18 1月
霊的な礼拝とは 坂 達 也 2010年1月18日
霊的な礼拝とは
坂 達 也
礼拝を含めた色々な集会において、濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはほとんどいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。
私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。一昨日の朝がそうでしたが、主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。
勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださる(感じる)とは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5:16)この霊的事実は信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。
最近の私にとっては毎朝御霊とお会いし、御霊に満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。それは主の御声を聞くためというより、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからです。
ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、最近次のように語っています。「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」
「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。
私はダビデによる詩篇23を読む時はいつでも、この詩だけが持つ独特の「音色」と言いましょうか、それはダビデの心そのものが溢れるように伝わって来ます。恐らくそう感じるのは私だけではないと思います。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
私はクリスチャンになった頃は英語の聖書に親しんでおりましたので、最初の二節The Lord is my shepherd;Ishall not want. He makes me to lie down in green pastures; he leads me beside the still waters.の方に今でも親しみが湧きます。特に1節でIshall not want は「乏しいことがありません」の意味で全く間違いではありませんが、むしろ「私は主が私の必要な総てを与えてくださるので心から満ち足りており、私自身は何も欲しくはありません。」という英語訳のニュアンスが好きです。又、2節を読みますと、水のほとりにある緑の牧場の光景が「神の平安」に包まれたすばらしい場所であると同時に、神にあっての「静けさ」が伝わって来ます。邦訳にある「いこいの水」とは、多くの英語の聖書で「静かな水still water」と訳されていますが、それは怖い急流でも、よどんで死んだような水たまりでもない、安全で静かな清流のほとりという意味でありましょう。
この詩篇は神をこよなく愛したダビデが、神と自分との関係を表した心からの主への愛の讃歌であり、主への信頼、感謝、喜びに満ち溢れたものです。このダビデの心はまさしく主キリストの心と一致しております。
主の心、思いと一致する
今の私たちに最も必要な「主の御前に立つ祈り」とは、私たちの心と思いが主の心と同じになる、主の思いと一つになることにあると思います。そうなってこそ心が通じ合い、主の心の思いと「静かな小さな声」が伝わってきます。これが主と親しい間柄になるということです。
私たちの身体の総ての細胞が声を持っている
心が一つになるとはどう言うことでしょうか。ジェシカ・ジョーンズ師は次のように言っています。
「私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものです。・・・すべてのものが音を出します。この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。すべてのものは物体ではなくて音なのです。・・・創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。・・・私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があります。・・・私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばなりません。・・・すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。・・・この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。・・・ 一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。白は義の衣の色です。 この一致した音の振動はパワフルな力です。