主の前に立つ者(その2) リック・ジョイナー 2019年8月19日
主の前に立つ者(その2)
リック・ジョイナー(MorningStar Ministries)
預言のミニストリーの中の惑わし
預言のミニストリーの中に侵入している惑わしがあります。
私は50年以上教会の歴史を研究していますが、偉大な預言者でもある一時、道を逸れてしまうことがあります。ですから、誰かが少し間違ったからと言って、簡単にその人を裁くことはしたくありません。私が尊敬する聖書の人物たちも、ある一時少し道をはずしたのです。しかし、もし「自分は絶対大丈夫だ。」と過信するならば、間違ってしまう危険性が大きくなります。ですから、私はここで注意を喚起したいと思います。
時々預言的な啓示を受ける人が、神はすべての事に関して自分と同じように考えると思いはじめ、神から聞くことではなく自分の考えを預言し始めることが起りますが、それは究極の惑わしです。たとえ素晴らしい預言的啓示を受けたとしても、神の深遠な考えと私たちの考えとは、かけ離れていることを知らねばなりません。彼らが自分の考えを「神から受けました」と言って預言し始めるならば、深刻な偽りとなります。ですから、「そのような感じがした インプレッションがあった」というようなレベルで「主が言われました」とは決して言うべきではありません。低いレベルの預言的啓示は非常に歪められやすいのです。
偏見や、自分の中にある癒されていない傷などによって歪められます。それは惑わしを生みだす肥沃な土地となります。サタンがベルゼブル(蠅の王)と呼ばれるのは、多くの預言が偽りの上に立っているからです。あなたに傷があると蠅が傷口にたかって化膿させ、傷が癒えないようにするのです。皆さんがどのような傷を持っておられるのかわかりませんが、主の祭司としての資格を持つことはできません。旧約時代の祭司もかさぶたがある者は仕えることができませんでした。かさぶたは癒えてない傷だからです。あなたは仕えることができないばかりではなく、それは惑わしと悪の温床となります。
多くの人が「私は傷つけられた」と言いますが、私たちクリスチャンは傷つけられる権利は持っていないのです!傷ついたままでいる権利はないのです!どのように裏切られたとしても、私たちには傷を持ったままでいる権利はありません!イエスよりも傷ついた者はいません!イエスより不正な手段で傷つけられた者はいません!しかし、イエスは何と言われましたか?「父よ、彼らをお赦しください。」と言われました。
私がクリスチャンになった時、「主があなたの戦いをしてくださる。しかし、まずあなたは赦さなければならない。」と教えられました。ですから誰かから悪いことをされた時、その人を赦す努力をしました。そして主がその人をコテンパにやっつけてくれるのを待ちました。しかし、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。」と言ったのです。それは究極的な赦しです!
イエスは傷を受けたまさにそのところに、権威が与えられました。彼の打ち傷によって私たちを癒す権威です。
私たちが人に裏切られたりして傷つくのを主が許されるのは、その傷によって他の人を癒す権威が私たちに与えられるからです。
イスラエルが荒野で受けた最初のテストはマラの苦い水でした。彼らは3日間水なしで荒野を歩きました。どれほどの渇きだったことでしょうか。想像もできません。水を見たとき、彼らは狂喜しましたが、それは飲むことができない水でした。彼らが最初に学ばねばならなかったことは、「苦い水をどのように甘くするか」ということでした。モーセが木を投げ込んだときに水は甘くなリました。
ほとんどの場合木とは十字架を示します。私たちが約束の地に入るために、最初に学ばねばならないのは、苦いことを甘くすることです。そして癒しの権威を受けるのです。
私たちに確かにある印象が与えられることがありますが、それはそのまま「私はこのような印象、インプレッションを持ちました。」と言うべきであって、それを主からのものと言うべきではありません。
パウロも1コリント7:12で、「これを言うのは主ではなく、私です。」と「主からの啓示」と「自分自身の考え」とをはっきり区別しています。印象は神から影響を受けていることはありますが、そのレベルでは大抵の場合、他のものも混じっています。例えばコーヒーを飲まなかったからであることもあります。コーヒーを飲んだら、預言が変ることでしょう。(笑)自分の思い、感じを預言のように伝えるならは、神はほんとうに重要な預言をその人には委ねることはしないでしょう。私たちは「神の言葉」をもっと尊び大切にせねばなりません。
ある時私は主に文句を言いました。(私は主に文句を言ってもいいと思います。人に対して文句を言うのはいけませんが、主には言っていいのです。)「主よ、あなたはどうして私にはいつも厳しい預言をくださるのですか?」と。ジョン・ウインバー師は私を人に紹介するとき「これは私に対していい預言は一つもしたことがない人です。」とよく言いました。確かにハッピーでポジティブな預言を彼にしたことはないと思います。彼のことを全く知らなかったとき電話で始めて話したのですが、彼は「ヴィンヤード(ウインバー師のミニストリー)に対する神の言葉がありますか?」と私に訊ねました。私はヴィンヤードとはワインのためのぶどう園かと思いました。(笑)「ぶどう園に対する言葉などあるだろうか」と戸惑っていると、主が言葉を与えてくださいました。主は「スキャンダルがヴィンヤードに起ころうとしている、と伝えなさい。」と言われました。私は「ぶどう園にスキャンダルとは何のことか?」と思いましたが、主はそれだけしか言われなかったので、そのまま彼に伝えました。そしてまさにその翌日、彼のミニストリーで最悪のスキャンダルが勃発したのです。素晴らしいことに、彼は権威を持って大胆さと知恵でその問題に対処しました。
私は本当に厳しい預言を伝える役目をいつも主から与えられるのですが、今はそれを厭いません。幸いに私は、天の様子、王なるイエスの栄光を何度も見ることができたので、この世の艱難はすべて克服されることを確信できるからです。
臨在の中にある喜び
詩編16:11「あなたの御前には喜びが満ちています。In Your presence is fullness of joy. 」
戦争や災害がやってきたときに、どのようにしてそれを喜ぶことができるのでしょうか?
もし落ち込んだり、落胆することがあるならば、それは私たちが主の臨在から離れてしまったからです。主が私たちを離れたり捨てたりすることは決してありません。主が動いたのではなく、私たちが動いたのです。ですから不安や恐れに襲われたならば、私たちは先ずこう言うのです。「私は主から離れてしまっていた。主に近づこう。そうすれば主は私に近づいてくださると約束された。主のそばを歩くならば、喜びが満ちるのだ。」主に近づけば近づくほど、私たちの喜びは満ち溢れるのです。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。』」イザヤ6:1−3
私がクリスチャンになり立ての時、この箇所を読んだのですが、「これはちょっと変だ。おかしい。」と思いました。「これほど世界に戦争、飢餓、病気、暴虐、悪があるのに、どうしてセルフィムは『栄光は全地に満つ』などと言えるのだろうか?」と。すると主が答えてくださいました。「それは彼らがわたしの臨在の中に住まうからです。もしあなたがわたしの臨在の中に住まうならば、あなたはただ栄光を見るのです。」
私たちは実際に起こっている様々な悪を見ない訳ではありません。しかし神の究極的な結末に栄光を見るのです。私たちは違う視点で見なければなりません。
神のすべてのメッセージは「回復」なのです。聖書の最初の3章と最後の3章で完全なストーリーとなります。創世記の最初の3章ですべてが失われましたが、黙示録の最後の3章ですべてが回復されたのです。
ヨハネが高い山に連れられたとき(黙示録21:10)、新しいエルサレムを見ました。その時までは、彼が見たのは、偽りの教会、バビロン、偽預言者、獣等でした。しかし次に彼は新しいエルサレムを見たのです。彼が高い山に連れていかれ、視点がかわったからです。私たちが谷から預言することは、正確かもしれません。そして多くの人がそこから「サタンの計画」を預言するのです。ボブ・ジョーンズ師はそれを「第二の天の啓示」と呼んでいました。彼らは将来起こることを見せられ、それを預言します。それは正確なのですが、彼らがそれを見せられた理由は預言をするためではなく、それが起こるのを止めるためなのです。しかし彼らは「サタンの計画」を見せられて、それをそのまま預言してしまうのです。しかし主がネガティブで悪いことを啓示されるのは、それが起こることを止めるか、少なくとも被害を軽減するためです。
私たちのするべき事
悪いことが起こるという啓示を受けたとき、私たちに出来ることが二つあります。一つは「悔い改め」であり、もう一つは「とりなしの祈り」です。新約の型であり影であった旧約においても、モーセはこれを理解していました。民数記16:45−46で主はモーセに「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」と告げられましたが、彼はアロンに「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったからだ。」と命じ、民のために贖いのとりなしをしたのです。「香」は何を表していますか?
祈り、とりなしです。モーセはここで、とりなしの祈りがどのように神罰を止めることが出来るかを、私たちに語っているのです。
私たちが空しい思いをとりなしに変えるならば、私たちの世界はどれほど違ってくるでしょうか?
私たちは空しいことを考えたりいろいろな恐れで自分の思いを一杯にして、無駄な時間を過ごしていることが何と多いことでしょう。その代わりにクリスチャンが時間と思いをとりなしに用いれば、家庭や教会、地域、国はどれほど変ってくるでしょうか。
ヘブル7:25「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
もしあなたがイエスの臨在の中に生きたければ、主がしておられることをすることによって主と一つとなれるのです。
イザヤ6章でイザヤが主を見たのは、ウジヤ王が死んだ時であったのは興味深いことです。イザヤはウジヤ王に希望をおいていました。ウジヤ王は義しい王でした。どうして神は彼を取られてしまったのでしょうか。しかし、イザヤはそれよりももっと高い希望を見ることができたのです。彼はセラフィムが「全地は主の栄光に満ちる」と歌うのを聞いたのです。あなたがただ「悪いこと」だけを見て「主の栄光」を見ないならば、あなたの見るものは歪んできます。あなたは悪いことを見ないのではありません。人は罪を示されなければ悔い改めることができません。
主も人の罪を指摘されました。しかし主は「悔い改めなさい。あなたは罪人だから。」とは言いませんでした。主は「悔い改めなさい。神の国は近づいたから。」と言われたのです。あなたは「御国」が見えますか?
新しいエルサレムが見えますか?
これからの時代への備え
現在、どうでもいいような預言が多く語られています。 主からではなく人の魂からの言葉、人を喜ばせるための預言やお世辞、万事うまくいく、等というものです。そしてそれはひどい結果をもたらそうとしています。なぜならば、もうすぐに恐ろしいことがやってこようとしているからです。イエスご自身も「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるのです。(マタイ24:21)」と言われました。主はその時私たちがどのようにすればよいかと言われましたか?
主は3つの事を言われました。
1.固く立つ。自分の信じること、真理、義
のために、どのような代価を払おうとも、どのような結果になっても、それを世に表明する。クリスチャンはそのように召されている。
2.見上げる。御座におられる方を見つづける。何が起ころうとも主から目を離さない。必ず究極的には勝利があることを知る。
3.喜ぶ。決して喜びを失わない。あなたが喜びを失うならば、それは即ち主の臨在から離れることである。主と共に歩み、主の内に留まるならば、どうして喜びをなくすことがあるであろうか。
主がある時私に「終りには主の民はあまりにもハッピーなので、この世は私たちが知恵遅れだと思うくらいになる」と言われました。私たちは人々の苦難に対してハッピーなのではありません。それに目をつぶるのでもありません。しかし、主が「これらのことが起り始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。あなたの贖いが近づいたのです。」(ルカ21:28)と命じておられるのです。何が起こっても私たちは悲しむのではなく、主を見上げて喜ぶのです。
私たちが喜ぶとき、それは私たちが御国の住人であることの証拠であり、来るべき御国に入る者です。御国は「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)なのです。
ではこの3つをするにはどうすればよいでしょうか。私たちにはできません。主は不可能な命令をされました。ただ一つの方法は「不可能のない方」に拠り頼むことです。私たちは自分の子供や近所の人たち、またすべての人に憎まれると主が言われました。憎まれるときあなたはわくわくしますか?しかし、もしあなたが揺るがないで真理に立ちつづけ、義と平安と喜びを失わないならば、あなたを憎んでいた多くの人があなたのそのような姿を見ることによって、偽りから解放されるのです。もしあなたが固く立たないならば、この世と共に流されてしまうのです。
詩編32:6「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所には届きません。」
今こそ主にお会いする時です。(終り)