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Walk With God Ministries

28 04月

車輪の中の車輪になる ウエイド・テイラー 4月28日


車輪の中の車輪になる

ウエイド・テイラー




イエスが最初に地上に来られた時に、ご自分一人のからだを通してへりくだりをもってなされたすべての業を、今度は集合体である「キリストのからだ」を通して再びされようと主はしておられます。これは再臨の時に備えるためです。

この「集合体であるキリストのからだ」の一部とされる人たちは、 顕現の栄光をもって働けるようにと現在「整えられつつ」あります。それは彼らが「生きたまま殉教している者」、即ち 人々が彼らを見るときにそこにただイエスの姿しか見えない者とされるということです。イエスがこれらの「勝利者(聖徒)」のところに来られて栄光を受けられる時が迫ってきています。

「 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 その日に、主イエスは来られて、ご自の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。」(第二テサロ二ケ1:7−10)


この箇所は、 この目的のために主が整えられた人々を通して顕される「栄光」について書かれています。


「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。 」 エゼキエル1:4


これは集合体としてのキリストのからだが終末の栄光の中で働いている姿であり、その働きによって神の支配される千年王国が地上に確立されるのです。


 「それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。」
エゼキエル1:16

  私たちは今「六日目」が終ろうとしている時に生きています。それはイエスの終末の目的に用いられる「勝利者たち」を整えるために、主が顕在の栄光を顕し始められるときなのです。それが「車輪の中にある車輪」であり、私たちの命が主の命と合体し、主の命を表現するものとなり、国々やすべての人類に大きな影響を及ぼす力となるのです。

「わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。」エゼキエル1:15

これは私たちの生き方がイエスに「完全に服従し」、聖徒たちのうちにおいて栄光を受けられるイエスと一つ(地の上の一つの車輪)となって 「動いている」ことを表現しています。ですから車輪と神の御心とは同義であると考えられ、私たちが栄光と調和と従順のうちに主と共に動いていることを表しています。

この栄光は動いている栄光であって、その中で私たちは 栄光溢れる主の顕現の臨在に気づいて溢れるのであり、またその中で私たちはこのような高いレベルの油注ぎと、それによって可能ならしめる終末の力を受けた時にどのように働けばよいのかを学ぶのです。


「またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
:9 翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。」
エゼキエル1:5−6、9

「彼らはおのおの四つの顔を持ち」とは、主との関係における私たちの四つのアイデンティティーを表しています。即ち、勝利者、花嫁、息子、男の子 man-child (黙示録12:5)の四つです。私たち一人ひとりはこの「車輪」の中の違う部分であり、それぞれ違う働きをしています。「四つともよく似ている(16節)」とは、私たちの命が主に全く服従している故に「主の命」を表すものとされていて、集合体としてのイエスのからだとして機能していることを表しています。

「(おのおの)四つの翼を持っていた」とは、私たちはそれぞれが 御霊の領域で動ける能力を自分のうちに培われていたということです。

「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ 40:31

「彼らが進むときには向きを変えなかった。」この従順なる服従は私たち(車輪)のうちからはじまり、そして、外側にむかって私たち自身(車輪の中の車輪)から広がっていき、ついには地上全体を満たすのです。

 「そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。」エゼ キエル 1:14

これは心を一つにした完全な服従と従順を表すと共に、「霊による瞬間移動」のことを言っています。終末においてこれは次第に頻繁に起こるようになります。

 「生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。」エゼキエル 1:13


  私たちは栄光の中で 洗い清められる(イザヤ6:5)だけではなく、「栄光から栄光へと」変えられつつあるのです。私たちの姿が「燃える炭」のようであるというのは、私たちが非常に濃い油注ぎの中で神の七つの御霊を知り、それを通して機能することによって、他の者たちが見えない事や理解できない事を見て理解するという鮮明な霊的感知力と目的を持っている状態を表しています。

 「そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。」詩篇 132:17

  主は地球上にいくつかの特定の場所を選び、そこを「ホットスポット/熱い場所」として特別に確立されつつあります。これらの場所においては主の栄光が顕現され、強烈な聖霊の火による御業が起こるのです。 終末の主の目的に参加するように整えられている者たちは、これらの「特別に選ばれた場所」を認識することができ、そこに集まってきます。そして強烈な油注ぎと力をもって世界へと遣わされて行きます。

 「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座
20 04月

時に備える #16 リック・ジョイナー 4月20日


時に備える #16

リック・ジョイナー



  今の時代を理解し把握するために、私は すべての物事を常にその根源まで掘り下げ、 神の御手がそこにあるかどうかを調べるようにしています。詩編90:17には「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」とあります。私はこの祈りをしばしば祈ります。というのは私は単に忙しく働くのではなく、「父なる神の仕事」をしていたいからです。私がしていることが本当に神の仕事かどうか、又、私が調べていることが神の目的のためかどうかを私ははっきりと知りたいのです。多くのことが私の興味を惹きはしますが、私は自分を楽しませるために生きているわけではありません。私は主の御心を行うために生きているのであり、自分のしていることが本当に御心かどうかをはっきりと知りたいのです。

 私たちのミニストリーには 預言的な人が沢山来るので、そのミニストリーのリダーとして 私はここ何十年か預言というものを理解しようと努めてきました。そして聖書のどこを探しても主がご自分の預言を確認のためにもう一度言われるという箇所がないことがわかりました。イスラエルの歴史の中で最も義(ただ)しい王の一人であったヨシヤの例を見てみると、彼は主が全く思いもよらない者の口を通して語られた時その声に従わず、それ故に死を迎えました。その言葉はただ一度語られただけでした。物事を証拠もないのに思い込むことは危険です。特に聖書の中で確立していない事を「法則」であると教えることは大変危険です。

 またある事が聖書に一度書かれているからそれが法則であるということもできません。しかしもし一度書かれているのなら、それは起こりうることであるとは言えます。私が信じる健全な神学の基本は、聖書全体がある一つのことを言っていたとして、ある一節とか一例がそれと違うことを言っているときには、自分の神学を一つの例外に判断の基礎を置かないで、聖書全体が言っていることに基礎を置くべきであるということです。勿論、例外と見えることも理解するように努めるべきですが、それが理解できるまではそれを自分の神学の基礎としたり、それについて人に教えたりすべきではありません。


 確かに主が人々に繰り返して語られた事はあるにはあるのですが、それはむしろ例外です。ほとんどの場合、主は一度だけ語られました。そして主は私たちが一度聞いたらすぐ従うようにと期待しておられるのです。
親が子供にいつも何度も言うくせがついているので、子供はしつこく言われるまで従わないとか、親がいらいらして大声を出すまで従わないということがよくありますが、主はそのような親とは違います。主は「『はい。』は『はい。』『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と 言われました。(マタイ5:37) 主はご自分の子供たちに一度言われたらすぐに従うように教えておられるのではないでしょうか。一度目の言葉で主の御心は全部わかるはずです。

 私は自分の子供たちにも同じように教えようとしています。私が言うことを口答えしないで一回目ですぐに聞き従うことです。勿論、彼らが私の言ったことがはっきりわからなかったときは別です。そのような時はもう一度訊ねることは勿論かまいません。しかし特別私が意見を変えねばならないような大きなことがない限り、私の言いつけに子供たちが反論することを私は許しません。このことを私は軍隊やパイロットの訓練で学びました。歩兵隊の演習の時、 もし私が命令に従わなければ多分死ぬであろうし、私の部下も多分死ぬであろう、そして恐らくそれによって全軍を危険にさらすことになるであろう、と教えられました。どうしてでしょうか? 味方の軍隊が誰も送りこんでいない場所から弾が飛んできたら、それは敵からだと思うでしょう。状況が危機的であればあるほど、命令をはっきり聞いてすぐに従わないことは非常に危険なのです。

 パイロットとして私がもしある高度と方向を保つようにと言われたのにそれを聞かず従わないならば、私は他の飛行機と同時に同じスペースにいることになるかもしれません。それは勿論望ましいことではありません。空撃飛行の時、もし命令された方向と高度にいないならば、あなたは敵機だと思われて味方に撃墜されてしまうかもしれません。言いつけに従わなかった歩兵と同じです。

 終末に近づいている今、主の御声を聞いて従うことがますます重要になってきていますし、やがてそれが生死を分けることとなることでしょう 。私たちのミニストリーは出発当初から主の御声を知ることを重視して来ました。従って何十年も主の御声をもっとよく知ることを探し求めてきたのですから、私が知っている他のミニストリーと同じくらいには学んできたと思います。しかし、これは私が主から繰り返し聞くことなのですが、来るべき時代に備えるために私たちはもっともっと主の御声を今よりもはっきり聞く必要があるのです。(終わり)

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13 04月

潮の満ち引き グラハム・クック 2010年4月13日


潮の満ち干き

グラハム・クック


  これは神の御性質のパラドックの一つですが、神は常に不変である方であると同時に、その時々のシーズンを持っておられます。私たち人間にとってこのような概念はとても理解しにくく、どう扱っていいかわかりません。しかし永遠なる神がなさるすべてのことにはシーズンがあるのです。自然界において神は4つのシーズンを造られ、種まきと刈り取り、労働と休息というように地球の活動を営ませています。これと同じことが霊的な領域でも言えるのです。
しかし何故かほとんどの教会は、 完全なバランスを見つけてそれを常に同じように保とうと必死になっています。彼らは 教え(説教も含め)とワーシップとのバランスや、御言葉と御霊とのバランスを常に保とうとしているのです。

 しかしながら神はそのようなバランスという考えを拒否されます。神の御霊は私たちの人生の中で潮のように満ちたり退いたりするのです。私たちは神の御言葉によって満たされ導かれるときもあり、また、御霊によって満たされ導かれるときもあります。私たちのするべきことは神が今何をされているのかを見て、その中で神に応答し行動をとることです。
 神がもし御言葉を通して奥義を啓示されているのなら、私たちは当然聖書に焦点を当てねばなりません。もし神が聖霊の賜物や御業(啓示も含む)を通して物事を明らかにされているのならば、そちらにどんどん進んでいかねばなりません。

私たちは絶え間ない御霊の流れの中で生きることはできません。それは不自然なことなのです。満ち潮になったならば、必ずその後には引き潮があります。私たちが御霊の引き潮になったとき、神は 御言葉の不変性へと私たちを導いてくださるのです。そしてその御言葉が 次に来る御霊のシーズンをしっかり下から支えるものとなるのです。

神は御霊の引き潮のシーズンを次のブレークスルーについて私たちに教えるために用いられます。ですから御霊の引き潮の時に私たちが何をするかということが、次に神が私たちをその中に導かれようとしている(満ち潮の)流れのために大変に重要なのです。 満ち潮と引き潮の両方を神は私たちを導くために用いられます。

神のシーズンは規則的に必ず又巡ってくるものであることを、クリスチャンはまずしっかり把握し信じなければなりません。もし神が当初にあなたに何も語られない場合は、いつかは必ず語ってくださいます。その御言葉が来るまで、私たちは主の内にじっと安息することを学ばねばなりません。私たちはしっかり「確立すること」と「探し求めること」という両方を同時に行うことは絶対に不可能です。

このようなパラドックスをバランスよく保つという能力を私たちは神から与えられておりません。その代わりに私たちは、神がそのシーズンに何をされているかによってこの二つの両極端の間を行ったり来たりするのです。ある時には私たちは全く確立されて神の御言葉にしっかりと結び付けられています。またある時には、私たちは深い旅に出て御霊の奥義を探索します。

御言葉の絶え間ない流れの中にだけ常にとどまることは、神を知的な思考の中に閉じ込めることになってしまいます。その結果、私たちは神を「知性をつくして」だけ愛することになるでしょう。しかし 探し求め探索するとき、私たちは神を「力をつくして」愛し始めるようになり、神により頼むのです。私たちの人生は御言葉の素晴らしい冬のシーズンと御霊の燃えるような夏のシーズンのどちらをも経験しなければならないのです。

 神の満ち潮、引き潮をちゃんと理解している教会を想像してみてください。御霊が動いておられるときは、人々は自由に探索し最高のかたちの賛美をもってワーシップをするように解放されます。夜の集会はただ神を賛美するだけとなることでしょう。神の力の顕れや働きが毎日起こることでしょう。
http://www.exblog.jp/myblog/entry/new/?eid=a0051378#
 そしてその同じ教会は十分成熟しているので、神が彼らを御言葉に引き戻される時にはそれを察知できます。このような教会はダイナミックな教え(テイーチング)と真理の場所となることでしょう。彼らは神の御言葉(神の子供たちの心に与えられた御言葉)が御霊を深く探り求めるときに必ず共にあることを信頼します。人々は教師や牧師が、次に来るべき御霊の偉大なる満ち潮のために彼らを備えてくれることを知っているので、彼らの周りに喜んで集まってくることでしょう。

御言葉と御霊は 素晴らしい関係で結ばれているのです。両者は決して衝突したり矛盾したりしません。お互いに譲りあう時を知っています。満ちるべきとき、退くべきときを知っているのです。(終わり)
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07 04月

神に完全に占有される キャル・ピヤース   4月7日


神に完全に占有される(英語でpossess)

キャル・ピヤース



(3月20日、ホノルルでの「ヒーリング・ルーム」集会におけるメッセージの収録テープより)

神は、自分だけの思考にとどまらずにもっと主のお考えを聞きたいと熱心に求め続ける人には誰でも、喜んでキリストの思いの内をダウンロードしてくださいます。

 ところで、私たちは自分の脳を一割という僅かな部分しか使っていません。その理由は、神を知らない人がそれ以上頭脳を使ったら死んでしまうからなのですが、 本当に神に100%囚われたい、占有されたいと願う人には、残りの9割 を主の思いと考えで満たして下り、神の持つ知識と能力を私たちが使えるようにして下さるのです。但し私たちの元々の頭で使っている一割の部分は、十一献金の形で主に差し出し、自分が100%主の持ち物になる決心をしなければなりません。

重要なことは、神は単に私たちを整え装備しようとされているのではなく、私たちを丸ごと占拠し、完全に自分のものとされようとしておられることです。今夜私は、私たちキリストの花嫁に対して神が持っておられる目的(ゴール)についてお話ししたいと思っております。

それは、私たちがどうすれば限度(リミテーション)の全くない神の最大限の収容能力(キャパシテイー)になれるかということです。神にとっての限度(制限するもの)とは私たち人間です。ですから私たちは神を制限しないで、神のすべてが放出(リリース)されるような者にならねばなりません。


 私たちはブレーク・スルー(打ち破り・突破)を求めていますが、神はブレーク・アウト(包囲突破して外に出る)を求めています。それは汚臭を放つちっぽけで古びた私たちのマインド・セット(考え方)から私たち自身が出ること、人間の宗教を抜け出して神の啓示で生きる生き方へとブレーク・アウトすることです。

神はどのような人たちをこれから神の王国で起こそうとされるのでしょうか。創世記1:26に「神はわれわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と言われました。これが神のゴールです。「われわれに似る(同じイメージを持つ)」のは「神を代表するため」であり、「われわれのかたちに(似る)」とは「神の思いを持つ」ということです。
この神から与えられた資質を最初のアダムは失い、第二のアダムであるキリストがそれを元通りに回復されました。あなたは神ではありません。しかし元々神に似た資質を持ち、キリストによって新たに造り替えられたのです。その目的は、神がその造り替えられた人を完全に占有し、神が満ち溢れている「神のような人」をこれから起こすためです。

そのような人は聖霊に完全に従い「キリストの心があるのです。」(1コリント2:16) そのような人は自分が死んでいるので、もはや自分で考える必要は全くなくなり、キリストの心で行動します。そのような人は神が持つすべてに満たされていますから、 何の制限もなく神が満たしたものをフルに用いることが出来る器とされ 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」(ピリピ4:13)人になります。

そのような人はすべての制約から解放され、神の霊に満たされて、神の領域で生き、突然に奇跡を行うことが出来る人となり、突然に、すべてのことが神のためにあることに気が付きます。すべてが自分のためではなくなります。私たちがただ読んでいた聖書も、突然、 それによって私たちが生きる聖書となります。

その人のすべてを神が占有していますから、その人にとって悪魔は既に完全に敗北している存在であり、全く問題ではなく、悪魔がする事は何も気にならなくなります。何故なら、私は主の体であり、主が私の頭であるからです。私は既に狭い箱から出ている者であり、この地に焦点を当てて生きるのではなく、天に焦点を当てて生きます。そこからすべてのものが来るからです。そこに源があるからです。サイン&ワンダーと奇跡のすべては神から来ます。


「自分は弱い器で何も出来ない」と思われるかもしれませんが、そうではありません。2コリント12:9で主は「わたしの力は弱さのうちに(あなたが弱い時に)完全に現れる。」と言われた通り、神の力はあなたの弱さにおいて その力が発揮されます。あなた自身がどれほど弱いかを全く気にすることはありません。ただ弱い自分を自覚して、主に自分を明け渡せばよいのです。

あなたが神の現れを待つのではなく、神があなたを待っておられるのです。何故なら、あなたは既に主の体、主の持ち物であるにもかかわらず、あなた自身の身分証明(アイデンティテイー)を堅持し、神の持ち物というアイデンティテイーを認めたがらないからです。あなたは自分の名義で、自分で自分の人生を生きようとしています。だからいつも疲れて弱いのです。
ですから私たちを愛する神は、私たち自身のために、自分で生きる権利を完全に放棄し、「すべてが神のためであり、神がすべてをなさる」ことをこの際はっきりと決意することをあなたに求めておられるのです。

主は御国の鍵を私たちに下さいました。それは占拠駐留(OCUPATION)という名の鍵です。 主が人々を占有することです。端的に言って、主はあなたの意志 WILLのすべてが欲しい、あなたの意志の代わりに主の意志であなたを満たし、あなたが100%主の御心で行動することを願っておられます。人が神を持つのではなく、神が人を持つのです。つまり、誰があなたを所有し、あなたの人生を経営するかということであり、更に言えば、あなたを造った製造者(創造者)があなたという人間の所有権を持つということです。これが「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)の意味です。

神は宇宙を造られました。そしてその神があなたの中におられますから、あなたもこの地球の創造者になれるのです。あなたは神の人であり、神のようになる人です。そして霊である神によって造られているのですから、あなたは肉に属している人のようにではなく(1コリント3:3)御霊に属する人(3:1)のように歩くのです。

御霊の人とは超自然の人であるということです。何故なら、あなたの中には超自然の神がおられるからです。私たちの肉の体に霊が宿っているので、私たちは天と地の間をとりなすことが出来る、神に属する神のような男、あるいは女であるのです。

私がこのような話をすると宗教的な人たちは脅かされているように感じます。彼らは私の言うようなことを信じようともしませんから、私の話を嫌いま す。しかし、それを信じる私たちは、信仰でその中を歩みます。宗教は私たちが神から離れていることを要求します。宗教は、神は天に、そしてあなたは地上にいて、霊にボーンアゲインした後も、一生を悪魔に打ちひしがれて生きることを求めます。

あなたはロマ書8:29で 「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」と言われているように、御子のかたちと同じ姿になるように定められているのですから、あなたは神のようになるのです。ということは、神が完全にあなたを所有されるのです。神にあなたのすべてをとらえられ所有されたら、この世で何も恐れるものはありません。あなたがフルタイムで神になれば悪魔の必要は全くなくなります。

これらのことが起こるためには、あなたは自分の意志を完全に主に明け渡し、完全に神に従属することが前提です。自分の意志を完全に神に渡した時、あなたは主の体になるのです。そしてやがてあなたはトータルに神を所有し、又トータルに神に所有されます。
神のような人は「神が私を完全に所有している」と言い、又、「私はあなたが私の中に来られたように、私もあなたの中に移り住みたいのです。」と言う人です。そのような人は「私はあなたが行けと言うまで行かず、あなたが話しなさいと言われるまで話しません。」とも言うでしょう。よみがえりの力で完全に満たされていますから、どこへ行くにも、神はその人の前を行き、又後ろも守られるでしょう。
そして私たち自分自身の能力から解放され、神の能力の中に解き放たれます。このような神の人が奇跡を起こす人になるのです。

あなたの体は霊の神によって造られたので、霊の体です。しかし私たちの体は、常識として、あるいは宗教的な人たちからは「肉の体である」と教えられて来たためそう信じていますが、実際には超自然の体です。ですからあなたがキリストによって買い取られた時、あなたは「新しく造られた者」となり、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」のです。

アダムはいつも神の臨在と共にあり、神と話していましたが、罪を犯した時に神から離れました。しかしその「神との離別」はキリストの血によって覆われ、私たちは元の義の関係に回復されました。1コリント6:20で「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と言われている通り、私たちは内におられる神の栄光を現すことが出来るのです。神の霊が人間の霊を動かす時、私たちの肉の体は正しい秩序の中にあるのです。

1コリント15:44で「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」と言われているように、肉の体があり、又霊の体があります。しかし、あなたの肉の体は神の霊によって占有され、神の意志によってあなたの体が動かされているのであれば、あなたの体は霊の体と言えるのであり、あなたの体によって神の地上における目的が達成され、それが私たちにとっても最良のことであるのです。
とすれば簡単です。神が望まれる通り、私たちが自分の意志と能力を捨て、神の意志と能力のみで生きることに同意すればよいのです。こうして初めてあなたは神と同じ種類の人(God’s kind of man)となり、あなたは神と同じものを見、同じ考えになります。

神は常に、イエスの血を通して買い戻された回復された姿の私たちを見ておられますから、私たちを見られる時、私たちを通して神の目的が達成される将来の姿(結果)を見ておられるのです。つまり、神は私たちの問題を見ているのではなく、キリストの血によって得られる問題の答え(達成された結果)を見ておられるのです。
と言うことは、神(聖霊)に満たされ、神に「所有されたあなた」が神と共に歩き始める時、私たちは主にあって何かが欠けている問題を見ているのではなく、いつも問題の答えと結果を見ることが出来るのです。言い換えれば、主は「手が欠けている」状態を見ているのではなく、その「欠けている手」そのもの(答え)を見ておられるのですから、私たちも同じことが見えるのです。

あなたが神と同じものを見る時、あなたは完全な信仰で歩んでいるのです。何故なら、あなたは問題も見ていますが、それ以上に、その答えと神の目的が完成された形を見ているのですから、完成に達することが現実なものとなっているからです。
こうして私たちは主にあって「・・・どんなことでもできる」(ピリピ4:13)人になれます。

そうなると、主から何かをしなさいと言われる時、それが実現するまでのプロセスの困難さは全く問題にはならなくなります。ただ主が言われることだけが重要なことであり、主が言われた瞬間に、それを聞いたあなたは既にそれを完成した形で所有しているのです。つまり結果は最初に得ています。勝利は最初に決まっているのであり、戦った結果で決まるのではありません。この世では最後の結果で決まりますが、神の王国では、勝利はレースが始まる時に確立されます。

「神が花嫁であるあなたを完全に所有する能力がある」ということ(真理)をあなたが明確に理解する時に、あなたは真に自由になり、解放されます。(終わり)






{訳者注}キャル・ピヤース師は、元々カリフォルニア州レデイング市にあるベテル・アッセンブリー教会(ビル・ジョンソン師の父親の時代からの教会)に所属していましたが、1997年に導かれワシントン州スポケーン市に移住しました。その地は癒しのリバイバルが起きたことで著名なジョン・G・レイク師の本拠地で、80年前の同じ場所でレイク師の後を継ぐ形でキャル・ピヤース師による「ヒーリング・ルーム・ミニストリー」が興されました。その後このヒーリング・ルーム・ミニストリーは世界に広がり、ピヤース夫妻は現在世界中のヒーリング・ルームと各地の教会、カンファレンスの講師として廻っておられます。


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31 03月

井の中の蛙、大海を知らず  坂 達也  3月31日


井の中の蛙、大海を知らず

                               坂 達也(/font>


私たち人間は、神を知らない人だけでなく、知っているはずのクリスチャンですら、ほとんどの人が、所詮「井の中の蛙」であることに気がついていないようです。そこでクリスチャンが「井の中の蛙である」可能性を二つの観点から考えてみたいと思います。一つは人間の持つ「自由意志」の観点から。二つ目は信仰の面からです。この二つは相互に深く関係しています。

 創造者なる神が人間を神に似せて造り、神の最もすばらしい特質である「自由意志」を人間に与えた理由と意図は何だったのでしょうか。それは人間が最大限に自由意志・意欲を発揮して、すべてに「自分の中にある最高の可能性を追求する」ことを期待しておられたからであると思うのです。少なくともクリスチャンは、神から自由意志なるものを与えられていることにもっと責任を持つべきではないでしょうか。
人間は自分の「自由意志」が脅かされるとき、つまり、自分が好き勝手に生きることが制約されそうになると、自分の「自由」を主張する傾向があるようです。それでいて、本当の自由とは何であるかをよくは知らないのです。自分の小さな狭い井戸の中で自分の好きなように泳いでいる限り、それが自由であると思い込んで、満足して暮らしています。大海があることを知らず、又特に知ろうともしないのです。

私はクリスチャンの話をしているのです。クリスチャンであっても、なぜそうなるのかと言えば、人間は元来「自分中心」で「自分には甘く」簡単に「自己満足」し、その上始末の悪いことに、自分の考えに頑固に固執する「プライド」だけは大きいのです。これは人間の生まれ付きの罪の性質ですが、クリスチャンになってもそのライフ・スタイルを捨てようとしないからです。
クリスチャンは、信仰を得た最初の出発点である洗礼式で、「自分に死に、よみがえって霊の世界に生まれ変わる」ことに同意したにもかかわらず、何故それを真面目に実行しようとしないのでしょうか。その「死んで生き返る」ことが「井戸を出て、大海に入ること」であることに本当には気づいていないのです。

「新生」しないて、罪の人間のままでは大海に出て真の自由を探求することは出来ません。最初の人間アダムとエバは自らの意志で神に背く罪を犯し、それ以来人間は皆罪人になりました。しかしそれは最初からの神のご計画でした。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を(先ず)不従順(=罪)のうちに閉じ込められた」(ロマ書11:32)のです。そして、その中から、自分の意志で主キリストを信じるめぐみを得た者だけが、神への不従順という罪から解放され、自由に神の世界(霊の世界)に入って、神と共に自分の無限の可能性を追求して楽しめるのです。

神は、聖書を通して徹頭徹尾初めから終わりまで「自分に死ね」と言っておられます。それは「自分に死ぬ」ことが霊の世界という大海に出て真の自由を獲得する最初のステップであるからです。にもかかわらずクリスチャンは「すべて主に従う」ことがまるで自分の自由意志が損なわれるとでも思うのでしょうか、心からそうしようと思わない人が大半です。

考えてもみて下さい。人間の持つ自由(意志)とは何と小さくて限られたものでしょうか。人間の思考の世界がいかに小さく偏ったものであるかは、子供を例にとれば明らかです。人間は赤ん坊でも自由意志を持っています。しかし、生まれたては、お腹がすいた時とお尻がむずがゆくなる時に泣くことしか知らないのです。それが彼らの持つ自由意志の限度です。
そこで親は子供の意志を尊重しながらも、足らないところを親の意志(良識)で補いつつ子供の面倒をみないでしょうか。天の父も同じです。全知全能で最高の愛の持ち主である神なる父は、子供である私たちをいつも愛し、私たちの自由意志が一番よい形で発揮できるように助けて下さろうとしておられるのであって、私たちの自由と自由意志を損なおうなどとは全く考えてはおられません。

それが証拠に父なる神は、最愛の一人子を罪だらけの私たちの身代わりとして死なせ、そのキリスト・イエスを信じた人に、もう一人の助け主である聖霊を「永遠の後見役」として送り、その人の内に住まわせて下さっているのです。この内住の聖霊が私たちを狭い井戸から、無限の可能性を追求できる自由意志の大海に連れ出して下さるのです。つまり、内なる聖霊が私たちの大海です。


真理はあなたを自由にし、大海に解放する

上記で申し上げて来たことが神の真理の真髄であると私は思います。こうして自分の浅はかな考えで生きることが愚の骨頂であることに気が付き、そんな自分に死んで、神に自分の人生の一切を委ねて生きることこそ、自分の自由意志を最大に発揮することになることが納得ゆくはずです。パウロはこの生き方を次のように言いました。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)

そうと決まれば、私たちの人生は常に聖霊に従って生きることに徹すればよい、という結論になります。それは取りも直さず、毎日「神の御声を聞いて従いつつ生きる」ことです。そして、この生き方が、あなたのこれからの人生における最も重要な課題となるはずです。この真理を知ることがあなたを自由にします。

「・・・わたし(イエス)は真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

「・・・もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。・・・・神から出た者は、神のことばに聞き従います。・・・」(ヨハネ8:43、47)


大海の信仰

クリスチャンは自分の持っている信仰が、やはり井戸の中の蛙で、大海の信仰ではないことに気づくべきです。
先日ハワイの集会に来られたカル・ピヤース師が言っていましたが、人間の脳は通常全体の一割しか使われていないそうです。なぜそうなのかご存知でしょうか。ピヤース師は、神は人間の脳の9割を無駄にするようには造ってはお られない、その未使用の部分は神の御心と思いが入るスペースで、神の思いがその人の思いとして用いられるためにある、そして、今使われている一割は人間自身の思考であり、神に差し出すべき十一献金のようなものであると言われたのです。

 これからの時代は、「キリストの思いが私たちの思いに」(1コリント2:16)ならねばならないのです。そのようなクリスチャンが中心となって、主の多くの終末のご計画が実行されて行くでしょう。そのためには私たちの今持っている信仰は抜本的に変えられなければならず、まさにロマ書12:1−2が実現される必要があるのです。

私たちがもし弱い信仰しか持っていなければ、人間の常識を外れるようなこと、すなわち超自然の奇跡が日常茶飯事で起こることは考えられません。超自然の世界とは霊の世界で普通に起こることなのですから、私たちが霊に生まれ変わった以上、当然その霊の世界での現象が自由に自分のものに出来るはずです。主は今それを私たちに期待しておられます。

しかし現実には、それがなかなか実現していません。その最大の原因は、結局のところ「自分に死ねない」ことにあるように思えます。自分に死ねないから「キリストの思いが私たちの思いに」ならないのです。それは、根本的に「自由意志」に対する私たちの考え方に原因があると私は思います。

皆さんはクリスチャンが「霊的に成熟する」ことをどのようにお考えでしょうか。
「私たちが早く霊的に成熟する目的は、丁度子供が大人に成長して自立するように、早く自分で少しでも多く神の御心が行えるようになることである」とお考えになっていないでしょうか。

もしそうであるとすれば、それは「律法的な生き方」であると思いませんか。この生き方は「自分で出来るだけ御心にそって生きる努力をしてみますが、うまく行かない時は助けて下さい。」という考え方に立脚しています。ほとんどのクリスチャンは、大なり小なりこの考えで「何も悪くない」と思って頑張って生きているのではないでしょうか。その結果自分がぴんぴん生きています。それが人間に自由意志が与えられた理由であると思っておられませんか。

私たちが霊的に成熟することとは、パウロがピリピ3:7−9、その他のところで言うように「イエスキリストを個人的に知ることと主の信仰で生きることのすばらしさに比べたら、肉の自分の一切のこと(自分の名声も考えも、それで生きることも)全く何の価値もない。」という境地に先ず到達することであると思います。そのような「自分で生きる」などとは思いもよらないというへりくだりの境地に達した時、イエスが「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに・・・・」(ヨハネ8:28)と言われる父への愛と従順にとりつかれた情熱で生きる姿になれるのであると思います。まさに「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(1コリント2:5) にあるのです。このような生き方だけが主の期待しておられる「霊的成熟」であると信じますが、いかがでしょうか。さもなければ、神は私たち人間の中に聖霊ご自身が住まわれ、自分にトータルに死になさいなどとは決しておっしゃらないはずです。

主と共に大海に出る信仰を目標に掲げ、主にそれを毎日願い、自分の自由意志で「自分で生きる権利」を放棄することを宣言し、毎日私たちが主を見上げ、主の御声を聞いて従う、主の御心で生きる努力をし続ける時に、たとえそれが今は不完全であっても、主はあわれみをもって私たちに力を与え、信仰を引き上げて下さると確信します。やがてはそのような私たちを、神は超自然の奇跡を起こされるべき器に育て上げ、大いに用いられることを信じて疑いません。そのようなクリスチャンを今主は求めておられます。(終わり)


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