13 4月
潮の満ち引き グラハム・クック 2010年4月13日
潮の満ち干き
グラハム・クック
これは神の御性質のパラドックの一つですが、神は常に不変である方であると同時に、その時々のシーズンを持っておられます。私たち人間にとってこのような概念はとても理解しにくく、どう扱っていいかわかりません。しかし永遠なる神がなさるすべてのことにはシーズンがあるのです。自然界において神は4つのシーズンを造られ、種まきと刈り取り、労働と休息というように地球の活動を営ませています。これと同じことが霊的な領域でも言えるのです。
しかし何故かほとんどの教会は、 完全なバランスを見つけてそれを常に同じように保とうと必死になっています。彼らは 教え(説教も含め)とワーシップとのバランスや、御言葉と御霊とのバランスを常に保とうとしているのです。
しかしながら神はそのようなバランスという考えを拒否されます。神の御霊は私たちの人生の中で潮のように満ちたり退いたりするのです。私たちは神の御言葉によって満たされ導かれるときもあり、また、御霊によって満たされ導かれるときもあります。私たちのするべきことは神が今何をされているのかを見て、その中で神に応答し行動をとることです。
神がもし御言葉を通して奥義を啓示されているのなら、私たちは当然聖書に焦点を当てねばなりません。もし神が聖霊の賜物や御業(啓示も含む)を通して物事を明らかにされているのならば、そちらにどんどん進んでいかねばなりません。
私たちは絶え間ない御霊の流れの中で生きることはできません。それは不自然なことなのです。満ち潮になったならば、必ずその後には引き潮があります。私たちが御霊の引き潮になったとき、神は 御言葉の不変性へと私たちを導いてくださるのです。そしてその御言葉が 次に来る御霊のシーズンをしっかり下から支えるものとなるのです。
神は御霊の引き潮のシーズンを次のブレークスルーについて私たちに教えるために用いられます。ですから御霊の引き潮の時に私たちが何をするかということが、次に神が私たちをその中に導かれようとしている(満ち潮の)流れのために大変に重要なのです。 満ち潮と引き潮の両方を神は私たちを導くために用いられます。
神のシーズンは規則的に必ず又巡ってくるものであることを、クリスチャンはまずしっかり把握し信じなければなりません。もし神が当初にあなたに何も語られない場合は、いつかは必ず語ってくださいます。その御言葉が来るまで、私たちは主の内にじっと安息することを学ばねばなりません。私たちはしっかり「確立すること」と「探し求めること」という両方を同時に行うことは絶対に不可能です。
このようなパラドックスをバランスよく保つという能力を私たちは神から与えられておりません。その代わりに私たちは、神がそのシーズンに何をされているかによってこの二つの両極端の間を行ったり来たりするのです。ある時には私たちは全く確立されて神の御言葉にしっかりと結び付けられています。またある時には、私たちは深い旅に出て御霊の奥義を探索します。
御言葉の絶え間ない流れの中にだけ常にとどまることは、神を知的な思考の中に閉じ込めることになってしまいます。その結果、私たちは神を「知性をつくして」だけ愛することになるでしょう。しかし 探し求め探索するとき、私たちは神を「力をつくして」愛し始めるようになり、神により頼むのです。私たちの人生は御言葉の素晴らしい冬のシーズンと御霊の燃えるような夏のシーズンのどちらをも経験しなければならないのです。
神の満ち潮、引き潮をちゃんと理解している教会を想像してみてください。御霊が動いておられるときは、人々は自由に探索し最高のかたちの賛美をもってワーシップをするように解放されます。夜の集会はただ神を賛美するだけとなることでしょう。神の力の顕れや働きが毎日起こることでしょう。
http://www.exblog.jp/myblog/entry/new/?eid=a0051378#
そしてその同じ教会は十分成熟しているので、神が彼らを御言葉に引き戻される時にはそれを察知できます。このような教会はダイナミックな教え(テイーチング)と真理の場所となることでしょう。彼らは神の御言葉(神の子供たちの心に与えられた御言葉)が御霊を深く探り求めるときに必ず共にあることを信頼します。人々は教師や牧師が、次に来るべき御霊の偉大なる満ち潮のために彼らを備えてくれることを知っているので、彼らの周りに喜んで集まってくることでしょう。
御言葉と御霊は 素晴らしい関係で結ばれているのです。両者は決して衝突したり矛盾したりしません。お互いに譲りあう時を知っています。満ちるべきとき、退くべきときを知っているのです。(終わり)
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