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23 12月

秋の日本旅行の報告 その5   坂 柚実子 12月23日


秋の日本旅行の報告 その5

坂 柚実子

秋の旅行の最後の数日は福島でした。本当は福島だけ私たちが来日中のグルーバー先生の通訳をする予定だったのですが、 アメリカで留守番をしておられた奥様のジュディスさんの病状が悪化したため帰国されたので、私たちだけで行くことになったのです。

この写真は福島の旭町バプテスト教会で、小久保先生ご夫妻、お嬢様の信子先生が牧会されておられます。また、幼稚園を経営されていますが、かなり徹底したキリスト教主義を貫いておられます。子供たちの毎日の礼拝は、「黙想」から始まるのですが、その時に流れる曲が、なんと私の大好きなルス/ファーザルが歌う詩編27:4なのでした。信子先生の選曲だそうですが、こんな油注ぎのある曲を聞きながら静かにしていることを学ぶ子供たちは幸いですね。



主人が話をして一人一人に油を塗って祝福しましたが、その後、子供たちが主人の周りに集まって祈ってくれました。これには主人も感激でした。

教会の向かい側の建物では、信子先生が英語塾と学童保育をしておられます。幼稚園生から中学生までが、それぞれの学校が終わったあと集まってきます。ここでもキリスト教教育が行われ、まず賛美と礼拝をしてから、宿題などをする時間になります。この日は私たちにヒップホップの賛美のダンスを披露してくれました。子供たちがとても素直に福音を受け入れてイエス様を愛するようになっている様子がわかりました。



今回の旅行は沖縄から秋田までの13の教会に行かせていただき、大きな祝福を受けましたことを心から主に感謝すると共に、皆様のお祈りに感謝いたします。
クリスマスが近づいてきました。私たちは今年は 息子のいるニューヨークでクリスマスとお正月を迎えることになりました。皆様もお身体を大切によいお年をお迎えください。(終わり)


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20 12月

「主を見つめて待つ」祈り(1)   坂 達也  12月20日


「主を見つめて待つ」祈り(1)

                           坂 達也


哀歌3:25-26に「主はおのれ(主を)を待ち望む者と、おのれ(主を)を尋ね求める者にむかって恵みふかい。主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。」と言う御ことばがあります。
又、詩篇でダビデは次のように歌っています。「1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。3 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」(詩篇131:1-3)

最近は「主を見つめて待つ」祈りをされている方が日本でも増えて来ていることが今回の(2008年秋)日本旅行でよく分かりました。それは本当にすばらしいことです。それにつけても、このお祈りの秘訣は「自分の心をいかに静めるか」の一事にかかっているように思います。

先ず、このお祈りをするのに一番適した時間と言えば、その日の活動が始まる前の早朝のひと時か、あるいは周りが寝静まり、一日の活動から解放された夜の遅い時間ではないでしょうか。しかし夜はその日一日の労働・心労のざわめきが残っているので、朝の寝覚め時の魂の状態の方がより休まっていると言う点で私は朝を好みます。 

次に祈る時の姿勢ですが、椅子、ソファに背筋を出来るだけ真っ直ぐにして、しかし楽に長続きする姿勢で座ります。(あるいは座禅をするようにあぐらをかいても可)私の場合はベッドの高さが63cm、下部が25cm程空いていますので、そこにひざを入れ、小さな15-17cm高の木の安座にお尻を置いて(ひざまずくように)座ります。腕でベッドの上にひじをつき、疲れたら上半身をベッドに寄りかかるようにします。しかし出来るだけ背筋を真っ直ぐに保ちます。顔は少し上向け、目を閉じて上を見つめます。これが私にとって一番楽な姿勢ですが、それでも30-40分が限度です。その後はベッドの上に背中をヘッドボードに(枕をかって)もたれかかるようにし足を延ばして座ります。疲れたらソファーに座るのもよいと思います。但し、病気の時以外は出来るだけ横になって寝る形を取らない方がよいと思います。

こうして主と対面します。最初は特に主の臨在感が無い時が多いのですが、それでもやさしい主が前におられることを信仰で意識し、心から主への敬愛と礼拝の気持ちを持つようにします。そしてその気持ちを心でやさしく主に語りかけ、あるいは手を上げて(声を出しても出さなくても結構です)主を心から感謝し賛美します。しばらくこうして主に語りかける時間を過ごした後は主の語りかけを期待して待ちます。

主の前に出ているのですから、主だけを思い、出来るだけよそ事を考えないようにします。しかし、そうしている積りでも、心のどこかで心配事や、その日にやって来る、あるいは既にやって来た大事なことから心を完全に引き離し全く幼児のように無邪気な心で主の前に立つことは、意外に難しいことがお分かりになると思います。

人間の持つ意識の状態は実に微妙に働くようです。例えば、少しでも「急ぐ気持ち」とか「何かをしよう、しなければならない」と言う思いがあると、気持ちに「気負い」が出て心が静まった状態にはなりません。
昔仕事をしていた頃に接待ゴルフをやっていましたが、ゴルフは心の思いが如実に影響するスポーツです。飛行距離を延ばそうと思えば、腕から力を抜いて只クラブを握っているだけの状態にして腰の回転に自然について行くようにすると、振り子の原理でクラブの先では大きな遠心力が働き、球は思いがけないほど遠くへ飛んで行きます。しかし実際は、遠くへ飛ばそうと思えば思うほど力んで腕に力が入り、遠心力による加速を殺してしまう結果、かえって飛ばない経験をされた方は多いと思います。腕の「力を抜け」とよく言われましたが、痩せて非力の私には、飛ばしたい一心からでしょうか、どうしても腕の力が抜けないのです。

主を見上げる祈りには、何かしらゴルフの飛行距離の秘訣に通ずる点があるようです。それは「自分の力でやろうとしてはならない」と言う点です。「自分(肉)に死んで神の力(霊)に総てを委ねる」クリスチャンの生き方の基本と似ています。

本当に自分の魂を静めるためには、先ず、私たちの魂が詩篇131を歌ったダビデのようであるべきです。万軍の敵を前にしたダビデは、主の前に心から「へりくだり」、自分の力で戦って勝てると言うプライド(力み)と憂慮を捨てて(アバンダンメント)自らを解放し、静かに只主だけを見上げました。これが聖い、静まった「主への全き信頼」の心であると思います。そうすれば主は必ずその信頼に応えて下さいます。それが上記の哀歌で言う「主の救を静かに待ち望むこと」でありましょう。ここでぜひもう一度上記の二つの御言葉をじっくり味わってみて下さい。

このような静まった心になった時に主からの平安が来ます。いや、来ると言うよりも、元々私たちの中には主が内在されているのですから、主の平安があるはずです。私たちは日頃忙しくしていると気が付かないのですが、本当に静まった時にはその平安を感じることが出来るのです。その点主の御声も同じです。主は私たちに親しく話しかけて下さっていても、霊的な声は「静かな小さい声」(still small voice)ですから私たちの魂が騒いでいる間はそれが聞こえて来ません。
御声と言えば、私たち被造物はみな、元々創造主である主が言葉で語って造られたのですから、その創造主の御声を聞くと、むしろ懐かしい親しい気持ちがしてもおかしくないと思います。

主イエスは父の御前にいつもおだやかな心と、全き信頼をもって立たれました。そうすると主には天の父がされていることが見えるのです。それをヨハネ5:19、20で主はこう説明してくれます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです…。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」ここに主を見上げて待つ祈りの究極の姿があるように思います。

ここに天の父と父の最愛の一人子であるイエスとの関係が見事に表されています。そしてそれは取りも直さず、主イエスと私たち主の花嫁との 関係であるのです。「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる」のと同様に、夫である主は私たち花嫁を「愛して、ご自分のなさることをみな」私たちにお示しになろうとされておられるのです。私たちはその主の期待に応えて、主をいつも見上げて待ち、示される総てを受け取ろうではありませんか。

その主が私たちに言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」」(マタイ11:28-30)と。
私たちは、そのような主の前に出る時、総てを主に委ねているのですから何の心配もいらない、本当に心から安心出来るのです。肩の力を抜き、心の底からリラックスして下さい。自分の心に「リラックスしよう」とやさしく語りかけて下さい。これが秘訣です。

こうして心が静まった状態で主の前に立つと、多くの場合、主が既に待っていて下さり、主の愛とすばらしい臨在に包み込まれます。神様とはこんなにすばらしい愛に溢れ、やさしい方であると言うことが実感され、誰でも感激しない人はいないと思います。「愛の父」と「やさしい主イエス」とに個人的に対面出来るのです。私たちの心にある総てを理解して下さり、こんなにやさしく思いやりがあるすばらしいお方は他にはいません。思わず「主を愛します。」という言葉が心の奥底から出続けて止みません。

それはヨハネ15:5で主が言われた「…人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっている」状態であると思います。そうなれば「そういう人は多くの実を結ぶ」ようになるのです。

パウロと言う人はこの祈りをよくした人の一人であると思います。彼は本当に主と個人的に深い関係で交わる人であったでしょう。エペソ3:12-19で「12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰(別訳では「キリストの私たちへの忠実さ」)により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」と書いていますが、これが上記ヨハネ15:5と同じ状態を指しています。つまり私たちがキリストといつも結ばれた状態にある時、私たちは大胆に主の御前に出てこのお祈りをすることが出来るだけではなく、そうすることによって主の豊かな愛の中に入って行けるのです。それをパウロは続いて次のように形容してくれます。
「…14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。…16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかりそれによって満たされるように。

私はキリストの愛の深みをここまで実感できるのは、この祈りをする人の特権であると確信します。17節に「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とありますが、それは最初に主を信じた時に聖霊が内住されることを意味するのではなく、既に内住されているキリストと深い親密な交わりの関係に入ることを意味します。ここにおいてキリストと結ばれ(Union)ます。そして「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」までに到達出来るのです。それがこの祈りのゴールです。

この祈りは神との個人的なコミュニケーションで、しかも全く霊的なものですから、最初からうまくは出来ません。しかし出来ないからと言って決して落胆し、急いだり焦ったりしないで下さい。主が現れて下さるのを期待して気長に待つのです。そして諦めずにたゆまず毎日実行して下さい。それが秘訣です。

私たちの前に現れたくてしようがないのは、実は主の方です。しかし主は私たちを真に肉的な者から霊の人間に変えるために敢えて時間をかけて下さるのです。現れて下さらないのも主の愛からです。
くりかえしますが、始めたら直ぐ主の臨在が実感されなくても決してがっかりしないで下さい。むしろ主が私たちを訓練されているのですから感謝して下さい。私たちに必要なのは忍耐と言いますが、人生でこれ程「やりがい」「待ちがい」のあるものはありません。喜びを持って忍耐して祈り続けて下さい。その意味ではスポーツとかお稽古事と同じで、たゆまない訓練が必要です。

信仰生活の実践において、私たちに最も必要なことはこの「主を待つ」ことです。何故ならそれは「自分では何もしないこと」の訓練であるからです。(続く)


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20 12月

私たちを鼓舞する神の恵み ボビー・コナー 12月20日


私たちを鼓舞する神の恵み

ボビー コナー

クリスチャンである私たちは、毎日正しいゴール、目標、そして神から与えられた目的をもって生きるようにと教えられています。これは神の恵みを受けつつ歩むのでなければ達成はできません。(エペゾ5:14−18参照)

神はご自分の仕事を助けてくれる強い人を求めておられるのではありません。実は主は、ご自分が用いることができるくらいに十分弱い者を捜しておられるのです。神の力は私たちの弱さのうちに完全にあらわれるということを忘れてはなりません。(第二コリント12:9参照) 超自然的なすばらしい力を私たちが経験するための鍵は、自分が弱くなることです。

御霊の働き

私が「弱さ」という意味は、性格的に弱いとか、聖書をよく知らないという弱さを言っているのではないことを、はっきり申し上げておきます。私が言っているのは、御霊の働きを達成するのは肉の力では絶対出来ないことをよく悟った人のことです。これを悟ってとき初めて、私たちは本当の意味で強くなり、神の栄光ある御国を拡大させるための力を受けるのです。権勢によらず、能力によらず、神の霊によって神の御国は建てられることを、決して忘れてはなりません。(ゼカリヤ4:6)

詩編107:23−28には、大海原で働いている熟練した強い船乗りの話が描かれていますが、それがこの真理をはっきり描き出しています。ある日、主が嵐を起こされ、彼らの船乗りとしての自信は見事に吹き飛ばされてしまいます。彼らは絶体絶命の状況におかれます。この時、彼らは主の恵みと助けを叫び求めたのです。彼らは船を扱う技術も経験もありましたが、強い波と風が起こり、神により頼まねばならないことを悟ったのでした。

あなたの人生の風向きが急に変るという状況に遭遇したことがありますか?もしまだそういう経験がないならば、近いうちに必ず何かが起こり、あなたの人生の基盤 が何に置かれているかテストされるでしょう。嵐や洪水は私たちをテストするためにやって来て、私たちが本当にキリストだけに基礎を据えているかどうかが試されるのです。

キリストは「わたしを離れてはあなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)とはっきり言われています。この「何も nothing」と言う言葉は、完全に、全く何もできないということなのです。実際はゼロよりももっと少ないことを表しています。神の御国を拡大するのは御霊の働きでなければならないことを悟るとき、私たちの人生は喜びに満ちます。

今までにあなたがしたことや達成したことが如何にすばらしくても、それらは何一つとして、イエスがあなたを通してご自分の命を生きてくださるときの喜びと は全く比べものになりません。神は一人一人にぴったりでユニークな恵みの道を用意してくださっているのです。自分の考えとかやり方をすべて御霊に服従させるならば、あなたは恵みの中を生きる人生を 始めることができます。この領域に入るならば、あなたは神から与えられた課題を全部達成できる豊かな恵みを経験するでしょう。

恵みに満たされた新しいクリスチャン

神からのこの恵みは、新しいクリスチャンを輝く情熱の火で燃やします。私は長年牧会をしておりますが、その喜びの一つは、新しいクリスチャンの 人生に神がしてくださっているすばらしいことに彼らが興奮しているのを見ることです。新しいクリスチャンの喜びと興奮はみんなに伝染していきます。新しいクリスチャンのそばにいると本当に元気づけられます。彼らは神の愛で生き生きと輝いています。

牧師として私は新しいクリスチャンのためのクラスで教える機会がありますが、イエス・キリストが彼らの人生に与える喜びを見て、私の心は祝福されます。そして、恵みの中を歩む秘訣をすでに会得した成熟したクリスチャンの目も、この恵みの故に満ち足りて光輝くのです。 ご自分の栄光を顕す大きな業をなすために、神は私たちに恵みを与えて用いてくださいます。この驚くべき神の恵みによりどれほど偉大なことが出来るかということを証するのが、私たちの人生でなければなりません。

恵みで満たされた人生と実行とは切り離すことはできません。私たちは神の驚くべき恵みによって救われ、保たれているのです。キリストの身体である教会は、未信者に働き救いを導く神の恵みに関しては、よく理解しているようです。しかし、神の恵みの力が信者の日常の生活の中で働き、 真に効果的に実を実らせるのだという理解が欠けているようです。

恵みはあなたの思いを変えてくれるだけではなく、あなたの人生そのものを変える働きもしてくれます。恵みは力強いモーティベイターであり、私たちがもっと高みにまで登り、キリストと御国のためにもっと働くようにと鼓舞し奮い立たせるのです。

恵みを受けるために必要なもの

使徒パウロは第一コリント15:10で、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と述べています。パウロは神の恵みはむだにはならなかったと明言していますが、それと同時に彼の人生で力強く働く恵みの故にさらに多く働いたと言っています。

私たちの存在すべて、また、私たちがすることすべては神の恵みの故なのですが、私たちは神の御国を前進させるためにおおいに働くようにと召されています。クリスチャン生活の大きなパラドックスの一つは、私たちがすることはすべて恵みにより恵みを通してなされるのですが、神は私たちが勤勉に主に仕え、一生懸命働く(努力をする)ことを求めておられます。チャールス/スポルジョンは「信仰は、愛が建てた階段を 上って行き、希望が開いた窓から外を見る。」と言いました。

神から与えられる恵みを十分に受けとるためには、勤勉な働きが必要です。そして又、恵みを受けるためにはへりくだりが必要です。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」第一ペテロ5:5

へりくだる者に恵みは約束されています。偉大な聖人であるウオルター/ビュートラーは、このように言っています。「へりくだりが到着するやいなや、恵みは戸口に立って迎える。」 もし私たちが真にへりくだり、常に神の御業を賛美し神の栄光を横取りしないように注意するならば、必ずもっと恵みを受け取ることが
15 12月

秋の日本旅行の報告 その4  坂 柚実子 12月15日


秋の日本旅行の報告 その4                                         


私たちは秋には沖縄に行くことを、このところ恒例としています。滞在は10日間ほどで、いくつかの教会でメッセージをさせていただきますが、宿泊はずっとサレム宮里教会でお願いしています。主任牧師の島袋英子先生とは1996年の春、東京でのグルーバー先生の集会にちょうど上京しておられた先生が来て下さった時からの御つきあいです。この出会いはまさに神様のご計画であり、沖縄でのグルーバー先生や、ひいては私たちのミニストリーは、島袋先生をはじめとするサレム教会の方々の御尽力で進められてきました。

1996年の秋には、主人と私がグルーバー先生の通訳として日本に行っている一ヶ月程、私たちのオレゴンの教会の留守番をしていただきました。沖縄の教会を副牧師の伊覇先生にお任せになり、オレゴンの小さな日本人の群れのためにご奉仕くださったのです。その次の年に初めてサレム教会(当時は宮里隣人教会)に行かせていただいた折には、教会の皆様に先生を一ヶ月もお遣わしくださったことに心からお礼を申し上げたのでした。



 写真:島袋英子先生

その2年後でしょうか、グルーバー夫妻と私たちで日本を旅行中、四国から沖縄に移動した時点でグルーバー先生のお母様の訃報が入り、御夫妻は急遽アメリカに帰国されました。沖縄でのミニストリーの予定はすでに組まれておりましたが、すべてキャンセルするしかないと思われました。しかし島袋先生が、主人に「坂先生、あなたがグルーバー先生に代わってミニストリーをして下さい。」と励ましてくださり、他の牧師先生方の御理解のもと、主人が初めて日本の教会でメッセージを取り次ぐと共に、祈りの歩行の指導もさせていただきました。この時の経験は大いに主人を力づけました。それからも、いつも島袋先生は私たちのミニストリーの理解者、サポーターとしてお祈りくださり、暖かく励まし続けてくださっています。

サレム宮里教会は二階が礼拝堂、 三階が先生のお住まい、私たちは一階に宿泊させていただきます。すると夜遅くとかにどなたかが訪ねてきて、先生とお話などされています。後でお聞きすると、以前教会に来ていた方が東京に行くことになり、「先生、お祈りをしてください。」と言って来られたとか、なのです。そんなことが度々で、先生が多くの方の霊的支えになっておられるのがわかります。先生の牧会はキリストにある赦しと憐れみを土台にしておられると、常に思わされます。 信徒の方々もその薫陶を受けて、一人一人が主を深く愛し従って行く信仰を培っておられるのを感じます。
これまで主のために捧げられた先生の人生の収穫 が、これからもますます豊かに実るようにとお祈りします。 (終わり)

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14 12月

御国で必要な全き信仰の祈り(2)   坂 達也  12月14日


御国で必要な全き信仰の祈り(2) 

坂 達也

悪魔との戦い

 これからは、いよいよ終末の終盤の時代に入らんとしている。最近マイク・ビクル、リック・ジョイナー等が黙示録12:9にある「 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は……地上に投げ落とされ……その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」と書かれていることが実際にこれから起こらんとしていることを強調し、又警告した。
それは12節に続く。「12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

これからしても地上での悪魔の最後のあがきが、どれほど強烈なものとなるかは想像に余りある。いよいよ悪魔との最後の戦いに私たちが望まねばならないのである。この時のために万軍の主は御国の戦士である私たちを「全き信仰」を持たせる訓練をして来られたのだ。
 それはヨシュア記で語られている約束の地における「聖戦」と同じ最後の大「聖戦」がこれから繰り広げられようとしているのである。
御国とは約束の地と言ってよい。その約束の地に渡ったイスラエル軍はヨシュアの指揮の下で、カナン人、ヘテ人等七つの土着の強敵を相手に戦い、これをことごとく制覇した。それには「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)という神からの御ことばによる霊的な士気の高揚を必要とした。しかし今の私たちにこそ霊的な高揚が必要である。何故ならそれは前述したように、悪魔との対決は決して肉では勝てないからだ。

 二、三日前に、これから就任するアメリカのオバマ大統領が暗殺される夢・ビジョン・ことばをこのところ多くの人が見ていること、しかも暗殺によって大暴動が起こるビジョンを見た人も多いことをリック・ジョイナーが取り上げた。

オバマが当選したことは人種問題を克服するための画期的前進である。人種問題RACISMは単にアメリカだけの問題ではなく、世界的な問題である。特にナチズムは第二次大戦をピークに人間の歴史を揺さぶったが、あれこそ悪魔の牙城の一つであるとリックは言う。その通りだ。
悪魔はオバマによってその人種問題の牙城が崩されるのを放置しておく訳がない、故に大きな巻き返しをかけてくるだろうことを教会は予期して、今真剣に祈るべきである、とリックは言う。

そして彼は、今後オバマに対する暗殺・暴動などの具体的な企てに関して主からビジョン・夢・御ことばによって啓示を受けたと確信できる人は、関係当局に必要な処置を依頼するために、ぜひモーニングスターに知らせて欲しい、と世界中の人に呼びかけた。

私はこのような呼び掛けを今まで聞いたことがない。まさに御国の時代に移行しつつある事を痛感した。クリスチャンが世界の政治とその治安にいよいよ参加するのである。神からの啓示はそのために絶対に必要な情報と指示の武器なのだ。それだけではない。このところ、経済危機の問題だけでなく、世界に大きな艱難の時代が来ることを預言する人が増えていることを付記しておきたい。



 さて、ここで「主の祈り」について、先回のメッセージを書いた後に、二つの強調すべき点が示されたので、今回それを先回と同じテーマの続(2)の形で付け加えさせていただくことにした。

 それは主の祈りの最初の部分である「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」(マタイ6:9)と12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」についてである。


前にトッド・ベントレーを擁護し、今も彼と彼の家族の回復をカンセラーの一人として、又親友の一人として助け続けているビル・ジョンソン について紹介したが、そのビルが、ベントレー事件を通しての教訓は、教団・教派の下にいる教会が、今こそ「御国の天の父」の支配に完全に還らねばならないことを強調している。
彼は、ベントレーに対して他ならぬ多くのクリスチャンの仲間たちが、あまりにも大きく執拗に個人攻撃したこと自体を問題として取り上げた。彼は、今まで私たちクリスチャンの教会がやって来たことを次のように指摘する。
たとえば80年代に起こったことだが、ジミー・スワガードとかジム・ベーカーが罪に落ちた時に、アメリカの教会が取った態度は何であったか。当時教会は、罪に陥った彼らを個人的にかばう代わりに、彼らの失敗と罪をもっとあばいて責めて見せ、その人たちを突き放し、自分たちが作り上げて来たデノミネーシャナリズム(教派主義)とその教団は、そのような人たちとは違うことを世の中に認識させることによって自分たちの組織を弁護しようとした。これは人間的な宗教主義者たちのすること以外の何ものでもないのである。
 それはちょうど、自分たちの義と聖さを強調するために罪に堕ちた兄弟を軽蔑し、憎み、裁いたイエスの時代の律法学者と同じではないか。それは律法学者とヘロデ王で代表される宗教と政治という種入りパンなのである。
 もし自分の息子・娘が罪を犯したらどうするだろうか、とビルは問う。「あれは罪を犯した、良くない人間だ」と自分の子供の罪をあばき立て、「それに比べ私たちは違う」と一線を引き、「私たちは彼らと関係ない」と言って済ますだろうか?

 又、ビルはワインスキン(皮袋)とワインの話を紹介した。皮袋とは教会の中身であるワインを入れる外側の皮の部分であって、五役者を含む教会指導運営組織に当たるもの。しかし重要なのはあくまで中身のワインであって、新しいワインに聖霊が働いて美酒へと醸造されるプロセスの間に、中身は熟し膨れ上がるが、それを包む外皮が破れたり、ほころびたりしないでしっかり守り育てる役目をするものである。ところがワインの成熟を指導する教団・教派組織である皮袋が中身よりも自分たちを重要視しているとすれば、それは忌々しき問題であると言うのだ。

今は現在の教会の中からパン種を取り除くシーズンであるとビルは言う。彼は教団・教派的教会組織を完全に父に還すことを叫ぶ!「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」
 今は父に帰る御国の時代。教会とは元々一人の父の元にいる家族なのだ。人間的デノミネーショナリズムの規律に属するもの
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