目を開けて頂くことによって何を見たいのかが、少しずつ変化しているのが非常に興味のあるところです。製作された年が1895年、1976年、2000年と離れていて、それぞれにその時代の教会の姿を映し出していると思います。伴奏も、恐らくオルガンからギター、そしてドラムの入ったバンドへと変遷してきたのではないでしょうか。
私の信仰生活はこの3曲が代表するいろいろな時代の讃美を知り、愛し、歌ってきました。それは私にとって大きな財産です。長く歌い継がれているものは、そこに主の息吹が吹き込まれているからに違いありません。ヘンリー・グルーバー師は、「天で今行われているワーシップを聞き、それに合わせなさい。」と常に言われています。それこそがワーシップの究極の秘訣ではないでしょうか。(終り)
29 01月
2018年1月26日の
リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから
リック・ジョイナー
リバイバルがやって来る
もうお聞きになったかもしれませんが、今世界中にリバイバルが起きようとしています。アメリカでもその気配を強く感じています。今年2018年は世界中で大きなリバイバルが、また2019年には更に大きなリバイバルが、そして2020年には地域を一掃するような広大かつ圧倒的なリバイバルが起こるでしょう。
私はこのところそれを声を大にして云っていますが、間もなくリバイバルと同時に、大きな「霊的覚醒」が起こります。それは歴史始って以来三度目の過去最大のアウェイクニングとなるでしょう。リバイバルは通常平均して2−3ヶ月、長くて英国ウエールズ地方とかアズサ・ストリートで起こったもので1−2年しか続きませんが、霊的覚醒は30−50年という長期に渡るものです。
今年は皆さん、ぜひ期待し見張っていて下さい。アメリカ、特に私たちのサウス・カロライナ州地域でも、早ければ今年、多分来年には必ずリバイバル起こると予期しています。
この数週間私は地が揺れる振動を感じて来ました。それが最近のアラスカ地震で現実となりましたが、私は今、西部沿岸、特にロスアンジェルスと、シアトルにshaking(地が震われると同時に霊的な震いも起こる)ことを祈っているところです。ロスに起これば、前回のアズサよりもっと大きな(過去に起こったジーザス・ピープル・ムーブメントのようなものも含む)ものに発展し、それがヨーロッパから世界に向かって大きく波及することが十分考えられます。
つまり世界中でこのリバイバルの波と大アウェイクニングが起こるのです。皆さん、CATCH THE WAVE ぜひその波を見逃さず、キャッチし乗って下さい。
獅子の口を閉ざさせたトランプ大統領
先週は、ダボスで恒例の年一回開催される世界経済会議が開かれました。これには世界のエリート経済人と共に、今迄世界を支配しようとして来たグローバリストを含む各国首脳政治・経済人の蒼々たるメンバーが集まっておりました。
これにトランプ大統領が出席し、公式の場でのスピーチは僅か15分余でしたが、それが世界から集まった著名人の頬を平手打ちする程に圧倒したのでした。これを例えるなら、世界を制しようとする世界の獅子たち(特にグローバリスト)の口を完全に封じ込んだといえるのです。
というのは、世界各国、特にヨーロッパの多くの国は今大変な危機の中にあります。彼らの問題は、深刻な経済の行き詰まりとか伸び悩みだけでなく、この数年間取って来た全く無責任な放任主義の「移民政策」のツケが廻って来て、今やテロを含む移民犯罪者を取り締まることができない程の深刻な問題になっています。例えばドイツでは警官を襲う暴徒の犯罪だけで一年に3万5千件に達するという、考えられないような(無政府状態的)危機に陥っています。
一方そんな中で、アメリカはどうかといえば、過去最高の経済ブームに入っています。例えば、株式証券取引面だけ見ても、最近の株価値上がりによる価値上昇額は総計で8兆億ドルに達するといわれます。一方失業率を見れば過去最低という数字を示し、しかもそれは移民して来た少数人種の人たちの失業率でもそうです。加えてアメリカ企業への巨額の投資ブームが起こり、それに最近国会を通過したタックス・カット(減税案)の影響により、何と250万にのぼる民間企業会社が既に減税を見込んだボーナスの支払いを発表し、賃金値上げが続々提示されているというのですから、今アメリカは歴史始って以来、空前の経済ブームに湧いているといって過言ではありません。
ところが一方で「フェイク・ニュース問題」も世界に広がりつつある深刻な状態にあり、むしろヨーロッパの方がアメリカ国内を超える程フェイクニュースが氾濫しています。従って多くのヨーロッパの国々の要人たちはアメリカの真の状態を知らされていませんでした。それについて私は25年前に警告(預言)しましたが、アメリカの報道会社CNN EUROPPA の画策がヨーロッパでのフェイクニュースの氾濫に大きく貢献して来ました。
しかしそのフェイクニュースが嘘であることが最近人々に知れ渡って来た結果、今回のトランプ大統領のダボス参加に多くの人たちが関心を持ち集まって来ました。しかもこの大会でトランプ大統領が演説する時には多くの反トランプの人たちが退場するだろうといわれたのですが、実際には誰も退場しませんでした。今となっては多くの人が真実を知って、ヨーロッパを去る人さえ出始めていると云われます。
確かにトランプ大統領は今回、グローバリストという獅子が群れる檻の真ん中に放り込まれたかに見えましたが、逆に彼こそ真の愛国者のチャンピオンだと称えられたのです。
それでは最後に改めて申し上げます。いよいよリバイバルの時が来るのです。それぞれの国、それぞれの場所でリバイバルへの用意をして下さい。そしてリバイバルが起こったら、すかさずその場所を訪ね、その波に乗り、その燃える火を持ち帰って下さい。リバイバルは燃え広がる炎です。(終り)
22 01月
預言の召し
ビル・ジョンソン
訳者注:最初にお断りしておきますが、今回のジョンソン師のお話は(師の礼拝時のメッセージです。)今の時代のクリスチャンに最も必要なものであると判断し、特に重要な部分を下線を付けさせていただきましたことをご了承ください。
すべてのクリスチャンは、 預言をし、その機能の中で生きるようにと召されています。勿論、預言者の働きに召されていることと、預言的に生活するのとは違いがあります。しかし、もしあなたが神から預言者の働きに召されていても、名刺は作らないでくださいね。バプテスマのヨハネのことをイエスは一番偉大な預言者と言いました。しかしヨハネが「あなたは預言者か」と訊かれたとき、彼は「違います。」と答えました。人びとは今度はイエスの所に行き「ヨハネがその預言者か」と訊くと、イエスはそうだと答えられました。これは面白いですね。歴史上最高の預言者が自分の肩書きを知らずに、ただ神から与えられてた任務を果たしていたのです。どのような肩書きで呼ばれるかよりも、あなたがどのように働くのか、どのように機能するのかの方がより重要です。ヨハネは「私は荒野で呼ばわる声だ」と言いました。肩書きが悪いわけではありませんが、あまり重要なことではありませんね。
民数記11:24「ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊が留まった。—彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。—彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」
私はこの箇所がとても好きです。私たちが契約によって他の人びとと繋がっているとき、彼らが受け取るものを私たちも受けることが分かるからです。ある種の相続は個人にではなく家族に与えられるのです。70人の長老は幕屋の回りにいましたが、2人の長老はなんらかの理由で、宿営に留まっていました。神の霊が70人の上に下り、彼らは預言し始めましたが、それと同時に宿営の2人も同じ霊の油注ぎを受けて預言したのです。
どのようにそれが起こるのかを私は知りませんが、すばらしいことだと思います。あなたがある人と関係を結んでいるならば、その人に打ち破りが起こると、それはあなたのものでもあるのです。
トム・ジョーンズ師は、数年前にブラジルで主とものすごい出会いをしました。それは何時間にも及ぶもので、聖書に書かれている出来事のようなレベルのものでした。彼の人生はその出会いによって全く変えられました。そして彼は全く知らなかったのですが、丁度同じ時に彼の奥さんはフロリダの高速道路を運転していて、その時主とのものすごい出会いが起り、運転を続けることができず、車を道の横に止めねばならないくらいでした。何が起こったのでしょうか。これは人との繋がっている恩恵であり目的です。私たちは人との繋がりから退いて人間関係を結ばないという自由は与えられていないのです。ベテルの学校の学生たちの夫や妻は、毎日学生がクラスルームで受けとる分与を同じように受けるのです。
28節「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。『わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』しかしモーセは彼に言った。『あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』」
旧約聖書では、ほとんどの場合、聖霊が下った者は誰でも主のことば、預言を語りました。即ち、聖霊に満たされたというしるしは、預言を語ることだったのです。パウロが聖霊の賜物について語ったとき「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と言ったのは、これが理由だと思います。皆さんは「預言」と聞くと、集会中に行われるものだと考えると思いますが、それは預言の働きの5%くらいです。預言とは私たちの生き方、機能の仕方、考え方、見方、コミュニケーションだと思います。それは「主が言われます」という言葉で始まったり終ったりする必要は全くないのです。それはある状況の中で、時に適った言葉を語ることであり、それが主からのものであるならば、人びとの人生に実を結び、彼らは主に栄光を帰すことでしょう。言葉は「宗教的」に発せられる必要はないのです。主の言葉が発せられたとき、それは霊的空気を変えます。世界はそのような人たちを必死に求めています。
今、世界では宗教の霊(religious spirit)と政治の霊(political spirit)がはびこっていて、それによって神のことばは薄められ、歪められています。ですから正確ではっきりした言葉、力ある言葉が世界の国々、町まちに届けられることを主は願っておられるのです。
私たちは毎日、うそ偽りを語られています。もし何かしらのメディアを聞くならば、そこに含まれる偽りを聞くことになります。(フェイク・ニュース)それは意図的な嘘というよりは、「自分の信じるところを是非伝えたい」という気持からのことが多いかもしれません。しかし、その人の視点が間違っていると、すべてをそのレンズを通して見てしまい、結果としては真実な報道は出来ないのです。
何年も前のことですが、あるサタン崇拝者が救われ、牧師が彼を経済的にサポートしました。メディアはそれを聞きつけて、牧師がこの男を用い、「サタン崇拝者を救った牧師」としての名声を保持しようとしているのだと報道したのです。
そして「この元サタン崇拝者は、牧師からの金でゴルフコースが見えるマンションに住み、ゴージャスな車を運転している」と報道しました。これは本当のようですが、全く本当ではありませんでした。牧師が彼にお金を与えたのは、彼が必要としていたカウンセリングのためでした。彼は虐待を受けて育ったので、傷が深かったからです。ゴルフコースを見下ろすマンションというのは、ただのアパートで、ゴルフコースというのは、ミニチュアゴルフでした。車もすごく古いものでした。ですからすべて「本当」でしたが、まったく真実ではなかったのです。
「宗教の霊」と「政治の霊」は、共に「疑いの霊」を分与します。疑いの霊は、ある状況を曲げて解釈し、人びとの心に不快感、腹立ちの霊を起こさせます。それは一見預言の霊のように見えますが、じつは偽物です。その霊を受けると、あなたは「このままには放っとけない!どうにかしなくてはならない!何か言わなければならない!」という強い気持を抱きます。しかしその情報のもとが実際は偽りの霊であることが分からないのです。「疑いの霊」は人から人へ分与されて行きます。あなたは間違った情報を聞いて、当然ながら心を揺さぶられます。それが間違った情報だと分からず、その結果、あなたは間違った反応をし、間違った行動をしてしまうのです。(訳者注:今のアメリカはまさにそうです。)
レディングの空港に戻ってくると、時々私をののしるクリスチャンに出会います。多分それは、彼らが私に関するインターネットを見たか、人から何かを聞いたからだと思います。彼らの私に関する「確信」は正しいかもしれません。ただ彼らが信じた「情報」が間違っていたのです。彼らの態度から、「私は主のためにこれをしているのだ!」という強い確信があることが分かります。正しい行動だと信じているのです。しかし誰かが偽りを彼らに信じ込ませたのです。
預言的で霊的見分けが出来る人たちは「真の預言の油注ぎ」と「疑いをもたらし、自分の意見を通す怒りの霊」とをはっきりと見分けねばなりません。人生の最大のチャレンジの一つは、あなたが愛し仕えている人が持つ怒りと同じ怒りを自分も持ってしまわないようにすることです。それはとても難しいことです。例えば、あなたが貧しい人を一生懸命助けているならば、金持ちに対して腹を立てないでいるのは困難です。もし裕福な人たちへのミニストリーに召されているならば、きちんと働かない人たちに腹を立てないでいるのは困難です。大学生へのミニストリーをしているならば、保守的政治グループに腹を立てないのは困難です。老人にミニストリーをしているならば、若者に腹を立てないのは困難です。インディアンにミニストリーをしているならば、彼らに不正を行ったものたちに腹を立てないでいるのは困難です。
私たちの働きの実は、私たちがどれだけ人びとを愛し、折りに適った神のことばを与えることができるかによって決まります。
自分の考えを押しつけたり、自分の益になるからではなく、彼らの益のために100%神から受けたことばを語るのです。そして彼らが持つ怒りを自分は持たないことです。歴史上、私達がどれほどこの国のカルチャーに良い影響を及ぼすことができるかは、私たちが「怒り、立腹」という感情をどれほどコントロールできるかにかかっています。これが真理です。(注:自分に死ぬ必要がある)
イザヤ60章は私の人生を変えた大好きな箇所であり、現在の教会のための預言だと思いますが、その一つ前の59章21節は、60章に書かれていることが起こるための舞台を作っています。
「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしにことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」
「神の御霊が人びとにくだること」と「神のことばが彼らの口にあること」の密接な関係がここでも言われていることに留意してください。神の御霊が私たちに留まっている証拠は、私たちの口から神のことばが発せられることなのです。イエスは「わたしは父の言われることだけを言う。」と言われ、私たちが話すべきことの基準を示されました。地上を歩かれ人の中で、一番すばらしい独自の考えを持っていた人は、多分イエスだったことでしょう。けれども主は自分自身のことばは何も語られなかったのです。
ヨハネの福音書7:18には「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。」とあります。自分から語るとは、御父が語られていることに耳を傾けようとせず、自らのことばを語り、それによって密やかに名を上げようとする行為です。
使徒行伝3を見てみましょう。2章の聖霊の大いなる注ぎの後のことです。24、25節に「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。」とあります。イザヤ59章はイスラエルに与えられた言葉でしたが、預言的には「贖われた者たち、即ち教会」に対して言われたことばです。そして使徒3:25は明らかに教会へのことばであり「あなたがたは預言者たちの息子、娘です」と明言しているのです。
これは「あなたや、あなたの子孫、あなたのすえのすえの口にわたしのことばを置く」という契約の成就です。神が私たちに御霊をくださり、いずれの世代においても地上に神のことばを宣言し解き放つことが出来るようにされたのです。私たちが受け継いでいる相続財産が何なのかを知ることは重要です。まず神が「私たちがどのような身分の者であるか」と言っておられるかを知らねばなりません。自分の「神にあるアイデンティティー」を知るときに、自分の受けている相続財産を用いることができるのです。それは傲慢でもなく、自己中心でもなく、自分に自信があるということでさえありません。神があなたを「預言者の息子、娘である」と言っておられるのです。それによってあなたは「神の御霊を受け」「神のことばを語る」正当な権利があります。この二つは同じことなのです。
イエスは肉となったことばであり、神の臨在は神のことばと同じです。神の臨在をあなたが感じる時はいつでもそこに神の声があるのです。そして神の声があるときはそこに臨在があるのです。
イザヤ51:12、13「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りをおそれている。」
神は私たちが恐れるとき、やさしく慰めてくださる方ですが、この箇所では「わたしが慰めると言っているのだから、あなたには恐れる権利はない!」と厳しく言われています。あまり聞きたくないことばかもしれませんが、時として神はこう言われるのです。
もし私が内向的になり「どうしよう、こんなことになって私の人生はどうなるのだろう。」とつぶやき始めるならば、私は恐れで一杯になってしまいます。恐れは時として自己中心の表れです。それは天を引き延ばされた方を見失っていることだからです。その方が「わたしが慰める」と言っておられるのです。私たちが恐れるのは神を見失った証拠です。この箇所で神は私たちの「人に対する恐れ」を取り扱っておられます。「人に対する恐れがなくなるように祈ってください」と頼まれるとき、私はもちろん祈りますが、人への恐れに対処するためには「神を恐れること」を知ることが必要です。両方を一度に恐れることはできません。
人を恐れるとき、あなたは「神への恐れ」を「人への恐れ」と取り替えてしまっています。人への恐れを持ってしまったとき、私たちはその罪を告白し、悔い改めねばなりません。それによって人への恐れから解放され自由になるのです。人を恐れることから神を恐れることへの転換は、直ぐにできることです。
15節「わたしは、あなたの神、主であって。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたのくちに置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ。』とシオンに言う。」
神はご自分が祝福した者たちを守る方です。祝福した者が敵に食い尽くされるのを見放す方ではありません。祝福し、守ってくださる方です。主は「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた、わたしの手の陰であなたをかばう」と言われます。そしてそれを通して「天を引き延べ、地の基を定める」と言われます。これは「天にあるごとく地にもなさせたまえ」という祈りの旧約聖書版です。神は「天を地にもたらすプロセス」とそのための手段を語っておられるのです。一つの世界(天)にある現実をもう一つの世界(地)にもたらす方法であり道具です。それは即ち「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた」とあるように私たちが神のことばを宣言することに他なりません。
モーセは「すべての民が預言者ならよいのに」と祈りました。イエスは、預言者や霊の父祖たちは私たちが見ているものを見たいと切に望んだと言われました。モーセはあなたや私が生きている今という時代、神のすべての民が預言的な油を持つ時代を夢見ていたのです。私たちの預言は第一に自己中心であってはならず、次に人を暴いたり痛めたりするものであってはなりません。それは人のデスティニーを呼び出すためのものです。主を知らない人であっても、私たちの口を通して神がその人の中にある尊い金塊を呼び起こし、その人の人生が変えられてきたことを、私たちはこの数年間に幾度となく見てきました。彼らはそれまで聞かされていた偽りではなく、神の真実のことばを受け取って、方向転換ができたのです。今ここにいる皆さんすべてに対して、神は力強い、ポジティブな正しいことを宣言されています。私たちがそれを聞き、しっかり受け止めたとき、私たちは変ることができるのです。主は私たちが主の御声を聞くようにと召してくださっています。今は「神の声を聞くこと」ほど嘲られていることはありません。しかし私たちは神の御声を聞きながら、それに従って生活するという預言的な生き方ができるのです。それははっきりした大きな御声とか、壁に字があらわれたというものではないかもしれません。しかし、神の臨在、御霊の臨在の中で生きるライフスタイルを始めるとき、あなたは主の思いを思い、主のことばを語り始めるのです。それは頑張って一生懸命に神の御声を聞くというのではありません。実際、私は頑張ると何も聞くことができません。神を聞くことは努力からではなく、降伏することからくるのです。あなたが自分の決意と努力で(即ち肉で)求めるのに疲れたときに、神は語ってくださいます。
エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」
ここにある「恵み grace」とは神の特別の厚意です。あなたが誰かを励まそうとして口から出したことばを神が承認されるとき、神はその人に恵み、特別の厚意をそそそがれるというのです。
仕事関係の人、或いは近所の人に、何か励ましのことばを語ったり、神がその人の人生にしておられることを告げたり、その人のすぐれた才能を認めたりするとします。そのようにあなたが人の徳を養うことばを口からを出すならば、神はそこに恵みを置き、厚意を置いてくださるのです。
神は「わたしの息子、娘が、わたしからの励ましをこの人に伝えたのだから、わたしは勿論それをバックアップせねばなりません。」といわれるのです。
預言的ライフスタイルとは、常に神の臨在と共に歩み、神の思いを自分の思いにしていくことです。そして人びとの徳を高めることばを口から出す時、神がそのことばのバックアップをしてくださるのです。(終り)
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