時は満ちた ダニー・ステイン(Mountain of Worship) 2019年7月30日
時は満ちた
ダニー・ステイン(Mountain of Worship)
わたしが望むものはまだない
2012年10月2日のことですが、私は新しい住まいであるニューイングランドに向かって高速道路を走っていました。途中で沢山の天使たちが立っているのが見えましたが、その最後に非常に大きな天使がいるのに気がつきました。その天使には以前にも数回会ったことがありましたが、彼が私に話しかけたことは今までありませんでした。
この天使はぼんやりした青い光に包まれていました。
明らかに彼は大天使だということが分かりました。彼は「あなたは『この事』をする用意ができていますか?」と聞きました。私はちょっと答えにつまりましたが、思い切って「『この事』をやりましょう!」と言いました。そして
主イエスに「主よ、『この事』とは何ですか? 私に何をお望みなのですか?」と訊ねました。
主は「わたしが望むものはまだ存在していません。」と答えられました。まだよく理解できなかったので、私は又「主は私に何をしてほしいと思われるのですか?」と訊ねました。主は「わたしはあなたに『教会』が何であるかという定義を新しくしてほしいのです。」と言われました。するとその時私はクルーズ船のヴィジョンを見せられました。そして
「 クルーズ船の明確なイメージをすでに持っている人に対して、クルーズ船の新しい定義を与えるのは難しいことです。それと同じくらいに教会に新しい定義を与えるのは、とても難しいのです。」と主は言われました。
まだ主の言われる意味がはっきりと分からなかったので、私は三度目にまた訊ねました。「あなたは私に何をしてほしいのですか?」主は答えられました。「わたしはあなたに『乗っ取って』ほしいのです。」主の言葉は私の霊に衝撃を与えました。「主よ、それはとても大胆で、傲慢に聞こえますが、、、どういう意味ですか?」と訊ねましたが、答えは返ってきませんでした。
プレロマ(Pleroma)
プレロマ:ある時、 条件や状況や物事に全く制約されずに、すべての歴史とすべての運命が出会うこと。時が満ちる時(The fullness of
time エペソ1:10 、ガラテヤ4:4参照)
神は「プレロマ」について私に教え始めました。これは聖書の中に何度か使われている言葉で、常に「時が満ちること」と関係しています。主が求めておられるのは「時が満ちること」であり、それは即ち、ご自分の臨在の栄光を花嫁の上に顕し、力ある神の御業を地上に現すためなのです。
過去にも「時が満ちた」ことがありました。それは旧約の後の400年が過ぎ、「時が満ちた」時に起こった世界が経験した最大の出来事でした。400年間の苛立ちとフラストレーションが最高潮に達したとき、長い沈黙をイエスが破られたのです。それはこの地がイエスを迎える用意が整ったからです。
この研究を始めて、私はプレロマという言葉が実際に「食糧、必需品、船員、兵士、帆をすべて整え、大海原に出航する準備が出来た船」という意味であることを知りました。又、エペソ4:12にある「聖徒たちを整えてequipping the saints」という言葉は「網を繕う mending the nets」という意味があることも興味深いと思いました 。
神は、私たちの船がまさに来ようとしていると告げておられるように思えます。そして私たちはその船に乗り込もうとしているのです!
主が何を求めておられるのかが明らかになってきたのは、2018年の春になってからのことでした。主は私に又、クルーズ船のヴィジョンを見せてくださいました。
未だに主の言われる意味が分からないので、私のフラストレーションは頂点に達しました。私はこのクルーズ船を今までとは違う角度から見る必要を感じました。そして私は「何かを定義し直すためには、それが造られた本来の意図を知る必要がある!」という声をききました。それで私は教会を再定義する出発点からやり直したのですが、その時やっと主が何を求めておられるのかを知ることができたのです。
「船(教会)の本来の目的」
船の「本来の目的」は漁をするためだと主が教えてくださいました。イエスはご自分に従うならば人々の人生がどのようなものになるかを、漁師たちに話されました。それは人間をとる漁師になるということでした!
彼らがとる魚は水の中ではなく、水が海をおおうように地をおおう主の栄光の中にいるのです。即ち、主の船が漁師たちを魚の大群へと導き、大収穫となるのです!
主は又、船の「本来の目的」は人々をある場所から別の場所に運ぶことだと教えてくださいました。船はその中に住みつくものではなく人を運ぶものなのです。
ですから教会は、「人々をずっと乗せ、人が沢山乗っているのが即ち成功である」というのではなく、人を次の場所にまで運ぶのが本来の目的です。船に乗る時があり、降りる時があります。人々は訓練され整えられたならば、主の道を歩き続けるために解き放たれていかねばなりません。
三番目に、主は船の「本来の目的」は「物資が豊かに有り余っている所から欠乏して場所へと運ぶこと」だと教えてくださいました。初代教会はこの機能を大いに果たしていました。
教会の中に欠乏している者は一人もいないという時があったのです!そのことは歴史家のヨセフス等によって記されています。初代教会は、物資は分け与えるものであるという事実を真摯に受け止め実行していました。パウロはエペソのクリスチャンに向けて「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)と勧めています。
新約聖書の福音書や書簡を通して、繰り返し私たちは「他の人々の必要を満たし、互いに重荷を負うように」と教えられています。私たちはキリストのからだから受けるだけではなく、与えていくべきなのです。
最後に、主は船の「本来の目的」は、兵士と武器を戦場に運ぶことだと教えてくださいました。教会は武器であり戦車なのです。私たちは戦いが戸口に現れるのをただ受け身で待つのではなく、イエスが命じられたことを成し遂げねばなりません。即ち、私たちは敵を攻撃し侵略してゆくのです。
地域や国を、主の臨在で「乗っ取る」のです。暗やみに光をもたらし、極めて困難な場所にも侵入していくのです。戦いの武器は肉の物ではなく、敵の要塞をも破るほどに力があるのです。(2コリント10:4)
新しい定義となるプロセス
教会は今、重大な「再定義のプロセス」を通っています。10年以上ミニストリーに関わってきた人のほとんどは、「以前はよい結果を生んだ方法が、最早それではうまくいかなくなってきた」と認識し始めています。ただ単に「同じような集会を開き、同じことを繰り返しさえすれば、イエスが言われる実が実る」という考えはもう成り立たないのです。
今この「プレロマ」、即ち「時が満ちた時」に入るにあたり、人間が肉の力で盛り上げたものではなく、真の神の働きを求め続けていた人達は、それを見るようになると私は信じます。「キリストのからだ」は今、非常に劇的な変革を遂げようとしています。自分たちで造った建物を飾り立てて神を表そうとするようなものではありません。又、バンドや有名人の活躍によるものでもないでしょう。
数人が賜物を用いて業をすることでもなく、少数で教会の方針を決めることでもないでしょう。あらゆる場所であらゆる人々が、プログラムとかイベントではなく、日常の暮らし方によってそれは起こってゆきます。
「プレロマ」は、まず船に乗り込むことです。船はあなた方をどこかに連れて行き、あなたを奉仕のために整え、あなたの心を変革して人々のために尽くしたいという思いを起こさせ、世の初めから計画されているデスティニーへと皆を解き放っていくのです。
イエスが今建てておられる教会は、レンガではなく啓示を土台としています。教会は、王とその御国が本当に国々や地域社会を変革する力があることを人々に示し実証します。キリストの弟子に、又悪霊に縛られた者たちに、真の自由をもたらします。小さい者にも大きな者にも救いをもたらします。
「教会 The Church」は人々であり、動詞であり、教会の「本来意図された目的」を見出した人々によって永続されるものであり、一つの場所では収まりきれない神の働きなのです。(終り)