裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た 坂 達 也
裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た
坂 達 也
下記のメッセージは私たち夫婦が2017年の日本旅行から帰って来た時に書いて掲載したものですが、たまたま私は今この記事を読んで、まさしく、これから来る終末の大リバイバルを前にした現在の私たちに当てはまるものであると強く感じましたので今週のメッセージとさせて頂き、最後に本日の私自身のメッセージも加えさせて頂きます。
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三週間にわたる今回の日本旅行を通して感じたことを一言でいえば、今はイザヤ書60:1−3に書かれている時代に入っているという実感でした。
「起きよ。光を放て。あなた(クリスチャン)の光が来て、主の
栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩
む。···」
「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とありますが、それはアメリカだけではなく、日本もそうなって来たことを今回はっきり実感しました。そして世界中にそのやみが急速にひろがりつつあります。
先ず異例な天災が世界を襲っていること。局地的豪雨をともなう未曾有の大型台風とかハリケーン、加えて、多発する地震と火山活動によって世界は膨大な被害を被りつつあります。
一方そのような天災とともに、世界を深いやみの真中に陥しこんだのはテロと言う人災であり、それによる破壊活動も益々激しさを増しています。それは特にアメリカにおける政治の頽廃と、超リベラルなメディヤの挑発による民衆や学生の暴動というテロ行為を引き起こしているだけではありません。北朝鮮とイランによる核兵器実験と言う深刻な挑発行為も、世界中の人心を脅かす大きなテロの一つと言えないでしょうか。
なぜ神はそれらが一挙に起こることを許しておられるのでしょうか。
その理由を挙げるとすれば、神は敢てこの世をとことん暗くすることによって「クリスチャンが輝き出す」ことを、この世の人々に見せようとされているのではないかーということに気が付きました。そして、今回私はそのことを旅の後半で強調しました。これからの終末の時代には真にキリストにつながったクリスチャンが台頭して、そのクリスチャンがそれぞれ個人的に輝き出すことを見て、神を知らない人々が神の存在に目覚める。それだけではありません。その輝きを増す「力あるクリスチャン」が、その国の政治も経済も変えるのです。それが最終的に終末最後の大リバイバルへの引き金となるのです。
日本の国を御国として立て直すのも、最後のリバイバルを起こすのも、主は日本のクリスチャンに期待しておられます。そのために今最も必要なことは「人間的·宗教的になり下がったクリスチャンとその教会」を抜本的に変えることであると私は信じます。そのために私は今回、従来のように教会を訪ねること以上に、個人的に二人三人のクリスチャンの集まりとか、ホーム·チャーチで親密なお交わりをさせていただくことに重きを置きました。なぜなら真のクリスチャンとは、最終的に個人としての主と交わることによってのみ育まれるものであって、マスプロダクションではないからです。(但し、大きな教会では小グループによる弟子訓練が可能ですが、これには大変な指導力が必要です。)
ところで今回日本で、私は初めて「団体としての教会」を離れた、あるいは「離れたいと願っている人々」を総称して「クリスチャンの難民」と形容するのを聞きました。なるほど今、世界中に難民が溢れているように、日本ではクリスチャンの難民が問題になって久しいことを以前から私は憂いておりました。云ってみれば幕末末期に、侍の多くが「浪人」として溢れていたことと少し似ているような気がします。
この問題への対策として今回、私は「クリスチャン個人が光り輝く」ことの重要さを認識しました。クリスチャンが輝き出すことによって、輝かないクリスチャンが明るみに出されます。それが刺激となり、やがてクリスチャン全体の霊性の向上を期待したいと思います。
罪を犯す前のアダムとエバの身体は神の栄光で輝いていた
最初のクリスチャンであった彼らは、裸であったにもかかわらず、身体全体が輝いていて着物を着る必要はありませんでした。しかし、罪を犯すとともに彼らを包む栄光の衣は消え、彼らは自分が裸である事に気付いたのです。そこで神が近づくと彼らは(神の御声を聞いて)慌てて園の木の茂みに身を隠したことが創世記3:8−10に書かれています。
又、シナイ山で神と40日間向き合った後のモーセの顔があまりにも輝いていたので、民は眩しくてモーセを見られなかったことを思い出して下さい。その後モーセは主に向かって叫んだのです。「私にあなたの栄光を見せて下さい!」(出エジプト 33:1) そしてモーセは神の後ろ姿を見て、さらに霊的に変えられました。これは新約の時代に生きるクリスチャンが最終的になるべき姿の型を示されたのであると思います。
それがルカ9:28、マタイ17:1に書かれています。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登った時に、祈っておられるイエスの御顔が突然変わり、御衣が白く輝き出しました。そこにモーセとエリヤも現れたのです。
一体何がイエスの身体とかモーセの身体を変えたのでしょうか。
聖霊が私たちの細胞を変える
2コリント5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。
私たちがイエスを信じてボーン·アゲインすると、その人は主の十字架の御業により新しく造られた者となり、その結果として、聖霊が私たちの中に住むようになります。これが「新しい創造」です。これによって先ず心が霊的に変えられ、すべての細胞が変革されるのです。超自然の「平安」が身体中の細胞とか臓器に植え付けられ抜本的に変えられることは最近の科学が証明しています。
但しここで重要なことは、「聖霊が私たちの中に住む」といっても、それが本当にあなたの中に住み始めた聖霊が生きて自由にあなたと共に活動していればの話であって、そうでなければ輝き出ないと思います。これがクリスチャンの最大の問題であるのではないでしょうか。本当にあなたが聖霊と共に歩いていれば、あなたは聖霊の衣をいつも纏って歩くようになり、あなたの身体は光り輝き、奇跡がどんどん起こり始めるでしょう。
すなわち、私たちの身体は「新しい創造」によって聖霊の臨在が常に宿り活発に活動するとき、罪のないオリジナルの人間にリバイブされ、身体が輝き出る元々のキャパシティーを持つているのです。
ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この御ことばは「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、神の栄光 GLORY とは「神のすべて」の現れ=臨在であり、それがフルに顕われるとき、神の永遠のいのち、愛と力、神の神聖さと公正さ、慈悲、知恵によって、もの凄い輝きが出るのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのですから。
そのためには2コリント3:16−18の祈りが非常に重要であると私は信じます。
「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
この祈りをすればする程、私たちは新しい創造により「主に似たもの」に変革されて行きます。
ここで、暫く前にWWGMでご紹介したキャシー·ウオールターズ師の「宗教的思考は人に重圧を加え、宗教の霊は常に何らかの肉の努力奮闘を生み出す」というお話をさせていただきます。
師は「聖霊は、ご自分のために、あなたに働いてほしいとは望んでおられるのではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し「どうか私を通してお働きください」とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちはただただ自分を聖霊に明け渡し、主が事をされるのです。そうするとすばらしことが起ると言われるのです。
それがピリピ2:13に書かれている「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の意味です。
願いを起こすのも実現されるのも神(キャシー•ウオルターズ)
人の心を変えることや、御名に栄光を帰す超自然的な事をする能力があるのは、ただ神お一人です。クリスチャンの上に密かにのしかかっている一番大きな重圧を私は「偽りの責任感」と呼びます。この「責任感」は、それが聞こえがよく、道徳的でありうるというところに問題があります。私たちは自分で勝手に「良いと思って」してしまい「自分が何者であり、何者ではないか」を忘れてしまうのです。
よいクリスチャンになり、よいミニストリーをしようと努力をすると、自分にはする力がない事をしようとしてしまいます。私たち自身は誰かを変えたり、何かをさせたりすることは不可能であることを忘れているのです。もしあなたが、あたかも自分が聖霊であるかのように一生懸命になると、しくじります。それは、人の心を変え、真の解放を与えて魂を救うことができるのはただ神お一人だからです。神だけが超自然的奇蹟、しるし、不思議を行えるのです。
過去の多くのリバイバルは「偽りの責任感」によって消滅したことをご存知でしょうか。エヴァン·ロバーツは、一九〇四年にイギリスのウェールズ地方で起こった大リバイバルにおいて神に力強く用いられた若者でした。その地は神の栄光で覆われ、酒場やバーは閉店し、多くのスポーツ競技もなくなりました。ロバーツたちは、神ご自身が望まれることを神にしていただき、自分たちは神の邪魔をしないようにしました。神の訪れが町から町へと広がり、神の力がいたるところで顕されました。そして人びとは神と神の臨在に応答したのです。リバイバルが始まって九ヶ月が過ぎたころ、幾つかの町で重い空気が漂い始めましたが、ロバーツのパワフルな油注ぎは持続されていました。
しかし、やがてロバーツは神経衰弱になり、人びとの上に大きな重圧をかけるようになってしまいました。お分かりでしょうか、私たちは自分の力で強制的に誰かを主に応答させることなどできないのです。ロバーツは、勿論よいと思ってしたのだと思いますが、群衆が自分が望んだように福音に応答しないとき、腹を立てるようになったのです。「彼らは御霊を消している!」と言って会場を去ったり、集会を中止したり、人びとを叱責するようになりました。
でも皆さん、ロバーツは聖霊ではありませんでした。人びとがどのように神に応答するかは、彼の責任ではなかったのです。それは聖霊の仕事でした。
ミニストリーをしている人達が、自分が聖霊になろうとすると、ノイローゼや神経衰弱になることがあります。偽りの責任感が働くときには真の自由はありません。それはその人の肉が働くからです。神にしか出来ないことを頑張って努力するならば、あらゆるストレスをあなたは持つ事になるでしょう。
あなたの責任は、神から言われたことをするだけです。人びとがそれをどのように受け取り応答するかは、あなたの責任ではありません。しかしそれを自分の責任ととれば、それはとてつもない責任であり、その重圧があなたの身体にも影響を与えます。もし誰かのために神からある言葉を受けたならば、それを告げるのはあなたの責任ですが、その人が何をしてどう応答するかは、その人と神との間のことであるのです。
聖霊に導かれることが私たちの責任
多くの教会では「人びとの必要を満たすこと」が大切だと教えます。良いクリスチャンなればそうするのが当然といえるかもしれません。しかしイエスがエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかった、と言ったら、皆さんは驚かれますか。実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。
1.御父が「せよ」と言われたことをした
2.御父が「言え」と言われたことを言った
3.御父が「行け」という所に行った
あなたの重荷を振り落としてください。それは重苦しく、あなたの喜びを盗むものです。あなたが努力奮闘するように仕向けるものです。私は世界中のミニストリーを沢山知っていますが、一つ申し上げられることは、私が知っている霊の領域で最も鋭くシャープな人たちは、最も軽々としています。
重圧 weights =「重い責任を持つこと」はあなたも他の誰をも助けません。自分で重い責任を感じてする重圧はあなたを宗教の領域に閉じ込めるだけです。
常に平安と安息と信仰から働いてください。ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちは、わざではなく信仰によって神の平安に入るのです。神こそが人の心を変え、御名に栄光を与える超自然的なわざをされる力を持つ方です。(以上キャシー·ウオールターズ師の話)
最後にここで私たちには大きな問題があることをもう一度申し上げます。それはほとんどのクリスチャンが、ボーンアゲインした自分の内には「聖霊が内住しておられる」ことを頭では理解していていても、現実にはその聖霊と共に生きていないという事実です。ー[もし、本当にあなたが目に見える形でいつも聖霊と行動を共にしているのなら、その聖霊をあたかもそこにいないかのように無視して自分で勝手に行動するでしょうか]ー私も長い間、その聖霊の臨在の実感がなく、なるほど、聖霊は私たちを助けてくれる「ヘルパーさん」と考え、有り難いと思いつつも結局はほとんどの場合、自分で「聖書的に良いこと」を「自分で」選び、それを「自分の方法とタイミング」で行っていたに過ぎないことに気が付かされたのです。
私はここでヨハネ5:19に「···子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」と書かれている聖句を思い出します。イエスは聖霊を通して父がいわれることを耳で聞くだけでなく、それを見て行われたーそれはもの凄い注意力ですーしかし、主がされたことはそれだけです。でもそこがポイントではないでしょうか。
私は最近リッチ·ベラという牧師のお話しをビデオで聞きましたが、彼は驚いたことに「主の御声が聞こえると同時に、それが目で見えるようになった。」といわれるのです。それを聞いて私は、本当にうらやましく思いました。でも私たちも聖霊と忠実に歩むようになるとき、そうなれると信じます。
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本日は、以上のメッセージに、下記のものを加えさせてて頂きます。これは2020年02月02日(前から読んでも後ろから読んでも同じ)のモーニングスターでのリック·ジョイナー師による礼拝メッセージの冒頭で、師が口ずさんだ二言の言葉です。
「イエスは今私たちの中で生きています。そうであるならイエスご自身がご自分の教会を建て上げるのが当然です。!」
これで私(坂)は、荒野を行進するイスラエルの民は、毎朝天から降って来るマナという食物が与えられ、それで一日中生きていたことを思い出しました。それと共にマタイ4:4に書かれている『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」大事な御ことばも思い出しました。
この御ことばは、天からは降って来る「肉のマナ」と共に「霊のマナ」も毎朝降って来る(一日中降って来る)、その「霊のマナ」を私たちクリスチャンは絶対に頂かなければならない。なぜなら、私たちの、元々本質的に生きる命とは霊であるからです。ベテル教会でよく話されるランデイ·クラーク師も、明け方を待たずに二時、三時から起きて主の前に出る、リック師も四時前から起きて主と向かい合うと言います。
すなわち、私たちに内在する主イエスは、私たちに必要な「霊の言葉」をいつも話しかけておられ、そのために私たちの中に入って住んで下さっておられるからです。私たちは、その主の一つ一つの言葉を受け、それに応答しながら生きているのです。
祈りとは、本質的に先ず、主のことばを聞くことであり、それに応答しながら主の御心に沿って生きることであると言って過言ではないと思います。(終わり)