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Walk With God Ministries

批判をとりなしに代える     リック・ジョイナー 2012年2月21日


批判をとりなしに代える

 

リック・ジョイナー

 

どうして、今クリスチャンの間に光がもっと照り輝いてこないのでしょうか。

どうして癒しがもっと起こらないのでしょうか。祈りが聞かれないのでしょうか

今日私がお話しすることが最も大きな理由だと思います。

 

神の御座の前に絶えず行われているミニストリーが2つあります。一つはとりなしのミニストリーです。ヘブル7:25に「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とあります。主は今も私たちのためにとりなしをしてくださっています。主は仲介者です。

 

そして、絶えず行われている二つ目のミニストリーは、罪を告発する悪のミニストリーです。サタンは「兄弟たちの告発者」と呼ばれています。サタンの一番の策略は兄弟同士を告発させ合うことです。サタンはこれを「日夜」していると書かれています。(黙示録12:10)サタンは天国から落とされましたから、どうやって日夜兄弟を御座の前で告発できるのでしょうか。それは、サタンが御座に行ける者たち(クリスチャン)を用いることによってできるのです。

 

とりなしをされる主のミニストリーよりも、「兄弟たちの告発者」の側に私たちがより一致協力していることがあるのではないかと私は思うのです。私たちはそこから解放される必要があります。

 

私たちの人生を他の何よりも画期的に変革することが出来る一番のことは、批判をとりなしに代えることです。これは、神が人々の間違っているところ、罪を見るな、と言っておられるのではありませんが、罪を見たときに私たちがそれをどのように扱うべきかをはっきりと教えておられます。

批判をするのが私たちの取るべき方法ではありません。非難、告発するのが私たちの取るべき道ではありません。 誰かに対する批判を私たちが始めたのではないにしても、もしそれを広めるならば、 その批判を言い始めた人と同じ責任を私たちは問われるのです。

 

誰かを批判をする人は一見賢いように見えます。 自分はその人より良い人間だと言っているようなものです。しかし、実はその人は一番おろかなことをしているのです。ある人の子供を批判するとすれば、 本当は誰を批判しているのでしょうか。その子供の親です。それでは、私たちが神の子供を批判するならば、私たちは一体何と言っていることになるのでしょうか。「主よ、あなたはご自分の子供たちを上手に育ててはおられませんね。私が望む標準に達していません。 」と言っていることになるのです。私たちは神が私たちに下さったリーダーを批判します。神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを与えてくださいます。他人を批判することは、私たちに出来る最も高慢な行為だと思います。

 

主は何と言っておられますか。主はこの事に関して非常に明確に教えておられます。マタイ18章ですが、最初の部分は、人のつまずきの石に絶対にならないように気をつけなさいということが書かれています。小さい者をつまずかせるくらいなら、生まれて来なかった方が良い、とまで主は言われています。そして次にどうのようにすればつまずきの石にならないかを教えておられます。

 

15節ですが、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。」と書かれています。そしてもしその人が聞き入れないならば、他の人も連れて行きなさい、と書かれています。これは、あなたがいろんな人の所に行って、兄弟の罪を全部ぶちまけ、一緒に言ってくれる人を探すということではありません。それはゴシップ、うわさ話をするということです。それはつまずきの石になるということです。そうではなく、神はあなたを一人の人のところに導き、罪を犯した兄弟をどうしたら回復することができるかを話に行くのです。どのようにしたら彼を取り戻すことができるかを話すのです。

 

イエスはこの世の罪を見たときに私たちを罪に定めませんでした。私たちを滅ぼされませんでした。主は私たちのためにご自分の命を投げ出して死んでくださいました。

私たちも主がされたように応答するとき、(主はいつもとりなしをしておられます)私たちも、どのようにすればこの人を助けられるのか、と考えるべきなのです。この人を助けるために、私はどのように命を投げ出せばいいのだろうか、と考えるのです。あなたはとりなし手となるのです。とりなしをするというのは祈リ以上のもの、祈りを越えたものです。

 

それでもその人が悔い改めないのならば、私たちはその人を教会の前に出すかもしれませんが、あくまでも、その目的はその人を回復させるためのものです。その人が本当に自分の罪を悔い改めるためです。

パウロもそのようにしました。コリント人への手紙で、罪を犯している人を取り除かねばならないといいましたが、しかしその人が悔い改めたならば、彼を受け入れなさい、彼は兄弟なのですから、と言っています。

 

ですから、私たちがある人の罪を取り扱う場合、どのようなスピリットで行うかが、とても重要です。もしあなたが その人を回復させたいという正しいスピリットを持たないならば、行ってはいけません。私たちの中に傷ついた心、怒りがあるならば駄目なのです。ベルゼブルとはハエという意味ですが、サタンは「ハエの王」と呼ばれます。ヴィジョンの中にハエが出てくるときは、それはほとんどいつも「偽り、嘘」を表しています。傷口があるときには、嘘(ハエ)がたかるのです。そして炎症を起させ、いやされないようにします。完治していない傷があるならば、祭司になることはできません。旧約聖書に書かれているように、かさぶたのある者は祭司になれません。ですから、もし私たちに傷があるならば、いやされる必要があります。自分の中に何かいやされていない部分があるならば、まずそれをいやさねばなりません。あなたの中の怒りをなくし、完全に赦さねばなりません。あなた自身が真にいやされて、それからその人を助けにいかねばなりません。その人を傷つけるためではなく、助けるために行くのです。

 

イザヤ59:9−12

そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりをのぞき、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、闇の中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたの古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。

 

聖書の最初の3章(創世記1−3)と最後の3章(黙示録20−22)を読んでみてください。完全につながる一つの話になります。その中間にあるものは、すべて神の回復の話なのです。贖い、和解、回復です。イザヤ11章には「狼は子羊とともに宿り....」と書かれています。神は創造されたパラダイスにこの地を再びしてくださるのです。ですから、私たちも同じようにすべての人が回復に向かうように扱わねばならないのです。私たち全員が今、回復へのプロセスを辿っているのです。それは何か大きな失敗をしたとか、大きな罪を犯したとかいう人だけではありません。私たちすべてがそのプロセスを通っているのです。古い自分を捨て去り、新しくされた者として生きようとしています。

 

ガラテヤ6:1

兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

 

神の友となるためには、何事に対しても、誰に対しても、どうすればそれを助け回復させることができるかといる思いで向かうことです。これが私たちに与えられた神からの最高の召しだと思います。(終り)

 

(このメッセージは2012年2月5日モーニングスター日曜礼拝の説教の抜粋要約です。)