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Walk With God Ministries

14 05月

清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目) フランシス・フランジペン    5月15日


清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目)

 

フランシス・フランジペン

 

霊的なものを感知するには、心の清さpurityが基礎、土台となります。人生の中で何を見るか、又それをどのように見るかを決定するものは、私たちが内で何を思考しているかという内部思考に根ざしているのです。もし私たちが神の御国に関する オープン・ヴィジョン(霊的な目で見るヴィジョン)を鮮明に見たいのならば、清い心を持つ事が第一の 条件となります。 

 

神の御座で 啓示を受ける

 

黙示録には驚くべきことが書かれています。「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(黙示録4:6、8)」 ここでこれらの生き物に関してあれこれ推測するのが今の私たちの目的ではありません。私たちの目標は、神を意識しながら神の御前で生きることによって得られる清い心を持つことです。私たちは神の御座で起こっている事柄を(霊の目で見える)オープン・ヴィジョンを求めているのです。

 

これらの「生き物」は多くのことを表していると思いますが、一つのことは確かだと思います。即ち、 ヨハネは、からだが目で満ちている六つの翼を持つ、気味の悪い生き物を見ているのではないということです。ヨハネが見たのは深い真理を象徴している姿でした。多くの「目」とは、(霊の領域に)開かれていてすべてを包括的に見るヴィジョン(目)を表し、それは神の御前にいることによって可能になります。

 

このことを知ってください。主がおられるところには主の御座もあるのです。もしあなたが主と出会ったことがあるならば、それはあなたの霊が主の御座にいるからです。あなたが霊的に生まれ変わったとき、あなたは上から生まれたのです。(ヨハネ3:3)今のこの時も、 あなたの霊は聖霊を通して、キリスト・イエスとともに天のところにすわっているのです。(エペソ2:6 )主の臨在があるところにはオープン・ヴィジョン(霊の目で見るヴィジョン)もあるのです。

 

これらの「生き物」は、人が神の臨在の中で生きるときに発見する生き方のシンボルです。主にあって私たちの目は考えることができるのです。それらの目は、 識別と理解をもち合わせてものを見ることができます。キリストの思いが私たちの視覚(ヴィジョン)と一つに融合して、私たちの狭い認知力によっては見ることが不可能なものを、「前と後ろを同時に見るように」はっきり顕してくれるのです。私たちのヴィジョンはまた「御座の中央」からも来ます。私たちは離れたところにある霊的真理を見るだけではなく、神ご自身の深みまで及び、探ることができるほどお傍近くに居るのです。(第一コリント2:10)

 

しかし、それと同時に神のおそば近くに居ることは、私たちに「内側の目」、即ち自分の行動の動機を監視する目、罪から自分を護衛する内なる目、を与えます。私たちの霊の目で見るヴィジョンが開けば開くほど、私たちに神の聖さがますます見えるようになります。そして、私たちの人生のほんの小さな罪が重大な罪に見えてきます。主の御前に居ると、私たちは清く生きるようにと迫られるのです。

 

神の御座の前で「生き物」は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者(黙示録4:8)」と絶え間なく叫んでいます。昼も夜も神は聖であられます。私たちの霊の目が開かれるとき、私たちの口からは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という言葉だけが出てきます。

 

まことのイスラエル人は霊で見ることができる

 

イエスはナタナエルのことを「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。(ヨハネ1:47)」と言われました。イエスがこのように感嘆したこの若い弟子はどのような人物だったのでしょうか? この若者の心の中には狡猾さや偽りがなかったのです。私たちもこのような清さを持ちたいものです!ナタナエルは「内側の目」を持っていました。彼は自己欺瞞に陥らないように自分を護っていました。私たちは内なる真理をしっかり握っていれば、外にある真理を認知することができます。ですから、ナタナエルはイエスを見てこう宣言しました。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。(49節)」

 

イエスはナタナエルに言いました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(50—51節)」ナタナエルが清くまっすぐな心を持っていたので、必ずオープン・ヴィジョン(霊の世界を見る目)が 与えられることを、主は知っておられたのです。オープン・ヴィジョンは清い心の当然の結果です。罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たち、あなたがたの努力は神を見るための準備です。あなたがたは天が開くのを見るでしょう。

 

私たちは自分の心が鈍っているので、今の世が霊的に盲目であることを、残念だけれど仕方がないこととして受け取ってしまっています。しかし本当はそうではないのです。旧約の中での罪に対する神の裁きの一つは、天が「青銅」になることでした(申命記28:23)。ほとんどのクリスチャンは、このように天は閉ざされているものと考えています。オープン・ヴィジョン(霊に開かれた目)で天の領域で起こっていることを見たり、自分の心の中を見たりする人はほとんどありません。かたくなな心にとって、天はいつも「青銅」です。しかし、主は「あなたがたは天が開けるのをみて、神の御使いを見るであろう」と約束されたのです!

 

神は私たちが真の霊的ヴィジョンを持つことを望んでおられます。聖霊が教会の中で生き生きと働いておられる一つのしるしは「青年は幻を見、老人は夢を見る(使徒行伝2:17)」ことです。天にある神の御国とこの地の御国とは繋がっているのです。

 

「超自然的なことは一世紀にだけ起こったことであり、現在は『見るところによってではなく、信仰によって歩む(第二コリント5:7)』べきである。」と考える人たちもいます。確かに次の一歩で何が起こるのかがわからない時でも、信仰によってその一歩を 踏む出すことが私たちにはしばしばあります。しかし私たちは内におられる主(の御心)を感知しているのです! それは盲目的信頼ではありません。すでに(過去の経験からはっきり分かる)証明済みの確信と、状況を霊の目で見ることによる信頼です!信仰によって歩むことと霊的なヴィジョンを見ることは、どちらか一つだけしか選べないものではありません。パウロは「信仰によって歩む」と述べているほんの少し前に、「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く(永遠な)ものだからです。(同4:18)」とも言っています。パウロは霊的な領域の啓示を受けていました。彼は天で彼のために用意されていて彼がやがて来るのを待っている、永遠に生きる霊の身体を見ていました(同5:1、4)。彼は「この人が、、、、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(同12:3−4)」と言っています。

 

パウロの霊的感知についてあれこれ考えるのもいいですが、彼が新約聖書の三分の一をキリストのオープン・ヴィジョンによって(キリストを霊の目で見つめながら)書いたことは事実なのです。彼はどのようにそれらのことを見たのでしょうか? 彼は「顔のおおいを取りのけられて鏡のように主の栄光を反映させながら、、、(同3:18)」と言ったすぐ後で、「恥ずべき隠された事を捨て(同4:2)」と言っています。そして少し後に「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。(同7:1)」と続けています。彼の清められた心、完成された聖さから、神の栄光を見る目のオープン・ヴィジョンが与えられたのです。

 

忘れないでください。私たちは「体験」を追い求めているのではなく、清い心を追い求めているのです。ヴィジョンを追いかけているのではありません。聖さを求めているのです。初代教会においては、霊的領域の出来事は当然起こるべき現象として考えられていたと同じように、彼らの心の清さは当然そうあるべきこととして考えられていました。ですからヴィジョンを追い求めるような愚かな人たちのようにはならないでください。あなたは清められること、聖化を求めるべきであり、あなたの準備が整ったときに、それが神の御心ならば、主は超自然的な方法であなたに語られるでしょう(使徒行伝2:17−18)。イエスとの「霊的体験」をどうにかして持とうとしないでください。清い心を持つことを求め、キリストが毎日あなたを吟味し調べ、汚れを取り去ってくださるように願ってください。主が御ことばをもってあなたを洗い、主の聖さによって懲戒されるとき、主はあなたを御臨在へと引き寄せてくださるでしょう。主はあなたの目を「外のものへも、内のものへも」(霊的に見えるように)開いてくださるでしょう。(終わり)


07 05月

「妨害行為」を克服する主との出会い テレサ・フィリップス 5月8日


 

「妨害行為」を克服する主との出会い

 

テレサ・フィリップス

 

私は窓のそばで暖かい日差しを浴びながら本を読んでいたのですが、その時「SABOTAGE・ 妨害」という言葉をはっきりと聞きました。私はほんの少しの間動揺しましたが、直ぐに生ける神の御霊が私を大きな平安で包むのを感じました。私は両手を挙げて主を賛美し始めました。私の心は平安で、主が 統べ治め愛しておられる感謝で一杯でした。

しかし、この「SABOTAGE・妨害」という言葉は何なのでしょうか。辞書には「誰かの努力とか達成を破壊したり妨害したりする行為」とあります。

 

その時、私は涙を流して苦しみ始めました。 何が起こっているのかが私に分かったからです。主の敵が何かをまさにしようとしていたのです。すると又、私は静けさに包まれるのを感じ、もう一度手を挙げてイエスがなされたすべての業を祝福したいという思いにかられました。その時点では、間もなく預言的なメッセージが私に与えられようしていることを全く知りませんでした。1、2日経ったときのことですが、親しい友人と話していた時、私は突然幻の中に引き入れられました。その幻で見たことをお話ししたいと思います。それは強烈でとても力のある幻でした!

 

「食卓に着きなさい!あなたの神と交わりなさい!」

 

幻の中で一本のろうそく立が見え、主が「これはあなたのミニストリーです」と言われるのが聞こえました。するともう一本、また一本と次々にろうそく立が見えました。そしてこれら一本一本の美しい銀のろうそく立が集まってきて華麗な形をした多灯架燭台になりました。目の前には磨き込まれた食卓がありました。その長い食卓は美しく飾られていました。私は燭台が食卓の一番先に動いて行くのを見ました。また、突然沢山のろうそく立が集まってきて、それが集まっていくつかの華麗な燭台となり、ピカピカに磨きこまれた食卓の上に置かれました。一つ一つの燭台は食卓の上をすべるように動いていました。それは私に黙示録に書かれているガラスの海を思い起こさせました。その瞬間、これは地上のことではないことが分かりました。天で起こっていることに違いありません。「食卓に着きなさい!あなたの神と交わりなさい。」という情熱のこもった声が響き渡るのを私は聞きました。 その言葉を発した天の生き物はすぐにいなくなりました。

 

私が入口に立って食卓を見ていると、「愛する者よ、入りなさい。」という声が聞こえました。私は中に入りましたが、そこで私が見たり聞いたりした事は全く驚くべきことでした。多くの人々が食卓に着いているのが見えてきました。有名な人たちや、少しだけ知られている人たち、そして全く無名の人たちが集まっていましたが、この食卓ではすべての人が平等でした。

 

再び「SABOTAGE・妨害」という言葉を私は聞きました。私はじっと静かに立っていましたが、その時、白と紫の衣に腰に紫の帯をし、頭には精巧に造られた金の冠を冠っている主が入って来られました。 数人のよろい持ちの天使が主に従っていましたが、各自「PRAISE・賛美 」と書かれている盾を持っていました。(これを書いている今も私にはその様子が見えています)

 

全会衆はじっと静かにしていました。主はほんの短く次にように話されただけでした。「わたしはあなたがたに新しい戦略を与えます。あなたがたの間に起こっている妨害をあなたがたが止めるのをわたしは助けます。あなたがたは攻撃されて苦しんできました。」

エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。—それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

「そうです。あなたがたは互いに助け合い、今までなかったほどに一致を表さねばなりません。わたしはあなたがたが兄弟姉妹との間に平和をつくるようにお願いしています。彼らのことをあれこれと中傷することを止めなさい。彼らはわたしの子供たちなのです。わたしはあなたがたすべてをこの食卓に着いてわたしと共に食事をするように招いたのです。」

 

妨害という敵の攻撃に打ち勝つ戦略

 

突然、ありとあらゆる種類の食べ物が食卓の上に現れました。しかし誰も食べようとしませんでした。すべての人が主をじっと見つめていました。主は一人ひとりの目を慕わしそうに見ておられました。気がつくと私も食卓に着いていましたが、私は食卓の下に隠れたいような気持ちでした。考えようとする前に、私は過去、現在、未来で主の食卓に招かれるべき人はどのような人なのかを思い出し始めました。

 

「私がこれ までに口から出した 、牧師や教会、あるいは自分の国に対する批判の言葉をお赦し下さい」と私は静かに心の中で祈り始めました。これを書いている今でも涙が頬を流れます。「天におられる私たちのお父様、どうか私を赦してください。」

 

食卓に着いていた人たちがみんな同じことをしているのに私は気がつきました。私たちは全員で共にする悔い改めのために呼び集められ、それを天が記録していたのでした。すると主が再び語られました。「出て行きなさい。そしてすべての人を弟子としなさい。出て行って一致をもって生きなさい。出て行って信仰組織からのけ者にされている人の友となり、今度訪ねるときには家に招きなさい。」

私の目は愛と共に恥ずかしさの涙で一杯になりました。主が妨害という攻撃に打ち勝つ重要な戦略を始められたことを私は知りました。

 

愛の祈り

 

私は次のように祈ります。

 

1.愛は多くの罪をおおう(第一ペテロ4:8)

イエス様、あなたのように愛せるように私を助けてください。

 

2.指導者を敬う

第一テモテ5:17「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」

イエス様、尊う心を表せるように助けてください。

 

3.与える

ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人人は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

イエス様、これまで以上に与える者としてください!

 

4.神の家族を回復させる

ガラテヤ6:1「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」

イエス様、私が兄弟姉妹を愛し、愛と尊敬をもって回復させ、彼らが人生のデスティニーを成就できるように私を助けてください。それによって「この地で人々が救われ、主に仕える用意ができるように」というあなたのヴィジョンが完成されますように。

 

私たちは一致によって勝利する

私は砕かれて祈り、そして勝利して立ち上がりました。私は盾をもう一度見てみました。そこには「賛美」と書かれていました。私の信仰が涌き上がりました。私は心に新たな勝利を感じてイエスを賛美し始めました。

 

これらの盾を見ていると、食卓の上に何もないことに気がつきました。誰も食物を口にしたものはいませんでした。私たちは主の慈しみを味わい変えられていたのです—永遠に変えられたのです。イエスはあがないの時を今一度私たちに見せてくださいました。そしてあがないはすべての人のためなのです!

 

これを読んでおられる皆様、どうか私と共にみんなで主イエスと一つとなって立とうではありませんか。平和を作り出す天の軍隊に入り、私たちを愛してくださる主を賛美しようではありませんか。この地で肩と肩を組んで、私たちが天の我らの神に従い仕える用意ができていることをこの世に示そうではありませんか。教会に行っていないクリスチャンや救われていない人を混乱させる様々な意見の相違は横に置きましょう。

 

私たちは天にのぼり、祈りにより神の食卓に着いて主と交わり、聖なる巻物から天の新しい知恵、洞察を頂かねばなりません。私は永遠に変えられました。あなたもそうなることを祈ります。(終わり)


23 04月

預言の言葉の適応  リック・ジョイナー   4月24日2011年


預言の言葉の適応

 

リック・ジョイナー

 

神からの啓示、あるいはヴィジテイション(主や天使の訪れ)等の超自然的な方法である場所に引っ越すように指示されたので 、又同じような超自然的啓示を受けるまではそこを去ることを拒む人たちを、私は知っています。このような人の中には、 留まるべき期間がずいぶん過ぎていることが明白な人たちもいたのですが、彼らは「もう一度超自然的な啓示をもらうまでここに留まる」と言い張りました。ある地に行くように啓示を受けたならば、そこを去るにはまた同じような啓示を受けなければならないと、どこに書いてあるのでしょうか?

 

聖書には、そして私の経験や親しい人たちの経験からしても、主は私たちを導かれるために多くの異なった方法を用いられます。主が過去に私たちを導いてくださったのと同じ方法で将来も導いてくださるであろうと思うのは、間違いかもしれないのです。この「法則」によって生きると決めてしまった人たちは、 主が今までとは違う方法で 語られたり、私たちが十分成熟して自分で何をすればよいのかわかるだろうと主が期待される故に何も語られない場合は、 主の御心を知ることができないことが往々にして起きてしまいます。

 

次の法則 principle を考慮に入れるべきです。 私たちが信仰と知恵において成長して、すべてのことに預言的啓示を必要としないことを主は通常、望んでおられるのです。どこかある場所に引っ越すようにと私たちに告げるために主が天使を遣わさねばならないとしたら、その引っ越しが重要であるのではなく、私たちの霊の耳がよく聞こえないということであるのかもしれないのです。その場所での私たちの務めが終ったときにそこから移るようにと、又もや主が天使を遣わすことを必要だとすれば、それは私たちが未だによく聞けないからであるかもしれません。

 

幼な子は絶えず指図されねば何もできません。大人になっても細かいことまで指図されねばならないとしたら、その人はまだ未熟なのです。もう一度言いますが、私たちが「ハイレベル」の啓示と呼ぶものは、必ずしもそれを受けた私たちが重要であるかとか、その任務がどれほど重要かとは関係なく、私たちが未熟で聞くことに疎いからかもしれないのです。

 

またこれも常にそうであるとは限りません。しかし、時には物事の重要性の故にそれがハイレベルの啓示で示されることがあります。つまり私が言わんとすることは、物事をパターン化したりそれが法則であると思い込む危険なあやまちから自分を守らねばならないということです。そうしないと将来私たちはつまずくことになるでしょう。 私は、その人が受けた啓示を自分自身で解釈する預言者はあまり信用しない方がよいことを今までの経験から学んできました。しかし、これを私の法則とした途端に、啓示を受けた本人が大変正しく解釈する預言者があらわれて、この法則は破られることになるでしょう。私は確かに法則を用いはしますが、それに強く固執することなく、常に新しいことにオープンであるように努めています。このバランスをとるのは難しいですが、 それ故に私たちは 主を絶えず求めるようにされますし、それこそ最も重要なことかもしれません。

 

ポリティカリィー・コレクトネス(その時の政治風潮的に見て正しいこと、その時の世間で受け入れられる正しさ)は、西洋文化の敵が、西洋に対して非常に効果的に用いていると豪語している一番大きな 欺きの覆い(ヴェール)です。しかしそれと同時に非常に大きな欺きであるのは、物事をステレオタイプ化したり、十ぱひとからげで総括的に見てしまうことです。もし私たちが主に従うならば、すべての雪の結晶 や、すべての人間を一つ一つ異なるものとして造られ、御こころを多くの異なった方法で 伝えることを好まれる神の基本的な御性質をしっかりと把握する必要があります。私たちの神は多様性を好まれます。もし私たちが主に従うならば、なにをさておきユニーク性に対しての備えがなくてはならず、私たちが人間的に案出した法則、方法、型は危険であり要注意なのです。

 

魔術とは、基本的にいえば偽りの霊の権威を用いることです。魔術や魔法は、主に従うのではなく、聖霊以外の 諸霊を用いて人を操りコントロールすることを土台としています。これはガラテヤ5章で肉の働きの一つとして挙げられていますが、その理由は初期の段階では霊というよりは肉のものとしての性質を強く持つからです。多くのクリスチャンはこのような方法を用いるという誤りに陥り、自分たちで勝手に神の目的であると思う事柄を達成するために魔術を用いてしまうのです。これに関してはまた詳しく話したいと思いますが、ある一つの型とか方式、法則を用いるのは、魔術の根本であることをよく考えねばなりません。 聖霊による私たちの歩みは、聖霊というお方に従うことが土台であり、方式に従うのではないのです。

 

もし私たちが賢明であるならば、「主は以前このようにして下さったから、この様に語られたから、次も同じようにされるだろう」と思いこむことを警戒するはずです。 私はむしろ「主は朝ごとに新しい」(哀歌3:23参照)ことをしっかり理解し悟るほうがどれほど良いかと 思います。これは主が変る方であるというのではなく、主は限りのない方であり、私たちの狭い考えに主を閉じ込めることはできないということです。 私たちが自分の型にあまりにも固まってしまうと、人との関係は退屈で面白みのないものになってしまいます。私たちの神はものすごくすばらしい方なので、主のお傍近くにいれば決して退屈などしないのです!(終り)


20 04月

東北大震災への思い   坂 達也・柚実子   2011年 4月21日


東北大震災への思い

坂 達也・柚実子

 

私たちは外国に住む者として、被災地の深刻な状況が刻々と報じられるにつれ、祈ること以外には何も出来ないことに不甲斐なさと焦りを感じて参りました。

 

そうした折に、先日突然でしたが、私たちの住むハワイに福島から15名の方が一時避難して来られました。牧師ご家族を含めて4家族、大人8名と子ども7名(12歳から4ヶ月の幼児まで)です。その方たちから現地の様子、特に原発による放射能被爆の問題の深刻さを詳しく聞くことができたことも幸いでしたが、それにも増して、僅か11日間の滞在でしたが、こちらで被災者の皆さんに多少のお世話が出来ましたことを主に心から感謝している次第です。

 

福島の放射線被爆はこれからもっと深刻になる長期戦が予想されていますが、それと同時に、最も大きな地震と津波の直撃を受けた宮城県の海岸部での被害と被災者への対応も急務のようです。

 

実は、このような状況下、ハワイにおります私たちの娘が、今回日本の被災地に働きに参ることになりました。娘は、たまたま今まで働いて来た会社を奇しくも3月11日で退職することになっておりましたが、これは主のタイミングと導きであることを強く示され、この5月中旬から仙台の近くにある日本バプテスト利府キリスト教会(松田牧人牧師)が経営する森郷キャンプ場内の CRUSHJAPAN と言うミニストリーに参加することとなりました。

 

この団体は海外からの被災地応援物資と共に外国人ボランティヤーが今大勢来ており、その物流と人流の配送と割り振りのアレンジをしているそうです。その仕事のために少し長期に滞在出来るバイリンガルの働き手を求めていることが分かり、娘はこれに応募した次第です。

この宮城県利府町は釜石の近くにあって最も被害を受けた地区の一つです。

 

就きましては、未だ娘が着任する前ですが、松田牧師より下記の物資が目下必要であるとのことで、具体的なリストを送ってこられましたので、もしご支援いただける方がおられましたら、少しでも結構ですので、品物を宅急便等でお送りいただければ幸いと思いご一報申し上げます。どうぞよろしくお願い致します。

 

1)今、特に現地一帯で不足しているのは乾電池で、どのタイプも必要ですが、特に単1、単2のタイプが手に入りにくいそうです。

2)その他の支援物資として、バケツ、モップ、デッキブラシ、雑巾、長靴、ゴム手袋、箱ティッシュ、下着(男性用、女性用)、バスタオル、水 等をお願いできればとのことです。

 

送り先は 宮城県宮城郡利府町森郷字惣ノ関北56−2 森郷キャンプ場気付

CRASHJAPAN  坂 亜里子 宛

 

私たち夫婦も出来るだけ早い機会に現地を訪ねるつもりです。このミニストリーのためにどうぞよろしくお祈り下さい。尚、ご質問があれば、私たちの方にメールでお問い合わせ下さい。

坂 達也・柚実子


15 04月

リック・ジョイナー「世界が変わった日」への追記


一昨日リック・ジョイナー師の「世界が変わった日」の訳文を掲載しましたが、その翌日、彼は再び日本の地震の預言に触れています。それによれば、ボブ・ジョーンズ師と共にジム・ベーカー師も、これから東京にもう一つ大きな地震が確実に起こることを預言しているそうです。

東京に大きな地震が来ることは、このところ多くの地震専門家も警告しておりますが、この預言を念のため追記致します。坂 達也


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