06 7月
「人を裁くこと」からの断食 フランシス・フランジペン 7月6日
「人を裁くこと」からの断食
フランシス・フランジペン
もしあなたが長期間の断食をされたことがあるならば、それが人生を変えるほどの経験であることがお分かりだと思います。断食(fast)には多くの種類があります。ニネベの王は国民と共に食物と水を断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、国を滅ぼすことをやめられました。そしてニネベの人々を断食と祈りが持つ力を世に示す者とされたのでした。(ルカ11:32参照)
断食はリバイバルを呼び起こす強い道具ともなりますが、又それとは逆に、ほとんど何も霊的な意味を持たないただの形式的な宗教的行事へと堕落してしまうこともあります。パリサイ人たちは週に2回断食をしましたが、それは人々に賞賛されるためでした。彼らの断食はプライドの故だったのです。断食の目的は 自分の目指す霊的目標に早く到達するためであり、ですからファーストFast(早い)といわれるのです。
イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちが断食をして飢え渇く目的は、正義が勝利をおさめるためです。それは私たち個人に関すること、また家族、教会、市町村、国に関する事柄において正義が勝利することです。断食(fast)はその目標により早く(faster)私たちを到達させるのです。
しかし、断食が自虐的な罰にならないように注意せねばなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではありません。あなたの肉体に栄養を与える代わりにあなたの魂を養うのです。主にもっと近づくのです。神の御言葉を読み、聖句を暗唱し、自分のためや愛する者、又教会のために祈るのです。
イザヤ58章では、断食は神の愛を人々に示すものであるとも言っています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(6、7節)」と主は言っておられます。
ですから(食を断って)断食をするときは、困っている人や苦しんでいる人を助ける方法も考えてください。断った分の食事のためのお金を困窮している人たちを助ける援助団体に寄付することもいいかもしれません。
とりなし手の断食
人生に最も顕著な変化をもたらす断食は、私がとりなし手たちに勧めているものかもしれません。私は彼らに、一月間の「裁くことから断食」を要請するのです。それを聞いたときの彼らの反応には実に興味深いものがあります。「じゃ、何を考えていたらいいんですか?」と彼らは訊くのです。 私が言いたいことは、皆さんの思いが 人を裁くことで決着するのではなく、むしろ憐れみをもってその人のために祈る結末となるようにと申し上げているのです。
すぐに他人を裁き批判するという性質は教会におかれた呪いであり、私たち一人ひとりに死をもたらします。「呪い? 死? 」と思われるかもしれませんが、そうなのです。私たちが裁く度に、 私たちは同時に神から裁かれているのです。他人を罪に定める度に、私たち自身が罪に定められているのです。(マタイ7参照)
多くのクリスチャンは祈り、霊的戦いをし、サタンを叱責します。しかし往々にして彼らが戦っているのは悪魔からのものではないのです。それは当然受けるべき報いなのです。私たちの人生は、自分が人々に対応する態度によって計り返されるのです。常に人々を裁いているので、自分も常に裁かれる立場に立つ結果となっているのです。(マタイ7:2参照)
「裁くことから断食する 」と言っても、それは物事を判断し、見分け、識別することをやめることではありません。しかしながら、人を裁くことは識別とは違います。人のあら探しをするのは御霊の賜物ではありません。私たちが何か間違いを見るときに、ただ批判的になるのではなく、その状況に対する憐れみを祈ることを学ばねばなりません。確かに間違いはキチンと見るのですが、その時に自分の怒りを抑え、キリストの愛の力によってその間違いを贖うことを求めるのです。
イエスは「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)」と言われました。私たちが裁いたり罪定めをしたい衝動に打ち勝って、あわれみを祈るとき、驚くべきことが起こります。 あわれみの新たな扉が私たちの前に開くのです。お分かりでしょうか。日ごと一刻一刻、私たちの前には二つの扉が置かれています。一つはあわれみの大波を私たちの人生にもたらす扉であり、もう一つは困難と障碍だらけの人生への扉です。あわれみの扉にどうやって入るのでしょうか? 神のあわれみの祝福を受ける人生のかぎは、私たちがまわりの人々にあわれみを施すことです。(マタイ18参照)
私は霊的成長がもう何年も止まっているクリスチャンを知っています。彼らは教会に出席し、十分の一献金を捧げているのですが、人を批判的に見て裁く態度を常に持っているのです。彼らは他人を批判する言葉に事欠きません。それによって彼らは自らを神の裁きのもとに置いています。他人に対してあわれみを示さないので、神からのあわれみを受けることが彼らにはできないのです。
ヤコブは 「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)と書きました。これは厳粛な言葉です。あわれみを示さない者への裁きはあわれみがいただけないのです。
「自分はクリスチャンなのにイエスが約束してくださった豊かな人生をどうして経験できないのだろうか?」とあなたは思っていますか?(ヨハネ10参照) 多分それはあなたがあまりにも批判的で人を裁いているからです。でもよい知らせがあります。あわれみは裁きに打ち勝つのです。あなたが自分の人生には間違っているところがあり、自分は罪人であるとわかっていても、あわれみ深くなろうと努力するならば、神はあなたが他人に対応するようにあなたに対応してくださると約束されています。あなたのこころの中であわれみを必要としている部分は、神があわれみ深くしてくださる人生の中にいやしを見つけることでしょう。
愛する皆さん、これからのあなたの人生に変化をもたらすことが出来るのは何であるか、熟考してみてください。多分それはあわれみによる断食をすることではないでしょうか