第二次「アメリカ独立/南北戦争 と アメリカ合衆国憲法」について(その3) リック ジョイナー
第二次「アメリカ独立/南北戦争 と
アメリカ合衆国憲法」について(その3)
リック ジョイナー
マルクス主義者のアメリカ支配戦略
(リック·ジョイナー 4月1日21年マルクス主義者の戦略パート7より)
世界中のマルクス主義者にとっての最大の敵はアメリカです。なぜなら、創造者の神の前では「すべての人間は平等に造られている」ー アメリカは、この人間の自由と正義を確立し、それを維持するための人間の「共和国政府」を樹立する目的で建国された国であるだけでなく、その制度が世界各国の手本となることを最終目標として求められているからです。
端的に言って、宗教、特にキリスト教信仰のリーダー國であり、民主主義、自由主義を尊重するアメリカを自分たちの支配下に置くことがマルクス主義者にとっての至上命令であり、そのために45の目標を立てて組織的にその目標達成に最大のエネルギーを使っているいると言われます。
今回はその目標の28番目に当たる:アメリカの公立学校での祈りやあらゆる宗教的表現を、「政教分離」の原則に反するという理由で排除する、という彼らの目標に焦点を当ててみます。
それは1962年に、エンゲル対ビタール事件という宗教問題に関する訴訟に際して起こったことですが、米国最高裁判所は、400年近くにわたるアメリカのクリスチャンの伝統と、それに200年近くにわたる最高裁判所の判例基準を根底から覆すような判決を下したのです。この判決によってそれ以来「公立学校での祈り」が禁止されてしまいました。
ついては、最初に上記に挙げられた「政教分離の原則に反する」という理由についてですが、 「 政教分離」はアメリカ合衆国憲法のどこにも書かれていません。実際に憲法を読んだことのある人なら、このことを知っているはずです。
マルクス主義者は、歴史上のどのグループよりも、プロパガンダを使って人を騙し、嘘を宣伝することに長けています。しかし、多くのアメリカの指導者たちは、何が政治的プロパガンダで、何が真実なのかという基本的な見極めもできないまま、メディアで広く語られたり、報道されたりすれば、ほとんどのことを真実として受け入れてきたのです。このような無能さ、場合によっては敵との共謀によって、アメリカ合衆国は過去に大変な代償を払ってきました。
それでは、教会と国家の関係について、憲法はどのように述べているのでしょうか。憲法修正第1条だけがこの問題に触れていて、単純明快に次のように記されています。「連邦議会は、ある(新しく)宗教の設立を尊重したり、その自由な行使を禁止したりする法律を作ってはならない。」
憲法制定に関わった建国者たちは、スピーチや個人的な文章の中で、これは宗教から政府を遠ざけるためのものであって、政府から宗教を遠ざけるためのものではないことを明確にしています。
建国者の一人トーマス·ジェファーソンが最初に 「政教分離」という言葉を使いましたが、それは、ダンベリー·バプティスト(宗派の一つ)に対してで、これは国家が宗教に干渉させないためのものであり、その逆ではないということを確認するための手紙でした。
また、憲法修正第1条では、合衆国議会だけが、宗教を確立(干渉する)ことを明確に禁じていて、州や国民が自由に考えて行動してよいと明示され、そのように理解されていました。
問題は、あらゆる宗教にとって、その最も基本的な行為は「祈り」にあり、これを禁止することは、その宗教とその神との親しいコミュニケーションを禁止することになり、宗教的にいえば、これ以上に罪深いことがあるでしょうか?
アメリカ共和国憲法の修正第1条では、私たちの他のすべての自由の基礎となる自由を保護しています。これは、自由を保証するために書かれた最も強力な45の言葉であり、アメリカを支配するためのマルクス主義の45の目標に対抗する最も強力な言葉でもあるのです。
連邦議会は、宗教の確立を尊重したり、その自由な行使を禁止したり、言論や報道の自由を制限したり、人民が平和的に集合して政府に不満の解消を請願する権利を制限する法律を作ってはならない。
この1962年の「エンゲル対ビタール」判決は、最高裁が下した中でも最も衝撃的な判決の一つと言われ、それ以来、私たちの国を覆っている腐敗への扉を大きく開いただけでなく、政府が教会の問題に介入するための扉も大きく開かれたのです。
多くの研究では、この年からアメリカの道徳が崩壊したとされていますが、これは同時に、アメリカの宗教的自由に対する容赦ない攻撃の始まりであるとも言われます。
そして、この違憲の最高裁判決は、他の多くの憲法違反の判決にも大きな扉を開きました。また、権利章典 the Bill of Rights で保障されている私たちの権利のほとんどすべてに対して裁判所が攻撃を加えることになり、ジェファーソンをはじめとする建国者たちが共和国にとって最大の脅威と考えていた「司法の専制政治」が始まったのです。
イエスは、「木はその実でわかる」と言われました。アメリカの学生たちは現在、合衆国憲法修正第1条の「言論の自由」によって保護されていると想定し、学校内で自由に最も下劣な呪いのことばを使うことができると共に、何よりも衝撃的なことは、イエスの名前を使っただけで退学処分となる、それを政府が認めているのです。
これは、歴史上最も神を愛し、神を求める国の政府が、今や反キリストとなってしまったという悲しい事実であるのです。
アメリカはこの問題にあまりにも簡単に引っかかり、アメリカ文化に壊滅的な影響を与えたため、多くの人が現在のアメリカにおける道徳、誠実さ、人格の崩壊をもたらした唯一最大の破壊的な要因であると考えています。この見解を裏付ける圧倒的な証拠があります。真に憲法を知り、憲法を守るという誓いを誠実かつ勇気を持って実行する指導者がいたならば、アメリカでこのような事態は起こらなかったはずです。
マルクス主義者は、もし彼らが宗教の自由、言論·報道の自由、あるいはアメリカ人の平和的集会の権利を破壊すれば、他のすべての自由の破壊が容易かつ迅速に行われることをよく知っています。彼らがすでに奪ってしまった自由を取り戻すためには、まず憲法修正第1条の権利を取り戻すことから始めなければなりません。
次に、マルクス主義者の目標:その29では、アメリカの憲法を「不十分で、古めかしく、現代のニーズにそぐわない」と信じさせ、「世界規模での国家間の協力を妨げるものだ」と言って、その信用を失墜させようとしています。
これによるマルクス主義者のねらいは、アメリカの「国の最高法規」としての合衆国憲法を無効にすることにあります。なぜなら、それができれば、共和国が立つ基盤を破壊することになり、アメリカ共和国は崩壊すると信じるからです。
アメリカ人がこのような論法の影響を受けて、自国の憲法を軽視し始めているのは、自国の憲法に書かれている内容を全く知らないか、あるいは、アメリカが世界で最も強力で、裕福かつ自由な国となったのは、憲法がいかに役立ったかを明らかにしたアメリカの歴史を知らないという証拠です。
歴史上、聖書に次いで、アメリカの憲法がこれほどまでに世界に良い影響を与えた書物は他にないと思います。
それを「不十分」とか「現代のニーズにそぐわない」と言うのは、究極の無知、あるいは意図的な裏切り行為です。
わが国の憲法は、書かれた時代の文化に合わせて作られたものではなく、時代を超えて明らかにされてきた人間の本質に関する知識に基づいて作られたものです。この憲法は、人間の悪を抑制し、善を自由にするために見事に設計され、これほど効果的な手段で政府を樹立した文書は他にありません。
アメリカ人が「憲法は現代のニーズにそぐわない」と言うのは、憲法を知らないか、時代を知らないかのどちらかであることを示しています。憲法は、時を超えた真実に基づいているため、常に時宜を得たものであるのです。この憲法は、最初に批准された時と同じように、今日の問題に関連しており、今現在、人間の悪がその抑制をこれほど必要としていたことはないので、それ以上かもしれません。現在、米国を引き裂いている大きな危機の根源は、憲法を無視した結果であり、これらの危機を解決するための答えは、憲法を「国の最高法規」として正しい位置に戻すことです。
最後に、憲法が世界的な協力の妨げになっていると考えるアメリカ人がいるとしたら、それは憲法と、今世界を究極の専制政治へと向かわせている力の両方について、いかに無知であるかということを改めて示しています。グローバリズムの根底にあるのはマルクス主義であり、地球上に放たれた最悪の専制政治の下に世界を統合しようとする人々に対する最も強力な防波堤がアメリカ憲法なのです。私たちの憲法は、これまでも、そしてこれからも、文明と自由を愛するあらゆる人々や国との協力関係の基礎となるものです。
アメリカを破壊しようとするマルクス主義者のアジェンダを調べていくと、残念ながら、マルクス主義者は、憲法が私たちの自由、繁栄、強さにとっていかに重要であるかを、多くのアメリカ人よりもよく理解していることが分かります。
2020年の選挙の不正 (リック・ジョイナー師の4月21日 MSJ より)
使徒パウロは、エペソ人への手紙1章18節で「私たちの心の目」が開かれるようにと祈りました。私たちの自然な目にも影響を与えるものがあり、物事をありのままに見るためには矯正レンズが必要なように、私たちの霊的な視力にも同じことが言えます。霊的な視野がぼやけてきたとき、正しい補正を受けると、すべてのものにピントが合うようになり明確になります。
今回の選挙の後、私が話したクリスチャンのほとんどは霊的にぼやけた感じで、選挙が不正によって盗まれたと考えていない人はいませんでした。さらに悪いことに、最高裁判所を含む政府のほとんどすべての関係者が、この腐敗に加担しているように思えるのです。政府への信頼は1950年代から着実に低下して来ましたが、今回の選挙で米国民の連邦政府への信頼はほぼゼロになったようです。政府に対する信頼の低下は、政府の信頼性の欠如の増加に対応してきました。
そうなるとすべてが悪い結果につながり易く、小さな火種でも大きな問題に連鎖する可能性があります。
私たち国民がこのような事態を招いて共和国を破綻させてしまったのです。私たちの共和国では、国民が主権者であり、政府は私たちのために働くのであって、その逆ではありません。この状況を変えるには、国民が政府を取り戻さなければなりません。どうすればできるのでしょうか?
まず、米国民が政府を取り戻す準備ができていることを示す証拠はあっても、「明確なトランペットコール」つまり明確な戦略や動員の場がない。
しかし、今すぐに動員する必要はないのでそれでいいのです。まずはビジョンを修正する必要があります。
私たちは、政府を修正する前に、政府がどうあるべきかという明確なビジョンを持つ必要があります。政府を再建し、私たちの信頼を得るためには、決まり文句やスローガン以上のものが必要になるでしょう。
バイデン新政権は、トランプ氏に投票した人以外でも、多くの人が違法な政府とみなしています。多くのアメリカ人は、すでに選挙に対する信頼を失っていたため、長い間投票していませんでした。このところ、国が左に大きく揺さぶられているにもかかわらず、アメリカ人は自分たちは中道を堅持していると思っていて、80%以上の人がキリスト教徒であると言い、60%以上の人がボーンアゲイン・キリスト教徒であると主張しています。
今、私たちアメリカ人は、地球上のほとんどの国がそうであるように自国の政府を信用していません。
権力と権威·権限の間には違いがあります。権威がなくても力を持つことはできます。現在、多くの政府が不法に権力を握っています。事実、歴史上、世界のほとんどの政府にそれは当てはまりにますが、ローマ人への手紙13:1-2にはこう書かれています。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在する権威はすべて神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は、自分の身にさばきを招きます。」
この文章で「権威」と訳されているギリシャ語は、「エクソシア」といい、文字通り「力」と訳されています。ですから、もしある人が権力を持っていたら、その人がどのようにして手に入れたかにかかわらず、私たちは、神が理由があってそれを許したと考えなければなりません。また、その力にできるだけ従うべきですが、一つだけ例外があります。それは、使徒たちが確立したように、権力者が聖書に書かれている神の明確な指示と相反することを指示する場合に「私たちは人よりも神に従わなければなりません」(使徒5:29参照)
ローマ人への手紙13:1-4を考えるとき、多くの人が抱く疑問は、「ヒトラー、スターリン、毛沢東のような悪人が権力を持つことを神は許しておられたのか」答えは “イエス “です。神が許可していなければ、彼らは権力を握ることができませんでした。
最初の人間が神ではなくサタンに従うことを選んだときに人間に与えられた権威をサタンが奪ったにもかかわらず、神はサタンがこの時代を支配することを許しておられます。イエスは、贖いによって地上の権威を取り戻したので、今はすべての権威を持っていますが、まだ地上の権力を奪ったわけではありません。
なぜ主は、聖書に啓示されている多くの神の戒めに真っ向から対立するバイデン氏のような邪悪な政権を許されるのでしょうか。それはおそらく、歴史上で支配してきた他のすべての邪悪な権力を主が許されたのと同じ理由によるものでしょう。これらは裁きのために任命されたのです。もし私たちがこの理由を受け入れられないとしたら、それは私たちが神のありのままの姿、そして聖書に明確に啓示されている姿を知らないからです。
「悪を善とし、善を悪とし、闇を光とし、光を闇とする」(イザヤ書5章20節参照)という究極の堕落に陥った国には、深刻な結果が待っています。
アメリカは、記録された歴史の中で誰よりも神と神の道を愛していた国から、神が嫌うものを愛し、神を最も怒らせることを実践し、さらには実践している人々を称える国へと転落しました。もし神がこれらのことでイスラエルの国を滅ぼし、当時イスラエルが世界における神の唯一の証人であったときに神の民を流浪の民として散らされるなら、同じことをしている私たちに同じことが起こらないようにされると思いますか?
私たちは、トランプ大統領が在任中に成し遂げることができたすべてのことに感謝すべきです。経済を再び動かすこと、軍隊の準備と効果を回復させること、聖書の正義と公正の原則に沿った信念を持つ裁判官を任命することなど、私が生きてきた中でどの大統領よりも多くのことを行いました。リーダーシップは重要であり、政府の最高機関に誰が座るかは重要です。
邪悪な王がイスラエルを治めていたとき、国は邪悪になりました。正しい王が治めれば、リバイバルが起こり、神に立ち返るようになりました。
バイデン政権は、就任初日から、神が “悪 “と呼ぶものの多くを大統領令で立法化し始めました。下院に提出された法案HR-1は、歴史上最も露骨な憲法修正第1条への攻撃であり、もし可決されれば、アメリカにおける宗教の自由、言論の自由、報道の自由の終焉と共に、その他の自由も攻撃されることになります。
アメリカ国民はこのような事態を許すのでしょうか?選挙が簡単に盗まれるのを許してしまったら、他の権利が盗まれることに対して国民が立ち上がるとは思えないでしょう。確かに、私たちが方向性を変えなければ、今向かっている恐ろしい専制政治と同じようなことを、神は私たちに計画されているのでしょうか?その通りです。
従って、私たちが神のもとに戻るならば、神は私たちのもとに戻って来られるゆえに、私たちは神のもとに戻らなければなりません。
アメリカは基本的に神にこの国から出て行ってもらい、今では、神の名前を公の場で使うことさえ拒否しています。ヨハネの黙示録3章20節にあるように、この時代、私たちが主に心を開かなければ、主はご自分の教会にさえ入って来られません。ですから、私たちは、この国で日に日に増大している道徳的、霊的堕落よりも、主を望むことを決意しなければなりません。
自分の将来を決めるのは、本当に私たち自身なのです。私たちが主を求めるなら、主を見つけることが約束され、また、私たちが主に近づくなら、主が私たちに近づいてくださることが約束されています。主を愛している人たちが、主を憎むごく少数の人たちに国を支配するのを許し続けるなら、私たちは本当に主を愛しているとは思えません。
現在、アメリカの「キリストの身体」には、人間に対する恐れが蔓延しています。人間への恐れは「臆病」と訳されます。これは特にキリストの身体のほとんどの指導者に顕著で、彼らは人間を恐れるあまり、現代の重要な問題に取り組むことを控えています。私たちが政府にこのようなことを見るのは、私たちクリスチャンの教会がそのような模範を示して来たからです。
この時代、アメリカには偉大な教会や祈りの運動があり、私たちはそれに感謝しなければなりませんが、一方で、教会全体がおそらく歴史上最も弱体化しているのも事実です。神は私たちに最大の権威と最大の力を与えたにもかかわらず、教会にはほとんど力も影響力もありません。なぜその力が使われないのでしょうか?それは、教会の指導者たちが、神への恐れよりも人への恐れによって生きているからです。これこそ「臆病」と言えます。
パート2:希望の兆し
私たちが常に心に留めておかなければならないことは、主は、この世の強い者、賢い者、大勢の者を用いることはあまりないということです。むしろ主は、団結している二人を通して、団結していない大勢の人よりも多くのことをなさることができます。
先月、私は国内外に影響力を持つリーダーたちのために、毎年恒例のラウンドテーブルの33回目の会議を開催しました。彼らは皆、クリスチャンですが、教会のリーダーばかりではありません。中には、ビジネス、行政、エンターテインメントなど、世界に大きな影響力を持つ分野のリーダーもいます。この座談会に参加する人たちの相互理解、尊敬、総合力は驚くほど高まっていますが、今回の座談会には特別なものがあり、私に大きな励ましを与えてくれました。
座談会は自由な交流を目的としているので、このような集まりはいつも、主とその目的についての啓示や、私たちの時代についての洞察に富んでいます。その中には、国内外に影響を与えるようなものも発表されています。
2015年の私たちの円卓会議は、トランプ氏を当選させたかもしれません。その座談会に参加したほとんどの人は、来る前は他の候補者を支持していましたが、帰る時は、ほとんどの人というより、おそらく全員が、トランプこそが運命の人だと信じて座談会を後にしました。その人たちは何百万人もの有権者に影響力を持つ人たちだったのです。
もちろん、今回の座談会では、最近の選挙の意味合いについても議論されましたが、「今回の選挙は盗まれたものだ」というのが総意でした。盗まれた選挙は、失われた選挙よりもはるかに危険であること、そして、選挙管理そのものに信頼性がない時には、民主主義の共和国は存続そのものが難しいことを全員が知っている様子でした。ということは、私たちは今、歴史上最大の危機に直面していることは承知しているのです。ーではどうすればよいのか?
色々なアイデアは話題に上りましたが、強烈なラッパを吹くレベルのものは何もない、しかし、それでいて、それを心配している人は一人もいませんでした。しかし、それが必ず来ることに、全員信仰ともいうべき確信を持っていて、そこには平安が溢れていたのです。
この円卓会議になかったものは「不安と心配」ーーそのことが、恐らく会議で得られた最も重要なメッセージであったのです。
そこには、驚くほど際立って大きな平安がありました。それは深遠なものでした。平安は、私たちの最も神聖な強力な武器の一つです。何度も繰り返しますが、サタンを足の下に打ち砕くのは「平和の神」(ローマ16:20参照)であると言われています。
今回の座談会では、いつもながらの情熱があるにしても、平和と喜びが満ち溢れていたのです。主の臨在がそこにあり、主の臨在には「喜びが満ちている」からです。(詩篇16:11参照)そして「主の喜びはあなたの力」だからです。(ネヘミヤ8:10)これもまた、このリーダーたちの中にある強さを啓示していると受け止めています。毎回、笑いが絶えないのですが、今回は本当にそれ以上のほがらかな笑いがあったように思います。
去年直面した危機の激しさを考えると、これは予想外のことでした。最も深刻な問題を話し合っているときでさえ、素晴らしいユーモアのセンスがありました。
私たちの座談会の参加者は、何百万人もの信者に影響を与えているかもしれませんが、それはキリストの体のほんの一部に過ぎません。私たちは、国全体を代表しようと思ったことはありません。ただ、「キリストの身体」について幅広い経験を持ち、現代の重要な問題について国際的な視点を持った限られた人たち(30人以下)を集めるようにとの要請があったのです。ですから、私はこのような多様なミッションを代表する方々が、私たちが直面しているすべての問題に平安を感じているように見えたことは、私にとって非常に励みになりました。
この平和と喜びは伝染するでしょう。もしあなたが世界に起こることについてストレスを感じているなら、これを読むだけでそのストレスが解消され、神への信頼と信仰が増していくことを祈ります。 (終わり)