28 12月
「Torah律法に帰れ」 坂 達 也 2009年12月28日
「Torah律法に帰れ」
坂 達 也
私たちは現在ホノルルで、メシアニック・ジューのミニストリーに参加しておりますが、今世界的な出来事として云われていることは、ユダヤ人の間で「Torah律法に帰れ」という呼びかけの声が高まっていて、それが現実に起こり始めているそうです。しかしここで重要なことは、救世主イエスを信じる異邦人クリスチャンもそれに無関係ではないことです。このことはモーセが終わりの時代に起こることとして次のように預言しております。
「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。」【申命記30:8-10、新共同訳】
上記にある「この律法の書に記されている戒めと掟」の律法の原語がTorahです。皆さんは律法と聞くと今更なんで律法が持ち出されねばならないのか?と訝しく思われるかもしれません。事実ロマ書10:4に「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」【新改訳】又ガラテヤ3:13には「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。・・・」とあり、加えて2コリント3:6には「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」【新共同訳】と書いてあり、この文字とは書かれた律法を意味しますから、新約のクリスチャンはキリストさえ信じていれば律法は守らなくてよいと誤解される方がおられてもやむを得ないかもしれません。
イエスとTorah
しかし、これが誤解であることは、イエスご自身が、マタイ5:17-18で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われていることから明白です。
イエスという方は律法を生涯を通じて完全に守りきりました。そうすることによって律法の本来の趣旨・目的を完全に成就し実現した唯一の人間であることにご注目ください。律法を守りきったことによってイエスの人格が完成され、守りきったがゆえに彼が唯一「罪のない人間」となり、私たち全ての罪人の身代わりとして十字架上で人間の罪の贖罪ができたのです。
罪とは何でしょうか。罪とは「…律法に逆らうことなのです。」と1ヨハネ3:4に書かれています。罪のギリシャ語はNOMOSですが、ヘブル語ではkhaw•tawが主な語源です。それは元々「ミスする、逸する」という意味であるそうです。「罪とは的を外すこと」と言う定義をお聞きになったことはありませんか。標的に向って矢を放って、的に外れることが元々の由来であると云はれます。この的、標的が神の律法Torahであるのです。つまり、人間の言動において一つも的を外れないことが「罪のない」人です。Torahは、狭い意味で神の律法の書、一般的にモーセ五書を指しますが、広い意味では神のことばである聖書全体の教え、契約、いましめを含みます。
神が元々造られた人間は、罪を犯す前のアダムでした。しかしアダムが罪を犯して以来、神はその罪だらけの人間を元々意図した罪のない人間に返すことを願われ、ご自身の一人子をこの世に人間として生まれさせました。これが第二のアダムと云われるキリスト・イエスです。イエスはこの世においては全くの人間でした。その人間になった神の子が一つも罪を犯さない人間として一生を通すことが出来るかどうかが神の全創造にとっての最大の課題でありました。何故なら、イエスが一つでも罪を犯す(律法に反する)ならば、十字架で死んで人間を救うことが出来なくなるからです。イエスはイスラエル人として唯一人このテストに合格しました。イエスは神の律法のすべてを守ることによって罪の全くない人間・第二のアダムになられたのであって、これは大変重要なことです。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じ、その後を追い、この方をモデルとしてキリストに似た者になることが最大の目標です。と言うことは、私たちも厳密な意味ではTorah律法を守らなければならないことになります。さもなければ罪を犯すことになるからです。又、律法を守ろうとしたのはユダヤ人のイエスだけではありませんでした。イエスを信じる弟子たちは皆、ペテロもパウロもユダヤ人として律法を守り、彼らにとって律法を捨てることは思いもよらないことでした。ですから、将来においてもモーセはユダヤ人が律法に返る日が来ると上記のように預言しました。
一方、異邦人の私たちは聖書ではユダヤ人とは違う取り扱いを受けることは確かです。そのことの一例が使徒行伝15:28章に書かれています。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな(律法を守る)重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」その他、異邦人は肉の割礼を受けなくてよいとも言われています。
しかし、それはあくまで異邦人が「救われるための条件」としては「全ての律法を守らなくてよい」と言う意味であって、異邦人であっても救われた後の「聖化」のためには、と言うより、「聖化のためにこそ」律法に親しみ、神のみことばを注意深く何度も紐解いて確認する必要があると思います。
勿論クリスチャンになった以上、基本的には「 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:6)、そして「 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)が原則ですから、律法に縛られることはありません。そして、聖霊に導かれた生活をしている限り、実際には適用されるべき律法