10 01月
栄光の焦点
スタン・スミス
神は今、どんどんと「オープン・へブン/天が開かれる」という体験を神の民に与えていてくださいます。即ち、イエスのヴィジョンを見る、天使が訪れる、神の栄光にまみえるというような体験です。これらのことは以前にも時々は起こっていましたが、 神は現在、このような体験をもっと頻繁に、そしてもっと多くの人たちに与えておられます。
これはイザヤ60:1−2に書かれていることであり、この世が大いなる闇におおわれる時代に神の栄光が訪れるという約束の成就なのです。今の時代のために神が持っておられる目標、ゴールは、教会が光輝くことです。これを実現させるために、神はご自分のより大きな光を私たちの人生の中に注ぎこんでおられるのです。
私たちの多くにとってこれは今までになかった新しい体験なので、それを誤って解釈してしまう者も出てきます。天使を見た経験をすると、そこからオーバーな期待を抱いてしまう事もあり得ます。また見当違いな見方をしてしまうこともあります。しかし聖霊の賜物を聖書に基礎をおいて解釈しなければならないことを私たちが学んできたのと同じように、天が開くという体験もそれと同じ扱いが必要であることを私たちはこれから学んでいくことでしょう。
私自身が神との出会いを体験してから、私は聖書を新しい目で見るようになりました。それは3、40年前にカリズマ・ムーブメントが始まり教会が聖霊の賜物に対してオープンになった時に私たち多くのものに起こったことを想起させるものです。私たちはそのことが起こる以前に読んでいたのと全く同じ聖書を読んでいたのですが、なぜかそれは新しいもののように思えました。それまで象徴的に受け取っていた聖書箇所が、突然生き生きとして文字通りのものとなりました。
今それと同じような感覚があります。聖書に書かれていることは、私たちが思っていたよりも、文字通り真実であることを今私たちは見出しているのです。
今ここで私は、一つのなじみ深い聖書箇所が 、今教会で起こっている「天が開かれる体験」という光に照らされるときに新しく異なったものに見えることをお分ちしたいと思います。それは私たちが一つのものだけに焦点を当てることの重要さを語っています。分かりやすくするために、この聖句を4つのポイントに分けて書きます。
キーポイント#1:神にあなたのランプを灯してもらいなさい。そうすれば、神があなたを正しい場所に配置される。
イエスは言われます。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」(ルカ11:33)
誰がランプを灯すのでしょうか? もし私たちが自分で灯すのならば、それが光る場所に私たちが自分で置かねばなりません。神が灯すならば、神が私たちを配置されます。
マタイ5:14で、イエスは私たちは世の光だと言われました。ヨハネ8:12では、イエスはご自分は世の光だと言われました。私たちは主から光をもらわなければなりません。主が私たちのランプに火を灯してくださるのです。イエスが燭台の上にランプを置くと言われたとき、その時それを聞いていたユダヤ人たちは神殿の聖所にある7つの灯皿のついた燭台のことを思い浮かべたかもしれません。聖所の火は何世紀も前に神によって与えられましたが、それを燃え続けさせるためには、祭司たちが灯芯を調え灯皿に油を満たすという務めを遂行せねばなりませんでした。
私たちのある者は神の火を何年も前に受け、それ以後はその火によって自分が用いられ影響を与えられるような場所に自分を配置する事に時間を費やしてきました。私たちのある者は油が少なくなり、その灯芯はくすぶっています。私たちはバーンアウト、燃え尽きているのです。しかし私たちはレビ人ではありません。私たちは新しい契約の保持者であり、イエスは私たちのランプにもう一度火を灯すことができるのです。それは実際にはどのような事を意味するのでしょうか?
キーポイント#2:あなたの目はランプである。あなたが何に焦点を当てるかによって、あなたがどれほど明るく輝けるかが決定する。
「良い目」とは、単純にただ一つのものを見つめる純粋な目のことです。それは私たちが真心をこめて純粋にイエスに焦点を当てるという意味です。イエスは「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いとからだも暗くなります。」と言われました。(ルカ11:34)
何年も前のことですが、私は謙遜になろうと努力しました。しかし、それは勝ち目のない戦いでした。そしてやがて私は自分自身を見るのではなくイエスを見ることを学び始めました。主は謙遜なお方です。主に従っていくうちに私は主のように行動することを学びました。これは助けになることの一つです。
しかし、もう一つ私が謙遜について学んだことは、もし私が自分の心のうちを探るならば、謙遜は不可能になるということでした。ある時には私には謙遜がないことがわかりました。それよりもっと悪いのは、確かに自分には謙遜があることを発見しましたが、それを称賛した途端に私の謙遜はもう消えていくことでした。
何年も経ってから、私は 信仰に関しても同じことを学びました。自分は本当に信じているのかと自分の心を探ると、信仰は逃げていってしまいます。私が自分と自分が祈っていることの不可能さから目を離し、イエスを見上げると、信仰が自然に起こります。私たちがイエスに焦点をあてると、私たちのからだは謙遜と信仰の光で輝くでしょう。私たちが何かイエス以外のものに焦点を当てるときに、問題が起こるのです。
キーポイント#3:イエス以外のものに焦点を当てることは私たちの光を弱める
主にだけ焦点を当てていることは努力のしがいがあることです。間違ったものに焦点を当てるならば、私たちのうちは暗やみで一杯になるでしょう。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」と言われました。 (ルカ11:35)
私たちは全員このようなことを経験してきました。ミニストリーのあれやこれやの様々な問題に焦点を当ててしまうと、私たちの灯火は暗くなるのです。イエスに焦点を当てれば、明るく輝くのです。
時には霊的戦いをする中で、私たちに見えるのはサタンがしていることだけになってしまいます。私たちはダビデのようでなければなりません。彼は自分の肉の目を巨人に向けていましたが、心の目はヤーウェに焦点を当てることによってゴリアテに打ち勝ったのです。
私たちがイエスに焦点を当てるとき、私たちの霊的感覚が開かれます。しかし私たちが他のものに心を捕らわれてしまうとき、それを想像するようになってしまいます。それはちょうど静電気が起こると私たちの(神の御声を聞く)聴覚が妨げられ、曇りガラスを通すと私たちの視覚が曇るのと同じです。神からの指示をもっと明瞭に知るために、あなたの集中力をイエスから逸らすものは容赦なく断ち切ってください。
神はレビ人にウリムとトンミムを与えて民を導くようにされました。この二つの言葉は文字通り「光と廉潔 lights and integrities」
という意味です。光は神が与える啓示です。廉潔は心の潔癖さ、単一さであり、動機の純粋さです。
イエスは父からの光と 一つのことを見つめる潔癖さとで生きておられました。主は当時の「宗教の霊に捕らわれた人たち」に抵抗されましたが、宗教家たちの堕落に焦点を当てられることはありませんでした。そうではなく、主は常に父がしておられることだけをじっと見ておられたのです。主は一つのことだけを見ておられたのです。
キーポイント#4:神の戦術は私たちをもっと明るい光にし、その光を輝かすことの出来る場所に私たちを配置すること。
自分を配置するのは私たちの仕事ではありません。私たちの仕事は主に焦点を当てることであり、そうすれば私たちのからだは光で一杯になります。もしサタンがやって来ても、サタンが「俺のものだ」と言える暗やみを私たちの中に見出すことはできません。
「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかり(ランプ)が明るく輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」ルカ11:36
私たちはイエスをどのくらいはっきり見ることが出来るでしょうか? どのくらい頻繁に? どのくらい一貫して? これが私たちの明るさを決める鍵でしょう。そしてその明るさによって神が私たちを配置される場所が決まります。神が天を開いておられる今、私たちはイエスに焦点を当て続けることに心しなければなりません。いろいろな現象が起こってくるでしょう。使徒行伝に書かれているようなことが。オープン・ヴィジョン、天使からのメッセージ、大きな奇跡など。それらが起こったときはそれを楽しみ、そこから力を得てください。しかし、それよってあなたがイエスから目を逸らせてしまうようなことは決してあってはなりません。主を見つめることがあなたのランンプを燃え続けさせるのです。(終わり)
03 01月
あなたの口を見張る天使
チャック・ピアス、バーバラ・ウエントロブル、キース・ピアスによる預言
主が言われます。「海のようにあなたを覆うことができる多くの祝福をわたしは備え持っています。これらの祝福があなたを覆うから、入ってきなさい! もしあなたがわたしと共に座し、わたしとお茶を飲みながら私に語るならば、あなたはそれを味わい、それを見ることができるでしょう。祝福を味わい、見てごらんなさい。海よりも大きな祝福があなたを覆い尽くすことができるのですから。
今あなたが自分の口を開いて声を発する言葉に気をつけねばならないシーズンに入ろうとしています。わたしは、今のシーズン、あなたがどのようにあなたの口を用いるかをじっと見守っています。わたしはあなたがどのように喜び祝うかを見守っています。わたしはあなたの口を見張る天使を遣わします。
わたしはあなたが自分に必要なものをどのように求めるかを見守るでしょう。あなたは信仰によって必要なもの求めるでしょうか? あなたは礼拝の心をもってそれを求めるでしょうか? それとも自分に必要なものを得るためにあくせくするでしょうか? わたしはあなたが必要なものを得るためにどのような言葉を発するかを見守るでしょう。わたしはあなたが必要なものを得るやり方を今変えようとしています。ですから今週あなたは心を取り乱してはいけません。今週、あなたは言葉を発して、それによって蜜と水が出てくるのを見てごらんなさい。
今は怒りをもって攻撃する時ではありません。わたしは 『語りなさい!』と言っているのであって、『攻撃しなさい』とは言っていません。攻撃するのではなく語るのだということに、よくよく気を付けなさい!もしあなたが攻撃するならば、何も出てこないでしょう。しかしあなたが語るならば、水を注ぎだすことになります。立ち上がってあなたの手で口をふさぎなさい。そして『(主である)わたしが、あなたの中で打ち壊されねばならないものは何であるかをはっきりと口にして、わたしの名によってそれが出て来るようにと命ずる。』とわたしに言わせなさい。
「わたしにわたしの山を与えよ!」
「怒りの感情を持ってはいけません。むしろ喜びを持ちなさい。あなたの感情は適切に表現されねばならないからです。あなたの置かれている状況のただ中であなたの感情を涌き上がらせなさい。そしてその岩にむかって語りかけ、その山にあなたが勝ち突くと告げなさい!
「わたしは今の時、カレブの世代を起こそうとしています。カレブは『わたしの山を与えてください!』と言いました。彼は山にむかって語りかけ、彼の所有物となるように山に命じました。カレブのように語ることができ、わたしが彼等のものとなるとすでに告げたものを獲得してゆけるカレブの世代をわたしは今立ち上がらせています。今までのシーズンでは、つぶやいたり文句をいうだけで主が約束されたものを手に入れずに終っていた世代であっても、彼等は『今だ!』というでしょう。今の時、わたしはカレブの世代を起こします。わたしが『これは彼らのものだ』と宣言したものを彼らは獲得していくのです。カレブのように、『これは私のものだ、私の所有物だ』と語り宣言しなさい。この世代は立ち上がり主の備えられたものを宣言し勝ち取っていかねばならないのです。」
あなたの現状をよく考えよ!
先週の日曜日に主が私たちに、ハガイ書から明確に語ってくださいました。ハガイは復興の預言者でした。彼は人々に向かい、彼らが始めた事業を完成させなさいと叫びました。ハガイという名には、「お祭りのような」とか「祝祭の」という意味があります。今のシーズンのための「タイミング」「復興」「祝い」に関して理解を得るためには、ハガイ書が一番ふさわしいものです。私たちはハガイ書を7日間読んで聖霊からの洞察を受けることにしました。
これはリンダ・ハイドラーがハガイ書を読んで得た洞察です。
人々は神を中心とし神の臨在が留まる場所を立てるということを最も優先することを忘れおろそかにしていました。ハガイ1:5には「今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。」とあります。「 consider よく考える」という言葉は3つの言葉から成っています。「consider よく考える」には、「指定し、呼びかけ、言明し、定め、決意する」という意味があります。これはこころ(heart)の状態をあらわす言葉です。「heart」とは実際の身体の器官でもあり、また人間の一番深いものを表す言葉でもあります。「consider」のもう一つの言葉の意味は「越えて、上に、むこうに」という意味です。
この「あなたがたの現状をよく考えて見よ。」という箇所を見ると、これは「あなたの心を現状よりも高いところに呼びなさい。今あなたがしていること、生き方、あなたが選んでいることに関しての理解と認識を、もっと高いレベルにしなさい」という意味です。あなたは物事をまわりの状況からだけの低いレベルで見ているかもしれません。ですからもっと高いレベルの理解を持たねばならないのです。あなたの持つ将来への見通しは小さく限度があるものかもしれません。これがあなたの人生で起こっている事柄の全貌を見えなくしている可能性があります。神があなたのうちに始められた神による最高の計画・目的(目標)から、あなたのプライオリティー、優先順序がずれているかもしれません。
欠乏があなたを盲目にすることがあります。間違った将来への見通しは、あなたの欠乏の本当の理由を見えなくしているかもしれません。問題は食べ物や着るもの、お金がないということではなくて、あなたの心が天国の目的ではなく地上の低いレベルに置かれていて、神のことではなく地上のことに心が奪われているところにあるのです。あなたの心をもっと高いレベルに引き上げてください。あなたの心を神とあなたのために用意された神のご計画の上に定めてください。
今月は遅れを取り戻す月であることを忘れないでください。もし私たちが主を毎日求めるならば、御国の祝賀の集まりセレブレイションに間に合うでしょう。
私は妻のパムに何か書くように頼みました。以下が彼女の書いたものです。
私の思い出
パメラ・ピアス(注:チャック・ピアスの奥様です)
1968年は嵐のような年でした。ベトナム戦争が激しくなっていました。マルティン・ルター・キングやロバート・ケネディーが暗殺され,ソ連がチェコスロバキヤに侵入し、リチャード・ニクソンがアメリカ合衆国の大統領に選ばれました。
その年は私の家族にとっても別の意味で意味深い年でした。ベトナムでの戦争が激しくなり、私の養父であるクリント・ヒューズ軍曹はタイのコラット空軍基地に遣わされ、養母のベティーはニューハンプシャーの家に4人の子供と共に残されることになったのです。それで私と養母との小競り合いは休戦に入らざるをえなくなりました。
私と妹のパウラがベティーおばさんとクリントおじさんの所に行き一緒に暮らすようになったのは1965年のことでしたが、それは一時的な処置のはずでした。以前にも母がアルコール中毒と精神病で施設に収容されたので、私とパウラは親戚に預けられたことがあったのです。しかし今回は状況が少し違うことが私たちにもわかりました。この時、私たちの父(社会的には機能できるけれどもアルコール中毒でした)は、遠いニューハンプシャーに住む私たちが今まで一度か二度しか会ったことのない親戚に私たちを送ったからです。
初めのうちは、すべてうまく行っているように思われました。私はホワイト山脈を見渡せる自分の部屋を与えられました。私たちが住んでいた農場は深い森や草原、所々に突き出ている岩、清く冷たい小川のあるパラダイスでした。ずっとロスアンジェルスとヒューストンの市街に住んでいた私は、この田舎暮らしに大喜びで飛び込んだのです。
しかし 私が好むと好まざるとにかかわらず 、言われたことをしなければならない状態であったことから、問題は起こり始めました。クリントおじさんがイギリスのポーツマスの空軍基地に行っていたとき、私はベティーおばさんが私に頼むことにことごとく反抗しました。困り果てたベティーおばさんは、ついに私を里子に出すことをおじさんに相談しました。パウラは言うことを聞くとても良い子だったのでそのまま居ていいということでした。
クリントおじさんが私の救出に乗り出してくれたのはその時でした。他人の家に私を預けるかわりに、おじさんはこう言いました。「私にパムを任せてくれ。どうなるか見てみようよ。」と。それで私は1965年に空軍軍曹であるおじさんの「新兵訓練部隊 ブートキャンプ」に入隊したのです。それは私の人生に起こった最良のことでした。次の2年間、おじさんは気ままでしつけのなっていない赤毛のわがまま娘の私を訓練し、役に立つ家族の一員へと変えてくれたのです。おじさんは朝食用のパンの作り方や、家畜の世話の仕方、自分より上の権威を尊敬する事、人に仕えることを教えてくれました。目的を持ち役に立つ人間になることが、どれほどすべての事を変えることが出来るかを、おじさんは教えてくれたのです。
1966年の春、私の実父が亡くなり、実母は親権をおじさんとおばさんに譲りました。私とパウラは養女となり、私たちの苗字はローリーからヒューズに変わりました。それ以後は私を里子に出すという話は全く出なくなりました!
父(おじさん)が1968年の初めにタイに出発する前に、 部屋の隅に私を連れて行って二人だけで話をしました。
「パム、私がいない間、お母さんを助けることを頼んだよ。」と厳かに言いました。「毎朝、お母さんが起きる前にコーヒーを沸かしてパンを作り始めるんだよ。」
「はい。お父さん。」と私はうなずきました。
「それから、お母さんと言い争いはもうしないように。お母さんが頼むことを素素直に聞くんだよ。そうすれば大丈夫だからね。私
がいなくなるのはお母さんにとってとても辛いことなんだからね。わかるだろう。」
お祝いをすることの大切さ
父がいないことは私たちみんなにとってとても辛いことでした。しかし、感謝祭が近づいて来たとき、私たちは東南アジアからのよい知らせを受け取りました。父が11月に短い休みをとって家に帰ってくるというのです。もっと長くいて欲しかったのですが、その短い期間を最高のものにしようと私たちは決意しました。
そしてその年、私たちはクリスマスを感謝祭のときに祝ったのでした。妹と二人の兄弟、そして私の4人は、家の後ろにある森までそりで行き、樅の若木を切り倒し、雪の中を家まで運んで来ました。その夜、私たちは感謝祭ツリーの飾りつけをしました。木曜日(注:感謝際は11月の第4木曜日)の夕食後、みんなはピアノの回りに集まってクリスマス・キャロルを歌いました。父にクリスマス・プレゼントを渡し、本当に12月25日であるかのようにお祝いをしました。次の日、父はタイにむけて出発せねばなりませんでした。
私たちは神様のスケジュールに合わせてお祝いをしなければならない時があるのです。そのような時は自分たちの計画を横に置いて、父なる神のご計画通りに従わねばなりません。神のタイミングは完全であり、神はお祝いすることの大切さ、価値を、私たちにはとても理解できないほどに分かっておられます。神のカレンダーは常に正しいのです。(終わり)
31 12月
クリスマス休暇を取ってニューヨークから来た息子夫婦を交えた私たち5人の家族は、12月27日マウイ島に日帰り旅行をしました。この旅行の大きな目的の一つは、恒例の家族の写真コンテストを行うことでした。マウイ島の北西部ハナ地区は海と山の中をうねるジグザグの狭い昔からの自動車道で景色がよいことで有名な場所です。皆、それぞれのカメラを抱え、めいめいが真剣な面持ちで写真を撮ります。最初の写真は家内の柚実子が途中の飛行機の窓から撮った朝日が昇る景色です。(左下)
右は途中の植物園で撮ったもの。
息子の嫁 Estherが撮ったものです。その日は曇りから小雨で天候には恵まれませんでしたが、灰色の空の下で却って落ち着いた写真が撮れたと思います。
大小の滝がいたるところにあり、又海の渚の風景がきれいでした。
上記の左と中央、それにその上の滝の右の写真は息子が撮ったものです。上記一番右は私が帰路、島の北東から南側にドライブしていた時、ラナイ島の上を夕日が射していましたので、車走行中に急いで撮ったものです。結局、今回の優勝者は柚実子の飛行機から撮った朝日と雲の写真となりました。当日、彼女の古い馬鹿ちょんカメラの電池が切れてしまい(私が悪かったのですが)結局私のカメラを私と併用しながらのハンデキャップでしたが、母親としての強みを発揮し同情票が少し加味された疑いがあるのですが、ついに一位になりました。二位は息子のDonjiroで左側の水の前の岩場の写真です。息子はNYで商業デザイナーをしていて半分プロですから良くて当たり前ですが、参加者全員今回の投票結果には満足満足でした。
30 12月
溢れるように与える祝福
坂 達也
聖書的に言えば、私たちクリスチャンは皆「神の子ども」と言われます。しかし、同じ「子ども」と言っても「幼い子ども」もあれば、「成長した息子」もあります。聖書のギリシャ原語とか、英語の聖書では、その差が理解できるような単語で使い分けられていますが、日本語の聖書の場合は、どちらも通常「神の子ども」あるいは「男の子」と訳されていて、幼いのか、大人なのかの区別がもう一つはっきりしません。
勿論、神にとっても人間にとっても、年齢に関係なく「親子の関係」を表す場合には私たちは「子(ども)」でよい訳です。しかし神は、私たちが霊的に幼い子どもから大人に成長することを人間の親以上に重要視し、私たちの成長を、最後まで責任を持って見守り、指導されます。それは「私たちがみな、信仰の一致と、神の御子に関する知識の一致に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)
このことを最近特に感じ、自分自身も反省させられていることがあります。それは「十一献金」についてです。クリスチャンが「十一献金」をすることは、言うまでもなく大変重要なことです。そのことを厳しく義務付ける教会もあれば、あまり言わない教会もありますが、いずれにしてもお金が絡むことですから、言い方に余程気をつける必要があります。
しかし「十一献金」は教会でやかましく言われるからするのではないことを、クリスチャンははっきりわきまえていなければなりません。端的に言えば、献金をするのは神ご自身とその御国に対してであって、その人の属する教会の必要を充たす、あるいは信徒としての責任からする、しないと言う考え方はあくまで二義的なことです。私は献金が、クリスチャンとして、その人の神への愛と信仰の度合いを表す最も重要で基本的な尺度であると信じます。従って「十一献金」が出来ない人は、大人で成熟したクリスチャンとは絶対に言えません。本当にこの世の中はお金がものを言う世界であり、神様もそのように見ておられます。
私は若い頃収入が良かった頃でも月々の十一献金が出来なくて、年末に慌てて帳尻を合わせたことが多かったのですが、それでも曲がりなりにこの「義務」は守って来ました。このことを主は喜んで下さり、私たち夫婦はビジネスがうまく行かなくなった時も、ミニストリーに専念することを決意し、神にすべてを委ね頼るようになってからは特に、神は私たちを豊かに祝福し、必要はすべて充たされて来ました。
従って子どもたちにも友人のクリスチャンに対しても「十一献金」がいかに重要であるかを機会ある毎に強調して来ました。しかし、ある時気がつかされたことは、私の考え方・メンタリティーは、間違っているとは言えませんが、必ずしも「成熟したクリスチャン」としての考え方とは違うと言うことでした。
神様への献金は義務からするのではなく、神様を愛し、すべて神様が与えてくださっていることを感謝する気持ち、信仰のほとばしりからするべきであると言うことです。
確かに旧約聖書では少なくとも6箇所で「十一献金」の教えを見ることが出来ます。しかし、新約聖書では「収入の十分の一を献金すればよい」とはどこにも書いてありません。なぜかと言えば、新約の目標は私たちイエス・キリストを心から信じる者はイエスのようになることであるからです。旧約的な見方からすれば、言ってみれば幼い子どもに例えられ、十一献金がしなければならない責任・義務であると言ってもよいかも分かりません。しかし、私たちは新約の時代に生きている(正確には神の中で生かされている)のですから、最早幼い子どもの考えではなく、成熟した大人の考え方に変えられ、レベル・アップされていなければなりません。真のクリスチャンになることとは、私たち全員が神のご性質に似た「キリストのからだ」の一部になることであり、それは霊的に成熟した大人になって、キリストと完全に一体になることを意味します。
そのためには、私たちは人間的メンタリティーから脱して神のメンタリティーにならなければなりません。神はすべてにおいて無尽蔵の財源を持ち、それをふんだんに与える方です。キリストは神でありながら、ご自分を私たちに与えられました。けちな根性は毛頭ありません。まさにパウロが言うように「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)であるのです。しかし人間はなかなかそうなれないのです。
貧困の霊
私たちには二人の子どもがいますが、一人は私たちやもう一人の子どもにも最近とてもよく気を遣って、必要と思えばおしげなく与える子どもに成長しておりますが、もう一人の方は未だそこまでになっていません。そうすると私はどうしても比較してしまいます。その結果は、私自身が全く人間的な父親の域を出ていないことに気がつかされました。
私たちの地元のミニストリーを一緒にしている二人の男性が生活に追われっぱなしで、「十一献金」が出来ていないので、それを行なえば神は豊かに与えて下さることを、私の経験の証を交えて折に触れ強調して来ました。しかし、二人ともとてもよく祈ってはいるのですが、一向に十分な献金もしていないようですし、経済的に豊かになりません。
そこで今回、私が主から示されたことは、私が十一献金を勧めるその気持ちの中には、十一献金をしないから経済的に恵まれないのだと言う批判的な感情があり、その人を「裁いている」と言うことでした。そしてそのこと自体、私自身が貧困の霊に取りつかれていることに他ならないと主から示されたのです。深く反省しております。
確かに、自分の蒔いた種は刈り取らねばならないと言う霊の法則は厳然と存在しています。そして、神はご自身が聖く、その上、無限に溢れるような愛をもっておられる方ですから、愛をもって正しく適切に懲らしめも裁きもなさるのであって、私たち人間が人を批判したり、相手に報復したり、裁いてはならないのです。そうすれば、勿論自らに裁きを招くことになるからです。
私たちは神の子どもとして神の膨大な財産の相続人であり、現在でも無限の財宝を惜しみなく与えてくださる天の父がいるのですから、全く無制限の財源があるのと同じです。従ってその信仰さえあれば、経済的に恵まれない人を助ける必要がある時には、出来るだけ出し惜しみせず豊かに与え、愛を持って親身になって神にとりなすべきです。そのような態度と行動が、相手の人と、自分の貧困の霊を打ち破ることが出来るのです。
神はすべて無制限に祝福出来る方であり、それを望んでおられるのですから、その神にのみ信頼すれば一切の面倒を見ていただけます。これは私たちが神のチルドレン(幼い子ども)であるからです。しかし、それ以上に、私たちは霊的な成熟した大人として、神に負けないぐらいふんだんに、人に、あるいは神が示すミニストリーに与え続ける時に、それがものすごい力となって神の与えるミニストリーの手足となり、同時に自分にも有り余るほど返って来るのです。これが神の経済原則であり、重要で大きな神のビジネス(御国の企業)に参加することになるのです。
新しい年2011年から翌年の2012年に向かって、世界経済、特にアメリカの経済が大変な試練の時を迎える、真っ暗な暗闇に突入することが多くの人によって予測、預言されています。しかし、世の中が悪くなり、厳しい状態になればなるほど、神の子どもとして、こんな絶好のチャンスはありません。新しい年に、神の経済原則を忠実に守る成熟した大人のクリスチャンになることを決意し、神に聞いて忠実に実行すれば、その人は神に豊かに祝福されるだけでなく、暗闇の中で神の栄光を輝かせる御国のトーチ・ベアラーとして、又、御国の企業家として、大いに活躍出来るのです。これこそ主が私たちに期待するところではないでしょうか。
新しい年に皆様のお働きに大いに期待しております。 (終わり)
21 12月
主は道を備えられる
フランシス・フランジペン
税金、テロの脅威、病気、老い、家計、政治的混乱、家族の人間関係、教会の問題、恐怖、健康保険の問題、空港での厳しいチェック、失業、ガソリンの値上がり、戦争、不正、死——これは私たち多くが日々直面している敵のほんの一部です。しかし、主が私のこころに語られたことをお伝えしたいと思います。
ピリピ4:6−7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
主は 、「特に別に問題がない」というような単に普通で一般的な平安を私たちが持つことを願っておられるのではないのです。又、ちょっと霊的なだけで人間的レベル、人間サイズの平安を私たちに与えようと計画しておられるのでもありません。もし私たちが、主の示される通りの 道を従順に歩み続けていくならば、主は主御自身の平安の中に私たちを住まわせ守ってくださるのです。
神の平安は全能者なる方の思い、思考のプロセスが含まれている深い静寂です。神は決して憂慮されることなく、常に主導権と解決法を持っておられます。神は初めから結末を見ておられ、人間に必要なものを無尽蔵の資源、能力の持っておられる立場からご覧になります。神は神の子供たちの必要を、あわれみと確信をもって見て下さいます。なぜならばすべてのことは神にとって可能だからです。
主が与えられる平安は、ただ単に「主がくださるもの」というだけではなく主ご自身の延長であり、それこそが主の平安の実体そのものなのです。それは神のレベル、神サイズの平安です。主が「あなたがたのこころと思いをキリスト・イエスにあって守ってくれる」とは、神のこの方法によることなのです。
驚くべきです
多くの聖書箇所にある同じ約束
私の解釈に疑問を持つ人があるかもしれませんが、救い主イエスの約束を思い出してください。
ヨハネ14:27「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりま
せん。」
又、パウロは言っています。
コロサイ3:15「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
これらを初めとする多くの聖書箇所は、私たちのための避難場所、私たちが宿ることができる神の平安で守られている空間、次元、がまさに存在することをあきらかにしています。
平安を用いなさい
勿論私たちは、 自分をどのような霊的領域の支配下に置くかは自分で選び取らねばなりません。ですから聖書は「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。Let the Peace of Christ rule.」と言っているのです。 この文章の「しなさい let」という語は、私たちの前におかれたリアリティー、現状の中での選択を言っています。忘れないでください。まわりの状況があなたの心を苦しめ始めたときでさえ、あなたは恐れから離れることができるのです。なぜならばそこには神の平安も又備えられていて、あなたの手に届く所にあるのです。恐れ、心配の思いを権威をもって治めてください。なぜならば、「それはただ悪への道(詩編37:8)」だからです。ですから、神の約束の上に信仰により堅く立ってください。
平安は私たちの盾であり、神の御言葉は武器です。ですから、主よりも問題の方を大きいと拡大して見てしまうような否定的で不信仰な思いを虜にしてください。私たちの父は私たちが願う前に私たちの必要をご存知なのです。(マタイ6:8)
あがくのを止めて、静まって主が神であることを知ってください! もし疲れたならば、主のもとに来て、主のくびきを負ってください。あなたのたましいは安らぎを得ます。最後に、パウロの言葉を思い出してください。彼は神に願いをささげるときは「感謝をもって」するようにと言っています。多くの者はいろいろと考えることは沢山すぎるほどしても、感謝することが少なすぎるのです。ですから、私たちの重荷を主に委ねましょう。主は本当に私たちのことを愛し、よくしてくださるからです。主は道を備えられます。(終わり)
Francis Frangipane
Ministries of Francis Frangipane
Email: francis1@frangipane.org
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