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Walk With God Ministries

13 12月

神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣  マット・ソーガー  12月13日


神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣

マット・ソーガー


癒しの力

あるスタジアムでの集会中、そこら中で癒しが起こっていたのですが、12歳の女の子がステージに上がってきた時のことを私は決して忘れないでしょう。その集会で主は私に、耳が聞こえない人の耳を開く祈りをするようにと導いておられました。神の臨在と栄光がその場に満ち、今まで聞こえなかった人々の耳が開き始めたのです。
癒された人々が次々に証をしているときでしたが、私のミニストリーチームの一人がある 少女をステージの上に連れてきました。彼女は生まれつき耳がなく、頭の両横に小さな穴があっただけでした。神の油注ぎが彼女の上に臨んだとき、 耳の中ではじけるような音がするのを彼女は聞いたのです。 主が創造的な奇跡を起こされ、突如彼女の頭の中に鼓膜が形造られ、生まれて初めて耳が聞こえるようになりました。
この奇跡は、私が起こしたのでも何でもないことが私にはわかりました。私の役目は、ただ会衆を賛美に導いて神の栄光を迎え入れただけであり、そのあとのことはすべて神に委ねたのでした。それはメキシコでの集会でしたが、その夜は神の力による多くの癒しが起こり、いくつかの身体障害も癒されました。

コミュニオンとインティメシー

私がすばらしい癒しの力を初めて見たのは14歳のときで、私の母が癒されたのでした。しかし、それからの数年間、そのような癒しが 教会の毎週の礼拝で 起こらないので、その理由が私にはわかりませんでした。 祈っても何も起こらない祈りにうんざりしていました。
誰かのために祈ったならば、何でもいいから、何かが起こって欲しかったのです。私はこのようなフラストレーションと共に、私の霊は聖霊とのもっと深い関係を求め飢え乾いていました。若い私の中に二つのことが起きていました。神は私が現状に満足しないようにされ、私の心に霊的乾きを起こさせ、その乾きは私を聖霊との何時間にも及ぶ交わりへと 駆り立てたのです。

過去20年間、私は神と共に歩むことを学んできました。神は霊的力に満たされて生きる生き方に関して多くのことを教えてくださいました。神は数えきれないほどの人々の人生に何千回も御力を顕してくださり、私にその証人となる特権をくださいました。御ことばに深く根ざし神と親しく歩むことは、神が私の人生を通して ものすごい力を解き放ってくださるのを見るための基盤となりました。
キリストがあなたの心に入った瞬間から、あなたは御霊によって生き始めることができます。神の力の中で生きるには20年間クリスチャンでなければならないということは決してありません。

私もクリスチャンになって間もない頃に、何回も神の力を経験しています。その経験が今の私を形つくっています。神のタイミングは完璧であり、神によって整えられることが不可欠です。整えられることのよって油注ぎが保証されるわけではありませんが、それは油注ぎを持続させます。 神の力と賜物について一つ学んだことは、それは神の恵みから溢れ出るものであり、信仰によって活性化されるということです。しかし、その源はすべて神にあり、神の天よりの栄光を受ける資格は、ただ神の恵みにより与えられるということを忘れてはなりません。自分の努力や行いとは全く関係がないのです。もしそうであれば、私たちもすこし認められてもいいでしょう。しかし、そうではないのですから、すべての栄光は神にあるのです。 内なる徳が高められ キリストに深く根ざすときに、神は私たちの人生の中に計り知ることのできない神の力を注ぎこんでくださいます。

今日は、神の創造的な奇跡の力によって働きための8つの秘訣をお話したいと思います。これらの原則を生活に適応するときに、私たちはしるしや不思議が私たちを通して起こるのを毎日見ることができるようになると信じます。

1.あなたの人生に神の臨在を培う


神の栄光がすべての奇跡の源です。聖霊が働きやすい環境をあなたが培えば培うほど、あなたは神の臨在をもっと持ち運ぶことになります。そして主の臨在をもっと持ち運ぶほど、もっとあなたに力が与えられるのです。聖霊というお方とその臨在を感覚的にも感知しながら、できるだけ長く時を過ごすことによって達成されるのです。 どんな小さなことでも罪を犯した時や 、ほんの少しでも霊的に心が暗闇の方に向いてしまった時は、すぐに告白し悔い改めてください。

異言でたびたび祈っていください。イエスの血潮で覆われなさい。み言葉を黙想してください。歌や祈りで神を礼拝してください。 聖霊に、感覚的に感じられる方法で来てくださいと、できるだけ何度も絶えずお招きしてください。聖霊を悲しませることを避けなさい。 あなたの人生が聖霊で満たされていくとき、奇跡、しるし、不思議が自然にあふれてくるのをあなたは見るようになるでしょう。

2. 心に神の信仰を培う

真の超自然の信仰は、私たちの霊から流れ出て私たちの思いに影響を与えます。その逆ではありません。信仰は、理論や自然界の現実を 超えて、私たちをもっと高い霊的現実へと導きます。神がすでに霊的に達成されたことに、目に見える世界を合致させていきます。
私たちはみ言葉の中に生き、常に思いを新たにしていかねばなりません。 信仰は心に啓示が与えられたときに生まれます。聖霊とみ言葉によって真理があなたの思いと心に啓示されるとき、信仰があなたの内で生きてきます。
ヨハネ8:32に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。常に思いをみ言葉の上に置いて、あなたの思いと霊を神のみ言葉に浸しなさい。そうすれば、真理が啓示され、超自然的な信仰が心に生まれでるでしょう。真理が啓示されることによって生み出される心の信仰が、神の力で働くために究極的な鍵です。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12:2

3. 信仰に行動を加える

力の油注ぎに関して正しく理解しておかねばならないことは、それは ある意図された目的のために理由があって注がれるということです。
イザヤ61:1には次のようにあります。「神である主の霊が、わたしの上にある。 主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げるために。」

癒しと奇跡のための力の油注ぎは、あなたが病人が癒されるようにと祈っ ているときにだけ顕れます。私たちは力の油注ぎが必要な機会を意図的にいつも求めていなくてはなりません。行いのない信仰は死んでいるのです。(ヤコブ2:20)
力の油注ぎは、人々を超自然的な方法で助けるために与えられるものであり、そのときに神の御こころと御性質をも彼らに明らかに示すことができるのです。決して失望してはいけません。一心に集中して粘り強くなければなりません。目に見える状況がどうであれ、自分のヴィジョンを高く持ち、神の御こころと真理を知って理解し、神の信仰によって動かされなさい。この行動が神の力を解放し、奇跡を生み出すのです。

4.熱心に霊の賜物を求めよ

第一コリント14:1には、霊的賜物を熱心に求めよ、と書かれています。私は祈りのときに手を自分のお腹の上に置いて、聖霊が活発になって 賜物が自分の中で顕著に顕れるようにと求めます。癒し、奇跡、知識の言葉、信仰という御霊の賜物はすべて、奇跡を行うミニストリーのためには非常に大切なものです。 あなたが活発になるようにと神に願うと、主はそうしてくださるのです。御霊の賜物はギリシャ語ではカリズマと呼ばれ、「恵みの賜物、何の働きもなしに受ける恵み」のことです。それは神の恵みの顕れです。受けるために働いたり努力はできません。救いがそうであるように、それは聖霊によって値なしに与えられるものです。求めれば求めるほど、もっとあなたは受けるのです。そしてすべての賜物を受けることができます!

5.断食と祈りの訓練


マタイ17:16には、弟子たちが癲癇の少年を癒すことができなかった記事があります。イエスは 質問されたとき、癒せなかった理由は弟子たちの不信仰だと言われました。神の御心に問題があったのではありませんでした。また、イエスは少年の信仰に焦点も当てられませんでした。弟子たちの心の信仰のレベルが問題だったのです。
しかし、もう一つの重要な要素は祈りと断食でした。祈りと断食をする中で、あなたの肉体と肉の思いが神の心と思いに全く服従し、神の信仰があなたの疑いにとってかわる時があるのです。祈りと断食は、神の信仰を私たちの内に解き放つ助けになります。奇跡を生み出すのは私たちの内の神の信仰であり、断食ではありません。この場合、断食と祈りは神の心に存在する信仰の満ち満ちた様にまで私たちの心を導く道として働くのです。
もう一度言いますが、奇跡は私たちの行いではなく、私たちに差し伸べられた神の信仰と恵みによって起こるのです。

6.神の声を聞くことを学ぶ

超自然の領域で働くためには、聖霊なるお方に対する鋭い感覚を発達させねばなりません。神はクッキーの型のように判で押したようには働かれませんし、いつも同じ方法で働かれるのではないからです。これはいらいらさせられることかもしれませんが、事実です。
このことはイエスにも見ることができます。主は毎日の生活の中でしるしや不思議が起こるのを 見られました。しかし主は 同じように祈られたことはほとんどありません。ある時はイエスは人々に手を置かれましたが、ある時はある 行動をとるようにと指示されました。又ある時は非常にかわったことをされました。
例えば、地面につばきして泥を目に塗りました。主は型破りであり御霊に導かれておられました。その鍵は、主は天の父がしておられるのを見てそのことだけをされたと言うことです。(ヨハネ5:19)

父の行動を見たり聞いたりする主の能力は、主が祈りと交わりにおいて父と過ごす時間の中から生まれたものです。もし私たちが霊的目と耳を敏感にしたいならば、神を見たり聞いたりできる場所に自分を置かねばなりません。そのためには「寂しい場所」に行って、自分の心と思いを神にだけむけることができるようにせねばなりません。自分で話すだけではなく、神に耳を傾けることを学ぶことによって霊的感覚を訓練するならば、あなたは御霊によってすばらしい神の力の顕れを見るようにと導かれるでしょう。

7. 油注ぎのあるところに行く

神の力の新しいレベルへと私が進むことができた大きな鍵は、神の動きのある場所に行ってもよいことを学んだことでした。ある人たちは、「神が私に何かくださるのなら、私の部屋に来てくださる。どこかに行く必要はない。」と考えています。勿論、神は私たちの部屋に来てくださることはできますし、実際そのようなことはよくあります。しかし、それだからといって、神が動いておられる場所に行くことによって油注ぎを文字通り「キャッチ」できるという事実がなくなるわけではありません。

神を持ち運んでいる人やミニストリーを見つけて、そばに行ってください。私たちは交わりを通してお互いから学び、 分与を受けます。このように他の人と一緒に神と交わることは、密室での個人的な祈りを通しての神との交わりにとって代わるものでは決してありません。それは個人的な礼拝に付け加えられるものであって、神との関係を補強するものにすぎません。私は現在最も油注ぎを受けている人たちの幾人かと共に交わるという祝福を受けています。彼らとの交わりは私の信仰を燃やしてくれたばかりでなく、私の人生やミニストリーの中に知恵、啓示、力を与えてくれました。

油注ぎのある交わりは、あなたの人生に油注ぎを養うために絶対に必要です。そのような交わりはコーヒーを飲みながらの一対一のものでも、また油注ぎのあるメッセージのCDやビデオ、また集会で共にワーシップするということでもできます。神が臨在される場所に行くことによって神の力に触れてください。

8.愛を動機とする


このことに関して一番重要だと私が思うものは、そして往々にして欠けているものは、愛です。イエスは憐れみの心で病人を癒されました。(マタイ14:14)私たちの心に神の愛が大きく注がれなければ、私たちは全く力がありません。
愛が私たちがするすべてのことの基礎でなければなりません。愛が霊的力を受けたいという願いの基盤でなければなりません。愛がないときに、力はプライドや自慢になってしまいます。実際のところ、人々への神の愛が私たちの心にないならば、力はむなしいのです。(第一コリント13:2)
愛は事実神の力の最も偉大な顕れです。イエスが全き従順の中を歩まれたのは愛の故でした。罪の力とサタンに打ち勝ったのは愛 でした。私たちが互いのために自分の命を与えるのは愛によってです。愛が私たちの信仰を動機づけるのです。(ガラテヤ5:6) 愛によって私たちは御霊の内に生きるようにされるのです。愛が一番偉大な徳 です。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。しかし、愛がなければ、神を知ることは全くできません。
真理で満たされた愛は、罪、誘惑、怒り、不一致、病、圧迫、霊的腐敗、死に対する究極的な霊的武器です。愛はすべてを克服するのです。 これらの原則をあなたの人生に適応して神と共に歩めば、神の栄光ある力と油注ぎがあなたを通して解き放たれるに違いありません。

奇跡が起こるのを待っている人が、ほら、あそこにいますよ!(終わり)


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08 12月

秋の日本旅行の報告 その3   坂 柚実子   12月8日


秋の日本旅行の報告 その3

10月18日の朝、私たちは愛知県知立市の馬場純平宅を訪れました。馬場夫妻はその昔、オレゴンの大学に留学中に知り合い結婚されたのですが、一時、私たちの家の離れに住まわれたこともあり、又、マウンテンパーク教会での伝道活動も一緒にしてくださったので、家族のように親しい間柄となりました。

日本に帰国されたのは20年ほど前ですが、二人のお嬢様を与えられました。
長女の言葉(ことは)さんは現在東京の大学で美術を専攻されています。
今年18歳になった次女の理歩(りほ)さんは先天的な筋萎縮症というのでしょうか、筋肉が全く成長しない病気をもって生まれ、医学では手の施しようがないのですが、奥様の富久美さんを中心として家族中で理歩さんのお世話をしておられます。富久美さんのご両親も同居しておられて、理歩さんが通う特殊学校への送り迎えなど、献身的な愛をもって仕えておられます。



ある意味では、理歩さんが家族の中心であり家族を愛で一つにしているといえるでしょう。彼女は言葉さんと共に数年前に洗礼を受けましたが、身体が不自由な代わりに霊が強く成長しているのがよくわかります。彼女は話すことはできませんが、すべてのことを理解し、また、神と人に深く霊で交わることができるのです。

理歩さんは喉に痰がたまると自分の力でそれを出すことができないので、45分毎くらいに器具を使って吸引せねばなりません。ですから誰かがいつもそばにいなければならず、家族の負担が大きいのが分かります。その他、理歩さんが自分ひとりでできることは全くないと言ってもいいでしょう。しかし、それに対してご家族は「大変だ」というようなことは一言も言わず、神様の癒しを信じて明るく過ごしている信仰の姿には、心から感動させられます。医者からこの病気の人の寿命は長くて18年と言われていたのですが、今はそれを毎日更新中です。どうか皆様も理歩さんのために、またご家族のためにお祈りください。(終わり)


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06 12月

奇跡の乗法的増加のシーズン ギャリス・エルキンス 12月6日


奇跡の乗法的増加のシーズン

ギャリス・エルキンス


最近のウォール街での株価の値下がりは、多くのアメリカ人に家計や将来に対する不安を抱かせました。経済安定の基礎が今、揺るがされています。

この世の王国は、普通の足し算や掛け算の数学を基盤に動いている組織です。それは、人間の目で実際に見ることができ、人間の頭で理解できるものからのみデータを集めるシステムです。しかし神の御国は、今まで知られてきたものを侵略し、普通の足し算掛け算の法則を「奇跡の掛け算」によって覆すものなのです。

奇跡の掛け算によって変えられる地

聖書の中でもっとも興味のある物語の一つに「5千人の給食」があります。マルコ6章によると、イエスは一人の子供のランチを取り、多くの群衆(女性や子供もいたことを考えると、2万人以上だと思われる)への奇跡のご馳走に変えられたのです。

6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」


この群衆は何時間もイエスの後に付いて来ていたのですが、そのための食料を何も用意していませんでした。私たちが何かがなくて大変困惑するのも、しばしば人里離れた何もないところにいるときだということに気づかれましたか?マルコ6章ではまさにそれが起こったのでした。キャンプ用具が入ったリュックサックもありませんし、食料を買う店もありませんでした。群集はイエスについて田舎を歩いていたのです。町からは遠く離れていたのに必要はとてつもなく大きかったのです。

弟子たちは大群衆の大きな必要を見て、自分たちなりの解決法を考えました。彼らはイエスに「人々を解散させてください。」と言いました。つまり、「私たちは疲れてお腹もすいたし、もう忍耐力も尽きてきました。この群衆に関する問題を無くしてください。」と言ったのです。しかし、イエスは今から起こそうとしておられた奇跡に、弟子たちも参加するように招かれたのでした。

奇跡的掛け算は今持っているものから始まる

6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

これは自然界の普通の足し算と掛け算から発せられる言葉です。「何を食べさせるのか?」という言葉は、見渡すかぎり何もないへんぴな場所で、奇跡は見えるものを通してだけ起こると私たちが考えてしまっているときに、口から出てくるのです。

イエスは38節で一つの質問をされました。
6:38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」」

あなたの今の人生の中で、へんぴで何もない場所はありますか? 老後のための資金が急速に減ってしまいましたか? 結婚生活が危機に面していますか? ミニストリーの支援者が減っていますか? 次にどの方向に進めばよいかわからなくなっていますか? 今の必要を満たすには程遠いほんのわずかの物しかない、しかもへんぴな場所に立っている自分を、あなたは発見するかもしれません。

奇跡の掛け算は、今すでに持っているものから始まります。人里離れたところに何千人もの空腹な人がいたのです。弟子たちはどのくらい食料があるか調べてみました。その結果、いわしのような小魚が2匹と、マフィンのようなパンが5つ見つかりました。これだけの大勢の群衆の中で、見つかったのはこれだけでした。

6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。42 人々はみな、食べて満腹した。43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

奇跡の掛け算的増加は驚きと喜びの叫びを起こす

50人とか100人のグループが全部でいくつあったかを考えてみれば、この奇跡のごちそうを全員に配るには数時間はかかったとみるのが妥当でしょう。奇跡が起こっているのだ、ということが人々に分かり始めたときの喜びと興奮の渦を想像してみてください。この奇跡の掛け算的増加は一瞬にして終わったのではなく、次ぎから次ぎへと続いたのです。

私たちが奇跡的掛け算の環境の中で生きることを始めると、あの日丘の上で響いていたに違いない声が聞こえるようになるでしょう。それは、神の奇跡の御業を見て驚き喜ぶ人々の叫びです。

神の愛をまだ知らない人たちの間で喜びの叫びが起こるシーズンがやってこようとしています。神はまず教会に奇跡的掛け算をもって与えてくださり、次にそれが街へと広がり、スーパーナチュラルな福音伝道が起こるのです。

街の広場で奇跡的掛け算の御業が起こったならば、街全体がどう変えられるか想像できますか? 御国について人に知らせるには「神の慈しみ」を用いるのが最善の宣伝方法です。聖書には「神の慈しみが人々を悔い改めに導く」と書かれています。

奇跡の掛け算的資源は天に用意されている、見上げなさい!

自分がへんぴで何もないところにいると分かったときに私たちがとる姿勢には、2つの選択枝があります。
1. 下を向く。イエスは人々に食物を与えるようにと弟子たちに言われました。私たちも弟子がしたように下を向いて、手に持っているランチを見、「一体何を食べさせるのか?」とつぶやくこともできます。膨大な必要性を目の前にして、自分の欠乏だけを見てしまうのです。

2.上を見上げる。イエスは別の姿勢を示されました。主は上を見上げました。マルコ6章で、イエスは少年のランチを手に取り、天に上げ、祝福してから人々に与え始められました。主はそのへんぴで何もない場所から上に手を伸ばされて天に触れたのです。

私たちの資源 は、自分の手に持っているものではありません。また、ウォール街が告げるものでもありません。私たちの資源は天にあり、私たちがそれを掴み取り自分の人生の中に取り込むために用意されているのです。私たちの存在すべて、また、必要すべては、神の御座の周りにあるのです。

もしも自分の資源は現在の不景気な世の中にだけあると思うならば、私たちはその限られた資源に手を伸ばすでしょう。しかし、神は私たちが、経済問題、病気、崩れた人間関係をすべて天に向かって上げて祝福することを選びとるようにと願っておられるのです。自分の必要を天に上げて祝福すると、その必要は神の栄光と結びつけられるのです。

主の栄光こそが私たちの持っているわずかなものを溢れるばかりの豊かさへと変えるものです。私たちの必要が天の衣のすそにひとたび触れるならば、それは天の栄光を帯びて地上に戻されるのです。少年のランチが神に捧げられないならば、それは手の中でランチのまま残り、奇跡の大宴会とはなりません。

へんぴな場所でもうなすべき術がないと思えるようなとき、私たちは神からの奇跡が必要です。教会はこの世と同じように恐れの中で生きることも出来ます。しかし、愛なる天の父が私たちが持っているわずかなものを、神の栄光によってスーパーナチュラルなトランスフォーメーションのために変えてくださることを期待して、それを天に差し出して祝福することも可能なのです。

今日、あなたの必要を満たすものがどんなにわずかであっても、それを天に上げて祝福することを選びとってください。そして御座に上げられたあなたの必要に神が触れてくださるように頼んでください。そして、その必要をへんぴな何もない場所に戻して、それを人々に分け与え始めてください。あなたが持っているものに天が触れてくださるのは、あなたが所有するためではなく、周りの人へ解き放っていくためです。あなたが与えるものは増え続け、それはやむことのない供給源となっていくでしょう。

あなたの中で恐れが頭をもたげようとするときには、いつも恐れに向かってこう宣言してください。
「私は今の状況を天にすでに差出し、神が私の必要に触れてくださいました。私は天から私が持っているものの奇跡の掛け算的増加を引きおろしています。この世が不可能だというところで奇跡が起こることを私は知っています。神にとって不可能なことはないことを信じています。少年のランチを奇跡的掛け算の宴会に変えることさえも可能です。」 (終わり)


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02 12月

御国で必要な全き信仰の祈り  坂 達也   12月2日


御国で必要な全き信仰の祈り 

坂 達也

 イエスは弟子に言われた。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。(ヨハネ12:24)この「一粒の麦」とはイエスご自身である。その一粒の種が十字架で死なれた結果、多くの実がなった。神の創造の原則(創世記1:11,12)からすれば、イエスと言う種から生まれ育ったクリスチャンと言われる私たちは、皆イエスに瓜二つで似ていなければならない。似ているだろうか。残念ながら似ていない。
しかし今、私たちが御国において、皆イエスに似たものとなる時が来た。イエスとそっくりの者たちとは、即ち、「キリストの花嫁」である。イエスは私たちをご自身の花嫁にするために今、御国において「みことばにより、水の洗いをもって、(私たち)教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ」ようとしておられる。」(エペソ5:26,27)「栄光の教会」とは「キリストの花嫁」を指す。 

「主の祈り」(マタイ6:9-13)

 マタイ6章にある「主の祈り」は、御国を実現するための祈りであると言うことに、最近改めて気が付かされた。御国とは栄光の花嫁である教会が完成されるところだ。そのために主は私たちにこの祈りを教えられた。従って、主の祈りは終末の教会にとって最も重要な祈りであると同時に、この祈りを実行して行くことが私たちへの至上命令なのである。

 「7. あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。8. あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 12. わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(
マタイ6:7-13)
 
 7、8節は前置きであって、祈りの心構えを教えている。9節から祈りに入る。「9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。』」

 最初に、天の父をあがめることが、私たち教会が存在する究極の目的であることが示されている。そして御国を完成することこそが、天の父の「御名があがめられる」ことになるのだ。
 「10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」
 「御国が来る」と言うことと「御心が天で行なわれるように地でも行なわれる」ことは同義語で、後者が前者を説明する。それでは「御心を行う」ためには私たちはどうすればよいのか。それは旧約聖書が一貫して私たちに教えてくれている。その教えを一言で言えば「主の御声に聞き従う」ことだ。しかもヨシュアとカレブのように「主に従い通した」人にならねばならない。

 申命記8:3では「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と教えている。ここで「主の口から出るすべての言葉」とは一般にモーセ五書Torahと言われる、神がモーセに語られ記された律法の書を意味している。(私は最近この五書を読むことが今の私たちにとっていかに大切であるかを再認識させられている。)神はヨシュアに「 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と命令した。(ヨシュア記1:8)

 私たちにとっては、単に律法の書だけでなく聖書全体を夜も昼も口ずさみ、それを実行せよと言う教えである。しかし、それはクリスチャンになるための基礎作りのベーシックに過ぎず、その上に、いつも聖霊が語る生きた主の御声に耳を傾けねばならない。
 主はアブラハム、モーセ、ヨシュアに語り続けた。その指示に聞き従って行動した時に全き主の御心がなされたのだ。ヨシュア記にそれが顕著に示されている。ヨシュアは主から言われたことを実行した時にのみ、敵に完勝することが出来た。
 
 新約聖書でも主イエスは同じ事を強調した。マタイ13章の種まきのたとえのところで、主は「19. だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。...22. 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23. 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:19-23)と言われ、みことばを聞いて悟ることの大切さを説く。又、前述のエペソ5:26では「みことばにより...教会をきよめて聖なるものとする」と約束された。

 次に「11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」であるが、ここで言う日ごとの糧とは、私たちが毎日必要とする総てのものを意味する。主は既にそれをよくご存知で(マタイ6章25-34)「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と保障されているのだから、物質的なものを祈る必要はない。それよりも御国の実現のために主の御心を忠実に行う(それが義の意味)ことを求めよと言われているのだ。

 では何を祈ればよいのか。それは私たちに今日必要な主の御言葉が与えられることを祈り、具体的な指示を啓示の形で仰ぐことである。私たち御国を建て上げる者にとってはこれこそ一番必要なもの、霊的な米の飯である。
 又、私たちが過ごす御国の毎日とは敵との戦いであると言えよう。近代戦争において、上官からの指令なしで戦場で勝手に戦う軍隊はいない。同じように私たちも、御国の王である主から必要な指示を仰ぎ、それに従って動くことが要求されるのだ。

  「12. 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
 天の父に対して 私たちが持つ最大の負い目とは何であろうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と言われる以上、それは神が喜ぶ信仰を私たちが持っていないことではなかろうか。神に従い通せなかったと言う不信仰の負い目である。私たちは不信仰であるがゆえに、人に対しても負い目をつくる。これを私たちは真っ先に悔い改め、主に赦しを請わねばならない。それには先ず、同じように不信仰の結果で自分に負い目のある他人を赦すことだ。これは御国に住む人間の大原則である。

「13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(新共同訳)

 私たちにとっての最大の誘惑とは何か。それは主への全き信仰を持たずして、つい人間的な思いと考えで行動してしまうことではないだろうか。人間にとってそれが一番楽なのである。それは人間的信仰という妥協の信仰だ。厳しく言えばそれは信仰ではない。多くの人は神を信じていると言うが、普段は神に聞かずして自分で人間的に判断して行動する。どうしてもうまく行かない時だけ神の助けを乞うが、日頃から神の声に耳を傾けていない人は、神の声を聞こうともしないし、又聞こえない。
 現代のクリスチャンの大部分は、残念ながらこのような妥協した信仰しか持っていないため、結局は神が与えた約束の道を究めることなく、人間的なぬるま湯の教会生活を右往左往し、とどのつまり「荒野を右に左にさまよって終わる」可能性が大きいのである。このような人は荒野で野たれ死にをすると言うのがモーセ五書からの警告である。
 
 その点ヨシュアとカレブが持っていたのは、神への全き信仰であった。民数記13章に、約束の地を目の前にしたイスラエルの民が、これから攻め上がる敵地を偵察するためにヨシュアとカレブを含む12人の斥候を送った話がある。
  第一に気が付かねばならないのは、この約束の地に斥候を出して探らせるという考えは、元々神のものではなくイスラエルの民からの発案であったことだ。(申命記1:19-28)初めからイスラエルの民は神が定めた「約束の地」に向かっていたのであるから、今更斥候に探らせる必要など全くなかった。従ってこの民の申し出そのものが既に神への不信仰の現れであったのだ。
 斥候の旅から帰ってきた12人は持ち帰った大きな葡萄の房を見せて、この約束の土地が肥沃であることを立証した。しかしヨシュアとカレブを除く10人は、そこの住民がアナクの子孫で背が高く、自分たちがいなごのように見えた程強い巨人たちであり、町々には高い城壁がめぐらされていて戦っても到底勝ち目はないと言う報告をした。彼らは相手が巨人なので恐れたのだ。又それを聞いた全会衆は大声で泣明かしたと言う有様で、「戦いは神がなさる」という信仰など吹っ飛んでいたのである。


 誰でも人生の歩みの中では色々な恐ろしい巨人に出くわす。巨人が現れると恐ろしくて前に進もうとしないか、進もうとしても力が出ない。
 霊的に言えば、私たちの敵なる巨人とは悪魔である。人間は長年その下で奴隷となり、悪魔に追従する人間的な考えで生きることにあまりにも慣れ親しんで来たので、クリスチャンになってもそう簡単にそのような人間的な生き方からは抜け出せないのだ。それをよくご存知のイエスはペテロに対して「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と看破し警告した。(マタイ16:23)

 そうである以上、私たちにとっての最大の誘惑は「悪魔に洗脳された人間的な考えと思い」で生きることである。なぜならそれが一番人間的に快適で楽な生き方であるからだ。問題は、私たちはいつも放って置けば自然に「人間的に」なってしまい、信仰がなくなることだ。これが恐ろしいのである。あれだけ神の奇跡を実際に経験しながら、イスラエルの民が巨人を恐れおののいて、約束の地に上って行こうとしなかった原因もここにある。

決断の十字路

 実はその時、イスラエルの民はヨシュアとカレブから「我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださる...主に背いてはならない。...そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。...主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数14:8-9)という本来の信仰に立ち返るように迫られたのである。

 イスラエルの民はここで信仰で決意する十字路に立たされたのだ。この十字路で彼らには三つの選択のオプションがあった。 一つは神を全面的に信頼して、ヨシュアとカレブの言うように真っ直ぐに強敵のいる敵地へ予定通り乗り込むこと。二つ目は「どう見ても敵が強過ぎるから勝ち味はない」と言う人間的判断から、「いずれにせよ荒野の生活はつらいし、自分のために言うことを聞いてくれない神など置いて、もう一度この世のエジプトに引返そう」と言うオプションである。三番目は、どちらでもなく、そのまま荒野をさまよい続けるオプションであった。

 イスラエルの民は、結局十字路で中途半端な信仰ゆえに「荒野をさまよい続ける」と言うオプションを取った。これは後にヨシュアが「神の道を離れて右にも左にもそれてはならない」(ヨシュア記1:7)と警告した不信仰の路であった。彼らは巨人を恐れたので、どうしても神の命令に従うことが出来なかったのだ。
 クリスチャンにとっては信仰が全てである。総てを神に信頼する「全き信仰」を持つ時にのみ、神のすばらしい約束の地に着けることが保障されていると言う厳粛な事実を、私たちは忘れてはならない。
 
 その「全き信仰」を持とうと思えば、私たちも毎日この十字路の決断を迫られていることを認識する必要がある。そしてその十字路に自分の十字架を立てなければならないのである。それは人間的な自分の思いと考えに死んでイエスを見上げ、イエスの指示を仰ぐことを意味する。そうしなければ人間はどうしても自分の人間的な判断に引きずられてしまうのだ。それしか真の信仰の路を誤らずに歩む方法はない。
 それを知っているパウロは「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と言った。(ガラテヤ2 :20)

 自分の考えを一切十字架につけ、真っ直ぐに見上げる時にイエスが見え、イエスの声を聞くことが出来るのである。その十字架を十字路の真ん中に、前方を頭にするように置く時に、十字架を真っ直ぐ上に登る道が約束の地に到達する正しい信仰の路であり、その方向へ一歩踏み出す勇気と力を主が下さることを私は疑わない。

霊の戦いの本質

 ところでこの「13わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」という祈りは、私たちに「霊の戦い」の本質を教えてくれていることにご留意いただきたい。
 クリスチャンと言っても「霊の戦い」を知らない、あるいは、ほとんどしようとしていない人たちが大勢いる。これは本当に悲しい事実だが、悪魔の誘惑に堕ちて眠らされているからである。
 しかし、その一方で「戦うことこそクリスチャンの本来の姿」とばかりに、勇ましい戦いの歌を歌って空に拳を振る人たちもいる。まるで自分たちで戦うつもりで気勢を上げているようだ。気を付けないとこれも巧妙な悪魔の罠にはまってしまう。

 私たちのために戦うのは神であるとすれば、私たちは神が最も喜ばれることをすべきである。それは戦いを前にして私たちが心を一つにし心から主を礼拝し賛美することである。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ロマ書12:1)
 私たちが真の霊的な礼拝をささげることによって主が喜ばれる時、主はその場に来られてすばらしい臨在と油がそそがれる。

 確かにクリスチャンは悪魔に対してイエスの権威を使える。しかし、その権威は「天のみこころが地で行なわれる」時に最も効力を発揮する。正しい権威の使い方とは、その時その時与えられる主の御言葉を宣言し、それを忠実に実行することである。
 主から先ず「こう言いなさい。こうしなさい。」という指示を聞き、それを指示通りに実行する時、主が「悪い者から救ってくださる」「だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(ヨシュア記1:5)ようにして下さるのだ。同時に、主ご自身の御国の御計画が私たちを通して着実に実現して行くのである。

 忘れてならないのは、多くの場合に主は敵を恐れさせて退散させたり、同士討ちをさせて、イスラエルの民は戦わずして勝利を得ていることである。それはヨシュア記を見れば明らかだ。戦いの前に「主はヨシュアに仰せられた。」と書かれていて神からの指示をその通りに行った時には、神は敵をイスラエルに渡されて圧倒的に勝たせ、「主の指示を仰がなかった」時は問題を残した。「霊の戦い」と言うが、本当に戦うのも勝たせてくださるのも主である。しかも主と悪魔では初めから悪魔に勝ち目はないのだ。しかし、悪魔は私たち人間が自分の方法で戦って勝てる相手ではないことは確かなのだ。この思い違いだけは絶対にしてはならない。

 主の祈りにおいて「悪い者から救ってください。」と祈るように教えられても「悪い者から自分で勝利しなさい」とは指示されていない。あくまで「戦われるのは主」であることを忘れてはならないことをこの主の祈りは教えてくれているのである。さあ、今日も御国の民である私たちは、主から教えられた祈りを祈り且つ実践しようではないか。(終わり)


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29 11月

新たなハーモニー、新たな音 チャック・ピアス 08年11月29日


新たなハーモニー、新たな音、新たな軍隊が地上に起こる!

チャック・ピアス 


変えられている聖徒の皆さんへ

今は多くのことが変化しているときですが、その中で主が「凱旋する予備軍」について私に語ってくださいました。それを日曜日の集会で人々に話したとき、神の御霊が臨在をもってみんなを圧倒し、預言の言葉と新しい歌とを与えてくださいました。これから新しいシーズンに入るに当たって、これを読んで心にしっかり受け取ってください。

凱旋する予備軍

主の言葉。「わたしが今まで整え備えてきた予備軍を呼び出す時が、今こそ来た。予備軍は“舞台のそで”や“棚の上”で、彼らを荒野から呼び出すわたしの言葉が発せられるのを待っていた。時は今だ! 時は今だ! 時は今だ!

予備軍は、待つことによってそれまで持っていなかった力と栄光を身に帯び、ついに今、意気揚々と進み出てくる。整列した軍隊は美しさに輝いている。多くの者が『この荒野から上ってくる人は誰だろう?』と言うであろう。 
彼らが閉じ込められていた牢獄から解き放たれて行進し始めると、今まで見ることができなかったような強さと力で彼らは輝くであろう。彼らは変えられたレムナントになる。あなたも凱旋する予備軍の一人として指名されているのだ。

あなたは大混乱の真ん中に立つであろう。そしてあなたを取り囲む主権者たちにむかって、ヨセフの虹色の外套のように、大いなる恵みと知恵が豊かに示されるシーズンがくるであろう。
わたしが来るときには美しさがもたらせる。このマントルはあなたの前で広げられ、あなたを新しいやり方で被い包む。あなたは自分の自由と栄光のマントルが今までは人に見えないようにたたまれていて、わたしの真の民が誰であるかをこの世が見ることができないようにして来たことを今まで理解できなかった。

わたしはこれからの14ヶ月のうちに様々な変化をもたらし、それによってマントルが見えるようにする。わたしは人がするすべての決意・決定を見逃さない神である。わたしは歴史の神である。わたしは現在の神である。わたしは将来の神である。わたしは過去においてなされた多くの決定を見て来たが今それ(その結果)が現れる始めている。しかし今、わたしが過去と現在とを取って、あなたの未来が目で見えるように顕すのをあなたは見るであろう。 

わたしは、今詮索され攻撃されている、“あなたが相続するもの”が確保できるようにするために、新しい指令を下す。あなたの聖なる住まいに帰りなさい。なぜならばあなたは自分の感情のほしいままに千じに乱れ、収拾つかなくなるまでに放置したからだ。今というときにわたしのレムナントが、わたしがひろげているマントルを着るためには、聖さが必要なのである。」

新しい歌が湧き出た

「変革の音が今ここに
変革の音が地を満たす
知恵の声が流れくだる
恵みの声が花の冠のように降りてくる
変革の音が今ここに
変革の音、新たな日
わたしは勝利の地へとあなたを呼び戻す
安息の地へと呼び戻す
勝利の地へと呼び戻す
安息の地へと呼び戻す
愛は私の過去には気をとめない
愛が振り返るなと言う
愛が主の御腕の中にあなたを包む
愛は私の過去に気をとめない
愛は振り返らない
出て来なさい、出て来なさい
わたしはあなたを愛しているのだから
愛が私の過去を覆う
愛が私の過去を覆う
私はもう後ろを振り向かなくてよい
主がわたしの過去を覆うため死んでくださったから」
(メレディス・モウルデン&ジョン・ディックソン)

神の安息の場所に戻る

「 この地でわたしの民がするべき聖なる帰還がある。彼らは後ろに下がって、わたしが彼らの前を行くのをよく見てその後についてゆかねばならないからだ。わたしはあなたの先を行く神であり、わたしがこの日に行くべき道を知っている神であることを認識しなければならない。行く手の道が分かれて軍隊が正しく進めなくなる前に、後ろに下がりなさい。下がってあなたの安息の場所に戻りなさい。
わたしのうちにある聖なる安息の場所に戻りなさい。閉じ込められ栓をされていたあなたの中の信仰を、わたしは目覚めさせ、重要な時と場所にあらわれるようにする。わたしはあなたの使命を新たにする。聖なる帰還が起こる。

わたしの民は住まうべきところに留まらねばならない。敵があなたをわたしの住まいからおびき出す時には、それがどのように正当な理由に思えても、わたしの臨在の力の外に出るならば、あなたは敵が様々な領域に入りこみ忍び込む権利を敵に与えてしまう。それを許してはならない。もし許せば、敵に治める権利を与え、敵の管理体制に入ってしまうであろう。

わたしは今、新しいやり方で人々をわたしが召し出すことができる場所まで彼らを帰還させているときだ。新しいワーシップのかたちがある。わたしの心の中には人々に礼拝の仕方、いけにえを捧げる方法を変えてほしいと叫ぶ思いがある。わたしのもとに来て新しい聴き方をせよ。熱心に耳を傾けよ。 

今はあなたが立ち上がらねばならない時である。未踏の高嶺まで昇ってこなければならない。膝をかがめてワーシップし、上に昇って来なさい。今、(わたしに完全に)服従することなしには、この地上でのわたしの霊の動きを見ることはできない。

わたしは覆っている

わたしは地上の多くの場所をひなをかえすように覆っている。政府、経済、又、霊的組織の上を。そして今までそれらの組織が機能していた構造を変革している。あなたのこころの中で、わたしより上の位置をしめているものを取り除きなさい。わたしより上に置かれているすべての画策や目標は取り除かれなければならない。

これからはあなたがたの心に「自由」がなければならない。その新しい自由はわたしがあなたがたに示す道を進ませる。自由への叫びとワーシップをしたいと求める叫びは、これからの時代にあなたがたを救うであろう。あなたは今まで自分たちの国の権威というかさの下で自分の自由を得ようとして来た。しかしわたしは言う、もっと真の自由とはどういうものであるかを理解することができる、より優れた道を悟りなさい。あなたたちはこの世の政府のする業がどんなものであるかを本当には理解していない。

立ち上がれ。あなたの自由は人間の声の中にあるのではなく、わたしの声とあなたとのリレーションシップ(関係)の中にあるのだから。聞け、聞け、聞け。今はわたしの声を知らねばならない。束縛からお前を導き出すのはわたしだ。未来
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