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Walk With God Ministries

15 02月

トランスフォーメンションと神の恵み グラハム・クック 2月15日



トランスフォーメンションと神の恵み

グラハム・クック



成熟した心に愛が満ちるとき私たちは聖霊様との交わりへと導かれます。私たちは心を聖霊様に集中させねばなりません。パウロはコロサイ3:2で「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と勧めているようにです。神を愛するためには、神のご性質について深く瞑想することが必要です。ですから主と親密な関係を保つためにはメディテイションが重要な鍵となります。 神との絶えざる交わりを保ちながら神がどのようなお方であるかを時間をかけてじっくり黙想することが重要です。


「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。」と第一テサロ二ケ5:18でパウロは言っています。主と親密であるとき、それは感謝の 言葉をもって表現されます。私たちは主への感謝を最大限 言葉に出して表す必要があるのです。主と真に親密であるならば、その事を秘密にしておくことはできません。なぜならば、それは物事や人を変革してゆく強い力だからです。あなたが主の臨在の中にとどまる方法を学ぶとき(ユダの手紙21節で「神の愛の内に自分自身を保ち」と表現されています)あなたは神の恵みの中に入れられ、そこでは預言の言葉が成就してゆくのです。恵みは私たちのために 神の心の中から 溢れ流れてきます。そして神は私たちを絶え間なく祝福が注がれる場所に置かれるのです。


神は私たちが主に似た者へと変革されることを望んでおられます。主が私たち一人ひとりの中に養われている善(goodness)は、この世に蔓延している悪に打ち勝つ力があります。神との親密さは私たちのうちに善を生み出し、その善はコミュ二ティ−全体に影響を及ぼすことができるのです。あなたの人生を覆う神の恵みが実際にあなたの住む地域や教会、そして町さえも覆うことができるとすればどうでしょうか? あなたの教会への神の恵みが非常に大きい故に、あなたの町の何千という人々がその恵みで覆われ祝福されるとしたらどうでしょうか? クリスチャンとして私たちが神の恵みの中で生活しないならば、 悪が私たちのまわりに栄えるのを私たちが許してしまうことになるのです。

神の恵みよって守られ堅固にされているコミュ二ティーを想像してみてください! それはクリスチャンたちがイエス様と恋に落ちて、主の善を彼らの周りの人々に解き放すことによって起こり始めます。「あなたがわたしの臨在で満ち満ちているので、あなたの周りの人はわたしの祝福から逃れることから出来ない」と神が宣言するとしたらどうですか? あなたが人生で果たす役目が、あなたが 出かけて行って出来るだけ多くの人々に祝福を与えることだとしたらどうでしょうか? あなたが主の祝福と親切をもって覆うべき領域に神が線を引いていたとしたらどうでしょうか? 私たちが今すでに うけている恵みを十分に用いることが大切です。私たちは自分の受けている恵みをどんどん使っていかねばなりません。 イエス様が神と人からますます愛され好意をもたれて成長されたように、私たちもこの両者から恵み(愛と好意)を受ける道を発見せねばなりません。神は私たちが まわりの人々にどんどん恵みを与えて、神の御国の領域を出来る限り拡張することを望んでおられます。


古代イスラエルの人々はこの法則を学ぶのに随分長い月日を費やしました。モーセが12人の斥候をカナンに送り込んだ時、神の恵みを自分たちのために用いようとしたのはカレブとヨシュアだけでした。他の者たちはカナンの町と軍隊を見て怯えてしまいました。民数記13:33には彼らが恐れで押しつぶされたことが書かれています。「そこで、私たちはネフィリウム人、ネフィリウム人のアナク人を見た。私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」 しかし、カレブとヨシュアは、自分たちが神からの恵みを受けていること、そしてここが約束の地だという預言をはっきり知っていたのでした。

カレブとヨシュアは、神は自分たちに必ず勝利を与えてくださると説得しましたが、イスラエル人は聞きいれませんでした。民数記14:7−10に次にように書かれています。「イスラエル人の全会衆に向かって次にように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、素晴らしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜が流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』」しかし全会衆は彼らを石で打ち殺そうと言い出したのです。

イスラエル人に「『自分たちはいなごのようだ』と思いなさい」と命じた人は誰もいません。「自分たちはそのようにちっぽけな者だ」と彼ら自身が思ってしまったのです。その結果、神の恵みを出来る限り追求する用意のある新しい世代がイスラエルに現れるまで、 神は待たねばなりませんでした。神が私たちの前に巨人を置かれる理由は、神の恵みがどれほど大きいかを私たちが見ることが出来るようにするためです。私たちは巨人を見て怯えてはなりません。私たちは勝利を得るという期待で胸躍らせるべきなのです。

私たちの恵みは目の前にある障害物を克服することができます。 「 大きすぎてとても自分では克服できない」と私たちに見える問題が起きるのを、神はしばしば許されるでしょう。しかしこれは私たちが神の恵みを最大限用いるようにしむける神の方法なのです。ティーンエイジャーだったダビデがゴリアテに面したとき、彼が持っていたのは石投げと数個の石、そして彼がいつの日か王になるという預言的約束だけでした。ダビデはサウロ王がしていたように隠れていて、戦いは誰か他の者にやらせてもよかったのです。そもそもゴリアテはダビデが戦う相手ではなかったのですから。しかし、ダビデは神の恵みを用いたかったのです。一瞬にしてダビデは夢見る少年から戦士ヒーローになったのです。これこそ神の恵みの力です。(終わり)


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11 02月

いのちの木に総てを委ねる生き方 坂  達 也  2月11日


いのちの木に総てを委ねる生き方

                                    坂  達 也

私たちの人生は神に気に入られるかどうかで大いに違ってきます。常に主に喜ばれることをしている時に、私たちは有り余るような主のご好意(祝福)にあずかれます。そうして神様の「お気に入り」になると、神は私たちのところに来て離れなくなられます。つまり明らかな神の臨在(英語でmanifest presence)が私たちの上に顕れて被うのです
そして神の祝福は周りの人たちにも及んでいきます。そうなったら人生、楽しくてしょうがなくなるのではないでしょうか。それでは、どうしたらそうなれるのでしょうか。
それは言うまでもなく、私たちが主イエスを愛して愛して、愛しぬくことです。

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」 (ヨハネ 14:23)

 イエスが言われている意味は、わたしを愛する人はわたしと出来るだけ多くの時間を過ごし、わたしの言うことば(現在形)をいつも聞きたいと願う人であり、わたしのことばを聞くことを最上の喜びとする人であるから、そのような人は「わたしのことばを守ります。」、あるいは、「守れるようにわたしが力(めぐみ)を与える」と言われているのではないでしょうか。

いのちの木

 エデンの園の中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が植えられていました。(創世記2:9)これはテスト・ツリーと言われますが、エバは悪魔の誘惑に負けて魅力的な「善悪の知識の木」の実を取って食べ、アダムにも勧め二人で食べてしまいました。テストに合格できなかったのです。その後生まれる人間は、皆「善悪の知識の木」の実を取って食べる、生まれながらの罪人としてこの世に生まれて来るようになりました。

「いのちの木」はイエス・キリストを指します。そして、イエスに総てを頼って生きる生き方を表しています。それはヨハネ15章でイエスがご自分をまことのぶどうの木に譬え、私たちはその枝であるといわれたことに通じます。 一方、「善悪の知識の木」とは自分で何でも判断して自分で生きる生き方を表しています。イエスはぶどうの木である「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。
確かに私たちが木にしっかりついた枝である限り、総ての養分は100%ぶどうの木であるイエスから与えられますが、問題は、私たちはどちらの木からも自由にその実を取れる状態でクリスチャンになったことです。

そのことに関して私は最近主から一つのテストを受けました。それはホノルルの私たちが属しているミニストリーで、今新しくミニストリーの集会を立ち上げようとしていますが、そのリーダーの人がコンピューターを必要としており、加えて、私のコンピューターがたまたま壊れてしまい、二人してすぐにも新しいコンピューターが必要となりました。そこでそのリーダーが3年ほど前から知っているという、ある有力者に頼もうという提案を受けました。その方はクリスチャン・ミニストリーに必要な機材を安く分けてくれる奉仕的団体(会社)の責任者で、そこからはかなり安くコンピューターとかカメラ、サウンド・システム、オフィス機具から集会用の椅子やテーブルまで分けてもらえる、しかも、ものによっては市価の一割位の値段で提供してくれると言うのです。そんなうまい話はないと、私もすかさず飛びつきました。

しかし、実際には、その責任者の人との連絡がなかなか取れず、取れたときは責任者が会社を辞任した後でした。そこで後任の人を紹介してもらったのですが、その人が多忙で、やっと一週間ほど前にその人と直接話をすることが出来て、助けてくれると言う確約を得たのですが、その後又なしのつぶて、この間3ヶ月近く経つのに未だに要領が得ないのです。

私はあまりに時間がかかるので、主に祈ってみました。実はそれまでは、出発時の教会を助けてくれるという相手ですから、当然主の御心と思い込み、主にはっきりとは尋ねてもみませんでした。すると「時間がかかるのを覚悟しなさい」、いや「これは全き主の御心ではない」 かもしれないという警告の声らしいものが聞こえてきました。私ははっと気が付き主の前で悔い改めました。

教会のリーダーと私は二人とも、一割で買えるのなら一番よいコンピューターにしようと言う欲が出て、アップルの最高クラスに近い2-3千ドル級のものに夢が膨らんでいたのです。支払いについては、私は元々コンピューターを買い換える時期に来ていたのでその積もりで予算を用意していたこともあり、いずれ資金がない教会の現状からして、一割で買えるのならリーダーの分も含めて二台分を私が支払うつもりでおりました。

しかし、本当に気が付かされたのです。私は、自分は「いのちの木」にだけつながっているつもりでいて、実際は「善悪を知る知識の木」の魅力に負けて、その木にも飛びつき、自分で買おうとしていたのです。この話が出たとき、それが主からのものかどうかを私は確かめなかったのです。

主は、大きなものから小さなものに至るまで私たちが必要とする一切のものを主ご自身が選ばれ、主の方法とタイミングで私たちに与えて下さる方であることをよく知っているはずなのに、私は今まで多くの場合に、勝手に安易に両方の木に手を出して来たということに気が付いたのです。

その辺りは実にいい加減で、時には勝手な理屈をつけては主の御心であると自分に言い含めて曖昧にごまかす、巧妙でずるい、とまで言える私の性格に気が付かされたのです。
もっとも正直な話、セールとか大バーゲンで値段が半額になっているものを『主の御心』と半分偽って時に慌てて飛びついてしまうのは私だけではないとは思いますが、だからといってそれは決して言い訳にはなりません。

神のご好意(祝福)を勝ち取ったヤコブ

 そのような策略を講ずる者の一人にヤコブがおりました。しかしイサクの子であるヤコブは、神の祝福を得ることにおいては誰にも負けない貪欲さと執拗さを持っておりました。ヤコブは父のイサクと双子の兄のエサウを騙してまでも長子の権利とその祝福を得ようと画策し、まんまと成功しました。

後になって、ヤコブは神のみ使いの訪れを受けたとき、夜明けまで格闘しました。彼はもものつがいをはずされても相手にしがみ
05 02月

アポロ13号   ビル・ヨント  2010年2月5日


アポロ13号


ビル・ヨント

月に着陸するというミッションをもってアポロ13号は3人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられました。しかし、そこから突然、悲痛な叫び声で「ヒューストン、問題が発生しました!」と連絡があった時、世界は一瞬停止したかのようになり、テキサス州ヒューストンの宇宙局コントロールセンターにいた人たちは心臓が止まりそうになりました。酸素タンクが破裂したことが発見されたのでした。この報道の言葉が発せられた途端、この偉大なミッションのゴールは突然変更されたのです。月に到着することは最早意味をもたず、3人の宇宙飛行士をどのようにして無事地球に帰還させるかが人々の焦点となりました。

人生の試煉や悲劇が私たちを襲うとき、それまで大切だと思っていた 夢や目標、又何かを達成すること等よりも、単に呼吸をすることが突然に一番大切なことになるのは興味深いことです。聖書の中でも、又私たちの人生においても、神が私たちを高みに連れて行かれて主の素晴らしい夢を見せてくださるとき、その夢を地上に持ち帰り実行するためには大気圏の中に再突入せねばならず、それは非常に重大な危機的瞬間となります。

多くのミニストリーから「問題発生!」の泣き叫びの声を聞く

私の霊 は多くのミニストリーが発する泣き叫びの声を感じます。それは、最初彼らは主から高い召しを受けてミニストリーを打ち上げたのですが、何かよく分からない理由で現実に物事がうまくいかなくなってしまったときに発する叫びです。あたかも天の領域(天からの計画・目標・理想・夢)にいる私たちを、神が地上の領域(現実的問題・種々の試練)に戻るように命じておられるように思われるとき、私たちのプライオリティーは急に変るのです。

アポロ13号のミッションは、神から与えられたミッションや夢を追い求めている時でさえ、私たちがいかにもろく、攻撃・障害を受け易いものかということを私たちに教えてくれるものだと思います。これに関してはヨセフのことが思い浮かびます。 神から与えられた彼の夢は何度も中断させられました。神からの夢が高ければ高いほど、それを成就するためには、私たちはより深く地上の出来事(苦しみ)を経験せねばならないかのように思えます。ヨセフが穴に投げ込まれたとき、神から与えられた夢を成就するためには、彼が地球大気圏へ再突入して地上の多くの苦しみの中に突入させました。囚人として送った多くの年月は彼を更にへりくだらせ、捕われている者に同情することが出来る者に彼をしました。ですから彼の夢が実現したとき彼は捕われている者たちに、そして悪い兄弟たちにさえも、憐れみをもって接することを忘れませんでした。ヨセフは自分のことだけを夢見る者から、人々のことや彼らのより高いデステイニーを夢見る者へと変えられていったのです。

ヨセフの夢はもう消え失せたかのように彼には見えたことでしょう。彼が地上に戻ってくるのは簡単ではありませんでした。自分の夢に死に、他人のために夢を見なければならなかったのですから。 牢獄で共に暮らした男がパロにヨセフのことを告げたのでヨセフの運命はついに成就されることになりました。恐らく他の人々の成功のために夢を見ることができたことがヨセフを宮殿へと導いたのでしょう。宮殿に入った彼は直ぐに自分の家族が回復されることを夢見て、やがて彼らを回復することができました。彼はエジプトの繁栄を夢見て、その結果すべてのエジプト人を飢饉から助けたのです。

ミニストリーが暗礁に乗り上げたかと思われるようなとき、うまくいかない事態から私たちは学ぶ

アポロ13号のミッションは「成功した失敗」であると考えられています。乗組員が月に上陸できなかったという意味では、失敗でした。しかし不可能と思われる状況の中でどのように人々が協力し合って働けるかを示し得た故に、それは成功だったのです。
ケン・マッティングリーという宇宙飛行士は乗組員の一人としてアポロ13号に乗り込むはずだったのですが、医師たちは彼がはしかにかかった可能性があるとして乗船させなかったことは興味深いことです。彼は地上に残り、自分の夢に死にました。しかし、ケン・マッティングリーこそがアポロ13号の乗組員を安全に地球に生還させるための知識と知恵を与えるキイパーソンとなったのです。

神が私たちに一つの夢をくださるとき、 私たちが置き去りにする人が、多くの場合後になって私たちの夢が成就するのを助けてくれる人となり、私たちがなにか問題にぶつかるときに助けてくれるキイパーソンとなるのです。ところで、ケン・マッティングリーははしかにはなりませんでした。彼は後にアポロ16号のコマンド ・モジュール・パイロットとして飛行しました。それは月面着陸の5回目のミッション であり、乗組員が月面を歩いた唯一のミッションだったのです!

地上で多くの人たちがアポロ13号の生還を 祈っていました。ダクトテープと紐という全くありふれた物が、宇宙船の酸素の補給を保ち命を救うものとなったのです。実際、NASAからのすべての宇宙ミッションにはダクトテープが積み込まれています。


私は6年前に心臓発作を起こし救急病棟に横たわっていたのですが、その時多くの人々が世界中で 私のために祈ってくださったことをよく憶えています。私の心臓は実際止まっていたのです。その朝私は救急室で、サタンが手下の悪霊どもにむかって「彼のために祈っている人がすごく沢山いる。残念だが彼から手をひかねばならない!」と言っている声を聞きました。心臓発作を起こす前、私は神から高い召しを受けていましたが、その夢を実現するために私を地上に引き戻してくれたのは人々の祈りでした。

神はしばしばその人のミニストリーを断っても、人を主ご自身の元にひき戻される

何年も前のことですが、私は自分のミニストリーによって破滅しそうになりました。私は自分のミニストリーを主よりも愛してしまったのです。 ミニストリーというものは、気をつけないと私たちにとっての一番の敵となり得るのです! そしてそれは全く悪気もなく起こってしまいます。というのは私たちは神御自身が召してくださったことを愛するからです。主は私のミニストリーが進まないように、戸を閉ざし窓に鍵をかけられました。私の働きへの招きはぷっつり途絶え、私の周りにいるのは家族と神だけになっていました。3ヶ月間ほど私は神と閉じこ


26 01月

これからの時に備える リック・ジョイナー  1月26日


これからの時に備える
 
リック・ジョイナー



最も(霊的に)高度なクリスチャン生活を送るためには、聖書の深い理解が必要であると共に、深いデボーション(主の御声を聞きもっと深く主を知る)がそれに伴っていなければなりません。私たちが今年学ぼうと決意したことはこの二つのことであり、この二つを達成できたならば2010年は非常に成功したといえるでしょう。

以前にも述べたように、書かれた神の御言葉と神から直接受けるメッセージや啓示との間には矛盾は決してないことを私たちは知っております。 神は偽りのない方であり、又、変ることがない方であると聖書は私たちに告げています。ですから書かれた神の御言葉(聖書)は、すべての預言を正しく判断するための基盤として私たちが信頼すべきものです。神からの預言やメッセージは決して聖書に書かれていることと矛盾はしないはずなのです。

西洋的な考え方は縦の論理を基本にしています。そして、それはしばしば私たちがすべての事に関して原則を作るように強く働きかけます。時にはそれは良いことであり有益ですが、しかし時にはそれがつまずきとなり私たちを 真理から遠ざけてしまうことがあります。勿論、基本的な原則の中には、 私たちが健全な聖書の信仰の道をはずさないように助け、また、私たちが聞いたものが 主の御声か、そうではないかを見分ける能力を与えてくれるものがあります。これに関してはまた詳しく述べたいと思いますが、真理を知り、神の御声を知るために一番大切なこととはそれらの原則(を知り、追うこと)ではないことも私たちは知るべきだと思います。(何故なら)真理とは「人、あるお方」であり、単に事実・真実ではないからです。

ちょっと考えてみてください。私がある人の声について説明したら、あなたはそれがどのようなものかを確実に知ることができますか? 例えば、私の妻の声がどんな声かを言葉で表現するには、何か誰にでも当てはまるような一般的な表現を使うしかないのですが、たとえそうして説明したとしてもとても難しいことであると思います。妻の声を聞いたことのない人が、私の説明する表現だけで彼女の声が分かってしまうことはとても考えられません。しかし大勢の人が話している中に妻がいたとしたら、私は彼女の声を直ぐに聞き分けられます。どのようにして? それは私が彼女とずっと長く暮らして来たからです。それと同じように、私たちが主の御声を本当に知る唯一の方法は主と共に時を過ごすことなのです。

他人を認識する方法は実のところ二つしかありません。顔か声です。特別変った特徴があれば別ですが、 ただ手や足を見るだけであなたが認識できる人が何人いますか? そうです、私たちは人を顔か声で認識するのです。ですから、聖書の御言葉は私たちが主の御顔を探し求め、主の御声を知ることを強く勧めているのです。


私は聖書を何度も読み、主がどのように人に話されたかを深く研究しました。しかし、私が主の御声を知ったのはその研究によるのではありません。私が神の声を認識するのは、 妻の声を聞き分ける時のように耳に聞こえる声のトーンによるのではなく、霊的なトーンによってですが、神の声は宇宙の中でユニークな霊的トーンを持っています。聖書が教えているように、宇宙には多くの声があり、それぞれがユニークです。それではどうやって主の御声を聞き分けることができるのでしょうか? それは主を知ることによってです。

勿論、主はご自分の声を他のものたちが決して真似ることができないような特出したものにすることはお出来になります。そうすれば私たちは主の御声を他のものの中からいつも認識できるわけですが、主は私たちのためにそうなさいませんでした。主の御声の霊的トーンを知るためには、私たちは主の御こころと御思いを知らねばなりません。主ご自身を(個人的に)知らねばならないのです。これは私たちが主を求め主との交わりが深まることによって知ることができるものです。真の弟子ではない人たち、つまり真に主を求めていない人たちは、主の御声を聞き分けることができません。

これが 「小(子供の)羊(lambs)は羊飼いの声を知っている」ではなく「(おとなの)羊(sheep)は羊飼いの声を知っている」と主が言われた理由です。子羊は自分で主の御声を十分に知り、他の声と区別が出来るようになるまでは、自分よりもっと成長している羊の後に付いて行く必要があるのです。

私は昔、ある人が中東地方の丘に座っていた時の話を読んだことがあります。彼は三人の羊飼いが水飲み場に、それぞれ自分の羊の群れを連れて違う方向からやって来るのを見ました。彼は羊の群れが同時に水を飲めば、みんな混じってしまって羊飼いたちはそれぞれの群れを区別することが出来ないだろうと思いました。思ったとおり、羊たちは水飲み場につくと混じりあい、どの群れに属するものかわからなくなってしまいました。

しかし、羊飼いたちは少しも心配する様子もなく、互いに話しをしていました。羊がみんな水を飲み終わると、羊飼いたちはそれぞれの道を進み始め、歩きながら歌を歌い始めました。沢山の羊の中で大混乱が起こりましたが、小さな羊の流れがそれぞれの羊飼いの後ろに付き始め、やがてすべての羊はそれぞれの群れに分かれていきました。すべての羊は羊飼いの声を知っていて他の声と区別ができたのです。どうしてでしょうか? それは羊たちは自分の羊飼いとずっと過ごしていて、彼が歌う声を聞いて きたからです。私たちも主の御声をこのように知り、この世にある他のすべての声と区別できねばならないのです。主と共にいることに代われることは何もありません。

今年のデポーションは、私たちの根をもっと深く聖書の中におろすことであり、主の真理を深く愛して求め続けることです。また、主にもっと近づくことによって主の御声を知ることを追い求めることです。私たちがこのことにずっと集中して求め続けるならば、この2010年は私たちの人生の中でもっとも重要な年の一つとなることでしょう。これからの時は、私たちが真の弟子として、こうした基本的な訓練をどれほど真剣に追い求めて来たかどうかに掛かっていると言って差し支えないでしょう。(終わり)

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19 01月

2010年 祝福の鍵  チャック•ピアス 2010年1月19日


2010年 祝福の鍵

チャック•ピアス 


この預言をじっくりと読んでください。あなたの役割は重要です。あなたの奥深くまで手をさし入れてください。解き放たれるべき祝福があります。新しい年を始めるに当たって、私たちの鍵はここにあるのです。

神は言われます。「わたしはあなたの内にある非常にユニークなものをあなたのために組み立てています。あなたが造り出そうと試みたものをわたしが造っているのです。あなたは物事を完成させようと強く願ってきましたが、自分のパズルを自分だけでは組み立てることができないことがわかるでしょう。あなたは自分の回りにいる人たちや彼らのパズルをも完成させようと試みてきました。

しかし、わたしが彼らのために造ったパズルを完成するために必要でまだ見つかっていないパズルの一片は、わたしがまだ握っています。それが分かっていないあなたはうまく見つからないのでいらついていました。あなたは自分に必要なパズルの一片が見つからないまま、正しい一片ではないものを探しつづけ、また、他の人のパズルの見つからない一片をも探しつづけました。しかし、わたしが取り扱って来たのはあなた(自身の全体)だと言う事をあなたは今悟りました。そして今、わたしはあなたというパズルを完成させる最後の一片をあなたに見せましょう、それはあなたに必要な一片です。

今は、わたしがあなたというパズルで残された最後の未完成の一角に磨きをかけ始めるときです。あなたの一部である尖った角の鋭さが今丸く削られようとしています。そのための心の用意をしなさい、あなたの人生がわたしの計画通りに行くために必要な調節作業を、これから数週間のうちに、超自然的に起こるようにしているからです。わたしはそのための色々なしるしを既に天に送ってあり、わたしだけが総ての時(タイミング)をコントロールしているものであることをあなたが悟れるようにしました。あなたの内にわたしが始めたプロジェクトは必ず完成させるとわたしが決意していることを知りなさい。

配属されるのを待ちなさい。あなたの配置を待ちなさい。わたしはこの一片がぴったりとはまる場所を、あなたが自分の内から引き出すようにします。もしあなたが自分の奥深くに手を差し伸べ、わたしにしかその一片をぴたりとはめ込むことのできない場所を引き上げるならば、わたしはそれをはめましょう。
あなたがまだ解き放っていない祝福があります。わたしは言います、『その深いところにある祝福を引き上げなさい。あなたの奥深いところにそれはあります。その祝福があなたの口で形造られ(宣言して)出てくるならば、あなたがずっと待っていた祝福はあなたの上に注がれるでしょう。』

奥深くにある祝福を引き上げなさい。そして、あなたの敵を祝福せよ。

あなたが絶対に祝福できないと思っていた事さえも、あなたはその上に祝福を送ることができるのです。それはわたしが『あなたの敵を祝福しなさい』と言ったからです。 あなたの奥深くに祝福があり、あなたがそれを口で宣言するのを待っています。あなたがたは祝福を解き放つシーズンに入っているのですから、自分の奥深く入っていき、今まであなたの口からは出たことのない祝福をあらわしなさい。

あなたはあなたの敵をわたしがあなたの敵を見るようには見ていませんでした。あなたはあなたの過去を、わたしがあなたの過去を見るようには見てはいませんでした。だから奥深くにある祝福を引き上げてあなたの敵を祝福しなさい。あなたが敵を祝福するとき、わたしはあなたの頭を敵の頭より上にします。しかしあなたの口があなたの敵を祝福するまでは、あなたの頭を高く上げわたしがあなたに見せたいと願うものを見せることは出来ないのです。

わたしはあの大災害があなたの傍にくることを許しました。それはあなたが今までとは異なる成長を遂げるためです。あなたは成長して、今まで見えなかったものに目を開けて見るようになります。立ち上がって今まであなたを悲惨な目に遭わせようとして来ていたものを見なさい。大災難と困難を前にして、あなたがそれによって悪い姿に形造られないように、わたしがあなたを守ってきたのです。前のシーズンではあなたが見ることができなかったヴィジョンを、今あなたは見ることができるでしょう。」

集会の歌い手であるレアン・スクイヤが、以上の預言を聞いて 次のように歌いました。

「今まで見えなかったものが見えます。私の目の前で水が流れはじめました。今まで見えなかったものが見えます。あなたは私の前に道をもうけられました。」

彼女の歌に対する主の答えがきました。

「あなたはわたしが『今の時』を直そうとしていると思いました。でもそれは違うのです。わたしはあなたが行こうとしている未来を調えていたのです。わたしの目はただ『今の所、今の時』を見ているだけではありません。わたしの目はあなたの未来への道を見ていたのです。」

次に主が言われました。「わたしの目は未来へのあなたの道を見ていました。あなたが握りしめようとしていた道は、あなた自身が握りしめていたものであって、わたしが握っていたものではないことが今あなたにわかるでしょう。今あなたはそれをどうやって手放せばよいかがわかるでしょう。今あなたはわたしがあなたに掴んでほしいと願っているものが見えるようになるでしょう。あなたを見えなくしていたものがあなたの周りで砕かれました。あなたの頭をわたしの方に上げなさい。そうすればあなたは上から見下ろして今までは見えなかったものを見ることが出来るでしょう。

わたしは編み合わせリフォームする

わたしは一つの統治機関を今造っており、その各部署はすでに造られています。あなたはわたしが造っている整然と動く軍隊の中で鍵となる者です。ここに上がってきて下を見なさい。そうすればあなたは軍隊のムーブメントとその態勢、そしてあなたが配置される部署を見ることができるようになるでしょう。

あなたのパズルの一片はわたしにとって重要なのです。今わたしがそれをあなたの中にはめ込むのを見なさい。それは今まで欠けていた一片であり、それによって今や祝福を造り出し、その祝福があなたの心や思いの中に流れ始めるでしょう。そしてわたしはあなたを選んで、将来用いられる構成要素の中に配置するでしょう。

あなたの回りの者たちにわたしがしていることを裁いてはいけません。あなたが過去に裁いていた先入観念を基にして、早急に人々を裁いてはいけません。なぜならばわたしは 今人々を編み上げてリフォームするプロセスをしているのです。あなたが早まって裁くならば、あなたはこれから現れて輝き始める器を見逃すことになるでしょう。錆びて使い物にならないように見えた者たちをわたしは今この世に顕すからです。わたしは今のシーズンに、多くの者がそれから飲む新しい器たちをわたしは用意しているのです。」(終わり)


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