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Walk With God Ministries

07 6月

新しいサウンドの到来  レイ・ヒュウズ  6月7日


新しいサウンドの到来

レイ・ヒュウズ

(2010年5月24日 モーニングスターミニストリ−ズでの話の一部 )


今日はダビデの幕屋について話したいと思います。この話は、いつもはワーシップに関わるミュージシャンたちに対して話すのですが、今日は牧会者、リーダーの立場にある人たちに対してお話したいと思います。というのは、私はリーダーたちがこのことを理解するのが今非常に重要だと感じるからです。それは現在御国 (キリストのからだなる教会)の中で劇的なシフトが起こっていて、今まで聞いたことのないサウンドが始まろうとしているからです。今は新しいサウンド、新しい歌へと移行する時です。

ダビデの時代には詩編は「150編」からなっていたのではありません。詩編全体がダビデの幕屋で32年間の間、24/7で、絶えることなく歌われていた一続きの音楽の表現だったのです。
詩編の番号というものは後の時代になって付けられたものです。番号以外にも多くのことが後になって付け加えられたのですが、それによってダビデの幕屋の時代にあった美しさと力、権威が取り去られてしまいました。

「 praise(賛美せよ)」という言葉は詩編には存在しません。「praise」という英語に訳されている言葉は、ヘブル語では7つの異なった言葉があります。私たちは英語の「praise」という言葉を見ると、みんな同じことを表しているのだと思ってしまうのですが、そうではないのです。まずこのことを知っていただきたいと思います。

7つのヘブル語はそれぞれ、私たちが主にむかって身体を用いて行う全く異なる行為を指しています。それは32年間のその時その時に、人々がどのように生き行動すればよいか指し示したのです。
24組の音楽隊が交代で絶えず仕えていました。そして 新しい理解、新しい預言的言葉、新しい言葉使いが、常に新しい音楽的表現が、新しい楽器、新しいリズム等によって表わされ、それが丁度映画音楽のように、神の御こころのサウンドトラックとして使われたのです。即ち、神がその瞬間に語って おられることを表現したのです。映画のサウンドトラックのように、その時の神の言葉、御思いを強調してその効果を高め、聞く人々や回りの霊的環境への影響力を非常に強めたのです。 今、神の御国に新しいサウンドが解放されようとしていますから、このことを学び、理解し、親しんでおくことが非常に大切なのです。

詩編33編を見てみたいと思います。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあります。真に正しくないものが喜ぶということは出来ません。正しい者(righteous)な者だけが主にあって喜ぶことが出来るのです。即ち、人がもし父なる神と正しい関係にないならば、喜ぶことはできないのです。この「喜ぶ(rejoice)」という言葉は大変素晴らしい言葉で、実はコマ独楽のようにくるくる回るという意味なのです。

神は私たちのために喜んで独楽のようにくるくる回っていると言われます。ゼパニヤ3:17に「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎをあたえる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。

それは神が激しい感情をもってくるくると 私たちの回りで回ることを表しています。神は私たちに歌を歌ってくださると共に、丁度地球が軸を中心にして回るようにくるくると回られるのです。 しかも情熱的な愛情に満ちあふれて神はご自分と正しく結ばれている者たちの回りでくるくると回られるのです。
勇士であられる神が、あなたがたのただ中でそうされるのです。

ちょっと言い換えてみますと、「私のただ中におられる主なる私の神は勇士だ。神は私に歌い、私を喜ばれる。」ということです。ですから私たちのうちからほとばしり出るサウンドは、神が私のただ中におられるのですから、神の権威と創造とに直接的に関与しているのです。詩編全体を通じて多次元的な表現があり、絶えず動きがあり、絶えずサウンドがあり、その日の神の言葉に対する応答があるのはそのためです。

ワーシップチームがステージに上がってダビデの幕屋式に演奏を始めるとしましょう。仮に私がダビデだとして、私が「さあ、この歌を土曜日の4時まで歌いましょう。」と言ったとします。今(月曜日)から土曜日の4時までこの詩によって歌い、それを回りの霊的環境に絶えず解き放っていきます。するとついには歌っていることがその時に現実となり、神が「事は完了した」と言われるのです。

第一歴代誌16:42に「へマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルがあり」と書かれていますが、ラッパとシンバルの響きは今までの歌を止めてチェンジせよ、という合図でした。その合図があると、今までの歌を止めることが許可され、今新しく神が言われ、されていることに移るのです。これが即ち「新しい歌が解き放たれた」ということです。

次に「主を賛美せよ」と言う言葉があると、新たな賛美が神の民の中で起こり始めますが、それは今までしていた賛美の表現とは異なるものになるのです。それは新しい歌であり、神が新しく民のただ中で「今」しておられることに関する賛美になります。歌い手たちが賛美の召命と油注ぎを受けている人たちであり、これらの事をよく理解し、訓練された人たちだったということは明らかです。

彼らは自由で安全な環境の中で、思う存分に創造的に表現することを許されていたのです。それは治世に関わることであり、又、霊的なことでもありました。ですから彼らはギリシャ的な音楽(言ってみれば、それは数学、科学、幾何学と楽器とを絡ませていろんな音符、記号をつけたもの)という枠の中には閉じ込められていませんでした。彼らの音楽はギリシャ的な音楽を越えたものでした。それは彼らの心からほとばしる情熱であり、神の臨在の中で完全に表現されたのでした。

ダビデが「主を賛美せよ!」と言う時、その「賛美」という言葉はヘブル語の「ハラウ」だったかもしれません。ハラウとは、「馬鹿げた、気が違ったような、輝く、叫ぶ」というような意味を持っています。「ハラウ(賛美) ヤ(神)」は、即ち「ハレルヤ」です。又、ハラウは 澄んだはっきりした音であり、「輝く」とはそのことを指しています。それは音よりもむしろ光と関係があって、音と光の架け橋となるものと言えるでしょう。つまりハラウとは、音楽、サウンドによって神の栄光を人々の上に輝きださせるということなのです。

第一歴代誌15:22に「ケナヌヤは

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