06 02月
警鐘をならす―聖霊は何を語っておられるのか
リック・ジョイナー
歴史上最大のリバイバルの一つは、1906年にロスアンゼルスのアズサ・ストリートで始まりました。以前は家畜小屋であったみすぼらしい建物は神の栄光で明るく輝き燃え、しばらくは「世界で2番目に有名な住所」と呼ばれました。神は同じことが又出来ますし、私たちがそれを必死で心から求めればして下さいます。
歴史上のすべてのリバイバルは、幾人かが神に激しく餓え渇き、酸素よりも神を更に求めるほどになった結果として起こるように思えます。そのように激しく神を求める人は決して神から否まれることはありません。今は「世界で最も知られる住所」となるようなリバイバルを求める時です。決して止まることのない神のムーブを求める時です。
私は数々のヴィジョンや夢で、大災難が起こること(特にアメリカ西海岸で)を見てきました。それで、私が西海岸に対して憎しみを持っているのではないか、と言う人たちも中にはいます。決してそんなことはなく、むしろその反対です。私がそのような夢を見るのは自分でコントロールできることではなく、精神分析では深層心理の現れだというかもしれませんが、私にはこれが預言的な夢であることがはっきり分かるのです。大災害の夢を見たあとの私の気持ちは沈み、人々が耳を傾けて悔い改めることによってその事が実際には起こらないことを望むのです。 そして攻撃や非難を受けても人々に警告せずにおられないのは、私が心から心配し悲しんでいるからなのです。
私は今の時代の終りに魂の収穫があるのを預言的に見ています。どうして大災難が来る前にリバイバルが先に起こってはならないのでしょうか? 神がヨナの説教を用いて邪悪なニネベを救われたとしたら、来るべき大災難で失われるかもしれない何百万人もの命を神は救われようとされないのでしょうか? 聖書には、神の本当の御心は人々を救いたいと願っておられるであると確かに書かれています。
それでは、どうしてそうされないのでしょうか? 神は自分の命や自分が成し遂げたい事を捨て、神の求めておられるとりなし手になる人々が現れるのを待っておられるのです。 どれほど人々から侮られ、馬鹿にされ、迫害されても神の真理、義、正義を妥協なしに伝える説教者が立ち上がるのを神は待っておられるのです。神は本当にそういうお気持ちおられるのです。私たちはどうでしょうか?
主は荒野の幕屋やエルサレムの神殿で、祭壇に火をつけられました。そして次に主は、祭司たちにこの火を燃えつづけさすように命じられました。それと同じように、本物のリバイバルを始めることが出来るのは神だけですが、その火を燃やし続けることを怠ってリバイバルを終らせるのは人間です。リバイバルが起こるためには、 根本的な神への飢え渇きと、神の目的のためには自分の目的を犠牲にして捧げる人々の献身がなければなりません。
過去数年に渡って、私は多くのネガティブなことを預言せねばなりませんでした。そして好むと好まざるとに関わらず(多くの人は好みませんが)それらが正確であったという結果が出ています。かなり多くの人々が私の言葉に耳を傾け、判断をし、信じて、それに備えをして、よい結果を得て栄えています。いつの時代にあっても備える者が栄えることを私は知っていますが、大災難の故に栄えることはしたくありません。私たちの第一の目標は、人々に警告を発することによって大災難が起こらなくなるようにすることです。大いなる裁きの日にはすべてのことに決着がつき正しい裁きがなされます。私はその日のために生きようと決意しています。
アメリカの西海岸は、今までになかったように揺さぶられようとしています。私は知人全員にもう少し大災害に備えるための時間が与えられるように祈るように勧めていますが、あまり時間がないのです。 同じような災害がミシシッピ川沿いのニューマドリッド・フォルトに発生するのを預言的に見た人たちもいます。ある人たちは、アメリカがイスラエルにエルサレムを分割するようにと強い圧力をかける時期と関係してこれが起こることを見ています。アメリカがイスラエルに対して行ってきた事とこの国を襲った自然災害との間には、驚くべき関連性があるのです。それは単なる偶然でそうなったのではありません。
東日本で大地震が起こったのを機に私がこのことを言い始めたことによって、私の人生の中の 物議を醸す沢山の事柄がまた一つ増えました。私は議論好きではありませんが、今の時代、何かを達成しようとすれば必ず物議を醸すことを避けられないことが分かりました。私が言葉を誤解のないように完璧に用いたとは思いませんし、自分自身でもどうかと思うこともあるのですが、この事に関してだけは私の言葉によってより多くの議論が起こった方がいいのです。これは真実の言葉であり、物議を醸していることはより多くの人がそれについて話す結果となっています。西海岸のある人たちは(非常に疑い深い人たちの中からも)耳を傾けるようになり、それを私は心から感謝しています。
そうではあっても、この事が西海岸に起こり始める日は、私の人生最悪の日となることでしょう。ずっと前に学んだ事ですが、 たとえ預言が正確でも、その預言者が死んでしまって最早脅威でなくなるまでは、正当な評価を受けることはあまりないのです。この理由から、私は自分が正しいと証明されることなどは考えてもいません。この事に関してはむしろ自分が間違っていた方がいいと思うのですが、間違っていないことを私は知っています。日本での地震と津波が起こって以来、私は西海岸に住んでいる人たちに対する嘆き悲しみをますます深く感じているのです。
又、非常に多くの偉大な教会や神の働きが西海岸にあることを私は感謝しています。そして願わくばそのすべてが災害を免れてゴシェンのように守られるといいと思います。災害が起こったときには、今までに無かったほどに偉大な教会、聖徒たちが必要とされることを私は知っているからです。それが理由で彼らがこの警告に耳を傾けないのかもしれない、と 考えたこともあります。神はすべてのクリスチャンがその地を去ることを望んでおられないからです。西海岸にいる神の民が強められ守られるように、そして彼らが神に大いに用いられ、命を亡くす人の何倍もの人が救われるようにと、私たちは今祈らねばなりません。
中でも最も必要とされるものは、バプテスマのヨハネ、或いはヨナの油注ぎを持って悔い改めを呼び起こす声であり、それによって人々に罪が示され悔い改めが起こり、主がもう少し時間的猶予を下さるようにすることです。アメリカが今置かれている危機を通リ抜けるためには、再び大いなる霊的覚醒が起こらねばなりません。しかし、 今は西海岸のリバイバルが緊急の課題です。このためにどうか私と毎日祈りを合わせてください。
皆さんの中には、これによって 私のミニストリーが損なわれるとの心配から、この事を話すのを止めるようにと望まれた方がありました。先ず、私は皆さんが心配してくださることを心から感謝いたします。しかし、実際のところこのことで私のミニストリーが損なわれているとは思いません。しかしもしそうであるとしても、私はミニストリーを立て上げるためとか、自分の名を挙げるためとかのためではなく、ただ神の御心を行うために生きているのです。主のしもべとなるべき者が受け入れねばならない「主の重荷」というものがあるのです。私の一番の心配は、私が臆病になり、人々が耳を傾けるような言葉で警告を発することができないことです。警報というものは、人々を叩き起こす程うるさくあるべきものですが、もし人々の目を覚ますことができたならば私は大変うれしいです。そうであっても、皆さんが心にかけてくださることを心から感謝いたします。(終り)
30 01月
終末における火のバプテスマ
ウエイド・テイラー
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」創世記3:8
アダムとイブが主の声を聞いたのは、「彼らが歩いていたとき」ではありませんでした。そうではなく、彼らは「歩いている声」を聞いたのです。この言葉は非常に深い意味を持ち、2つの事を明確に示しています。
まず一番目に、彼らが声を「聞いた」という事実は、主が私たちと話をしたいと願っておられることを表しています。
「耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:9
二つ目に、主が「歩いておられる」という事実は、主はご自分が語りたいことを続けて語って行くことを表しています。すなわち、主は昨日言われたことを越えて、今日は今日のことを語りたいと願っておられるのです。
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」ヨハネ16:12−13
明日主は、今までに語られた事を越えたことを話されるのです。
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」黙示録4:1
主の預言的カレンダー
創造は6日間で完成されました。そして主は7日目に休まれました。ペテロはこの時を「一日は千年」としても理解できると言っています。この7日間のうち、初めの4日間が旧約の時代、次の2日間が新約の時代、そして最後の7日目は千年王国として分類することができます。
これは預言的な「時」のことであり、必ずしもカレンダーに基づく時ではありません。 この考えに基づくと次の箇所はこのように理解することができます。
イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは(教会時代)、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目(千年王国)に全うされます。』」ルカ13:32
人類の歴史の中で、 各「千年という一日」が終りに近づくころ、主が直接的に介入されましたが、その都度、主は一人の`人物にご自分を顕し、その結果その人はその時代に大きな影響を与えました。
最初の「千年という一日」を通して、ずっと主は人類と共に歩かれました。その終りに洪水が起こり、ノアとその家族以外のすべてのものが地上から取り除かれました。洪水に対してノアが備えられるように、主はノアを訪れました。2番目の「千年という一日」を通してずっと主は共に歩かれ、やがてアブラムがカルデヤのウルから呼び出されました。神の訪れにより、彼は神の友、信仰の父であるアブラハムとなりました。そして神と人との個人的関係が確立され、アブラハムは「ソドムとゴモラ」に対する神の裁きに関して、神と論じ合いました。
次の「千年という一日」を通して主はイスラエルの中を歩かれました。この時代が栄えたときに、主はソロモンにご自分を顕したので、彼は「雅歌」を著し、神殿を建てました。神殿には神の栄光が顕れ出ました。
4番目の「千年という一日」の間、イスラエルは少しずつ主から離れて行きました。この「一日」が終る頃、天使ガブリエルがマリヤに現れ、神が彼女の身体を用いて御子をこの世に送りたいと願っておられることを告げました。マリヤはそれに服従し、イエスが生まれました。後にバプテスマのヨハネは「荒野で呼ばわる声」として召し出され、イエスを「神の小羊」として世に示しました。
5番目の「千年という一日」の初めに、イエスの十字架、復活、昇天によって贖いの業が完成されました。屋上の間で待っていた120人の上に聖霊が注がれ、教会が誕生しました。聖霊が下ったとき、炎のように分かれた舌が一人ひとりの上にとどまり、彼らは聖霊に満たされ、彼らの知らない言語で神の栄光を語りました。
主は5番目の「千年という一日」、即ち教会時代の最初の「千年という一日」の中を使徒的力をもって歩き続けられました。そして当時の世界はそれによって大きな影響を受けました。次第にニコライ派(信徒を統治する者たち)が支配力を強め、超自然的であるべきものを 宗教という形式と儀式とに置き換えてしまい、それによって「暗黒時代」がもたらされました。
この時代に、紀元1150年頃、クレアヴォクスのバーナードが、神の恵みに関する啓示を受けました。この光は広がって行き、やがてローマ・カトリックの神父であったマルチン•ルターの人生の中に明るく輝きました。
神の歴史の6番目の「千年という一日」、即ち教会時代の2番目の「千年という一日」、が始まったとき、主は歩き続けられ、贖いの光が 暗黒の教会に再び輝き始めました。
ヴァチカンの建設費用を集めるために、ローマ・カトリックは「煉獄」での苦しみを免れることが出来ると言って「免罪符」を販売しました。マルチン•ルターは「救いは恵みによる無償の贈り物であり、買収できるものではない」という理解を神から受け取りました。そして1517年に彼の論文を教会の扉に打ち付けました。これによって教会への重荷を持っていた真の「教師たち」が回復されてきました。続いてこれに対する大きな迫害が起こりました。
1600年代に神の言葉「聖書」が印刷され広まり始めると、バプテストの人々が、「もし私たちが恵みによって値無しで義とされるならば、地域教会の中で育つ人たちにこのことを伝えねばならない。」という啓示を受け取りました。キリストのからだの中に「牧師」が回復され、彼らへの迫害がまたもや起こりました。
1700年代にも主は歩き続けられ、ウエスレー兄弟が、「義とされた者は、目に見える形での献身の証しがなければならない。」という啓示を受け取りました。それによって起きたリバイバルは1800年代まで続き、キリストのからだに「伝道者」が回復されました。
1901年の大晦日に、カンサス州トピカの小さな聖書学校で一人の若い女性が聖霊のバプテスマを受けました。他の人たちもこのバプテスマを受け始め、この神の訪れはロスアンゼルスのアズサ・ストリート・ミッションへと広がっていきました。「義とされ、聖化され、福音を伝えていくならば、その目的のために私たちは力を受けねばならない。」という啓示が示されていきました。
このようにして使徒行伝1:8が その時の「 今の言葉」となりました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
ペンテコステの神の訪れが世界に広まっていくにつれ、またもや迫害が起こりました。
しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。 ガラテヤ4:29
聖書や教会史の中に明らかなように、神の訪れを受けた者たちは各々、その時代にそれまでに知られ受け入れられていたものを越えた啓示を受け取ったのです。そして、その一つ前の啓示を受け取った者が、次のレベルの神の訪れと啓示を迫害する者となっていきました。
その理由は、彼らが自分たちのレベルの霊的経験に満足し、そこに安住してしまったからです。ですから今もルーテル派、バプテスト派、メソジスト派、ペンテコステ派が存在し、彼らはその場所から進んでいないのです。
しかし、主はどんどんと歩き続けられたので、それから40年後に「後の雨 Latter Rain」における主の訪れの時に、次の啓示が受け取られました。それは「もし私たちが福音を伝えるために力を受けるならば、超自然的な賜物が働き、しるしが現れるはずである。」というものです。この啓示により、「預言者」と「預言の賜物」が教会に回復されました。
迫害がまた起こりました。ペンテコステ派が「後の雨」の訪れを受け入れなかったからです。しかし、真理が少しずつ回復されるために、誤解されたり拒否されたりするという代価を喜んで払う人たちがいました。
それから更に40年が経ったとき、「カリズマ運動」における神の訪れが、主流教派の教会の中にも聖霊のバプテスマをもたらしました。ですからこれまでに、教師、牧師、伝道者、預言者が回復されたのです。
カリズマ運動の神の訪れの時、「使徒」が回復されるべきはずでした。バプテスマのヨハネは「聖霊と火のバプテスマ」について語りました。このバプテスマは、屋上の間での聖霊のバプテスマのときには起こりませんでした。なぜならば、火のバプテスマははっきりと招かれなければ起こらないからです。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。マタイ3:11−12
終末の聖霊の火のバプテスマ
私たちは、今までに異言や力あるミニストリー、賜物を伴う聖霊のバプテスマを経験してきました。しかし、「聖霊の火」によるバプテスマにまで到達する必要がまだ残っているのです。それは、 使徒になるべき人の罪を完全に取り去り清めて、使徒職の回復のために備えるものであり、又、キリストのからだの中の人々に使徒的な働きをする力を与えるものです。そしてそれはキリストのからだが今までに達成したレベルを越えて教会を前進させるものです。
この終末の(真の)「使徒的なもの」の訪れによって「聖霊の火」が分与され、それは主のシェキナ(栄光)の回復への道備えとなります。これによって人生の真の聖さと霊的一致が起こり、「創造する力を持つ言葉 creative word」が権威をもって語られます。
使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇跡と不思議と力あるわざです。第二コリント12:12
超自然的なものの現れは、真の使徒的ミニストリーのしるしです。栄光の顕れの中での創造する力のある言葉が使徒によって回復されるとき、それは世界の国々に対して再び大きな影響力を及ぼし、千年王国が確立されるための備えとなります。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。イザヤ60:1−3
罪を犯してアダムは「シェキナ」の覆いを失いました。そしてその「シェキナ」が、人がいのちの木に行けないように道を守る炎の剣として、アダムの敵となってしまったのです。しかし、ペンテコステの日に屋上の間で120人が祈っているときにこの「シェキナの火」は友となり、一人ひとりの頭の上に戻ってきてとどまったのです。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のように分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒行伝2:1−4
彼らすべては聖霊で満たされましたが、「火の舌」は彼らの頭の上にとどまったことに目を留めてください。「火」が彼らの内に入るためには、もっと何かが起こらなければならなかったのです。
これら一つひとつの神の訪れによる前進により、教会には霊的生活とミニストリーが徐々に回復されていきました。そして「カリズマ運動」による神の訪れにより使徒的なものも回復されるはずでした。
しかし残念なことにこの神の訪れは、ミニストリーのための賜物、特に癒しと個人預言という表面的なムーブメントにとどまりました。キリストのからだの中で使徒的油注ぎと力をもって機能できる「使徒職」の回復の備えをするための「火」が、個々人の中に入り聖めることができるスペースが与えられなかったのです。
ですから、現在、カリズマの訪れは薄れつつあります。有名なリーダーたちが堕ちるとき、彼らの失敗は、彼らがその代表となっていたカリズマの訪れには「火」が無かったことを指し示しています。もし「火」が来ていたならば、彼らは完全に聖められて、失敗を犯す余地はなかったはずなのです。
「使徒的なもの」が完全になるためには、私たちが主の臨在の中で物事を見ること、臨在の中にとどまることが必要です。内面的な聖め、罪の追放なしには、主は主の宮に入って初代教会と同じレベルの力で使徒職を回復することはできないのです。
私たちは主の「parousia」(主の顕れ)のときに今生きています。主の終末の目的のために参加する備えの出来ている者に、主の顕れがあるのです。イエスがそのような者たちに顕れるとき、主は力と確たるしるしを伴う真の使徒の油注ぎを彼らに分与されるでしょう。
ですから、今現在の主の言葉はこれです。「宴会に招かれていた者たち (各教派やカリズマティック・ミニストリー)が応答しなかったので、聖霊は今大通りやわき道に行きキリストのからだの中で賜物のない者たちに、宴会に来て使徒の油注ぎと力を身にまとうようにと招いておられます。」(マタイ22:3−10参照)
現在、神の働きのスポットライトは、 牧師の説教台(説教者、指導者)を離れて会衆の座っている座席(一般信徒)の方に移り始めています。キリストのからだの中で「目に見えるような」目だった能力や賜物のない者(信徒)たちが聖霊の呼び掛けに応答する時、彼らは主の顕れの臨在によって、使徒職の回復の中で機能する備えをすばやく調えられつつあります。
使徒的権威の新しい波が、再び、神の力によって諸国を揺り動かし、諸国はそれによって再び大きな影響を受けるでしょう。
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 黙示録2:26−27
その結果、神の御国が義と平安の内に確立され、大いなる喜びが世界中にわき起こるでしょう。イエスが王の王、主の主として顕されるからです。(終わり)
Wade E. Taylor
Wade Taylor Ministries
Email: wade@wadetaylor.org
17 01月
輝かしい新年のために
グラハム・クック
新しい年を迎える時、私たちは自分がいまいる所はどこか、これからどこに向かうのか、これからどのような人生を望むのか、というようなことを考える伝統があります。何かが変ることを望んで、 決意のリストを作りますが、大概一月が過ぎる頃には駄目になってしまいます。
失敗する理由は、私たちが間違った動機で、間違った種類のリストを作るからだと思います。大抵私たちは自分自身や周りの状況の中で一番変ってほしい事のリストを作ります。リストの大半は否定的、ネガティブなことです。
「今年は人に利用され踏みつけられないようにしよう。この体重を減らそう。怒らないようにしよう。 気が短いところを変えたい。あまりくよくよ心配しないようにしなければいけない。私はどうしてこうも悲観的なのだろう、変らなければ。」という風にです。
私たちの動機は、改善したい、増やしたい、向上したい、というものです。もっと良いものを、もっと沢山ほしいのです。 そこで問題なのは 、私たちが自分のネガティブなところに焦点を当てると、ネガティブのサイクルに陥ってしまうことです。真実ではない自分の姿に取り付かれてしまい、自分が抜け出そうとしている穴の中にまた落ち込んでしまうのです。
ネガティブな思いにはまり込んでは、ネガティブな事を変えることはできません。私たちの人生は 、自分に欠けているものによって特徴付けられ識別されるものでは決してないのです。私たちが否定的なことに焦点を当てると、それ自体が弱々しく貧弱な自分のアイデンティティーを作ることになってしまいます。そして失敗を繰り返すこと、否定的になり、自分の可能性を認めようとしない方が、私たちにとってはよほどたやすい道なのです。
写真の世界でネガティブ(ネガ)とは、それからポジティブのプリントを作る事ができるイメージのことです。ですから、個人的な変革に関して言えば、私たちの中のネガティブのものは幾つかの段階を経ることによって、自分に対するイメージがポジティブに変えられるような過程を通らねばならないのです。
先ず、自分が変えたいと思うネガティブなもののリストを作ってください。次に、その一つ一つをポジティブに変換してください。
例:
「人に利用され踏みつけられないようにする」から「 自分の価値と大切さがもっと大きいことを知るようにしよう 」に。
「体重を減らそう」から「身体がひきしまり、より健康になって楽しもう」に。
「怒るのをやめよう」から「もっと優しく愛の人になるようにしよう」に。
「気が短いところを変えたい」から「自分の時間をもっと上手に使う人になる。もっと微笑み、そして親切になろう」に。
「あまりくよくよ心配しないようにしなければいけない」から「もっとすべてに信頼し、物事をあまり気にしない、ハッピーな人間になって楽しもう 」に。
「私はどうしてこんなに悲観的なのだろう」から「 自分に喜びと笑いを引き起こすような人生を生きよう」に。
お分かりですね。否定的なものを肯定的なものに変換して、真実の姿ではないあなたを見るのではなく、あなたがこうなりたいと思う人物になることを目標として生きる決意をするのです。
第三に、古い自分はすでに死んでいることを忘れないでください。否定的なリストを肯定的に変え、 焦点を自分の古い性質からキリストにある新しい性質へと移すのです。ローマ人への手紙6:2−14を読んでください。これは新しい歩みをするための型板です。私たちが成功し幸せで力を持つためには、キリストにある私たちの人生のすべて の土台は、この御言葉でなければなりません。キリストにあって私たちは古いものには死んでいるのです。古いものは過ぎ去ってすべてが新しいのです。(第二コリント5:17−21)神にあるあなたの新しい自分に生きてください。そして人々が 古いあなたに息を吹き返そうとするのを絶対に許してはなりません。イエスにある新しい自分を喜んで自分のものとし、楽しみながらそれを現実のものとして確立させてください。
第四に、「新しい人」になろうとしないでください。キリストにあってあなたはすでに新しい人なのですから! あなたは自分の言動を変えることによって新しい人になるのではありません。すでに存在しているキリストにある自分を受け入れて、そのように行動するのです。キリストの内に留まり、住まい、ずっとそこにいてください。あなたの心の中にある主のリアリティーから自分が離れることを許してはいけません。 あなたが主に焦点を当てるならば、すべての状況の中で表に現れてくるのは、主の平安、喜び、そして冷静な知恵でしょう。
最後に、この主にあっての新しい旅を楽しんでください! あなたは「状況のただ中」に生きるのではないことを忘れないでください。あなたは「キリストの内」に生きるのです。そこに留まってください! そこから物事を見つめてください。 そこから人生を生きてください。主の観点で物事を見て下さい。それが主の内に住まうということです! 今年は喜びがあなたと共にいつもあるようにしてください。主の喜びこそがあなたの強さ、勇気、堅固さ、健康、スタミナ、エネルギー、力、意図するところとなることでしょう。
すばらしい新年をお過ごしください !(終わり)
10 01月
安息のオペレーション・システム
ボブ・ハートレイ
2011年から2020年への神の希望に満ちた見解
地上では様々な問題やチャレンジが起こっている今、主は、地上で起こるすべての問題の解決法を示し、 2011年から2020年のための希望に満ちた預言をキリストのからだに与えておられます。主ご自身が解決です。主は私たちをいろいろな方法で調えられ、それによって私たちが主の住まわれる住まいとなり、 ビジネスや教育機関、又家庭の中で主の臨在と希望を顕す器となるようにしてくださっています。主は私たちに今シーズン、「希望に満ちた眼鏡(天からの主の希望に満ちた視点で正しくものを見る能力)」と、「希望に満ちた補聴器(希望の神である主の御声を正しく聞く能力)」、そして「正しい武具(すばらしい仲間と、愛と希望に満ちたコミュニティーで自分を囲む重要さ)」で調えていてくださいます。そして今、主は「安息に基づく希望に満ちた新しいオペレーション・システム( 働き方)」を与えてくださるのです。
私と娘はこの新しいシステムを預言的に表すものについて 話合ったのですが、その時、私は主との親しい関係からではなく任務を遂行する義務感から働いていたことがわかりました。 この啓示は初め私個人に与えられものですが、その後、神は夢を通してもう少し詳しく教えてくださり 、キリストのからだ全体への言葉とされました。これらの夢が示すポイントは 、主と新たなパートナーシップを組む重要さであり、 私たちの人生にストレスと煩雑さを与えるものをはっきり見つけ出し、私たちの焦点を主を愛することに向けることにより、私たちが安息の達人になることです。今までキリストのからだは任務を遂行するために頑張り、ストレスや不信仰の中で機能していましたが、主はもっとすぐれた道( 主との親しい関係の中で安息し働く道、 主と共に主の解決法を天から見る道)を私たちに教えるために来てくださるのです。
出エジプト記33:15で、モーセは神に「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」と言っています。新しい機能システムの中核は、神の臨在を他のすべてのものよりも尊ぶことでありましょう。
安息という新しいオペレーション・システム
神は、臨在にある安息の中で働くこの新しいオペレーション・システムにと私たちを召しておられます。神はこのシステムを落ち葉の山の夢を通して私に説明してくださいました。この夢は私がミニストリーのために長年がむしゃらに働き、心身ともに疲れ果てていたときに見せられたものです。自分がとるべき次の道を求めていた時、神は夢という形でそれに答え始めてくださいました。夢は「10の落ち葉の山」から始まりました。
夢の中で、私はドイツのある村にむかって歩いていました。すると、一人の女性に出会いました。彼女は自分の庭の落ち葉を掃き集めて10の山にするようにと私に告げました。そこで私は彼女の言葉通りにしようとしました。しかし風が強く吹いていて、私はあちらこちらと走りまわって落ち葉をかき集めようとしましたが、混乱して疲れてきました。主が次のことを教えてくださいました。「10の落ち葉の山」は、現在キリストのからだが直面している必要や課題であり、確かに現実に存在していますが、それらは神に委ねなければならないものです。
夢の中で、私にはやるべきことがあまりも多く、進むべき方向もあまりにも多くありました。私は次第に疲れてきましが、何もはかどりませんでした。丁度その時、隣の家からめがねをかけた金髪の女性が私のところにやってきて、「10ではなく、一つの焦点」と言い、10ではなくて一つだけ落ち葉の山をつくるようにと告げました。「主の目を見つめる一つの焦点」と彼女は言いました。そこで、私は彼女の指図に従って残りの落ち葉を掃き集めると、安息をもって楽々とすることができました。
一つの焦点:主の臨在
夢の中で、神は「30年のための30日」と言われました。それは、「私が主に30日を捧げるならば、私は新しい軌道に乗る事ができ、新しいオペレーション・システムは私を変え、次の30年間私が機能する方法を変えることができる」という意味であると主は言われました。そして同じ約束がキリストのからだのためにも与えられていると言われました。この夢の中の眼鏡をかけた金髪の女性のことを、ある親しい友人に話したところ、彼は「私はその場所とその女性を知っています。」と言いました。
それから数ヶ月してから、私はその友人が教えてくれたドイツにある保養所に行きました。私は「安息に基づく希望に満ちた新しいオペレーション・システム」に入り、私の身体と心を回復させるために行ったのです。そこに到着すると、私は夢の中の眼鏡をかけた 金髪の女性に会いました。彼女は保養所の経営を助けている人でしたが、彼女は夢の中で私に言ったのと同じ言葉で 語りました。彼女は「一つの焦点」と、私がそこに滞在している30日間、何度も繰り返し言いました。「一つの焦点、主を見つめることによって、ミニストリーが、残りかすから細々とではなく、安息の希望の場所から溢れるように流れる」と。
そこでの滞在中に、神は「安息に基礎を置く、一つだけの落ち葉の山を作る、神だけを見つめるという意味の一つの焦点」というこの新しいオペレーション・システムをだんだんに明らかにしてくださいました。神はこれから私たちがこのシステムによって機能することを望んでおられるのです。この一つの焦点はエペソ4:4にあるキリストのからだへの召しです。エペソ4:4−6に次のようにあります。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちのおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」 神への唯一の焦点です。
天国の健全な希望センター
この新しいオペレーション・システムに入るために、主は「天国の健全希望センタ−」にあるいろいろな部屋を私に見せてくれました。そこで神は、この新しいシステムを開く鍵となる4つの部屋を見せてくださいました。即ち、主に安息する部屋、父祖を愛し敬う部屋、魂を養う部屋、身体を養う部屋の4つです。
安息の部屋
私たちが最初に入るのは「安息の部屋」です。この部屋で、私たちは新しいリズム、新しい焦点、愛と希望だけを求めて主の臨在に入り留まる新しい方法を学びます。ここでは、今までまとまらない焦点や主につながっていなかった状態から、明確に、集中して主にしっかり結びつくようになるのです。バビロンの混沌と混乱を後にして、ヘブル4:9−11に書かれている安息日の休息、即ち主の安息のリズムへと入っていくのです。
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順な例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
この「安息の部屋」に入るときには、私たちは希望の神に信頼せねばなりません。即ちエレミア31:25で「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。」と言われる神を信頼するのです。私たちは「主を待ち望む者は新しく力を得る(イザヤ40:31)」ことを信じなければなりません。エレミア6:16にあるように 、私たちは四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、私たちの魂のいこいを見いださねばなりません。
20年ほど前にジンバブエに住んでいたとき、私たちはお互いの他は何も持っていませんでした。何も妨げるものがないので、私たちの間には深い愛と親密さが生まれました。私が特に鮮明に覚えているのは、私が妻と一緒にいつも散歩をしたジンバブエ通りです。散歩をしながら私たちの親密さは深まり、親密な関係が育って行きました。
「安息の部屋」で、主は私たちと「ジンバブエ通り」のような関係を求めておられます。そこで私たちは親密な関係を深める目的のためだけに歩いたのです。ヨハネ15:15でイエスは私たちに「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」と告げておられます。主は私たちに友として語られます。私たちが主にお返しできる一番の愛の行為は、主の御声に耳を傾けることです。その時にはじめて私たちは主の安息に入ることができるのです。
多忙という名の巨人
ジンバブエから帰る飛行機の中で、私は夢を見ました。夢の中で神は、私たちの国への約束を語られ、その約束を得るために戦わねばならない巨人たちを私に見せてくださいました。そのうちの一人は「バビロンの多忙、いのちのない活動」という巨人で、私の夢の「10の落ち葉の山」のようなものでした。キリストのからだのうちにある日々の必要や課題に関わって「10の落ち葉の山」を作っていると、私たちの焦点は定まらず主から切り離されてしまいます。私たちが主の心と結ばれていないで、その日の活動という動きだけをするようになるからです。
ずっと昔、私は海辺でライフガードをしていたのですが、私の当番の日に一人の少年が溺死してしまいました。この出来事は私に深い影響を与えました。それから何年も経ってから、神が、あの時と同じライフガードのスタンドに私がいる姿を見せられて、そろそろ私が自分で自分に課した責任の場所(スタンド)から降りてくる時間だ、と言われました。世界中のすべての人を救う(キリストのからだのすべての必要や課題に取り組む)のは私の役目ではないと、主は言われたのです。 少し経ってから、主が再びライフガードのスタンドを 見せてくださいました。しかしその時ライフガードとしてスタンドにいたのは主であり、私は主の横に座っていました。神は私たちキリストのからだに対して、私たちは主のパートナーであるけれども、スタンドにいるライフガードは主であられることを、はっきり区別し認識するように強調しておられるのです。
キリストのからだへの召し
神は私たちを「一つの落ち葉の山」に戻るようにと召しておられます。主は私たちを主の臨在の中の安息から働く新しいオペレーション・システムへと召しておられます。それは「天国の健全な希望センタ−」の中の幾つかの部屋を主のあとについて行く時に主が教えてくださるシステムです。
主を敬慕 adore することを忘れないでください。主がどのような方であるか、又主があなたの人生の中でどのように希望の神であったかを宣言してください。主はあなたをどのように見ておられるのか、これからの希望に満ちた日々のためにどのようによいことをあなたのために備えておられるかを、主に訊ねることを忘れないでください。主はあなたがこの「安息の部屋」に入るのをどれほど願っておられるかを訊ねるのを忘れないでください。この主があなたのために備えた新しいオペレーション・システムを通して、主がどのようにあなたを見ておられるか、どのように良いことを備えておられるかを訊ねてください。(終わり)
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31 12月
「今 いる場所でわたしを愛しなさい」
フランシス・フランジペン
主を探し求めているとき、最も困難な時期が 神の愛を経験するブレークスルー(打ち破り)に変えられる可能性があることを、私は見出しました。私にとってそのような時は、1979年から1981年の間に起こりました。私が属していたある教会の群れが、霊的惑わしに堕ちてしまいました。中心的な教義がどんどんとニューエイジの影響を受けるばかりか、不道徳が入り込み、主要なリーダーたちが 他の女性のために妻を捨て去りました。私はもはや黙ってはおられませんでした。それで、私は1979年に、それまで牧師として働いていたミシガン州デトロイトの教会を離れ、アイオア州にある教団の地区本部に赴きました。彼らに悔い改めを嘆願するためでした。しかし、上部のリーダー達との話し合いの結果は、私がその群れを去るようにと言い 渡されたことでした。
私が置かれた状況は、教会もなく、お金もなく、しかも4人の子供をかかえているという状態でした。最低限の住居を借りるお金もありませんでした。とにかくどこでもいい、と探し回った結果、アイオア州のワシントンという田舎に古い農家を見つけることが出来ました。それは築100年以上の家でしたが、実際はそれよりもっと古く見えました。家主と掛け合った結果、片付けやペンキ塗リ等の家の修理をすることを条件に、一年間ただで借りることができました。
けれども、この家の状態は私の手に余るひどいものでした。暖房はほとんどきかないので、台所に薪ストーブを入れました。 何とその冬はアイオア州の歴史で一番寒さが厳しい冬になってしまったのです。家の中に霜が付き、すべての窓は下から50センチくらいは霜でした。風が吹くと-50度Cくらいになりましたが、それより寒いときも時々あったのです。
毎晩暖かく寝るために、台所のストーブから5メートルくらい離れている食堂の床に置いた大きなマットレスの上に、家族全員が身を寄せ合って 寝ました。ストーブの後ろのファンが温風を私たちの方向に送ってくれました。私の夜ごとの仕事は、当然のことながら、朝までみんなが暖かいようにストーブに沢山火を燃やすことでした。
ストーブに火を焚き続けながら、私は祈りながら神を求めました。ストーブは私にとって祭壇のようになり、毎晩私はそこで 自分の成就されていない夢や霊的孤独の痛みを神に捧げていました。勿論、 神が私の置かれている状況を知っておられることは分かっていました。私たちは本当に何もありませんでした。しかし神は、小さな多くの事柄を通してご自分を顕してくださいました。私はただ、主が私に何を望まれているのかが分からなかったのです。
季節が移り変り、次の子供が生まれ、更にベトナムの女の子を里子にしたので、子供は6人となりました。家族が増えても、ストーブの周りの狭い場所は私にとって聖なる領域でした。夏でも私はストーブの横の椅子に座って、祈り礼拝したのでした。
「この時期に私は主の喜びを見出した」と申し上げたいところですが、 自分の状況に次第に順応してはいましたが、本当は私の心には惨めな思いがいつもありました。非常に貧しかったこと(年6000ドルほどしか収入がありませんでした)もその原因の一つでしたが、それよりも、私は自分が主の御こころから外れてしまったように感じていたのです。私の祈りは常に「主よ、あなたは私に何をお望みなのでしょうか?」というものでした。
神を求めつつ3年が経過しましたが、私の内には空しさがまだありました。私に対する神の御こころは何なのでしょうか? 私は二つほど聖書研究会を始めていましたし、いろんな教会で数回説教もしました。しかし私は「自分は牧師である」という意識が強かったので、フルタイムのミニストリーを再びするまでは、 人生に対する神からの召しを私は失っているのではないか、という恐れを持っていたのです。
ミニストリーに関するこのような空しさを内に抱えてはいたのですが、 実際には私は霊的に(特に以前は耕されていなかった領域において)成長していました。私はキリストの御言葉を知り従うことに餓え渇いていたので、福音書を深く学びました。以前は、無意識のうちに、ミニストリーの成功は私の業や働きによって起こったと考えていました。しかしこの期間に、主は私を単なる一人の「イエス・キリストの弟子」にしてくださいました。
そして、 それまで聖書的だと思っていた多くの事柄が、ただの宗教的伝統に過ぎないことを私は発見しました。主は私が自分の心の中にある色々な考えを丁寧にもう一度吟味し直し、その中で本当に私が喜んで死ぬことが出来る真理(複数)を探すように望まれました。そして「そのために死ぬことが出来る真理のためにこそ、あなたは生きるべきです」と主は言われました。
携挙のタイミング、ワーシップのスタイル、霊的賜物などは、私も大切なこととは思いますが、率直に言いますと、それらは最も重要なもののリストからは外れていきました。私の焦点のトップに上がってきたのは、真にイエス・キリストの後を追う弟子になること(主の教えに従い、単に批評家としてではなく人を励ます者)になりたいといる熱い思いでした。又、 自分が徐々に他の教派や異なる視点を持つクリスチャンとの交わりを喜び、彼らからも学ぶことができるように心が自由に解放されてきたことが分かりました。
この変化は深く永続的なものでしたが、 ほとんど気がつかないほどにゆっくりと起こっていきました。それは私の心の中で静かに起こっていたことであり、その時主がしておられたことが分かったのは後になってからでした。この期間中、私はずっと「自分は神の御こころから離れてしまっている」という思いに捕われていたのです。 私への主の御計画を知りたいという祈りは、毎日続いていました。
ブレークスルー
ある日、私は台所のパントリー(食料庫)の中にいたのですが、いつものように「主よ、あなたは私に何をお望みなのですか?」と祈りました。その瞬間、一瞬の輝きの中で主が答えられました。主は直接私の心の中に 「あなたの今いる所でわたしを愛しなさい。」と語られたのです。
その時私は牧師でも聖職者でもなかったのです。私は家族を養うためにテレビの修理をし、その他雑多なアルバイトをしていたのです。私は自分の仕事が嫌いでした。以前牧会していた時には、テレビは良くないと教えていたのに、今は死んだテレビに「手を置いて」生き返らせているのです! 主からの答えは私の心に真っすぐに入ってきました。私はそのシンプルさに畏敬の念を感じました!私は「あなたを私が今いる所で愛するのですか、主よ?あなたが私に望んでおられるのは、ただそれだけですか?」と訊ねました。これに対して主は「それがわたしのあなたに望むことのすべてです。」と答えてくださいました。
この永遠の瞬間、平安が私の魂に洪水のように押し寄せ、私は「自分のミニストリーをしなければならない」と言う間違った期待に駆り立てられていた自分から解放されたのでした。神は「私が 神のために何をしたか」を見ておられたのではなく、「 私がどれほど神を愛する人間になったか」を見ておられたのです。主が問題とされたのは、私が牧師であるかどうかではなく、私が主を愛するかどうかだったのです。 何をしていても (テレビの修理人であっても)主を愛すること、、、それならば出来ます!
私の内に深い驚くべき変革が起こりました。私のアイデンティティーは、もはや「牧師であること」ではなく、「神を真に愛する者になること」にありました。このように私が一番自分に重要なことは何かを決めた途端、驚いたことに、その2日後に私はアイオワ州マリオンの教会の牧師になるようにとの依頼を受けました。 ミニストリーに戻りたいという焦りをずっと持っていたにも拘わらず、私はそのチャンスに 飛びつきませんでした。なぜならば、私は主が私に真に何を望んでおられるのかを見出したからです。少ししてから私はこの依頼を承諾したのでしが、その時にはもはや私の焦点は「教会を導くこと」ではなく、「神を愛すること」に変っていました。
神が求められること
神は、私たちのミニストリーの働きよりも、 私たちの愛を求めておられます。主の偉大な戒めは、私たちが主を愛することであり、究極的に言えば、思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛することです。もし私たちが神を愛するならば、神が私たちに要求することはすべて満たすのです。(ヨハネ14:15)そして私たちが神を愛するとき、神はすべてのことを相働かせて私たちの益としてくださいます。(ローマ8:28)
愛する皆さん、神を愛することは難しくありません。私たちはどんな任務(メカニック、主婦、医者、大学生等々)に就いていても、私たちの天の父を大いに喜ばせることができるのです。主を愛するためにミニストリーの肩書きは必要ではありません。神は、実際に私たちの人生の価値を私たちの愛の深さによって計られるのです。真に神を求めるものたちに神が求められるものとは 、即ち、私たちの置かれた場所で神を愛する事です。
祈り:主イエスよ、あなたの愛を知り私はあなたに夢中になりました。あなたは私を引き寄せられるので、私はあなたのもとに急いで参ります。主よ、たとえ世俗的な生活をしている時でも、私はあなたへの愛を表して行きます。どうかあなたの愛の中で私を燃やし尽くして下さい。(終わり)
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