今こそ必要な移式祈りのテント 坂 達 也
今こそ必要な 移動式・祈りのテント
坂 達 也
この記事は、確か2008年前後、今は天に移住した家内の柚実子が書いた記事ですが、先日たまたま懐かしいこの記事に出会いましたので、改めてご紹介させていただきます。私たちは2004年にオレゴン州から娘のいるホノルルに移住して来た後、暫くした頃のお話です。
プレイヤー・ショール 坂 柚実子
私たちがホノルルのメシアニック・ジューの集会に集うようになってから三ヶ月ほどが経ちました。私がその昔結婚してアメリカにきたときに、幼い甥が「ゆみこおばちゃんの目はもう青くなった?」と姉に聞いたそうです。それと同じで私たちが何か「メシアニック・ジュー」という違う人種、違う種類のクリスチャンになったように思う人もあるかもしれませんが、そんなことはありません。
「メシアニック・ジュー」とはイエスをメシア(キリスト)と信じるユダヤ人のことです。イエス様の12弟子もみんなメシアニック・ジューでした。私たちは異邦人ですから、本来の意味でのメシアニック・ジューではありませんが、霊的にはそうである、という人もいます。
この集会はいわゆる「教会」ではなくて、ミニストリーという形を取っていますので、メシアニック・ジューの見地からの学びをしたい人が自由に出入りしています。集会の時間も金曜の夜ですので、日曜日には普通の教会に集う人たちも多くいます。リーダーは牧師ではなくラビといいます。ラビであるダニエル・バーガス師はもともとアセンブリー・オブ・ゴッドの牧師だったのですが、ご自分もユダヤ系アメリカ人であり、ユダヤ人に対するミニストリーを始めるためにラビの資格をイスラエルで取得されたのです。
まず集会で気がつくことは、多くの人がタリートという祈りのためのショールをかけていることです。早速私はニューヨークの息子に頼んで「母の日のプレゼント」として買ってもらうことにしました。ニューヨークはユダヤ人が多く、きっとそんなお店もあるだろうと思ってのことでしたが、息子はインターネットでイスラエルに注文したそうです。息子には「ハワイは暑いから、ウールとかではなくて涼しげな薄い生地にしてちょうだい。」という注文を私は出したので、二週間後にイスラエルから送られてきたものは、かげろうの羽のように透き通るものでした。
プレイヤー・ショール(Talith)の意味を調べてみました。Talithとは小さなテントという意味で、モーセが神と会った会見の幕屋の小型だそうです。ショールを頭からかぶることで一人用のテントを作り(密室ですね)そこで祈りを唱えて親しく個人的に神と出会うことができるのです。これで思い出したのが、ジョン・ウエスレーの母スザンナのことです。彼女は沢山の子供(19人いたそうです。そのうち8人は夭折。)を育てる多忙な生活の中で、祈るときはエプロンを頭にかぶって密室のかわりにしたということですね。子供たちはお母さんがエプロンをかぶっていたら話かけない約束だったとか。
私の透き通るショールでは、あまりテントの役に立たないようなので、がんばって裏をつけました。めでたし、めでたし。
その他にも、ショールの房のついた四隅は「翼」と呼ばれ、マラキ4:2の「その翼には癒しがある。」はそのことであり、イエスの衣のすそにさわった長血の女はそこに癒しがあることを信じていたこと、マルコ6:56でも病人がイエスの着物の端にさわって癒された、など、興味深いことがわかりました。
申命記22:12に「身にまとう着物の四隅に、ふさを作らねばならない。」とあるように、昔はショールではなく衣に直に房をつけたようです。
また、男性が自分の「翼」で女性をおおうことは結婚を意味し、ルツ記3:9に「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」とはそういう意味であるそうです。今もオーソドックス・ジューの結婚式では花婿が花嫁をプレイヤー・ショールで覆い、これから花嫁を守ることを表すそうです。
ですからプレイヤー・ショールが必要だったのは、私ではなく主人だったのですね。早速主人のために大きなプレイヤー・ショールを注文しました。私をおおって守ってもらうために。以上です。(柚実子の記事おわり)
この記事の中に出てくるタリットは、私もよく買ってもらったこのショールを羽織って、礼拝の時に前に出て踊りました。というのは、当時このメシアニック・ジューの教会のラビであるダニエル・バーガス師がいつも最初の礼拝が始まると、このショールを羽織ってバンドのすぐ前で縦横無尽に踊るのがとてもよくて、私も他の人たち数人と一緒に前に出て、よく踊りました。
Talithとは小さなテントという意味で、そのショールを頭からかぶることで一人用のテントを作り(密室)そこで親しく個人的に神と出会うことができる、と上記で柚実子が説明してくれている通りです。
私が特に今思うことは、このタリットこそは、私たちクリスチャンが今、最も必要としているものであることです。
そのことが出エジプト記33:7−11にこう書かれています。「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主にお伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで、彼を見守った。モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた。民はみな、天幕の入り口に雲の柱が立っのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。主は、ひとが自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。」
この聖書箇所は、目で見える形で、私たちクリスチャンは全員「ひとが自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて主と語る」ことができるし、しなければならないことを教えてくれています。特に出エジプト記31:13に書かれている「安息を守らなければならない」時=終末の今こそがその時です=ヨシュアはそれを知っていた人でした。(終わり)