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10 6月

「自分の十字架を負う」とは(その一) フランシス・フランジペイン 2019年6月10日


「自分の十字架を負う」とは(その一)

 

フランシス・フランジペインMinistries of Francis Frangipane)

 

 

 

キリストの再臨の時までに私たちは様々のメッセージを聞くことでしょう。信仰や愛について、又預言的油注ぎ,新しいぶどう酒、聖なる笑い等々、色々な人が様々なことを教えるでしょう。でもある一つのことが無視されているように私は思います。それは十字架の弟子となることです。

十字架はキリスト教の中心に位置するものです。私たちの信仰のシンボルです。十字架は教会の上にも、聖書のカバーにも、その他すべてのキリスト教主義の病院、施設、団体のシンボルになっています。しかし、「十字架を負う」というテーマのワーシップソングを最後に歌ったのは、いつだったでしょうか。そして十字架を負う弟子になることの素晴らしさを語るメッセージを聞いたのはいつのことだったでしょうか。

アメリカでは特にだと思いますが、クリスチャンは甘やかされるのが好きです。牧師はまるで「あなたをもっと心地よくするためには、何が御入り用ですか?」「何か読み物がいりますか?」「お休みになるのに枕をお持ちしましょうか?」と言うスチュワーデスのようです。

 

でも聖書は十字架こそ神の力だと言っています。リアルな神のリアルな力は十字架にあるのです。今朝は神の目的のために私たちの命を捨てることについてお話したいと思います。十字架は従順のための代価を象徴しています。どのような代価を払っても神に従うということです。十字架を見るとき「イエスはどこまで従い通したか」が分かります。そしてイエスは「あなたも私のあとに従いなさい。」と言ったのです。

今のクリスチャンは神によって救われたいと思っています。彼らはカウンセリングや祈りを繰り返ししてもらいます。それは即ち「このままの私でいられるように、変ることから救ってください。」と言っているのです。「あの人を赦すことから救ってください。(赦したくありません。)」「この必要のために自分を捧げることから救ってください。(自分を捧げたくありません。)」と言うのです。

自分は変わりたくないのです。あなたの都市や国が変革されるのを見たいのであれば、あなたが変わらねばなりません。あなたが変るためにはあなたの心が変えられなければなりません。それは即ち十字架の弟子になることです。

イエスはご自分の十字架について話される前に「弟子たちが各々自分の十字架を負う」ことを話されました。「わたしに従いたいならば、又わたしのように生きる力を得たいならば、十字架を負いなさい。」と言われたのです。「あなたの人生を変え、世界を変革させるためには、自分の古い命を捨て、古い生き方を捨てねばならない。」と主は言われました。ただ否むだけではなく、十字架にかけねばならないのです。

 

「十字架」と聞くと、それは私たちにとってまるでペンダントやイヤリングというアクセサリーのようです。でも皆さん、一世紀には十字架は地獄のシンボルでした。天国のシンボルではありません。十字架はローマ帝国のテロリズムのシンボルでした。十字架上の死体は鳥や犬がその肉を食べるままに放置されたのです。町の近くの人通りの多いところにさらされ、ローマに対して反逆しないようにという戒めとして用いたのです。

ですからイエスが「あなた方も自分の十字架を負いなさい」と言われたとき、弟子たちは全く意味がわかりませんでした。十字架を通してのみ得られる王国、力、栄光を悟れなかったのです。神の御国への近道はありません。十字架こそがその道です。パウロはピリピ3:10で「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。」と言っています。「キリストの苦しみ」にあずかることなしに、栄光への道はありません。

 

「十字架を負う」というと、「自分の身に起きた惨めな辛いことをがまんして耐えて行くこと」だと解釈されがちですが、そうではありません。自分でそれを選びとって進んで背負うということです。イエスはヨハネ10:18で「だれも、わたしからいのちを取るのではありません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」と言っています。啓示により、その十字架を負うことによって栄光へと導かれることを知るのです。十字架は神への従順の代価です。

 

「古い人を十字架につける」と言うとき、それはあなたの夫のことではありませんよ。横にいる夫をつつかないでくださいね。(笑)古い人とはあなたの中にある古い性質です。神はあなたの古い人を癒したり、改善したりしたくはありません。神はあなたを「もっと良くしたい」のではなく、「もっと死んでほしい」のです。そしてあなたの人生に真のイエスを表したいのです。イエスは「罪を否みなさい。」とは言わず「自分を否みなさい。」と言っているのです。「自己を否む」とは「自分と完全に縁を切る」ということです。罪は自己に付着していますから、自己を否むことなしに罪からの解放はありません。

古い自己は決して良くなることはありません。古い自己を改善しようとすると宗教的になるだけです。古い自分を十字架につけて、神の新しい性質をそのかわりに生きていただくのです。私が十字架につく度に、私が死んでイエスが生きるのです。これが十字架の力です。地獄のシンボルであった十字架は、イエスが担がれた故に地上の天国のシンボルに変ったのです。あなたが神の召しに従い十字架につき、古い人を殺すならば、それはあなたにとって地獄の体験ですが、そこにイエスのいのちが現われて、天国に変ります。

 

第二コリント4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでなかことが明らかにされるためです。」

 

自分から出る力というものがあります。人をコントロールし操縦する力もあります。広告や宣伝はその力を使っています。しかしパウロはそのように自分から出る力ではなく「神の力」を求めているのです。神の力を完全に与えるために、神は私たちを「完全に弱く」する必要があります。パウロは弱くされた体験を証しています。

第二コリント4:8−12「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たち身において明らかに示されるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」

 

「イエスのいのち」こそ私が求めるものです。代用品はいりません。「イエスのように見えるけれど、フランシスのように考える」のはご免なのです。パウロは苦しみ、途方にくれ、迫害され、倒された経験を語っていますが、それはパウロを弱めるための神の業であるのです。それによってパウロの力ではなく、神の力が働くようにされたのです。天はあなたを弱め、殺すように計画しています。あなたが働けなくなったとき、神が働かれます。モーセが雄弁さをなくし、どもるようになったときに神は彼を用いることができました。それが十字架の業です。

 

アメリカは発明の国で、すべてのものを発明します。この世は、すべてのアイデア、機械、道具、プログラム、技術、スタイル等々で満ちています。神はそのすべてを滅ばされるのです。礼拝に神が来なくて臨在がないとき、はたして私たちはそれに気がつくでしょうか。神はアメリカのやり方、即ち「ああしよう、こうしよう、こうすればいいんじゃないか」と人間的に知恵をしぼって新しいプログラムや方法を取り入れることをすべて取り除き、「新しいいのち」を与えようとしておられます。それは即ち「古いいのち」が終ることを意味します。

パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」と言っています。パウロが苦しみや迫害に会ったとき、イエスがしたように自分のいのちを捨てて、イエスのいのちが明らかに現れるようにしたのです。パウロに襲った苦難を神はすべて益とされました。(続く)


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