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Walk With God Ministries

18 01月

霊的な礼拝とは  坂  達 也  2010年1月18日


霊的な礼拝とは

                                            坂  達 也
 
礼拝を含めた色々な集会において、濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはほとんどいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。

私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。一昨日の朝がそうでしたが、主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。

勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださる(感じる)とは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5:16)この霊的事実は信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。

最近の私にとっては毎朝御霊とお会いし、御霊に満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。それは主の御声を聞くためというより、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからです。 

ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、最近次のように語っています。「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」

「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。

私はダビデによる詩篇23を読む時はいつでも、この詩だけが持つ独特の「音色」と言いましょうか、それはダビデの心そのものが溢れるように伝わって来ます。恐らくそう感じるのは私だけではないと思います。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」


 私はクリスチャンになった頃は英語の聖書に親しんでおりましたので、最初の二節The Lord is my shepherd;Ishall not want. He makes me to lie down in green pastures; he leads me beside the still waters.の方に今でも親しみが湧きます。特に1節でIshall not want は「乏しいことがありません」の意味で全く間違いではありませんが、むしろ「私は主が私の必要な総てを与えてくださるので心から満ち足りており、私自身は何も欲しくはありません。」という英語訳のニュアンスが好きです。又、2節を読みますと、水のほとりにある緑の牧場の光景が「神の平安」に包まれたすばらしい場所であると同時に、神にあっての「静けさ」が伝わって来ます。邦訳にある「いこいの水」とは、多くの英語の聖書で「静かな水still water」と訳されていますが、それは怖い急流でも、よどんで死んだような水たまりでもない、安全で静かな清流のほとりという意味でありましょう。

この詩篇は神をこよなく愛したダビデが、神と自分との関係を表した心からの主への愛の讃歌であり、主への信頼、感謝、喜びに満ち溢れたものです。このダビデの心はまさしく主キリストの心と一致しております。

主の心、思いと一致する

今の私たちに最も必要な「主の御前に立つ祈り」とは、私たちの心と思いが主の心と同じになる、主の思いと一つになることにあると思います。そうなってこそ心が通じ合い、主の心の思いと「静かな小さな声」が伝わってきます。これが主と親しい間柄になるということです。

私たちの身体の総ての細胞が声を持っている

心が一つになるとはどう言うことでしょうか。ジェシカ・ジョーンズ師は次のように言っています。
「私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものです。・・・すべてのものが音を出します。この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。すべてのものは物体ではなくて音なのです。・・・創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。・・・私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があります。・・・私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばなりません。・・・すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。・・・この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。・・・ 一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。白は義の衣の色です。 この一致した音の振動はパワフルな力です。
10 01月

新しい年に期待する 坂  達 也 2010年1月10日


新しい年に期待する
                            坂  達 也



2010年はどんな年になるのでしょうか。新年を迎えて早々にアメリカでの良いニュースをお伝えします。
昨日のモーニング・スターのインターネットの番組でリック・ジョイナー師がトッド・ベントレー師と共に映像に現れ、この5日MSU(モーニングスター大学)の授業が開始された日の若者中心の集会で予期しなかったアウト・ブレークが起こり、これが12時間続いた後、翌日の夜も同じような癒しと奇跡を伴うアウト・ポアリングが起こったそうです。従って、急遽これから少なくとも2週間は火曜日から土曜日まで毎夜集会を持つと発表しました。

既に謹慎の身から解かれて、モーニングスターでの集会にミニスターとして参加し始めていたトッド・ベントレー師のところへ、年明けにボッブ・ジョーンズ師が訪れました。その目的はジョーンズ師が主からの特別の「訪れ」を受け、トッド師の上にあるのろいを打ち破るように指示を受けたからでした。そこで師は3日のモーニングスターでの日曜礼拝において、トッド師に按手して祈りました。その時彼の上にあったのろいが解かれ、フロリダのアウトポアリング時に受けていた癒しと奇跡の霊に立ち返ったような「天が開いた状態になった」とトッド師は語っています。
尚、ジョイナー師は、今回のアウト・ブレークはベントレー師だけによるものではなく、モーニングスターのリーダーチームと学生たちの中からも主に立てられた人たちが出て来ていることを強調しています。これをリバイバルと名づけるのは早すぎるが、何か大変なことが起きる始まりであることをひしひしと感じていると言い、二人とも大変興奮しておりました。

それ以前に、既にご存知の方も多くおられると思いますが、昨年から同じような学生(IHOP大学)中心のアウトブレークがマイク・ビクル師のIHOPでも既に起こっております。ここでは既に毎週水曜日から日曜日の夜まで午後6時から12時までの集会が持たれており、顕著な癒し、救い、開放が起こっております。最近IHOPを訪ねたヘンリー・グルバー師によれば、「すばらしいことが起こっている、会場には多くの日本人・東洋人(多分韓国人)が来ていた」と言っておりました。詳しくはIHOPのインターネットHPをご覧ください。

さて日本では、2010年はどのような年になるのでしょうか。既に日本でもあちらこちらでリバイバルの兆しが起こり始めていることを昨年来聞いて参りましたので、私たちも大いに期待しております。
新年はブレイクスルーの年であると多くの方が言っておりますが、たまたま私個人がジェシカ・ジョーンズ師から受けた預言においても、今年日本に大きなブレイクスルーが起こり、日本を被う頑固なサムライ・スピリットが打ち破られ、そのサムライ軍団の刀は地に落とされること、そのためのブレイクスルーという言葉が何度も何度も強調されておりました。期待します。


一方2010年への政治情勢への不安もこのところ一気につのって来ております。昨年末クリスマスの日にデトロイトで未遂に終わったアルカイダの飛行機爆破事件と、12月30日にアフガニスタンの米軍基地で起きたCIA工作人による自爆テロ事件が世界中を再び2001年の9/11当事のテロへの恐怖に引き戻し、特にアメリカでは緊張した年明けとなりました。
テロとの戦いはこれから益々激しくなると予想されますが、昨年12月初めにキム・クレメント師が今年の中頃に米国大統領暗殺事件が起こると預言しています。(この預言はジャンポール・ジャクソン師も預言しておりました。)これにより大統領自身と共に、アメリカの情勢は一変すると預言されていますが,良い方向に変革されることを切に望んで止みません。ぜひ大統領とその救いのためにお祈りください。(終わり)


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09 01月

2010年は豊かな実と増加の年 パトリシア・キング 2010年1月9日


2010年は豊かな実と増加の年

パトリシア・キング


私たちは主にあって常に増加、拡大 するように定められていることはずっと理解していましたが、 それは単に足し算的な増加ではなくかけ算的な増加であることに、私は最近まで気がつきませんでした。ある日祈りの中で 、かけ算的な収穫の増加を期待するようにとのチャレンジを 私は主から与えられました。かけ算の中で最も低いレベルは2倍ですが、あなたが今すぐ2倍の収穫を得ることを想像してみてください。どのようなことになると思われますか?

創世記1:28で、主は人類を祝福して 「生めよ、ふえよ。」と命じられました。(訳者注:英語ではBe fruitful and multiply.と訳されており、Multiplyは原語においても、倍数的にものすごく増えるという意味です。)あなたの人生の上には「生めよ、ふえよ」という主の御ことばが置かれているのです。この祝福を信じて自分のものとして 受け取るとすれば、あなたの人生に神が与えておられる目的にあなたは間違いなく従っていることになるのです。

申命記1:11でモーセは、イスラエルの人々が今の千倍になるようにと祈りました。人生に神の祝福が千倍にも増えるということは、すばらしいことであり、このことは私たちがしっかりと心にとめて、自分のものとすべきことだと思います。

主は私に「豊かな収穫を得る秘訣の鍵」を教えてくださいましたので、お分ちしたいと思います。それはとどまる、剪定、種まき、刈り取りの4つです。


とどまるAbiding

イエスは、このように素晴らしい祝福と増加の中で生きるための鍵を私たちに教えていてくださいます。それは即ち、とどまる、剪定、種まき、刈り取りです。私たちが実を結ぶのは「主にとどまる」ことからきます。(ヨハネ15:1−8)私たちがボーンアゲインするとき、キリストの霊が私たちの内に来て下さり、私たちは新しく造られた者とされます。また私たちも主の内に入ります。私たちはボーンアゲインするときに「キリストの内に生きる者」になるのです。主は私たちの内に宿り、私たちは主の内に宿ります。

あなたのディボーションのとき、意識的にイエスが「宿っておられる臨在」abiding presence of Jesusを経験し活性化することができます。あなたは自分で集中することによって力を得ることができるのです。もし内なるキリストの臨在に集中するならば、主の命の力が与えられます。あなたは自分だけで実を結ぶことはできません。枝であるあなたが実を結ぶのは、木にとどまるからです。イエスが木です。樹液のように、あるいは身体の中を循環する血液のように、主のいのちはあなたの中を流れるのです。

私はディボーションのとき、イエスをお招きするために時間をとることを好んでします。目を閉じて 主が私にとって素晴らしい方であることを 感謝します。そして「イエス様、私はあなたの内にいます。あなたは私の命です。私の力です。私の健やかさであり活力です。私の知恵、私のきよさです。私の義であり必要な備えです、、、。」と真理を宣言します。

私の内にあるキリストの命を5分ほど黙想meditatingすると、私は主の臨在の力を感じ始めます。そして 主とのもっと深い交わりの中に入っていきます。私は自分の思いと必要を主にお話しします。 主を待ち望み、主が語られるのを聞きます。主がご自分の思いと願いを語られるのを 聞きます。私は主に尋ね、主が私の心に語っておられると 信じることを日記として書きとめます。 

ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」で、もし私が主にとどまるならば、主の御言葉(主の臨在の中で私が受け取る言葉)は私にとどまり、私が願うもの(主が語られたことに沿うもの)を求めることができ、それは必ずかなえられるとイエスは約束されています。 このようにして実は成るのです。 結実と増加はキリストのうちにとどまることによって生み出されます。

剪定

増加は又、人生の剪定のシーズンを通して起こります。イエスは実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶように剪定すると言われました。(ヨハネ15:2参照)多くの場合剪定は、 現在のシーズンに対する主の目的に私たちが一致するように施されます。主は私たちにもっと聖くなることや、時には縮小し、余分なものを取り除くことを求められます。私たちが縮小したり余分なものを取り除いたりするのは恐れからするのではなく、主に対する信仰と従順からするのです。剪定によって 実りが減少するのではなく、それはやがては偉大な増加をもたらし、多くの場合私たちを新しい任務に着くようにと招くものであることを知っているからです。

私たちのミニストリーセンタ−の前に、夫のロンが毎年一回剪定していた木がありました。ある日私がセンタ−に車で行くと、その木がほんの少しの枝を残すだけで、あとはすっかり剪定されてしまっているのを見つけてショックを受けました。夫がこの木を駄目にしてしまったと思って私はびっくりしたのです。その木は本当にあわれな姿になっていました。剪定のし過ぎだ、と私は思いました。ロンは一生懸命に大丈夫だと私に説明しましたが、信じられませんでした。ほとんど切り株だけになってしまっている木が、どうやってまた育つのでしょうか?しかし数ヶ月後にはその木は盛り返しました。葉っぱは豊かに茂り、まったく見事で多くの人たちが賞賛してくれました。

種蒔きと刈り取り

豊かに結実するためのもう一つの鍵は、御国の種蒔きと刈り取りの法則の中に見いだすことができます。創世記8:22で、神は 変ることのない約束を人間にしておられます。神は「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、、、はやむことはない。」と言われました。地はまだ続いていますね。ということは、種を蒔く時があり、それにともなう収穫を刈り取るときがあるということです。

マルコ4章で、イエスは蒔くことと刈り取ることについて教えておられ、種を蒔く土地の質の大切さを強調されています。もし良質な地に種を蒔けば、それは育ち多くの実を結びます。収穫は常に種よりも多く、収穫の中にもっと種があります。もし一粒の豆を蒔いたならば、それが豆の木に育ち沢山の豆をあなたは収穫することになります。蒔いたものより必ず多くのものをあなたは刈り取るのです。刈り取ったその多くの豆を蒔けば、次のシーズンにはもっと沢山の豆
04 01月

過去を癒し未来をつくる主 ルーク・ホルター 2010年1月4日


過去を癒し未来をつくる主

ルーク・ホルター


私は最近 、 希望、アイデンティティー、ブレイクスルーへと教会を召して導くようにという命令を主から受けたと感じております。キリストの身体なる教会に属する 人々の多くが深い悲しみの中にいます。彼らは自分の過去の苦痛、失敗、間違いを眺めて、それらによって自分の未来が決められると思ってしまっています。 しかし神は、私たちが 神の子としての真のアイデンティティーをもてるように必ず助けてくださるのです。神は私たちによい賜物を与えたい、祝福したい、よい未来を与えたいと願っておられるのです。 

神は私たちが苦渋に満ちた過去から癒され、イエスの中に自分のアイデンティティーを見つけることを願っておられます。私たちがどのような人間となり、どのように生きていくかを決める種々のポイントは、「私たちが 自分の過去をどのように取り扱うか 、イエスをどのように捉えるか」という点にあるのです。私たちが過去を克服するために神の恵みを見いだすことこそ、私たちの心が解放されて 健全な心で2010年にむかって前進して行くための鍵となります。聖霊は、私たちが苦々しい思いや怒り、恥によって捕らえられている原因が何であるかを示してくださいます。

先ず、私たちのアイデンティティーは神との関係、神との親密さの中で確立されねばなりません。 神との関係は、 神の私たちへの思いと愛情を私たちが真に知り味わうときに基盤が築かれます。まずあなたが現在置かれている状況は、あなたが神を失望させた故に受けている罰ではないことを、はっきり知らねばなりません。もしあなたが天のパパとの関係に確信を持っているならば、きっとまた悪いことが起こるに違いないとあきらめるのではなく、 過去に起こった問題を克服し自信をもって目標を目指してあなたは歩き始めるでしょう。私たちが天と一致し、自分が神の御前でどのような者であるかという聖書の真理を語り出すならば、私たちの心は柔軟になり、癒しを受ける備えができるのです。

過去の癒しのヴィジョン


私がこのヴィジョンを見たとき、聖霊が私を伴ってくださいました。 ヴィジョンの中で大勢の人が私の前に並んでいました。聖霊は彼ら一人ひとりの過去の中にご自分がどのように入っていくかを実際に見せてくださいました。

ある時には聖霊は私の前に立っている女の人の目を通って 入って行かれ、彼女がまだ子どもだったときの寝室に私を連れて行ってくれました。女の子は横向きにベッドに横たわり泣いていました。聖霊は彼女の足を両手で包むように抱え、その手の中に息を吹きかけられました。すると、まるでこの少女の内面から光が出てきて肌を通して輝いているかのように、彼女は次第に暖かい光を放ちはじめました。

次の瞬間、私は大人になっているこの女性の前に引き戻されました。彼女の目から涙があふれ「お父さん、あなたを赦します。」と言いました。聖霊は彼女が虐待されていた少女の時までさかのぼり、彼女の心のまさにその所を癒されたのでした。

次に私の前に老人が立っているのが見えました。私は又聖霊と共に時をさかのぼり、この人がずっと若い時にソファに座ってすすり泣いているのを見ました。彼の妻がもう彼を愛してはいず、別の男の所に出て行くことを彼に告げていました。妻が出て行くと、 ソファに一人残された彼はすすり泣いていました。

すると聖霊が彼のそばに素早く行き、両手でこの若者の心を包み息を吹きかけました。前と同じことが起こり、若者が暖かい光に包まれるのを私は見ました。すると又私は引き戻され、私の前にいる老人が涙を流しているのを見ました。老人はまっすぐ前を見て「妻よ、私はおまえを赦すよ。」と言いました。

並んでいた人たちすべてにこれと同じ事が起こったのです。 すべての人は聖霊が彼らの深い痛み、傷、失望にまで 届いて彼らを癒してくださることを、聖霊にお委ねしたのです。神が言われました。「私はあなたの未来を造るために過去にさかのぼっていくのだ。」と。

列に並んでいる人達は全員が手に荷物を持っていました。列の前方には飛行機が見えました。 その飛行機の胴体には「2010年への加速」と書かれていました。私は 「もしあなたが神の約束というこの飛行機に乗りたいのなら、荷物をチェックインしなければなりません。」という天からの声を聞きました。「加速の飛行機」に乗るには荷物は大きすぎ重すぎるので、乗り込む前にイエスに渡さねばならなかったのです。人々は荷物を預けることを選び、イエスがそれを受け取ってくださいました。

私たちは人生の重い荷物を主に渡し主とともに前進せねばなりません。神は私たちが癒され回復し未来へと進んでいくように力を尽くしてくださいます。キリスト・イエスにおいて私たちが成長するとき、沢山のすばらしい事が私たちの未来のために用意されます。そして 自分が傷つけられた事柄に私たちの心がどのように対応するかによって、私たちの未来への旅が大きく左右されるのです。

勇気を出して聖霊に自分の過去にさかのぼっていただくことを選びとり、それによって私たちが癒されて健全な者となり、未来へと解き放たれるようにしようではありませんか!今日、過去の傷や失敗をいつまでも自分の心の牢獄に閉じ込めたままにしないで、私たちの過去、現在、未来をイエスに委ねることを決意しようではありませんか。今日天の父は、私たちが赦すことを選んで欲しいと願っておられるのです。

宣言の祈り:天の父よ、あなたを信頼し、あなたが私の人生の歴史の奥深くに入られ、癒しの業をしてくださることをお願いいたします。イエス様、知らずに、また悪意からであっても、私たちを傷つけた人々を赦します。そして彼らをあなたにお渡しし、お委ねすることを選びます。

「イエス様、私はあなたに(その人の名前を入れる)を委ねます。そしてこの人が私にしたすべてのことを赦します。主よ、どうか彼をお赦しください。」と口に出して宣言することを皆様にお勧めします。聖霊様、 毎日人を赦せるように私たちの心を取り扱ってください。私たちは私たちの未来のために過去の痛みを捨て去ることを選びとります。イエスの名によって祈ります。アーメン(終わり)


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28 12月

「Torah律法に帰れ」   坂  達 也  2009年12月28日


「Torah律法に帰れ」
                           坂  達 也

 私たちは現在ホノルルで、メシアニック・ジューのミニストリーに参加しておりますが、今世界的な出来事として云われていることは、ユダヤ人の間で「Torah律法に帰れ」という呼びかけの声が高まっていて、それが現実に起こり始めているそうです。しかしここで重要なことは、救世主イエスを信じる異邦人クリスチャンもそれに無関係ではないことです。このことはモーセが終わりの時代に起こることとして次のように預言しております。

「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。」【申命記30:8-10、新共同訳】

 上記にある「この律法の書に記されている戒めと掟」の律法の原語がTorahです。皆さんは律法と聞くと今更なんで律法が持ち出されねばならないのか?と訝しく思われるかもしれません。事実ロマ書10:4に「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」【新改訳】又ガラテヤ3:13には「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。・・・」とあり、加えて2コリント3:6には「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」【新共同訳】と書いてあり、この文字とは書かれた律法を意味しますから、新約のクリスチャンはキリストさえ信じていれば律法は守らなくてよいと誤解される方がおられてもやむを得ないかもしれません。

イエスとTorah

 しかし、これが誤解であることは、イエスご自身が、マタイ5:17-18で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われていることから明白です。
 イエスという方は律法を生涯を通じて完全に守りきりました。そうすることによって律法の本来の趣旨・目的を完全に成就し実現した唯一の人間であることにご注目ください。律法を守りきったことによってイエスの人格が完成され、守りきったがゆえに彼が唯一「罪のない人間」となり、私たち全ての罪人の身代わりとして十字架上で人間の罪の贖罪ができたのです。

 罪とは何でしょうか。罪とは「…律法に逆らうことなのです。」と1ヨハネ3:4に書かれています。罪のギリシャ語はNOMOSですが、ヘブル語ではkhaw•tawが主な語源です。それは元々「ミスする、逸する」という意味であるそうです。「罪とは的を外すこと」と言う定義をお聞きになったことはありませんか。標的に向って矢を放って、的に外れることが元々の由来であると云はれます。この的、標的が神の律法Torahであるのです。つまり、人間の言動において一つも的を外れないことが「罪のない」人です。Torahは、狭い意味で神の律法の書、一般的にモーセ五書を指しますが、広い意味では神のことばである聖書全体の教え、契約、いましめを含みます。

 神が元々造られた人間は、罪を犯す前のアダムでした。しかしアダムが罪を犯して以来、神はその罪だらけの人間を元々意図した罪のない人間に返すことを願われ、ご自身の一人子をこの世に人間として生まれさせました。これが第二のアダムと云われるキリスト・イエスです。イエスはこの世においては全くの人間でした。その人間になった神の子が一つも罪を犯さない人間として一生を通すことが出来るかどうかが神の全創造にとっての最大の課題でありました。何故なら、イエスが一つでも罪を犯す(律法に反する)ならば、十字架で死んで人間を救うことが出来なくなるからです。イエスはイスラエル人として唯一人このテストに合格しました。イエスは神の律法のすべてを守ることによって罪の全くない人間・第二のアダムになられたのであって、これは大変重要なことです。

 私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じ、その後を追い、この方をモデルとしてキリストに似た者になることが最大の目標です。と言うことは、私たちも厳密な意味ではTorah律法を守らなければならないことになります。さもなければ罪を犯すことになるからです。又、律法を守ろうとしたのはユダヤ人のイエスだけではありませんでした。イエスを信じる弟子たちは皆、ペテロもパウロもユダヤ人として律法を守り、彼らにとって律法を捨てることは思いもよらないことでした。ですから、将来においてもモーセはユダヤ人が律法に返る日が来ると上記のように預言しました。

 一方、異邦人の私たちは聖書ではユダヤ人とは違う取り扱いを受けることは確かです。そのことの一例が使徒行伝15:28章に書かれています。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな(律法を守る)重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」その他、異邦人は肉の割礼を受けなくてよいとも言われています。
 しかし、それはあくまで異邦人が「救われるための条件」としては「全ての律法を守らなくてよい」と言う意味であって、異邦人であっても救われた後の「聖化」のためには、と言うより、「聖化のためにこそ」律法に親しみ、神のみことばを注意深く何度も紐解いて確認する必要があると思います。

 勿論クリスチャンになった以上、基本的には「 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:6)、そして「 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)が原則ですから、律法に縛られることはありません。そして、聖霊に導かれた生活をしている限り、実際には適用されるべき律法
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