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Walk With God Ministries

28 3月

まず神が愛された故に グラハム・クック 3月28日 



まず神が愛された故に

グラハム・クック 


  神が私たちに求められるものは、すべてまず最初に神が私たちに与えられます。 キリストによって私たちの内にすでに与えられているものでなければ、神は決して私たちに要求されません。私たちの持ついかなる啓示もそもそもは神によって与えられたものです。私たちが神に捧げるワーシップも、神が私たちの内に置かれたものです。神に捧げる私たちの愛はすべて、神がまず私たちを愛してくださった故に存在するのです。私たちが神に捧げる栄光はすべてもともと神から来たものです 。私たちがすることは、神がすでに与えてくださったものをそのまま神にお返しするだけなのです。

このように御霊のうちに生きることは、直感的、直覚的なことです。私たちが神に頼って生きることに喜びを持つようになると、 常に期待し待ち望むという姿勢で生きることができます。クリスチャンは決しておどおどと人生を恐れて生きるようであってはなりません。常にイエスに夢中で魅了されっぱなしの人生を送るべきです。


私は期待感でわくわくしながら人生を過ごしたいのです。 周りで起こっている様々な状況に脅かされることなく、神ご自身と神がなさることにいつも魅了されて生きることを私は今学んでいます。 私は自分の人生の毎日の出来事、問題、課題の中に神を見出したいのです。神は毎日四六時中、何かを計画されておられることを私は知っています。私はそのご計画に参画したいのです。私が毎日置かれている状況の中で、神がご自身(の性格)をもっと私に教え、あらわしてくださることを知りたいのです。私はローマ人への手紙8:28の「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という法則をしっかり信じて実践したいのです。

私たちが幼な子のようなシンプルさで生きるならば、私たちを打ち負かせるものは何もありません。「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とローマ8:37でパウロは言っています。勝利者とは、自分一人が解放されるだけではなく、他の人々をも自分と同じライフスタイルで生きる自由さへと解放することです。

まだクリスチャンになっていない人に「伝道しよう」とすることは、私たちができることの中で最低、最悪のことです。神は私たちに「伝道する」ことを要求されてはおりません。そうではなく、私たちの周りの人たちが、私たちの中にある神のご性質のよさを見て興味をそそられるような生き方をすることこそ、神が望んでおられることだと私は思います。そして人々が神に関して、あるいは私たちを見て感じることについて何か質問された時には、いつでも答える用意が出来ていなければならないと思います。私たちは常に神がしておられることを見張っていて、神のその時のご計画に従って神と共に歩いて行かねばなりません。これこそイエスが神の愛を人々に伝えた時に用いられた方法であり、主はヨハネ5:19で次にように説明されておられます。「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

神がある一人の人をあなたに示されて、その人に何か特別のことをしなさいとか又は言いなさいと告げられるときは、神はすでに私たちがその人に与えようとするものを私たちの心に与えておられるのです。それをその人に伝えることによってその人の心が変えられる、その心と私たちの従順さが神のもとに返されるのです。マタイ10:8でイエスは「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言っておられます。伝道とは、神がある人の人生の中に始めたいと思われるサイクル(コミュニケーション)の一端を担うことです。


  神にすべてを頼り委ねる生き方の喜びとは、どのような状況も私たちの内の神の働きを止めることは出来ないということです。イザヤ54:17に「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」とあります。私たちの内にある神の力は、それだけで何事をも克服することができるのです。 私たちが神の真の偉大さを見るとき、 驚嘆の思いに満たされるとき、 幼な子にようになるとき、私たちは神が見られるように自分自身を見ることが出来るようになります。即ち、 誰も止めることができない(神の)慈愛と善の推進力として自分を見るようになるのです。(終わり)


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