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Walk With God Ministries

12 03月

ハワイの海


ダイヤモンド・ヘッド南のカハラ・ストリートの高台から海を撮る

 


06 03月

幼子のようなシンプルさを保つ ボビー・コナー  3月7日


幼子のようなシンプルさを保つ

神はへりくだった心に応えられる

 

ボビー・コナー  

 

神の御霊が私に言われました。「あなたにできる一番深遠なことはシンプルさを保つことです!」 人間が作り上げた宗教組織を見分ける一番てっとり早い方法の一つは次のことです。それは常に活動的であり、極端に忙しく、がむしゃらに働き、神がシンプルに創られたものを複雑でややこしいものにしていることです。

 

私たちが追求すべきことは、どんなことがあっても幼な子のような心を保ち続けることです。勿論、私たちは 成熟し大人になっていかねばなりませんが、その過程において、キリストに対する幼な子のような性質を決して失ってはなりません。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられることを忘れないでください。(第1ペテロ5:5)

 

キリスト・イエスは「天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか?」という鋭い質問を受けました。マタイ18:1−5でイエスがされた返答を理解し悟ることは私たちにとって非常に重要です。

 

マタイ18:1−5 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せて、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」

 

この主イエスからの返答は、人間の考え方とは全く正反対です。「宗教」は知識や神学的見解をひけらかして、人々から常に称賛、感嘆を得ようとします。けれども、イエスは天の御国で一番偉大なのは、へりくだった幼な子のような心であることをはっきり示されました。

 

この箇所は、私たちが子供っぽいとか幼稚なのがいいということではなく、私たちは自分を低くして幼な子のようになる必要があると言っているのであり、それについて理解と洞察を与えています。幼な子のようになる事と回心とは、年齢に関係なく、一緒に起こることのようです。普通子どもの特徴は、シンプルで、人を信頼し、正直であるということです。そして、このような性質こそ、人をキリストへと導き回心にいたらせるものです。

 

問題点:人間の性質

 

幼な子のようになるために非常に大きな障害となるのはプライドです。尊大なプライドは人間の性質の基本的な部分です。 人間は他人よりも自分 を高めようと常に考え行動するのです。神が本来意図されたような人間になる唯一の道は、幼な子のようになることであり、自分を高めようとする傲慢な心を打ち捨てねばなりません。自己中心の罪に陥ることは非常に恐ろしいことです。

 

マルコ9:33−37に見られるようにキリストの弟子でさえ、この自己中心というペストのような問題と格闘せねばなりませんでした。

その後カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。

 

イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 

クリスチャンの性格

 

へりくだりに関するイエスの教えを理解するためには、幼な子を観察する必要があります。幼な子の無邪気さ、率直さ、信頼は、私たちに御国でへりくだることの意味を理解する鍵を与えてくれます。私たちの謙虚さは神の御前に出たときに明らかにされます。しかし、それだけではなく、私たちが他の人々の存在価値を高く評価し、彼らが御国の働きを助ける賜物を持っていることを心から信じて生きるならば、私たちの謙遜が本物であることは明かになります。霊的にレベルアップする最速の道の一つは「しもべとなること」です!

 

パウロは 人間の知恵とか雄弁さではなく、イエス・キリストとその十字架だけを説いて伝道しました。

 

第一コリント2:1−5  さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら、私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

 

私たちも又、キリストとその十字架を、苦しんでいる世界にむけて高く掲げようではありませんか。このシンプルなメッセージは、応答する すべての者に深い影響、衝撃を与えるものです。シンプルさを失わないようにしましょう!(終わり)


01 03月

2011年は獅子の権威の年 ボブ・ジョーンズ 3月2日


2011年は獅子の権威の

 

ボブ・ジョーンズ

(これはボブ・ジョーンズが2010年9月に話したビデオから取られたものです)

 

牛の年、鷲の年、獅子の年、人間の年

 

1009年は牛の年であり、そこから端を発したことを 私がお話したことを多くの方は聞かれたと思います。1009年は かたい地面を耕すような困難な年でした。エゼキエル1章から私は話しておりますが、主がこの預言を私に下さいました。1009年に牛はその理由がわからないまま一年中耕し続けました。1010年は鷲の年です。あなたがた全員が蒔くのに必要なだけの十分な種を持っています。あなたが行く所、どこでもその種を蒔かねばなりません。家族の中に、レストランの中に、教会の中に、どこでも行くところはもう一度蒔き直してください。種は絶対になくなりませんから。

 

私が30年、35年前に蒔いたもので 絶対芽を出さないように見えた種がありました。でも私が種を蒔いたそういう人たちが救いに到達するのを去年見ることができました。ですから一度あなたが神の種を蒔いたならば、それは地球上を永遠に回り続けるのです。ですから蒔いてください。それは長い長い年月、土の中に隠れているかもしれませんが、その人たちの人生にいろんなことが起こり、その時種は芽を出すのです。ですから蒔き続けて下さい。落胆しないでやり続けてください。

 

鷲の年は2010年9月10日に終ります。 私は主の暦に従っています。ユダヤ人はこの暦を自分たちのものだと言っていますが、本当はそうではなく、これは主の暦なのです。9月10日に新しい年が始まります。それは獅子の年であり獅子が吼え始める時です。獅子は吼えるとき、地にむかって吼えます。空中にむかって吼えるのではありません。地にむかって吼えるのです。獅子は言います。「ここは私の領土だ。」と。そしてその声 は何マイルも遠くまで響きわたります。

 

私たちは獅子の年を迎えます。私たちが権威を持つ年です。今まで見たことのないような権威を見る備えをしてください。あきらめないで、信仰を持ち続けてください。主への嘆願を続けてください。なぜならば権威の年とは、御言葉が御父の心からあなたの中の霊の人へ、あなたの良心に、入る時であり、その時あなたはそれを宣言して「ここは私の領土だ、私はここを取り返す。ここは私の地だ、私はそれを癒す。」と吼え始めるのです。

 

その次の年は何でしょうか? それは人間の年であり、人は牛の性質を持ち、鷲の種を持ち、獅子の権威を持って、それを地球全体に持ち運ぶのです。1009年、1010年、1011年、1012年は収穫のための働き人を集める時です。ですから今は最大のチェンジのときです。イスラエルにとってもそうですから、イスラエルのために絶えず祈り続けましょう。

 

御国の鍵、チェンジの鍵

 

主が昨日私に示されたのは、私たちは今イザヤ22章の時にいるということでした。イザヤ22章は御国の鍵であるだけではなくて、チェンジの鍵でもあります。シェブナはイスラエルを司っていた者であり、又宝物係りでもありました。彼がした事の一つは、自分のために財宝で一杯の巨大な墓を築いたことです。しかし、彼は外国で死に埋葬さえされなかったので、この墓は不要だったのです。それは彼はイスラエルのための一番大切な任務をなおざりにしていた結果でした。

 

そこで、エロヒムが登場します。エロヒムとは「レムナントの父」という意味です。父親たち、母親たちが御国の鍵をもって現れるのを見ていてください。御国の鍵はあなたの中の御国の戸を開けるものです。この年はあなたの中にある御国の戸が開けられる年です。この年は獅子の吼え声があなたの内へ吼え、あなたの中にあるものの鍵を開け、あなたの中にある神の御国が出て来くる年であり、獅子の権威が現れ始める年です。

 

雄獅子と雌獅子がしようとしていることの一つには、今現れようとしている父親たちと母親たちがいるのです。霊の人(ローマ1:9)として主を礼拝してきた人たちがおります。私は頭ではなく霊で主に仕えています。私たちは頭で主に仕えようとすることをいい加減もうやめて、良心と霊の人として主に従い、それに従うようにと頭に命令しなければならないと思います。

 

今年はそれが顕れ出てくる年です。ですから、ローマ1:11にあるように、霊において主に仕えるものは、御霊の分与を受けるのです 。今までに見た事がないような素晴らしい御霊の分与のために備えてください。グループ全体で分与を受ける備えをしてください。それは文字通りあなたの鍵を開けて、あなたを新しい自由と新しい解放へと導き、そこであなたは「本当の自分」を見出すでしょう。

 

御国はあなたの中にあるのです。今までは宗教の霊、その他もろもろがあなたを閉ざしていました。今年はあなたが自由になる年です。真の父親たち、母親たちが前面に現れてきます。彼等の唯一の願いは、あなたの鍵を開け解放し、御国が今まで見たことのないような大きな力をもって現れ出るのをあなたが見るようになることです。それは歴史上最大の収穫の一つのための備えです。ですから、今起ころうとしているのは、完全なるチェンジです。私たちは今までこのようではありませんでした。しかし、私たちはチェンジを見るために備えをしているのであり、それが必要なのです。必ず起こります。それが今まで3年の間、用意されていたのです。あなたの中にチェンジが起こるのを見る備えをしてください。

 

獅子の権威のために備えをせよ

 

主がこの地でされたことですが、もし私が神の指をもってサタンを追い出すならば、神の御国は到来したのです。あなたの中の神の指のために備えなさい。それは教会から、あなたの家族から、あなたの町から、あなたの国から、サタンを追い出し始めます。大きなヴィジョンを持ちなさい。なぜならばこのすべては史上最大の大収穫への備えであり、その時には10億の魂が救われるのです。ですから、このチェンジはイザヤ22:22にあり、イザヤ22章全体にありますが、そのために御父は皆さん一人ひとりにずっと今まで語ってこられました。しかし、あなたがそれを閉じ込めしまっていました。それを語るのをあなたは恐れていました。「宗教」があなたを縛っていたからです。解放される備えをしなさい。あなたの中にあるものを語り始める用意をし、その権威を見る備えをしなさい。

 

このカンファレンス(2010年9月)は、あなたがもともとその権利を持つ土地を取り戻すための獅子の吼え声を聞くときだと思います。すべての人はヴィジョンを持ってください。私も同じものを持っています。それは御父から受け取る種であり、主イエスがこの地に来られたときに内にもっておられたのと同じものですが、それが私の内にあります。私は神を制限することを止めようと思います。これからのシーズンであなたができる最悪のことの一つは、神を制限しようとすることです。制限してはいけません。というのはどのように大きく広がっていくか誰も知らないと私は思うからです。でもこのことは知っています。あなたの鍵は開けられます。あなたは自分が持っているとは思わなかったような新しい自由と新しい解放を持って現れます。そしてそれを語り始めると新しい創造が起こるのです。

 

これがチェンジの一面です。あなたはキリストの教会の真のリーダーたち、男性も女性も、が現れるの見る準備が出来つつあります。彼等はみんな獅子です。雌獅子の方々、もしあなたが獅子について学ぶならば、時として雄獅子よりも雌獅子の方が沢山獲物を捕らえることがあるのがわかるでしょう。雌獅子の皆さん、獲物をとること、即ち人々を主に導くための備えをしてください。勿論雄獅子の方もです。あなた方は吼え声が地球全体に響き渡るのを聞く備えを今しているのだと私は思います。地球も回復されるためにそれをずっと待っていたのです。これが主が私に示してくださったことの一つです。獅子の権威が現れるための備えをしなさい。(終り)

To view this video clip: http://www.youtube.com/watch?v=ipVoElgZlhs

 


20 02月

預言の賜物はどのように働くか リック・ジョイナー 2011年2月21日


 

預言の賜物はどのように働くか

 

リック・ジョイナー

 

 今回は預言の賜物が私たちの中でどのように働くのかを学びたいと思います。この学びによって、多分多くの方が、預言の賜物だと気がつかないまま、すでにそれを用いていたことに気がつかれると思います。大切なことは、これは技術ではなく神との関係、交わりであるということです。預言とは「ある一人のお方」の言われる事を聞くことであり、方式とか手順を学ぶのではないのです。

 

神との友情を通して受ける預言

 

アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示されないでは、何事もなさらない。」とあります。主にそうする義務があるとは、律法のどこを探しても書かれていません。しかし、主は何事をするにもまずご自分の友にそのことを話したいと思われるので、そうされるのです。神との友情—これこそ預言のミニストリーの基本的な本質です。預言者とは神と非常に親しくなった人たちのことで、神はそれらの人に話さないでは何事もしたくないのです。

 

「預言者になるためには神からの召しが必要なのか、それとも自分からそれを求めてもいいのか」という疑問を多くの人がもっています。どちらも真実です。生まれる前から預言者となる召しを受けている人たちもいて、彼らはそれ以外のことは出来ません。又、聖書は私たちが預言を求めることを勧めています。私たちに達成不可能なことを勧められる神ではありません。預言的になることの真の本質は神との友情ですから、神はすべての民がそれを求めることを願っておられます。モーセが「主の民がみな、預言者となればよいのに。(民数記11:29)」と言った理由はそこにあります。

 

預言者は神の御座の傍近くにいますから、神が何をしておられるかが分かります。御座で起こっていることを見たり聞いたりするからです。よく聞く言葉に「私たちは賜物ではなくそれを下さる方を求めるべきだ」というのがあります。これはあたかも気高く知恵のある言葉のように聞こえますが、聖書で言っていることとは違います。このように聖書の真理から外れた軽薄な言葉に耳を傾けるのは成熟した者のすることではありません。第一コリント14:1には「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。御霊の賜物を追い求めることは、即ち主を追い求める道なのです。御父は霊と真をもって礼拝する者を求めておられますが、御霊の賜物は私たちがそのような者となるための道です。

 

勿論、私たちは賜物を下さるお方を第一に追い求めますが、それが御霊の賜物を追い求めることを排除するわけではありません。御霊の賜物は普通私たちが考えるプレゼント、贈り物というようなものではありません。「御霊の道具」と訳したほうがいいかもしれません。御霊の賜物は、何かのご褒美とか、祝福として与えられるのではなく、私たちが主の業をすることができるように(そのための必要な道具として)与えられるものです。主の業とは礼拝です。私たちが主を愛する故にする奉仕の務めです。

 

真の預言的人物でも間違いを犯すか? もし私が間違ったらどうなるのか?

預言者の基本的な務めは神のために語ることです。ある状況の中で神が語りたいことを代弁するのです。それには究極の信頼関係が必要ですから、未熟な者とか軽卒な者には主はこの務めを与えられません。王からの言葉に自分自身の意見を付け加えようとする者を代弁者とする王がいるでしょうか? ですから、 誰でも預言に用いられることは可能ですが、そのためには十分な成熟さ、誠実さ、預言者の任務を受けるに足る主からの信頼が必要なのです。自分が考えていることは神が考えておられることと同じであるとか、自分が感じていることは神が感じておられることだというように、自分はすべての事に関して神のお考えを握っていると思うのは危険な罠です。このような考えは、自分自身の魂からの言葉を預言するという間違いに人を陥らせます。

 

それは使徒ペテロが「イエスはキリストである」という最高の啓示を受けた直後に起こったことです。イエスはペテロが御父からこの啓示を受けたことを称えられました。そしてこの岩の上にー即ち、御父からの啓示の上にー主の教会を立てると言われました。そして天国の鍵を与えてペテロを祝福されました。しかし、まさにその直後、ペテロの口から出た言葉は地獄からのものであり、イエスは「下がれ、サタン!」と彼を叱責せねばなりませんでした。(マタイ16:23参照)

 

このことから私たちは、天から直接聞いたとしても、その直後にサタンから聞いてしまうことが容易に起こりえることを見ることができます。これはペテロの未熟さから起こったことですが、預言の賜物を受けた者たちのほとんど全員が未熟さのゆえに経験することなのです。もしこのことでがっかりしたり、間違いを犯すのを恐れるのならば、あなたは預言者にはなれないでしょう。しかし、もし自分の間違いから学ぶならば、あなたは神の声と自分の魂の声、もしくはサタンの声とを見分けることを会得していくでしょう。もしあなたが間違いを恐れるならば、あなたは学ぶことが絶対できないでしょう。

 

ペテロは新約聖書に書かれている大きな失敗を幾つかしてしまいましたが、それと共に最も偉大な業のためにも用いられました。イエスが天国の鍵を与えられたのはそれ故です。ペテロはその鍵を使うことを恐れなかったのです。そして水の上を歩いたり、死人をよみがえらせたり、彼の影にふれるだけで癒されるような力を持ったばかりか、ユダヤ人と異邦人の両者のための信仰の扉を開いたのでした。

 

多くの人は、 間違いを避けるために神の御声を正しく知る処方箋が欲しいと願っています。しかし私が知る唯一の処方箋は、キリストにあって成熟するということだけです。人々の頭に手をおいて、たちまち彼等を成熟させるという賜物を私が持っていたらどんなにかいいでしょう。しかしそのような賜物があるとは聖書に書いてありません。成熟するためには経験が必要なのです。また、往々にして間違いを犯すことによって人はより早く学ぶことも本当です。ですから早く成長したいならば、自分の失敗を学ぶ機会として喜んで受けとめねばなりません。これは間違いをしたいと望むということでは決してありませんが、失敗を恐れるあまり信仰の一歩を踏み出せないようなことがあってはなりません。もし恐れるならば、私たちは一生何もしないでしょうし、賜物において成長することもないでしょう。

 

「新約の真の預言の賜物を持つ」と私が思う人の中で、預言者として成熟する過程で大きな間違いをしなかった人物を私は一人として知りません。一旦預言者として任命を受けたならば、もはや大きな間違いは犯すべきではありませんが、預言の召しを受けるのと預言のミニストリーの任命を受けるのとは違います。パウロがアンテオケで使徒の任命を受けたのは彼が使徒として召しを受けた何年も後のことでした。

 

あなたは預言者としての召しを受けた時に預言者になるのではなく、任命を受けたとき預言者となるのです。私たちは「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものと」しなければなりません。(第二ペテロ1:10参照)即ち、自分の召しに成熟することを追い求め、ついに 私たちを任命する時が到来したと神が思われるようにしなければならないのです。もしあなたが自分は任命を受けたかどうか定かでないと思われるならば、それはまだなのです。本当に任命されたならば、疑う余地などないほど明確に分かります。それまでは、自分の翼をためす機会を喜び、謙虚に間違いを受けとめ、そこから学んでください。(終り)


19 02月

近況報告です  坂 達也  2月20日


 

イエスは言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15章)

これで思い出すのは、イエスが病人をみな治し、悪霊を追い出すのを見て多くの群集が彼の後をついて来る中で、一人の律法学者が「先生あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」と言ったのに対し、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と答えられました。(マタイ8章)

 

私たちは目ざましい証には関心がありその後をぞろぞろついて廻る傾向があります。しかし、イエスが本当に求めている人は、少し距離を置いて野次馬的に「後をぞろぞろついて廻る群集」ではなく(それではいつまでたっても他人でしかない)、本当にイエスの中に入り、イエスにいつも滞在して欲しい、イエスと枕を並べ、お互いに心を開いて一夜をあかす人ではないかと思いました。

イエスに気軽に声をかければ、いつでも現れて語ってくださる、そんな気安く親しい間柄になることであると思います。

 

2011年に入り、今、多くの人が「主からみことばをもらう必要性」を語っています。いよいよ時が迫ってきているのですね。本当に今年、来年は何が起こるか分からない、思いもつかないことが今既に連続して起こっています。自分の考えとか思いでは、もはや全く、やって行けなくなって来ていると思います。

 

私は今本を書いておりますが、年のせいで頭の回転が衰えてきており、聖霊の油をそそいでいただかないと何も書けません。本当にそうであることを日に日に切実に感じております。しかし、これはとてもよいことのようです。「次に何を書きましょうか」といちいち聞き、与えられると書きます。静かに黙って主の前で待つか、異言で30分から1時間祈ります。そうすると大概はいただけます。又、今日はリラックスして休みなさいと言われることもあります。

 

主は必ずしも毎日語って下さらない方であることが分かって来ました。臨在も何も全く感じないのです。行きつけの店に行ってみると、「本日休業」の看板がぶら下がっていてびっくり、がっかりする、あの感じです。

しかし、時に何時間も、あるいは一日ふつか、何も与えられないことがありますが、そういう時は逆にうんと祈らなければならないようです。そのような祈りの後で大きなテーマの変換とか、「めざましいこと」をおっしゃられることが多いので、期待がふくらみます。何事をするにも祈りは絶対に必要であることをひしひしと感じます。

 

このところ、二度三度、私の思い上がり、いかに私が御言葉の意味を分かっていないか、クリスチャン生活を何年も続けてきて、自分がこんなに焦点がずれているout of focusかを思い知らされました。本当にショックでした。へりくだらされ続けています。ぎゃふんとなり、あるいは感激して一瞬泣きました。

 

それと、この頃非常に面白くなって来たと思うのですが、主に質問したり祈れば必ず答えて下さることです。この一、二年特に昨年初めぐらいから「お祈りは聞かれる」という思いが強くしております。皆さんもそう言う思いを持たれていると信じますが、いかがですか。

 

イエスがどれ程の祈りの人であったかをつくづく思い知らされ、自分はもっと祈らねばならないことをひしひしと感じる昨今です。(終わり)


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