Walk With God Ministries
25 03月
デイビッド・ウイルカソンからの緊急のメッセージ (3月7日)- 地球が破壊されるような災難が間もなく起きようとしている -
私は聖霊によって強く促され、この緊急のメッセージを私たちの総てのメイル名簿に登録されている方々、私が世界中でお会いした友人たちと教会のリーダーたちの皆様にお伝えしたいと思います。
地球が破壊されるような災難が間もなく起きようとしています。それは本当に恐ろしいことです。私たちの中の最も神聖な人たちでさえも身震いするような恐ろしいことが起きるのです。
私は過去10年間ニューヨーク市街に千にも達する火災が起きる事を警告して来ました。それはニューヨーク市だけでなくニュージャージー州とコネティカット州にまで及ぶ大市街地域を焼き尽くします。同時にアメリカの多くの大都市で、以前にロスアンジェルスのワッツ地区で起こったような暴動が起きて町が焼かれるでしょう。そして暴動と火災は世界中の都市に広がります。マンハッタンを含め多くの都市の商店街は暴徒により略奪されます。今私たちが経験しているのはリセッションでもデプレッションでもありません。私たちは神の怒りを経験しているのです。詩篇11:3に「 世の秩序(基)が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と書かれています。神はアメリカと世界の国々に蔓延する罪を裁いておられます。神はこの世の基いとなるものを破壊されつつあるのです。
預言者エレミヤは罪を犯すイスラエルの民に言われました。「今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。『主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。』彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。』」(エレミヤ書18:11-12)
詩篇11:6でダビデは警告します。「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。」何故でしょうか。ダビデは答えます。「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)これはソドムに下り、ノアの時代の人々に下ったように、正しい裁きなのです。
正しい人たち、神の民はどうすべきでしょうか?
先ず、私自身のために主が下さった実用的な指示によれば、30日分の腐らない食料とか日常必需品を蓄える。災害が起こったら、大都市の食料品店には一時間で何もなくなるでしょう。
私たちの霊的リアクションとしては、二つの選択があります。一つ目は詩篇11章に書かれていますが、「鳥のように山へ逃れよ。」(1節)次に、ダビデが言うように「主の御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。」(4節)ので、「主を、わたしは避けどころとしている。」(1節)
私は自分に言い聞かせます。逃げる必要も隠れる必要もない。これは神のなさる正しい御業。私は御座におられ、私の取る総てのステップをやさしく愛をもって見守っていて下さる主を見上げる。その主はご自分の愛する民をどんな災害とか試練からも救い出して下さいます。
注:このような災害がいつ来るのか私には分かりません。しかしそんなに遠くない将来に起こるは知っています。私は私の魂にあるこの心の重荷を皆さんにお分かちしました。私のメッセージから、あなたがなさることを選択してください。(終わり)
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このメッセージについてリック・ジョイナーは3月13日のテレビ・メッセージで次のように語っています。
このデビッド・ウイルカソンが神から受けたことばについて多くの質問を皆さんから受けました。よく祈ってみましたが、私はこれが正確な神からのことばであると信じます。第一に聖書的です。人々の質問の多くは、このメッセージで警告されていることが本当に「神の怒り」、「さばき」であるのかどうかについてですが、私はそうであると信じます。しかし、だからと言ってそれが必ずしも起こらねばならないとは限らないと申し上げたいのです。特に「さばきは神の家から始まる…」とあるように、神は先ず、神の民に警告します。私たちクリスチャンがこの警告を聞いて、犯している罪を本当に悔い改め、神に嘆願するならば、さばきは起きないで済むのです。それが、神が警告を与える目的です。
「さばき」という言葉には多くの意味があり、その一つは罪を咎める結果として最終的な破壊を意味しますが、それ以外のほとんどは「愛するがゆえの懲らしめ」の意味を持っています。
イスラエルは何度も神からのさばきを受け、しかもそのさばきは度重なる毎に大きくより厳しいものとなりました。何故ならイスラエルは神にささげられた特別の国、神の愛する国であるからです。しかし、アメリカも最初にその建国の父祖たちによって国が神にささげられているのは事実であります。それゆえに、アメリカは他の国よりもより厳しくさばきを受けるのです。
パウロは、世の終わりには不法がはびこると言っていますが、政府が現在の経済危機を乗り切るためと言って、常識を逸したような予算を組み、法外な借金を背負いこもうとしている現在、もし国の財政上の約束とか責任が果たせない状態になるとすれば、それこそ最たる「不法」であり、自国の政府をあてに出来なくなった民衆が暴動に走る可能性は十分にあります。私はカタリーナ・ハリケーンの時それを実際に体験しました。政府が民衆の必要に対応出来なくなった時、人々は恐れと怒りで発砲し始め、マーシャル法(戒厳令)が発令されました。今はそれ以上の未曾有の経済恐慌の渦中にあり、そのような暴動が起きる事態に発展しかねない、その途上にあるのです。これへの解決策は神の助けによるリバイバルしかありません。
ウイルカソンが見た火は確かにアメリカが犯している多くの罪への「神の怒り」であると信じます。しかしヨナの話にあるように、本当にアメリカのクリスチャンが心から悔い改めるならば、その破壊のための火がリバイバルの火に替えられる十分な可能性を秘めているのです。神はそれを望んでおられます。
私たち教会は、今まで浸かって来た長い「ぬるま湯状態」から脱すべく、自らを厳しくさばき、心から悔い改めて神に還る時が来ました。そして、リバイバルの火によって世界を主の「揺り動かされない御国」に変えるのです。そうすれば、たとえ政府に資金がなくなって
20 03月
チャック・ピアースとダッチ・シーツの対談(対談場所:エライジャ・リスト社、時:2008年12月) この両師は、それぞれ独立した教会を持つアメリカでも有数な預言的な指導者ですが、六年程前に主の召命を受けてアメリカ全50州を二人で3年間かけて廻り、各州が持つそれぞれの目的と召命を明らかにしつつ預言的とりなしと宣言をして歩くという大変画期的且つ重要な任務を果たしました。その後、二人の親密な関係が持続される中で、昨年2008年はチャックは外に出て世界の国々を廻る一方、ダッチはアメリカに留まり、アメリカの国の使徒的・預言的管理人の一人として重要な霊的責任を果たすと言う、それぞれ離れ離れに活躍して来ましたが、そのような二人が昨年末に会って対談する時に、使徒としてのダッチと、預言者としてのチャックが絶妙に響き合うセナジーが生まれ、まさに聖書的な使徒と預言者が共に働く姿のモデル―そこには主からの権威と力が解き放たれる―を見ることが出来ます。そのことはこの会談で二人共十分に認め合っていました。この会談を全部訳せばかなり長くなるため、今回は私が下記の通り要約してまとめてみました。(坂 達也)
この対談ではチャックが司会者としてダッチに聞くと言う形を取っておりますが、メイン・テーマは、ダッチ・シーツが昨年3ヶ月間、教会において一切の活動を中止し、ワーシップのみに徹するという異例な召命を受け、それを忠実に実行したことでした。
ダッチ「昨年のはじめに、私たちは今『神の義の基本に帰る』ことをしなければならない、と言うことを神に示されました。それは、私たちが霊的により高いレベルに入って、神の新しいことを受けるためには、その前にしなければならないことであったと思います。
ある預言者が訪ねて来て、3ヶ月の間、24/7のワーシップだけ(祈りなさいとも言われなかった)をしなさいと私に語った時、実の処、私は信じられませんでした。第一自分の教会はメガチャーチではなく6-700人ぐらいの教会なので、経済的にも人的にもとても出来ないと思ったのです。しかし日曜日に私がそのことを会衆に話した処、4人の女性がそれが神からの召命であることをはっきりと理解し、彼らは礼拝の後からワーシップをはじめ、夜には他の人たちも加わって翌日も終日、火曜日の午後3時半までの二日半の間休まずに続けた後にそこで一旦中断しました。そしてその夜の集会に再び皆が集まった時に気が付いたことは、火曜日の昼過ぎまで本当に手で触れるほど濃厚にあった主の臨在がなくなっていたのです。そこでその夜全員で4時間主に祈りました。すると主が『わたしは24/7のワーシップをしなさいと言ったはず、だから火曜日午後に教会堂から人が去った時にわたしも去った』と言われたのです。それを聞いて私は24/7で行うのが神の御心であることをはっきりと知って決意し、それを一同が同意した時に主の臨在が戻って来ました。」
チャック「昨年私は、何か新しいことが始まると言う強い期待を持っていました。ダッチが私に連絡して来て24/7のワーシップに入る話を聞いた時、とっさに、これこそ主が2008年の新しいシーズンに入るためにしなければならない新しいことであることが理解できました。
私の教会においては、主に示されてナイト・ワッチ(見張り番)をして来ました。それは教会が一定期間、先ず夜の6時から3時間全員で祈り、しばらくして、次の期間には9時から真夜中の12時まで、その次は真夜中からの3時まで、そして次に3時から6時までと言うように、昔の夜番が3時間交代で城壁を見廻った形式で、教会がナイトワッチをしたのです。これは今までの惰性でやって来た教会形式(生活)からブレイクアウトし、抜け出す目的がありました。ブレイクアウトと言えば、アメリカの学校が何故春休み休暇を取るようになったかの経緯を説明します。それは春になると水疱瘡が流行し、その病を阻止するために学校を一時期休校して流行病の勢いを止める必要があったためでした。それと同じように、今の教会はあまりにもマルタ的になってしまい、何でも自分で考えて忙しくやり過ぎる、そのマルタ的流行病が世界の教会に蔓延し、それを止める必要があるのです。」
ダッチ「私たちは24/7のワーシップを決意をした後、総ての教会の行事予定を変更し、90日間、説教もティーチングも祈祷会も一切しないでワーシップのみに徹するための段取りを整えました。これは言うのはやさしいのですが、実行は本当に過激的な決断と強い意志が必要でした。」
チヤック「それが出来たのは、あなたが何よりも神の臨在を求めたいと言う強いデザイヤーがあったからでしょう。それこそ基本中の基本です。
私たち教会は今まであまりにもルーテインなやり方に慣れ過ぎてしまっていて、突然尋常でない神の命令が来て、今までやって来た総てを横に置いて飛び込むと言うようなこと事態が、過激的信仰を必要とする全く新しい経験ではないでしょうか。」
ダッチ「私は元々ワーシッパーですが、それでも本当に総てを捨ててワーシップだけに没頭するためには、私自身が先ず神の臨在に浸って準備される必要がありました。主は、私個人が先ずサバチカル(休暇)を取り一切の活動から退き、肉的霊的に準備するように言われ、それを実行しました。(ダッチは今までに3ヶ月ものサバチカルを取ったことはなかったと言っています。)
自分自身の3ヶ月の準備の最後には、私はもう何もいらない、主と共にいられればそれだけでよい、と言う思いになりました。その後に教会として3ヶ月のワーシップに入ったのですが、それをやり遂げた時、私自身全くリフレッシュされ、新たな油注ぎと新しいマントをいただきました。ちょうどそれは自分たちの身体に肉が付いて古い着物が着れなくなり、新しい洋服が必要となるように、新しく肥った(霊的に)身体に新しいマントを着て、次のシーズンでよりウエイトの重い地位に着くことに例えられます。」
チャック「あなたは3ヶ月のワーシップをやり遂げた後、大変霊的に強くされたことがよく分かりました。それは使徒的使命、アメリカの国のためであったと思います。」
ダッチ「私たちが新しい将来に向かって前進するに当たって(2008年)、何故一度立ち止まって過去を振り返る必要があるかを次のように示されたのです。それはイザヤ書46:10にある、神は「終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ」とあるその『終わりの事』とは英語でEND、ヘブル語でakh•ar•eeth、こ
14 03月
ウイリアム・ブランハムのミニストリーポール・キース・デイビス 1930年代の初めに、新しいタイプのミニストリーの霊的リーダーとして、一人の画期的な預言者が現れました。彼の名はウイリアム・ブランハムというバプテストの牧師で、ケンタッキー州の山の中で育った素朴で学歴もない人でした。しかしすばらしいことには、神はこの謙虚な男に、初代教会以来なかったような啓示と超自然的な力を与えられたのです。彼のミニストリーの中では奇跡や癒しが起こるばかりでなく、 未来の出来事を驚くべき正確さで預言することができました。それらの出来事は、今では歴史的事実となって記されています。
一連の伝道集会を行ったあと、1933年6月11日にブランハムは回心者のために洗礼式を行ないました。およそ4千人の人びとがオハイオ川の土手に立ち洗礼式を見守っていました。ブランハムが17人目の人に洗礼を授けていた時に、天から琥珀色の光がくるくると舞い降りて来て、ブランハムの上にとどまりました。そこにいた人たち全員がその超自然的なしるしを見ました。目撃者の中には、恐れて逃げ出した人も沢山いましたが、 他の人たちは膝まづいて主を礼拝したのです。彼らは神が真に尋常ではない事をしておられることを悟りました。
この経験により、神はブランハムの人生とミニストリーに先駆者として使命を与えたのでした。「彼はイエスの花嫁として後に出現する人びとのしるし、あるいは、原型であった」とも言えると思います。 これは自らも言っていることですが、彼は終末の時代に主が計画しておられる 新たなものの先ぶれだったのです。というのは、このように超自然的な出来事は、終末における人生やミニストリーには日常茶飯事となるからです。
多くの報道機関が洗礼式での出来事を取り上げ、アメリカとカナダで広く報道されました。ある見出しは「不思議な光がオハイオ川で洗礼式をしていたバブテストの牧師に現れる」と書かれました。ジェファーソンビル新聞の夕刊は、「不思議な星が洗礼をしている牧師の上に現れる」という小見出しをつけました。この出来事が真に意味するところは理解しない人たちも多かったかもしれませんが、それが実際に起こった事実であることは、すべての人が認めました。
大勢の前で現れたこの神の強い力を示す出来事には、天からのある目的があったのです。天がなすことは、目的もなくただ起こることはなく、神の口や手からでる言葉やわざは、むなしく帰ることはありません。今世代の教会のための御国のメッセージが、先の世代に送られたのです。ですから、私たちはそれを完成し成就する責任があるのです。「生けるみことばなるお方」はご自分の花嫁の中にとどまることを願っておられます。イエスは再び人となられ、主の御国と贖いの力とを現されたいのです。
超自然の初期モデル
オハイオ川でのエピソードがそれだけで終わったのならば、私たちは神の力はすごいと感心し、そしてもうその事を忘れてしまってもいいでしょう。しかし、神はこの先駆者の人生にこの後も更に多くのみ業を顕されました。
ブランハムのミニストリーの初期に、彼自身どう理解していいのかわからない超自然的な出来事を彼は何度も経験しました。彼も彼のまわりでミニストリーをしている人たちも、神からの啓示的領域を理解できませんでした。彼らの疑問に少しばかり光を与えてくれたのは聖書だけでした。 当時、神の超自然的領域を経験した者はほとんどなく、残念なことに、 ほとんどのクリスチャンはそのようなことは聖書の中では起こったけれども、今は起こらないと信じていたのです。トランス(夢うつつ)とかヴィジョンという言葉はほとんど口にされませんでした。
第一次世界大戦が終わった数年は、特に困難でした。図書館はあまり利用できませんでしたし、キリスト教関係の資料を手に入れるのも困難でした。ケンタッキーの山間で極貧の中に育ったブランハムには、神の超自然的力が教会の歴史を通してどのように顕れたかを研究するすべは当然ながらありませんでした。それにも拘らず、御霊は将来起こることを彼に語られました。彼は御霊が語られたことを周りの人たちに話しました。そして人びとが驚いたことには、それらの出来事は彼が話した通りに起こりました。又、驚くべき癒しも頻繁に起こりました。
ブランハムが、自分は神から超自然的領域を委ねられたのだという確信とその目的をブランハムがはっきりと理解したのは、1946年5月7日に天使が彼に訪れたときでした。その時この聖なる牧師は、自分が経験している霊的な出来事を理解しようと必死でした。自分が経験するヴィジョンやトランスが神からのものなのか、それとも敵からのものかをはっきりさせようと決意していました。彼は主を深く愛していたので、偽りや 惑わしに自分を委ねることはとても出来なかったのです。
ブランハムはインディアナ州の田舎の森に入りました。食べ物も電気もありませんでした。彼はただ主の前にへりくだりと真摯な心でじっとしていたのです。そして主はご自分のしもべにすばらしい方法で答えてくださいました。一人の天使がブランハムのところに遣わされ、顔と顔を合わせて彼の人生と召しについて語ってくれたのです。この天からのメッセンジャーは、霊的悟りと神からの召命を彼に与えました。
召命
40年代末と50年代にわたって彼はしばしば公の場でこの出来事の証をしたのですが、それによればその夜、数時間の祈りの後、超自然的なことが起こりました。琥珀色やエメラルド色の炎の星のような光が天から現れ、彼の周りを照らしました。それは13年前にオハイオ川で現れたのと同じでした。その時彼のほうに向かって歩いてくる足音が聞こえ、光の中に誰かが立つのが見えました。
聖書の中にあるのと同じように天使が挨拶をしました。「恐れることはありません。私は全能の神の御前から遣わされました。」ブランハムの言葉によれば、その天使は背丈1.8メートル、体重90キロほどでした。オリーブ色の顔、黒っぽい髪は肩のところまであり、白くて長い衣を着ていました。天使の挨拶を聞いた途端、その声は彼が青年の頃やミニストリーの初期によく聞いた声と同じであることがわかりました。
教会史上、神によって定められた転機が来ました。新しい世代に天の超自然的な領域を教え、神の司令を達成するメッセンジャーを主は捜し求めておられたのです。 そして、ブランハムのへりくだりと献身に天が目を止められたことは明らかであり、彼がめ
ざましく用いられる扉が開かれたのでした。この世の基が築かれる前から主が計画されていたことがブランハムのために動き始め、彼の人生の目的が成就される時がきたのです。
天使はブランハムに、彼が世界中で神の癒しのメッセージをするために召されていることを告げます。天使は、彼が人びとに信じさせることができるならば彼の祈りを妨げものは何もない、たとえそれが癌であろうとも、と約束しました。ブランハムは彼の世代に、そして私たちの世代に、天の啓示的領域を紹介したのです。これらのしるしと奇跡は、神の超自然的な力への私たちの信仰を生み出す土台となりました。
著しい超自然的力の分与がこのときに起こりました。この分与が行われたしるしとして、彼にはモーセのように二つの賜物が与えられるであろうと天使は告げました。ブランハムが左手で彼の前に立つ人の右手を握ると、その人の身体の状態が示される、これが一つ目の霊的賜物でした。この賜物で彼は病気や悪霊、死に至るような病を啓示的に判明することが出来ました。
ブランハムが正確に人びとの病気や状態を預言するので、それを聞いた人たちの中で神への信仰が高められ、それによって驚くべき癒しや奇跡が起こるのでした。神からの召命を受けた後、最初に彼が行った癒しの集会は、1946年6月14日にミズリー州セントルイスで行われました。即座に創造的奇跡や著しい癒しのわざが膨大なスケールで起こり、神学者たちは教会史上今までになかった出来事であるとそれを評しました。ゴードン・リンゼイがかつて述べたように「癒すのが困難な事例は一つもなかった」のです。どのように重い疾患でも、主がそこにいて癒してくださったのです。
天使はブランハムに、 彼が最初の賜物をへりくだりをもって用いるならば、神は2番目の賜物をくださると約束しました。次の賜物は、人の心の思いや秘密を知ることで、それによって人びとがもっと深いレベルの信仰へと進むように助けることができることでした。
イエスがサマリヤの井戸で女に出会った時にされたように、人の人生や個人的な秘密を告げることは、その人の中に信仰を呼び起こします。人びとは恥や不信仰を克服して、天の啓示的領域に入ってくることができたのです。彼らの応答は今の世代のための預言的モデルなのです。
聖書には、み言葉は生きていて、力があり、心の思いや願いを判別するとあります。(ヘブル4:12参照)見分けの賜物は、単なる「知識の言葉」よりもずっと深く神の奥義に入っていくことができます。それは魂と霊とを分ける膜を主が取り除かれ、すべてのことが露にされるからです。
ブランハムが啓示的見分けの賜物によって機能しているときには、人びとの前に立ち、超自然な洞察力によって、彼らの名前、病気、生い立ち、住所、祈りや願いなど、主だけがご存知であるはずの秘密を告げることができました。そしてそれは人びとのうちに主に期待する強い信仰を起こさせたと、彼の集会に出席していた人たちは証言しています。このような天国からの油注ぎのある場所では、どのようなことでも可能であると、人びとは信じられたのです。
天使はブランハムとの長い会話の中で、沢山のことを話してくれました。ブランハムのミニストリーは、教会史上かつてなかったスケールで神の異なる領域を示しました。その土台となったものは、キリストとの一致であり、主が主の民の中に生きておられ、主が地上におられたときと同じ働きを彼らを通してされたということです。
ゴードン・リンジー(Christ for the Nationsの創始者)は、ブランハムの霊的経験について次のように書いています。「ウイリアム・ブランハムが経験した天使の訪れにより、世界に響き渡ったリバイバルのうねりは確実に高まり、それはまだ続いているのです。」
リバイバルの火を付ける
天使との邂逅によって、ブランハムは啓示と力の更に深い油注ぎを受け、直接、又間接的に何百万人もの人に影響を与え、世界規模のリバイバルを巻き起こしました。何十万という人たちが非常に重い病や死に至る病から彼や彼の後に従った人びとのミニストリーによって奇跡的に癒されました。
当然のことながら、神はその偉大な宝を土の器(人間)の中に入れられるのです。すべての人と同じく(イエス・キリストを除いて)ブランハムも間違いや過ちを犯しました。そうではあっても、彼の啓示的預言は全く正確であり、非常に大切な天の啓示でした。それを過去のものとしないで、その洞察力と知恵を適切に用いて、今日に適応していくことが重要です。私たちは注意深く神のご計画の設計図を明らかにして行かねばなりません。
ブランハムのミニストリーには、神の御臨在がありました。「生けるみことばなる方」が人びとの心の思いを深い鋭さで見分けて、それをブランハムを通して伝えました。彼は個人やグループのための天のご計画と目標をかいま見ることを許されたのです。彼のミニストリーは、現在「生けるみことば」を具現するクリスチャンの様々な働きを予見した先駆的モデルでした。これから起こってくるしるしと不思議は花嫁のリバイバルを解き放ち、それはヨハネ14:12にある「もっと大きなわざ」という言葉によって表されるでしょう。
悟り(理解)を得る
神が過去に施してくださった慈しみについて話すのは常にすばらしいことです。しかし、神がブランハムの世代をどのように取り扱われたのかを理解するのは、そう簡単ではありません。天の真理のための土台は築かれました。私たちはこのようなタイプのミニストリーが今の世代に持つ重要性を悟らねばなりません。これらの出来事はただのリバイバルというよりはもっと深いものであり、即ち終末のミニストリーが開始されたことを示していました。それは聖書で預言されている終末の「定められた世代」を指しています。モーセの時のように、これらのしるしは人びとが信じるために与えられたのです。
神はご自分のパズルの一片一片を多くのクリスチャンに与えられていますが、それらと共にこの敬虔な男に与えられたすばらしいヴィジョンを再び熟考するべき時がきました。ダニエルがエレミヤの預言を調べたように、私たちも彼らの超自然的な経験を深く思考して、それを過去のものとしてだけではなく、今の時代にどのように適応するべきなのかを引き出さねばなりません。また過去の間違いから学び、そこから神の種を抽出し、それを私たちの正直で真摯な心の土壌に蒔き直さねばなりません。
私たちが神から与えられているものを受け取る時がきました。ヨエルの預言にある「
08 03月
敵の要塞を砕いて約束のものを得よ チャック・ピアス 自分の思いを変えて考え方を矯正することは、私たちが成長するためには通らねばならないプロセスです。今のシーズン、主はすべての人のうちに 働いて、多くのことをなしていてくださいます。主は一人ひとりが所有すべき地を約束していてくださいますが、その地を獲得するための次の段階として、私たちは主の御思いを悟ることが必要であり、それが私たちに対する主の一番の願いであると思います。あなたには相続すべき財産があるのです。それはあなたの人生の目標と主からの約束とに深く関係しています。
あなたの内に隠された創造の天分を解き放て
私たちは「天才、天分」という言葉の意味を本当には理解していないので、非常にI.Q.の高い人だけが天才だと思ってしまっています。知性はただI.Q.が高い人だけのものではありません。私たちの考え方や行動はまわりの環境や遺伝子によって大きく左右されます。家系の中にある罪は、私たちが十分に考え効果的に行動する能力を抑えてしまうこともあります。しかし恐れや不安の霊を克服して新しい地を開拓する意欲のある人は、それによって知性を発達させることができます。
そのように冒険を恐れない人は、今まで隠されていたものを見つけ出すことができます。それによって新しい発見をしたり、気の利いた発明やすばらしい芸術を生み出すことができます。このような創造性をもつと、自分が働いている社会や分野、領域を見る目を変えることができるようになります。天才的な能力を持つ人ならば、その知性を効果的に建設的に用いていくでしょう。彼らの頭脳はうまく機能していてシャープです。他の人が関係がないと切り捨ててしまう情報やヒントも決して見逃しません。
シャロン・キングは「新しいシーズンのための新しい考え方」という本の中で、次のように述べています。
「頭脳とは思いを司るもので、今は明らかに我々の頭脳が新生されることによって、新しい考え方、感じ方、やり方をしなければならないシーズンです。神経学には『一緒に燃焼する細胞は連結する』という言葉があります。この意味は、私たちの経験することが、文字通り頭脳を連結しているということです。もし二つのニュートロン(脳細胞)が連結していて、電気的に両者が同時に活性化していたら、二つの間の連結はますます強くなります。しかし、もし二つの細胞が電気的に活性化していないと、二つを連結するポイント(シナプシス)は切断されるか失われます。新しい考え方をするためには、私たちの頭脳の中に新しい電気的な経路が作られる必要があります。古いものをリモデルするわけにはいかないのです。それではまさにイエスがマタイ9章で話された『古い皮袋に新しいぶどう酒をいれる』というシナリオになってしまします。私たちは頭脳の中で新しい火を燃やして新しい連結を作らねばなりません。」
敵の要塞
私たちが自分の思いを適切に正しく連結することを拒否すると、宗教の霊という敵の要塞が我々の思考過程の内に築かれ、権威を持ちはじめます。イエスは古い布切れに新しい布を当てることはできないと言われましたが、古い構造に新しい啓示を注ぎ込むことはできないのです。新しいものを得ようとするならば、まず古いものを取り払わなければなりません。我々が古い思考過程をしっかり取り払うならば、その時初めて新しい思考方法が打ち立てられるのです。新しいアイデアで時、シーズン、行動、方法等が結びつけられ、それが我々の思考過程にならねばなりません。
そうすることによって、我々が働く領域や分野からの新しい実りを妨げている内なる要塞を、打ち壊すことができるのです。これに関しては、私の著書「The Future War of the Church and Interpreting the Time」に詳しく書きました。
新しい考えがあるときに、それがあなたの中に前からある思考体制とうまく結びついて、新しいやり方で創造的に事を行うのが非常に困難であるならば、おそらくあなたの内には要塞があるのです。その要塞とは神の御心に反抗する思考体制です。この思考体制は悪霊の力によって孕み、あなたが自分の思いをキリストの御思いに一致させようとするときに妨害してきます。
私たちは皆、自分の感覚で見たり感じたことを処理していますが、受け取った情報や新事実を、皆が同じようには処理しません。気をつけないと、自分とは違った物の見方をする人を退けてしまう結果にもなります。文化や人種によっても情報の受け取り方は異なります。我々の環境も思考に影響します。男女でも物の見方、受け取り方が非常に違います。男の人と女の人は、同じ物体や海や山の風景を見ても、その描写方法は全く違うのです。
しかし、私たちは皆「主にあって」我々を創造された方の究極的な御心を知り、(祈りの中で)主を見る時に主の思いがはっきり分かるようになるべきです。私たちの気をそらすもので満ちているこの世界で、完全で 神に受け入れられる御心をどのようにつかみ取るかが、我々が成功するための鍵となります。我々の気を散らす多くのものをすべて濾過して最高のものだけを選びとることが、未来の成功への鍵です。私たちの気をそらすものは、決断と識別の力を曇らせます。私たちが主の思いに(一致し)呼応するとき、要塞を打ち砕き、自分の未来のアイデンティティーを拡大していけるのです。
すべての質問は答えを求める
この「祈りのフォーカス(焦点)」は、「聞いたことを実行するによってより(御声が)聞けるようになる」という言葉を皆さんが実行するためのものです。これからの7日間、信仰で歩み、我々の未来を束縛する古い思考パターンを崩しましょう。7日以上かかるかもしれません。十分時間をかけてください。今までと違う考え方をしてください。主と会話をする中で、あなたの祈りの生活が毎日新しく変っていくのをみてください。
イエスの教えとそのミニストリーの仕方を調べてみると、神の子としてすべての知識を持っておられたにも拘らず、答えをすぐには与えないで、先ず相手に質問をされたことは興味深いことです。主は、私たちが今までとは違った もっと深くて鋭い考え方ができるようになるために質問してくださるのです。主は我々の思いを刺激し、我々が主の道、主のやり方を求めるようにと促されるのです。
我々の心と思いとは、マタイ16章にある「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というような主の質問によって刺激されます。神は今日も
ご自分のすべての質問に対して、私たちからの応答を求められています。又、神の考えよりも自分の考えを上にしていることに対しても、私たちの応答を要求されています。神がリアルな方であるのは、まさにこの故です。主は主の民と深くかかわることを決して止められない方です。主が求めておられる民とは、主の考えを(熱心に)聞き、主の方法(道)をよくわきまえ知って、主の作戦に従う者たちです。神のお考えに従って行動することこそが有能なクリスチャンの鋭い頭の働かせ方です。
要塞を打ち砕くには、自分の考え方を変えるプロセスを通らねばなりません。そのためにはそれぞれの人が踏むべきステップがあります。次に挙げるものは、自分の思いを研ぎすまし、鋭い思考能力を養い、考えをまとめるために役立つ鍵となるものです。
あなたの問題をよく見定め、あなたが本当に問題としていることをはっきりさせる。 何が一番根本的な問題なのか?
あなたが納得いくまで十分に考えることができないような思考モードにどのようにして陥ってしまったかの総ての原因を検討する。そのために、あなたが物事を完全でフルに考えめぐらすことができない理由とその欠落部分を、他人から指摘してもらう。自分にこの問題があることに気がつくのは、人と話している時に(自分が何を話しているのか分からなくなって)文の途中でセンテンスが切れてしまうとか、問題全体を十分に考え切れていない自分に気が付くような時である。
自分がいつもひっかかる罠をはっきり認識する。神の御霊にあなたの偏見を明らかにしていただく。
自分の立場と権威を明確にする。
あなたの問題の根本的な原因を把握する。
あなたが物事を分析するときに、自分がどの視点から見ているかを認識する。
自分の観点をいつでも変える心の鷹揚さを持つ。
「自分の思考プロセスを自分の知っていることだけに限定してはいないだろうか」と自問せよ。限定された思考プロセスは独善と同義である。
物事を分析するとき、「それは当然だ」と考えてしまっていることを見つけ出す。あなたが勝手に想定してしまうことによって、愚かさを露呈しないように。
部分的な真理をもとにして知的判断を下していないかどうかチェックする。
「物事を単純に考えすぎて、大切なことを忘れていないだろうか」と自問する。
ある情報を受け取ったり、それを解釈したり、人に伝えるときに、先入観や偏見がないようにする。
素直に悔い改め、考えを進んで変えることができる。
そうした方がよいときに赦しを請う。清くされるように。主の恵みを受けて自分の思いが癒されるように願う。
7日間の祈りの焦点(主からの預言の言葉を含む)
第一日:第二コリント10:3−6を読んで暗唱する。「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」
自問:神のみ言葉よりも自分の考えを上にしている領域はないだろうか? 高慢になっている領域はないだろうか?もっと自分を解放するために必要な啓示やカウンセリングを受けるのを阻むプライドに起因する不安全感(インセキュリティ)はないだろうか?
第二日:預言の言葉をしっかり握って戦え!第一テモテ1:18−19「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。」を暗唱する。又、出エジプト23章も読む。
預言的啓示は、神の子たちが「今、ナウな」考えのプロセスを経験するために用いられる。預言的啓示や啓発は、聖書に書かれているみ言葉の原則と矛盾することは決してない。しかし今日語られる神のハートから啓示は、今の時代にこの世の敵を打ち負かす力を与える。
次の神からの預言のみ言葉を読み、次のことを自問せよ。:「このみ言葉は自分の状況にどのように当てはまるのだろうか?自分はどれほど奪われているだろうか?私の手は繁栄をもたらしているだろうか?敵に 正面から立ち向かっているだろうか?自分のまわりにいる天使が助けてくれることを認識しているだろうか?」
主のみ言葉:おまえが獲得しようとしている神から約束や、周りで荒れ狂っている戦いに関して、自分の悟りにたよるな。戦利品の律法を今おまえの中にわたしはつくっている。それによってわたしが与えてある畑を支配するようになる。わたしと共に見張れ! わたしはおまえのために多くの財宝を次のシーズンのために安全に確保してある。この財宝を確保するために新しい方法で見張ることを学ばねばならない。おまえが歩く新しい道をつくるのに必要なステップが整えられるために、まずおまえの祈りをわたしに整えさせよ。この道の上には、来たるべきシーズンのためにおまえの宝の箱を一杯にする宝を具える。
今は「神がくださった戦利品を私は取仕切る!」と宣言するときだ。わたしの前に両手を伸ばせ。おまえにつかませようとしているものを見せよう。将来を保証するための幾倍もの資源を手にいれる方法を教えよう。ある者たちには、それはドアノブのようであろう。また、ある者たちにはそれはレバーであろう。また、ある者たちにはピンであろう。また、ある者たちには鍵であろう。わたしが用意してあるものをつかみ取る、時と場所を見つけるまでしっかり見張れ。
今の揺り動かされるシーズンにわたしはおまえを揺さぶり、おまえの中に入ってしまった不信仰が揺さぶられて出て行き、毒が抜かれるようにする。いまは神の解毒のシーズンだ。多くの者は食べるものも変えられるであろう。多くの者は敵の計画に自分の考えを同意させてきたことに気がつくであろう。わたしは批判し不平をいう不信仰の霊の毒をおまえから抜きさる。
天使の助けを与える。まだ知らなかったおまえと共に歩く天使を送る。助けを送るのは、おまえが進み続けられるように、再編成されるように、回復するように、入って来れるように助けるためだ。それは神による再編成と回復の始まりだ。
見張れ!見張れ!敵はおまえを征服することを計画したからだ。しかしわたしはその敵の手
05 03月
「この世は揺り動かされ始めた」 坂 達 也1.「真理とは何か」
これはピラトがイエスに聞いた有名な質問です。(ヨハネ18:38)普通の人間で、この質問について考えてみたことのない人は恐らくいないと思いますが、古今東西の哲学者、宗教家、科学者は皆この「真理」を探し廻って来ました。「宇宙の大真理とは何ぞや」から始まって、「人生とは何か」、あるいは広い意味では「どうすればよいのか」「何が良い方法であるのか」と言う実生活における真理に至るまで、人間は真理を求め続けて来ました。本当に真理とは何でしょうか。
先ず真理を辞書で見れば「正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。」(ヤフー辞書)とあります。英語ではTRUTHですが、「証明された命題・定理・真実・事実、あるいは実存、正確なもの」と説明されています。
それでは聖書はどのように言っているのでしょうか。興味のあることに、へブル語中心の旧約聖書とギリシャ語による新約聖書では概念的に少し違いがあることに気が付かされます。旧約聖書では、その人が本当に信頼に足る人か、どれだけ忠実・誠実であるか、その行いが善か悪か、その人が正直で事実・真実を語っているかどうか、と言うようなモラル面に重点が置かれ、人間が対象にされています。
それが新約聖書では、知的(論理的)・客観的・観念的な事実とか法則に重きが置かれるようになりましたが、イエス・キリストにおいて新旧約聖書両面の真理に対する考え方が集約され一つになったと言えます。すなわち、創造者の神(父、御子、聖霊)こそが永遠に存在する方で、不変であり、常に正しく、しかもその方の性質も、お考えも、言われること、なさることの総てが真実で、「永遠不変の絶対的な真理」そのものであることを示しております。
それをイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。…」(ヨハネ14:6)と言い表されました。「真理とはイエスご自身である」と言われたのですから、これ以上の明確な答えはありません。しかしキイは「わたしは道であり」にないでしょうか。
時を超越した永遠に不変の存在である神は絶対に変わることはありませんが、タイム(時)とスペースの移り変わりの中に住む私たちは、それぞれの時と状況下において数ある多くの神の不変の真理のどれをどのように適用して行くべきかを知る必要があります。これは神からの「知恵」と呼ぶことが出来ますが、それを常にご存知なのがイエスである訳です。
イエスは「恵みと真理とに満ちている方」であり、(ヨハネ1:4)イエスの御霊が私たちを「すべての真理に導き入れ」(ヨハネ16:13)て下さるのです。そして、そのイエスが「あなた(父)のみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)と言われる通り、私たちは聖書に書かれた御言葉(恒久的真理)と、聖霊を通して時とスペースの中で適切に語られる父の御言葉(預言、啓示)の両方を常に必要とし、その真理を理解しなければなりません。
イエスはそのことを別の御言葉で次のように説明されました。「…わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)ポイントはいつもタイムリーに「わたしの声を聞く」にあります。
さて、人間が真理を追いかけて止まない理由は、この世には真理でないものが余りにも多くあるからです。その「真理でないもの」とは神に不忠実なものであり、それが「罪」です。人間を罪に導いたサタンの総ての業は「うそ」「ごまかし」であり、神にたてつくものです。従って私たち人間が作り上げたこの世の社会は「真理でないもの」で充満しています。
2.今のシーズンに神がなさろうとしていることは何か
それは人間の中でも、特にクリスチャンの持つ罪と罪の性質をより集中的に洗いきよめることにあると私は信じます。勿論、私たちのみならず、どの時代に生きたクリスチャンでも皆この「きよめ」のための長いプロセスを通されて来ましたから、そのこと自体は特に目新しいことではありません。しかし、神は今それを加速されようとしておられます。しかも、もっと激しく徹底的に訓練をされようとしておられるのです。なぜなら、いよいよその総仕上げの段階、完成の時が近づいて来たからです。
黙示録22:11に「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」とありますが、いよいよそれが実現する、この世の終末における最終段階に入ろうとしています。同じことをダニエル書では、終わりの時に「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。」(ダニエル書12:10)と言われました。
神に従順な者と逆らう者がふるいいにかけられ区別される時がいよいよ目前に迫って来たのです。それはクリスチャンが真に「キリストに似た者」となり「小羊の妻である花嫁」として完成されるためです。
「あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(へブル12:26-29)
上記で「天をも揺り動かそう」と言われたのは、黙示録12章に書かれている「天に戦いが起こって、悪魔とその使いどもが地上に投げ落とされる時」を意味しているように思えます。そして大患難を迎えます。確かに大患難の中を通ることは、神を信じない者にとっては懲らしめ、あるいは「さばき」です。しかしクリスチャンにとっては最後の総仕上げの大訓練であるのです。そのことがダニエル書3章に書かれています。
王の像にひれ伏して拝むのを拒んだシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対して怒ったネブカデネザル王は、彼ら三人を縛って普通より七倍熱くした火の燃える炉の中に投げ込みました。すると火の中で三人ではな
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