Walk With God Ministries
15 04月
坂 達也・柚実子 来日のお知らせ ハレルヤ!私たちは、来たる6月4日より7月10日までの予定で日本に参ります。この間、沖縄に9日間と、札幌に4日間の滞在が既に決定しております。つきましては、もし私たちのミニストリーをご希望される教会がございましたら、お手数ですがメールにてご一報下さる様お願い申し上げます。
例年私たちは春と秋の二回、日本に参っておりますが、今年は秋にイスラエルに行く予定ですので、日本へはこの6月に一度だけ訪問することになりました。それでは皆様にお目にかかれるのを楽しみにしております。
尚、ヘンリー・グルーバー師の来日予定は、今のところ秋までありませんのでご了承下さい。坂 達也トップへ戻る
11 04月
「イスラエルよ 聞け!」と主が言われるジェロミー・ロペズ 次の言葉は一月の預言カンファレンスにてシカゴのジェロミー/ロペズ(Identity Network Internationalの創立者)に与えられたものです。
主は言われる。「イスラエルよ、聞け。あなたの神、主が、あなたのもとに再び来る。もう一度あなたのただ中を歩き始める。雌鳥がひなを集めるように、わたしは1948年にあなたを集めた。あなたはわたしのほまれであり、わたしのこころ、わたしの情熱である。あなたを再び生き返らせるためにわたしは来る。わたしの一人息子という炎が2000年前にあなたのただ中を歩いた。そして、わたしは言う。彼は再びあなたのただ中を歩くであろう。なぜならば、彼は二千年前に来たのと同じ肉体をもって来るのではなく、彼の花嫁のからだを着て来るからである。もう今、わたしはわたしの花嫁の心をあなたの方に向け始めている。イスラエルよ、わたしは再びエルサレムの街を歩き始める。ヴィアドロロサをもう一度歩き始めるであろう。」
炎があなたがたの街の通りを再び歩くであろう、イスラエルよ
「イスラエルよ、わたしはあなたの町々やそのまわりにおいて十字架の上で贖われた希望という宝を呼び覚まし始める。あなたの街や通りにわたしの情熱、わたしの愛、わたしの心、わたしの救いをもって入る!わたしの炎である花嫁は、あなたの町に待ち望んでいたメッセージを携えて入っていく。それは、約束された者、メシヤのメッセージである。あなたが心の中にそっと秘め、『エホバの神主よ、あなたが来られるという約束は一体どうなったのですか?』と言っていたことだ。しかし、わたしは今までずっといつもあなたと共にいたのだ。花嫁なる教会を通してあなたがたのただ中で動いていた。わたしの花嫁は、あなたの若者や年寄りをしっかり胸に抱いてわたしの愛を あなたに告げるであろう。イスラエルよ、あなたのためのヴィジョンは、わたしを、真のわたしを、わたしの一人子メシア/イエシュアを通して知ることである。」
「モーセの時代のように再び勝利するわたしを知れ。しかし、今回は新たに(初めて)、わたしをあなたの救い(主)として知れ!それこそあなたが何千年もの間、知り、楽しみ、経験することを待ち望んで来たことだ。これまであなたは出エジプトのことを聞いたり読んだりしてきたが、今出エジプトの時が再び戻ってきたのだ。しかし、今度はしもべモーセを通してではなく、また古き時代の預言者たちを通してでもなく、わたしの花嫁を通してなのだ。花嫁はわたしの愛するもの、今わたしのマントルを着るものだ。人類の心が壊されて陶器師の畑で死んだままに放っておかれた姿を、心を開いて花嫁に見せてもらいなさい。それから、その壊され泥まみれになった人類の心をわたしが拾いあげ、どのように修復して再びわたしの胸に抱いたかを教えてもらえ。」
主が言われる。「わたしは再びヤコブの井戸に戻ってくる。イスラエルよ、何故あなたは毎日ヤコブの井戸に来て何千年も同じ水を汲み続けているのか。わたしはまもなくあなたに会うためにヤコブの井戸にくる。丁度わたしがサマリヤの女に会ったときのように。しかし、今度はわたしのかわりに花嫁を遣わし、ちょうど母親の雌鳥が雛鳥に言うようにこう語る。『イエシュアはあなたの渇きを止める水を持っている。彼はあなたの渇きを満たすために必要なものを持っているのだよ。』と。」
イスラエルよ、わたしは情熱の炎を再び燃やすために来た
「今この時に、わたしは花嫁とあなたのところに戻ってくる。花嫁はわたしのひとり子が持つ光と愛と希望をあなたに食べさせるであろう。わたしは陶器師のろくろを使い、国々がお前に与えた傷を癒し回復させよ。あなたは死んだ者として見捨てられた。しかし、わたしはあなたを新しい命によみがえらせる。あなたの壊れ果てた心に、わたしのひとり子の命、イエシュアの血潮を再び入れさせてくれ。それはモーセがしっかりと胸に抱いたメッセージと同一であり、『贖い主がその子等のところに来られる』というものだ。」と主が言われる!「あなた達は心の中で『彼らがメシアと呼んでいるイエスは、本当に神の子なのか?』と言ってきた。」
「わたしが今も、またこれからも常に『あってあるもの』であることをあなたに示すために、花嫁はわたしのひとり子を通してあなたの前で偉大な業をする。なぜならば、花嫁は失われた者を探し出し救うためにわたしのメッセージを携えてくるからだ。イスラエルよ、あなたがその失われた者である。あなたを誤解し、あざけり、憎んだ国々からあなたは投げ捨てられたのだ。」
「わたしはあなたの街々を歩き、泣いた者たちのために泣き、嘆いた者たちのために嘆き、道に迷った者たちを呼ばわった。わたしのもとに来なさい、イスラエルよ。父のところに行く道を教えよう。なぜならば、わたしが道であり、真理であり、命だからだ。わたしは再びあなたの町々に情熱の炎を燃やすために来たのだ、イスラエルよ。わたしの言うことを聞きなさい!わたしこそあなたが捜し求めていた鍵なのだから。わたしの炎は再びあなたに帰ってくるであろう!世界の軍隊があなたに呪いをかけ立ち向かってくるにしても、わたしがあなたの避け所となる。」と主が言われる。「エルサレム、エルサレム、わたしはあなたを再び抱くことをどれほど待ち望んでいるであろうか。」
わたしの深みからあなたの深みに呼ばわる
「あなたはわたしを退け、あざ笑い、唾したけれども、わたしは決してあなたを忘れなかった。だからわたしは、わたしのひとり子イエシュアの十字架の希望と喜びと力をもって、あなたのただ中で炎のように燃えはじめるのだ。わたしはあなたの町の古き門や扉を開き始め、わたしの炎を再び送る。それはあなたのわたしへの信仰と希望と喜びを新たにするためだ。」と主が言われる。「わたしがモーセが見た柴の中でどのように燃えたかを思い出しなさい。 イスラエルよ、今度はわたしの花嫁が、あなたへのわたしの愛の情熱で炎となって燃える柴となる。わたしの火を受けよ。その火とはわたしの花嫁だ! わたしの花嫁はあなたを養い抱いてわたしの元に回復させるために来たのだから。」
「わたしの花嫁は、わたし、エルシャダイの養う霊を持っている。わたしの深い淵からわたしはあなたの淵に呼びかけあなたのデスティニー(神から約束として与えられている 真の目標、目的、到達地)を呼び覚ます。イスラエルよ、あなたのデスティニーがあらわれる!わたしはあなたを養い、あなたが
03 04月
「人の子らよ、帰れ。」主に 坂 達 也 先週掲載したキャシー・ペルトンの「恐れの根を取り除く」は大変興味のあるメッセージでした。文中で、彼女が折からの経済不況のあおりを受けて家族3人の仕事が無くなり、収入源が断たれたことが書かれています。彼女とその夫は、総てを主に委ねる信仰で生きようとしているすばらしい夫婦です。最初の二、三ヶ月は思いがけない方法で主が彼らに収入を与えられましたが、その後の数ヶ月は何も入らず、ついには貯金も底をつきました。その時点で、彼女は信仰による平安を装ってはいても、夫に仕事探しにもっと精を出すように「ほのめかした」のです。しかし主には(夫にも)彼女の心の状態が分かっていましたから、主は、その「ほのめかし」が神からの声を聞いてそう言ったのか、あるいは恐れ(不信仰)から出た、自分自身の考えであったのかを彼女に問い質されたのでした。
この話を読まれた方の中には、「自分で出来る当然の努力をしながら主の導きを待つと言うやり方がどうして信仰的な生き方ではないのか」と言う疑問を持たれた方も大勢おられたかと思います。つまり、仕事探しを自分の責任ですることは「主の御心の中に入る当然すべき自己努力」と言う考え方です。すると、問題はどこまでを自分の責任でし、どこから神に頼るのかと言う疑問にならないでしょうか。あるいはそう分けて考えること自体が間違っているのかもしれません。
それで思い出すのは神がモーセを通してイスラエルの民に言われた下記の御言葉です。「『あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト記19:4-6)
神はイスラエルに二つの要求をなさいました。一つは「わたしの声に聞き従う」こと、もう一つは「わたしの契約(律法の書)を守る」ことでした。私たちの願いは勿論、主の御声を聞いてそれに従うことですが、主は同時に、私たちが主との契約を守ることを要求されています。それがどう言うことかをヨシュア記1:8が「この律法(契約)の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と説明してくれています。
私たちは常日頃、聖書にある「書かれた御言葉」(契約、律法)を聖霊の助けと導きによって精通し、祈りつつ、それを自分の霊と魂に叩き込んで自分の血肉の一部となる程に沁み込ませる必要があると言われるのはこのことであると思います。そうすることによって、私たちクリスチャンは先ず、基本的な主の御心と思いを知り、自分の心と思いが主と同じか、あるいは非常に近いものとなるのです。そうならなければ神と友人のような親しい関係にはなれません。これはちょうど神ご自身の思いを知るための原語である「霊のことば」を憶えるようなもので、それを憶えることによって、主と聖霊が語られる「声の御言葉」がよく理解出来るのではないでしょうか。
私は最近「主の御声を聞く」とはどう言うことかなのかを色々な面で体験させられています。先ず今までの私のフラストレーションは、何故もっと御声が聞こえないのだろうか―にありました。グラハム・クックは主が直接私たちにことばとして語られることはそんなに多くはないと言います。それではどうしてその時の神の御心を知ることが出来るのでしょうか。
神はアブラハムに「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰せられました。(創世記17:1)「全き者であれ」の全きと言う言葉は英語でパーフェクトですが、神は私たちが完全な人間になることを要求しているのです。完全な人間とはどう言う人間でしょうか。完全な人間は唯一人イエス・キリストがそうですから、私たちはイエスのような人になれと言われていることになります。そして、それを具体的に言うならば、それがヨハネ5:19、20に書いてあります。「…子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。…」
イエスは父がなさることを常にみな見てそれを行ったのです。(霊的に心の眼で見ることと、心の耳で聞くこととは同じでしょう。)そして自分の考えでは何一つしませんでした。
前述のキャシー・ペルトンは、たまたまその時に恐れを持ったため、これが出来ませんでした。イエスは常に父を見上げて父の指示を待ちました。しかし大事なことはイエスの心が父の心と完全に一致して、通じ合っていたことにあります。
イエスは、一日の生活の中で誰かが突然現れるとか、些細なことも含めて起こることの総てを予期し予知されておられたかどうかは私には分かりません。多分予期されていなかったことも多く起こったでしょう。例えば、ある人から突然電話が掛かってくることは、通常私には予期出来ません。(時々は思いがけない人からであっても、その人からの電話だととっさに「霊感で、虫が知らせる」経験をされる方は多いと思いますが)イエスはほとんどの場合、前から父の予告を受けているか、あるいはその寸前に予知出来たかも分かりません。いずれにせよ、イエスは総てにおいて父の御心がはっきり分かってその通りになされたことは確かです。
私たちは何かが起こる、あるいは人から何か言われると直ぐリアクションしてしまいます。このリアクションとは通常自分の肉がこの世的に反応する、とっさの感情からのリアクションが多いのです。(例えば、ムッとするとか)しかしイエスは私たちのように罪の性質でこの世的に反発・反応されることはありませんから、恐らくとっさに思い浮かぶのは 全き父のお考え、父の思いであると思います。そして、それが正しいことである確認を父は瞬
間的に与えられるのであると思うのです。
詩篇85:10に「恵み(愛)とまこと(忠実さ)とは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」とありますが、これは父と子の関係をよく表していて、ここで言う義(の心)とは「子は総て父に従う」緊密な交わりの関係そのものであり、それに父は常に愛と平安で応えられることを表していると思います。父と子のやりとりは、「阿吽の呼吸」とでも言いましょうか、イエスは自然に「父だったらこうお話しになる」と言うような適切なことばとか考えが、状況に応じてほぼ自動的に出て来るのではないでしょうか。
勿論大きなこと、例えばラザロが死にかけているので早く来て欲しいと依頼されても尚二日間も行かれなかったのは、大きな奇跡を起こされるご計画があったからですが(ヨハネ11章)、このような場合は前以て父と子は入念に打ち合わせされていたと思います。
私は最近、勿論イエスのようにではありませんが、私なりに、相手に答える言葉が何か自然に口に出て来て、後で、それが神がそのことばを私の思いと口に入れて下さったのであると言うことが結果として分かったことが何度かありました。それは神の御声を聞いたからそれをしたと言う感覚ではなかったのです。結果的にそうなったのですが、その時一つ私が気が付いたことは、私はずっと平安のうちにいたと言うことでした。
主との阿吽の呼吸と言うのは、時に「待つ」ことを教えてくれます。主は私たちの信仰を強めるために敢えて私たちを待たせることが多くあります。しかし、その時に平安を下さいます。ですから真に信仰のある人は安心して待てるのです。これをキャシー・ペルトンに当てはめれば、彼女の夫は「今は主の指示を待つ時である」こと、自分では何もしなくてよいことをはっきり感じていたのであると思います。キャシーもそう信じていたのでしょうが、彼女の場合は「恐れ」によって神とのコミュニケーション(親密な関係)がつい途切れてしまい、あわてて自分の考えで行動してしまったのではないでしょうか。
これからの世の中は益々暗くなり、患難を迎えます。今こそキャシーが受けたような信仰の訓練を私たちもしっかりと受け、患難に立ち向かう時です。
このようなしっかりとした信仰の土台を築き上げるためには、先ず常に天におられる父を徹底して求めることにあると思います。ダビデは「神ご自身の心を求めてやまない人」でありました。これが神の義の心であると思います。「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)詩篇の86:3-4でダビデは「 主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」と叫びました。
そのダビデが「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。』と。」(詩篇91:1-2)とうたっています。隠れ場とは秘密の場所、それは主とあなただけが密会する秘密の場所です。そこにいつも宿り住む者は全能の神のご臨在に常に覆われ、これ以上安全なとりではなく、どんな敵も近づくことは出来ません。そのような主との密接な交わりの関係にいつもいれば(主の御前に住む、宿る)、あなたは神の御声が聞こえます。又、たとえ聞こえないと思われる時でも、主はあなたを導き、あなたの足はいつもしっかりと守られています。
少年であったサムエルはまだ神の御声を聞いたこともない時に、ある夜、神のともしびがついたままで主の箱が安置されている主の宮で寝ていました。(1サムエル3:3)これは主のご臨在の前で彼が安らかに眠っていたことになります。すると初めて主がサムエルを呼んだその御声を聞いたのでした。
今厳しい職場の困難な状況の中で夜遅くまで働いておられる方、毎日が戦場のような牧会生活に疲れておられる牧師の皆様に私は申し上げたいのです。主とだけの時を出来るだけ多く過ごして下さい。主に安息することはどんなに忙しい時でも可能です。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」(詩篇90:1-3)
私たちが、自分(の考え)を塵のようにへりくだらせ、神に帰って、罪のないエデンの園でアダムとエバがしていたような、主との深い交わりを持つことを神は望みつつ、私たちを待っておられます。(終わり)トップへ戻る
03 04月
楽観か失望か?グラハム・クック神は、単に私たちが目指す目的地に到達するのを助けたいとは思っておられません。主は私たちがどのようにして目的地までたどり着くかに関心があり、その旅路に同行したいと願っておられるのです。ルカ24章で主はエマオに行くために弟子たちと一緒に歩いたのではありません。主は 共に歩くことを楽しみ、ご自分の復活というよい知らせを彼らに分かち合いたいと思われた故に、一緒に歩かれたのです。
私たちが神に何かを素早くしてくださいと願うときに、主は大抵の場合「ノー」と言われます。ほとんどの人は、自分の抱える問題が一晩で解決し、元通りの平穏な生活に戻ることを望んでいます。しかし、神は決してそのようなことはされないのです。主は私たちと共に道を辿り、知恵や啓示、そしてご自分の臨在を与えたいと思われるのです。
この旅路において、私たちには二つの選択肢があります。楽観的であるか、または失望するかです。自分の意志でもって前向きに考えるか、それとも気分的にとか怠惰から否定的になるかです。失望は私たちの心にそっと忍びより、自分で何が起こっているのかわからないうちに、その中に落ち込んでしまいます。私たちはハッピーであることを選び取らねばなりません。
物事がうまくいかない時でも、私たちはポジティブであることが出来るのです。「今、本当に落ち込んでいます。」というより、「静かに期待して待っています。」と言う方がいいのです。これは単に言い方を変えただけではなく、物の見方を変えることです。私は静かな期待のうちに生活しています。私の目標は常に信仰をもって生きることであり、それを助けてくれるのが聖霊が本来持つ朗らかさです。
霊の戦士は決してへこたれないで、襲ってくるどのような衝撃にも耐える必要があります。この地上でもっとも衝撃を和らげるものは安息です。物事がうまく行かなかったときでも、私たちはそこから素早く立ち直って、神にある体制に自分を再び正さねばなりません。私は時々思うのですが、罪とは私たちが倒れることというよりは、起き上がるのを拒絶することではないでしょうか。倒れてもすぐに起き上がるバネの強さは、神と出会い、神のご性質を知っている者の心が持つことができるものです。イエスが私たちにとってどのような方であるかという証と、イエスが何をしてくださったかという証拠は、どのような状況の中でも私たちに勝利を与えます。(黙示録12:11「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」)この確実な二つの出来事が共に働き、私たちの心を恐れのない大胆さで満たすのです。
逆境をはね返す力は、 自分の意志をしっかり確立させることにより、自分の思いが、まわりの 状況にではなく霊によって動かされるようにすることによって得ることが出来ます。そうすると、私たちの思いは自分の口を用いて賛美し、証し、神の偉大さを宣言するようになります。
主の偉大さをほめたたえるか、それとも今自分を悩ませている状況に焦点をあてて大変なこととして扱うか?―私たち各自がこれを選択できるのです。主をほめたたえることこそ否定的な思いを取り去る解毒剤です。霊で生き私たちの内なる人を顕していくためには、私たちの存在のすべてが一致していなくてはなりません。魂、霊、身体という自分のすべてによって信仰は表現されねばならないのです。思いの同意と感情の服従によって、意志による行動は霊が目指すものに従い、神がどのようなお方であり何を望まれているかということに一致していくのです。この一致が起こるや否や、ブレークスルーが起こり始めます。(終わり)トップへ戻る
28 03月
恐れの根を取り除くキャシー・ペルトン 「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。」詩編27:3
主は私を様々な方法で取り扱ってくださるので 、 その主のなさり方に私はいつも驚嘆させられます。主の愛と導きがなければ 決して行くことはないところに、主は私を連れていかれるので、私はいつも驚くのです。神は最近、また私を取り扱ってくださったのですが、それは私の個人的な危機がきっかけでした。皆さんの中にもおられると思いますが、私の家族も現在の経済危機の中で打撃を受けました。主人のセールスの仕事はなくなり、長男は先月建築関係の仕事を無くしました。そして私の給料も一月の初めからもらえなくなりました。しかし、「成熟したクリスチャン」として私たちは恐れではなく信仰に堅く立っていた、、、と私は思っていました。
初めの2、3ヶ月は、 予期しなかった特別な方法で神が必要を満たしてくださるのを見ながら、私たちはこの「危機」を過ごすことができました。しかし、月日が経つにつれ、貯金も底をつくと(仕事が見つかるあては全くありませんでした)口から出る言葉こそ信仰的であれ、私は恐れによって突き動かされる言動をとるようになりました。勿論、私はそれをあからさまに表さないで、恐れてはいても「落ち着いた」姿勢をとろうとしました。このような状況の中でも忍耐強い主人に対して、 履歴書をもっと多くの会社に出すようにと、「ほんの少しだけ」私は圧力をかけたのです。そして次には、この危機から家族を助けるために彼が出来ること(私の意見では、彼がするべきこと)を何気なくほのめかし始めました。
あなたの恐れは神にとって些細なことではない
この前の土曜日の朝、私が起きると、主人がすばらしい朝食をすでに用意していてくれました。しかし、私はその祝福を感謝して喜ぶどころか、席に着くやいなや、 どのくらい私が提案したことをやったかと彼の問いただしたのです。それに対して主人は何も説明せずに、私を見つめて「私たちは今いい関係にはないようだから、話さないほうがいいだろう。」と言ったのです。
私はショックでした!よくそんな事が言えたものです!私は大切なことを聞いただけじゃないのですか?この危機に家族が責任のある決断ができるように助けようとしただけじゃないでしょうか?
主がその時 直ちに、彼に提案した(実際、私は提案ではなく要求したかったのですが)ときの私の真の 心の動機について語りかけられました。私が彼に提案したのは主の導きに従ったのか、それとも自分の恐れからであったのか、と主が聞かれたのです。勿論、それは恐れからでした。そうでなければ、ほのめかすなどという小細工は必要なかったはずです。主は次に、「あなたがほのめかした提案は、あなたの夫にも私にも些細なことではなかったのです。彼もわたしもあなたが恐れていることを知っています。」
主人と私の結婚生活でずっと大切にして来た二つのことを、私はないがしろにしてしまっていたのです。その一つは、何か行動を起こす前には必ず主からの導きを待つこと、自分たちから決してことを始めないことです。主の知恵を待つだけではなく、主のタイミングも待つのです。二つ目は、お互いを肉だけではなく霊で知ることです。人間関係 は霊と霊とをもって結びたいのです。私の中に起こった恐れのために、私は神の知恵とタイミングを待つのではなく、自分の知恵と自分の時間表によって事を始めようとしてしまったのです。
また、主人は私を「霊によって」知っているので、私の言葉は表面的には正当に聞こえても、私の心の中には恐れとコントロールしようとする思いがあることを主人は感じ取れるということを私は忘れていました。私がほのめかしていた提案は、主人と神にとっては高く鳴り響く警報のようであり、「イエス様が万が一何もしてくれないときのために、とにかく何かしてよ!」と叫んでいたのです。
自分の書いたものから学ぶ
皮肉なことには、先月の私の記事の題が「静まる平安」だったことです。私は人生の嵐の中での平安と信頼について書きました。私が何かを書いたりそれについて教えたりするときは、必ず私自身もそのことを学ばなければならないはめになるのです。真理を話すときは、それを自分が生きねばならないのです。そして私が何かについて書くときは、私がそのテストを受け、その結果それが私の人生の中でも真理になることがよく起こるのです。
私の心の奥深くにはまだ恐れの根があり、それが困難に出遭うと「自分は見捨てられてしまった」という思いを私に与えていることが明瞭になり、神にそれを取り扱っていただく必要があることがわかりました。主にどうすればよいのかを尋ねたところ、主が最初に示してくださったのは、恐れからくる行動をすべて断つということでした。私のすべての人間関係にそれは必要でした。夫、子ども、友人、そして特に主との関係においてそうでした。私にはあと一歩で大人になろうとしている5人のティーンエイジャーがいるので、これはチャレンジでした。
私が子どもたちに した「カウンセリング」も、信仰を土台としていたというよりは、本当はむしろ恐れから出ていたのであり、私はこれからは神からのカウンセリングだけを子どもたちに語らねばならないことを悟りました。私よりももっと彼らを愛しておられるお方に子どもたちを明け渡さねばなりませんでした。
私は、自分が他人をコントロールしようとする者だと思ったことがありません。しかし、私の言動の根が明らかになるにつれてはっきりわかったことは、わたしの心にある恐れというものが、いつも必ずと言ってよいほど人をコントロールし、操ろうとする言動を取らせていると言うことでした。その言い方は他人には「微妙にほのめかす」程度に聞こえるかもしれませんが、神にとっては、また、敵にとってもそれは微妙ではないのです。私たちが宗教的マスクでそれを隠そうとしても、敵は決してごまかされません。
自分のあかりに火をともすな
「見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」イザヤ50:11
10年前、私はとても困難な時期を過ごしていました。その時に神は、子ども時代の
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