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Walk With God Ministries

04 07月

神と共に歩む フランシス・フランジペン 7月5日


 

 

神と共に歩む

 

フランシス・フランジペン

これからの時代には 、不気味な出来事がある特定の日に起こる(あるいは成就する)という宣告(真偽ともに)を聞く度に、多くの人々の心は動揺するでしょう。しかしながら、今私たちはそれが起こる「ある特定の日」のためではなく、「婚礼」のために整えられているのです。日々のキリストとの関係の深さが終末における私たちの神との歩みを決定します。

 

明日を迎えるための私たちの確信は、今日どのように神と歩むかに根ざしています。そしてその日々の中で、「私たちが神と共に歩むべき狭い道」とは実際にどういうものであるかが明らかにされていきます。それは議論の余地のない真理です。即ち「イエスの再臨に備える唯一の道」は、主が最初に来られたとき命じられたことに忠実に従うことであり、主が命じられたこととは「わたしに従ってきなさい。(ヨハネ1:43)」ということです。

 

イエスに「従って行く」とは、生きる限り忠実に主と歩むということに他なりません。私たちは主が来られるのが近いことを期待しますが、本当のところいつ戻られるかはわかりません。私は終末は非常に近いと信じますが、それでも預言された出来事がみな成就されるには何年もかかるかもしれません。いずれにせよ、「子羊なるイエスに従っていくこと」、「主と共に毎日歩むこと」が私たちの召しなのです。

聖書を学ぶと、初めから 主は、御臨在の中を主と共に歩んだ人々のために常に必要を満たしてくださいました。この世でどんな事が起こっても、神のしもべたちはその時代に満ちていた恐れや憂慮の虜になることはありませんでした。神と共に歩むことによって、彼らはすべての事に対処する備えが出来ていたのです。

 

イエスが戻られる時は、丁度ノアの時代のようであると主は言われました。ノアの人生を今一度見てみましょう。神は洪水がいつ起こるかという定められた日にちをノアに与えられませんでした。主がノアに与えられたのは二つのことでした。即ち、箱舟を造るという仕事と、仕事を成し遂げるための時間です。

 

万能の神は一瞬に悪を滅ぼすこともお出来になりました。しかし、聖書によれば 「箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた(第一ペテロ3:20)」のです。神が 第一に焦点を当てられていたのは、滅ぼされるべきものではなく、建て上げられつつあったものでした。

 

私たちの多くはサタンがしていることに焦点を当ててしまい、神がされていることが見えないことがあります。主の焦点は、悪の暗黒がどれほど深くなったかということにではなく、教会がどれほどキリストに似る者となったかに当てられているのです!神の御こころから流れ出ている恵みがあるのです。 大きな暗闇が覆うとき、主はご自分が栄光をお受けになることと主の民を守ることを決意されているのです。

 

神はノアに箱舟を造るように言われました。その仕事が完成したときに洪水が来ました。私たちにも仕事があります。それは神のヴィジョンであり、「主の家を建てて国々の魂の収穫に参与する」という仕事です。イエスは「悪が増大するとき、収穫が始まる」とは言われませんでした。主は「実が熟すると、、、収穫の時が来たからです。(マルコ4:29)」と言われました。

 

神の最高の御計画が悪の増大によって変更になることは決してありません。「『神の義』は悪が滅ぼされることを要求する」という人があるかもしれません。確かにそうです。しかし、「神のご性質」が 主の栄光が教会に満ちあふれるというすばらしい計画と約束がまず成就されることを要求されるのです。

ノアをもう一度見てください。「その心が計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」という時代にノアは生きていました。ノアの世界は(今の私たちの世界と同じように)「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐に満ちていた。(創世記6:5、11)」のです。

 

しかし、それと同じ時代に「ノアは主の心にかなっていた(創世記6:8)」のです。ノアのどこが違っていたのでしょうか? 神の守りの恵みをノアはどのようにして受けることができたのでしょうか?聖書には「ノアは正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と書かれています。

私は「ノアは神とともに歩んだ。」という箇所が大好きです。神と共に歩むとはどういうことでしょうか?それは私たちが御ことばに従い続け、主の臨在を尊重することです。私たちは神を見ることは出来ませんが、神を知っています。私たちは万能なる神のうちに安全な場所を見つけたのです。私たちの平安は主から来るのであって、人々とか場所や物とかによるものではありません。

 

ノアという名前は「安息、休息」という意味です。主のしもべとして、ノアは自分の人生の任務、使命を知っていたばかりではなく、神にのみ安息する場所を見つけていました。一歩一歩、一日一日、ノアは主の臨在の中に生きたのです。ノアは神と共に歩み、主と親密な関係を持っていました。

 

誰かと親密な関係になるのは一朝一夕にできることではありません。未知というベールを貫いて変らぬ友情と親密さに到達するには時間がかかります。神と共に歩むことが、どうして主を非常に喜ばせることなのかという理由がここにあります。なぜならばそれによって神と人との間に、時を経ても変る事のない関係を築くからです。私たちは最早、回りからの色々な意見、批判、または承認によって 左右されることはありません。神と共に歩くということが達成されるときにのみ、創造主との親密さが真に始まり、将来に対する平安が増し加わるのです。

 

アブラハムのことを見てください。彼は神の友(イザヤ41:8参照)と呼ばれました。彼が99歳のとき、主が現れて「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。(創世記17:1)」と言われました。神とともに歩むことは、人を清くし、神と親しい関係へと導きます。全き者となるための源です。

 

アブラハムの子孫であるイサクとヤコブもまた、神と共に歩みました。(創世記48:15)これら父祖たちの生涯をかけた全能の神との交わりは、後に続く者たちすべて(王、預言者、そして今日神と歩むすべてのクリスチャン)のための手本 となったのです。

 

私自身の経験

 

ある預言的出来事の日にちや、或いは主の再臨の日までも間違って定めてしまう人たちに対して、私たちは厳しく批判するべきではありません。通常、彼らは真摯であるが故に自分の預言をその地方や国で公に告知してしまうのです。私自身も70年代の半ばに同じような経験をしてしまったのです。

 

その頃、核戦争の脅威が世に満ちていました。多くのクリスチャンはアメリカに神の裁きが下ることを予想していました。そのころ、私は巨大な彗星が1975年のクリスマスの日に現れるという記事に遭遇しました。今まで知られていなかったその彗星は、それを発見したハンガリー人の名をとって「Kohoutek」と名付けられました。時のしるしは私の恐れを確かなものとしましたが、その上に宗教の雑誌に「Kohoutek」とは「子羊を喰らうオオカミ」という意味だと書いてあるのを見たときは、これは終末が近いことを確証する「天のしるし」だと確信するに至りました。

 

内なる確信に突き動かされて、私はデトロイトのすべての教会(1200)に、世界はこのクリスマスに終るという警告を発し始めました。デトロイトで一番視聴率の高い朝のトークショウのゲストにまでなり、300万人もの人にむかって神の怒りが間近に迫っていることを警告したのです。

クリスマスが来て去って行きましたが、何事も起こりませんでした。彗星は誇張された天文学的失態でした。自分の洞察に全く確信を持ち、時代のしるしの恐怖に迫られていたので、間違った情報を受け取ってしまったのでした。翌年の一月の終りにハンガリー語の堪能な婦人とたまたま会ったので、私は「Kohoutek」を英訳してくれとみました。それは「トマトをシュチューの中に入れる」というような意味だと思うと彼女は言いました。

 

私の知識は間違っていましたが私の動機は正しいことを、神はご存知でした。このような恥辱的な経験をしたので、私は教会の歴史上の他の「世の終り」のムーブメントについて研究を始めました。その結果、ヨーロッパで起こった2つの重要な事を発見しました。非常に大勢の人たちが1666年に反キリストが現れると信じていました。これは狂信と恐怖の波となり国から国へと広がっていきました。

 

私はブラザー・ローレンスという人の書簡集をその時読んでいました。彼は修道院で皿洗いをしながらキリストに仕えている僧でした。この「The Practice of the Presence of God(日本名 敬虔な生涯)」は、ブラザー・ローレンスが持っていたシンプルでしかも深い神の臨在の故に、キリスト教の古典となっています。しかし、私の人生を変えたのは、彼の最初の手紙がヨーロッパ中が反キリストへの恐怖で覆われていた1666年に書かれていたという事実でした。彼の回りで起きている世界の大混乱の中で、少なくとも一つの魂はイエス・キリストの平安の中に憩っていたのです。

ブラザー・ローレンスは今の私たちの時代のモデルとなってくれます。終末の恐怖と混乱が増し加わるとき、私たちが憩える穏やかな港は主の臨在の中だけだからです。その時に私たちが主を本当に知っているためには、 今主と共に歩まねばなりません。

 

 

エノクは神と共に歩んだ

私の大好きな聖書箇所の一つに創世記5:24「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」があります。ヘブル11:5にはエノクは「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」と書かれています。

 

エノクは300年神と共に歩みました。毎朝エノクは起きると主を求め、万能の神と共に忠実に歩んだのです。そして エノクは神に喜ばれた故に、遂に死を経験しないで、主と共にいるように天に移されました。

私たちも同じです。神と共に忠実に歩むならば、 御父に大いなる喜びをもたらすことができるのです。聖書には、エノクは彼の人生が「神に喜ばれている」ことが「あかしされていた」と書かれています。神はご自分の喜びをエノクに伝えたのです。神の喜びを知ることは天の甘い蜜を味わうことに他なりません。

 

これから何が起ころうとも、「未来の神」は「今日」私たちと共に歩まれています。私たち

は未来や明日を見ることはできないかもしれませんが、先に何が起ころうとも、

私たちが今日キリストに忠実であることが、私たちの最高の保証なのです。

キリストによって挙げられた最初の人として、エノクはイエスがいつかご自分に集められようとしているすべての人たちにとっての手本となりました。彼らはシンプルに情熱をもって神と共に歩むのです。(終わり)

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27 06月

霊的成長 ウエイド・テイラー 2011年6月28日


霊的成長

ウエイド・テイラー 

 「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」マルコ1:16-18

シモンとアンデレに対しイエスは、彼らが容易に理解できる言葉で話されました。イエスは「あなたがたはこれからも漁をします。でもそれは今までより重要な仕事であり、そのためにわたしはあなたがたを召しました。これからは、魚ではなく人間をとる漁師になるのです。」と言われたのです。シモンとアンデレは人生の一つの場所からより高い地点(
イエスに呼ばれて人生の新しい目的を与えられる)へとあげられようとしていたのです。

主は私たちにも 古い欽定訳聖書の言葉ではなく、私たちが日常使っている平易な言葉で 話しかけられるかもしれません。

何年も前のことですが、ある農夫が畑で働いていると大雨が降ってきました。そこで彼は小屋に入って嵐が過ぎるのを待つ事にしました。彼がとうもろこし畑をながめていると、とうもろこしの持つ特徴について考察するようにと主に促され、とうもろこしによって表される霊的メッセージと悟りを与えられました。次に主は
「農場から出て行って、とうもろこしに関して与えられたすべての悟りを人々に教えるように」と彼に告げられたのでした。

とうもろこしは黄金色をしています。黄金は土の器である私たちの中に形造られる「神のご性質」を表しています。


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント5:17

 私たちが罪を告白し、悔い改め、罪を清めるイエスの血潮の力を信じた時に、私たちは義とされます。私たちの救いの非常に重要な部分として「聖霊による新生」があり、それによって私たちは新しい性質を受け取ります。新しい創造となった私たちは、主の聖なるご性質(黄金)にあずかる者とされます。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」第二ペテロ1:4

私たちは 霊的乳飲み子、ベ―ビー、として救いの体験を始めます。そして霊的大人へと成長していくのです。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ2:2

救いは無償の贈り物ですが、霊的成長はみずから勝ち取っていかねばなりません。私たちが受ける「神のご性質」を、肥沃な地に蒔かれた種にイエスは喩えられました。

「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」マタイ13:23

土の器である私たちの中に「神のご性質」という宝が隠されているように、黄金色のとうもろこしの実は殻の中に隠されています。私たちと同じように、とうもろこしも頭に毛があります。とうもろこしにははっきりと等級があります。すべてのとうもろこし(私たち)が同じレベルに成長し成熟するわけではありません。

農夫は 広いとうもろこし畑の片隅の小屋で雨の止むのを待っていましたが、その時に、「クリスチャンの霊的成長はとうもろこしが育つのと同じプロセスを経て、同じような結果を迎える」という真理を主が教えてくださいました。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」マタイ13:3

種を蒔く人は、 蒔いた種が十分に成熟して豊かな実りが得られることを当然期待しています。 土地の状態(私たちの状態)は収穫量と深く関係しています。

ある種は道に落ちて鳥に食べられました。石地に落ちたものは根をはることができませんでした。いばらの中に落ちたものは塞がれてしまいました。しかし良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです。

これと同じように霊的ベイビーの私たちの中に、主は主のご性質を蒔いてくださり、それが完全に成熟するようにと期待されているのです。主はこの喩え話を用いて、私たちの内なる態度と願い(良い地)や、
人生の中に入り込むのを私たちが許してしまう事柄(道ばた、石地、いばら)が霊的成長の度合いに大いに影響を与えることを教えておられます。

もし庭のトマトが初霜の下りる時になってもまだ青かったら、摘んで日の当たる窓際に置けばいいのです。だんだん熟して真っ赤になります。しかし、実が三十倍ついているけれどもまだ熟していないとうもろこしを窓際に置いたとしたら、それはそのまましなびて堅くなってしまいます。それは六十倍や百倍のとうもろこしにはなりません。クリスチャンの人生もそれと同じなのです。

霊的に言えば、私たちはトマトではありません。むしろ、とうもろこしなのです。私たちの霊的成長は、私たちの「根」がまだ今の環境という土の中にある間になされねばなりません。

多くの人が、「私たちは携え挙げられるときに変えられるのだ」という間違った考えを持っています。「キリストにある乳飲み子として地上を離れて行き、成熟した聖人として天国に到着する」というように想像しているのです。しかし、主の取り扱いをうける土壌から私たちの人生が引き抜かれると、それからの成熟は不可能であり、遅すぎるのです。摘まれたとうもろこしのように、それ以上の成長、成熟はおこりません。

私たちが完全に霊的成熟を遂げるための時間は限られているのです。とうもろこしが、その根がまだ土の中にある時にその実を成熟させねばならないように、私たちも地上にいる間に、私たちの内に主が働き、取り扱ってくださるときに私たちが正しく適切に応答することが必要です。

イエスはご自分の道におかれた妨害に打ち勝つことにより、御父と共に御座に着く資格を受けられました。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり」ヘブル5:8-9

それによって、主は私たちに「わたしが苦しみに打ち勝ったと同じように、あなたがたも打ち勝ちなさい。」と言うことがおできになるのです。

イエスがシモンとアンデレに話されたとき、彼らの仕事上の言葉を用いることは、彼らがイエスの言葉を間違って理解してしまう危険性がありました。主は彼らに「人間をとる方法(how
to )を習うために私に従いなさい。」とは言われませんでした。そうではなく、彼らが今より大切な仕事をする資格を得るための教育、訓練というプロセスを受けるように「わたしについて来なさい。Come,
follow me.人間をとる(立派に成熟した)漁師になるようにしてあげよう。I will make you to become
fishers of men(マルコ1:17)」と言われたのです。

イエスは「行きなさい Go」と言われたのでないことに注意してください。そうではなく、主は「来なさい Come」と言われたのです。
「召し」とはまず主のもとに来ることです。
私たちは「その場所(良い土地)」へ「来る(願いと姿勢)」ことが必要であり、そこで、主は私たちの内に変化を起こしてくださり、魚ではなく人間をとるにふさわしい成熟した漁師にしてくださるのです。

道に落ちた種は、主が耕される畝から離れたところに落ちてしまったのです。「良い地」とは神の鋤が土を耕すところです。この鋤は私たちのやり方をひっくり返し、私たちの霊的成長を阻むすべてのものを明るみに出すのです。気をつけていないと、神の鋤が自分の方にやってくるのを見て、私たちはそれを避けて横に逃げてしまいます。

私たちの人生 の畝を「神の鋤」が耕されるときに起こる問題は、それがすべてのことをひっくり返してしまうことです。こうすることによって神は
私たちの奥深いところに潜んでいる内なる問題に触れることできます。そして
私たちの存在そのものの根本から私たちを変えてくださるのです。もし私たちがそれに正しく応えて委ねるならば、
完全に成熟し、三十倍、六十倍、百倍もの豊かな実をもたらすことになるのです。

エペソ2:10に「私たちは神の作品である」と書かれています。私たち自身の
完全に成熟してなった(変えられえた)新たな性質こそ、私たちが蒔かれた良い地から主が収穫したいと願われているものです。

その時人々は私たちの内に 、完全に成熟した主イエス・キリストのご性格と人格の見本(百倍になったとうもろこし)を見るのです。

 八百屋に行ってとうもろこしの殻をはがしてみたときに、まだ熟れていない三十倍の実しかなかったならばがっかりします。私たちは多分、
それをもとに戻して、もっと実が熟したよいものを探すでしょう。

私たちもそれと同じなのです。 私たちが主のより高い目的のために、主と一つとされ、今ある人生の場所から
引き上げられるときには、必ずや主のご性質を百倍表す者となった(主の命が私たちの命に中に、又、私たちの命を通して生きている)と見ていただけるようになろうではありませんか。

その時、私たちは次のステップ(即ち神の千年王国に入り、そこで十分主のために働けるように整えられる)に進む用意ができるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20

イエスが最初に来られたときに、一つ(ずつ)の身体(個人)を通してされたすべてのことを、
再臨のとき、もう一度「キリストの身体」という人間の集合体を通して主はなさるのです。

この農夫のように、自分の仕事から主によって召し出された私たち一人ひとりが、地上という殻をはなれて、どうかイエスの命を見ることが出来るものとなりますように。(終)

21 06月

日々の恩寵  グラハム・クック  2011年6月22日


日々の恩寵


グラハム・クック

 

新しくされた心とは、一日なりとも神からの恩寵を受けないで過ごすことは考えられないと言う心です。

 

御父が私たちをキリストの内に置いてくださったとき、ご自分が(ご自分の一人子)イエスと持っておられるすばらしい関係と同じものを、私たちとも持つことを心に描いておられました。

私たちはキリストの内にあるのですから、主が今御父から受けておられるすべてのFavor(恩寵、 好意、親切、恩恵 }は、私たちも受けることができるのです。

 

私たちが恩顧を受けるのは、自分がどういう者であるからという理由ではなく、イエスというお方の故に頂くのです。主が受ける恩寵は、即ち私たちのものです 。なぜならば私たちも神の相続人であり、キリストとの共同相続人だからです(ローマ8:17)。

 

信者として私たちがとる行動の故ではなく、キリスト・イエスの内に私たちがある故に、私たちは恩寵を受けるのです。

 

恩寵とは、人がある人に対して特別優先的な好意を持つ(関係にいる)ことです。上の者が下の者に対して与える便宜advantageです。

 

恩寵とは意図的に偏り見ることです。誰かを「一番好きだ」と思うことです。

 

私たちは恩寵によって御父から価値あるものとみなされ、承認され、大いに愛されるのです。

 

御父がイエスに与えられたすべてのものは、自動的に私たちとの関係の中にも与えられます。恩寵とはリレーションシップ、交わり、関係です。

 

それは、神との交わりのために私たちが必要とするすべてのものを購うことができる通貨であり、キリストにあって神と共に歩むライフスタイルです。

 

キリストの弟子である私たちは、 恩寵を受ける(関係にある)ことが、キリストにある者にとっての最高のポジションであることを知っています。

 

恩寵は、神が私たちの必要に必ず答えて下さるといる絶対的確信をもって一歩前に踏み出す力を与えてくれます。

 

恩寵は神の私たちに対するお気持ちheartを保証するものです。恩寵は私たちの交わりの中で最も強固な部分です。

 

また、困難な人生経験や状況に立ち向かうとき、キリストにある私たちがどんなにパワフルであるかということを証明するものです。

 

恩寵は私たちを神に対して生き生きとさせ、信仰を強め活性化してくれます。

恩寵は私たちを大胆不敵にし、敵に屈せず、おかれた状況の中で勝利させます。

 

恩寵は私たちを変化に適応させ、私たちがより高いレベルに進級、増加することを可能にします。

 

恩寵の中で私たちは、自分がキリストにあって何者であるかという自覚を強められ、活力を得ます。

 

恩寵は、私たちが人生の旅路を喜びに満ち、確信と明るい希望をもって歩む力を与えます。

 

私たちの上に恩寵がなくなくことは決してありません。恩寵により私たちは神との親密さを深め、より大胆に祈れるようになります。

 

私たちが過ごす毎日が、新しい新鮮な恩寵を私たちに経験させてくれます。まことのキリストの弟子であれば、必ずそのような恩寵に満ちた新鮮な毎日を迎えるのです。(終わり)


16 06月

ジュディス夫人快方に向かう


ジュディス夫人は危機を脱し快方に向かっています。

皆様のお祈りを心から感謝します。ヘンリー・グルーバー師より「皆様のお祈りが聞かれたと信じます、心より感謝します、くれぐれも宜しくお伝え下さい」とのことでした。しかし、未だ血糖値が500とかで非常に高く、夫人のために続けてお祈りいただけますようお願い致します。取り急ぎご報告まで。坂 達也


13 06月

油注ぎを受けて流し出す  マへシュ&ボニー・チャブダ 2011年6月14日


油注ぎを受けて流し出す

 

マへシュ&ボニー・チャブダ

 

私たちが生かされている今、主は 一世紀以来なかったほどの油注ぎを神の民に与えておられます。主は私たちに油を注いでくださるだけではなく、私たちがその油をどのように管理し他の人に分け与えていけばよいのか、又、自分の人生の中の油注ぎを増し加えるためにはどうすればよいのかという事も教えたいと願っておられます。主は私たちに霊的勝利を与えたいと願っておられるのです。私たちは、神があらかじめ定めておられた特別なシーズンに 入っていくことをはっきりと自覚し、そのための準備をしなければなりません。それは非常に重要です。 教会の歴史の中で最も栄光ある今という時に、私たちが主の油注ぎを心から喜んで受け取り、自分の役目を果たすようにと神は私たちを招いておられるのです。

 

神は私たち自身の癒しや解放のために油注ぎを与えてくださいますが、それだけではありません。 私たちが油注ぎを受けて力を増し加えられ励まされることにより、他の人々のために主が奇跡を起される時に 用いられる器となることを主は望んでおられるのです。油注ぎがくびきを砕くのです。私たちは今、新たな預言的シーズンに入っているのであり、 私たちが神の栄光を持ち運ぶ者となり、束縛、罪、病というくびきを砕いてどこに行っても主の民を解放する者となるようにと、神は私たちを召しておられます。

 

御霊の息吹

 

簡単に言えば、油注ぎとは神の力が私たちのただ中に現れるということです。それは神の聖なる臨在の風であり、聖霊の息吹です。それはキリストの命と光が私たちの中に、そして私たちを通して輝き出ることです。油注ぎとは、神の命の泉からこんこんと湧き溢れるものであり、私たちの心から流れ出る「生ける水の川」です。

 

イエスは常に御霊の油注ぎの中を歩まれていました。主は公のミニストリーを次の宣言をもって始められました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18—19)イエスは偉大なみ業をされるときは常に、油注ぎに全面的に依り頼んでおられたのです。ルカはこのように書いています。「ある日のこと、イエスが教えておられると、、、、、イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(ルカ5:17) 主の御力とは油注ぎです。もしイエスが油注ぎを必要とされたとしたら、私たちはどれほどそれが必要なことでしょうか!

 

第一のものに焦点を当てる

 

主は私たちを御力で満たしたいと願っておられます。私たちが主の油注ぎの中を歩むことにより、主の愛、主の祝福、主のあわれみ、主の癒しの恵みがこの世界に流れ出ていくことを願っておられるのです。ほとんどのクリスチャンにとっては油注ぎを受けることは簡単です。難しいのはそれを保つことです。悔い改めと信仰をもってイエスのもとに来るとき、私たちは油そそぎを受けます。聖霊が 私たちの心の中に来て永遠に住んでくださいます。主の御声を聞いて従うことを私たちが学ぶとき、そして私たちが御霊に満たされるとき、私たちの人生に油が注がれ、それがどんどんと増し加わっていく顕れを私たちは見るようになります。

 

私たちが油注ぎを保つためには、一番大切な事柄に焦点を当てることを学ばねばなりません。まず第一に、 イエス・キリストに焦点を当てねばなりません。イエスは私たちの救い主であり、主であり、私たちのすべてのすべてだからです。イエスに焦点を当てるとは、主をますますよく知り、主をますます愛するようになることです。

 

二番目に大切なことは、 聖霊との個人的な関係を培うことです。聖霊をよく知り、歓迎し、聖霊の命の水を毎日深く飲むのです。聖霊は一人のお方、パーソンです。神と共に存在し、 神と共に永遠で、神と同等の方です。聖霊は私たちの助け手であり、教師であり、慰め主です。教会に在住される主です。聖霊は私たちに力を与えるために御霊の賜物をくださり、栄光の花婿イエスを映し出す者とするために油を注いでくださいます。 私たちを栄光から栄光へと変えてくださいます。

 

私たちの人生の油注ぎの力を必ずや減少させてしまうことの一つは、聖霊との個人的関係をおろそかにすることです。私たちは、自分のかたくなさ、ゴッシップや他のクリスチャンの陰口を言う事、クリスチャンらしからぬ言葉や行動、思い等によって聖霊を悲しませてしまいます。聖霊と常に一つ思いになるためには、日々の悔い改めが必要です。即ち、 あなたの思いや態度を聖霊の完全な光によって照らし出していただき、聖霊とその恵みによってもっとキリストの似姿へと変えていただくことです。

 

すべては愛による

 

ルカ4章で見たように、聖霊の油注ぎによって、イエスは失われた魂、貧しい者、傷ついた者のところへ導かれました。イエスのミニストリーの原動力は、燃えるようなあわれみの心でした。油注ぎの中を歩み、それを流し出して行くための鍵は、愛なのです。イエスがなされたすべての業はあわれみの心が動機となっていました。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)

 

それと同じように、誰でも癒しの油注ぎを持つ人の心は、助けが必要な人へのあわれみで溢れるようでなければなりません。プライドや批判、断罪、偏見、律法主義、人を裁く態度等の霊は、聖霊の油注ぎとは全く相いれないものです。イエスの業をなすためには、私たちもイエスのようでなければなりません。イエスのようになる唯一の方法は、 主によみがえりの命をもって私たちの内で 生きていただくことです。私たちの肉が自己を焼きつくす祭壇で 焼かれる匂いだけが、油注ぎの香りと力を放つことができるのです。油注ぎを自分のためにだけ溜め込むことはできません。油注ぎを保ち続ける唯一の道は、それを流し出し与えることです!

 

私たちが油注ぎの中を歩むとき、 自分中心から離れて外にむかっていきます。自分のための油注ぎではなく、自分を通して他の人々のため、即ち奉仕とミニストリーへのために油注ぎを用いる道を進むようになります。

 

この国や社会、そして地上のあらゆる国は、聖霊の油注ぎに餓え渇いています。ヒューマニズムや知性偏重主義、偽りの宗教など空しいものは、空虚さを埋めることも暗やみが襲ってくるのも押しとどめることができません。世界はイエスとイエスの力を見ることに餓え渇いているのです。私たち主の教会は、キリストの花嫁であり、主の命に満たされ、主の命を与えるために整えられ油注がれた者であり、希望を失い死に瀕している世界への主の光、主の癒しの力そのものなのです。主の御霊が私たちの上に注がれています。私たちが福音を伝え、癒し、捕われ人を解放するために主は私たちに油を注いでくださったのです。

 

Mahesh and Bonnie Chavda
Chavda Ministries International
Email: info@chavdaministries.org

 


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