03 6月
「神の子」と「人の子」 坂 達 也 6月3日
「神の子」と「人の子」
坂 達 也
皆さんはクリスチャンとして、自分が「神の子ども」であると同時に「人の子」であることを、どれほどはっきり自覚しておられるでしょうか。
「神の子ども」であると言うことは、文字通り「全知全能の創造主の子ども」と言う意味であり、「自分はそのような力と権威がある神の家族の一員で後継者」であることをしっかりと自覚していると言うことです。
勿論、私がそのように「身構えた」質問をすれば、皆さんも「身構えて」 神学的な建前として「そうです」とお答えになる方も多くおられるでしょう。しかし実質的な話として本当にそれを自覚して毎日を生活しておられるでしょうか。
何故今更そんな質問をするかと言いますと、今、これが真剣に問われる時代に来ていると思うからです。
私たちクリスチャンは,既に神の御子イエス・キリストを信じ、霊に生まれ変わることによって神の子どもになりました。しかしそれはどう言う意味でしょうか。
先ず「神の子」と言う名称についてですが、英語の場合は単数形の子(息子)である Son of God と書かれます。この単数形の「神の子」は三位一体の神【父と子と聖霊】の二人目の神としての「子」であるイエス・キリストを指しますが、新約聖書ではその意味で37回使われています。通常この呼び名は神としての「ご性質」を表し、父なる神と同等であることを意味すると言われます。
人間は元々アダムにおいて「神のかたちに神に似せて造られた」と書かれていますが、神は人間を少しだけ神に似るように造られたのか、それとも全部似るように造られたのでしょうか。創世記1:26 -27に下記のように書かれています。
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身の形として創造された。」
神は元々人間を造るに際して、大真面目で本当に「自分の子供」を造る思いで造られました。ですからアダムを神に似せて造られたのは当然と言えば全く当然です。
アダムがどれほどの権威と力を持ち、どれほど創造者の神に似ていたか、生まれながらの罪人である今の我々には想像もつかないことであると思います。しかし、そのすばらしい力の一端を知る資料として創世記2:19、20があります。
「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが...」
動物とか鳥に「名前を付ける」と言うことがどれほど重要な仕事であるかご存知でしょうか。これこそ三位一体の創造者の神がなさった創造そのものに参加すると言っても差し支えないことであるのです。
被造物を創造するにあたって、神である「子」は、「父」の意図を汲み取り、造るものの全ての特性から遺伝形質とか性格に至まで、その動物の特質の全てを 言い表す言葉で命令し、それを受けて「聖霊」なる神が具体的に必要な細部の構成分子とか原子を組み立てて具体的な「創造」が行われました。
ヘブライ語で表されるユダヤ人の名前はその人の性格とか「人となり」を象徴的に表します。従って名前を付けると言うことは、その人なり動物の性質にぴったりの名前でなければなりません。名前によってどんな性質かが公表されるのです。
三位一体の神は恐らく固唾を飲んでアダムがどんな名前を付けるかを見守ったことでしょう。アダムは「子」であるキリストが創造した動物の性質そのものを象徴するような名前を付けねばなりません。これがうまく出来るかどうかは、最初の人間アダムの出来具合いをテストする重要な機会であったのです。
アダムは的確な名前を付けるために、創造者その人であるキリストがそれぞれの動物をどのような性質に造ったのかを聞いて知る必要がありました。そこでアダムは全てをうかがい、それに対して主キリストは的確に答えて教えられたことでしょう。この霊による質疑応答のコミュニケーションは心と心が密接に通じ合う親密な間柄の人間関係においてなされます。主とそのような関係にあったアダムは神の意向を全て理解した上で、それぞれに適切な名前を付けて発表しました。
父と子と聖霊の神は、恐らく顔を見合わせて満足され喜ばれたことでしょう。アダムはテストに合格したのです。それと同時に、総ての動物は最初の顔見せにおいて、アダムに従属する主従関係にあることを理解しました。この儀式によってアダムは地球上の全ての被造物の上に君臨する権威とリーダーシップを確立したことになります。
ここで非常に重要なことが分かります。それは、最初の人間であるアダムは確かに被造物ではありますが、むしろ創造者側に属する「創造者」でもあると言うことです。「名前を付けて見なさい」と言われ、それが出来たのですから、アダムは神の「仲間」に加えられたのです。名を付けると言うことは創造的行為です。つまりは、人間は創造者になるように造られた唯一の被造者であると言うことです。
それに関連してもう一つ重要なことがあります。それは三位一体の神は、三人で一人の神と言われますが、何故そうかと言えば、御三人の心と行動がものの見事にいつも一致しているからです。お互いの意志と思いがいつもピッタリ通じ合っているのです。私はこれが、神の神たる最も重要なご性質、あるいは特質であると思います。
従って神に属し、神に似る(仲間入りをする)ように造られている人間は、その心と行動において、何としてでも神と一致し、同じでなければならないと言うことになるのです。神が人間に対して徹底的に「神への従順」を要求する理由はここにあります。当然ではないでしょうか。
ところがそれ程神に似ていたアダムが、神に背いて罪を犯してしまいました。その結果として、神との関係が断たれてしまい、「神のかたちとして、神に似せて造られた」性質と特権を失ったのでした。
神学者のアーサー・カスタンス氏によれば「神のかたちに」の「かたち」は英語で image と訳されていますが、この言葉 image は主に同種・同族の「属する関係」を表すと言い、又「神に似る」の「似る」は、英語の likeness で、同じ性質を持つと言う意味であると言っております。
それはちょうどイエスがカイザルの肖像が付いたコインを持って 来させ、「これはだれの肖像 image か、だれの銘か。」と聞きました。人々が「カイザルのです。」と答えると「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われた通り、人間には元々神のイメージが付いたスタンプが押されていたのです。(マタイ22:19−21)
そうであるなら人間は神に属する「子ども」として造られ、しかも性質も似ていると言うのですから、人間は本当にただ者ではないのです。
それを今のように無力で、むしろ全く神に似つかわしくない悪い性格になり下がってしまったのは、アダムが罪を犯した後、総ての人間がサタンの言いなりになって来たからです。
ですから神は、初めから人間が罪を犯すことを見越して、創造の前から「子」であるイエス・キリストを十字架に付けて罪に堕ちた人間を救出ることを計画しておられたのです。そしてイエス・キリストは罪の無い人間「第二のアダム」としてこの世に来られ、十字架の御業によって人間と神との関係(押されたスタンプ)を回復されました。
そのイエスを信じることによって私たちは神の子どもとして復縁し、性質が神に似るようになるために、神から今厳しい愛の訓練を受けております。私たちには、神の子どもと呼ばれる権利とそうならねばならない責任が戻って来たのです。
まさに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、———事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1)です。ハレルヤ!
処で、救世主イエスは「神の子」Son of god であると共に「人の子」Son of Man とも呼ばれています。特に新約聖書では43回もイエスを指してこの「人の子」と言うタイトルが使われています。その意味は、主イエスの「ご性質」が、神の造られた最初の人間、罪を犯す前のアダムが持っていた「完全な人間」の性質であると言うことです。少なくとも私はイエスを「人の子」と呼ぶ意味をそのように解釈しております。
イエス・キリストは第二のアダムと言われますが(1コリント15:45−48) それを裏付ける聖書箇所としてルカ3:38があります。そこでは「アダムは神の子である」と、イエス以外の人間としてアダムだけが一度だけ単数形で「神の子」と書かれています。
罪を犯したアダムを救い出すために、キリストが第二のアダムとしてこの世に来られたのです。従って、第一と第二のアダム、つまり人間と人となられたキリスト・イエスは同族・同種であると言えます。
私たち人間は、今はまだまだ罪の影響が残る弱い人間でしかありませんが、元々意図されたパワフルな「神の子供たち」に本当になれるのです。いや、そうなるようにこの世に生まれて来たのですから、それが私たちのゴールです。
いつも主の御声を聞いて、主を見上げ、主に従う毎日を送ることは、私たちクリスチャンが名実共に「キリストの花嫁」となって、真の「神の一族」に加わると言うデスティニーであるのです。(終わり)
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