02 5月
「時をあがないなさい」坂 達也 2010年5月2日
「時をあがないなさい」
坂 達也
エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」
コロサイ4:5「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」というみ言葉があります。どちらも同じ原語から「機会を十分に生かして用いなさい。」と訳されておりますが、それを直訳すれば「時をあがないなさい」です。英語では redeem the time、ギリシャ語ではexagorazo kairos です。(Kairos=カイロスの時)
私はアメリカでクリスチャンになり、英語の聖書から読み始めたものですからこの語句 redeem the timeの意味が、一般に解釈されている訳とか意味ではもう一つ合点が行かず、頭を傾げながら30年余が過ぎて来ました。ところが、最近「永遠の時とは何か」と言うことを学んでいた時に、主に改めてこの redeem the timeの意味を問うたところ、今朝主がその答えを下さいましたのでご参考までにお分ちする次第です。
英語の聖書では日本語の聖書の意訳(上記)と違って、そのまま素直に直訳の redeem the time と書いてありますから「時をあがないなさい。」です。一体「時をあがなう」とはどういうことなのか、字づらの意味は簡単ですが、その意味するところが理解出来ずに考え込んでしまっていたのです。
この redeem「あがなう(贖う)」という言葉はクリスチャンなら誰でも知っている、そして最も重要なイエスキリストによる「罪のあがない=贖罪の救い」を表す言葉です。その意味は、
1 代価を払って買い取る、買い戻すこと
2 枠がはめられ、窮屈で、苦しめられていたもの、何か益にならないもの、あるいは捕われていた状態から、代価(身代)を払って解放する(救い出す)こと
3 罪の結果とその報いから解放する
4 悪い影響(例えば借金でがんじがらめになっている状態)に対してそれを解消するだけの支払いをして相殺にする
です。つまり redeem the timeとは、代価を払って「時」を買い取って時を無くする、あるいは、時と言う窮屈な「たが」「制約」から解放され timeless 時のない状態になる、もどる、と言う意味です。
ご存知のように、元々神は全く時に縛られない「時のない」世界におられ、今もその世界に存在されている方です。時の無い世界の経験が無い人間には適当な言葉がないため、やむを得ず「永遠」と言う言葉で表しましたが、聖書で言う「永遠」とは「時が永遠に続く」ということではなく、「はじめも終わりもない状態、永遠の今が無限に存在する」と言うことです。
従って、時の移り変わりのない神は絶対に変わらない、「イエスキリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブル13:8)と言われます。
神の創造は、時が存在しなかった有史以前に神の心の中で、神のいのちの一部として完成されていました。そして、その後も絶対に変わらないのは神が時の無い方であるからです。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何をつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神はそれをなさる。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。…」
(伝道者の書3;14,15)
時とは神が宇宙(天と地)を創造した時点で加えられた「被造物」の一つです。天地創造をされて以来、この宇宙は時の一方向の流れに乗って(縛られて)いますが、神の国、天では「時」はあっても、それに縛られることはないのです。(難しいことを言ってすみませんがご理解いただけると信じます。)
その意味で厳密に言えば、神は元々、全く時を超越した存在ですが、天地を創造した後、 現在は「時のある天国」におられる。その天国の時とは、自由自在に過去とか未来に行ける、しかも流れている「時」も存在する、といった世界であって、地上の「一方向の時という枠にはめられた状態」とは違うようです。
ややこしい話で、私もよく分からないのですが、これを区別する意味で、神は最も高次元の世界を持っておられる方、天は4次元+時間の「霊の」世界、そして地球上は3次元+時の自然界の世界と言うことにしたいと思います。
何故こんなあまり要領を得ない話を私が敢えてするかと言うと、実はこの「永遠の次元で生きる」ことがこれからの私たちクリスチャンの生き方として最も重要な鍵になるからです。
イエスキリストは肉の人間に生まれて来ましたが、「第二の人は天から出た者です。」(1コリント15:47)とパウロが言うように、天の人でもあります。(Son of God で Son of Manと言われる)
と言うことは、イエスは肉の3次元世界と霊の4次元世界の両方に同時に住んでいる方であると言うことです。
そのイエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子(Son of Man)の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。これで思い出すのはヤコブが見た夢で「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」(創世記28:12)ですが、イエスキリストは天と地にはしごをかけて行き来する、どちらにも存在している人(人の子)であるのです。
そして、私たち人間もそうであるべきだと言うことをくどい程強調しているのがヨハネ伝を書いたヨハネです。彼がしきりに言う「永遠のいのち」がそれです。永遠のいのちとは時間に制約されない4次元の力が自由に使える状態を指し、そのような人を御使いは常に助けてくれるのです。
ヨハネ自身がその二つの次元に生きていて主イエスを最も理解していた弟子であることがヨハネ伝からうかがえますし、またこの福音書が他の三つと違うユニークな書であるゆえんであると思います。
その一つの例をあげれば、ヨハネは「真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。(ヨハネ4:23、24)彼の言わんとすることは、礼拝とは時間の長さとか量ではなく、時間の無い「永遠の今」という私たちの過ごす時間のどこを切っても常に「父を礼拝する真心」しか出て来ない状態を言っていると信じます。
ところで、「時間の無い」と言うのはどんな世界であると思われますか。考えてみれば実にやりきれないような気がします。例えば、あなたが誰かに腹を立てて、絶対に赦せない気持ちに