完全なる自己放棄( abandonment )により 神とフェース・ツー・フェイスに出会う 坂 達 也 2020年6月4日
完全なる自己放棄( abandonment )により
神とフェース・ツー・フェイスに出会う
坂 達 也
日本人程「頑張ること」の好きな国民はいないと思います。少なくとも言葉の上では、挨拶代わりに「頑張って!」「頑張りましょう!」が合言葉です。つまり日本人程「自分で何事も努力することを奨励し、尊ぶ」国民はいないと思います。確かに創造主の神を知らない人にとっては、頼りにするのは自分しかいない訳ですから、人を励ます意味においてこの言葉は、決して悪い言葉ではないかも分かりません。
しかし、クリスチャンとしての私は、この「頑張れ!」という言葉を聞くと、何か複雑な気持ちになります。なぜなら、何事も自分の努力ですることは、根本的に聖書の原理と相反するからです。
何故なら、クリスチャンとは、主を常に見上げ、主の言われることを聞いて、それに従う以外の生き方はないからです。神は私たち人間が、自分の努力で事を為すこと、自分で努力して物事を達成することから「休みなさい」すなわち完全なる自己放棄(complete abandonment)を先ず要求しているからです。
もっとはっきり言えば、神は私たちに自分では何もしてはいけない、只々「主の御顔を見上げて待ちなさい」と言われるのです。そこに要求されるのは「忍耐」です。そうすれば、全て主が、私たちに必要な「心の思い」を私たちの心の中に入れて下さり、それに忠実に従えばそれができるようになるのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28−30)と主は言われます。その根底には「愛」があり、愛がすべてです。
さて今日は、その「完全なる自己放棄(complete abandonment)」をすることについてビル・ジョンソン師の証しをお分ちしたいと思います。それは1971年に、当時ベテル教会の主任牧師であった彼の父親が取り次いだメッセージを聞いて彼が決意したことです。
お父さん先生は、私たちが「神ご自身に対してミニストリーをする」ことと「人々に対してするミニストリー」とは全く違うと語りました。ビル師は、その前から自分を神に放棄する( surrender )コミットメントをしていました。しかし、そのメッセージを聞いて時、口に言い表せないような深い感銘を受け、更なる決意をしたのです。神はそれに素早く応じられ、それ以来聖霊の臨在と神の力を受け始めました。
そして1995年に至って、彼は「私は、もっと主を求めます。それがいかなる代価であっても、私はその代価を払います。」と日夜泣き叫び始めました。それは8ヶ月続きましたが、10月のある夜、遂に神がそれに答えて下さったのです。但し、それは私が予想していない方法ででした。」と言います。
ビル師は、突然死んだように寝た状態からはっきりと目覚めた状態へと一瞬にして変へられ、突如として全く説明のできない物凄い力が彼の身体の中を走り始めました。それはあたかも壁のソケットに自身を差し込むことによって1000ボルトの電流が彼の身体に流れ始めたかのようで、その電流に打たれ、神の前で彼は何も身動きできない状態になったと言います。
それは神の御声を聞くとか、ビジョンを見るとかというレベルを遥かに超えた、彼はそれまでの人生で経験したことのない「物凄い圧倒的な力」そのものであった、それは神ご自身としか言いようがないーーと言い、これが彼が8ヶ月祈って来たことへの神の応えであったのです。
このパワー(電力)サージのうねりはその夜を通して続いたそうです。そして朝方6:38AMにやっと止まり、彼はベッドから完全にリフレッシュして飛び起きたと言います。
彼は、後日、これが「神とフェース・ツー・フェイスに出会った」経験であったということを知ったそうです。(以上はビル・ジョンソン師の著書:Face to Face with GOD からとったものです。)
モーセは神と口と口で語った
このビル・ジョンソン師のお話しから思い浮かぶのは、モーセが主の前に40日40夜、食べず、飲まずに主と共に過ごした経験です。それによって彼は神と「親しい友人」のように話し合う間柄になりました。そのモーセは荒野の旅に出ると、宿営の外に会見の天幕を張り、そこで彼は「神と口と口とで語り・・・(目の前に)主の姿を仰ぎ見ている」(民数記12:8)と書かれていますから、私たちが真に決意して望めば、本当に「神とフェース・ツー・フェイスに出会える」のです。
それには「神に出会えるなら、どんな代価でも払う」という決意と、時間を掛けてそれをまっとうする実行力、そして忍耐が必要です。
ヤコブの場合は、祝福を得るためにはどんな代価を払っても神にしがみ付いて離さず、神(天使)と格闘して遂に勝ちました。そして、生涯びっこを引いて歩くという代価を払いました。
私たちクリスチャンは、神とお話しができると聞いて、それならやってみようとその訓練を始めますが、多くの人が簡単に諦めて、結局辞めてしまいます。
「主と共に歩く」ことも同じです。主と共に歩くためには、先ず「完全に自己放棄(complete abandonment)」して、無心で主について行けば、主が必ず語ってくれ、それが聞こえるようになり、後はそれに従って行けば良いのです。まさに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(終わり)