25 10月
最近の中近東情勢
坂 達 也
最近「世界のイスラム化Islamisation」の脅威が世界中に広がっていることのニュースをよく耳にします。
そのひとつに最近フランスのパリに起こっていることが報道されました。それは、イスラム教徒が街のある地区を歩道も路上もひざまずいた礼拝者で一杯にし、完全に交通止めの占領状態になっているのに、警察は観て見ぬ振りをしている姿でした。それがあまりにも目に付くのに見かねたパリジャンたちが、逆手に出て、ポーク・ソーセージとワインを手に持って街をプロテストのデモをして練り歩く姿をカメラで捉えたものでした。
私はCBNニュースが報道した映像のクリップを見たのですが、今、パリのフランス人はイスラムに対する強い警鐘と警戒の念に駆られており、イスラムが「一致協力した努力」によって、間もなく政府を乗っ取り、伝統的なフランス人の生き方が出来なくなる恐れを持っているというのです。それはフランスの民衆がイスラムにうんざりしている姿を伝えたものでした。
そしてこの報道は、このイスラム化の傾向が他のヨーロッパの国々とかイギリスにも広がりつつあり、やがてアメリカもそうなることは明白で、手遅れになる前に何とかしなければならないと結んでおりました。
現に、言われるまでもなく、アメリカでもその恐れが確実なスピードで現実のものとなりつつあります。イスラムからの大量の政治資金が流入し、政治家はイスラムに対して強い態度でものが言えなくなっていると言われます。クリスチャンの祈りとか礼拝は教育機関では全面的に禁止するという動きが常識となっている中で、イスラムの祈りと集会は「宗教の自由」という名目で堂々と行われ、それが広がりつつあり、それに文句を言わせない情勢です。
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ヨエル・ローゼンバーグ氏は、最近「The twelfth Imam」という新著(小説)を出版しました。
これは特にシーア派の回教徒の間で信じられていることのようですが、回教の創始者であるモハメットの死後、彼の後継者として12人のリーダー(imam)が現れる。その中で、最後の12番目に現れるリーダーがイスラムの真の救世主であると言われているそうです。(英語のインターネットではThe twelfth Imamについて色々説明されていますのでご参照ください。)
氏によれば、現にイランの最高指導者アヤトーラ・ハメネイKhameneiは、人の目から隠されて現れるという、この12番目のImamが彼を密かに訪れ、自分はそのImamの代表者である、そしてこのImamが人間社会を救出すると言っているそうです。
ローゼンバーグ氏は自分がこの本を書いた理由は、終末がいよいよ迫る時代に生きていながら、ほとんどの人たちはそれに気が付いていない。特にイランのやっていることが、イスラエルをこの世から抹消するという目的以上に、この世を破壊する「終末」の引き金を引くことになりかねないと言う警告を目的として書いたと言っています。
氏は本当にThe twelfth Imam が現れるかどうかは分からないが、下記の聖書の聖句がその可能性があることを言い表していることを無視できないと言います。
マタイ24:4-5
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。』」
又、24:11でイエスは
「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」
そして、24:23-27で
「そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」
ローゼンバーグ氏は、最近中国の会社が核の部材・部品を国連の禁止決議にもかかわらず、イランに売り続けており、これがイランの核兵器を持つまでの時間表を早めていると言う危険極まりない事実であると指摘します。
これがThe twelfth Imamの現われ(と主張する事実)と相まって、イランが中心となって人類を滅亡に導く核世界戦争を起こし、イスラム救世主の時代に導き入れるのがイスラムの召命であると信じる人たちが今のイランを動かしていると言います。
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次にご紹介するのは、アメリカで人気のあるシッド・ロスSid Rothの番組に最近登場したヨエル・リチャードソンの終末に起こる聖書の預言に関するものです。この人は若い頃から、神が将来彼を用いて終末の聖書の預言に関する新しい理解を示すという約束の預言が与えられており、中東に約1年間住んでイスラエル・パレスチナ周辺の事情を実地に学んでよく理解する機会が与えられたそうです。
彼が先ず指摘するのは、聖書の預言、特に黙示録の解明において、今まではローマ帝国とかヨーロッパ的な考えに基ずくものが多かったが、もっと単純に聖書の基本にもどって、イスラエルを中心に、その回りのイスラム圏に焦点を当てるべきであると言います。
彼は黙示録17章に出て来る「女」「大バビロン」とは、最後に現れるイスラム帝国の中心となるサウジアラビアを指すと言います。
そして、その女を乗せた「獣」が出てきますが、この獣はトルコ(昔のオスマントルコ帝国1299年-1924年は、イスラム圏を500年以上統治した大帝国であった)の再来であると言います。
「この女が座っている七つの山で、七人の王...五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり」(黙示17:10)とある「今おる」のは六番目のローマ帝国のことであり
、その後に七番目として出てくるのが、経済大国サウジアラビアが後ろで操る、終末の「大イスラム帝国」である。そしてその「大バビロン」と密接な関係にある「獣」とは、一時致命的な傷を受け、打ち倒されたかに見えたが奇跡的に癒されて十本の角=十人のイスラム圏の王たちのリーダーとして再現する「トルコ帝国」であり、これが八番目に続くると解き明かします。
イスラム圏の国々は、世界で最も資源的に富裕な膨大な経済力を持ち、加えて最もラジカルで強力な宗教を武器として、今静かに世界侵略を進めています。確かに戦争をすれば米国とか西欧・ロシヤに敵わないかもしれませんが、今その米国と西欧の武力撤退が進んでおり、イスラム圏は一つの大きな空白地帯になりつつある。そのような戦略的に空洞化しつつあるイスラム圏で、今西欧に近く温和なサウジアラビアとエジプト、それに反してシーア派の過激的なイランの中を取りもって軍事的に統率するのがトルコであっても全くおかしくはないと言います。
現にトルコと言えば、イスラム諸国の中でもイスラエルと最も友好関係にあった国でした。しかし最近のフロテラ事件以降は急速にイスラエルと敵対するようになっています。
イスラム圏の国々の共通した願いは「イスラエルをこの世から消し去る」ことですから、トルコの台頭が、イスラエルに対して戦闘的なイラン、シリア等と協調して、イスラエルにいよいよ最後の戦いを挑む体制が出来つつあると見ています。
そのトルコがこの夏の軍事訓練で、昔は友好国としてそれに参加した来たイスラエルとか米国は除外して、中国を招いたと云われます。中国とトルコの関係が今急速に近まってきていると言う事実は、世界が非常にきな臭い緊迫した情勢に変わりつつあることを物語っていないでしょうか。
以上、最近の情報をお伝えします。 坂 達也
24 10月
坂 達也からのお知らせとご挨拶
いつも私たちのサイトをご高覧いただいてありがとうございます。突然ですが、私たちのHPの様式を変えることになりました。前もってお知らせせずに、急に新しいサイトに自動的に切り替わるのでびっくりなさったと思いますが、こう言うことに慣れていない私たちの不手際をどうぞおゆるしください。
そして今後はこの新しいサイトで私たちのメッセージを相変わりませずご高覧いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。又、しばらくの間は内容に不備が残りますが、出来るだけ早く改良して参りますので、どうぞご了承下さい。就きましては、私たちの新しいサイト・アドレスはhttp://www.banministries.org/ ですのでよろしくご変更と登録をお願いします。
尚、新しいカテゴリーとして、私の趣味でありますカメラ・フォトグラフの写真を時折り載せさせていただきたいと願っております。カメラは下手の横好きで全くの駆け出しの新米ですが、ハワイの風景、植物、海等を写してみますので、皆様からのコメントをいただいてご指導を賜りますようよろしくお願い申し上げます。以上、ご挨拶とさせていただきます。又、メッセージに対しましても、どうぞお気軽にコメント下されば幸いです。坂 達也
14 10月
うなじのこわい民
坂 達也
「うなじのこわい民」という言い回しは、出エジプト記32:9の他にもくりかえし出てくる聖書独特の御言葉で、明らかにイスラエルの民を指しています。その意味は「神(キリスト)のくびきに素直に架かることができない」、「頑固に神の言うことを聞かない民」ということなのですが、英語ではstiff-neck(首の硬い)と言います。
律法は人を殺す
さて、2コリント3:6に
「神は、わたしたちが新しい契約に仕えることができる者にして下さいました。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」と書かれています。
旧約聖書では「文字」といえば、石の上に神ご自身が文字で書かれてモーセに渡した「律法」を指します。パウロもここはその意味で書いたのでしょう。つまり「律法は人を殺し、霊は人を生かす」のです。
この文章では「文字に仕える者」と「霊に仕える者」とが対比されておりますが、それで思い浮かぶのは、Ⅰコリント 15:46に書かれている
「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」という御言葉です。これを当てはめてみれば、最初(旧約の時代)は「石に書かれた律法に仕える者」が、後(新約の時代)の時代には「霊に仕える者」すなわち「同じ律法を、石ではなく心に書かれる(神の)霊に仕える者」ということが出来ると思います。つまり、最初は「目に見える肉の形のもの」、後に来るものは「目に見えない霊のもの」である訳です。
石に書かれた律法といえば、神は二度、二枚の石の裏表両面にご自身の指で文字で書いた律法の書をモーセに渡しております。最初のセット(二枚)は神ご自身が石も造られ、それにご自身で文字を書かれたという大変貴重なものでした。
モーセはそれを抱えて急いで山を降りたのですが、そこではイスラエルの民がアロン以下「金の子牛」を作ってその前でドンチャン騒ぎをしていました。その光景を見て、烈火のごとく怒ったモーセは、その貴重な二枚の石の板を地面に叩きつけて粉々に壊してしまいました。考えてみれば本当にもったいない話です。
ところがその前に、神は、山のふもとで民が子牛を作って祝っていることを知っていて、烈火のごとくモーセに怒ってみせたのです。興味あることにその怒り方の形容(32:9)がモーセの怒り方(32:19)とまったく同じ原語“charah”で形容されております。これから分かることは神とモーセは心が一致していることです。
このへブル語を英語では “wax hot”と訳しておりますが、まさに「烈火のごとく」なのです。突然、金の子牛を作って踊り出した民に対してカンカンに怒った神は
「うなじのこわい民」と叫んだのですが、これを見てモーセは神の怒りをなだめようと一生懸命でした。とにかく神はモーセに直ぐ山を降りて民のところに行けと命令しました。
ここで再び石の話にもどりますが、貴重な石の板をモーセが叩き壊したのを見て神が怒るかと思えば、何もとがめず、改めてもう1セット造ってくれたのです。但し二度目は、同じような石を二枚、今度はモーセが作って持って来なさいと言われました。「あなたが壊したのだから今度はあなたが石の板を作って持って来なさい」というのは当然であって、それが罰といえば罰であったかもしれません。
でも私はモーセが石を叩き割ったのを見て、神はにやりとされたと思うのです。なぜなら、モーセは分かっていたのです。石の上に書いた律法は何の役にも立たない、むしろ害になることを。そんなものは叩き割れ!なのです。本来、律法は「心に書きいれるもの」だからです。あるいは、石を心に置き換えれば、律法を心に刻めないような「石のような心」stony heartであるなら(イスラエルの民の心はそうでした。)そんな心は叩き割って取り除けという意味であったかもわかりません。
エゼキエル書36:26に
「 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、・・・」とある通りです。
書かれた御言葉は人を殺す
ところで上記の「文字」letterという原語は「律法」lawという意味と「書かれた御言葉」 scripture という意味の両方に取ることができます。新約の時代に生きる私たちにとって「文字」と言えば「律法」よりも、むしろ「書かれた聖書の御言葉」と取った方がより重要な教訓になるように思えます。
それはどういうことかと言いますと、新約の時代に住むクリスチャンは書かれた文字の御言葉を何度も読んで慣れ親しむのはいいのですが、傾向としては、頭で読んで理屈はこねるが、本当に心に刻み込まれていない聖書の読み方をしていないかと言うことです。そのような聖書の読み方は「人を殺す」と言うのです。
とどのつまり、私たちは旧約の時代のイスラエルの民と同じで「うなじのこわい」「キリストのくびきに素直に架かることができない」「頑固に神の言うことを聞かない民」になっていないかと言う問題提起です。いかがでしょうか。残念ですが、それがどういう意味かも分からないクリスチャンもいます。
私がクリスチャンになりたての頃、今から35年以上前のことですが、私が大変尊敬していたクリスチャンの鏡のような人がワシントン州のタコマという処に住んでいました。彼は地元新聞社に勤める傍ら、時間と機会があれば公園であろうが道端であろうが、見知らぬ人に声をかけて優しくキリストを語り、多くの人を導きました。教会には夫婦で熱心に奉仕し、仕事の関係で一時タコマに住んでいた私たちにも大変よくしてくれました。
その後25年程経って、私たちが仕事を止めミニストリーに専念し始めたとき、真っ先に毎月の献金してくれていたのですが、その年の暮れに突然手紙が来て、「実は私たち夫婦は数年前に離婚し、私は、今全く教会にも行っていない。あなた方に献金して来たのは長年の親友であるからで、今は一人住まいで経済的に余裕がなくなったので献金はこれで打ち切るので申し訳ない。」という長い手紙でした。
これは私のクリスチャン生活の中で最もショックを受けた事件でした。あれ程熱心に模範的クリスチャンとして奉仕してきた人が「クリスチャンを辞める」ことは全く考えられなかったのです。その人は大変優しい誠実な人柄なので、私が彼は霊的な人であると思い違いをしていたのでしょうか。長い間、肉でクリスチャン生活を過ごして来たのでしょう。その人は努力してクリスチャンをやり続けたのです。霊は人を生かすが、律法は人を殺す、いや、肉が中心の努力のクリスチャン生活は人を殺すのです。本当に聖霊にゆだね、聖霊に生かされていなかったのです。
私たちは旧約聖書から本当に学んでいるか
1コリント10:11に
「これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが(旧約聖書に)書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれています。「これらのこと」とは40年かけて荒野を渡った大部分のイスラエルの民は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた、と言う事実(10:6)です。
律法をイスラエルの民に与えた神は、律法を守ることを口にするときは、必ずと言ってよい程「御声を聞いて従うこと」を真っ先に教えられたことを思い起こして下さい。神がくどいように言われたこの「御声を聞いて従うこと」こそが、「
文字は人を殺す」から
「霊は生かす」に変える働きをするのです。今でもそうであることに変わりはありません。
一つ質問があります。異邦人クリスチャンは律法を守らなくてよいのでしょうか。多くのクリスチャンはそう思っています。しかし、へブル書8:6-10(口語訳)にはこう書いてあります。
「ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、/わたしも彼らをかえりみなかったからであると、/主が言われる。
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て/ようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう。」
キリストが律法の完成者であり、私たちクリスチャンはそれを完全に行う者にならねばならないのです。新約における神の方法は「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。」です。これが「文字は殺す」危険性のある律法的な生き方において「霊が私たちを生かす」唯一の方法なのです。
クリスチャンである私たちは、本当に聖霊に示され、導かれながら聖書を読んでいるでしょうか。特に旧約聖書を含め、聖書全体を「文字」として単に頭だけで読み過ごしているとすれば、イスラエルの民と同じように、この世という荒野でクリスチャンの大部分も、あるいは滅びる可能性があるという戒めです。
私たちも「うなじのこわい民」になってはならないのです。これが終末の教会への重要な警鐘であることを十分に心してください。(終わり)