20 4月
時に備える #16 リック・ジョイナー 4月20日
時に備える #16
リック・ジョイナー
今の時代を理解し把握するために、私は すべての物事を常にその根源まで掘り下げ、 神の御手がそこにあるかどうかを調べるようにしています。詩編90:17には「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」とあります。私はこの祈りをしばしば祈ります。というのは私は単に忙しく働くのではなく、「父なる神の仕事」をしていたいからです。私がしていることが本当に神の仕事かどうか、又、私が調べていることが神の目的のためかどうかを私ははっきりと知りたいのです。多くのことが私の興味を惹きはしますが、私は自分を楽しませるために生きているわけではありません。私は主の御心を行うために生きているのであり、自分のしていることが本当に御心かどうかをはっきりと知りたいのです。
私たちのミニストリーには 預言的な人が沢山来るので、そのミニストリーのリダーとして 私はここ何十年か預言というものを理解しようと努めてきました。そして聖書のどこを探しても主がご自分の預言を確認のためにもう一度言われるという箇所がないことがわかりました。イスラエルの歴史の中で最も義(ただ)しい王の一人であったヨシヤの例を見てみると、彼は主が全く思いもよらない者の口を通して語られた時その声に従わず、それ故に死を迎えました。その言葉はただ一度語られただけでした。物事を証拠もないのに思い込むことは危険です。特に聖書の中で確立していない事を「法則」であると教えることは大変危険です。
またある事が聖書に一度書かれているからそれが法則であるということもできません。しかしもし一度書かれているのなら、それは起こりうることであるとは言えます。私が信じる健全な神学の基本は、聖書全体がある一つのことを言っていたとして、ある一節とか一例がそれと違うことを言っているときには、自分の神学を一つの例外に判断の基礎を置かないで、聖書全体が言っていることに基礎を置くべきであるということです。勿論、例外と見えることも理解するように努めるべきですが、それが理解できるまではそれを自分の神学の基礎としたり、それについて人に教えたりすべきではありません。
確かに主が人々に繰り返して語られた事はあるにはあるのですが、それはむしろ例外です。ほとんどの場合、主は一度だけ語られました。そして主は私たちが一度聞いたらすぐ従うようにと期待しておられるのです。
親が子供にいつも何度も言うくせがついているので、子供はしつこく言われるまで従わないとか、親がいらいらして大声を出すまで従わないということがよくありますが、主はそのような親とは違います。主は「『はい。』は『はい。』『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と 言われました。(マタイ5:37) 主はご自分の子供たちに一度言われたらすぐに従うように教えておられるのではないでしょうか。一度目の言葉で主の御心は全部わかるはずです。
私は自分の子供たちにも同じように教えようとしています。私が言うことを口答えしないで一回目ですぐに聞き従うことです。勿論、彼らが私の言ったことがはっきりわからなかったときは別です。そのような時はもう一度訊ねることは勿論かまいません。しかし特別私が意見を変えねばならないような大きなことがない限り、私の言いつけに子供たちが反論することを私は許しません。このことを私は軍隊やパイロットの訓練で学びました。歩兵隊の演習の時、 もし私が命令に従わなければ多分死ぬであろうし、私の部下も多分死ぬであろう、そして恐らくそれによって全軍を危険にさらすことになるであろう、と教えられました。どうしてでしょうか? 味方の軍隊が誰も送りこんでいない場所から弾が飛んできたら、それは敵からだと思うでしょう。状況が危機的であればあるほど、命令をはっきり聞いてすぐに従わないことは非常に危険なのです。
パイロットとして私がもしある高度と方向を保つようにと言われたのにそれを聞かず従わないならば、私は他の飛行機と同時に同じスペースにいることになるかもしれません。それは勿論望ましいことではありません。空撃飛行の時、もし命令された方向と高度にいないならば、あなたは敵機だと思われて味方に撃墜されてしまうかもしれません。言いつけに従わなかった歩兵と同じです。
終末に近づいている今、主の御声を聞いて従うことがますます重要になってきていますし、やがてそれが生死を分けることとなることでしょう 。私たちのミニストリーは出発当初から主の御声を知ることを重視して来ました。従って何十年も主の御声をもっとよく知ることを探し求めてきたのですから、私が知っている他のミニストリーと同じくらいには学んできたと思います。しかし、これは私が主から繰り返し聞くことなのですが、来るべき時代に備えるために私たちはもっともっと主の御声を今よりもはっきり聞く必要があるのです。(終わり)
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