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Walk With God Ministries

28 7月

愛を表す  グラハム・クック  2010年7月28日


愛を表す

グラハム・クック


イエス・キリストの福音がギリシャの人々に届いたとき、彼らには「無条件の愛」を表す単語がありませんでした。神の愛の偉大さを十分に表す言葉がなかったのです。彼らは神の愛の持つ性質を定義できる言葉を創らねばなりませんでした。それが「アガペ」という言葉です。「愛」に関してもっとも重要なことは、私たちが「愛」をどのように用いるかということです。

「アガペ」とは見返りを期待しない無私の愛です。愛する故に愛するのです。憎しみが確実に憎しみを生み出すのと同じように、愛は愛を生み出します。愛は他人に与えると増えていき、与えないでいると減っていきます。アガペの愛は 神が、神というお方である故に、 無条件で私たちに与えてくださるものです。神はご自分の敵をも100%愛されます。その究極の証拠はヨハネ3:16及びエペソ2:1−10に書かれています。

自分というものを見失ってしまい、それによって他人に対してどのように行動すればよいか分からなくなった人たちをも、私たちは愛します。自己中心な人、高慢な人、人を侮辱する人、欲張りな人、ケチな人、偏狭な人、人を赦さない人等です。愛はすべてを受け入れ、すべての人の心に触れることができます。 難しい人々は、愛によって変えられるために愛を最も多く必要としますので、愛があるかないかを証明するもの、立証するものとなります。よい人たちを愛するのはよいことです。けれども私たちが愛し難い人を愛するとき、 それは私たちが「自分は神に愛されている 」こと(神に愛されている者であること)をよく知っている確実な証拠となります。

愛とは、御父が自分を愛していてくださることを内に感じながら、他の人々を御父が見るように見ることです。ある種の人々を愛するには、とても忍耐が必要です。
私たちは自分が持っている偏見を乗り越えるためには、あるいは、神に自分の心をいつも開いている状態になるためには時間が必要です。そして、どんなに愛そうとしてもどうしても神経にさわってしょうがない人々をどう愛するかにおいて、人生をかける一大決心をするに至るまでには、私たちには時間が必要です。往々にしてクリスチャンは忍耐強く深く考えることが苦手なようです。愛についての説教はよくしますが、実際の生活はこの世的な愛のレベルにとどまっていることが多いのです。

私たちは神の愛で人々を解放し自由にするべきなのに、かえって怒ったり裁いたり責めたりという自分の肉的な習性によって、彼らを牢に閉じ込めてしまっています。愛は人々に代価を求めません。私たちは裁きjudgmentと正義justiceとを混同してしまっています。裁きjudgmentは責め、罰し、咎めます。正義justiceは誠実integrityと尊厳dignityを伴う義righteousnessであり、公正な取り扱い、差別しない公平さです。愛は、それを全く受けるに値しない人々にも益を与えるものです。

このような愛は決して弱々しいものではありません。力強いけれども柔和であり、優しいけれども揺るがないものであり、寛大で義しいものrighteousnessです。柔和さは弱さではなく、自制された強さ(力)です。愛は人々をそのままに放っておきません。愛は人生の軌道を変えます。 自分は無関係だとは言いません。アガペの愛は他の人を引き下ろすことは決してしません。かえって彼らの人生の質を高めることに力添えをすることです。
神が愛されるように私たちが愛するとき、私たちは神が造られた人間本来の真価(自分の真の身分・アイデンティティー)に最も近づきます。神の内に自分を発見するのです。私たちは愛を実践するときが常に一番自由であり、その反対に 罪悪感を与えて人々をその中に閉じ込めるとき、自分自身も一番縛られているのです。アガペの愛は自意識過剰ではなく、神経質ではなく、独善的ではありません。
私たちが真実に愛を実践するとき、それを他人から批判されることを予期せねばなりません。私たちがアガペの愛をもってこの世に神の臨在を顕している時には、その確実な証拠として、私たちが過度に霊的ぶる人や宗教的な人から誹謗されることによってそれが分かります。

私たちは人を愛している振りをすることは出来ません。それは実在しない非現実的なことです。しかし、神のご性質を人々対して実践する練習をすることはできます。そしてそうすることによって、私たちが変革されていくのです。アガペの愛を実践するということは、非常に意識的な選択です。単に即興的に行き当たりばったりですることはできないのです。それは意識的に計画されねばなりません。このような愛は単に感情ではなく決断的な意志による行動です。「自分がどう感じるか」とは関係なく、愛することを選ぶことです。今の自分がどのような者であるかの故に、またイエスにあってどのような者になりたいかの故に、私たちは愛するのです。

愛は実際に表わされるときに増えていき、表すことを抑えるときに減っていきます。愛とは、私たちをよく思ってくれる人が自分の前に立っているときに自然に起こる感情のことではありません。もし神がまず私たちを愛してくださったとしたら(第一ヨハネ4:19)私たちはアガペの愛を外にではなく自分の内に見つけねばなりません。愛は、御国と同じように、今すでに私たちの内にあるのです!それを信じて受け取り、その中で喜んでください。愛されているように愛してください。

愛を表現する一番の方法は実践することです。愛を与えることはイエスというお方を実際に表現していくことです。アガペの愛は何かを得るためにするのでもなく、自己中心でもありません。愛はそれを使うことによって必ず自分に戻ってきます。私たちはすでに今愛を持っているのですから、他人に与えてください! 誰かから愛をまずもらわなければ自分は愛を持っていないと考えること程、私たちを自己依存させ、自己憐憫に陥らせ、苦々しさを常に持ち、皮肉っぽくものを見て、感情的不具者にさせてしまうものはありません。


私たちは今ある自分からゆっくりとスタートせねばなりません。「自分のアイデンティティーにおいて、自分がどのような人間になりたいのか」を決めていく意識的な行動として愛を実践していくことが非常に大切です。愛は報酬を必要としません。貸し借りの勘定をしません。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えます。愛は、人から認められることを必要とせず、仰々しい言葉や約束、決意も求めません。自分が注目されることも求めません。神のみ翼の陰から愛します。静かに、誰にも知られず、密や かに。そのときあなたの隠れた愛の行為を見ておられる御父は、アガペの愛をあなたに何倍も与えてくださるでしょう。私たちが愛するとき、私たちは自分自身を祝福しているのです。ですからどうか、ただ実践してください。静かに、神のために!(終わり)


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