26 2月
「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ ウエイド・テイラー 2月26日
「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ
ウエイド・テイラー
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。—キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:12、14
私の聖書学校の先生(ウオルター・ビュートラー)は、しばしば「不満足な満足」ということを話されました。彼は主から受けたすべてのことを感謝し満足していました。しかしそれと同時にもっともっと得られるものが沢山あることを知っていたので不満足だったのです。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:10
「良い行ない good works」とは、主がご自分の目的を果たすために私たちの人生の途上に置かれる物事や状況です。まず私たちが調えられる準備期間の間は、私たちの内側でそれがなされますが、次の段階では私たちを通して他の人々の益となるように行われます。「私たちが良い行ないに歩むように that we should walk in them」という部分の「should 歩むように」とは条件であり、 神が 召されている主の目的に沿う道を選択することに関しては私たちにも責任が掛かっているということです。正しい選択は普通、一番選びやすいものとか便宜がよいというものではありません。ですから私たちが正しい道を選びとることはこの上もなく重要なのです。
私への神の御心
聖書学校を卒業したとき、 次に何をすべきかを知るために私は主を熱心に求めました。それにも拘わらず、 一見主からの指示は与えられていないように思えました。一つの聖書学校が新たに始まることを私は知っていました。その学校の目標の一つは学生たちをイタリヤ語でミニストリーが出来るようにするというものでした。私はイタリヤ人ではないので関係がないと思いましたし、イタリヤ人へのミニストリーに召されているとも感じませんでした。
ですから、私がこの学校に対して感じた「惹き付けられる感覚」を 横に押しやって、私はフィラデルフィアの北の中心部にあるセントン通りに教会を始めようとしました。1959年7月4日に私は60マイルの距離をフィラデルフィアに向けて出発しました。一つの商店を教会のために借りて、自分が住むところも探そうと思っていました。南に向かって運転していると、自分は間違った方向に向かっているという思いがどんどん強くなってきました。
私は車を止め、この思いについて主に尋ねました。すると主は、私が新しい聖書学校に行くべきことを示してくださったのです。私は車をUターンして、反対方向に走りはじめました。私は卒業後にするべきことに関して随分と祈りました。しかし主は私が主に仕えるために実際に行動を起こすまでは何も答えずに待っておられました。そして 行動を起こしたときに私がおるべき場所に関して語ってくださったのです。
聖書学校に着いてゲストルームに落ち着くと、直ぐに私は静かに祈れる場所を探しました。そして、私はここには来たくなかったこと、しかし主からの最上のものを受けたいことを主に再び申し上げました。それに応答して主ははっきりと私の霊の奥深くに語ってくださいました。「わたしはあなたがフィラデルフィアに行くことも許します。そしてそこであなたにミニストリーを与え祝福もします。しかし、ここがわたしがあなたに居てほしい場所です。そして今のわたしのあなたへの御旨はここなのです。」
翌日、私は学生として受け入れられ入学しました。数ヶ月が過ぎたころ、私が祈っていると、突然私は天で神の御前に立っている自分を見出しました。神が私の直ぐ前の御座に座っておられることがわかりましたが、輝く栄光で目がくらみ神を見ることはできませんでした。言葉では表すことのできない聖さを感じました。
御座の前に立っていると、左の方から波のような強烈な栄光の流れが鮮明な色をして私の方にむかって流れてきて私の霊の深みに入っていきました。あたかも長い貨物列車が私の内に入ってきて沢山の荷を一台一台私の霊に中におろして行ったようでした。一つ一つ次々とそれらが私の中に入る度に、私はこの学校が建っている場所でミニストリーを立て上げるのだということがはっきりとわかってきました。私の身体のすべての細胞が感光する声帯になったようで、 主が御心のまま臨在し事をなすことができる「特別に聖別された場所」を望んでおられることを私は悟ったのでした。
私が天からもとの祈っていた場所に戻ったとき、天で経験した顕在の栄光で 非常に深く触れられていたので、以前通りの日常生活に携わりその中で機能することにとても困難を感じました。「普通」にもどったのはそれから2週間も経ってからでした。
「今の御言葉」を「聞く耳」を持つ
私が召されたこの「ミニストリー」は、主が私に送られる人々を調えることであることが次第にわかってきました。 彼らが主の御声を認識し、それに応答し、それを尊び、主の顕在の臨在に敏感になるように調えることです。これは即ち、終末の主の目的のために調えられて聖別される人々をさしています。
「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」黙示録19:7
この聖書学校はイタリヤ・アッセンブリー・オブ・ゴッドだったのですが、設立されて3年目に閉校となりました。その後6年間空屋となっていましたが、不思議な方法でそれが私に寄贈されたのでした。その待っている期間に、私が終末の「バプテスマのヨハネ」として用いられるために調えられていることを主は悟らせてくださいました。後に主はこれを聖書の中で最大のアイロニーを示す御言葉を通し確認させてくださいました。
「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」ルカ3:2
「アンナスとカヤパ」とは確立された宗教組織のリーダーと機能を表していますが、主はそれを回避(バイパス)されたのです。「荒野」とは、孤立した不毛の環境であり、主はヨハネをミニストリーの重要な時に調えるために荒野を用いられたのです。
宗教組織は十分に確立され機能していました。しかし主はその時宗教組織の中には主の「今のための」御言葉を与えることができる「聞く耳」を持ったものを見出すことができなかったのです。主は聖職者ではないものを選ばれ、 訓練のために彼を「荒野の 体験」へと導かれたのです。
今日もなお、キリストのからだの中には主に己のすべてを捧げて、主からの新しい御言葉を受け取るために選ばれている人たちがいるのです。これは私たちが終末のバプテスマのヨハネとなる備えをするためには、絶対に「今の御言葉」を主から 受け取る必要があるということであり、それによって来るべき終末の時代に主の顕在の臨在の証人となれるのです。ですから、 このような証し (まず自分の内に、そして私たちを通して外にむかって)を完全に示すために、私たちは正しい選択をしなければならないのです。
当時の宗教的組織は(主はそれをバイパスされましたが)かつては神の栄光を経験し、主から直接啓示を受けました。しかし主が 彼らに今現在望んでおられることを理解するに当たっては、過去の経験だけに頼って理解しようとするようになってしまいました。過去において主が彼らの中で働かれたという事実は、彼らを現在の必要のために 調えるには十分ではなかったのです。彼らはもうすぐに来ようとしておられる「神の小羊」に関する「今の御言葉」を聞くことが出来なかったのです。
今の時には、間もなく現れる「ユダ族の獅子」のために 特別な召命を受けた者たちがいます。ですから、たとえ過去に多くの啓示を受け取っていたとしても、 「今主を求めるもの」が私たち一人ひとりの中に存在しなければなりません。昨日の啓示は今日の問題とプレッシャーに対応するために私たちを調えるには十分ではないのです。
真の聖霊のぶどう酒
私が聖書学校の学生だったとき(1956−1959)、主の偉大な訪れがあり、それは2週間続きました。私たちは毎日早朝から夜遅くまでチャペルに集っていました。初めのうち強烈な悔い改めと清めが起こり、その後で主の「顕在の栄光」が私たちの上に注がれました。それと共に「新しいぶどう酒の泉」が発見されました。そこから飲むものは誰でも聖霊に激しく満たされ大胆で力強くなりました。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」エペソ5:18
「多く飲んで酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。」の意味は、聖霊による崇高な霊的力の分与にとって代わる、偽りの代用品のことを言っています。この代用品(ぶどう酒)は、サタンによって用いられ、数えきれないほどの人生や家族が破壊されてきました。ぶどう酒を飲むことによって「益」と見えるものは、実はすべて欺きであり結果としてひどい代価を払わせるものとなるのです。
「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:18−19
これは聖霊の真のぶどう酒が持つ変革の成果です。それは私たちの能力以上の霊的大胆さと自由さへと私たちを解き放ち、神に栄光を帰し、私たちが大きな自由さと力をもって働くことが出来るようにするのです。
しかしその時の経験がいかにすごかったとしても、私たちは「過去の主の訪れ、ヴィジテイションの泉から飲む」ことにすがり続けてはいけないのです。私たちは新鮮で新しい超自然の領域に入るために、今主を求め始めることが緊急に必要とされています。初めて主と出会った場所を振り返っていてはいけないのです。又、「新たなもの」が自分の人生やミニストリーにどのように、いつ、どこで導入されるのかを、私たちが主に向かって要求するのでもありません。(私は車の向きを変えて、自分が受けた召しには適合していないと思える場所に向かいました。)
私たちは「不満足な満足」を持たねばなりません。即ち、自分が現在持っているものに対して感謝をすると同時に、「もっと更に」と主に積極的に求めるのです。コインには両面があります。コインの裏と表は違っていますが、その両方で完全な一つとなります。私たちの過去の経験と現在の経験を一つにして、自分が進んでいく未来への道を作らねばなりません。
ヨハネの証しは彼が「荒野で叫ぶ者の声」であるというものでした。彼は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)と叫び 、その時の緊急を要する必要をはっきりと認識したのでした。私の召命とミニストリー はヨハネが彼の時代に語ったように、今私たちが生かされている困難な時代に、主の目的のために今の「声」を語ることができる人を調えることなのです。
そしてそれは1959年7月4日に私がフィラデルフィアに向かっていた車を止め、主からの「今の言葉」に応答して反対方向に向きを変えたことによって生まれたのでした。振り返って見て、私はその時正しい選択をしたことを本当にうれしく思います。
1959年のその日から多くの年月が経ちました。それは栄光に満ちた年月であり、霊的分与を授けた年月、多くの人々が変革された年月でもありました。また間違いを犯してしまったこともありましたが、私はそれを悔い改め主から赦しを受けました。今現在、私はワシントンDCに住んでいて、主から「今の言葉」を受け取っています。そして召命の次のレベルの働きへと移行するために、私は再び「向きを変える」かもしれません。私のミニストリーは主が意図された目的と成就にむかって今進もうとしています。
皆さんも重要な決断をするときに、過去の霊的経験や現在の状況にだけ目を奪われるのではなく 正しい道を選び取られるようにとお祈りいたします。
(終わり)
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