神のフェイバー(特別な厚意) グラハム・クック 2019年1月29日
神のフェイバー(特別な厚意)
グラハム・クック
今回は「神のフェイバーは、私が今置かれる状況の中で、私の益のためにどのように働くのか」を考えてみたいと思います。
まず「神からフェイバーを受けている」とは、「神にお願いすることが許されていて、神に求めることができ、ドアが開かれるように叩くことができる」ということです。そして、キリストにあって神の約束はすべて「YesでありAmen」である故に、あなたの求めに対する神の答えは、必ず「Yes」であると確信することができます。これを忘れないでください。
又、「神からフェイバーを受けている」とは、「神は あなたの人生に深く介入することをとても喜んでおられる」ということです。
なぜならば私たちがもっと大きな夢を抱くように神は教えたくてたまらないからです。
神があなたに抱く願望を、あなたの霊がキャッチするならば、あなたの心は大きく広がるのです。
ですから 「神は私の味方であり、私と共におられ、すばらしい結末をすでに計画されておられ、その計画を見出すのは私たちにとってとてもうれしく喜ばしいことである。」というのが私たちの出発点です。確かに色々な問題、困難は起きてくるでしょう。しかし、神とあなたによって対処できないことなど一つもないのです。
神と私たちの関係は、神がまずあなたの心の中に働きかけてくださり、次にそこで起こることをあなたの思考の内に引き入れてくださるのです。
あなたはまず、 神のあなたへの愛情に自分自身を繋げるのです。神は意図的にあなたをすごく贔屓(ひいき)していることをいつも心に留めておいてください。
あなたは神の大のお気に入りであり、神があなたに与えようとしている有利な立場を今まさに受け取ろうとしているのです。
ですから、今 神のフィエバーの中にゆっくりと安息し、リラックスすることが大切です。それは必ず起こります。
そして神のフェイバーを得ているという確信は、あなたを安息、平安、喜びへと導きます。
ですから今、深く息を吸ってください。もしも心配していたり、パニックになっていたり、自分に否定的な思いを抱いているならば、あなたは学ぶことも受け取ることも出来ません。神は常にあなたの味方であり、決してあなたに敵対する方ではありません。
ですから、大事なポイントは「今、ここで、神はあなたのためにどのような方となり、何をしてくださるのか」ということであり、これが即ち、あなたへの神のフェイバーです。今の状況の中で神が目的とされるのは、あなたを神との更に深い関係、深い交わりへと導き入れることです。
神の「目的」に神との「関係」が合わさったとき、新しいあなたの領地が開かれます。領地とは、 あなたの職場、グループ、家族、友人等のなかで、それが何であれ、今起こっている状況のことです。
もしあなたが今外国にいるならば、特別な神のフェイバーを必要としているかもしれませんし、又は家の近所で何かが起こっているかもしれません。あなたの領地とは、神のフェイバーを受け取る訓練をする場所なのです。
私たちはフェイバーを受けるための訓練を受けています。
即ち、自分の領地の中でフェイバーを見つけ出す訓練を受けているのです。そこに必ず神のフェイバーが注がれていることを、常に意識し確信するためです。
新約の私たちに与えられている課題は、「あなたを決して離れず、すでにいつも共いてくださる神を、どのように捜し求めればいいのか」いうことです。
その意味は、あなたはいかなる状況の中でも、意識して神を捜し求めれば、必ずそこで「神を見る」ことができるようになるという事に他なりません。
疑いがあってはなりません。初めはなかなかそうならないかもしれませんが、やがてそれは必ず起こります。そのような経験を通して、私たちは主を信頼することを学び、主への信仰が強められるのです。
神のフェイバーを受けることは、一瞬にして分与されるというものではありません。それは神の愛をいつも喜びをもって意識することであり、そうすることによって、神は私たちと共におられるという平安に満ちた期待をいつも私たちの心に与えてくださるのです。
そして私たちが神のフェイバーを期待しつつ 神と共に歩く時に、私たちの心は喜びと楽しみに満たされるのです。
「喜びを持つこと」は又、 私たちが主と共に歩くことを学ぶための素晴らしい道具の一つとなります。
なぜなら、人生のどのような状況の中にあっても喜ぶことを学ぶならば、その喜びが生み出す神のフェイバーは、私たちが人生で経験するいかなる否定的な思いや感情によっても、侵害されることは絶対にないからです。
その時、私たちの状況の中で問題だったものは、神が造りだす可能性へと変えられていきます。
私の心が神の心によって治められることを神に委ねるプロセスを、私は非常に愛しています。そのプロセスによって、無邪気な幼子が持つような単純な信頼感が私の内に涌き上がるのです。
神はいつもまず「信頼」から事を始められます。なぜならば、信頼は信じる喜びと平安を作り出すからです。
そして信頼が確立されたときに信仰が生まれます。信頼と信仰は一つのコインの両面のようなものです。
信頼によって私たちは神が善いお方であることを信じ期待します。「神は私の味方である」と信頼し期待するとき、私たちは神の心を知り、神が私たちに与えてくださる約束を受け取る用意ができるのです。
そして、そのような神の約束を受け取る能力が与えられるのも、神からのフェイバーなのです。(終り)